豊臣秀吉は『小田原攻め』で北条氏政とどう戦ったのか?

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秀吉天下取りストーリー大詰めの大戦である『小田原攻め
のすべてを明らかにしていきます。
城攻め巧者秀吉の戦い方、伝説の一夜城の真相など
興味深い話が満載です。

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秀吉はいかにしてこの難攻不落の巨大城郭を攻略したのか?

小田原攻めへの道程

天正10年(1582年)6月2日夜半に、毛利攻めで備中高松に進軍
していた秀吉の運命は大きく変わって行きました。
本能寺の変』の出来です。

主君織田信長の大抜擢により、侍大将に大出世したもの
の、一軍の将に過ぎなかった秀吉に突然天下取りの
チャンスが舞い込んだのです。

それをこの稀代の人物はものの見事に我が物として、
主君の仇討ちを電光石火の早業(中国大返し)にて
なし遂げて、信長後継レースの大本命に名乗りを上げ
たのです。

その後、織田家の後継を決める宿老会議(清須会議
にて、重臣筆頭の柴田勝家を押しのけて№1に
躍り出ました。

翌天正11年には賤ヶ岳の戦いに勝ち、北ノ庄で勝家
を滅ぼすと、その翌年天正12年に小牧長久手の戦い
で強敵徳川家康と和睦に持ち込み臣従させることに
成功します。

そして、いよいよ秀吉の天下統一に立ちはだかる関東
の雄、北条氏との談判です。

臣従を迫る秀吉の動きに反発する北条に対して、姻戚
関係の徳川家康が説得に掛かりますが、進展しない
まま時間が過ぎて行きます。そしてとうとう戦に
発展して行きます。

きっかけは、第一次上田戦争の秀吉調停の約定の内容
に不満を持った北条氏がこれを破り、秀吉の面子
をつぶしたことでした。

1589年(天正17年)11月24日に秀吉は北条征伐の軍令
を諸将に発します。

諸将は翌年2月から次々と進発し始めます。
なんせ20万の大軍です。

軍はふた手に分かれて西から主力軍(17万)、北から
北方軍(3万5千)、海上から水軍(1万)の体制で、
3月29日の三島山中城攻めから始まりました。

北条軍は最初から、支城の諸将の主力を小田原城に
集めており、難攻不落の小田原城の籠城戦を決めて
いたようです。

◎小田原城の規模

この城は外殻の『総構え』と呼ばれる形式で城下町
全体を空堀と土塁で取り囲んでおり、総延長は9㎞
にもおよび、後の秀吉の大坂城の8㎞を
凌いでいました。

つまり小田原城下をすっぽりと防衛線が覆っている
形になっていたのです。

城内には広大な耕作地もあり、長期間に亘る籠城戦
にも問題なく対処の出来る巨大な要塞でした。

過去に、1561年に上杉謙信が10万を越える関越連合
軍で、1569年には武田信玄が2万5千の兵を率いて

この城郭に攻めかかっておりますが、謙信は1か月
ほどで、信玄は数日で囲みを解いており、正に
難攻不落の堅城でありました。

小田原城

◎小田原落城に至った原因

昔から言われていますが、籠城戦を勝ち抜くには
ある条件が必要です。

1)援軍が来て包囲軍と戦ってくれること

2)攻め手に事情が生じて撤退せざるを得
なくなること

何らかの理由で包囲を解いてもらわない限り籠城
は終わらないのです。

関東の雄にまで北条氏を大きくして来た氏政は
まさに戦国の申し子で、立派な武将でした。

ですから当然、このことを北条氏政は知っていた
はずです。

要するに、秀吉はこの籠城軍が勝てる条件を完全
に潰してから戦いに臨んでいたのです。

私たちは今、後の秀吉の力を十分理解しています
ので、北条氏政の籠城判断に関して、、、

名家出身で実録高が250万石に達していた氏政は、
百姓出身の秀吉を侮り、甘く見ていたと評しますが、
いったい彼をしてそうさせた本当の理由は何だった
のでしょうか?

それは、、、

北条氏政は徳川、東北の伊達と3国連合を組めば、
秀吉の囲みを破れるとの確信があったのでは
ないかと思います。

徳川に対しては姻戚関係があり、伊達は独立色が
強く、秀吉の出した命令も破っており、北条と

勢力圏が接近していることから、北条の誘いに
乗っていた可能性はあります。

事実小田原の陣への参戦もかなり遅れて5月に参陣
しています。

秀吉の籠城に対する経済戦は百も承知だったと思う
のですが、ここで氏政の大きな誤算があるとすると、
家康の遠謀深慮が見抜けなかったことだろうと
思います。

家康の離反と正宗の連れ離反は氏政をして厭戦
気分にさせた大きな要因だと思います。

あとは、1585年に関白宣下を受けたことにより、
朝廷の権威をバックにした秀吉に、諸侯が臣従
し始めたことを氏政が重く見なかった
ことでしょうか。

家康はその辺りの計算をしていたのではないで
しょうか。

結果、、、

天正18年(1590年)7月5日に北条氏直が降伏して
小田原城は開城
となり、この戦国の名城もわずか
3か月ほどで落城してしまいました。

戦国の覇者たちの強烈な武力攻撃にも耐えた
この巨城も、政治力によって落城させられた
と云うのが真相のようですね。

秀吉の”一夜城伝説”のひとつの笠懸山(石垣山)の城はどんなものだったの?

小田原本城の戦いは見るべきものがほとんど
ないのですが、秀吉らしい話としてあるこの
石垣城はどんなパフォーマンスだったので
しょうか?

この城は、小田原城の西3kmのところにある
標高257mの笠懸山山頂に建設されました。

本丸、西の丸、曲輪3棟からなる本格的城郭
で『一夜城』の名にふさわしくない、関東
地区では初めての石垣を持った城塞でした。

『一夜城』と異名を取る理由は、完成の
前日の夜に城の建造を隠していた樹木を
取り払ったので、突然城が出現したように
見えて、北条側が大いに驚き、落城が早ま
ったとされている逸話によります。

しかし、北条側の資料に着工日が記録されて
いるらしく、建造に80日間かかったと判明
しています。

80日間と云えば、今の一般住宅でもそれ
くらい掛かるものもありますから、如何にも
早いですが、延べ4万人もの人足を使う
大工事をやっていれば、気が付かない方が
おかしい訳です。

私の考えですが、、、

北条方に衝撃を与えたのは、城が急に現れたこと
ではなくて、城があまりにも本格的な城郭であった
ため、秀吉の力と秀吉のこの戦いにかける本気度
が彼らの心胆寒からしめたと云うことなんでしょう。

石垣城は、実際築城された立派な城ですが、
その意味合いについては少し脚色されて
いるようですね。

秀吉は6月26日に完成した城に約100日間
ほど滞在して、北条との戦後処理を行った
と伝えられています。

この攻城戦は秀吉の天下取りにとってどんな意味があったの?

本能寺の変(天正10年6月2日)からの秀吉の動きは、、、

  • 天正10年(1582年)6月4日
    備中高松城攻めー毛利と和睦
  • 天正10年(1582年)6月13日
    山崎の戦いー光秀の三日天下を終わらせる
  • 天正10年(1582年)6月27日
    清須会議ー織田家後継問題で優位に立つ
  • 天正11年(1583年)
    賤ヶ岳の戦いー織田家内の筆頭となる
  • 天正12年(1584年)
    小牧・長久手の戦いー宿敵家康と政治的に和睦
  • 天正15年(1587年)
    紀州・四国・九州平定ー西日本諸将の臣従
  • 天正16年(1588年)4月14日
    後陽成天皇聚楽第行幸ー全国諸侯の臣従

と云う一連の動きの最後に関東の雄北条氏との
談判が残りました。

当時北条氏は関東地区をほぼ制覇して、最大版図
を達成し、250万石を誇る巨大勢力
なっていました。

秀吉は最初から北条を戦って潰す考えだった
のかと云うと、家康とのいくさでウンザリして
いたはずの秀吉はその轍は踏まないことを
考えていた可能性は有ったと思います。

と考えると、氏政の取るべき道はたくさんの選択肢が
あったのではないでしょうか。

しかし、歴史の事実は両勢力の激突と云う形
で姿を現しました。

もうここまで来たら、秀吉にも選択肢はあり
ません。

秀吉の天下取りの最後の関門である北条氏の
討伐は、秀吉の天下取りを確定させる戦い
となりました。

豊臣秀吉と北条氏政の心情はどうだったの?

豊臣秀吉と北条氏政を語る場合に両者の決定的な
違いについて述べておきましょう。

秀吉の話をするには、元主君の織田信長について
幾つかお話しておかねばなりません。

元々織田氏は室町幕府足利将軍の有力一門で細川・
畠山と並ぶ三管領家であった守護大名の斯波氏
の尾張の国守護代を務めていました。

戦国の世になって、織田一族の弾正忠家の信長が
一族の争いを制して頭角を現しました。

これが戦国の覇者織田信長です。

信長は日本の武士の戦いの方法に革命をもたらし
戦争の天才です。

簡単に云うと、信長以前の戦闘は土着・土豪の
半農半武の部隊同士の戦いでした。

つまり、田畑の世話があるので、田植えと収獲の
時期には大戦(おおいくさ)が出来ないのです。

ところが、信長は侍大将以外の戦闘員の足軽も
職業軍人に仕立て上げて、365日いつでも戦争
が出来るようにしました、『織田軍団』の誕生です。

この為に兵糧米の確保に、信長は商業を発展さ
せて銭を蓄えて、これで兵糧米を購入すること
で農業の代わりにしました。

日本史上で軍事力強化を目的として、商業振興
を行った武将は信長が初めてだと思います。

加えて、家中の質素倹約蓄財に努め、支出を
極限まで抑えて、軍事費に回す努力を惜しみ
ませんでした。

この中で頭角を現してきたのが、木下藤吉郎
です。言わずと知れた後の豊臣秀吉です。

なにも彼は”草履取り”でゴマを摺って出世
したわけではありません。

清州城の奥向きのコストカットを無理なく
行い、マネージャーとして類まれな実績
を示して、織田信長の目に止まった
と言われています。

信長子飼いの無骨もの達にはこのように目端
の利く人間はいなかったのですね。

ちょっと、横道にそれましたが、要するに
『織田軍団』の武将は土着武士ではないの
で、いくら転勤(国替え)させられても
平気なのです。

ところが、北条氏政は違いました。自分の
領地領民を先祖からもたらさせた財産と
考え、守る事に全力を挙げるのです。

徳川家康も北条氏政も、織田軍団の兵士に
なったことはありませんので、”土着武士”
です。領地領民にしがみつきます。

しかし、優秀な織田軍団の一員で、生まれて
この方そんな財産を持たずに育った秀吉は
おのれの腕一本で危難を乗り切っています。

この違いが両者の心情の差であったと考え
られます。

簡単に云えば、秀吉の”攻め”と氏政の”守り”
でしょうか。

氏政の考えは、小田原城の籠城戦の最中に
姻戚の家康を寝返りさせ、伊達政宗の応援
を得れば、秀吉は囲みを解いて、西へ撤退
するに違いないと踏んでいたのでしょう。

徳川・伊達の北条からの離反がはっきり
した時の氏政の落胆は目に見えるようです。

しかし、まだこの巨城の力を信じていた氏政
は籠城を続けますが、、、

ほどなく天正18年(1590年)6月26日に石垣城が
堅固な要塞として姿を現して秀吉が長期戦を
戦い抜く覚悟を
北条側にはっきり示した時に、

もう雪崩を打って城内の雰囲気が(秀吉の
読み通り)開城に傾いて行き、7月5日の
開城へとつながって行きます。

小田原城無くして、北条氏はあり得ないと
の思いは強くあり、それが小田原城無敵
伝説を作っていたのかもしれません。

結局、この城は武力で落ちずに、人で落ちた
と云えそうです。

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戦場となった小田原の町ってどんなところ?

現在の小田原市は神奈川県西部にあり、東西
17.5km・南北16.9kmで面積114.06平方㎞。

南西部は箱根連山につらなる山地で、東部は
大磯丘陵につながり、中央部には酒匂川が
南北に貫き、南部は相模湾に面しています。
人口20万人弱のこじんまりした地方都市です。

戦国時代当時の人口ははっきりとはしませんが、
6千人前後ではないかと言われています。

江戸時代末期の人口は1万3千人くらいと判明
しています。

と云う事は、件の”小田原攻め”の時は秀吉軍
20万人、北条軍5万6千人とか言ってますので、
この時が歴史上の最大人口なのかもしれませんね。

また箱根越えの手前の宿場町として江戸時代は
繁栄をし、人口も増加していますが、絵師の
狩野派の分派が居住してその面でも人の出入り
が多かったようです。

小田原攻めの旧跡、北条氏5代に亘る史跡と
富士・箱根観光の拠点として交通の要衝とも

なっており、史跡巡りも含めて魅力が多く、
東京の近隣都市として、もっと見直されて
よい町ではないかと思います。

小田原周辺の北条氏ゆかりの観光地は?

小田原周辺は観光地が近隣に多いので、今回
の北条氏・秀吉小田原攻めに関連するところ
に絞りました。

北條氏本城の小田原城が秀吉の大坂城より巨大
だったと云う史実を実感して見ましょう。

◎小田原市周辺

☆早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町湯本405)
北条五代の菩提寺
初代早雲の遺言でその子氏綱が1521年に創建。
1590年秀吉の小田原攻めの本営が置かれたが、
石垣山城の完成とともに焼き払われ、江戸期
に復興。

小田原市内から早雲寺へのルート
小田原駅⇒(箱根登山鉄道14分310円)⇒箱根湯本⇒(徒歩10分900m)⇒早雲寺
箱根登山鉄道の時刻表を見る

◎小田原市内
〇旧小田原城遺構を見て歩きましょう

小田原城址公園(小田原市城内6‐1)
小田原駅から城址公園へのルート
小田原駅東口⇒(徒歩南島へ6分500m)⇒城址公園北口

回るやり方で所要時間はまちまちですが、広大な旧城内ですので、
一応回るだけで自転車で3時間程度、徒歩では20㎞くらいを見学
して歩くことになりますので、少なく見積もって7~8時間くらいかかり
そうです・笑。行くところを決めましょうね。


小田原城
常盤木門
住吉橋
銅門
小峯曲輪北堀

旧小田原城外殻総構えの規模を見る遺構です

☆幸田口門跡(小田原市栄町)
三の丸土塁跡

☆大手門跡鎧楼(小田原市本町1-5-24)

☆早川口遺構(小田原市南町4-4)

☆小田原城址江戸口見附址
(小田原市浜町2-7)
☆蓮上院土塁(小田原市浜町2-1)

☆小田原用水(早川上水)取入口
(小田原市上板橋)
この古水道は北条時代に作られたと言われて
いる。

☆北條稲荷神社(小田原市浜町4-21-10)
蛙石(かわずいし)と云う石があり、
小田原の危機の時に蛙が鳴くと言う。
後の関東大震災の時も鳴いたそうです。

◎宿泊して、もう少し回ってみようと思う方は
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まとめ

歴史の流れは秀吉がこの小田原で関東の覇者
北條氏を下すことによって、信長が思い半ば
で倒れたために未達成となっていた”天下
統一”事業を完成させることが
出来たわけです。

この小田原でもキーマンとなったのは、家康
で、元々決めていたとは言え、改めて家康
の力を確認した秀吉は、駿遠三の3か国を
所領していた家康を旧北条領地へ
左遷させます。

京から遠くへ家康を追いやる事で、完全に
抑え込むことに成功するのです。

しかし、家康は北条領地の関東地区の有望さ
に気がついていたようです。

なんせ、北条旧領は250万石もあるのですから。
つまり、秀吉は『危険の相手は手の届くところ
に置け』と云うセオリー外した結果、”虎を
野に放つ”ようなことをしてしまいました。

この北条滅亡は、家康にとっての敵も消して
しまう効果があるので、ひょっとすると、

家康の計算ずくの行動に北条氏政は引っかか
ってしまったのではないでしょうか?

まんまと成功した家康の『天下取り』計画は
この小田原の10年後に関ケ原となって実を
結び、その15年後には家康が天下を手中に
治めることになるのです。

ひとつ最後に北条勝利の目はなかったのか?
と云う話ですが、、、

結果論ですが、秀吉の戦争準備は周到でした。

始めた瞬間には、狸の家康によって氏政の思惑は
すべてなくなっていたと見てよいと思います。

家康が見限った時に北条は終わっていた
のではないでしょうか。

信長軍団の秀吉の戦いのやり方は戦国武将の
それとは明らかに違います。

今の近代戦のやり方なのです。

戦争はやらずに外交交渉段階で話をつけない
限り北条の勝ち目はなかったと考えるのが、
妥当な判断だと思いますね。

やはり、最初に家康が説得に当たっていた時
に秀吉への臣従をするしかなかったんですね。

この時、戦いを避けて北条が生き残っていたら、
果たして家康の徳川時代は来ていたのでしょうか?

興味は尽きませんね。
歴史はミステリーです。

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