戦国時代のファイナリスト”徳川家康”は4度死ぬ!お墓はどこ?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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徳川家康は若い頃に死亡しており、”影武者がスリ替わって活躍していた”と言う説の”真相”を暴きます!

諸説にある”徳川家康の墓”は一体どこにあるのかを明確にします。

徳川家康の遺骨は、『日光東照宮』と『久能山東照宮』のどちらにあるのかをはっきりさせます。

徳川家康は4回死んでいる?

 プロローグ

大御所徳川家康の没年は元和2年(1616年)4月17日ですが、他に有名な異説が3つあります。

果たして、元和2年(1616年)に駿府城で亡くなったのは、本人なのでしょうか?

死亡説は:

  1. 永禄3年(1560年)『桶狭間の戦』のあとに暗殺
  2. 慶長5年(1600年)『関ケ原の戦』の始まる直前に暗殺
  3. 元和元年(1615年)『大坂冬の陣』の最中に討死
  4. 元和2年(1616年) 74歳で病死

 
これら前3つは、事件後すべて『替え玉』・『影武者』が代役を務めて4.の病死までつないでいる訳です。

勿論『正史?』と言うか通説は『徳川家康ご本人が、元和2年(1616年)の体調を崩して駿府城にて病死』の説を取っています。

徳川家康が開いた”徳川幕府”はその後260余年に亘って日本を支配して行った政権ですので、特に関心を集めているのですが、徳川家康も他の戦国武将の例にもれず、『下剋上』の時代を成り上がって来たため、その過程のエピソードが数多く存在し、大変ドラマチックな仕上がりとなっています。

では、中味を見て行く事にしましょう。

『桶狭間の戦』後の暗殺説

現代の徳川家康別人説(替え玉説・影武者説)は、明治35年(1902年)に明治の大言論人徳富蘇峰(とくとみ そほう)の民友社から出版された村岡素一郎氏による『史疑 徳川家康事蹟(しぎ とくがわいえやすじせき)』と言う書物から始まりました。

話は、大御所時代の家康の側近林羅山(はやし らざん)の作である『駿府政事録(すんぷせいじろく)』の中で、”幼少の頃、駿府で又右衛門某と云うものに銭五百貫で売られたことがあると家康本人が皆の前で昔語りをした。”と言う記事があることから起こされます。

簡略な筋は、幼少時に売り飛ばされた後の家康は、長じて願人坊主(がんにんぼうず)と言う修験者になって各地を放浪するうち、三河岡崎で”松平蔵人元康(まつだいら くろうどもとやす)”の知遇を得て、名前を世良田二郎三郎元信(せらた じろうさぶろうもとのぶ)と改めて織田勢と戦っていました。

永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦』のあと、元康が逆臣に刺殺されたために、松平家臣の懇請もあって松平元康に成りすましたと言うものです。

ここで、後に何もなければ徳川家康になるはずであった松平広忠(まつだいら ひろただ)の嫡男であるホンモノの”松平蔵人元康”が死亡しているので、『家康の第一回目の死亡』となります。

村岡素一郎氏のこの突拍子もない説は、前出の林羅山の記録が最初の手がかりになっています。

この説は、家康が後に三河の『一向一揆』で、家康を支えるはずの臣下松平家臣団の大量造反にあって窮地に追い込まれますが、その”鉄の結束”を誇っていたはずの”三河譜代の臣下たちが家康に牙を剥く”と言う不可解な事件の理由を明確に説明してくれます。

つまり、主筋と全く関係のない”替え玉家康”の追い出し行動(よそ者にいつまでも主君面されるわけにはゆかなかったのです)と思うと十分に説得力を持つことになるのです。

また、後年起きた『松平信康(まつだいら のぶやす)事件』も、家康が如何に魔王織田信長の命令とは言え、自分の正妻と嫡男をいとも簡単に殺害してしまう不可解さを十分に説明してくれます。

『関ケ原の戦』直前の暗殺説

やはり、村岡素一郎氏の『替え玉説』を下敷きにしたと思われますが、作家隆慶一郎(りゅう けいいちろう)氏の『影武者徳川家康』と、作家八切止夫(やぎり とめお)氏の『徳川家康は二人だった』で展開されています。

この話は、徳川家の正史である『徳川実記(とくがわじっき)』の中に、慶長5年(1600年)9月15日のまさに『関ケ原の戦』当日の早朝、家康の布陣する朝霧かすむ関ケ原桃配山(ももくばりやま)の陣営で、家康に乱心行動があったと記載されていることをネタにしています。

簡略な筋は、その時、使番が誤って馬を家康の馬に突っ掛けてしまったのに腹をたてた家康が、その使番に大刀を抜いて切りつけたと言う『家康の乱心』事件がわざわざ徳川実記に載っているのですが、天下取りの最後の仕上げのその大舞台で、もう十分に事前に調略の手を打っていた家康が、こんな使番の不始末くらいで刀を抜き放つなど論外だと思われます。

この事件は、西軍側(島左近か?)から送り込まれた刺客が家康を刺殺し、家康の傍に控えていた影武者家康(世良田二郎三郎元信)がそれに気がついて剣を抜いて刺客へ攻撃を加えたと言うのが、真相ではないかとの推理に基づいて作られています。

根拠としては、徳川正史である『徳川実記』のこの記述と、”豊臣家滅亡が仕事”のはずの家康が『大坂の陣』に着手するまで14年もかかっていることを挙げています。

つまり、いずれ消される運命の『影武者』ですから、出来るだけ”延命”を図るために”豊臣との雌雄を決する戦い(これが終われば影武者は用済みです)”を伸ばし伸ばしにしていたという訳です。

ここで、徳川家康は『第2回目の死』を迎えたことになります。

『大坂夏の陣』での討死説

これは、”地方伝承”と言う事になるのかもしれませんが、大阪府堺市にある臨済宗大徳寺派の寺院で、戦国大名三好長慶(みよし ながよし)氏の菩提寺『南宗寺(なんしゅうじ)』に”徳川家康の墓と縁起”が現在も実在します

簡略な筋は、『大坂夏の陣』で、5月7日の徳川軍総攻撃の時、豊臣軍の決死の攻撃に徳川の家康本陣と秀忠本陣ともに直接攻撃を受け、特に家康は真田信繁(さなだ のぶしげ)の軍団に襲われ、『三方ケ原の戦』以来2度目となる家康の馬印を倒される壊滅状態に陥って、家康・旗本勢みな命からがら逃げだし、本陣の位置を平野・久宝寺まで大きく下げたことが知られています。

この折に、家康は肥満した体で逃げ出す時、馬に乗れない為、輿に乗って避難するおり、騎馬武者で現れた後藤又兵衛に襲われ、槍で輿ごと串刺しにされて落命したと伝わっています。

そして徳川秀忠と幕閣が相談の上、家康の孫娘登久姫と結婚していた松本城主小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)を影武者(翌年4月17日病死?)に立ています。

『南宗寺』の資料によると、家康主従は天王寺茶臼山の本陣から堺南宗寺まで退却してきたが、輿を開けるとすでに家康は落命していて、その時の南宗寺の住職沢庵和尚が寺に葬ったとされています。

この根拠は寺の縁起とともに、徳川秀忠(とくがわ ひでただ)が徳川家光(とくがわ いえみつ)に将軍職を譲った元和9年(1623年)の7月10日に秀忠が、8月18日に家光が相次いで墓参をした記録が寺の扁額に残っていると言う驚きの資料があります。

また、日光東照宮に残っている『家康の輿(こし)』には輿の屋根にその時に攻撃を受けたと思われる穴が現在も開いたままになっているようです。

戦場で家康を討ち取ったのに、その勝どきが上がらなかったのは、輿に入ったまま串刺しにされたので、生死が確認できなかったため徳川方の隠ぺいが成功したと思われます。

実際に、この可能性があったのは、実は5月6日に討死してしまっている通説の後藤又兵衛ではなくて、5月7日の総攻撃で家康本陣を壊滅させた真田信繁(幸村)の部隊だけでしょう。

そして私見ですが、輿に残った槍の穴の角度からすると、馬上から槍で突き刺したと思われますので、家康を討ち取ったのは真田信繁本人ではないかと推測されます。

これで、家康は『第3回目の死』を迎えたことになります。


(画像引用:photoAC 久能山東照宮

徳川家康のお墓はどこか?

前章で述べたように、家康が亡くなった可能性のあるケースが正史以外に3つあることが分かりました。

個別で見て行きましょう。

『桶狭間の戦』後に、暗殺されたケース

前出の村岡素一郎氏の『史疑 徳川家康事蹟』によれば、松平蔵人元康が永禄4年(1561年)12月5日に織田信長討伐へ出かけ、尾張守山小幡が原へ着陣した折、翌12月6日に乱心した配下に切り殺されると言う事件が勃発し、その折、影武者世良田二郎三郎元信がすり替わったとしています。

実はこの事件は史上『守山崩れ』と称され、家康の祖父松平清康(まつだいら きよやす)が天文4年(1535年)12月5日に織田領へ侵攻して”尾張守山”へ到着したところ、逆臣に切り殺される事件があったとされている話と酷似しており、”村岡説”の問題点のひとつとされています。

しかし、作家八切止夫氏が『徳川家康は二人いた』の中で、大久保彦左衛門の『三河物語』で出てくるこの”松平清康事件”の方に当時あるはずのない”鉄砲”が出てきたりするため、信憑性はむしろ村岡説の方にあると弁護しています。

と言う事で、一応は評価の対象となり得そうです。

『史疑 徳川家康事蹟』では、埋葬地として、松平家の菩提寺の岡崎『大樹寺(だいじゅじ)』ではなくて、同じ岡崎の松応寺(しょうおうじ )にある父である松平広忠(まつだいら ひろただ)銘となっているふたつの墓の内のひとつとされ、諡号(しごう)が『慈光院殿(じこういんどの)』とある方だとしています。

この第一回目の死亡説に従えば、ホンモノの徳川家康”松平蔵人元康”の墓は愛知県岡崎市の”松応寺”内にあります。

『関ケ原の戦』の直前に、暗殺されたケース

この根拠は、前章にあったように徳川家の正史『徳川実記』の中にある『家康乱心』の記事です。

作家島右近(しま うこん)氏『家康は関ケ原で死んでいた』によると、朝霧が立ち込める関ケ原桃配山(せきがはら ももくばりやま)の家康本陣で使番に扮した刺客に家康が刺殺され、影武者の世良田二郎三郎元信がすぐに大刀を抜きはらって刺客へひと太刀浴びせたものの逃げられました。

しかし、影武者の世良田二郎三郎元信がそのまま家康にすり替わって、その後何事もなく代役を務めたと言うものです。

この時すぐさま家康の遺体は隠されたとあります。

遺体は本陣近くに仮に埋められて、事後岡崎へ移されたことでしょう。

墓所ですが、父の松平広忠の墓が岡崎松平家菩提寺の『大樹寺』にふたつ、同じ岡崎市内の『松応寺』にもふたつあり、なぜか都合4つもあるのです。

と言う事で、この第二回目の死亡説に従えば、ホンモノの徳川家康の墓は、岡崎松平家菩提寺の『大樹寺』のふたつの内のひとつと見るのが妥当ではないでしょうか。

『大坂夏の陣』の最中に、討ち死したケース

これは、前章で述べたように『大坂夏の陣』総力戦の二日目にあたる慶長20年(1615年)5月7日に、大坂天王寺茶臼山にあった家康本陣が豊臣軍に襲われ、敗走する途中で豊臣方の武将の後藤又兵衛に槍で乗っていた輿ごと串刺しにされて討ち死にしたと言うものでした。

敗走した家康の輿が泉州堺の『南宗寺』に辿り着き、すぐに死亡が確認され当時の住職沢庵(たくあん)和尚によって埋葬されたとされています。

これは、現在も”徳川家康の墓”として大阪府堺市の『南宗寺』に存在しています。

と言う事で、第三回目の死亡説では、元和9年(1623年)の3代目将軍への就任の年に徳川秀忠と徳川家光が相次いで参詣したと言われる大阪府堺市の『南宗寺(戦国武将三好長慶の菩提寺)』に徳川家康の墓はあります。

しかし、後藤又兵衛は緒戦の5月6日に『道明寺の戦』で伊達政宗の軍との交戦で胸に銃弾を受けて討死したことが公に認められていますので、翌日に家康を槍で殺すことはムリと言うものでしようから、この話は都市伝説っぽくなってしまいました。

ここで、仮に影武者役が小笠原秀政になったと云う話を棚に上げておき、前章に記述したように、家康を討ちとったのが伝承の”後藤又兵衛”でなくて、私見の”真田信繁”であるとすると多少は真実味が出てくるかもしれません。

 最後に、徳川家康の死去として認定されているケース

徳川家康は、元和2年(1616年)1月、鷹狩に出掛けて倒れ、4月17日に駿府城で死去(死因:胃がん説が有力)したことが知られています。

家康は、所謂”健康オタク”だったと言われており、晩年は薬の調合などもやっていたようなので、却ってそんなことが原因のガン胃がんだったと言われています)なのかもしれませんね。

死に際し、亡くなるまで間があったこともあり、本人から、、、

 

  1. 体は久能山へ納めること
  2. 葬式は、江戸の芝増上寺にておこなうこと
  3. 位牌を岡崎菩提寺の大樹寺に立てること
  4. 日光山に小さなお堂を建てて、久能山から勧進すること

との遺言があり、遺言に従って遺体はそのまま駿府の南東にある『久能山』に埋葬されたようです。

と言う事で、徳川家康の第四番目の最後の死去では、家康の墓は久能山東照宮にあります。

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遺骨は久能山か日光か?

明治30年(1897年)に明治政府が豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)を顕彰することとなり、『豊国(ほうこく)神社』を再建しました。

この時、秀吉の墓を発掘したところ、1mほどの甕(かめ)が出て来て、その中に秀吉の遺体が御所の方角を向いて手足を組んで座った姿であったようです。

この事から、武家社会の冠婚葬祭は案外きっちり実行されていますので、家康の遺体も本人の遺言どおり久能山東照宮に埋葬されているものと考えられます

日光東照宮は家康の遺言によって、”久能山より勧進(かんじん)されて建立”されたのですが、その勧進の折に、行列を作って柩(ひつぎ)を日光へ運んだとの話があり、それが日光に遺骨があると云う噂話につながっているようですが、家康の遺言は厳格に守られていると考えられますので、遺体は久能山にあるものと考えるのが妥当かと思われます。

併せて、普通徳川一族の家康関係の祭事は、すべて久能山にて執り行われていると聞いていますので、まず『徳川家康の墓所は久能山東照宮』と見て間違いないかと思います。

まとめ

260余年も続いた”江戸時代の基礎”を作った大御所『神君徳川家康』の”すり替わり異説”が3つもあり、それぞれに見てみるとそれなりに説得力のあるものだと思われます。

江戸時代初期の人々が常識として知っていたことが、今となっては時の政権に都合の良いように脚色された可能性のある残された文献でしかわかりません。

しかし、何かしら痕跡は残っているもので、前述の異説もすべて小説家の作り事と決めつける事は出来ないのではないかと思います。

ここでは、最後の”徳川家康公”の墓は、静岡の”久能山東照宮”にあります。これは確かです。

あとの異説の墓も皆存在していますが、未だ謎の多い”織田信長”とオーバーラップする時期の”徳川家康”が同じように謎めいて、どれをとっても真実に見えます。

一般に戦国武将の成功するパターンで面白いものは、身分の低い軽輩ものから時代のヒーローに成り上がって行く”サクセスストーリー”なのだと思うのです。

織田信長しかり、豊臣秀吉しかりです。

徳川家康も誘拐されたりして各地転々と人質生活をするなど、そのパターンにも当てはまっているはずなのですが、イマイチ人気がないのはやはり最初から”生真面目なお坊ちゃま竹千代君”だったのがいけなかったのかもしれません。

しかし、これらの異説はそれを補って余りある面白さだと思います。

昨今、国際問題として『歴史認識』と云う言葉が独り歩きを始めていますが、今の隣国の根底の意識は『歴史は勝者が作るもの・書くもの』と思い込んでいるところから発しています。

これが今、日本史においても当てはまるのではないかと言う疑義、つまり後で政権を取った者の都合の良い歴史解釈が、実はまかり通っているのが現実ではないかと疑われるのです。

こうした目で学校で学んだ『日本史』を見つめなおしていくところに『歴史の真相』が隠されているような気がします。

これからも、”神君家康”の下から這い上がって行く”サクセスストーリー”が出てくることを期待したいですね。

参考文献

榛葉英治 『新版 史疑 徳川家康』(2008年 雄山閣)

島右近 『家康は関ケ原で死んでいた』(2014年 竹書房新書)

八切止夫 『徳川家康は二人だった』(2002年 作品社)

岡本良一 『大坂冬の陣夏の陣』(1983年 創元新書)

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ウィキペディア南宗寺

ウィキペディア久能山東照宮

 

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