豊臣秀吉の『朝鮮出兵』は日本と世界の歴史をどう変えたのか?

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豊臣秀吉の戦国時代初の海外遠征となる『朝鮮出兵(文禄・慶長の役)』はどんな目的で実行され、また、その結果はどうだったのでしょうか?
秀吉は天下統一を果たし、戦国時代を終わらせましたが、この戦争によって豊臣政権の行く末はどんな風に変って行ったでしょうか?

この秀吉の”海外遠征”が歴史に与えた影響を徹底的に明らかにして行きます。

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豊臣秀吉の『朝鮮出兵』の目的は何だったのか?

秀吉が朝鮮へ渡海する拠点として、黒田官兵衛に命じて肥前名護屋城(佐賀県松浦郡)を築造させて準備をし、文禄元年(1592年)に始めたこの『朝鮮出兵』は渡海軍(征韓軍)20万、名護屋城(日本国内)待機軍(予備軍)10万、総計30万人のとてつもない大軍編成となりました。

秀吉がこのような戦国史上空前の大部隊を編成してまで実行したこの遠征事業の目的は何だったのでしょうか?

 

昔の通説

 

織田信長を手本とする秀吉は、信長の果たせなかった”天下統一”、”大坂城築城”を果たし、あとやり残しているのは”唐入り(明国征服)”だけとなっており、その達成が目的だったとされていました。

信長の構想は、宣教師ルイスフロイスの『日本史』によれば、”毛利を平定し、日本六十六ヵ国の絶対君主になった暁には、一大艦隊を編成して、シナを武力で征服し、諸国を自らの子息たちに分かち与える考えであった。”とあり確認されていますが、秀吉もそれに倣ったと言われていました。

この話の大本たる織田信長がこの”唐入り”を構想する理由は、天下統一がもう目前に迫っていたその時期に当たって、その後に部下たる戦国大名たちおよび自分の息子たちに分け与える領地領国がもう戦利品として存在しないことに頭を悩めていたと言います。

その打開策として信長が思いついたのが、”海外領地”のことでした。秀吉も全く同じ問題・悩みにぶち当たり、信長を見習って対応しようとして考えたと云うのが理由だとされていました。簡単に云うと『領土欲』ですね。

 

最近の説(通説になりつつあります)

 

秀吉が信長の構想を継承したと云う資料が全く見当たらず、本当は無関係なのではないかと否定されています。織田信長の後継者たちに全く尊敬の念もなく政権を簒奪した秀吉のことですからその通りかもしれませんね。

代って、、、

秀吉は、天正14年(1586年)3月にイエズス会宣教師コエリョに”国内平定後は、唐国征服に行くつもりであるので、渡海用の大型船の斡旋をしてほしい、もし成功したらシナでのキリスト教の布教活動は許す”と語ったと伝えられており、関白になった天正13年(1585年)には、その構想が芽生えていたのではないかと言われています。

こうした説の背景には、スペインを筆頭とするヨーロッパ諸国のアジアへの侵略行動があげられます。

当時ヨーロッパは、、、

1492年 コロンブス アメリカ大陸発見

1498年 ヴァスコ・ダ・ガマ インド航路発見

など、マルコポーロの”東方見聞録”などで火のついた黄金への憧れと羅針盤の改良による遠洋航海術の発達で”大航海時代”を迎えていました。

フィリピンには、1521年にマゼラン率いるスペイン艦隊が来襲して、植民地化の動きを始め、その後たびたび艦隊を派遣して1564年にはほぼ植民地となり、1571年にはアジア侵略の拠点としての”マニラ”が建設されました。

このように着々とスペインは東アジアへの侵略を進め、大明国 ⇒ 日本へと侵略・植民地化の魔手を、宣教師を先兵に使って進めている最中でした。

国内平定に成功した秀吉は、次にこの危険なヨーロッパの列強国の魔手から逃れる為に、先手を打って明国(中国)の獲得に走り始めたと云う説です。

つまり、日本の防衛上、明国(中国)がスペイン(ヨーロッパ)の手に落ちるのを防いで、なんとか日本侵略を諦めさせたいと言う考え方のようです。蒙古族の元軍が従属させた高麗の兵を先兵に日本を侵略したあの鎌倉時代の”元寇”の再来を恐れたのです。

極めてグローバルな戦略的思考で、おそらく300年後の明治維新を起こした当初の幕末の志士たちも持ち得なかったのではないかと思われるほどの国家観に基づく動機だったらしいと言う話です。

要するに、この『朝鮮出兵』の目的・動機問題には明確な皆が納得できる解答が書いてある資料が見つかっていないという事のようです。

そこで、、、

 

私の私見を述べます

 

 

私は、秀吉が天正14年(1586年)3月に宣教師コエリョに述べた言葉”国内平定後は、唐国征服に行くつもりであるので、渡海用の大型船の斡旋をしてほしい、もし成功したらシナでのキリスト教の布教活動は許す”は、文面通りの意味でそれ以外の意味はないと思っています。

確かに、当時の日本を取り巻く世界情勢は、覇権国スペインのアジア植民地化政策の真っただ中にあったでしょうが、スペインに敵対するイギリス・オランダグループの宣教師・商人がスペインの意図を知っていたとしてもあからさまに秀吉にレクチャーしてあげるでしょうか?そんな話をすれば、いえいえ私たちは違うんですけどと云うような言い訳は先ず通らないでしょう。猜疑心の強い秀吉は、それは競争相手のスペインを貶めるためのただの密告であり、それは自分達も同じものを狙っているからだと思うのが当然なんです。

私は、はっきりとスペインの侵略意図が豊臣政権に伝わったのは、文禄5年(1596年)に起こったスペインのガレオン船(サン=フェリペ号)が土佐ノ国に漂着した事件からだと思っています。この時、救助された乗務員が日本の役人の取り扱いに腹をたてて、”宣教師を先兵にアジアを侵略するのが、スペイン王フェリペ2世の戦略だ”と不用意にも日本の役人に語り、大騒ぎになったのです。

この事件は秀吉のキリスト教迫害(日本二十六聖人殉教)の引き金となった事件として有名ですが、本当の意味はスペインの侵略意図が明確になり、秀吉もはっきりと自覚した事です。

この時点で気がついてももう既に文禄元年から『朝鮮出兵』は始まっている訳ですから、”対スペイン対策”が遠征を始めた動機にはなり得ないと思っています。

秀吉の中に有った始めた動機はやはり信長と同じ『無理な領土欲』だと考えています。戦っている諸将もそれは感じていたのではないでしょうか。豊臣家の家来たち(奉行連・文治派)は早々に和議交渉に入って行きますが、本当に対スペイン戦だったのであれば、展開はもう少し違う気がします。

と云う訳で、堂々とテレビでも解説する論者が出始めていますが、最近の新説は当時の歴史的世界情勢を見た”後付けの理屈”であると私は判断します

名護屋城址
(この画像は名護屋城址です)

当時の情勢判断としてこの遠征は果たして正しいものだったのか?

ここで言う情勢判断と云うのは、豊臣政権にとってのと云う事になるかと思います。

ちょっと流れを見てみますと、、、

天正18年(1590年)      北条征伐と奥州平定が終わり、国内には豊臣政権への反抗勢力は存在しなくなる。

天正19年(1591年)5月     朝鮮に対して”大明帝国への先導役をせよ”との国書を出す。

天正19年(1591年)8月     秀吉の後継者棄(すてー鶴松)病死。

天正19年(1591年)8月下旬   ”唐入り”の構想が発表

天正19年(1591年)9月    長崎商人原田喜衛門を派遣し、マニラにいるスペインの総督に対して、秀吉は”スペインは自分に対して臣下の礼をとれ”と要求。

天正19年(1591年)12月27日  豊臣秀次へ関白を譲って内政を任せ、自分は太閤となり外征に専念。

文禄元年(1592年)1月20日  ”唐入り”の陣ぶれが出され、2月から第一陣の渡海が始まり、4月になって明国への先導役を朝鮮が断ったことから、”征明戦”から”征韓戦”へと変わり開戦。

時系列的な流れからはよどみなく進んでおり、天正15年(1587年)のバテレン追放令から、目に見える行動が出始めたとすると、新通説の説得力も出て来るようです。

この流れからは突然思いついた”世迷いごと”・”耄碌した老人の妄想”ではないことがはっきりします。

本当にこの『朝鮮出兵』が、当時の覇権国家スペインのアジアへの植民地政策・日本への侵略に対する”防衛戦”であると、定義するには、豊臣秀吉の中に所謂”国家概念”がなくてはなりませんが、この16世紀の人物に果してそんな考えがあったのだろうかと疑問に思います。

日本人の国家概念と云うものは、幕末の頃にやっと出来上がったものではないかと思っていますし、当時の中国・韓国は勿論、ヨーロッパでさえも一般人までは普及していなかったのではないかと思っています。

そうした中で、信長・秀吉・家康が持ち合わせていたとすれば大変なことではないでしょうか。

本題に戻りますと、もし”スペインの侵略への防衛”と云う意味であれば、後知恵ですが当時スペインは1588年に起こったイギリスとの海戦で虎の子の無敵艦隊が大敗するなどして、国の威信が大いに傷ついており、また日本の軍事力のすさまじさを十分宣教師からの情報で知っていたこともあり、軍事力で侵攻することをあきらめていたので、単に”過剰防衛をおこなっただけだ”と云う誹りは免れ得ないでしょう。

信長の夢の実現”と云うのはないとすると、やはり本気で領地獲得を目指していた?かな(残留部隊用の城を構築していた)と思います。

これに関しては、当時の日本国内でも民生が成功しないと領地経営は成り立ちませんが、562年に朝鮮半島南部の日本領”任那”が新羅に攻め滅ぼされて以来日本は朝鮮半島経営から撤退しており、現地での領地経営の実績は実に1000年もなく、この時期に領地を新たに獲得してもその経営たるや簡単に行かないことは目に見えていますので、日本国内のような感覚だったとすると甘いと言わざるを得ません。

となると、、、

準備不足の感が否めないので、この『朝鮮出兵』はどう考えても”情勢判断としても正しくなかった”と結論付けられますね。

この戦国時代初の”海外遠征戦”は失敗したのか?

先ず、政治家としての秀吉の成功の理由のひとつに”いくさの無い太平の世を作る”と言うスローガンを掲げていたという事があります。戦国武将たちはもう2~3代も100年ほど内戦を続けていて完全に厭戦気分になっていたところへ、”戦争のない太平の世”を提示する秀吉の調略に乗って来た側面があるのですから、海外とは言えまた戦争をさせられるのはよほどの事がない限り”やる気がしない”のは当たり前の話と云えます

やはり、どの戦いもそうですがその”戦の意義”・”大義名分”のないものは負けますね。この『朝鮮出兵』は誰が見ても明白な大義が存在しない、今、後世の私たちが見てもよくわからない”ナゾ”なんですから、当時の人も訳が分からなかったのが敗戦につながっているのではないでしょうか。

とにかく、明確に戦争の目的・意義を明確に書いた記録が、当時世界最大のあれだけの戦争をしておいて何もないのです。こんな戦争は普通ないでしょう。

簡単に云えば、それが失敗の理由ですね。”大義”がないことです。

戦争自体は”負けてはいない”ので、この辺りが難しいのですが、『失敗する』のと『負ける』のは違います。言葉遊びのように聞こえるかもしれませんが、『朝鮮出兵』は負けていないけど、失敗したのです。

ですから、資料によっては、”連戦連勝で負けてはいない”とあったり、”制海権を度々失ったので、補給線が切れて日本軍は撤退を余儀なくされた”とあったりで、記事が混乱しているように見えます。

しかし、最初の話に戻りますが、やはりこの戦国時代初の海外遠征である『朝鮮出兵』は失敗だったと言うのが正しいのではないでしょうか。

もし秀吉が病死せずに長生き(家康くらい)していたらどうだったのか?

秀吉(61歳没)が家康(74歳没)くらい長生きすると、あと13年長生きすることになります。単純にプラスしてみると、秀吉が慶長3年(1598年)没ですから、慶長16年(1611年)まで生存することになりますね。

この間の時期に徳川家康は自前の政権を打ち立てる訳ですから、家康の寿命を考えた場合、もし秀吉が生存していたら、徳川時代はなかったか、後ろへズレていたかになります。後ろへズレていたらひょっとすると日本の開国はもっと遅れていて、清国と同じ状態に陥っていたかもしれませんね。

ここでの問題は、『朝鮮出兵』で、明の本格参入で戦線は膠着状態に置かれていましたが、日本側の状態からすると秀吉が元気でも大変な状況のように思えます。

この時、相手の明国サイドはどんな状態だったのでしょうか?

この時の明国側の正史『明史・朝鮮伝』の記述では、『豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を浪費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白〈豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。』とあります。

つまり、明は大損害を受けて非常に困っていたことが分かります。日本軍は秀吉が病気で戦線に出れず、士気が上がらないことも今いち武将たちの動きの鈍い原因のひとつでした。もし元気で家康のごとく動けていたら、日本の武将の力でしたら、おそらく打ち破ることは可能のような気がします。

今、指摘されている日本軍の苦戦の原因(敗因)の中に、戦線が急速に伸びきることによるロジスティクス(兵站)の破たんがあげられています。朝鮮側のゲリラ戦による補給部隊への攻撃が度々あり、朝鮮海峡での補給船への攻撃もあって、制海権の確保だけでも大変なことになっていたことが伝えられています。

やはりこれは世界戦ですから、20世紀の日本軍に起こっていたことが発生して同じ問題を抱えていたことがよく分かりますね。

ちょっと気になったので、市販の110万分の1の朝鮮全図を使って概略距離を測ってみました。驚いたことに日本軍の上陸した釜山から平壌まで約600㎞、中朝国境の丹東まで約700㎞くらいしかないのです。具体的には、平壌までが東京ー姫路くらいまで、丹東までが東京ー岡山くらいなのです。これくらいなら、戦国時代の武将の移動距離としては近くはないですが、途方もない距離ではありませんし、関ケ原の役のきっかけとなった徳川家康が命令した上杉征伐での現実の家康の移動距離くらいなのですね。

どうも大陸で戦線を拡大したと云う先入観から、途方もない距離を移動したように思いがちですが、東海道の関東と関西の移動距離くらいだったのです。このくらいの戦線マネージメントは戦国武将なら手馴れたものとみて良いのではないかと判断出来ます。

やはり問題は日本軍にやる気と執念に欠けていたことが、戦線が動かなかった理由のひとつで、あとは、ロジスティクス(兵站)に協力する商人の連携が上手く機能していなかった可能性は十分に残っていますから、決めつけることは出来ません。

しかし、秀吉の官僚たちは本気でやればこのくらいのマネージメントは十分出来る人材だったと考えられますので、秀吉の官僚たちも本音は”異国での戦はノーサンキュー”だったんでしょうね。

日本軍が本気で侵略する気で全軍意思統一が出来ていたら、遼東半島を越えて”山海関”の手前”営州”あたりまでは進出可能だったのではないでしょうか?問題は民生でしょうね。これは経験が必要ですから日本軍に協力する現地有力者の存在なしには達成がむずかしいでしょう。

一方明国側はどうなっていたでしょうか。前述したように正史で秀吉の死去がなかったら、どうなっていたのか分からないと言う状況を述べていますので、明国側の疲弊も相当ひどかったことがわかります。事実このあと明の国力は急速に衰えを見せて、1628年頃から興った農民反乱軍の李自成に攻めたてられて、ついに1644年には北京に反乱軍が入り明国は滅亡してしまいます。

秀吉があのタイミングで病死しなかった場合は前述のように秀吉軍の朝鮮駐留の状態、おそらく遼東半島の先くらいで遼河を挟んで明軍と睨み合いとなったような気がします。

早期でそうなった場合なら残留した朝鮮民族に対する支配をどうするかが決め手でしょうね。日本人と手を結びたがる李氏朝鮮の支配階級である理に敏い両班(ヤンバンー朝鮮の貴族階級)達が必ず出てくるはずですから、対馬の宗氏の働きでうまく統治出来れば、その内明国は内乱で瓦解して行きますので、混乱に乗じて北京を陥落させること可能であったと思います。

そうなると日本も江戸時代が存在しなかったかもしれず、ちょっと想像がつきませんね。そう云えば、清軍に最後まで抵抗して台湾に立てこもった明国海軍提督の鄭成功(てい せいこう)は、長崎県の平戸出身の日系2世だったようですから、明との話は案外面白い展開があったかもしれませんね。

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朝鮮半島で戦った武将たちは秀吉にどう評価されていたのか?

さて、実際に文禄元年2月に肥前名護屋から渡海していった武将たちの評価(賞罰)はどうだったのでしょうか。

先ず最初は、第一軍の小西行長と第二軍の加藤清正の”さきて争い”から始まります。清正は何としても漢城(ソウル)一番乗りを果たしたかったようですが、僅かの差で小西行長に後れを取ります。どうもすべての話の原点がこの出来事から始まって行くような気がします。

この後、清正は開城を落城させて、そのまま北上して満州まで攻め込み女真族と一戦を交えますが、あまりの急進に補給が届かず小西行長・黒田長政が落とした平壌まで兵を戻します。平壌が陥落したことで中朝国境の義州まで逃亡していた朝鮮王宣祖は、冊封に基づき宗主国明へ救援を求め、ここから明軍の介入が始まります。

明の正規軍の介入に戦線は膠着状態となり、冬場を迎えて小西行長と石田三成は明との講和を模索始めますが、清正は明国へもっとも近い平安道を受け持つ一番隊小西行長の進軍の遅れが事態を悪化させていると不満を持つに至ります。戦いの常道は”攻め”で小西のように”受け”に回っては勝ち目がないと言う闘将清正の持つ基本的な思想があったのだと思われます。

それやこれやで、講和の動きに呼応しない清正に対して小西行長は秀吉に訴え出ることとなり、清正は日本へ召喚され伏見で謹慎の処分となります。これにより、清正と文治派の決裂は決定的となり、清正は小西行長、石田三成ら文治派武将をひどく恨むこととなります。

小西行長らの演出した講和(秀吉を騙していた)が決裂して、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が始まると、さらに文治派と武断派の対立は深まって行きます。

それは、釜山郊外に再度出陣の許された加藤清正が築城を始めた”蔚山城(ウルサン)の攻防戦”を巡る戦目付の秀吉への報告内容に関して発生しました。

5万6千の明・朝鮮連合軍に不意打ちされて、窮地に陥った清正を助けに入った吉川広家を清正が労をねぎらったところ、それが軍紀違反だと問われ、救援に出向いて敵を打ち破った黒田長政と蜂須賀家政は反対に救援を怠ったと報告されました。

家政は召喚され謹慎処分、長政も秀吉の不興を買う事となりましたが、秀吉へこの悪意のある戦況報告を行った3人の戦(いくさ)目付の内、福原長堯(ふくはら ながたか)が三成の妹婿だったことと、その上、三目付は皆この功により加増となったことから、武断派と文治派とくに三成へ武断派の恨みが集中して行くこととなって行きました。

またその後、総大将宇喜多秀家、加藤清正、小早川秀秋ら13名が蔚山・順天・梁山の3城を放棄することを提案したところ、三成ら文治派武将が反対し、この案は秀吉に受け入れられずに発案者たちが処分されることとなり、その内小早川秀秋は転封・減封となってその領地の後任に三成が入ることとなり、武断派武将は三成にはめられたと恨みを募らせることになりました。

このように、秀吉は現地に出陣しなかったことから、この戦に関する評価はすべて文治派官僚の報告ベースですべて仕切られて行き、実際に当事者の武断派の中心武将が皆その報告・讒言の被害者となったことから、『朝鮮出兵』の戦費による疲弊とともに、この評定に対する不満が大きく豊臣政権を揺るがして行く火種となって行きました。

この戦いは豊臣政権に対してどんな影響を与えたのか?

今までの秀吉の天下平定への戦いを”戦の無い世界実現”と位置付けて、妥協と協力を続けて来た外様大名たちにとって、”再びのいくさ”であるこの突然の海外遠征は衝撃を持って迎えられました。

後世の私たちにもこの秀吉の出兵目的は判然としませんが、当事者の外様大名は言うに及ばず、おそらく豊臣家の家臣(奉行たち)も秀吉の思いは理解できないものであったと考えられます。

そのような、当事者たちに”大義不明”の戦いが独裁者太閤秀吉の命でスタートしたわけですが、戦費はすべて大名たちの自己負担ですから、領国の領民からお金と人を取り上げて疲弊させ、足りないお金は借りて来ると言う状況で、秀吉に対する信用と忠誠心は地に落ちて行きます

諸将の疲弊は豊臣政権の寿命を縮めて行きました。

そんな中で、豊臣家以外では最大の大名である徳川家康は上手く立ち回り、肥前名護屋までは軍を動かしますが、渡海せず国内にとどまったまま、人も金も浪費することなく、大名の中では飛びぬけて余裕をもって相対的に力をつけて行きます。このことは、石田三成は早期に気がついていたはずですが、どうして秀吉が見逃していたのか極めて不思議なことです。

諸説のなかで、この戦争の目的のひとつに戦費を外様大名に使わせて疲弊させ、謀反を起こす力を削ぐことが大きな目標だったと言うのがありますが、この家康の見落しを見る限りその説は成り立たないことが分かります。

もう秀吉は家康に完全に騙されていたのでしょうか。これではこの時点で、もうすでに家康が豊臣政権を簒奪することを容認したようなものですね。秀吉がやらねばならなかったのは、家康軍を1軍で3万以上の大軍で渡海させ、多大の被害を出させて疲弊させることだったと思います。奉行たちが軍編成をする段階では、おそらくそのような配置を考えていたはずですから、それがずい分な後詰になっている訳は、ひょっとしたら秀吉の直接の指示があったのかも知れません。

つまり、秀吉は家康の実力を高く評価していて、もし一軍を任せたら本当に戦果を持って行かれるのではないかと恐れたという事かもしれませんね。

まぁ、結果ですが、疲弊して消耗した外様の諸将は力のある有力大名の家康を頼って行くと云う素地を完全に作ってしまったということで、簡単に云えば、自らの政権の寿命を縮めて、ご丁寧に後任の世話までしてやったと云う事になりますね。

秀吉の『朝鮮出兵』が両国に与えた文化的影響

一般的には、日本が朝鮮の文物・人材を大量に略奪したと言うような話ですね。これは彼の地の人々の一方的な言い分として聞き流していいものと思われます。自分達がそうするので、日本人も同じことをやるに違いないという思い込みから来ています。

どうも日本人って違うんですね、技術に対する信奉が多民族の比較にならないほど高いんです。朝鮮では、王族の病気を治せなかった医師は処刑されていたそうですが、日本では意志を持って殺さない限りは医師が罰せられることはありえません。中華系の民族は異常に技術系の人の地位が低いです。おそらく元々ある身分制度のせいで、身分の低いものが技術を身に着けて身を立てるために卑しい職業と位置づけられていたせいのようです。

この秀吉の『朝鮮出兵』の場合は、陶工を日本へ連行したと言われているようです。日本側の話としては、ずい分陶工を厚遇していたように聞いています。陶工からも朝鮮にいた時より仕事が評価されることが歓迎されたようです。まぁ、どちらにしても九州の大名はかなり連れて帰ったように伝えられています。

もうひとつ面白いのが、『とうがらし』ですね。

この植物って原産地が中南米なんですね。どうして朝鮮で多用されているのかと云えば、この戦役で日本兵が寒さ対策で持ち込んだことから始まったようです。日本には中南米を植民地にしていたスペインから持ち込まれたようですので、宣教師が持って来たんでしょうね。

それが、冬の寒さが厳しい彼の地で花開いて、今や韓国を代表する食べ物となった”キムチ”を作り出したようです。

文化交流と言ってはおこがましいかもしれませんが、この前、中国夫人とお話していましたら、”日本人と中国人を較べると性格を漢字一字で表せるよ、日本人が『細(xiシー)』、中国人は『粗(cuツゥー)』だ”と言います。つまり、日本人は”こまやか”で中国人は”おおざっぱ”と云う事です。朝鮮人は文化的に小中華と呼ばれるくらい中華系です。良い悪いではなくてそう云うものらしいです。

こうした気質の差が常識の差を生みだして、次元の違うもの同志の優劣を競い合っても仕方がないのですが、なかなか交じり合わなくなっているようです。件の中国夫人のおっしゃるには、長い間日本人の間に暮らしていると日本の感覚が分かって来て、中国人の良いところ悪いところ、日本人の良いところ悪いところが両方分かるようになって来たよとのことでした。

やはり異文化は交流して影響し合って、初めて生きて来るのかもしれません。

という訳で、”『とうがらし』は日本から16世紀末に朝鮮に伝わった”と言う常識をひとつ覚えておきましょう。今からたった500年前ですね。

戦国末期(安土・桃山時代)の日本の軍事力に関する考察

当時世界最大の戦争だった『朝鮮出兵』をおこなった秀吉ジャパンの軍事的実力は世界的に見てどんな程度だったのかを最後にチェックしておきましょう。
軍事力の評価は多岐に亘り、一元的に評価することは無理なので、詳しいことは専門家の方に譲るとして、今回は単純な数字の比較だけでみてみましょう。

人口(人口は国力と関係すると言われています)

日本 : 2200万人

スペイン・ポルトガル: 1050万人

 

16世紀末の主な戦いの動員兵力

日本
①1583年 賤ヶ岳の戦い   柴田軍3万✖羽柴軍5万
②1590年 北条征伐     豊臣軍20万✖北条軍5万

スペイン
①1557年 サン・クェンティンの戦い  スペイン・英軍1万✖フランス軍2万4千
②1568年 ジェミンゲンの戦い   オランダ軍1万2千✖スペイン軍1万5千
※武装も軍編成も分からないので、あまり比較にならないのかもしれませんが、どうも日本の方が多いようです。
これは陸上戦闘での比較ですが、ご承知のように大航海時代に対応したスペイン始めヨーロッパの強国は海軍力が凄まじいので、そこが問題ですが、スペインの関係する海戦を見てみましょう。

海上戦闘力

1588年 アルマダの海戦(英仏海峡)   英蘭軍 軍船227隻 乗組員1万6千 ✖ スペイン無敵艦隊 軍船130隻 乗組員3万
これは凄いですね。船と装備の性能が違うだけで、19世紀末以降の近代戦と変わりないようです。さすが16世紀のイギリスもスペインも海洋国家ですね。明治以降の日本海軍は近代化のために多額の国費を投入していますが、ここでこれだけ違う差を取り戻すために当時の政府が必死だったのが分かりますね。
一方日本は、海上戦闘に関して本格的な外洋の海戦がほとんどなく、海賊船も瀬戸内の島影を利用した小型の足の早い船を使っていて大砲を本格的に撃ち合う戦闘は実戦例がありません。

もし、ヨーロッパと日本が近隣国同志であれば、大変ですが、なんせ1万キロ以上も離れていますので、まず200隻以上の海戦はここでは考えなくともよいでしょう。
もともと、海賊以外は海上で戦争をする発想がなかったのかもしれませんね。

日本の軍事力

15世紀半ばから日本は内乱状態(戦国時代)であったため、実戦で鍛えられた人材が多く、秀吉の時代には50万人の熟練兵士の動員力があったと言われています。所謂”牢人”の数も多く、かなりの人数が東南アジア一円に傭兵として出掛けていたようです。フィリピンで明国人の叛乱があった際、中国人2000人の武装集団にスペインの警護部隊が大苦戦していた折、日本商人の用心棒部隊(20~30人)が駆けつけ、なんとあっと言う間に暴徒を切り伏せて暴動を鎮圧し、あまりの強さにスペイン人が怖がったと言うウソのような逸話まで伝わっています。

宣教師からも『日本兵とは接近戦闘は絶対するな』と伝わってもいるようで、白兵戦での日本の武士の戦闘能力に世界中が驚異の目を持って見ていたようです。イギリスの騎士団の数が当時3万人と言われていますが、日本の武人集団が全体で200万人、精鋭兵で50万人もいるのですから、兵力だけは中国にも負けていないようです。また、銃の保有数も輸入だけでなく、内製化もすすんでいて当時50万丁位存在していて、世界最大の銃保有国だったと考えられています。
勿論、武器の数で戦闘能力が決まるわけではなく、兵士の戦闘能力の質がまるで違ったと評価されています。
そんな事から、ヨーロッパ列強との実際の戦闘があった訳ではありませんが、どうも客観的に見ても日本軍は世界最強の軍団であった可能性は高いのではないでしょうか?

 

まとめ

豊臣秀吉の『朝鮮出兵』の話は学校の歴史の授業で教えてくれましたので、記憶には残っているのですが、なぜかと言われて明確にこうなんだと聞いた記憶がありませんでした。

秀吉の『唐入り』は主君である織田信長の目標としていた事なので、天下を統一した今、是非これを実現させたいと思い実行に移したのだろうくらいのぼんやりとした理解でした。

今こうして見てくると、通説で言われている信長の遺志を継いだと言う美談的なものの証拠がどこにもなく、当時の人々の記録にも秀吉のパフォーマンスに振り回されて困惑する姿が出て来るのみです。

来日した宣教師の記録からは、純粋な布教活動の報告にからんで、大航海時代の真っただ中にあった当時、日本がヨーロッパ列強の侵略戦争に巻き込まれつつあったと言う状況も見て取れます。

日本側の記録からも、、、

鎖国までの江戸幕府の対スペインとの交渉経緯をよく見てみると、歴史教科書ではバテレン・禁教・鎖国と云う言葉に隠れていますが、本当は覇権国スペインの侵略を警戒しているのを感じます。

そうした事を判断材料とすると、、、

江戸時代直前のこの秀吉だけ全く別世界の中で生きていたはずはなく、この『朝鮮出兵』もその世界政治史の次元で理解を進めないと訳が分からないことになりそうです。やはり、『対スペイン対策』は動機の有力候補ですね。

ただ結果から云えば、当時既に布教に入ったフランシスコザビエル以来の宣教師の報告から、既にスペインは日本が世界の最強レベルの軍事力を有する国であることに気が付いていました。また、自国の無敵艦隊がイギリスオランダとの海戦に大敗して、日本へ出撃出来るような状況にないと云うお家の事情から、武力侵攻はあきらめていました。

そのことに秀吉は気が付いていなかったのでしょうが、これが対スペイン対策だとしても、やはり過剰防衛(反応)だったことは否めませんね。

そして秀吉のミスジャッジの影響ですが、やはり戦争はコストがかかるのですね、結果豊臣政権はわずか秀吉の死後2年足らずで終焉を迎えます。大明帝国も巻き添えを食って大きく国力を消耗し、その後40年ほどで滅亡してしまいます。

その昔、日本史では”小野妹子・遣隋使”で有名な、中国の強国”隋”は南満州の国”高句麗”との戦争で戦費を使い過ぎ、建国からわずか30年ほどで”唐”にとって代わられます。とにかく戦争はお金がかかるのですね。

それは日本国内も同じことで、『朝鮮出兵』で朝鮮へは実際には出兵しなかった大大名の徳川家康はお金を浪費することもなく、相対的に力を持つこととなって秀吉亡き後の頼りがいのある後継者として着々と外様大名の支持を集めて行きました。

カリスマ秀吉の死去によって幕を閉じた『朝鮮出兵』でしたが、国内的には同時に豊臣時代の終焉を演出することにもなり、後継者をつくることに失敗した豊臣政権は瓦解して行き、当然のように次の権力者の徳川家康への信認・臣従のプロセスへと進んで行きます。

そうです、、、この『朝鮮出兵』の終戦(秀吉の死)から2年後の慶長5年(1600年)に”関ケ原の戦い”があり、更にその3年後の慶長8年(1603年)には家康が将軍宣下を受けて、江戸幕府が開かれると言う流れになります。

参考文献

・松田毅一、川崎桃太訳  『完訳フロイス日本史3』(中公文庫 2014年)
・松田毅一、川崎桃太訳  『完訳フロイス日本史5』(中公文庫 2014年)
・川崎桃太        『フロイスの見た戦国日本』(中公文庫 2013年)
・川崎桃太        『続・フロイスの見た戦国日本』(中公文庫 2012年)
・安藤優一郎       『「関ケ原合戦」の不都合な真実』(PHP文庫 2015年)
・火坂雅志        『軍師の門 下』(角川文庫 2012年)
・火坂雅志        『黒染の鎧 下』(文春文庫 2012年)
・津田三郎        『北政所』(中公新書 1994年)
・渡邊大門        『家康伝説の嘘』(柏書房 2015年)
・田中英道        『日本の歴史 本当は何がすごいのか』(扶桑社文庫 2015年)
・田中英道        『日本史 5つの法則』(育鵬社 2015年)
・小瀬甫庵著、桑田忠親校訂『太閤記(下)』(岩波文庫 1984年)
・日川好平        『松尾山を下る』(風媒社 2015年)
・加藤廣         『水軍遥かなり』(文芸春秋 2014年)
・丸山和洋        『真田四代と信繁』(平凡社新書 2015年)
・ウィキペディア     『文禄・慶長の役』
・ウィキペディア     『黒田長政』
・ウィキペディア     『加藤清正』
・ウィキペディア     『蔚山城の戦い』
・ウィキペディア     『アルマダの海戦』

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