”本能寺の変”の後の混乱を収めて、天下取りへ動き始めた 秀吉に立ちはだかる大きな壁は徳川家康でした。 その家康との直接決戦である『小牧長久手の戦い』に負けて しまった秀吉が、その後なぜ”天下取り”となることが 出来たのかをトコトン解説いたします。 この『小牧長久手の戦』ってどんな戦いだったの? 天正12年(1584年)3月から始まった、秀吉対反秀吉勢力 の対決ですが、要す
続きを読む五大老五奉行の覚え方はこれで決まり!
歴史授業に出て来る豊臣政権末期制定の 『五大老五奉行』の覚え方と意義を 手短にご説明いたします。 付録で『五大老』と『五奉行』の違い説明も 加えてみました。 『五大老五奉行』メンバーの覚え方(語呂合わせ)とは? 五大老ゴロ合わせ 1597年制定 前田利家(まえだ としいえ) 徳川家康(とくがわ いえやす) 宇喜多秀家(うきた ひでいえ) 毛利輝元(もうり てる
続きを読む豊臣秀吉の五大老五奉行制とは何か?豊臣家の行く末は?
豊臣秀吉は後継者の秀頼が成人するまでの間、有力大名の謀反を 抑えるようにパワーバランスを取った政治制度を考えた のですが、果たしてその効果はどうだったのか 徹底的に検証します。 どうして秀吉は五大老五奉行の制度を作ったの? これは秀吉が、豊臣政権末期自分の死を予感する 事態になった時に、豊臣家の後継の秀頼が成人 するまで、有力大名と信頼のおける家臣で 豊臣家を維持させようと
続きを読む『本能寺の変』真犯人はだれ?明智光秀は冤罪(えんざい)か!
明智光秀はなぜ覇王織田信長を暗殺したのか? このナゾをすべて解き明かしていきます。 後の権力者によって作られた歴史のベールが 剥ぎ取られ、刷り込まれた思い込みが消えた時、 あなたの目の前に真実が姿を現します。 まずは『本能寺の変』を知ろう! 通説では、、、 天正10年(1582年)5月15日に徳川家康が わずかな伴回りだけ連れて、信長の招き に応じて信
続きを読む関ケ原古戦場ってどこ? 行ってみよう!
戦国時代末期の天下分け目の大会戦”関ケ原の戦い” の古戦場の場所をお教えします。 是非、お出かけになってご自分の目で確かめてください。 関ケ原って、どこにあるの? 所在地は岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原 になります。 場所的には、関ケ原古戦場地図などにあるように 中山道と北国街道・伊勢街道が交わる分岐点 を戦場の中心として、関ケ原の戦いは行われ ました。
続きを読む関ケ原の戦いを改めて考えよう!徳川家康と石田三成の思惑は?
戦国の世を終わらせる歴史の分岐点で天下分け目 の戦いとして有名な”関ケ原の戦い”の意味を もう一度検討してみましょう。 家康はいつ頃から天下を狙い始めた? 戦国武将でそれなりの人は皆、天下人を夢 みていたことはまちがいないでしょう。 結論から云いますと、、、 私はこの室町時代後半から始まった100年 以上にも及ぶ内乱の時代は織田信長によって 一応収束していたとみて
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