執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
『徳川家康』のデキる『側室』は側近として活躍した!ホント?
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後家好きで女好きの大御所徳川家康と言う男の実像に迫ります。
謀臣本多正信・正純親子と組み、関ケ原以降の徳川家の政治・軍略を画策した『阿茶の局』とは、いったい何者かを明らかにします。
併せて、家光の謎(生母と実父は誰か?)に迫ります。
目次
- 1 徳川家康には何人の側室がいたのか?
- 1.0.1 西郡の局(にしごおりのつぼね)
- 1.0.2 お万の方(おまんのかた)
- 1.0.3 西郷の局(さいごうのつぼね)
- 1.0.4 お都摩の方(おつまのかた)
- 1.0.5 お牟須の局(おむすのつぼね)(浜松・駿府時代の側室3人衆のひとり)
- 1.0.6 阿茶の局(あちゃのつぼね)(浜松・駿府時代の側室3人衆のひとり)
- 1.0.7 於茶阿の局(おちゃあのつぼね)(浜松・駿府時代の側室3人衆のひとり)
- 1.0.8 ちせの方
- 1.0.9 お梶の方(おかじのかた)(家康晩年の側室3人衆のひとり)
- 1.0.10 お亀の方(おかめのかた)(家康晩年の側室3人衆のひとり)
- 1.0.11 お万の方(蔭山殿ーかげやまどの)(家康晩年の側室3人衆のひとり)
- 1.0.12 お梅の方(おうめのかた)
- 1.0.13 お奈津の方(おなつのかた)
- 1.0.14 お六の方(おろくのかた)
- 2 家康の女性の好みは?
- 3 家康は本当に側室を側近として使ったのか?
- 4 家康は嫡男松平信康をなぜ殺した?
- 5 第二代将軍徳川秀忠の生母は誰?
- 6 第三代将軍徳川家光の生母は誰か?
- 7 まとめ
- 8 参考文献
徳川家康には何人の側室がいたのか?
通説では、20名以上いたとされていますが、同時期に全員がいたわけではありませんから、地位から考えると驚くほどの人数ではなかったと思います。
家康は、まだ幼名の竹千代の頃、駿河の戦国大名今川氏の人質となって駿河国の駿府にいました。
家康は、太守今川義元(いまがわ よしもと)のお覚えめでたく、天文24年(1555年)義元の下で元服し名を松平二郎三郎元信(まつだいら じろうさぶろうもとのぶ)と改名し、弘治3年(1557年)には義元の姪に当たる瀬名(せな)姫との婚姻を決められました。
という訳で、家康の正室はこの瀬名姫(築山殿)となり、永禄2年(1559年)には嫡男『信康(のぶやす)』を、永禄3年(1560年)には『亀姫(かめひめ)』を儲けます。
家康が側室を作り始めるのは、今川義元が討ち死にした永禄3年(1560年)の『桶狭間の戦』以後となります。
主な側室を見てみましょう。。。
西郡の局(にしごおりのつぼね)
永禄5年(1562年)に今川氏の領地であった現在の愛知県蒲郡市となる上之郷城(別名西郡城)を攻め、今川家親戚の城主鵜殿長照(うどの ながてる)を斃し、その子三郎四郎氏長と孫四郎氏次を捕虜として、依然として駿府に人質となっていた家康の家族と”人質交換”を行います。
この上之郷城で、西三河でも美形として有名だった鵜殿長照の弟長忠の娘を戦利品として連れ帰って側室とします。
この女性が『西郡の局』と言われ、名前の残る”家康最初の側室”となり、生れた娘が後年、後北条家の北条氏直へ嫁ぐ”督姫(とくひめ)”となります。
お万の方(おまんのかた)
居城を岡崎から浜松へ移した後の元亀3年(1572年)12月22日に『三方ケ原(みかたがはら)の戦』で家康は武田信玄に歴史的大敗を喫します。
戦の後、浜松城を無視して西進する武田軍に対応するため、岡崎城へ舞い戻って西三河の守りを固めた家康は、動きのにぶい武田軍の動静を見守ったまま岡崎城にくぎ付けとなりました。
そこで家康は、岡崎に戻った家康正室”築山殿”の世話をするために、奥勤めに召し出されていた三河池鯉鮒明神(ちりゅうみょうじん)の禰宜(ねぎ)の娘『お万』に目を付け側室とします。
天正2年(1574年)2月8日にお万の方は後の『秀康(ひでやす)』を出産します。
西郷の局(さいごうのつぼね)
(画像引用:ウィキペディア西郷の局)
当初、『お愛の方』と呼ばれていました。
武田勝頼との『長篠の戦』が終了した翌年天正4年(1576年)に家康の嫡男信康の正室で、織田信長の娘である『徳姫』に娘が出来て、その乳母に召し出されてた配下で討死した西郷義勝の未亡人”お愛”に目をつけた家康は、翌天正5年(1577年)に浜松に召し出して側室にします。
この『お愛の方』は、天正7年(1579年)4月7日に後の将軍『秀忠(ひでただ)』となる”長丸(ちょうまる)”を出産し、『西郷の局』となります。
お都摩の方(おつまのかた)
北条・本願寺と提携していた勢力が相次いで離反を始めて、武田家の崩壊が始まり掛けていた天正8年(1580年)頃、武田軍の最有力武将の穴山梅雪(あなやま ばいせつ)が家康へ、なんと美貌の誉れ高い武田信玄の娘である自分の妻を人質として差し出し、武田家を見限って徳川家康と同盟関係となりました。
人質となった穴山梅雪の妻女は『都摩(つま)の方』と名乗り家康の側室となり、身ごもった子が家康の三女となる『振姫(ふりひめ)』でした。
お牟須の局(おむすのつぼね)(浜松・駿府時代の側室3人衆のひとり)
天正10年(1582年)の『本能寺の変』後、北条家と武田遺領の争奪戦を演じていた頃、旧武田家臣三井十郎左衛門の討死後、一子を抱え若後家となっていたお牟須を、家康が在陣する新府城に召し出したものです。
以後10年以上、家康は『お牟須の方』を寵愛しましたが、『朝鮮出兵』の際懐妊中にも関わらず名護屋城へ同行し、文禄元年(1592年)3月に難産の為現地で死去した不幸な女性でした。
阿茶の局(あちゃのつぼね)(浜松・駿府時代の側室3人衆のひとり)
(画像引用:ウィキベディア阿茶の局)
阿茶は、天正5年(1577年)に元今川家牢人神尾孫兵衛忠重(かみお まごべえただしげ)に先立たれて後家となりましたが、生活の為に浜松城下へ出て商品売買を手掛けて見事に成功し、なんと浜松城内に出入りする身となっていました。
天正7年(1579年)頃には、出入りする城内で家康に見初められて『阿茶の局』と呼ばれるようになり、神尾氏の遺児五平衛も長丸(秀忠)の小姓となります。
後年、才気あふれる阿茶は家康のブレーンとして力をつけて行き、家康の謀臣本多正信(ほんだ まさのぶ)と両輪と称されるほどの器量を示し、家康の側近として大活躍して行きます。
於茶阿の局(おちゃあのつぼね)(浜松・駿府時代の側室3人衆のひとり)
天正15年(1587年)くらいに駿府近郊で鷹狩途中に家康の行列へ駆け込んだのが、お茶阿でした。
遠州金谷の鋳物師の妻で、土地の代官がその美貌に目をつけてストーカー行為に及ぶ為、家康に保護を求めて訴え出たものでした。
家康はそのまま駿府城へ連れ帰り城内で召し抱え、ほどなく側室となり後に転封となった江戸城で、文禄元年(1592年)1月4日に江戸で初めての子となる六男辰千代(後の松平忠輝)を生みました。
ちせの方
天正18年(1590年)の『小田原の戦』で、小田原城の包囲戦が始まった頃、家康の陣中を訪ねたのは、敵方北条家家臣で山中城攻防戦で討死した間宮康俊(まみや やすとし)の”長女ちせ”でした。
ちせの申し立ては、自分は天正12年の『小牧・長久手の戦』の折、徳川家家臣として討ち死にした間宮信高(まみや のぶたか)の妹で、今籠城中の北条氏直の配下に弟の間宮伝右衛門元重がいる為、落城の折の助命に駆け付けたものでした。
北条氏直は、家康の娘”督姫(とくひめ)”の夫であるため、家康も氏直の助命を画策しているところでした。
小田原城開城後、ちせの弟伝右衛門元重は無事家康の配下となり、”ちせ”はそのまま家康の側室となって、文禄4年(1595年)に家康第四女『松姫』を伏見徳川屋敷で出産しています。
お梶の方(おかじのかた)(家康晩年の側室3人衆のひとり)
『小田原の戦』後に関東転封となった家康は、江戸を拠点にして領地経営に専念し始めます。
家康が江戸城へ移ってほどない天正18年(1590年)の末ころに、太田道灌の四代子孫太田新六郎康資(おおた しんろくろうやすすけ)の娘”お勝”が家康に召し出されて仕え、その後『お梶』と改名しました。
時に13歳と幼く、家康の関東での”国衆宣撫策の一環”だったと考えられます。
まだ幼いこの『お梶』が家康の側室として活躍し始めるのは、その10年後くらいからとなります。
『お梶の方』は非常な倹約家で同じ性格の家康のお気に入りとなり、駿府城の金庫番を任されるほど家康の多大な信頼を勝ち得ていました。
また、慶長5年(1600年)の『関ケ原の戦』にも、騎馬で家康近くに随行しており側近としても頼りにされていました。
お亀の方(おかめのかた)(家康晩年の側室3人衆のひとり)
文禄2年(1593年)8月『朝鮮出兵ー文禄の役』終了後に、秀吉が山城国伏見に造営を始めた『伏見城』の与力のため、伏見滞在中に京の近郊にある”石清水八幡宮”の神職清水八右衛門の娘で、後家となっていたところを家康に召し出されたものです。
彼女は、今までの家康の側室とは全く違う”まったりとしたみやびな京女”で、すっかり家康はのめり込んだと伝えられます。
慶長5年(1600年)の『関ケ原の戦』が始まる前に、伏見から石清水八幡宮に避難させ、慶長5年11月28日に幼名千代丸(御三家尾張藩初代藩主 徳川義直)を伏見徳川屋敷で出産します。
お万の方(蔭山殿ーかげやまどの)(家康晩年の側室3人衆のひとり)
お万は、元上総勝浦城主 正木左近太夫頼忠(まさき さこんだゆうよりただ)の娘で、蔭山長門守氏広(かげやま ながとのかみうじひろ)の養女となって、江戸城の奥へ出仕していて、慶長3年(1598年)頃に家康の側室となりました。
慶長7年(1602年)に頼信(徳川御三家紀州尾張家初代藩主)、慶長8年(1603年)に頼房(徳川御三家水戸徳川家初代藩主)を江戸城で出産したために、側室の中でも大変重きをなす存在になって行きます。
お梅の方(おうめのかた)
近江六角氏の家臣青木丹治一矩(あおき たんじかずのり)の娘、家康の祖母華陽院の姪にもあたり、奥勤めしている慶長14年(1586年)に側室となり家康に寵愛されていましたが、正保4年(1647年)に家康側近本多正信子息正純の後妻となりました。
本多正純は家康の寵愛していた若い側妾を下賜されたわけで、家康の正純の重用ぶりが分かるようです。
お奈津の方(おなつのかた)
元伊勢北畠家の家臣だった牢人長谷川三十郎(はせがわ さんじゅうろう)の娘で、慶長2年(1597年)にお奈津は家康へ奉公に出されて、ほどなく側室となりました。
従来の家康の側室陣(後家?)とは違い17歳と言う若さで側室となり、以後20年の長きに亘って晩年の家康の身の回りの世話をして、元和2年(1616年)の駿府城での『てんぷら事件』の時も傍に控えていたようです。
慶長19年の『大坂冬の陣』にも参陣し、もうお奈津も34歳になっていましたが、陣中で家康の世話をしていました。
お六の方(おろくのかた)
家康にとっての最後の愛妾となった女性です。
黒田五左衛門丹治直陣(くろだござえもん たんじなおはる)の娘で、『お梶の方』と親同士が知り合いだったことから、『お梶の方』の部屋子として仕えていたところを、家康にその美貌が見出されて側室になったとされています。
家康の寵愛ぶりはすさまじく、”わしの死後も他の男のものになるな”と言い残しました。
その家康の死後に落飾していましたが、まだ20代のため徳川秀忠が気の毒に思い、還俗させて下野喜連川家へ再稼させました。
そして寛永2年(1625年)3月26日に”家康の年忌”で日光東照宮に参詣した折、神前で焼香を始めると、突然香炉が割れて飛び、破片がお六の方の額にあたり、お六の方は死亡してしまったと言います。
”家康の妄執”のすさまじさとともに、”家康のお六の方への寵愛”の深さを伝える逸話となりました。
家康の女性の好みは?
豊臣秀吉の”名家の生娘のお姫様”好みに対して、徳川家康は”家柄問わず後家好き”と言われています。
しかし、、、
側近の本多正信曰く、家康は出自の貴賤を問わず出産実績のある後家を狙って、失敗のない子作り(後継者作り)を実行していたと言います。
後継者の心配のなくなった晩年には、美貌の小娘に手を出し始めて秀吉のような”ヒヒ爺”になって行ったようです・笑。
一方、、、
家康には、戦国武将にありがちな『衆道ー男色・ホモ』の性向は全くなく、周囲・小姓に美童は全く置かなかったようです。
家康は戦場にも側室を男装させて帯同していたことが、記録にも多々出て来ます。
もっとも、御姫様好きの豊臣秀吉も後北条との『小田原の戦』には、淀君以下大奥軍団みたいなものを呼び寄せているようですが、家康の場合は”男装”をさせていたと言いますから、おそらく武具も付させて陣営に旗本のように仕えさせていたと考えられます。
完全に、参謀兼ボディガード・家康のブレーンとして、常に戦場へ付き添っていたと思われます。
これは、『阿茶の局』からかと考えられますが、家康が幼いころに駿府で見た大国今川家の太守今川義元の母”寿桂尼(じゅけいに)”の姿が念頭にあるのではないでしょうか?
あの足利家由来の名家今川家を大黒柱として支えていた”寿桂尼”です。
あの当時の今川家の当主は今川義元でしたが、実は、本当の「CEO」は義元の母親の寿桂尼だったのです。
当時の今川家は、CEO寿桂尼と軍師&補佐官の太源雪斎(たいげん せっさい)との最強コンビで太守今川義元を支える体制でした。
まさに、ゴッドマザーですね。
そんなことから、駿府人質時代にその今川家の状況を良く知っている徳川家康は、優秀な女性の能力と忠誠心を高く評価していたので、自分も手元に賢き女性を置き、その助言に真摯に耳を傾けていたと考えます。
ですから、徳川家康の女性の好みは、『子孫を確実に産める女性』・『賢き女性』・『美貌の女性』・『話し相手が出来て安らぎを感じる女性』と言うところでしょうか。
一方豊臣秀吉は、側室の女性は家柄が良く、若く美しければそれでよしとし、女性の話に真摯に耳を傾けるとか、助言をもらうとか言うスタンスは、全く持ち合わせていなかったと思います。
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家康は本当に側室を側近として使ったのか?
家康も大名(武家)としての格があるため、武家の慣習に従って女性を側室に上げる際に当人の出自が武家ではない場合は、それなりの武家の養女としてから側室にする形を取っていました。
つまり、記録上に残っている彼女らの出自は実はあまり当てにならないことになります。
例えば、『西郷の局(第二代将軍秀忠生母)』は、配下の武士西郷義勝の未亡人となっていますが、異説では、遠江天竜川河口にある掛塚と云う町の鍛冶屋服部平太の娘であると言われています。
掛塚は、家康の出自の異説『願人坊主(がんにんぼうず)説』の時に、身を寄せていた拠点です。
又、『於茶阿の局』は、駿河国金谷の鋳物師の女房であったと言われています。
この当時戦国期の鍛冶屋関係は、実は『武器・兵器の製造工場』であったことを考えると、生涯50回以上”合戦”をしたと言われる家康の行動は、兵器工場オーナーの娘・女房を側室にして、自分のサイドへ取り込んでいるのですから、極めて実利的であったことがわかります。
そして、この家康の兵器工場群が駿河・遠江に固まっていることを考えると、やはり家康の本当の出自が三河国岡崎ではない事を示しているように思われます。
さて、本題に戻りますと、、、
家康の側室に『3人衆』と言う言葉が多出します。
これは、前章で記述したように、
- 浜松・駿府時代の側室3人衆
『お牟須の局』・『阿茶の局』・『於茶阿の局』 - 家康晩年の側室3人衆
『お梶の方』・『お亀の方』・『お万の方』
と分かれますが、この中で戦の陣中に男装で帯同したと言われているのは、『阿茶の局』と『お梶の方』です。
戦国期の武家の女性は、大河ドラマにあるようなお姫様スタイルではなくて、ほぼ男装で戦闘の人数にも入れられていたようです。
異説では、戦国武将上杉謙信は女性であったと言う話があるくらい男女差別はなかった感じです。
幕末でさえも”会津の山本八重(やまもと やえ)”とか”北辰一刀流千葉道場の千葉佐那(ちば さな)”、”江戸新徴組中澤琴(なかざわ こと)”などのような、ハンパなく武勇に優れヘタな男より強かった女性は数多く存在しました。
戦国期は尚更多かったでしょうから、この家康の時期に”武将格の能力のある女性”がいても自然だと考えられます。
女性の武芸はせいぜい”長刀のお嬢さん剣法”程度などと考えているのは、我々現代人の”勝手な思い込み”なのです。
さて、それで『関ケ原の戦』には、家康の陣に『お梶の方』が男装で帯同したことは言われていますが、加えて『お梶の方』は非常に数字に強かったことが挙げられています。
家康晩年の駿府城には、江戸城の後に秀忠が引き継いだ資金400万両以外に、家康の資金が200万両以上あったと言われていますが、この管理は『お梶の方』が金庫番(管理運用責任者)だったと言います。
家康は男を信用していなかったようですね。
真打は『阿茶の局』です。
彼女は家康の知恵袋本多正信と組んで、豊臣政権末期くらいからの家康の政治を”指導”しています。
豊臣家との『大坂冬の陣』の和議談合に豊臣方は『常高院(淀君茶々の妹お初)』と徳川方が『阿茶の局』と本多正純(正信の子息)でした。
豊臣方の曲者は高台院(北政所)の側近上臈の孝蔵主(こうぞうす)でしたが、家康は早くから手を打っており、慶長19年『大坂冬の陣』の直前に徳川方へ引き抜き、秀忠付の上臈にしていました。
もし、孝蔵主が豊臣方に残っていたら、さすがの『阿茶の局』もあのように豊臣方を手玉に取る事は出来なかったのではないかと思われます。
もう万全の準備をしていましたので、御姫様の『常高院』など、百戦錬磨の『阿茶の局』の敵ではなかった訳です。
女性を代表に立てる交渉を提案するところなど、家康のやり方は水際立っていたと言うべきでしょう。
淀君も女性同士の話し合いならと気を許して弁の立つ妹の常高院を送り込んだことでしょう。
相手が悪すぎました、大坂方が対抗するには是が非でも『孝蔵主』を起用するしかなかった訳ですが、したたかに家康によって直前にかっさらわれていたのですね。
このように、家康は『阿茶の局』を国務長官のように政治・外交面で多用して、『阿茶の局』は剣を振るわなかっただけで、むしろ本多正純をリードする形で徳川政権の”懐刀”としていました。
家康は嫡男松平信康をなぜ殺した?
通説では、家康嫡男の松平信康の正室徳姫(織田信長の娘)が、”家康の正室築山殿と嫡男信康の武田家内通とご乱行”を父の信長に密告し、信長から家康に両者の誅殺命令が出た為とされています。
しかし、信長の行動をマメに記録した太田牛一の『信長公記(しんちょうこうき)』にも、信長と使者の酒井忠次との不穏な会談の模様の記述は一切なく、肝心の『徳姫の手紙』も存在が証明されていません。
つまり、信長がこのような『築山殿と嫡男信康の誅殺命令』を出した証拠は同時代資料では見つかっていないのです。
すっかり江戸時代に『信長が悪者』にされたわけですが、当時の信長の状況は、家康に東の守りをしてもらい、自分は西へ向かって伸ばそうとしている時期でした。
つまり、家康の立場は非常に強く、織田信長を怖がるどころか信長方が家康との友好を強く望んでいることから、友好関係の強化こそあれ、家康との離反を招くリスクの高いこのような命令を信長が出すわけがないと考えられます。
事実、『信長公記』にも何も記述はないのです。
いくら都合の悪い記述でも、この重要な同盟国の徳川に起こった大事件ですから、信長サイドで詳細な記述は当然あってしかるべきなのです。
となると、、、
この事件はいったい何だったのでしょうか?
この事件は、信長が犯人でないとすれば、下手人は家康しかいないのです。
もしそうだとすると、家康はなぜ”正室と嫡男”を殺害する必要があったのでしょうか?
理由を考えますと、、、
- 正室の築山どのは今川義元の姪御であり、”今川嫌い”の家康は前から暗殺を狙っていた
- 実は徳川家康は影武者にすり替わっており、口封じの為に殺害する必要があった
- 徳川と松平は全く別の家であり、この時は松平側が三河の独立を目指して武田家を引き込んでクーデターを計画していた
くらいでしょうか。
これは、後の重臣石川数正の出奔とも絡んで来ますが、実は3.の説が一番可能性が高いと考えられます。
家康は永禄9年(1567年)12月29日に『松平』から『徳川』へ姓を改名していますが、実は『家紋』も松平の『桐』から徳川の『三つ葉葵』へ変更しています。
これは非常におかしな話で苗字を変えただけでは『家紋』まで変らないと思います。
やはり『松平』と『徳川』は元々別の一族なのではないでしょうか。
当時、武田勝頼が国境まで近づいていたようなので、”武田軍と呼応してのクーデター説”は説得力を持つのではないかと思います。
これが『正室築山殿と嫡男信康殺害』の本当の理由なのではないでしょうか。
第二代将軍徳川秀忠の生母は誰?
これは、『西郷の局(お愛の方)』ですね。
通説では、、、
『西郷の局』は、三河八名郡西郷庄(現在の愛知県豊橋市の郊外)の五本松城主西郷正勝の孫 義勝の妻女でしたが、正勝討死により後家となり身ごもった子も流産してしまいました。
その頃天正4年(1576年)3月、松平信康の妻女徳姫が長女登久姫を生み、その乳母に選ばれて岡崎にいた出仕していました。
その時、徳姫出産のお祝いに来ていた家康の目に止まり、翌年に浜松城に召し出されて、ほどなく側室『お愛の方』となりました。
天正7年(1579年)4月7日に、浜松城内で長丸(後の第二代将軍秀忠)を生み、『西郷の局』となります。
異説では、、、
『お愛の方(西郷の局)』は、天竜川河口の掛塚の鍛冶屋服部平太(はっとり へいた)の娘とも言われています。
前章で見た通り、戦国時代の鍛冶屋は兵器工場でしたから、出入りする人間は、商人以外に野武士、大名など多岐に亘り、一種のプロの戦争屋・テロリストらのサロンのようになっていたと考えると分かりやすそうです。
家康(この場合は世良田二郎三郎元信)は、自分たち向けの武器(主に矢じりー当時の価格は、矢じり3個でコメ1升)を優先的に製造してもらうために、その家の娘に手を出したと思われますが、同時に鍛冶屋に集まる情報収集も大事な仕事だったのです。
一説には、服部平太は、三河岡崎にいる服部氏の一族で、この一族は幾多の戦で家康を助けた”伊賀者”だとも言われています。
掛塚は、武器に絡んで各地の情報が集まって来る場所になっており、武器商人たちの同行から所謂”天下の情勢”が判断できる情報も入りやすいところと言えます。
いったいに、天下取りに成功した3武将(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)に共通することは、情報戦に強かったことと考えられます。
信長は、土地の土豪で、”馬借(ばしゃく)の親玉”のような生駒家宗(いこま いえむね)の屋敷に若年の頃から、出入りしており、ここの長女”生駒吉乃(きつの)”に手をつけて側室にしており、信忠(のぶただ)・信雄(のぶかつ)・徳姫(とくひめ)を設けています。
”馬借”は中世において情報収集の要・諜報活動の拠点で、信長も多数の”乱波(らっぱ)ー忍者”を動かして、情報収集活動をやっていました。
秀吉はこの生駒屋敷に出入りする、野武士・乱波たち川並衆の大物である蜂須賀小六(はちすか ころく)・前野将右衛門(まえの しょうえもん)などを手足に使い、『墨俣一夜城築城』などで、信長に重用されて行きます。
家康は、前述の遠州掛塚の線と、2代前の松平清康がすでに伊賀者を使っており、岡崎に多数居住させていました(岡崎には伊賀八幡宮があります)。
江戸幕府も初期には、御庭番に伊賀者を重用していたことは周知ですね。
戦国大名と諜報活動は不可欠で、この情報戦に勝てないものに、戦国時代の合戦での勝利はあり得ない状況で、彼らの情勢判断はこれらの情報力がすべてだったのです。
私見ですが、そんなところに『西郷の局』の存在意義があったのか、家康が特に出来が良さそうには見えなかった『西郷の局』の子(三男長丸ー秀忠)を是が非でも後継者にしようとしたことと関係がないとは言えない気がします。
多分家康はこの鍛冶屋の服部平太に大きな借りがあったのではないでしょうか?
第三代将軍徳川家光の生母は誰か?
通説では、、、
徳川家光は第二代将軍秀忠と夫人お江与(お江)の長男となっています。
又、秀忠は後継を竹千代と命名された家光に滞りなく継がせており、特段問題はなさそうに見えます。
オフィシャルもそのとおりです。
しかし、、、異説では、、、
先ず、『お江与』とは、淀君の末妹の『お江(ごう)』のことですが、徳川秀忠に再嫁する時に秀吉が”江戸に与えるのだから江与とせよ”と言ったとかで、それを伝え聞いた家康は大層腹をたてて”あんな女の子供に徳川は継がせない”と言ったとか言われています。
徳川秀忠は臨終の前に遺言として”徳川の家は神徒(神道)なので、自分の墓(仏教)は要らない”と言ったとされています。
しかし、仏教徒で時の権力者の『春日局(かすがのつぼね)』は、寛永9年(1632年)3月14日に秀忠が亡くなると、老中土井利勝へ廟所(墓)の建立を申付け、10月には芝増上寺内に完成を見ました。
その折、参拝に訪れた”家光”が増上寺の件の秀忠の廟所の他に崇源院(お江)の廟所を見つけると、”あんなものは目障りだからすぐ壊してしまえ”と衆目の中で側近に命じたと言います。
これは、一体何を意味しているかと推論すれば、”家光はお江与の子ではない”ことを示しているとしか考えられないことです。
では、徳川家光の生母はいったい誰か?ということになります。
慶長19年2月25日付『神君家康公御遺文』(明治44年刊図書刊行会)
秀忠公御嫡男 竹千代君 御腹 春日局 三世将軍家光公也
同 御二男 国松君 御腹 御台所 駿河大納言忠長公也
(作家八切止夫氏著作『家光と春日局』P247から引用)
との同時代資料があるようで、どうやら春日局が家光の生母となっているようです。
ここで問題なのは、家光が”秀忠公御嫡男”となっているところで、普通はやはり”一男”とか”長子”とかでない限り長男ではないことになり、養子もありになってしまうので、父が秀忠ではない可能性もあり得るようです。
となると、、、家光は大御所家康の最後の男子なのかもしれませんね。
まとめ
家康は、側室には出産実績のある女性(後家)を選んでいたようで、前述したように側近の本多正信も”故太閤殿下も家康公のように後家ばかりを側室にしておれば、豊臣家を潰さずに済んだのではないか。”などと揶揄する始末でした。
側室たちは、『浜松・駿府時代の側室3人衆』、『晩年の側室3人衆』などと評判になるほど、統制が取れていた(家康に対する忠誠度が高かった)ようです。
家康は、正室築山どのに見せたような果断な冷酷さというものは、側室に対してはあまり見せていなかったと考えられます。
そして、実際は側室間のいざこざもあったのかもしれませんが、家康に破滅的な事態をもたらすようなもめごとは皆無だったように思います。
他の戦国大名と比べて、家康の女性パワー利用の巧みさはピカイチであったと言えます。
『阿茶の局』とか、『お梶の方』のように、全面的に信頼して側室女性に重要な仕事を任せていたことも、権謀術策に長けた戦国大名としては稀有のことじゃないでしょうか。
家康が優秀な側室を重用した最大の理由は、『忠誠心』が男性武将の比ではなかったことだと思います。
男は利益誘導の調略に弱い傾向がありますが、側室(女性)の忠誠心は鉄板であると家康は考えていたんですね。
側室話になると、歴史では先ず第一に豊臣秀吉の名前が挙がると思いますが、徳川家康の方が一枚上手と云えそうです。
しかし、両者に共通しているのは、戦陣も含めて身辺に美童を侍らせるような男色趣味は全く持っておらず、とことん女性好きだったことでしょうか・笑。
参考文献
佐竹申伍 『家康をめぐる女たち』(1982年 光風社出版)
典厩五郎 『徳川家康秘聞 消された後継者』(1994年 世界文化社)
八切止夫 『家光と春日局』(1982年 日本シェル出版)
八切止夫 『徳川家康は二人だった』(2002年 作品社)