鎌倉幕府滅亡の理由、簡単に!分かりやすく!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

スポンサーリンク

鎌倉幕府滅亡の理由が簡単に分かります

『鎌倉幕府滅亡』の覚え方のゴロ合わせを作りました

鎌倉幕府滅亡の流れがわかります

後醍醐天皇の動きがわかります

 

鎌倉幕府はなぜ滅亡したの?(通説では)

高校の教科書によれば、、、

 

後嵯峨法皇が亡くなると、天皇家は後深草上皇の流れをくむ持明院統と亀山天皇の流れをくむ大覚寺統にわかれて、皇位の継承や院政をおこなう権利、天皇家領荘園の相続などをめぐって争い、ともに鎌倉幕府に働きかけて有利な地位を得ようとしていた。

そこで幕府はたびたび調停をおこない、その結果、両統が交代で皇位につく方式(両統迭立ーりょうとうていりつ)がとられるようになった。このような中で大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、まもなく親政を開始し、皇位の安定をはかるために、積極的に天皇の権限強化を推し進めた。

一方、当時の幕府では執権北条高時のもとで内管領長崎高資が権勢をふるい、得宗専制政治に対する御家人の反発が高まっていた。

両統迭立を支持する幕府に不満をいだいた天皇は、この情勢をみて討幕の計画を進めたが、1324(正中元)年、幕府側にもれて失敗した(正中の変)。さらに1331年(元弘元)年にも挙兵を企てて失敗したために(元弘の変)、持明院統の光厳天皇が幕府に推されて即位し、後醍醐天皇は翌年隠岐へ流された。

しかし、後醍醐天皇の皇子護良親王や楠木正成らは、悪党などの反幕勢力を結集して蜂起し、幕府軍と粘り強く戦った。やがて天皇が隠岐を脱出すると、天皇の呼びかけに応じて討幕に立ちあがるものがしだいに増え、幕府軍の指揮官として畿内に派遣された有力御家人足利高氏(のち尊氏)も幕府に背いて六波羅探題を攻め落とした。関東では挙兵した新田義貞もまもなく鎌倉を攻めて得宗の北条高時以下を滅ぼし、1333(元弘3)年、鎌倉幕府は滅亡した。

 

(引用:笹山晴生ほか15名『詳説日本史B 改訂版 第5章武家社会の成長 120~121頁』2018年 山川出版社)

 

と説明されていて、この教科書にある『鎌倉幕府滅亡』の要因を簡単にまとめてみると、、、

 

  1. 醍醐・村上天皇期の天皇権力の最盛期復活を目指し、天皇親政を理想とした後醍醐帝の即位
  2. 得宗専制政治の下で権勢をふるう内管領長崎高資に、反発する御家人たちの増加
  3. 流刑となった後醍醐帝の皇子護良親王の奮闘と、楠木正成ら悪党の勢力拡大
  4. 後醍醐帝の流刑地隠岐島脱出と、最終局面での有力御家人の裏切り(足利・新田)

 

と執権・得宗家の権威低下と、後醍醐帝の活躍を中心に検討されていますが、実は一般的に言われていることは、、、

 

モンゴル戦争を鎌倉武士は果敢に戦い、外国の侵攻を撃退したけれども、逆に恩賞にあてる土地を獲得する戦争ではなかったために、武士たちは十分な恩賞を得ることができず窮乏化した。

幕府は御家人の窮乏化を救うために徳政令を出したが、徳政令は売買貸借契約を混乱させるものである上に、御家人のみを救済する不平等な政策であるから、幕府に対する信頼が失われた。

徳政令によっても救済されず窮乏化した武士は悪党となり、社会不安を醸成させた。

そこに後醍醐天皇が討幕計画を掲げたので、幕府に不満を持つ武士たちがそれに結集した。

 

(引用:近藤成一『鎌倉幕府と朝廷  第六章 鎌倉幕府の滅亡 216頁』 2016年 岩波書店)

 

とありますが、ここで問題となる『蒙古来襲』は2回(1274年と1281年)あり、少なくとも後醍醐天皇の討幕目的の武装蜂起が、計画された可能性があると言われた『正中の変(1324年ーしょうちゅうのへん)』の年まで、なんと43年も経過しています。事後処理を巡って、幕府の権威が損なわれたとは云えるかもしれませんが、『蒙古来襲』を『鎌倉幕府滅亡の原因』、すべての始まりなどと言ってしまうのは問題があるようです。窮乏した御家人は43年(当時のひと世代分以上)も生活が持ちません。

 


(引用画像:船上山ACphoto)

 

『鎌倉幕府滅亡』ゴロ合わせの覚え方

1333年(元弘3年)鎌倉幕府滅亡
・いざ鎌倉と、さんざん攻められ幕府滅亡
 13    3 3

鎌倉幕府滅亡の諸要因の検討

元寇の影響で、財政的に武家社会が疲弊し、御家人に不満が溜まったため?

通説では、元(蒙古)の侵略防衛戦で勝利したものの、幕府がその働きに見合う論功行賞が実行出来なかった(防衛戦の為、戦勝で獲得できた領地がなかった)為、合戦で多額の出費を強いられていた御家人層は、その補償を得られず生活困窮に陥って幕府に対して強く不満を持った。加えて別の理由で討幕計画を進めていた後醍醐天皇の呼びかけに、タイミングよく御家人たちが応じて結束したことが、大きな力となって幕府は滅亡に至った。』と言われています。

 

ここでの話は、『元寇』により多額の出費を強いられた御家人が、見返りの褒賞を十分に貰えなかったため、幕府に不満を抱いたと言う事ですが、最近の研究では、そもそもの御家人の財政破綻に陥っていた主な原因は、『元寇』だったのではないと言われています。

 

それは、、、

 

鎌倉時代頃の武家の相続慣行では、単独相続ではなくて分割相続がなされていました。つまり、江戸時代のような家督の単独相続ではなくて、庶子も所領の分与を受けるのが普通だった訳です。

 

このように遺領が複数の子女に分割分与されていた理由は、昔広大な未開墾地開作を進めていた頃の名残りと言う事ですが、この12世紀頃になるとさすがの東国にも開墾困難地くらいしか土地は残っておらず、現有領地を分割相続させるしかなく、どんどん相続領地が細分化されて縮小する事態が起こり始めていました。

 

つまり、何らかの方法で領地を増やすか、農耕以外の手段で収入を得るか、貧乏暮らしに甘んじるかと言う選択に迫られ、親の代の威勢を保つことは有力御家人でも大変なこととなっていました。

 

この難題に、様々な解決策を御家人たちは考える訳ですが、当然不満は御家人を武力統制をしている鎌倉幕府に向けられて行くことになります。

 

こんな折に、未曽有の国難とも言える『蒙古来襲』にも遭遇し、さらに悪化して行く「御家人経済」を支えて行かねばならない鎌倉幕府は、にっちもさっちも行かない窮地に追い詰められていたと言えそうです。

 

このように鎌倉時代に入り、武家社会を支えていた制度のひとつである領地の『分割相続』が、未開墾地の消滅とともに根底から行き詰まっていたと言うのが大きな理由で、決して『元寇』のみが原因ではないと考えられます。

 

悪党の登場

悪党とは、、、

わるものおよびわるものの集団をいう。この語は平安時代末期以降近世に至るまで史料上に散見され、山賊・海賊・強盗・追いはぎ・人殺しなど社会秩序を乱す者に対する呼称である。

『御成敗式目』第三十二条および追加法各条にみられる悪党は、このような超時代的な社会的落伍者を一括しているが、鎌倉時代中末期すなわち弘安元年(一二七八)ごろから畿内およびその周辺地帯に頻々と発生して、当時の社会問題となった悪党は、これとは少しく趣を異にしている。

『峯相記』によればこの時期の悪党も、(一)みすぼらしい乞食同然の者と、(ニ)立派な兵具をつけた五十騎・百騎の集団の二様があったことが知られる。前者は当時の社会情勢の変化に対応しえずに没落した者の姿であり、いわば超時代的悪党と同質であったといえよう。

後者は情勢変化をたくみに利用しつつ自己の勢力を拡大し、これを抑圧しようとした荘園領主・幕府に反抗した者である。彼らは社会全般の矛盾の激化により発生したものであるから、その交名には山僧・神人・凡下・借上・西国御家人・荘官・有力名主など、あらゆる階層の者が含まれている。

また直接の発生原因も、荘園領主内部の争い、在地領主間の争いなど多種多様であるが、基本的には反体制的なものであったといえよう。

その結合形態もはじめは血縁関係を中心として家人・所従・下人を従えたものであったが、次第に聟・舅・烏帽子親子などの血縁擬制関係者を包含し、さらに同一利害関係にある非血縁者も糾合して地縁的性格を強めるようになった。

特に摂津兵庫関の悪党や山城国悪党(畷喜郡・久世郡・相良郡悪党の連合体)など、交通要衝地のそれは地縁的要素の濃いものであった。

この傾向は鎌倉時代末期に近づくほど強くなり、農民や浮浪民をも動員するようになった。その行動も、年貢対捍・苅田狼藉・銭貨資財奪取・殺害刃傷・百姓住宅焼払・預所雑掌追出など過激なものが多かったが、これも末期になるに従って、下地押領・一荘押領と表現されるようになり、伊賀黒田荘のように惣荘土民が悪党に加担した例もみられ、荘園を占拠して城郭を構えることもしばしばあった。

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第一巻 103頁』1979年 吉川弘文館)

ここで問題になっている『悪党』は、当然、説明の前段にある「社会的落伍者」ではなくて、後半の「荘園領主・幕府に反抗した者」のことを言っています。また、ここに記述があるように、鎌倉末期ごろ畿内周辺に発生し次第に力を付けて行ったものと考えられます。これの最大勢力が楠木正成だったと言われています。

 

 

得宗家が貴族化して、実務能力が大幅に低下したため?~長崎一派が幕府実権壟断(ろうだん)

広く知られていますように、鎌倉時代は源頼朝「鎌倉殿」と言う尊称で源氏の棟梁・御家人等の主君となり、また征夷大将軍ともなって政権を担って始まったわけです。その後、源家の「鎌倉殿」が3代で途絶えて、京より最初は摂関家(摂家将軍)、後に宮家から将軍(親王将軍)を鎌倉殿として迎えて、実際の幕府支配者は御家人の北条家が「執権」として運営する形になって行きます。

 

そして、源家将軍は3代実朝(さねとも)で終わり、4代目頼経(よりつね)から京より下向した五摂家出身の『摂家将軍』、6代目から天皇家出身の『親王将軍』となって行きますが、政治の実権は武家の『執権』が握り続けて行きます

 

その『執権』の初代は、2代将軍頼家がその地位を追われ、3代実朝が将軍となった建仁3年(1203年)9月に頼朝の舅(しゅうと)だった北條時政が就任し、これに不満を持つ他の有力御家人たちを討滅させながら、2代目『執権』には元久2年(1205年)閏7月、時政の息子義時(よしとき)が就任して行き、以後『執権職』は代々北条氏が世襲して行くことになります。

 

そしてその北条家の中でも義時の子孫たちを言わば北条家家督(北条宗家)と言う意味で『得宗家(とくそうけ)』と呼びこの『得宗』が『執権』であるなしにかかわらず鎌倉幕府の実権を握り続けます。言わば「鎌倉の王家」となって行った訳です。時政を初代とすると最後の高時まで9人を『得宗』と呼びます。

 

その『得宗家』の執事たる立場に『内管領(ないかんれい)』がおり、これが得宗家の家人に過ぎないにも拘わらず、この『得宗家』が王家化・貴族化して行くに従って政治力を持ち始め、つまり江戸幕府の徳川将軍の側用人(そばようにん)のような権勢を振るい始めます。

 

この『得宗』8代目の貞時(ほうじょう さだとき)が、抜擢した『内管領』の長崎円喜(ながさき えんき)とその子長崎高資(ながさき たかすけ)によって、鎌倉幕府滅亡の扉が開かれます。

 

長崎高資は、、、

 

嘉曆元年三月十三日、高時依所勞出家ス。法名宗鑑。舎弟左近大夫将監泰家。宜執權ヲモ相繼グベカリケルヲ。高資修理權大夫貞顯ニ語テ。貞顯ヲ執權トス。爰ニ泰家高時母儀。是ヲ憤リ。泰家ヲ同十六日出家サス。無甲斐事也。

其後關東ノ侍。老タルハ不及申。十六七ノ若者ドモマデ皆出家入道ス。イマイマシク不思議ノ瑞相也。此事泰家モサスガ無念ニ思ヒ母儀モ憤リ深キニ依テ。貞顯被誅ナント聞エケル程ニ。貞顯評定ノ出仕一兩度シテ出家畢。

同四月廿四日相模守守時。修理大夫維貞彼兩人ヲモ將軍ノ執權ス。是モ高資ガ僻事シタリトゾ申ケル。粤ニ元徳二年秋比高資憍ノ餘ニ高時ガ命ニ不随。

 

(引用:塙保己一『群書類従 第二十六輯 雑部』所収 『保暦間記 55頁』1960年 續群書類從完成會)

 

大意は、”

嘉暦元年(1326年)3月13日、北条高時は病により出家をした。法名は「宗鑑」。弟の北条泰家が執権を継ぐべきところを、内管領の長崎高資が、連署で高時と同時に出家するはずだった金沢貞顕を執権に就けます。これに泰家・高時の母である覚海円成(かくかいえんじょう)は激怒し、泰家を同十六日に出家させた。しかし、無駄な事だった。

その後、関東の侍どもが、年寄は言うに及ばず、16~17歳の若者まで皆出家すると言う。悪い事の起こる前兆である。この事には北条泰家もさすがに無念に思い、母の怒りも大きく、その事から執権になった金沢貞顕を暗殺するのではないかとの噂が耳に入って、貞顕は評定に1~2度出席しただけで10日ほどで出家してしまった。

同4月24日に、赤橋(北條)守時が執権に、大仏(北條)維貞が連署に就任したが、これも長崎高資の差し金だと言う。ここに、元徳2年(1330年)秋頃には、長崎高資は驕り高ぶって、得宗北条高時の命令に従わなくなっていた。

”位の意味です。

 

 

このように、北條得宗家(北條義時の子孫)のただの家人に過ぎない男が、幕政を壟断する樣になり、鎌倉幕府・北条得宗家の権威は大きくダメージを受け、外様の御家人等からの信用も地に落ち、人心は幕府から離れて行きました。

 

スポンサーリンク

後醍醐天皇の討幕計画

後醍醐天皇は、文保2年(1318年)2月26日に大覚寺統から即位した天皇ですが、皇位継承にあたり「持明院統と大覚寺統の交替」で皇位を継承させる「両統迭立(りょうとうてつりつ)」を決めるなど幕府が深く関与する事態に反発を覚え、天皇権力の復権を夢見て天皇親政を実現させた人物でした。

 

そもそも後の後醍醐天皇こと尊治(たかはる)親王後宇多(ごうだ)上皇の息子でしたが、尊治の兄の子である邦良(くによし)親王を父の後宇多上皇は可愛がっていて、皇位は邦良親王に継がせるつもりでした。そこで、後宇多上皇は大覚寺統に皇位の順番が回って来た時、幼い邦良親王が成長したら譲位することを条件に、尊治親王の立太子に応じていました。

 

前述のようにして後醍醐天皇は即位し、持明院統も折れて予定通り大覚寺統から引き続いて皇太子は邦良親王となって、後宇多上皇による院政も始まり、話は筋書き通り進んで行きます。

 

ところがその後、父後宇多上皇からの譲位要求に後醍醐天皇は、約束を違えて応ぜず頑張り続けます。

 

元亨(げんこう)4年(1324年)6月24日に後宇多上皇が亡くなり、その3ヶ月後の9月19日に鎌倉幕府討幕計画『正中(しょうちゅう)の変』が露顕します。これは譲位に応じない後醍醐天皇をハメて退位させようとする持明院統の陰謀とも考えられ、結果、幕府側も後醍醐天皇の申し開きを受け入れ、証拠不十分で後醍醐天皇本人はおとがめなしとなっています。

 

そして2年後の嘉暦元年(1326年)3月20日、皇太子の邦良親王が27歳で死去し、幕府は次の皇太子に持明院統の推す量仁(かずひと)親王を選びました。

 

後宇多上皇の死後に天皇親政を始めた後醍醐ですが、そもそも幕府の決めた皇位の『両統迭立制』に不満を持ち、自分の子供を皇太子にして自身が上皇となり院政を敷くことが夢だった後醍醐天皇は、この幕府の決定(量仁親王の立太子)に大きな不満を持ち、皇位継承に著しく関与する鎌倉幕府の打倒しか解決法がないと徐々に確信して行きます。

 

 

邦良親王死去の3ヶ月後から、後醍醐天皇は中宮禧子(きし)の御産祈祷を始めますが、結局禧子は男子を出産することはありませんでした。そこで、第二皇子の世良(ときよし)親王に期待をかけますが、元徳2年(1330年)に18歳で早世してしまいます。

 

 

そして後醍醐天皇による討幕計画『元弘の乱』が勃発したのは、その1年後の元弘元年(1131年)の事でした。今回は挙兵して京都脱出して笠置山に立て籠ったものの幕府の大軍に鎮圧され、後醍醐天皇は捕縛されて隠岐の島へ流罪となりました。

 

 

流罪になった後醍醐天皇に替り、皇太子の量仁親王が践祚(せんそ)して光厳(こうごん)天皇となりこの流れがその後南北朝時代の「北朝」となって行きます

 

 

ところが、天皇に呼応して挙兵した息子の護良(もりよし)親王と悪党の親玉である楠木正成(くすのき まさしげ)は、笠置山を脱出し河内の下赤坂城に籠城して2ヶ月間幕府軍に抵抗を続け、その後落城するも本人たちはさらに脱出に成功します。

 

一方、元弘3年(1333年)閏2月28日、後醍醐天皇も隠岐の島を脱出し、伯耆(ほうき)国の名和長年(なわ ながとし)が後醍醐天皇を奉じて伯耆の船上山(せんじょうさん)で挙兵します。

 

 

足利尊氏・新田義貞ら御家人たちの裏切りが、幕府の息の根を止めた?

前章の続きで、、、

 

後醍醐天皇の再度の挙兵に応じて馳せ参じた播磨の御家人赤松則村(あかまつ のりむら、出家後は円心)は、後醍醐天皇追討に向った名越高家(なごえ たかいえ)率いる幕府軍を、京都郊外の久我畷(こがなわて)で破ります。

一方、将軍名越高家とともに後醍醐天皇追討に向った将軍足利高氏(あしかが たかうじ)は、、、

 

常將軍尊氏重て討手として御上洛。御入洛は同四月下旬なり。元弘元年にも笠置城退治の一方の大將として御發向有し也。・・・(中略)・・・。

一方の大將は名越尾張守高家。これは永久に北陸道の大將軍式部丞朝時の後胤なり。兩將軍同時に上洛有て。四月廿七日同時に又都をいで給ふ。

將軍は山陰丹波を經て伯耆へ御發向有べきなり。高家は山陽道播磨備前を經て同伯耆へ發向せしむ。船上山を攻らるべき議定有て下向の所。久我畷にをいて手合の合戰に大將名越尾張守高家討るゝ間。當手の軍勢戰に及ずして悉く都に歸る。同日將軍は御領所に丹波國篠村に御陳を召る。

抑將軍は關東誅伐の事。累代御心の底にさしはさまるゝ上。細川阿波守和氏。上杉伊豆守重能。兼日潜に綸旨を賜て。今御上洛の時。近江國鏡驛にをいて披露申され。

既に勅命を蒙らしめ給ふ上は。時節相應天命の授所なり。早々思召立べきよし再三諫もうされける間。當所篠村の八幡宮の御寶前にをいて既に御旗を上らる。

 

(引用:塙保己一編『群書類従・第二十輯 合戦部』所収「梅松論上」156~157頁 1981年 続群書類従完成会)

 

大意は、”

将軍足利高氏(あしかが たかうじ)は再び後醍醐天皇追討軍として上洛した。上洛は元弘3年4月下旬であった。元弘元年にも笠置城攻撃の片方の大将として出陣していた。・・・(中略)・・・。

もう一方の大将は、名越高家(なごえ たかいえ)で、これは北陸道の大将軍名越朝時(なごえ ともとき)の子孫である。両将軍は同時に上洛して、4月27日に同道して都から出陣した。

足利高氏は、山陰道へ丹波を経由して伯耆国へ出陣し名越高家は山陽道播磨国・備前国を経由して伯耆国へ出陣した。互いに伯耆の船上山を攻ることを取り決めて出陣をしたが、京都近郊久我畷(こがなわて)に於いて反乱軍と激突し、大将名越高家は討ち取られ、足利高氏の軍は戦わずに京都へ引き揚げ、その日の内に丹波国篠村に着陣した。

そもそも足利高氏は、討幕について代々考えがあった上に、家臣の細川和氏(ほそかわ かずうじ)・上杉重能(うえすぎ しげよし)が前もって密かに、後醍醐天皇の『討幕の綸旨(とうばくのりんじ)』を得ていて、今回上洛途上、近江国鏡宿(滋賀県竜王町付近)にて、その綸旨を披露した。

そして、「すでに、討幕の勅命を賜った以上、時に天命が下ったところである。早々に挙兵すべきであると思い、再三諫める声もある中、すでに当所篠村八幡宮宝殿の前に『錦の御旗』が上げられている。」

”位の意味です。

 

 

とあり、そもそも清和源氏の流れを汲む正統派である足利氏には、陪臣の北条氏に横領されてしまっていた鎌倉幕府に対して、討幕して源氏政権奪還の考えがあったところに、後醍醐天皇の討幕の挙兵があり、これに加わったと言う足利高氏の裏切りは確信犯であったことが分かります。

 

この後、5月7日に京の六波羅探題が足利高氏によって攻め落とされ、、、

 

京都には六波羅を攻落して將軍御座の處に。勅命を蒙り給ひて。關東を誅伐せしむべきよしを。御教書を諸士に成下されけるほどに早々馳參ず。・・・(中略)・・・。

去程に將軍は君に賴れ奉り給ふよし關東へ聞えければ。皆色をうしなふ事斜ならざる處に。五月中旬に上野國より新田左衛門佐義貞。君の味方として當國世良田に討出て陣をはる。是も清和天皇の御后胤陸奥守義重。陸奥新判官義康の連枝也。潜に勅を承るに依て義貞一流の氏族皆打立けり。

・・・(中略)・・・。

義貞多勢を引率して武蔵國に攻入間。當國の軍勢も悉從付けるほどに。五月十四日。高時の弟左近大夫將監入道惠性を大將として武藏國に發向す。同日山口の庄の山野陣を取て。翌日十五日分配關戸河原にて終日戰けるに命を落し疵を蒙る者幾千万といふ數をしらず。・・・(中略)・・・。

鎌倉勢ことごとく引退く處。則大勢せめのぼる間。鎌倉中のさはぎ。只今敵の亂入たらんもかくやとぞおぼえし。・・・(中略)・・・。

五月十八日の未刻ばかりに義貞の勢は稻村崎を經て前濱の在家を焼拂ふ煙みえければ。鎌倉中のさはぎ手足を置所なく。あはてふためきける有様たとへていはんかたぞなき。・・・(中略)・・・。

相模守高時禪門。元弘三年五月廿ニ日葛西谷にをいて自害しける事悲しむべくも餘あり。

 

(引用:塙保己一編『群書類従・第二十輯 合戦部』所収「梅松論上」160~161頁 1981年 続群書類従完成会)

 

大意は、”

京都で六波羅探題を攻め落として、征夷大将軍の地位に就いた足利高氏は、後醍醐天皇の勅命を受けて討幕を行う旨の御教書(みぎょうしょ)を天下の武士に発給し、それを受けて武士たちは早々に足利高氏の下に馳せ参じた。・・・(中略)・・・。

このように、幕府軍の将軍足利高氏が後醍醐天皇側に付いたことが、鎌倉幕府・関東武士団に伝わり、関東勢の驚きは大変なものだった。5月中旬に、上野国(こうずけのくに)で、新田義貞(にった よしさだ)が後醍醐天皇の味方として、上野世良田(せらだ)で挙兵した。彼も清和源氏の一流(いっとう)源義重・義康の兄弟である。密かに後醍醐天皇の勅命を受け、義貞一流は皆挙兵した。

・・・(中略)・・・。

義貞は大軍を率いて武藏国へ攻め入り、武蔵の武士もすべて従ったので、5月14日には幕府軍が、得宗北条高時の弟である北条泰家(ほうじょう やすいえ)を大将として武蔵国へ出陣させた。同日山口庄に陣立てし、翌15日終日関戸河原(せきどがわらー多摩市)・分倍河原(ぶばいがわらー府中市)で戦うが、大敗北を帰した。

鎌倉勢はことごとく敗退し、敵勢に攻め上られた。鎌倉中は大騒ぎで、今にも乱入するのではないかと思われた。・・・。

5月18日の午後2時頃、新田義貞の軍勢が稲村ヶ埼を抜けて鎌倉の前浜の集落を焼き払う煙が見えると、鎌倉中に手を付けれないほどの混乱が起こり、その有様は例えて言う言葉が見つからないほどである。・・・。

得宗北条高時は、元弘3年(1333年)5月22日に、鎌倉葛西谷(かさいがやつ)において自刃したが、悲しい事この上ない。

”位の意味です。

 

このように、鎌倉幕府の得宗専制政治に大きな不満を抱えていた御家人たちは、天皇親政をすすめる後醍醐天皇の呼びかけに応えて討幕軍に参加します。鎌倉軍の大将軍足利高氏の離反の挙兵から、雪崩を打って官軍に御家人たちが馳せ参じ、最後は上野の御家人新田義貞の軍勢によって鎌倉幕府は滅亡させられました。

 

これによって、後醍醐天皇は政権を掌握し、かねての希望的構想である「延喜天暦のむかしに立ち帰る」を実践すべく、朝廷主導の政権運営を始めようとします。

 

しかしこの時、後醍醐天皇の討幕綸旨に応えた鎌倉幕府の御家人を構成していた武士団は、実は天皇親政を目的とする後醍醐天皇の構想に同調していたわけではなく、北条得宗家が牛耳る幕府体制を変えようとして結束したと考えられます。

 

この思惑のすれ違いが、討幕に成功して朝廷主導の政権作りに夢中になっている後醍醐天皇の『建武の新政』の失敗を呼び、再度武家政権である室町幕府の創設を呼び起こして行く事となります。

 

スポンサーリンク

まとめ

最初の武家政権となった『鎌倉幕府』が文治元年(1185年)源頼朝によって創設されてからおよそ150年、再び朝廷主導の政治に戻そうとした第96代後醍醐天皇の呼びかけに応えた武士たちによって、元弘3年(1333年)に討幕されました。

 

この『鎌倉幕府の滅亡』に関して、歴史上、前後で派手なパフォーマンスを見せる『後醍醐天皇』の動きに惑わされ、歴史の研究者を除いて一般人の私などは、すぐに始まる『南北朝』関係の騒ぎの方に気を取られて、『鎌倉幕府の滅亡』に関してはどこかに吹き飛んでしまっています。

 

『鎌倉幕府滅亡』の関係者に関しても、鎌倉幕府側に注目されるような著名な人物があまり存在しなかったこともあり、討幕した側の人物、後醍醐天皇・楠木正成・足利高氏・新田義貞の方が印象に残っています。

 

今回、改めてこの目立たない『鎌倉幕府の滅亡理由』に関して、前章にあるようないくつかの理由を調べてみました。

 

まとめてみますと、、、

 

きっかけを作った後醍醐天皇は、歴史家本郷和人氏の指摘するように、「極めてずさんな人物」だったようで、2回も討幕に失敗しました。しかし、めげずにその時を待ったところがこの転機を生んだとも言えそうです。この人物の執念深さは室町幕府15代将軍の足利義昭に似たところを感じます。

 

足利義昭が日の出の勢いの織田信長と対立して失敗したのに対して、後醍醐天皇の相手が御家人たちの信頼を失いつつあった北条得宗家だったことが幸運を生んだのでしょうか。

 

得宗北条高時は、大兵力を持たせて畿内へ出陣させた大将軍足利高氏に叛乱を起され、その高氏が天皇綸旨を利用して、北条得宗専制に不満を持つ源氏ゆかりの御家人たちの挙兵を煽り、関東でも清和源氏ゆかりの新田義貞の挙兵を起させ、後醍醐天皇討伐に畿内へ大兵力を出陣させていた為、関東での兵力が手薄になっていた鎌倉府を急襲させて、まるで文治元年(1185年)3月に殲滅した平家のように、短期間であっけなく滅亡させてしまいます。

 

高氏は、この2年前の後醍醐天皇の叛乱鎮圧にも出陣し笠置山を攻めているので、この時の鎌倉幕府得宗家の対応・後醍醐天皇と朝廷の様子から天下の政情に精通したものと考えられ、武家社会・武家政権の立て直しの大ナタを振るうきっかけとして後醍醐天皇の行動に乗ったと思われます。

 

武家の正統性を考えるにあたり、清和源氏一流が排除されているこの武家政権に関して、御家人たちの心が北条得宗家から離れ始めている時代の流れを感じたのでしょう。

 

この時代は、貴族社会が平安以前のように自前の兵力を保有していないので、討幕のような武力闘争を行う場合には、天皇は権門のひとつである寺社兵力の協力を仰ぐか、武家の兵力を取り込むか、悪党たちを手なずけるかが必要となります。

 

後醍醐帝と楠木正成の結びつきを見ると、後醍醐帝の討幕構想の基本には畿内に跋扈(ばっこ)する悪党の勢力が、心の拠り所であったようです。無論、武士のはぐれ者を中心とした悪党集団の兵力だけでは、後醍醐帝の叛乱の成功は覚つかなかった事でしょう。

 

もし足利高氏がその気を起さなかったら、今度こそ後醍醐帝の命はなかったかもしれません。『建武の新政』に走った後醍醐帝のその後をみると、やはり事前に足利高氏と計画を練ったとは思われません。

 

鎌倉幕府滅亡の後、武士をおだて重用するような狡猾さもみせないところが、後醍醐帝の純粋さかもしれませんが、ここに後醍醐天皇のずさんさも見える訳です。

 

おそらく武士が時代の主役になっていることを理解していないし、したくもないのでしょう。

 

『鎌倉幕府滅亡の理由』をまとめると、、、

  1. 後醍醐天皇の朝廷主導の政権を取り戻そうとする意志
  2. 鎌倉幕府の統制力の衰退
  3. 足利高氏ら清和源氏一流の武家政権正当性の回復意向の高まり

位でしょうか。要するに鎌倉幕府の制度疲労が原因とも言えるかもしれません。

 

 

参考文献

〇近藤成一『鎌倉幕府と朝廷』(2016年 岩波新書)

〇笹山晴生ほか15名『詳説日本史B 改訂版』(2018年 山川出版社)

〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第一巻』(1979年 吉川弘文館)

〇本郷和人『北条氏の時代』(2021年 文春新書)

〇塙保己一編『群書類従・第二十六輯』(1960年 續群書類從完成會)

〇呉座勇一『陰謀の中世史』(2018年 角川新書)

〇塙保己一編『群書類従・第二十輯』(1981年 続群書類従完成会)

〇村田正志『南北朝史論』(1979年 中央公論社)

〇大森金五郎/高橋昇造『増補 最新日本歴史年表』(1934年 三省堂)

 

スポンサーリンク



コメントを残す

CAPTCHA


Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.