『大坂夏の陣』の覚え方(語呂合わせ)はこれで決まり!

『関ケ原の戦い』以後も存在し続けた豊臣政権が、この『大坂夏の陣』で消滅し、名実ともに”徳川の世”となった歴史上の事件ですが、今回記憶用の”語呂合わせ”を作ってみました。意義と合わせて整理して覚えておきましょう。 『方広寺大仏鐘銘事件』語呂合わせ 色石 七月、トヨトミが、 (いろいししちがつ、とよとみが、) 1614年7月 豊臣家 奉公していた寺の鐘 (ほ

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徳川家康は、じつは『大坂夏の陣』で討死していた!本当なの?

江戸時代250年間に亘って、徳川家のタブーとされていた『徳川家康の討ち死に説』にメスを入れ、慶長20年(1615年)5月7日の午後に茶臼山南の家康本陣で一体何が起こっていたかを明らかにします。 徳川家康は、大阪・堺『南宗寺(なんしゅうじ)』開山堂に埋葬されていた? この話は、2012年9月29日付の日経新聞関西版夕刊に掲載された記事に出て、話題になったようです。家康の墓と云えば、一般に

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『大坂夏の陣』、ついに豊臣家滅亡!徳川家康も討ち死にか?

天下分け目の『関ケ原の戦い』から14年、既に政治の実権は徳川へ移っており、”なぜ今更、家康は豊臣宗家を滅ぼす必要があったのか?”また、”その豊臣軍の最後の戦いぶりはどんなものであったのか?”を明らかにして行きます。それから、この『夏の陣』で徳川家康の討ち死に伝説が大阪・堺に伝わっており、それもお伝えいたします。 『大坂の陣』とはどんなものだったの? すべては慶長3年(1598年)の秀吉

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『関ケ原の戦い』の覚え方(語呂合わせ)の決定版はこれだ!

日本史の授業に必ず出て来る『関ケ原の戦い』ですが、知ってるようでよく分かりません。その原因は東軍と西軍が誰だったのかを良く覚えていないことですね。 そこで、両軍の武将が誰であったのかの覚え方(語呂あわせ)を作ってみました。この戦いはこの後の武将たちの運命を決めて行き、豊臣家と大阪の陣、江戸時代に繋がって行きます。 ここでは、この『関ケ原の戦いの本戦』で、東軍(徳川家康側)に参戦したのは誰で、西

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豊臣秀吉の『朝鮮出兵』は日本と世界の歴史をどう変えたのか?

豊臣秀吉の戦国時代初の海外遠征となる『朝鮮出兵(文禄・慶長の役)』はどんな目的で実行され、また、その結果はどうだったのでしょうか? 秀吉は天下統一を果たし、戦国時代を終わらせましたが、この戦争によって豊臣政権の行く末はどんな風に変って行ったでしょうか? この秀吉の”海外遠征”が歴史に与えた影響を徹底的に明らかにして行きます。 豊臣秀吉の『朝鮮出兵』の目的は何だったのか? 秀吉が

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石田三成『七将襲撃事件』とはどんな事件?黒幕は一体誰なの?

豊臣秀吉死去の翌年慶長4年(1599年)3月3日、盟友前田利家も亡くなり、利家の抑えがなくなったことを受けて、予て蔚山城(ウルサンじょう)の攻防の戦況報告を巡る確執で三成を恨んでいた七将が暴発し、三成襲撃を実行します。 事前に大坂城の秀頼側近から七将襲撃の通報を受けていた三成は翌日3月4日に伏見城内の自分の屋敷へ逃げ込み、その仲裁に入った徳川家康によって三成の失脚が決まって領国の佐和山城へ戻って

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『豊臣秀次事件』決定版!秀吉が秀次を切腹させた理由は何か?

”小田原攻め”で強敵北条氏が滅亡し、豊臣秀吉の天下統一が成し遂げられた後に、不可解な事件が2件発生しています。 ひとつは”千利休切腹事件”で、もうひとつが後継者にと自分で指名した甥の秀次を切腹させた上に、その係累縁者子女ことごとく京都三条河原で公開処刑してしまった残虐な事件『秀次事件』です。 二回に及ぶ朝鮮出兵の狭間の時期に発生したこの『秀次事件』は、秀吉没後から始まった豊臣家滅亡ストーリーの

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天下人の豊臣秀吉は、なぜ千利休を切腹させたのか?その理由は?

信長が重用した千利休を本能寺後に召し出して、自らの”茶頭(茶坊主)”に据えた秀吉は、9年後に自ら利休に切腹を命じることとなります。大番頭の異父弟秀長を失って、更に続けて名参謀を殺すと言う自殺行為をなぜ犯すのか、その真相を明らかにして行きます。 千利休はどんなひとなのか? 利休は大永2年(1522年)に和泉国堺の商人・納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、本名は田中与四郎と云います。 若い

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関ケ原の戦いで裏切り者と言われる小早川秀秋!本当はどうなの?

関ケ原の戦いを東軍勝利に導く決定的な寝がえり(裏切り)をやってのけた小早川秀秋の実像に迫り、寝返りの真相・その理由とその後の秀秋のことなどすっきりわかるように解説いたします。 小早川秀秋ってどんな人なの? 小早川秀秋は、天正10年(1582年)に秀吉の妻寧々の兄の木下家定の子として生まれ、3歳の時に子供のいない秀吉の養子となりました。 7歳の時には丹波亀山(現京都府)10万石の領

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毛利家の外交僧安国寺恵瓊はなぜ関ケ原敗戦で斬首されたか?

戦国大名毛利家の一外交僧であった安国寺恵瓊が、その類まれな能力で豊臣秀吉の 側近としてのし上がって行きながら、なぜ関ケ原の戦いで負けて、 京都六条河原の露と消えたのかをとことん解説します。 安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)とは一体なに者? 通説では、、、 天文10年(1541年)に毛利元就に滅ぼされた安芸武田氏の一族と 言われ、安芸安国寺にて出家し、その後京都東福寺の僧侶と

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