鎌倉幕府成立の年は、1192年?1185年?どちらも違う?

・『鎌倉幕府成立の年』には諸説あります ・昔は1192年でした ・近年は1185年が有力でした ・1121年の『承久の乱』の年も有力です 鎌倉幕府成立の年』には諸説?あり 私などが受けた昭和の歴史教育では、「いい国作ろう鎌倉幕府」と言う覚え方、つまり『いいくに=1192のゴロ合わせ』で、鎌倉幕府の成立は1192年と覚えていました。 この年は後述し

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源頼朝のつぎに鎌倉殿となった源頼家を支えた13人とは誰なの?

・鎌倉幕府の本質が分かります。 ・2代目鎌倉殿を支えた13名が誰なのか分かります。 ・梶原景時滅亡の理由が分かります。 ・比企能員滅亡の理由がよく分かります。 鎌倉幕府とはどんなもの? 『国史大辞典』によれば、、、 鎌倉幕府 十二世記末、相模国鎌倉を本拠として成立した武家政権。・・・(中略)・・・。 国家公権との接触、朝廷による承認が、幕府の

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源頼朝と義経の関係悪化は、最初から必然だった!ホント?

・『頼朝と義経の仲違い』の仕掛人は後白河法皇です。 ・どうして義経は頼朝の命令を聞かなかったのか分かります。 ・梶原景時の『密告』は本当なの? ・義経と奥州藤原氏の関係はどうなの? 頼朝と義経の仲違いの仕掛人は、後白河法皇なの? 通説では、『頼朝と義経の仲違い』のきっかけとして、『義経が頼朝からの内挙も得ずに後白河法皇から検非違使(けびいし)を拝任したことから

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流人だった源頼朝がなぜ挙兵出来たの?その理由は何?

・流人だった源頼朝が挙兵出来た理由が分かります。 ・『石橋山の戦い』で大敗後、源頼朝は、ほんの1か月ほどで大軍を集めた。どうやって? ・『富士川の戦い』で、源頼朝は、なぜ平家の追撃戦を行わなかったのか? ・北条氏は平氏だったはホントか? 流人の源頼朝が、なぜ挙兵に成功出来たの? 周知のように源頼朝は、保元元年(1156年)の『保元の乱』で勢力を伸ばし、平治元年(1

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徳川家康は豊臣秀吉の『唐入り』撤収成功で評価された!ホント?

・豊臣秀吉の引き起こした『唐入り』の撤収での、德川家康の功績が分かります。 ・豊臣秀吉は「遺言」によって、德川家康を政権の後継者に指名していたことがはっきりします。 ・明国との和睦協議に関し、小西行長主導の「和談」は成立していなかったことが分かります。 ・「朝鮮退口」でのごたごたが、その後の政局に影響し、結局『関ケ原の戦い』に繋がって行きます。 徳川家康は秀吉の死後

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奥羽で戦い、德川家康に『関ケ原の戦い』を勝たせた最上義光!

・『家康に天下を獲らせた男』最上義光の素性が分かります。 ・なぜ最上義光が『家康に天下を獲らせた男』と言われるのか分かります。 ・なぜ最上義光が『関ケ原の戦い』で、家康方に付いたのか分かります。 ・なぜ最上義光が嫡男義康を殺害せねばならなかったのか分かります。 最上義光とは何者なの? 最上義光(もがみ よしあき)は、天文15年(1546年)正月元日に生れ、慶長19

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細川幽齋は『関ケ原の戦』で、徳川家康勝利に貢献した!ホント?

・徳川家康が勝利した『関ケ原の戦い』で、最初に石田三成が細川幽齋を狙い撃ちした理由が判明します。 ・西軍に攻められた丹後田邊城で52日間籠城した細川幽齋は、後陽成天皇の勅命で救われた!ホント? ・豊臣秀吉恩顧の大名である細川幽齋は、なぜ徳川家康に乗り換えたの? ・徳川家康と細川幽齋がいつ懇意になったの? なぜ細川幽齋は、石田三成の西軍から攻められることになったの

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徳川家康勝利の『関ケ原の戦い』、黒田如水も参加した!ホント?

・豊臣秀吉の軍師だった黒田如水が『関ケ原の戦い』の時、何をしていたかが分かります。 ・豊臣秀吉は、黒田如水は恐ろしい男だと思っていました。 ・黒田如水にも『天下取り』のチャンスはありました。 ・黒田如水には、豊臣秀吉の死後に徳川家康と石田三成が衝突することは分かっていた!ホント? 『関ケ原の戦い』の時、あの黒田如水(官兵衛)は何をしていたか? 慶長5年(1600年

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石田三成は、巨人徳川家康になぜ『関ケ原の戦い』を挑んだの?

・石田三成が、なぜ『関ケ原の戦い』で徳川家康に挑んだのか分かります。 ・石田三成にも、「豊臣秀吉の遺命違反」があった事が分かります。 ・淀君は『関ケ原の戦い』に関係なかった!ホント? ・『関ケ原の戦い』の敗戦後、石田三成はどうなったの? 石田三成は徳川家康を相手に挙兵し、なぜ勝利する可能性が低い戦いを挑んだの? 「奉行」と言うのは、何か特定の役割の幹事役を務め

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徳川家康が勝った『関ケ原の戦い』、毛利輝元は何をしていたの?

・通説とは違い、毛利輝元は積極的に西軍大将となったことがわかります。 ・毛利輝元が三成等奉行衆に近づいた理由がわかります。 ・通説とは違い、毛利輝元は家康との対立を利用して、領地拡大を目指した事がわかります。 ・吉川広家が、東軍黒田長政の調略に応じていた事は、近衛前久の書状で明らかのようです。 西国の太守毛利輝元は、毛利家の外交僧安国寺恵瓊にだまされて石田三成と組ん

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