徳川幕府が崩壊!『天皇』は”いつから東京へ”移ったの?

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明治天皇が”東京へ移ったのはいったいいつの事だったのか?”をはっきりさせます。

『東京遷都(せんと)』の真相が”目からウロコ”でよくわかります。

新政府首脳陣の巧みな『遷都計画』を明らかにします。

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天皇はいつから東京へ移ったのか?

お馴染みの”吉川弘文館”の『世界史年表・地図』の日本の欄を見ると、1868年『明治維新』の項に、”神仏分離令・五箇条の御誓文・明治改元と一世一元の制・東京遷都”とあります。

明治元年(1868年)にすぐ『東京遷都』されているんですねぇ。

ちょっと調べてみますと、、、

慶応4年(1868年)7月17日、明治天皇は『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書』を出して、

①今後江戸で政務を執ること
江戸を『東京』と改称すること
を宣言しています。

実際の『明治天皇の行幸(ぎょうこう)』は、慶応4年4月11日の”江戸城無血開城”から約半年後で、明治元年(1868年)10月13日には”江戸城”へ入城しこれを『東京城』と改称しました。

しかし、天皇は12月8日に東京を出発し、ひとまず『還幸(かんこう)』して12月22日に京都へ戻りました。

この『還幸』に当たって、残される東京市民に不安を与えないようにとの理由をつけて、東京城本丸跡に宮殿の造営を発表しました。

翌年3月には京都で『大嘗祭(だいじょうさい)』を行う事として、翌明治2年(1869年)3月28日にふたたび東京へ『行幸』し、”天皇が東京滞在中のこと”として、明治政府(太政官)は京都に”留守官”を置いて、明治2年(1869年)に京都から東京へ移転しています。

そして、10月24日には、皇后も京都から東京へ移動します。

こうして、明治天皇は『遷都の詔勅』を発することなく、京都から東京への実質的な『遷都』を終えました

当時正式な『遷都の詔勅』が出ていませんので、現在も実は、形式上『日本の首都は京都』と云えないこともないようですね。


(画像引用:ウィキペデア明治 明治帝東京行幸図

『天皇』が東京へ移った理由は何なのか?

慶応3年12月25日(1868年1月19日)江戸の薩摩藩邸が、幕府江戸市中取締の庄内藩新徴組(しょうないはん しんちょうぐみ)によって焼討ちをされ、これをきっかけに倒幕内乱である『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』が勃発して行きます。

その戊申戦争勃発の早々の1月下旬に、参与の大久保利通(おおくぼ としみち)から明治天皇(当時は未だ”睦仁親王”)へ大坂への遷都の建白をしますが、その中で仁徳天皇を引き合いに出して国内への行幸を勧めています。

結局、大坂への遷都案はなくなりましたが、3月23日には天皇の”大坂行幸”は実現し、この後『維新』が落ち着いた明治5年(1872年)から明治帝の全国への『行幸と巡行』が始まることとなります。

遷都案に関しては、、、

文久2年(1862年)8月の幕府の『文久の改革』によって、従来の『参勤交代の制度』が緩和されて、大名の家族の帰国が許されることになりました。

これによって、江戸在住の大名家族の帰国が相次ぎ、『人質』を失った幕府の求心力の低下とともに、これによる江戸の武家階級の在住人口の減少が江戸を寂れさせ、”江戸の治安”も悪化し始めていました。

270年近く続いた『徳川(江戸)幕府』が崩壊したこの時に、”政府の行政機能”までもがこのまま江戸を引き払って京都へ戻ったりすれば、戊辰戦争の戦火が拡大する中、さらに旧来より朝廷の影響力の少ない関東・東北の諸藩との対立を悪化させる原因ともなることが予想されました。

明治帝は”天皇の親政”を実現し『維新』を成功させるためにも、『東国の民心の安定』が必須でありその意味合いでも、敢えて『東京遷都』を実行する必要性に迫られていた訳です。

慶応4年(1868年)5月24日に徳川氏が江戸から駿府70万石へ転封されることが決まり、参与木戸孝允(きど たかよし)らによって”江戸遷都”の調査がなされその結果を得て、7月17日に明治帝より『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔勅』が出されて、事実上の『東京遷都』が決まりました。

薩長中心の新政府は大量の人材を必要としていましたが、一から国政の行政組織を作ることはこの短時間では不可能で、当座は幕府のをそのまま利用するのが一番混乱が少ない良策でした。

そして、有能な行政官を大量に抱えている幕府組織を管理・運営するためには、『天皇』自身がその役所が所在する江戸(東京)へ常駐することが必須でした。

首都を『京都』から『東京』へ移す”本当の理由”を敢えて考えてみると?

前出のように表向きは、全国統一のため、畿内・西日本地方と較べていままで朝廷の恩恵をあまり受けていなかった関東・東北地方の民心を安定させるためにも、より近い”東京に遷都する”必要性がある事を説いています。

一方、”京都”は1000年以上にも亘って、『天皇の居住する御所』があり日本の都・首都として存在し、それなりに機能し続けて来ました。

この薩長中心で推し進めて来た『明治維新』は、新たに『天皇親政』を掲げており、となれば、その”権力”が武家から自分たちに戻されると勘違いして群がりよる公家勢力から『明治天皇』を隔離する、つまり『天皇(政権)』から”公家勢力の引き剝がし”をする事が絶対に必要となります。

そもそも、宮廷では50人以上の女官たちが『天皇』の身の回りの世話などをしており、『天皇』は自ら何もできない人物として育てられています。

これでは明治の荒波をかき分けて『親政』を行う天皇には到底なれません

そこで、新政府は明治4年(1871年)8月1日に『宮廷改革』を断行し、今までのへなちょこ公家の天皇側近・女御衆を全員クビにして、あらたに剛毅朴訥(ごうきぼくとつ)な青年士族を天皇側近に入れました。

薩摩藩の高島鞆之助(たかしま とものすけ)・村田新八(むらた しんぱち)、旧幕臣の山岡鉄舟(やまおか てっしゅう)などの逸材です。

これを断行したのが、参議の西郷隆盛(さいごう たかもり)でした。

天皇を女官に囲まれた後宮暮らしから引っ張り出し、毎日表御座所に出仕して、青年士族とともに勉学と乗馬・武芸に励む形にしました。

前置きが長くなりましたが、1000年の都『京都』の宮廷から『明治維新』の看板たる『天皇』を引き離すのが、この『東京遷都』の主要な目的ではなかったかと思われます。

陰謀好きの公家衆に『天皇』の周辺を徘徊されては、武人ぞろいの明治政府の政治が振り回される恐れが充分にあった訳です。

彼ら公家政治家にとって、1000年培った”悪知恵”は、新政府の有力参議を政治失脚させるなど朝飯前なのです。

こうした考えは、下っ端公家であって朝廷内で上級貴族に足蹴にされて、辛酸をなめて来た”岩倉具視卿”が薩摩の大久保・西郷、長州の木戸などを使って知恵を絞って作った仕組みではないでしょうか。

徳川家が投げ出した”『明治維新』のタナボタ政権”のおこぼれに預かろうとして、しかも京都から離れるなど思いもしなかった上級貴族たちに、厳しい肘鉄を食らわした岩倉卿の思いがにじみ出ているようです。

これが、『東京遷都』の真相なのではないでしょうか。

しかし、、、

肝心かなめの『明治天皇』が東京へ出かけた(行幸)まま、御所(京都)に戻って来ないのですから、本当に笑っちゃいますね。

表面上は、”関東・東北の民心安定のため”と云って、『遷都の詔勅』も出さないまま、”帰る!帰る!”と京都人たちを騙しながら、なし崩し的に東京へ強引に『遷都』してしまったのは、明らかに政権の甘い蜜に群がる公家たち(京都勢力)の振り落としにあったのは明白ではないでしょうか。

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天皇の京都からの行幸はどのくらいの規模の行列だったのか?

睦仁親王(むつひと しんのう)は、慶応4年(1868年)8月27日に『即位の礼』を実施し『明治天皇』となり、7月17日の『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔勅』の宣言通りに、明治元年(1868年)9月20日に東京へ向けて京都を出発しました。

行列は、岩倉具視(いわくら ともみ)、中山忠能(なかやま ただやす)、伊達宗城(だて むねなり)ら新政府首脳陣と、警護の長州藩士、土佐藩士、備前藩士、大洲藩士ら4藩の兵など3300名の規模となりました。

途上、近江土山宿では宿の住民に酒三石とするめ1500枚が、名古屋の熱田では稲刈りの天覧が行われ、菊の紋章入り特製饅頭が3000個振舞われたと言います。

そして、10月13日に東京へ到着してほどなく、10月17日には、『万機親裁の詔勅(ばんきしんさいのしょうちょく)』(これから全ての政策は自ら決済して決めると言う宣言)を出して、これからの『天皇親政』の意志を打ち出しました

このように、天皇中心にした政治とは言っても、所謂大昔の”摂関政治・公家政治”とは違う新しい政治を行うと言う新天皇の意気込みが伝わって来るようです。

この東京行幸は、江戸時代に江戸庶民になじみのない天皇のアピールの場でしたので、新政府の指導者たちは御簾で囲い神秘性を出す演出をしたりしていたようです。

そして、東京到着の翌月11月4日には、東京1592町に対して、2553樽の酒とそれを注ぐ瓶子(へいし)を配るなどし、11月6日・7日は休日として、屋台や山車など出してお祭り気分を盛り上げました。

と言うような準備万端で、”『明治天皇』を中心とする新政府”は東京デヴューを飾りました。

天皇の『御所』は”東京”に移動したのか”京都”のままなのか?

前述のように、新天皇は、10月に東京への『行幸(東幸)』したあと、12月初には京都へ『還幸』しています。

京都の人たちは『天皇』が戻って来るのか心配していたので、”出掛けたけど、戻ってきたでぇ~”と安心させた訳です。

そして、すぐに3月には、来年の3月には『大嘗祭』をしに『還幸』するからと言って安心させ、再び『東幸』して行きます。

ところが『明治帝』はそれから、色々理由をつけて京都へは戻らないのです。

『明治帝』は、前年の夏に『これからは東京で政務を執る』と宣言をしているのですから、当たり前の話なのですが、誰も本気にしていなかったのしょうか。

こんな経緯で、天皇本人が移動し、宮城を作り、官僚組織(役所)が京都に留守番役を置いて東京へ移動します。

次に、10月24日には皇后が移動し、そして2~3年後に役所の京都に残された出先は次々と閉鎖されています。

こんな流れで、天皇が正式な『遷都の詔勅』を出さないまま、『天皇』と政府行政組織は京都から東京へ移転(遷都)して行きました。

正式に『天皇』の遷都宣言は行われていませんので、当然『御所』は現在も尚、京都にある『京都御所』のままとなっています。

こうして『東京遷都』に対して激しい反対運動をしていた公家勢力をなだめ(騙し)つつ、滞ることなく粛々と遷都は取り進められて行ったのです。

要するに京都の旧来の公家勢力は、”新政府の言いなりに動く?少年の『明治帝』”を、取り込むことに失敗してしまったようでした。

薩長の力ばかりではなく、倒幕推進派の公家衆三条実美・岩倉具視の剛腕が公家の旧勢力を抑え込むのに成功していたと言う事でしょうね。

まとめ

『明治帝』は、戊辰戦争の拡大する中、慶応4年(1868年)4月11日に無血開城で”江戸城”が新政府管理となったのを受けて、7月17日に明治帝が『江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔勅』を出して、『新帝都東京』で政務を行うことを宣言し、10月13日に江戸城に入城して『東京遷都』が始まりました。

京都の公家勢力の政治介入を払いつつ、粛々と『明治帝の朝廷』と新政府の行政組織の移転が続けられて行き、翌明治2年(1869年)中には、政治の中心は完全に東京への移転を終えました。

この『東京遷都』は、正式な詔勅のないままなし崩し的に断行されましたが、その理由は、①関東・東北の民心を慰撫するため②幕府の行政組織がすべて江戸にあったために、新政府の行政組織が作りやすかった事などがあげられます。

もうひとつの大きな理由は、『天皇親政』を大きな旗印に成し遂げた『明治維新』ですが、『天皇親政』が『公家政治』への回帰ではないことを天下に示す必要性から、『首都』を”京都”から江戸を名称変更した『東京』へ持って行く必要性があった訳です。

当時の明治帝の『御製(ぎょせい)』に、『いにしへのふみ見るたびに思ふかな おのがをさむる国はいかにと』とあり、新帝としての気を引き締めて『国政』に当たる決意が感じられます。

すべてはあの慶応3年(1867年)10月の『大政奉還』で、徳川幕府が政権を投げ出したことから、この『東京遷都』が始まったのかもしれません。

その後の政権争いの中で、旧幕府軍との『戊辰戦争』と言う”内乱”は有りましたが、結果行政府の首都『江戸(東京)』が壊滅的な戦火を免れたことから、その後の政権移行・国土復興がスムーズに進んだと言えそうです。

テーマである『天皇はいつ東京へ移ったか?』の答えは、明治元年(1868年)10月13日と言う事になります。

参考文献

『世界史年表・地図』(2013年 吉川弘文館)

勝岡寛次 『明治の御代』(2012年 明成社)

八幡和郎 『日本と世界がわかる最強の日本史』(2017年 扶桑社新書236)

八幡和郎 アゴラウェブ 東京遷都はされてないという説と司馬遼太郎の嘘
ウィキペディア東京奠都

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