『大坂夏の陣』、ついに豊臣家滅亡!徳川家康も討ち死にか?

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天下分け目の『関ケ原の戦い』から14年、既に政治の実権は徳川へ移っており、”なぜ今更、家康は豊臣宗家を滅ぼす必要があったのか?”また、”その豊臣軍の最後の戦いぶりはどんなものであったのか?”を明らかにして行きます。それから、この『夏の陣』で徳川家康の討ち死に伝説が大阪・堺に伝わっており、それもお伝えいたします。

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『大坂の陣』とはどんなものだったの?

すべては慶長3年(1598年)の秀吉の死から始まりました。

大老徳川家康の『天下取り』の総仕上げと云える出来事が、豊臣家を滅亡させたこの『大坂夏の陣』であったと思われます。

天正12年(1584年)の『小牧長久手の戦い』で豊臣秀吉と政治的力量の較べ合いと腹の探り合いを行い、折り合いをつけて秀吉に”天下人”を譲った家康が、じっと自分の出番を待っていたその判断の是非が問われた戦いでした。

徳川家康は、豊臣家譜代家臣群の有力大名を秀吉政権末期の『朝鮮出兵』当時から手なずけ始めて、主に”武断派”と言われた加藤清正らの武将たちと親交深めて行きました。

秀吉の死後、秀吉の筆頭秘書官役の石田三成と武断派の深まる対立に乗じて徳川派閥を作って行き、慶長4年(1599年)の『七将襲撃事件』で失脚した石田三成の暴発・挙兵で始まった慶長5年(1600年)の『関ケ原の戦い』を利用して、結果的に反徳川派の抹殺を図りました。

関ケ原の戦いに勝利し政権のイニシアティブ握っても、家康は武断派の豊臣恩顧の大名たちを刺激することを避けて、豊臣宗家の禄高を220万石から65万石への大減封はしたものの、”豊臣秀頼の処断”には触れませんでした。

その後慶長8年(1603年)2月12日には家康は征夷大将軍宣下を受けて江戸に幕府を開き、家康は名実ともに武家の統領(頂点)に立って豊臣家家臣の身分からの脱皮を図り、世の中に豊臣家より徳川家が上に立ったことを示しました。

しかし、豊臣宗家の人々を安心させるように、2か月ほど経った4月22日に秀頼は権大納言内大臣に任ぜられ、家康は7月28日には故太閤秀吉の遺言どおり、秀忠長女千姫を秀頼に嫁がせて徳川ー豊臣は親戚となります

その一方で、慶長10年(1605年)3月21日には、徳川秀忠は10万の大軍を引き連れて上洛し、伏見城にて宣下を受けて徳川幕府の第2代将軍に任ぜられ、家康は政権をもはや豊臣家に戻さないことを世間に公言します。

しかも慶長7年(1602年)からは、豊臣秀吉が蓄財した大坂城内の遺産を浪費させ豊臣家の弱体化を進めるために、秀頼母子には故太閤秀吉の遺志を継ぐ”方広寺大仏の再建”を勧めたのをきっかけにおびただしい数の神社仏閣の修繕・造営をさせて行きます。

その後、慶長15年(1610年)秋に大坂の豊臣秀頼母子より、加賀前田家に対して内内に打ち合わせをしたいと言う、反徳川への呼応を打診する文書が舞い込み、驚いた前田利長はすぐさま、徳川家康へ連絡をします。

ここに至って、家康は豊臣宗家に対する融和策が限界に来たことを悟り、翌慶長16年3月に後陽成天皇譲位にことよせて上洛を迫ります。反発する秀頼母子を有力大名の加藤清正らが説得にあたり、ようやく重い腰を上げて秀頼が上洛し、二条城での”家康ー秀頼会見”は実現することとなりました。

この時豊臣宗家は、加藤清正らの働きでかろうじて家康の攻撃の手をかわし、危機は何とか回避することが出来ました。

その後慶長17年(1612年)になって豊臣宗家(大野治長)から加賀前田家に対して、方広寺大仏再建資金として黄金1000枚の無心があったという情報に触れ、家康は秀吉遺産を浪費させる計画が思い通り進んでいる事ににんまりします。

それに加えて、家康の行動にブレーキを掛けていた豊臣恩顧の力のある譜代大名たちが、以下のように相次いで他界して行きます。

慶長16年(1611年) 加藤清正堀尾正晴浅野長政

慶長18年(1613年)浅野幸長(あさの よしなが)、池田輝政

徳川家康が豊臣秀頼母子の殲滅を決断したのは、資料から慶長17年(1612年)ではないかと言われています。

その考えに家康が至った理由としては;

①秀頼からの前田家への文書で明らかなように、家康の折角の融和策の甲斐もなく、豊臣秀頼母子は相変わらず政権奪還を考えていること

②慶長7年(1602年)から進めて来た膨大な数の寺社の造営により、豊臣家の秀吉遺産も底をつき始めていること

③豊臣宗家を支える譜代の武将たちが既に物故していることで、家康に本気で逆らって豊臣方につく大名はほぼいないと判断されること

④家康自身も70歳を越え高齢になって来ていて、タイムリミットが迫っていること

これらからもう殲滅作戦を発動しても大丈夫な安全圏に入ったと家康が判断をし始めたのです。

 

天王寺公園 茶臼山
(画像は大坂夏の陣 茶臼山です)

方広寺鐘銘(ほうこうじ しょうめい)事件

慶長16年3月の京都二条城での、秀頼との初会見により成長した豊臣秀頼の姿を目の当たりにして、ひょっとしてこの男ならば自分亡き後に徳川2代将軍秀忠を倒す可能性があるかもしれないとの危惧を強く持った家康は焦燥感を強めます。

慶長17年(1513年)中に”豊臣家殲滅”の腹を固めた家康の前に、この慶長19年(1614年)8月の”方広寺大仏開眼供養”が出て来ました。

もうここに至っては家康にとって、理由はなんでもよかったんですね。

流れは、こうです、、、

豊臣家の金蔵を空にした方広寺大仏再建工事は完成し、慶長19年(1614年)8月3日の堂供養当日を控えて準備は万端進んでいました。

慶長19年(1614年)7月21日になって、京都所司代板倉勝重を通じて徳川家康より豊臣家家老格の片桐且元に対して、”大仏鐘銘に関東不吉の語あり、上棟の日も吉日にあらず”との事実上の大仏開眼供養中止命令が出ました。僧侶1000名、600石の餠、3000樽の酒が用意されていた”大仏開眼供養”が突然中止になったのですから、大騒ぎです。

歴史上有名な話ですが、この”大仏鐘銘に関東不吉の語”とは、『国家安康  君臣宝楽』の8字です。つまり、”『家康』の名前を『安』の文字で分断する徳川家に対する呪詛と豊臣家の繁栄”を示していると言うのです。

本鐘銘文は起草者の五山の長老清韓の推敲になるもので、当然呪詛などあり得ない訳ですが、もう理屈などどうでもよい家康に、豊臣家へ言いがかりをつける良い口実を与えてしまいました。

8月13日に大慌てで家康のいる駿府へ申し開きの為に駆けつけた片桐且元が、20日余りも駿府に滞在させられた末に家康との面会も出来ずに突き付けられた最後通牒は、

秀頼が江戸へ参勤する

淀殿が江戸へ人質に出る

大坂城を出て国替えを承知する

のいずれかひとつを履行せよと云うものでした。

ところが、同時に豊臣宗家から別途駿府に急派されていた淀殿腹心の大蔵卿の局には、家康は面談を許し歓待して豊臣家に異心なきところを示すなど且元とは180度違う対応を見せました。

帰坂し、豊臣秀頼母子に復命した片桐且元は大蔵卿の局の報告と全く違う内容の為、完全に裏切り者扱いをされてしまいます。大阪城内の騒然とした雰囲気に身の危険を感じた片桐且元は、10月1日には大坂城を脱出して自領の摂津茨木城へ避難しました。

大阪冬の陣

片桐且元が10月1日大坂城脱出との報に接した家康は、この”片桐且元追放”を大坂方の宣戦布告と見なして同日にはもう軍令を発しました。戦の準備不足の大坂方と違い、既に豊臣討伐軍は戦準備を終えていて、10月11日早暁には家康自身が駿府から大阪へ向けて出陣をすると云う驚くほどの手回しの良さでした。

豊臣方も取り急ぎ戦準備に入り、10月2日豊臣秀頼の親書をもった使者を豊臣恩顧の諸大名に発して大坂城への参陣を求めます。

ところが、関ケ原以来14年も経っており、この時秀頼の求めに応じて馳せ参じる大名は一人もいない有様で、大坂方の思惑は大きく崩れてしまいます。結果、牢人衆を求めざるを得ないことになりました。

当時、『関ケ原の戦い』で西軍へ付いて、改易になった大名が90家、減封4家、慶長7年以降に取り潰しにあった大名36家もあり、合計およそ1千万石分となり計算上約30万人もの牢人(失業武士)が発生する事となります。

勿論、一方で加増になった大名もいることになりますから、腕の立つ武士は再就職していたとしても、かなりの人数の武士がリストラされて”就活中”だったようです。それで”豊臣家の武士募集の噂”を聞きつけて、質はともかく人数だけは就活牢人が全国から押し寄せてあっと云う間に10万人ほど集まったようです。

その中で、大将クラスが、真田信繁(さなだ のぶしげ)長曾我部盛親(ちょうそかべ もりちか)毛利勝永(もうり かつなが)明石全登(あかし てるずみ)後藤基次(ごとう もとつぐ)5名でした。それに豊臣家家臣の大野治長(おおの はるなが)大野治房(おおの はるふさ)仙石秀範(せんごく ひでのり)木村重成(きむら しげなり)浅井周防守(あざい すおうのかみ)の5名を加えた10名が豊臣方の100騎以上の兵を与えられた侍大将だと伝えられています。

慶長19年(1614年)11月15日に徳川家康率いる総勢20万の幕府軍が大坂城近くに到着しました。

緒戦は11月19日に木津川口にあった城方の砦を幕府軍の蜂須賀至鎮(はちすか よししげ)・浅野長晟(あさの ながあきら)の兵が奇襲して落したことから始まりました。最大の激戦は11月26日大坂城南東方面の鴫野・今福地区における幕府軍佐竹義宣(さたけ よしのり)・上杉景勝(うえすぎ かげかつ)VS豊臣軍木村重成・後藤基次の戦いでしたが勝敗相半ばで引き、その後の戦いで幕府軍に押されて11月30日には豊臣軍は砦を放棄して籠城戦に入ります

幕府軍の大阪城攻めは12月4日夜の”真田丸”の攻城戦から始まります。真田軍の度重なる挑発に業を煮やした前田利常軍が打ち掛かり、次いで松平忠直(まつだいら ただなお)・井伊直孝(いい なおたか)軍も続き、真田丸の空堀に軍勢が入ったところを真田軍6000名の集中砲火を浴び、壊滅に近い大損害を受けたようです。当時のイエズス会の年報によると、当日の被害は3万人の戦死者を出す”大虐殺”だったと誇大報告があり、数字は大きすぎるにしても幕府軍が数千人におよぶ大損害を出したことは間違いないようです。

この報告を受けて、家康は早速、真田信繁の叔父で徳川家にいた真田信尹(さなだ のぶただ)に命じて真田丸の大将の真田信繁の寝返り工作を行ったほどでした。このこともあり、力攻めしても難しい大坂城に対して、家康は心理作戦に出ます

つまり、運んできた鉄砲・大砲をもって射程に関係なくガンガン城内へ撃ち込み、大坂方を心理的に追い詰めて行きます

合わせて講和工作も、既に開戦前の11月18日の時点で城内の織田有楽斎(おだ うらくさい 織田信長末弟・淀殿叔父)に対して家康側近の本多正信が連絡を取り合っており、『大筒作戦』の継続とともに『講和』を進めました。

結果12月19日に、”二の丸三の丸の破却と堀の埋め立てと云う条件”で折り合い『和議』は成立しましたが、ここに天下の難攻不落の名城”大坂城”は、防御力を失ったただの裸の城となりました。

大坂夏の陣

冬の陣講和からわずか3か月後の慶長20年(1615年)3月12日、京都所司代 板倉勝重(いたくら かつしげ)から、家康に対して大坂方がまた兵糧・木材を集め、冬の陣での牢人をそのまま雇用している状況で豊臣家の再戦の意思は間違いなしとの報告がなされました。

それを受けて家康は大坂方に対して、冬の陣の講和条件の中で、当時家康がもう問わないとして了承済みだったはずの”①抱えた牢人の追放か②秀頼の国替えに応じる事との提案(通告)”を蒸し返して、豊臣家存続の条件として出して来ました。

大坂方が和戦両論で割れて返事が遅れる中、4月3日に子息の婚儀と称して、家康は名古屋に向けて駿府を出発しますが、実は既に3月末日には幕府から陣ぶれがなされており、諸大名は”豊臣征伐の為”に大坂を目指して動き始めている状況でした。

まして、プライドの高い豊臣秀頼母子は幕府からの条件を受けるはずもなく、もうすでに決断している家康の”豊臣家殲滅方針”も変わらず、事態はまっすぐ『大坂夏の陣』へ突き進みます。

4月25日までに京・伏見に動員のかかった諸将は終結を終わり、4月29日紀州から出た浅野長晟(あさの ながあきら)の先鋒と大野治房の配下の塙直之(ばん なおゆき)が泉南樫井(かしい)付近で激突し、『大坂夏の陣』の火ぶたは切られました。

幕府軍は緒戦の完勝に気を良くして、5月5日に二条城から家康、伏見城から秀忠が出陣し、大和路・河内路の二手に分かれて、大坂城南方から総攻撃を掛ける作戦で動き始めました。

幕府軍は3日分の兵糧だけしか持たぬ軽装備で出陣し、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)でケリをつける決意で、家康自身は甲冑(かっちゅう)さえつけずに出陣すると言う有り様でした。

明けて5月6日払暁、豊臣軍後藤基次(又兵衛)隊2800名が国分付近で、幕府軍(大和路方面軍)を迎え撃つべく道明寺付近に進出したところ、もう既に大和路方面軍3万5千名以上の大軍が待ち構えており、たちまち激戦となり後藤隊は寡兵ながらよく戦いましたが、お昼前に基次(又兵衛)は討死しました

その後到着した真田信繁率いる真田隊3000名は、勇猛果敢に幕府軍に挑みかかり、正面で対峙した伊達政宗隊10000名は散々に打ち破られ攻撃中止命令が出て、その後真田隊とにらみ合いとなりました。しかし、家康・秀忠本隊とぶつかった河内方面の”八尾・若江の戦い”での豊臣軍敗戦の報が城中からあり、午後2時半頃豊臣軍は大坂への引き揚げとなりました。

”八尾・若江の戦い”では、主将の木村重成・長曾我部盛親が幕府軍本隊の藤堂高虎と戦い、藤堂家重臣をことごとく打ち取るも木村自身も討死となる大激戦の末、兵力に勝る幕府軍に押されて豊臣軍は撤退となりました。

明くる5月7日の決戦は、徳川家康ー天王寺口、徳川秀忠ー岡山口への攻撃で、正午ごろ天王寺口から始まりました。この決戦は日本近代戦史上例を見ない激戦となりました。この戦いの最中に、家康・秀忠ともに本陣を蹂躙される事態に追い込まれ、特に家康は武田信玄に負けた”三方が原の戦い”以来初めて真田信繁に馬印を踏みにじられましたが、結局は多勢に無勢で幕府軍の圧勝となり、さしもの真田信繁も討死しその日の内に大坂城は落城しました。

この戦いにおける戦死者は両軍合わせて2万名を越えるものとなり、1894年ー1895年の”日清戦争”の戦死者・戦勝病死者総数が1万4千名弱だったのと比べても、史上稀に見る大激戦であり、と同時にハッキリした大将もいないにもかかわらず、大坂方(豊臣軍)の頑張りが猛烈だったことが分かります。

翌5月8日朝に、焼け残った大坂城山里廓に隠れていた秀頼・淀殿主従計26名は、脱出した千姫の助命嘆願空しく自刃させられました。もう家康・秀忠には彼らを助ける考えはなかったと云えるようです。

こうして、稀代の傑物豊臣秀吉が立ち上げた豊臣政権も結局2代で滅亡することとなり、徳川家康は翌年元和2年(1616年)6月1日に75歳の長寿で、徳川家の安泰を見届けるように亡くなりました。

家康は”関ケ原の戦い”の後に、なぜすぐに豊臣家を取り潰さなかったの?

 

通説では、『関ケ原の戦い』は、無理くりの上杉討ちを強行(豊臣政権の大老としての命令)し、上方を留守にすると云う”スキ”を見せて石田三成の挙兵を誘い、反徳川派をまとめて一掃すると云う徳川家康一流の謀略だったとされています。

しかし、最近の研究では簡単に云えば、当時家康にそこまでの力がなかったのではないかと思われるのです。確かに『大坂夏の陣』終了後の絶対的権力をもった徳川家康を念頭に入れた(結果論的思い込み)考えでは、通説の通りかもしれませんが、どうも当時は違っていたのではないかと言われ始めています。

つまり、豊臣政権大老の力を行使しながら、言う事を聞かない大名を個別撃破(姻戚関係作りも含めて)して行く動きの一環として、上杉攻めがあったようです。あの豊臣全軍招集は家康の大老としての『公儀』の命令に基づいていました。つまり家康軍は豊臣正規軍だった訳です。

ところが、政治的に失脚させて力も奪ったはずの”石田三成”があろうことか、秀頼を奉じてしまい、手なずけていたはずの”奉行連”が裏切って三成側につき、何よりも、7月17日に奉行名で『内府ちかいの条々』を発して、『家康討伐』を始めたのです。

これにより、家康は豊臣政権としての”軍事権”を失ってしまいました。俗に云う、”錦の御旗”を失って官軍から賊軍となっていたのです。

栃木県の小山付近まで進出していた『上杉討伐軍』は、7月25日に反転して”三成討伐”へ向かうこととなり、家康も8月5日には江戸城へ帰還します。家康が手なづけていたはずの奉行達の叛乱を知ったのは7月29日のことのようです。

家康は当初、”石田三成と大谷吉継の叛乱”と考えていたのが、彼らが”豊臣正規軍”で家康が”反乱軍・賊軍”になってしまい、今、東軍として行動している豊臣恩顧の大名たちが家康に叛乱を起こす可能性が出て来たのです。

情勢を見定める為に、家康は江戸城から出れなくなりました。もう徳川譜代の大名しか信用できない状態になっていたのです。

こんな事情の中、家康派の武断派大名黒田長政の活躍もあり、反三成派の結束は揺るがず、結果的に有力武断派大名はすべて東軍に残ることが分かり、その間に家康西進が待てない福島正則が三成派の岐阜城を攻略し、事態が進み始めたのを確認して家康は西進を始めたのです。

しかも、今度は急がねばなりません。遅れれば、単に”武断派大名と文治派官僚の戦闘”として終わりかねない事態で、そうなっては家康の政治的プレゼンスは非常に小さいモノになりかねないのです。

実は、『関ケ原の戦い』の舞台裏は、こんな状況だったらしいのです。

ここにこの章のタイトル『家康は”関ケ原の戦い”の後に、なぜすぐに豊臣家を取り潰さなかったの?』の答えがあるように思います。家康の恐れる武断派大名が忠誠を誓う豊臣家の扱いには細心の注意が必要でした。

徳川家康にとって、豊臣譜代の武断派有力大名は大変恐ろしい存在なのです。ひとりひとりはともかく黒田長政の調略に見るように横の連帯感が半端なく、一旦牙を剥かれたら、家康も三成の二の舞になる可能性もあるのです。

徳川家康にとって、秀頼母子は取り巻きも含めて、まずひとひねりでしょう。しかし、武断派の譜代家臣団はそうは行かないのです。

戦国の世は力の時代です。強いものには皆従うのです。加藤清正、福島正則、黒田長政、蜂須賀家政らには最大限の気を使わねばならない家康の立場でした。

と云う事で、家康が豊臣を滅ぼしても大丈夫だと確信できるのは、武断派大名本人が死没して行き、豊臣家の財産も底をついて来たと確信した慶長17年(1612年)まで待つことになりました。

徳川家康は、『大坂冬の陣』に出陣時においても、豊臣系武断派大名の福島正則・黒田長政・加藤嘉明・平野長泰の4大名を、江戸にわずかな伴回りのものだけで留め置き、つまり人質扱いにして参陣を認めず、なんと『大坂夏の陣』においても”福島正則”だけはそのまま江戸に留め置かれて参陣を認めていないのです。

『関ケ原の戦い』の折も、『上杉討伐軍』に加藤清正を国元に封じ込めて参陣させていません。どうも一番恐れていたのは、加藤清正、次に福島正則なのでしょうか。何れにしても、如何に家康が武断派大名の影響力を恐れていたかが分かります。

そして最後の最後まで気を抜かず、武断派大名対策をしていた家康の慎重さがよくわかる出来事ですね。

 

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NHK大河ドラマのテーマともなった『真田丸』と言う出城はどんなものだったの?

 

『関ケ原の戦い』以来、14年に及ぶ『九度山の生活』にも倦み、生活も困窮していた真田信繁(さなだ のぶしげー幸村)のところに、慶長19年10月2日に豊臣秀頼から発せられた豊臣軍への招請状(親書)が使者とともに(支度金付で)信繁のもとにもやって来ました。

参陣を承知した信繁は、慶長19年(1614年)10月9日深夜に、紀州藩の監視の目をくぐって九度山を脱出し、13日に大坂城へ入城しました。気がついた高野山の僧侶文殊院から家康の顧問僧”金地院崇伝(こんちいん すうでん)”に速報され、14日には京都所司代板倉勝重からも報告が行きました。

しかし、徳川家康は気にも留めなかったと伝えられています。

大坂城内の軍議で”籠城戦”と決して、信繁が出丸を築城することとなりました。通説では、半円形の形状をした武田系城郭の”丸馬出”のようなもので、広さは9米四方~182米四方と実像がはっきりしていませんでした。

最近の研究で、地中レーダーを使った探査などを駆使して、当初の場所よりもっと南側にあり大坂城の付城程度ではなく、大坂城総構えの外側に独立した立派な出城であることが判明して来ました。

場所はNHKの”2016年『歴史秘話ヒストリア』-徹底解明!これが「真田丸」だ”で放送されたように、大阪市天王寺区にある”大阪明星学園”の敷地にほぼ一致するようです。

尚且つ、形は半円形ではなく、台形に近い長方形であった事、広さは全体が東西600m、南北350m、主郭が東西230m、南北200mにおよぶ巨大なものであった事が分かりました。これは、現在、広島市立中央図書館所蔵浅野文庫『摂津真田丸』の図面とほぼ一致するものです。

真田信繁と与力の長曾我部盛親の兵合わせて6000名が守っていたとされていますので、これくらいの規模がないと収容出来ないでしょうね。

この『真田丸』が歴史上有名になったのは、前章でお話しましたように『大坂冬の陣』で、慶長19年(1614年)12月4日に、真田兵からの挑発に乗って幕府軍前田利常隊が攻め込み、続いて井伊直孝・松平忠直隊が大挙攻め込み、大損害(数千人の戦死者)を出したことに拠ります。

一躍、真田信繁の名前は注目を集め、当初信繁の大坂城入城を気にもかけなかった徳川家康に彼がその仇敵真田昌幸の息子であることを思い出させることになりました。

当時のイエズス会宣教師の年報に『3万人の虐殺』とまで書かれたひどさだったようです。

徳川家康も、幕府軍の最強先鋒諸将が真田信繁(さなだ のぶしげ)から子ども扱いされた状況に、今更ながら真田軍手強しと認識させられ、慌てて真田信繁の叔父真田信尹(さなだ のぶただ)に調略を命じたほどでした。

『大阪冬の陣』講和の際には、真っ先にこの『真田丸』は幕府兵によって破却されました。

徳川家康、討死!と云う異説あり!

 

家康影武者説と云うのは、色々取り沙汰されていて、『影武者徳川家康』と云う隆慶一郎氏の小説があります。この小説では、関ケ原の戦いの折に暗殺されて影武者と入れ替わったと言うストーリーでした。

なかなか説得力のある面白い小説だと思いました。

ここでのお話は、大阪府堺市にある1557年創建の南宗寺に、徳川家康の墓があると言う話です。

南宗寺史によると、”大坂夏の陣”で茶臼山で戦いに敗れて、自刃すると言うのを重臣に諫められ、駕籠に乗せられて脱出する途上で、後藤又兵衛に駕籠の上から槍で突かれ、何とか堺まで落ち延びたがすでに討死しており、遺体を南宗寺開山堂床下に埋めたと云うものです。

そして、寺に残る資料では、”元和9年(1623年)の3代徳川家光の将軍宣下の折に2代秀忠(7月10日)、3代家光(8月18日)が相次ぎ参詣している。”とのことなのです。

史実では、後藤又兵衛はこの日5月6日の午前中に”道明寺の戦い”で伊達政宗の軍に胸板を打ち抜かれて討死したことになっているので、7日の午後になってここにいたはずはありませんね。可能性があるのは、真田信繁軍の誰かでしょうか。しかし、面白いのは、日光東照宮にある家康の駕籠の天井に槍で突きさした穴があいたままになっているそうで、どうもなにかあったような予感を持たせます。

一般的には、”家康影武者説”は明治35年(1902年)に地方官吏の村岡素一郎氏が提唱したことに拠り始まり、色々発展して前述の隆慶一郎氏の著書などを生みますが、この南宗寺の記録は全く別物のようです。

『大坂夏の陣』の翌年元和2年(1616年)に家康は亡くなりますが、その間の1年間の家康の代理(影武者)は、譜代大名で天王寺口の戦いで討死したことになっている小笠原秀政が演じていたとされているようです。

南宗寺に東照宮(南宗寺での存在は確認されています)の勧進までしていましたので、前述の2代将軍秀忠と3代将軍家光の参詣の事実まで入れるとかなり信ぴょう性の高い話なのかもしれません。
別記事でこの章の特化記事で『徳川家康討死』の事を書いてみました。こらちもよろしければご一読ください。

まとめ

 

天下分け目の『関ケ原の戦い』から14年経過し、もう徳川体制は盤石と思われるこの時期にあえて、豊臣秀吉供養のために再建させた”方広寺大仏”の開眼供養をネタにしてまで、なぜ徳川家康は豊臣家の滅亡を図ったのか?

普通に考えると、何もそこまでやらなくても思われる家康の所業ですね。

しかし、ここまで見て来ると、家康があれほど恐れていた豊臣秀吉恩顧の大名たちの力を削ぐことをほぼ達成させた慶長17年(1612年)になるまで、じっと秀吉の影響力が薄れるのを待っていたことがよくわかります。

秀吉の影響力を少しでも感じさせるものを残すことは、将来の徳川政権にとって大きな禍根を残すことになると心に決めて、最後の総仕上げとして『血統を絶つ』ことに全力を挙げた訳です。

その前提に立てば、『大坂冬の陣』・『大坂夏の陣』は”豊臣家の滅亡”なくしては終わらないことがわかります。

色々諸説語られていて、やれ家康はそこまで考えていなかったの、やれ秀忠の暴走だのとありますが、最初から家康の結論はひとつだったと納得してしまいます。

徳川家の政権は慶応3年10月14日(1867年11月9日)まで、このあと実に250余年間も続くことになる訳ですから、この時の家康の決断はその後の日本の発展には大きな偉業だったと云えそうです。

参考文献

 

岡本良一 『大坂冬の陣夏の陣』(創元新書 1983年)

丸島和洋 『真田四代と信繁』(平凡社新書 2015年)

渡邊大門編 『家康伝説の嘘』(柏書房 2015年)

津田三郎 『北政所』(中公新書 1994年)

ウィキペディア 『大坂の陣』

ウィキペディア 『徳川家康の影武者説』

NIKKEI STYLE 歴史博士『大阪・堺 「徳川家康の墓」の謎 夏の陣で討ち死に伝説』(2012年)

 

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