『豊臣秀次事件』決定版!秀吉が秀次を切腹させた理由は何か?

”小田原攻め”で強敵北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の天下統一が成し遂げられた後に、不可解な事件が2件発生しています。 ひとつは”千利休切腹事件”で、もうひとつが後継者にと自分で指名した甥の秀次を切腹させた上に、その係累縁者子女ことごとく京都三条河原で公開処刑してしまった残虐な事件『秀次事件』です。 二回に及ぶ朝鮮出兵の狭間の時期に発生したこの『秀次事件』は、秀吉没後から始まった豊臣家滅亡ストーリーの

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天下人の豊臣秀吉は、なぜ千利休を切腹させたのか?その理由は?

信長が重用した千利休を本能寺後に召し出して、自らの”茶頭(茶坊主)”に据えた秀吉は、9年後に自ら利休に切腹を命じることとなります。大番頭の異父弟秀長を失って、更に続けて名参謀を殺すと言う自殺行為をなぜ犯すのか、その真相を明らかにして行きます。 千利休はどんなひとなのか? 利休は大永2年(1522年)に和泉国堺の商人・納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、本名は田中与四郎と云います。 若い

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関ケ原の戦いで裏切り者と言われる小早川秀秋!本当はどうなの?

関ケ原の戦いを東軍勝利に導く決定的な寝がえり(裏切り)をやってのけた小早川秀秋の実像に迫り、寝返りの真相・その理由とその後の秀秋のことなどすっきりわかるように解説いたします。 小早川秀秋ってどんな人なの? 小早川秀秋は、天正10年(1582年)に秀吉の妻寧々の兄の木下家定の子として生まれ、3歳の時に子供のいない秀吉の養子となりました。 7歳の時には丹波亀山(現京都府)10万石の領

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毛利家の外交僧安国寺恵瓊はなぜ関ケ原敗戦で斬首されたか?

戦国大名毛利家の一外交僧であった安国寺恵瓊が、その類まれな能力で豊臣秀吉の 側近としてのし上がって行きながら、なぜ関ケ原の戦いで負けて、 京都六条河原の露と消えたのかをとことん解説します。 安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)とは一体なに者? 通説では、、、 天文10年(1541年)に毛利元就に滅ぼされた安芸武田氏の一族と 言われ、安芸安国寺にて出家し、その後京都東福寺の僧侶と

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