執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
鎌倉時代の覚え方(ゴロ合わせ)<2>
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・頼朝の死去の様子が分かります
・北条氏が政権を簒奪する様子が分かります
・実朝暗殺と朝廷との駆け引きが分かります
・北条義時の政権掌握と承久の乱の様子が分かります
目次
1199年(建久10年)正月13日 頼朝死去
ゴロ合わせ
いちいちひゃくまえ、正月いさんで 頼朝死す
200字まとめ
室町時代初期に成立した史書『保暦間記』によれば、源頼朝は1199年(承久10年)正月13日に死去したとある。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には、頼朝死去に関わる時期3年間の記述が欠如しているが、13年後の1212年(建暦2年)2月28日の条に、承久10年の頼朝の死因が武家の棟梁にあるまじき落馬であったことを伝えている。古くから北条家等による暗殺説が出ているが、糖尿病の悪化説もあり、事実は闇の中である。
(画像引用:鎌倉大仏ACphoto)
1203年(建仁3年)9月7日 源実朝征夷大将軍任官・北条時政執権となる
ゴロ合わせ
いちにれいさん、くなんの旅立ち、源実朝(みなもとさねとも)将軍任官
200字まとめ
源頼朝の死後、後を継いだ頼家は頼朝の引いた路線である源家主導の政権運営を始めるが、東国武士団は只の御家人となって配下としてこき使われることを良しとせず、頼朝と違って御家人への配慮の足らない頼家を疎ましく思っていた。そこへ入った源頼家危篤の報に北条時政は、すぐさま『京へ頼家死去、実朝の将軍任官を上奏した』。その後頼家は意識を取り戻したものの、東国武士団の方針は決まっており、下田へ幽閉され暗殺された。
1205年(元久2年)閏7月20日 牧氏の乱により北条時政失脚・北条義時執権就任
ゴロ合わせ
いちにれいご、うるうななのはつか、北条義時(ほうじょうよしとき)執権就任(しっけんしゅうにん)
200字まとめ
実朝をお飾り将軍として、自らは執権となって鎌倉幕府政権を壟断し始めた北条時政であったが、若い後妻の牧氏の話に乗り将軍実朝を暗殺して、牧氏の娘聟の京都守護である平賀朝雅を鎌倉殿にしようとした。その動きを察知した北条政子は、実弟義時にクーデターを起させ、実父北条時政を追放し平賀朝雅を討ち果たして『牧氏の変』を鎮圧、した。その後、義時は和田一族を滅亡させて幕府の実権を握り、事実上、2代目の執権となった。
1219年(建保7年)1月27日 源実朝暗殺
ゴロ合わせ
いちにいく、正月にいなな、実朝暗殺
200字まとめ
北条義時は、源氏としての子供の居ない実朝に、後継として親王将軍を京より迎える為、実朝を1218年正月に権大納言に、3月に右近衛大将に任官させた。幕政を勝手に取り仕切る北条義時に反発する実朝は、京都の後鳥羽上皇との繋がりを強め、親王将軍の後見職として実権を振るう考えの実朝に対して、将軍継承資格のある前将軍頼家の遺児で八幡宮別当の公暁が、誰にそそのかされたか実朝暗殺を実行し、鎌倉幕府は大混乱に陥った。
1221年(承久3年)5月14日 承久の乱
ゴロ合わせ
いちににいち、ごのいちよん、 承久の乱(じょうきゅうのらん)
200字まとめ
1219年の実朝暗殺以後、実朝を操って政治の実権を取り戻そうとしていた後鳥羽上皇の思惑は大きく外れ、実権は北条義時が握る事となった。上皇は従来からの北面の武士に加えて、西面の武士まで作り兵力を増強していた。この武力と上皇の権威をもって1221年(承久3年)上皇軍が京都所司代の屋敷を襲い『承久の乱』が勃発したが、上皇の思惑に反して幕府軍は大軍を以て上洛し、上皇の反乱軍は鎮圧され、乱は失敗に終わった。
まとめ
鎌倉幕府を開いた源頼朝の死から、北条義時が武家政権を確立するまでの重要と思われる出来事以下5件あげて、これを簡単にまとめてみました。
- 1199年(建久10年)正月13日 頼朝死去
- 1203年(建仁3年)9月7日 源実朝征夷大将軍任官・北条時政執権となる
- 1205年(元久2年)閏7月20日 牧氏の乱により北条時政失脚・北条義時執権就任
- 1219年(建保7年)1月27日 源実朝暗殺
- 1221年(承久3年)5月14日 承久の乱
それぞれに『覚え方ゴロ合わせ』と『200字まとめ』をつけました。
参考文献
〇呉座勇一『頼朝と義時』(2021年 講談社)
〇廣谷雄太郎編『吾妻鏡 第二巻』(1929年 廣谷國書刊行會)
〇塙保己一編『群書類従 第二十六輯 雑部』(1960年 續群書類従完成會)
〇石井進『日本の歴史7 鎌倉幕府』(2021年 中央公論新社)