執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
関ケ原の戦いを改めて考えよう!徳川家康と石田三成の思惑は?
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戦国の世を終わらせる歴史の分岐点で天下分け目
の戦いとして有名な”関ケ原の戦い”の意味を
もう一度検討してみましょう。
目次
家康はいつ頃から天下を狙い始めた?
戦国武将でそれなりの人は皆、天下人を夢
みていたことはまちがいないでしょう。
結論から云いますと、、、
私はこの室町時代後半から始まった100年
以上にも及ぶ内乱の時代は織田信長によって
一応収束していたとみています。
想定外の”本能寺の変”以降の話はその
跡目争いと位置づけます。
その結果、最終勝者が徳川家康になった
と云う事です。
それでは、テーマに沿った話に戻ります。
後知恵で遡って行きますと、秀吉は政権
の後事の補佐を5大老5奉行の合議制に
していました。
その為、秀吉の後事は大老筆頭の徳川家康
と前田利家に託されました。
ほどなく、前田利家が没して家康が秀頼
が長じるまでの執権役となりました。
これは、秀吉自身の例を引くまでもなく、
後事を託されたものがその政権をひき継ぐ
ことが暗黙の了解と見るのが政治です。
ですから、家康がいつから天下を狙い
始めたかと云えば、、、
家康は、織田家の跡目争いの目処の
ついた秀吉が出して来た臣従要求に
対抗して始めた「小牧長久手の戦」
で善戦して、
”羽柴軍の戦略的勝利”Vs”徳川軍
の戦術的勝利”と世間に認めさせ、
実力拮抗と悟らせてから
和睦しました。
この結果豊臣政権の実力No.2格と
なりましたので、おそらくこの時
には家康は天下人への夢を描き
始めたにちがいありません。
秀吉が臣従させた後の家康に対して、三成はどんな思いだった?
秀吉が長年のライバル家康と衝突を
したのが、天正12年(1584年)の
「小牧長久手の戦い」です。
この時、三成は24歳で秀吉とともに
出陣しています。
戦いは家康の強さが目立つものでしたが、
家康側の大将織田信雄が秀吉と単独講和
したため、家康は陣を引き浜松へ戻って
しまい、戦いのケリはつかず
仕舞いでした。
2年後の天正14年に織田信雄の斡旋で
秀吉の実妹旭姫が家康へ輿入れする
形で講和となりましたが、家康は
上洛せず、更に秀吉は実母のなか
を人質に出すことを条件に上洛
(臣従)を求め、妥協の頃合いを
図っていた家康は上洛して臣従を
諸侯の前で宣言することとなり、
やっと家康との本当の講和が
なりました。
三成は、大阪へやって来た家康と秀吉
の内密の会見にも立ち会っていると
考えられますが、その折に知っていた
家康の経歴を思い浮かべながら、この
冷徹な政治家の凄みを、家康を
かき口説く秀吉とともに
見つめたことでしょう。
さらに4年後の天正18年(1590年)の小田原攻めの
折にも娘婿を顔色も変えずに攻め立てる家康を
見て、以後の豊臣政権にとって最大の危険人物
はこの徳川家康であることを再認識したの
ではないでしょうか。
頭脳明晰な三成はこの一連の動きの中で家康
のしたたかな構想を見抜き、常に関心を
払って見ていたと思われます。
家康と三成の激突はなぜ起こったの?
北条の討伐が完了し、天下統一の仕上げを
行った秀吉は、信長の次の野望である大陸
進出に手を染め始めます。
もともと天下人秀吉の側用人的に権勢を発揮
して、世の羨望と嫉妬を一身に受けていた
三成にとって、秀吉の老境に入ってからの
失政の恨みが諸侯から集中すること
ともなりました。
秀吉没(1598年)後、その朝鮮出兵は即撤兵
となりますが、諸侯の三成に対する目は
厳しいままでした。
この機を捉えて、家康の蠢動が始まります。
家康は三成と対立する豊臣恩顧の大名との
婚姻活動を進め始めます。
この露骨な多数派工作に、家康以外の利家ら
四大老と三成ら五奉行は家康に
詰問使を送ります。
しかし、家康はどこ吹く風と一向に改める
ことなく詰問使など追い返す有様です。
そして、、、
秀吉死去から8か月後に政権内の抑え役となって
いた大老前田利家が慶長4年(1599年)3月3日
に死去し、抑えがなくなった事を受けて武功派
七将ははじけて三成を襲撃します。
伏見城に逃げ込んだ三成と取り囲む七将との
間に大老徳川家康が調停に入り、その結果、
三成は佐和山城で隠居させられます。
これで、三成を公式の権力から切り離すこと
に成功、尚且つ、うるさい前田利家もいなく
なって、家康はまた一歩事を進めることに
なります。
豊臣政権内部の対立を利用して着々徳川政権
樹立へ向かって動いて行きます。
ここにひとりの三成の協力者が存在しています。
大大名毛利家の敏腕外交僧”安国寺恵瓊”です。
彼は毛利家の勢力拡大の為に、西日本の権力
を毛利家で掌握することを意図して、徳川
と対立する石田三成との連携を深めて
行きます。
この人物が家康の上杉征伐の間隙を衝いて
家康追い落とす謀略を企画し三成を
唆した張本人ではないかと思います。
豊臣政権内の政治の動かし方を熟知し、豊臣
政権をこのまま維持することに腐心している
三成と毛利家当主を動かせる恵瓊の連合が
裏で成立し、ここから運命の戦いへと
向かって行きます。
余談で・・・中味は大きく違いますが、
この家康の仕掛けた巧妙な”ワナ”とこの
340年後くらいに日本がハマった”ワナ”
が似ているような気がします。
”真珠湾”と”関ケ原”、、、
どちらも仕掛けられた”ワナ”に嵌って
その結果が同じですね。
おそらく仕掛けた側の目的がある意味一致
しているんでしょう。
秀吉子飼いの将がなぜ外様大名の家康(東軍)に味方をするの?
1)これは、まず諸将の頭の中は”豊臣対徳川”の対立
ではなくて、あくまでも豊臣政権内部での抗争で
あるとの認識であったこと。
2)秀吉の側用人役石田三成の専横に対する闘争で
あり、偶々東日本の太守格である徳川家康
対西日本太守格の毛利輝元の対立構図に
なっていること。
以上2点から、”反三成”対”親三成”の対立
との形になって、三成が秀頼担ぎ出しに失敗
したこともあってよりこの対立構図で理解
され易くなったと思われます。
そんなことが原因で”豊臣対徳川”の事は念頭になく、
外様であっても力のある大老家康に付き従った
と云う事でしょう。
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関ケ原の戦いの勝敗の分かれ目は何だったの?
数々の歴史の書き物が教えるところによりますと、
戦いの経過は・・・
濃い朝霧が晴れ始めた午前8時頃に東軍の最前線
に詰めていた福島隊から鉄砲の打掛があり、
西軍宇喜田隊との間で関ケ原の本戦が
始まったようです。
午前11時くらいまでは西軍が押していて、お昼前
までには、東軍が前面兵力の数が勝り押し始めた
ようです。
その理由は、天満山に布陣した西軍島津隊、松尾山
に布陣した小早川隊が全く動かず戦いを
様子見していたことです。
つまり西軍は総勢8万の内3万3千しか戦いに参戦せず
あとは傍観している状態でした。
そして、、、
お昼過ぎに西軍小早川隊1万5千の軍勢が家康に寝返り
西軍の主力大谷隊の側面に襲い掛かります。
ここが戦いの分水嶺だったようで、その後はドミノ
倒しのように西軍の主力が潰れて行き、大勢は
決しました。
明治時代になって、軍事顧問で来日したドイツの
メッケル少佐はこの関ケ原の布陣図をひと目見て
即座に西軍の勝ちと言ったそうです。
三成は理論的には、真田の活躍で徳川秀忠隊3万5千
の遅参を勝ち得ており、絶対勝利のはずでした。
しかし結果から見ると、三成よりも家康の政治力が
勝っており、それが戦いの帰趨を決めたのではない
かと思います。
三成はその差に気づく余裕がなかったのでしょうか。
と云う事で、関ケ原の勝敗の分かれ目はきっかけは
小早川秀秋の”寝がえり”と云う事になります。
そして、東軍は全軍家康のもと一丸となっていたのに
対して西軍は、実質大将の石田三成のもとで全く
一枚岩になってなかったことが、大きな敗因
と云えるのではないでしょうか。
関ケ原の戦いは日本の歴史上どんな意味があったの?
歴史の通説によれば、、、
これにて徳川家康が政権を握り、関ケ原の戦い
から3年後の慶長8年(1603年)2月12日に
征夷大将軍となった。
とあり、これにて徳川幕府を開くことが出来て、
徳川政権がスタートするきっかけとなったと
云う事になります。
そのこと自身はそのとおりであり、
この後に250年もの長きに亘って
政権を維持して行くこと
になるのです。
しかし、疑問が残ります。
”関ケ原の戦い”から”大坂の陣”まで
既に15年近く経過しています。
この後に及んで敢えて方広寺鐘銘事件まで
起こして豊臣滅亡を図ったのはなぜかと
以前から不思議に思っていました。
一般的に云えば、秀吉との約束どおり、
成人した秀頼に政権を返せと豊臣家が
迫るので口を封じたということに
なるのでしょう。
やはり、豊臣恩顧の大名たちの力と
影響力が衰えるのを待っていた
のでしょうね。
恐るべし家康の忍耐力です。
家康がこの戦いで戦国時代の力
を持った諸大名をほぼ鎮圧して、
その後の徳川体制を築きあげ
日本を統一して、戦国の世を完全に
終わらせた意義は計り知れないもの
があったと評価すべきでしょう。
まとまりがなく、内乱ばかり続けて
いたら日本の近代化はなかったか、
18世紀以降列強の餌食になって
いた可能性が高いのです。
まとまっていたからこそ、「国家」
と云う概念が幕末の日本人に入り
やすかったのですから、現代人が
思うよりは徳川体制の、ひいては
関ケ原の意義は大きかったのかも
しれません。
関ケ原って、どこにあるの?
所在地は岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原
になります。
場所的には、関ケ原古戦場地図などにあるように
中山道と北国街道・伊勢街道が交わる分岐点
を戦場の中心として、関ケ原の戦いは行われ
ました。
現在のJR東海道本線関ケ原駅付近の一帯2㎞四方
くらいが決戦の舞台です。
関ケ原古戦場へ行ってみよう!
〇電車で行く
東京 ⇒新幹線(1:40~2:00)⇒名古屋⇒JR東海道本線(0:45)⇒関ケ原(2:50位11850円)
新大阪⇒新幹線(米原0:40)⇒米原⇒JR東海道本線(0:20)⇒関ケ原(0:56位5270円)
新大阪⇒JR東海道本線(2:03位2270円)
〇車で行く
東京から:
東京IC⇒東名・名神約5:00位⇒関ケ原IC
大阪から:
吹田IC⇒名神約1:40位⇒関ケ原IC
名古屋から:
名古屋IC⇒名神約0:50位⇒関ケ原IC
〇泊まる
因みに宿泊が必要な方はこちらから
⇒楽天トラベルでみる
〇観光案内
⇒関ケ原観光Webを見る
まとめ
日本史の勉強を学校で習う時に、この慶長5年
(1600年)9月15日に行われた「関ケ原の戦い」
は天下分け目の戦いとして記憶させられます。
今の受験勉強において、この名称・年号・意義
は繰り返し出て来ます。
それは単に徳川家康が徳川幕府を開いた
きっかけと云う事だけで記憶しがちです。
しかし、もう少し考えてみましょう。
戦国時代最末期のこの大会戦の一歩踏み込んだ
意義に関して云えば、日本の近代化の土壌たる
「統一」を完全に成し遂げる礎になった
エポックメーキングな会戦であったと
云う事です。
権力闘争は外部と内部の勢力との問題が
ありますが、家康はこの会戦で内外の
敵対勢力の一掃がほぼ出来たことで
完全に徳川政権の道筋が
見えたのです。