執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
鎌倉時代の覚え方(ゴロ合わせ)<1>
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・源頼朝と鎌倉幕府創設期の出来事のゴロ合わせ覚え方が分かります
・項目ごとの200字まとめがあります
目次
1180年(治承4年)8月17日 源頼朝挙兵 伊豆国目代の平兼隆を討ち取る
ゴロ合わせ
いいはれ(1180年)パーマンいいな(8月17日)みなもとよりとも挙兵す
200字まとめ
1180年(治承4年)8月17日、平清盛に永らく伊豆に流されていた源頼朝が、北条一族の助けを借りて挙兵し、伊豆国目代平兼隆を討ち取る。その後8月23日相模原台地の大庭御厨を本拠地としている大庭景親に石橋山で大敗したのものの、梶原景時らに助けられ命からがら安房へ逃亡し、父義朝の世話になった千葉介常胤、上総介広常などの有力御家人たちが頼朝を支える為に結集し、わずか1か月後には2万を超える大軍となった。
(画像引用:鎌倉鶴岡八幡宮ACphoto)
1180年(治承4年)10月6日 頼朝鎌倉へ入る
ゴロ合わせ
いいやれ(1180年)トム(10月6日)みなもとよりとも鎌倉入り
200字まとめ
源頼朝は、1180年(治承4年)8月17日に、北条一族の力を借りて挙兵したものの、たちまち平家方の大庭影親に石橋山の戦で叩き潰され、這う這うの体で安房に逃走した。ここにも勢力を伸ばしていた三浦一族と合流し、地場の千葉氏・上総氏の協力が得られ、一ヶ月ほどで2万8千の軍勢を擁するまでに再起した。この勢いのまま大井・隅田の両大河を推し渡り、地場の御家人を集めながら、10月6日には鎌倉へ入ることが出来た。
1184年(寿永3年)正月20日 木曽義仲の滅亡す
ゴロ合わせ
いいはし(1184年)しょうがつはつか(正月20日) きそのよしなか滅亡す
200字まとめ
1180年秋に頼朝に遅れて信濃で挙兵した木曾義仲は、越中・加賀境の倶利伽羅峠で討伐の平家軍を夜戦で潰滅させ、そのまま京へ押し上がり平家を京から追い出した。しかし、山育ちの義仲は京の朝廷に翻弄された。源頼朝は、上京促す法皇と交渉して朝敵が解除され、寿永二年(1183年)十月宣旨が出され事実上東国の支配権を承認させた。頼朝は弟の義経と範頼を出陣させ、京で打ち破られた義仲は近江へ逃げる途中で討取られた。
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1185年(元暦2年)3月24日 壇ノ浦の戦 平家滅亡す
ゴロ合わせ
いいはこ(1185年)やよいのにし(3月24日) 壇ノ浦に平家滅亡す
200字まとめ
木曽義仲に京都から追われた平家軍は、旧都福原まで戻っていた。すぐに後白河法皇は頼朝に平家追討の命を出し、1184年(寿永3年)2月7日源氏軍は福原の平家軍を四国の屋島へ追出した。同年9月源範頼率いる頼朝軍は陸路西進し、翌1185年(元暦2年)源義経は2月19日に四国の屋島を急襲して平家軍を西へ退却させた。更に熊野水軍・伊予の河野水軍を味方にした義経は、平家を長門の壇ノ浦にて殲滅し平家を滅亡させた。
1192年(建久3年)7月12日 源頼朝征夷大将軍に任官する
ゴロ合わせ
いいくに(1192年)作ろう ふづき(7月)戸に(12日)みなもとよりとも将軍に任官す
200字まとめ
1192年(建久3年)7月12日、後白河法皇の崩御から4か月を経て、頼朝は征夷大将軍に任官した。後白河法皇が頼朝の征夷大将軍任官を阻止していたように見えるが、平家滅亡から7年も経過しており、しかもわずか2年後の1194年(建久5年)10月10日には頼朝は征夷大将軍を辞任しているので、頼朝は鎌倉の武家政権確立に征夷大将軍の地位を必ずしも必要としていなかったことが判明する。後年の幕府=将軍はないようだ。
まとめ
鎌倉幕府草創期の主な出来事別にあげてみました。鎌倉幕府成立年の事が、1185年(元暦2年)か1192年(建久3年)かの問題は、現在あまり問題にされていないようですので本記事では割愛しました。やはり起こった出来事別に覚えておいた方が良い様な気がしましたので、列挙してみました。
- 源頼朝挙兵
- 源頼朝鎌倉入り
- 木曾義仲の滅亡
- 平家の滅亡
- 源頼朝の征夷大将軍任官
ご参考になれば幸いです。
参考文献
〇石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(2021年 中央公論新社)
〇大森金五郎/高橋昇造 『増補 最新日本歴史年表』(1934年 三省堂)