執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
徳川家康はどんな『合戦』をして、どうやって天下を取ったのか?
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『関ケ原の戦』は、徳川家康が仕掛けたものなのかどうか?をはっきりさせます。
『長篠の戦』は、不利な状況下でなぜ武田勝頼は織田・徳川連合軍に挑んだのか?を明らかにします。
『小牧・長久手の戦』は本当に引き分けだったのか?を検討してみます。
目次
徳川家康の戦った主な合戦とは?
家康は生涯50余回の合戦を戦っていますが、その内主なものを挙げてみました。
年代 | 戦の名称 | 結果 |
1558~1561年 | 石ケ瀬の戦 | 和睦 |
1560年 | 桶狭間の戦 | 織田勝利(家康今川方に参戦) |
1570年 | 金ヶ崎退き口 | 織田撤退 |
1570年 | 姉川の戦 | 織田・徳川勝利 |
1573年 | 三方ケ原の戦 | 武田勝利 |
1574年 | 高天神城の戦 | 武田勝利 |
1575年 | 長篠の戦 | 織田・徳川勝利 |
1580年 | 高天神城の戦 | 徳川勝利 |
1582年 | 黒駒の合戦 | 徳川勝利 |
1584年 | 小牧長久手の戦 | 徳川勝利 |
1590年 | 小田原の戦 | 豊臣勝利(徳川参戦) |
1592~1593年 | 文禄の役 | 休戦 |
1597~1598年 | 慶長の役 | 撤退 |
1600年 | 関ケ原の戦 | 徳川勝利 |
1614年 | 大坂冬の陣 | 和睦 |
1615年 | 大坂夏の陣 | 徳川勝利 |
家康が、取りあえずの三河統一を終えて天下取りに動き始めてからの主な戦いは5つあります。家康の五大合戦は?
これが運命なのか、家康が選んだパートナー織田信長が歴史的奇才・天才で、なんと『天下人』への道を突っ走り始めたため、家康のポジションも引きずられて大躍進をして行きます。
それは、”生れた時代と場所に恵まれた幸運”だったとも言え、家康自身の”時代を見通す目”の確かさが運んで来た強運・実力だったとも言える訳です。
そうした中で、遭遇した”5つの戦い”を見て行きましょう。
(画像引用:ACphoto徳川家康像)
姉川(あねがわ)の戦
元亀元年(1567年)4月、将軍足利義昭(あしかが よしあき)の上洛要請を無視する越前の朝倉義景(あさくら よしかげ)に対して、攻撃を掛けるべく信長軍は琵琶湖北岸の北国街道(ほっこくかいどう)を北へ進発しました。
越前敦賀金ヶ崎(つるがかねがさき)城を落し、木の芽峠へ向かう信長軍に対して、なんと近江小谷城の義弟浅井長政(あざい ながまさ)が裏切って背後を突き、信長は絶体絶命の窮地に陥りました。
羽柴秀吉が殿軍(しんがり)を務めて、家康軍がサポートし、その努力の甲斐があって織田軍の撤退は無事完了します(金ヶ崎の退き口)。
信頼していた義弟浅井長政の裏切りに怒り狂った信長は、早くもその1ヶ月後の6月に、再び征討軍を起こし6月28日に浅井の小谷城(おだにじょう)付近の姉川(あねがわ)で、朝倉・浅井の連合軍と激突することとなりました。
家康が初めて経験する大会戦でしたが、3000騎を引き連れて参戦し、激戦の末、幸運にも織田・徳川連合軍が勝利することが出来ました。
これにより、同盟者として織田軍の有力な与力大名であることが信長を始め織田家中に鳴り響き、以後の躍進の足掛かりともなった価値ある出兵となりました。
三方ケ原(みかたがはら)の戦
元亀2年(1571年)に北条家の当主北条氏康(ほうじょう うじやす)が亡くなり、すべては此処から始まりました。
いままで、北条に牽制されて背後の対応に追われ、京都を目指して上洛出来ずにいた”武田信玄(たけだ しんげん)”にチャンスが生まれます。
北条氏康の後継者氏政(うじまさ)は親武田派でした。
背後の脅威がなくなった武田信玄はいよいよ元亀3年(1572年)10月に動き始めます。
当時の武田信玄は122万石の大大名で、3万の兵力を動かせる実力者でした。
信玄は、美濃方面に別動隊5000を、長篠方面に5000を派遣し、本隊は北条氏政からの援軍2000を加えた、2万2千の兵力で総員3万2千の兵力にて上洛戦に出発し、10月13日には、もう浜松の当方20㎞まで近づいていました。
迎え撃つ家康は、織田の援軍3000を含めて、1万1千の兵力でした。
ところが、武田軍は二俣城を12月19日に攻め落とすと、22日には全軍浜松城へは向かわずに右へ方向転換して西進を始めました。
この信玄の浜松城(徳川家康)無視の態度を見て、重臣の進言する”籠城”を潔しとしない家康は、西進する武田軍を追いかけて決戦場の『三方ケ原』へ誘い込まれ、まんまと”信玄のワナ”にはまります。
”三方ケ原”に入ると方向転換して、”魚鱗の構え”で待ち構える武田軍に対し、家康軍はまとまりのないまま”鶴翼の陣”で攻め込みます。
攻撃隊形である『魚鱗』で待ち受けるところへ、防御陣形である『鶴翼』で攻め込むと言うちぐはぐな攻撃の上、倍ほどの圧倒的な兵力差もあり、徳川・織田連合軍は奮闘空しく、あっと云う間(開戦後1時間ほど)に壊滅させられます。
部下に助けられ命からがら『浜松城』へ生還した家康は、自分自身の情けない負け姿を絵師に描かせ(『しかみ像』と云います)て、生涯”自分の慢心の戒め”として持っていたと言います。
相手の10倍もの損害(死傷者2000名)を被った家康軍の大敗北でしたが、武田軍も認める家康軍(三河武士)の奮闘ぶりは世に知れ渡ることになりました。
長篠(ながしの)の戦
天正3年(1575年)4月、武田勝頼は15000の兵を率いて三河へ侵入し、5月1日には長篠城を包囲しました。
その時、長篠城は三河の国衆奥平貞昌(おくだいら さだまさ)が守兵500で守っていましたが、守兵は良く持ちこたえ、とうとう5月18日に救援の織田軍3万と徳川軍8千が、長篠城近くの設楽ケ原へ到着しました。
織田・徳川連合軍接近の情報に、武田軍の軍議は『撤退』の意見が多数を占めましたが、勝頼は『三方ケ原の戦』の時の家康と同じように意気軒高で、決戦を挑むこととなり居並ぶ武田の老将たちは『討死を覚悟』したと云います。
20日の夜半に、長篠城包囲戦の要である武田方”鳶の巣山砦(とびのすやまとりで)”に対して徳川軍別動隊酒井忠次(さかい ただつぐ)隊が夜襲を掛け、その攻防戦がつづく中、21日早朝から武田の騎馬軍団本隊が設楽ケ原に着陣した織田・徳川連合軍へ攻撃を始めました。
織田・徳川連合軍の、馬防柵と足軽隊鉄砲隊の前に、武田軍は名だたる武将が軒並み討死するなど1万名に及ぶ損害を出して壊滅し、歴史的敗北を喫した勝頼は数人の旗本に守られて落ち延びました。
この敗戦により武田は、大事な人材の損耗も然ることながら、武田家の権威(勝頼への信頼性)が大きく損なわれ、信玄の死去と合わせて武田家の衰退が決定づけられ、一方、家康は三河から武田の脅威を排除することが出来、信長は安心して上方の反織田勢力への攻撃を開始することが出来、”天下取り”への道が開けた”戦い”となりました。
小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦
周知のように、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変(ほんのうじのへん)』により織田信長(おだ のぶなが)暗殺の下手人と目される明智光秀(あけち みつひで)を『山崎(やまざき)の戦』でいち早く打ち破り、その後織田家内を制圧した『豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)』が”信長後継者”として躍り出ました。
その織田宗家の生き残りで一族筆頭”の織田信雄(おだ のぶかつ)”が、秀吉に織田政権を乗っ取られた事に気がついて腹を立て、秀吉に反旗を翻して徳川家康に助力を求めて来ました。
ついで、天正12年(1584年)に秀吉に懐柔されていた3家老を信雄が処刑してしまい、それに激怒した秀吉が信雄に対して兵を向けて、こうして戦いが勃発します。
織田方から寝返った池田恒興(いけだ つねおき)が先行して、犬山城(いぬやまじょう)へ入ったために、家康は対抗して小牧山城(こまきやまじょう)へ入り、池田恒興と共同する森長可(もり ながよし)が犬山城より小牧山に近い楽田(がくでん)へ着陣し、後から来た秀吉も楽田に本陣を構えました。
双方睨み合ったまま小競り合いを続けていましたが、戦況打開のため池田・森の進言で秀吉軍が迂回して家康本拠地の三河岡崎を攻撃する方針となり、羽柴秀次(はしば ひでつぐ)を総大将とする兵力2万の別動隊を4月6日夜陰に紛れて発進させます。
それに気が付いた家康は、8日夕刻に榊原康政(さききばら やすまさ)ら4500名の支隊を出発させ、家康本隊8000名は小牧山から小幡城(おばたじょう)へ前進して、9日午前2時頃出発し、4500名の支隊は豊臣軍最後尾の秀次隊8000名へ襲い掛かりこれを壊滅させます。
本隊は、池田恒興(8000)・森長可(3000)の部隊と堀秀政(3000)の間に入り込み、堀隊を後退させ、池田・森隊へ長久手(ながくて)で背後から襲い掛かります。
秀次は伴回りの馬で敗走し、池田恒興・森長可は討死をして秀次の”三河攻撃隊”は、家康の夜襲攻撃に壊滅的打撃を受けます。
完勝して小幡城へ引き上げた家康は、秀吉本隊が楽田から出発した情報を得て、すぐさま小牧山城へ移動し、秀吉に完全に”肩すかし”を食らわせました。
もうお分かりかと思いますが、この戦闘は時間との戦いの経過が非常にはっきりしており、『情報戦』において家康側の完勝であったことを示しています。
元はと云えば、この尾張地区は豊臣秀吉の地元で、この辺りの野武士軍団(配下である蜂須賀小六・前野将右衛門ら)の地縁が強く顔が効き、その手の情報は家康より大量に入るはずでしたが、それに対して伊賀の忍者軍団を組織的に効率よく使った家康の勝利だったことをこの史実は示しています。
大兵力に安心して、”合戦”にトーシローの秀次と森・池田ら猪武者達に任せてしまった”秀吉の油断”が生んだ敗戦だったと言えそうです。
この後、これに懲りて秀吉は戦略を大きく転換し、織田信雄への調略に取り掛かり、結果家康への相談なく信雄は秀吉と和議を結んでしまい、呆れた家康は兵を退いて三河へ引き上げます。
この『小牧・長久手の戦』は、戦闘は家康の完勝ながら、政治力では秀吉の勝ちと言われています。
戦争は、結局政治の為に行うわけですから、その政治で秀吉にしてやられた家康は、やはり『小牧・長久手の戦』の敗者と言えそうです。
この後2年以上抵抗しますが、家康はここで秀吉の政治力の凄みを見せつけられたことから、秀吉に臣従して最大の協力者となって行きます。
関ケ原(せきがはら)の戦
豊臣秀吉が他界してから2年経った慶長5年(1600年)9月15日に天下の体制を決定づける『合戦』がありました。
史上有名な『関ケ原の戦』ですね。
慶長3年(1598年)8月18日に太閤豊臣秀吉が亡くなり、豊臣政権の大黒柱の豊臣秀長(とよとみ ひでなが)は既にいないため、家康の政敵の残りは前田利家(まえだ としいえ)だけになっていました。
翌慶長4年(1599年)3月3日にその利家が病死すると、政権内の武断派武将と文治派の対立が表面化し、仲裁する者がいなくなったことから文治派の代表の奉行石田三成(いしだ みつなり)を3月3日の利家死去直後に武断派の7人の武将が襲撃します。
これに結果的に仲裁に入った家康は、目の上のたんこぶの石田三成を政権から追い払うように3月10日に居城の近江佐和山に隠居させました。
そして9月、五大老にひとり前田利長(まえだ としなが)が首謀者とされる『徳川家康暗殺事件』が発覚して利長は失脚し、家康は高台院(こうだいいん)が退去した後の大坂城西の丸に入って政務を執り始め、ここに秀吉晩年に作った『五大老五奉行』体制は崩壊します。
翌慶長5年(1600年)6月2日、家康の上洛命令に従わない会津の”上杉景勝(うえすぎ かげかつ)”を討つ”陣ぶれ”が各大名になされ、6月16日に家康は大坂城を出発しました。
7月21日に江戸城を出発した家康は、24日に下野国小山に到着し、ここで石田三成の挙兵と伏見城攻撃の報を受け取ります。
25日に”会津征討の諸将を集めての軍議”が行われ、家康から事態の急変(三成の挙兵)が伝えられ、一部を除いて”西進して三成軍を討伐する”ことが決まります。
8月4日に徳川秀忠(とくがわ ひでただ)は、榊原康政(さかきばら やすまさ)、本多正信(ほんだ まさのぶ)ら徳川本軍3万8千を引き連れて中山道を美濃方面へ向かって出発します。
7月28日に先行して急遽出発し、集合場所の尾張清州城へ帰って来ていた福島正則ら諸将は、江戸で後方監視をしている家康から攻撃の督促を受けて岐阜城を陥落させます。
その報を受けた家康は、9月1日に江戸城から3万3千の兵を連れて、東海道を西に大坂へ向かって出発します。
この間、上杉景勝は家康軍迎撃の準備をしていたものの、家康軍が転進し始めたにも拘わらず、追撃はせずに山形の最上(もがみ)氏へ軍勢を向けてしまいました。
このように幸運にも、後方の心配もなくなった家康はまっしくぐらに美濃へ向かい、9月14日に美濃赤坂の岡山に設営した本陣へ入ります。
西軍が待ち受ける大垣城を素通りして、その大坂へそのまま向うような家康の動きを察知した西軍石田三成は、大垣城を出て関ケ原へ向かい家康軍より早く着陣し東軍を待ち受けます。
こうして、慶長5年(1600年)9月15日早朝、東軍約88000、西軍約85000が関ケ原で対峙します。
両軍の布陣は不思議な形で、東軍ー家康軍は中山道を美濃赤坂方面から関ケ原にT字型に展開し、西軍ー石田軍は関ケ原を取り囲む笹尾山・松尾山に扇を開くように展開し、加えて東軍の背後を扼する形で南宮山北東裾野に毛利勢が大軍を配置しています。
戦いが始まった途端に、関ケ原に東軍が”雪隠詰め・袋のねずみ”になるような形となっていて、私のような素人から見ても東軍の壊滅が予想される布陣になっているのです。
わざわざ、三成を挑発するように、”若造ども!出来るものなら攻めてみろ式”の形で、これを見た途端に”この戦いは勝った!”と勇んで石田三成の西軍は攻め込んでくるはずです。
しかし、結果はどうなったのかは、、、周知のとおりです。
戦いが始まっても西軍で実際に戦っているのは、笹尾山近辺に布陣しているグループだけでおよそ3万、対する東軍は全面に配置された部隊6万位が一丸となって戦陣争いをしている状況でした。
西軍の松尾山に陣取った小早川秀秋隊1万5千、南宮山に陣取った毛利勢2万が全く戦闘に加わらないのです。
それでも、西軍の正面は強力で、東軍を押し気味に戦闘を続けていました。
早朝から始まったこの戦闘の局面が動いたのは、正午前でした。
その時、松尾山に陣取った西軍小早川隊があろう事か真横で戦っていた西軍大谷吉継隊へ襲い掛かって行って、勝機は東軍へ大きく傾いて行きます。
これをきっかけに松尾山麓で日和見していた脇坂隊ら四将も東軍へ寝返ります。
裏切り者の攻撃を受けた右翼の大谷隊の壊滅を皮切りに、西軍はドミノ倒しのように敗走して行きます。
家康の命を受けた黒田長政が、西国大名の調略を仕掛けて戦う前に成功させており、その報を受けて家康は『関ケ原の戦い』が3万対10万の戦いになることを戦前より知っていたのです。
実戦経験の乏しい官僚の三成は、この諜報戦の結果を読み切れずに完敗してしまいました。
『関ヶ原の戦』は家康の完勝に終わり、これで家康は『天下人』への道を確かなものとすることに成功しました。
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家康は、『関ケ原の戦』=『天下取りの戦』を意図的に仕掛けたのか?
天正12年(1584年)の『小牧・長久手の戦い』以後、対立方針を切り替えて秀吉に臣従した家康は、秀吉を助けて天正18年(1590年)の『小田原の戦』で北条滅亡に加担し、結果関東に250万石もの大禄を得ます。
以後、太閤秀吉の『朝鮮出兵』で、豊臣政権内に”武断派”と”文治派”に分裂し対立を続ける事態をとらえて、秀吉シンパの武断派有力武将を取り込んで行きます。
豊臣政権与力大名の筆頭として巧みに立ちまわり、朝鮮への渡海出兵はせず国内に自前動員可能兵力6万を無傷で保持しながら”機会”を待ちます。
併せて武田旧臣大久保長安(おおくぼ ながやす)に命じて、関東の徳川直轄領100万石の管理運営を任せて、ひたすら蓄財に励みます。
こうして慶長3年(1598年)の秀吉死去を迎え、文治派と対立する武断派有力武将との”ご法度破りの姻戚関係作り”によるあからさまな多数派工作を開始します。
この家康による挑発行為で当然出てくる奉行筆頭石田三成を中心とする勢力の猛烈な抗議を逆手に取り、手なずけていた三成へ嫌悪感を抱く武断派武将たちをそそのかして、調停役の大老前田利家死去を機会に三成を襲撃させます。
これを調停する形で三成を更迭して下野させます。
そして、故秀吉正室高台院を利用する形で、大坂城二の丸へ入り豊臣政権の執政を始め、他の対立する大老たちの追い落としを始めます。
大老前田利長は『家康暗殺事件』にて失脚させ、大老上杉景勝は上洛命令拒否を反豊臣行動として、慶長5年(1600年)春に各大名へ陣ぶれを出して『上杉討伐』の軍を6月19日に大坂城を進発させます。
この後は、前章記述のように展開して行きます。
もうこれは流れを見れば自明で、”上杉討伐”は『反徳川勢力』をまとめて叩こうとする家康の計画であったことが明らかな軍事行動と考えざるをえません。
その上、関ケ原の激戦で消耗するのは豊臣恩顧の有力大名同志ですし、しかも後継者秀忠に指揮させた徳川本隊の半分は、”遅参”と云う形で温存されたまま残るようにしてあるのですから、次を狙う家康にとってこんなに美味しい話はないわけです。
つまりこの戦いは、思いつきで行き当たりばったりに行動しているのではなく、最初の”ご法度破りの姻戚関係づくり”から、意図された計画で石田三成がものの見事に引っかかってくれた事件だったと言えそうです。
ここで考えなければいけないのは、家康がそれまでに50回以上の合戦を現場で実際に指揮している経験豊富な”歴戦の強者(つわもの)武将”であったことです。
言ってみれば、徳川家康は『外交巧者の軍人政治家』だった訳です。
という事で、、、
『関ヶ原の戦』は、畏怖とともに敬愛する”武田信玄の域”に達することを目標とする『徳川家康の意図的行動』と断言してもよいのではないでしょうか。
前代未聞の負け戦『三方ケ原の戦』で家康はどうやって命が助かったのか?
通説によれば、松平時代からの譜代衆で、当時浜松城の留守居だった夏目吉信(なつめ よしのぶ)という武将がいます。
そのひとが、敗色濃厚な家康の救出に向かい、現場でまだ再突入しようとする家康を、馬に無理やり乗せて馬にムチをいれて浜松城へ向かって走らせ、自らは家康の甲冑(かっちゅう)を身にまとい家康の”身代わり”となって敵陣に討ち掛かって討死したと伝えられています。
蛇足ながら、通説で言われている家康の有名な”脱糞騒ぎ”は、馬で浜松城に逃げ帰った家康の鞍に、”うんち”が付いていたのを見つけた家臣がそれをからかったところ、家康が負け惜しみで”これは焼き味噌じゃ!”と言い訳したことが広まったようです。
家康が浜松へ命からがら退却後、やはり実際には退却する家康に武田軍の追手が掛かり、武田方の武将山県昌影(やまがた まさかげ)が浜松城まで追撃します。
しかし、浜松城はすべての城門が開けっ放しで、城中は篝火(かがりび)が焚かれていました。
これを見て、山県は中国の古典三国志にある軍師諸葛孔明(しょかつこうめい)の『空城の計(くうじょうのけい)』を思い出し、罠ではないかと疑い兵を退いたと言われています。
異説では、敗残兵が雪崩を打って浜松城へ押しかけており、城門を空けておかねば兵を収容しきれないとの判断でそうなっていたと言われています。
この土壇場で『空城の計』などと云う話は、江戸時代の幕府当局の作り話の可能性が高いと見て良いのではないでしょうか。
真相のところは、あくまでも武田信玄の狙いは”徳川家康誅殺”ではなくて『上洛』です。
わざわざ時間短縮のために浜松城を素通りしようとしたくらい先を急いでいましたので、鎧袖一触(がいしゅういっしょく)で徳川軍を壊滅させればもう十分で、さらに追撃戦までやって時間を使う気は信玄にはなかったというのが、本当のところではないでしょうか。
家康がこの『三方ケ原の戦』で、命拾いした理由は、勿論”運”もありますが、もともと武田信玄にあまり問題にされていなかったことが幸いしたのではないかと思います。
『小牧・長久手の戦』で家康と秀吉の勝敗は、本当に引き分けなのか?
前章で述べたように、天正12年(1584年)のこの戦いは、”実際の戦は家康の勝利で、外交戦は秀吉の完勝”つまりは『引き分け』となっています。
しかし、家康軍1万6千に対して、秀吉軍10万?という圧倒的兵力差があったため、この時の家康の勝利は夜陰に紛れて”ヒット&アウェイ”で勝っただけで、秀吉を追い詰めて滅亡させる力はその頃の家康にはなかったと云えます。
家康にしてみれば、秀吉には『本能寺の変』以前の”方面軍司令官の羽柴秀吉のイメージ”しかなかったはずで、実際に衝突して見てその秀吉が短時間の間に巨大化していたことにさぞ驚いたことでしょう。
秀吉も力攻めすれば家康に勝つことは可能だったとしても、周りを”反秀吉勢力”に取り囲まれている状況下で、多大な犠牲を払って家康を取り除いてもその為に力が衰えてしまってはあとで皆から寄ってたかってやられるのが目に見えている訳です。
こうした両者の思惑が一致して、その後の妥協的な『和解』と『家康の臣従』につながって行く事になります。
家康とすれば、武将としての合戦の実力を見せつけることが出来たことが成功で、秀吉は大事な兵を失いはしたものの、より大きな政治的課題である家康との同盟に成功するわけですから、目的達成レベルでは『秀吉の勝利』と言えそうです。
武田勝頼は『長篠の戦』で、なぜ織田徳川連合軍に大敗を喫したか?
武田勝頼(たけだ かつより)は今川氏真(いまがわ うじざね)のような凡将であったかと云えば、元亀4年(1573年)から天正10年(1582年)まで天才の父信玄から引き継いだ”曲者の武将が多い大武田軍団”を曲がりなりにも率いていた出来の良い武将でした。
それどころか、あの天正3年(1575年)の『長篠の戦』当時は、信玄が亡くなって2年ほど経っていましたが、前年の東美濃攻めに勝利して、武田家は最大版図となっているなど、むしろ天下に名将として武名はたかまっていました。
ですから、、、もうやる気満々だったわけです。
この奥三河一帯は、父信玄が一度手に入れている土地であり、勝頼はここで長篠城を奪還して父の成果を再現しようとしており、しかも、織田信長と直接ぶつかることとなったので、他の反織田勢力への援護射撃にもなるので、とても張り切っていました。
今回の戦いのきっかけは奥三河の代官に抜擢された家康配下の岡崎の町奉行大賀弥四郎(おおが やしろう)が、武田と内通しそれに勝頼が呼応して出兵が始まったとされています。
天正3年(1575年)未明より戦闘は開始され、勝頼が用意した鉄砲隊は織田・徳川軍の鉄砲隊に圧倒されて沈黙し、騎馬軍団は鉄砲隊の援護なしに馬防柵へ突っ込むこととなり、被害が拡大しました。
8時間による戦闘の末、疲れ果てた武田軍は”設楽ケ原”から撤退を始めます。
しかし、追撃する織田・徳川軍に追いつかれて、更に多くの武将が討ち死にすることとなりました。
どうやら、この敗戦の原因は、勝頼の慢心からか事前の織田徳川連合軍の兵力の評価が充分になされなかったようで、設楽ケ原の複雑な地形に隠された連合軍の大軍を見落としていたようです。
実際より少なく見せる偽装を信長が行っていたことにより、連合軍の人数を少なく見積もってしまったことと、馬防柵を見た勝頼が連合軍はやる気がない軍だと誤認した事が武田軍1万5千が織田・徳川連合軍4万5千に戦いを挑んでしまった理由だとされています。
”奇襲でもないかぎり、寡兵で正面から大兵へ攻めかかっても勝ち目はない”道理でした。
忍びの部隊も多用する武田の軍団にしては、少しお粗末過ぎる準備不足なので、通説は勝頼の『慢心』とされていますが、何か別の理由があるのかもしれませんね。
今のところ、武田勝頼の”慢心”による準備不足が大敗北の理由ではないかと思われます。
家康にとって『姉川の戦』の意義は?
前章でも記述しましたが、この戦いは徳川家康にとって、信長と同盟を結んだ後の初めての遠征戦『朝倉攻め』の1か月後の戦いでした。
配下の三河軍団の奮戦もあって合戦は大勝利に終わり、徳川家康は織田信長の有力な忠義者のパートナーとして、織田家の内外で認知され織田信長の大きな信頼を勝ち得ました。
以後、信長の勢力が拡大していくに連れて、家康も同時に大きくなっていくことが出来、地方の国人領主の立場から、天下人のパートナーとなる有力武将として名前が轟いて行きます。
そのきっかけとなったことにこの『姉川の戦』の存在意義はあるかと思います。
まとめ
徳川家康は、戦国時代にピリオドを最初に打った『織田信長』、本当に天下統一を果たした『豊臣秀吉』の大きな船にうまく相乗りを続けて、最後に自分自身が260年の長期に亘る天下統一政権を打ち立てると言う”立志伝”を作りました。
その節目節目で大きな『戦い』に遭遇し、その主な5つの内、唯一武田信玄との『三方ケ原の戦』以外はすべて勝利していると言う強運の持ち主です。
共通していることは、家康の持って生まれた性格である『慎重さ』をベースに、どの戦も事前の準備を十分に行い、情報収集と調略活動である諜報活動に人・時間・カネを掛けて、相手の実態を探り出してから合戦に及んでいます。
つまり、相手のことを十分調べて対処法・対策を考えてからでないと、合戦に臨んでいないと言うことが分かって来ます。
このやり方は、おそらく戦国時代の風雲児織田信長・軍神武田信玄から学んだものでしょうが、実行に移した家康の非凡さが光るところです。
一足先にそれをうまく利用して出世の船に乗った『豊臣秀吉』ともうまく相乗りし、結果天下をつかみ、戦国時代を本当の意味で終わらせて、『徳川260年に亘る太平の世』を実現しました。
『江戸時代』には進歩がなくて、産業革命で欧米諸国に後れを取った元凶のように思われていますが、平和が続くことで軍事費のコストを抑え、実際の文化レベルは世界最高水準であったことが分かって来ています。
また、中世期で実は世界最大の人口を持つ都市であった”江戸”は、最近世界から注目されているように、当時既に水道・下水も完備した衛生的な近代都市を実現していた事が知られています。
これらを実現させたのは、徳川家康の功績とも言えそうです。
参考文献
戸部新十郎 『徳川家康』(1990年 PHP文庫)
丸島和洋 『真田四代と信繁』(2015年 平凡社新書)
平山優 『天正壬午の乱』(2016年 戎光祥出版)
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