執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
戦国大名 徳川家康のこんな性格が天下を取らせた!ホント?
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大御所徳川家康の性格を表していると言われる有名な川柳、”鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス”の意味は?
『狸オヤジ?』と思われている徳川家康、ホントは『実直な真面目男?』!
健康オタクの徳川家康!一体なにを食べていたのか?
と色々分かります!
目次
徳川家康 ”鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス”はホント?
私は学校(実家のあった愛知県名古屋市内の小学校)で、
- 『鳴かぬなら、殺してしまえ、ホトトギス』 織田信長(おだ のぶなが)
- 『鳴かぬなら、鳴かせてみよう、ホトトギス』 豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)
- 『鳴かぬなら、鳴くまで待とう、ホトトギス』 徳川家康(とくがわ いえやす)
と教えられました。
戦国時代の後半に活躍した歴史上著名なこの天下人3名が、なぜか3名とも今の愛知県の出身(信長ー名古屋市中区、秀吉ー名古屋市中村区、家康ー愛知県岡崎市)なのです。
それで、『郷土三英傑』と称されて授業外でもよく話されていたものですから、ずっと頭の中に入っています、一種の”マインドコントロール”でしょうか・笑。
これは、江戸時代後期の肥前平戸藩主松浦静山(まつら せいざん)の著名な随筆集『甲子夜話(かっし やわ)』に”読み人知らず”の川柳として掲載されていて、3名の天下人の性格の違いを端的に説明していると言われています。
さて、問題の徳川家康ですが、、、
こんな『鳴くまで待とう』と表現されるのは、織田信長とは”同盟者”、”弟分”として働き、豊臣秀吉の時は妥協してその政権で我慢して配下として仕え、やがて巡って来たチャンス”関ケ原の戦い”では、逃さず勝利して、天下の実権を握ると言う”時期が来るまで辛抱強く待ち続けた”その姿勢を評して言っているのですね。
なんか、地味で面白味のない人間に見えますね。
しかし、伝えられる実際の徳川家康の性格としては、前述の川柳のようなのんびりとした性格ではなくて、非常に”短気”だったと言われています。
人の話を聞いている最中・考え事をしている最中に、自分の手の指の爪を歯で噛んでいたという様子(まぁ、貧乏ゆすりの癖と同じなのでしょうが)がよく話に出て来ます。
そして、上記のような”短気な家康”と”我慢強い、どちらかと言うとおっとりした家康”の両面が言われており、本当の家康はその持って生まれた”強運”によってその時々にマッチングした性格を示す、、、なんて都合の良い人だったのでしょうか?
”あなたはなに派?”なんて聞かれそうですが、瞬間瞬間で示す果断などちらかと言うとせっかちな性格と、結果から見ると”じっくり慎重派である性格”が上手くマッチングしている様子が伺えます。
結局、成功者であることから『策士(さくし)』とか『深慮遠謀(しんりょえんぼう)の人』とか言われています。
つまり、家康は『短気』ではあるが、『短慮』ではないと言う事でしょうか。
”釣り”と同じなのかもしれませんね。
”釣り”も気の長い人の方が、やはり”釣果(ちょうか)”はあがるのかなぁと思っていたら、案に相違して”釣名人(つりめいじん)”と言われる人はせっかちな性格の人が多いのだそうです。
これは簡単な理屈で、エサをつけて水底へ落として引き上げると言う釣りの一連の作業を”手返し”と言いますが、”釣果”は概ねこの『手返しの回数』に比例することが分かっています。
つまり、機敏に(短気にちゃっちゃか)手返しが出来る人の方が、のんびり釣り糸を垂れている人よりも釣果があがるのが常識なんだそうです。
要するに、のんびり屋さんよりはせっかちな人の方が『良く釣れる』・釣果が上がるという訳です。
釣りと一緒にするわけにはいきませんが、お仕事も『よく考えて』・『機敏に行動する』人が”よく出来る人”だと思うので、徳川家康もそんな人物(出来るひと)だったのでしょうね。
(引用画像:竹千代君像)
信長の命令で妻と子を殺したのはホント?
この事件(松平信康事件)は、織田信長の命により、徳川家康が天正7年(1579年)9月15日に嫡男松平信康(まつだいら のぶやす)を遠江二俣城内に於いて自刃させ、その前月8月29日には信康の生母で家康の正室築山殿(つきやまどの)を遠江冨塚で殺害させたと言うものです。
理由は、信康と築山殿が織田・徳川連合軍に敵対していた甲斐武田(かい たけだ)方へ内通しているとの情報が、信康の正室であった織田信長の娘五徳姫(ごとくひめ)から、父織田信長宛てに伝えられたことに拠ります。
この事件の背景は、、、
徳川と甲斐武田氏の紛争は、永禄11年(1568年)の武田信玄(たけだ しんげん)が領土拡張の為に旧今川領の駿河へ侵略を始めた時から始まっています。
元亀3年(1572年)に、武田信玄は石山本願寺・朝倉義景(あさくら よしかげ)と提携し、織田軍をけん制しつつ徳川領への侵攻を始め、12月には有名な『三方が原の戦い』で織田・徳川軍を破りますが、明けて元亀4年初めから体調を崩し、4月には帰国途上で死去します。
その後武田信玄(たけだ しんげん)の後継武田勝頼(たけだ かつより)と家康は、国境を挟んで一進一退の攻防を続けますが、天正3年(1575年)には家康の本拠地三河岡崎の町奉行大岡弥四郎(おおおか やしろう)ら家臣一派による、武田内通事件(武田軍を岡崎まで引き入れ、家康を追放しようとする内紛事件)が発覚します。
これにより、家康が嫡男信康に譲った三河岡崎城在住の家臣団松平党(国衆)と、家康がいる遠江浜松城の徳川宗家との間に内在していた対立が浮き彫りにされて来ました。
織田信長としても盟友徳川家康の領内の不安定な統治の様子に疑問を持ち始めていたまさにその時、五徳姫から信長宛てに問題の書状が届き、それを機に(信長から命令が出て?)家康本人が動いて岡崎で信康を問い質すと言う事態になったものです。
三河国衆(くにしゅう)の一部、つまり家康の領国の中に家康の統治へ反旗を翻す国衆が実際かなりの数存在していることを示していて、それらが織田ではなくて武田との連携を求めていたと云う話になります。
そうした流れを断ち切るために、家康は”大鉈を振るう”必要性に迫られたと言う事になり、この流れから見ると”さもありなん”とも思えますが、これは非常におかしな事・問題のある話で、『自分が生き残るために妻子を犠牲にすることを平気で行う』と言う極めて不自然な・残忍な『家康の性格』があぶり出されることになります。
そもそも、もし単なる政略結婚であるならば、家康は『桶狭間の戦い』のあと、今川家と袂を分かった時点で、今川支配の象徴のような今川義元の姪であった正室築山殿を離縁するのが当時の常識です。
この戦国の世に、それを家康はあえてしていない(つまり築山殿に未練があった)のですから、なのにここで簡単に信長の命令だからと殺害などするでしょうか?
岡崎城から嫡男信康を築山殿ごと引き離し、しばらく謹慎させれば済む話じゃないかと思うのですが、、、
事実、家康の言葉として、”女の身なれば出家させ尼にでもされればよいものを、、、”と言ったと異説では言われています。
通説にある家康の幼少からの身の上(人質として今川家にいた家康と瀬名姫ー築山殿は幼馴染とも言えるのです)を併せて考えてみても非常に不自然な話で、素直に腑に落ちてこない訳です。
これは、前出の『鳴くまで待とう』と同じ人物とは思えず、全く別人でなければできない行為ではないかと疑問が湧いて来ることになります。
本当に、『徳川家康の謎』は深まるばかりです。
『三方が原の戦い』で、敗走する時に家康がウンチをもらしたのはホント?
巷間伝わっている話は、、、
”三方が原の戦い”で大敗して、浜松城に帰城した家康の馬の鞍に糞が付いていたのを、家臣の大久保忠世(おおくぼ ただよ)に発見され、からかわれたことに対して家康が、”これは腰に付けた焼き味噌じゃ!”と言い訳をしたと云います。
武田軍の追撃に恐怖して、馬上で家康が糞を漏らしたと言われている逸話です。
これは、1837年に書かれた『三河後風土記(みかわごふどき)』に記載されているものですが、すでに文中に『風聞であり、単なる噂として削除』としているようです。
他のものには、例えば何でも書いてしまう大久保彦左衛門の『三河物語(みかわものがたり)』の”三方ガ原の戦い”の項にもこのような記事はありませんし、その他にも見つからないようです。
どうやら、実際にはそんな出来事はなかったと考えていいようですが、風聞にせよこんな記録を残されるようでは、当時地元三河ではこのように徳川家康の人気はなかったようですね。
徳川家康は地元三河に代々続く国人領主の若様だったはずで、このような記録が残ることに一抹の疑問が残ることになります。
徳川家康は、”忠義に厚い人物”は敵方でも許す寛容さを持っていたのか?
これは、所謂”三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康”に共通して云えることだと思いますが、『人材登用』に関する基本的な考え方だと思います。
つまり、国人領主(秀吉に至ってはただの農民でした)が、怒涛の急成長して大大名⇒天下人になった訳ですから、それを支える家臣団(社員ですね)の数が全く足らないのです。
こうした中、どんどん人材を採用しているのが、たまたま敵方であったにしても、有能なら採用すると言う行為が”忠義に厚い人物”と言うキーワードであったと言う事です。
”有能”で”まじめに働く気”があれば、『採用した』と言う事だろうと推測します。
何となれば、前述のように急成長企業につき、”猫の手も借りたいほど人材を欲している”からです。
”人物が大きい”とか、”寛容”だとか、”義に厚い”などと言っている基準ではないでしょう。
家康はなんとしてでも”有能な人材”を欲していたというのが理由ですね。
例えば、後年『徳川四天王』と呼ばれた、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政ですが、、、
酒井忠次(さかい ただつぐ)は幼少期が岡崎松平家の重臣家で、家康の人質時代からの側近でもありますが、後の3人は側近から、直轄軍団の指揮官に取り立てられ武功を重ねて重臣となって行きました。
井伊直政(いい なおまさ)はNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』にある通り、遠江井伊谷の出身ですし、榊原康政(さかきばら やすまさ)も数代前に伊勢から三河に移住して来た一族の出身です。
譜代の酒井忠次以外の3名は、実績を認められて出世しました。
こうして、家康は人材登用に実績主義を使って、どんどん人材を採用して組織の拡大に対応して行ったものと思われます。
天下人になって以降も、難波船のイギリス人船員だったウィリアム・アダムズを三浦按針として召し抱え、スペインとの外交の特別補佐官のような仕事に重用しています。
徳川家康は”まじめで、有用な”人材は、わけ隔てなく登用したと言うことでしょうか。
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家康は本当にドケチだったのか?
前出の『郷土三英傑』に共通する項目は実は『倹約家』だったことです。
信長や秀吉がこれに当たらないのではないか?とのご指摘があるかもしれません。”かぶき者・うつけ者”と言われてド派手な格好で闊歩していたとされる吉法師(信長の幼名)と、天下人となって小判をばら撒く成り上がり者の秀吉のイメージなのでしょうか。
ちょっと、話が横道に逸れますが、、、
基本的に尾張・三河地方の人は”けち”です。ビジネスマンの方はよくご存じでしょうが、『名古屋の三叩き』と言うのがあります。
つまり、”買う前に値切り、納品時に値切り、支払い時にもう一度値切る”のです。
信じられない嘘みたいな話ですが、私自身名古屋で東証一部上場企業の工場へ集金に行った折、集金に来ている他社の営業マンが白紙の領収書を持って来て、集金時に金額を書き込んでいるのを見て奇異に感じていましたが、これがおそらく”支払時に値切る商慣習のなごり”だったんじゃないでしょうか。
併せて、名古屋人は借金をすることを極端に嫌がります(これは”抵当に入る”と称して、その家が左前になったことを示すようです)。
ですから、ご存じないかもしれませんが現代でも、大小問わず事業会社で一番『無借金経営』の企業が多いのは中部地方なんです。
これを踏まえて先ず考えると、この中部地方の”家”というものは”質素倹約”が基本なんです。
豊臣秀吉が織田信長に取り立てられた本当の理由は、巷間に言われる『草履を懐で温めていた』ことではなくて、清州城の賄い方を命じられていた折、城内の無駄を薪に至るまで徹底的始末して、大きな黒字を出したことにあります。
一方、信長の父古渡城主織田信秀は、京の御所でも多額の寄進を定期的に行う人物として知られていました。
要するに、倹約して貯めたお金の使い道が違うのです。
例えば、伊勢神宮の『式年遷宮』ですが、ご存じのように今でも20年に一度行われています。
これは、天武・持統天皇期より始まりましたが、15世紀に入ると資金難で内宮の遷宮が寛正3年(1462年)を最後に中断されていました。
再開されてのは、天正13年(1585年)のことです。
これは123年ぶりのことですが、なんとあの織田信長がこの遷宮資金を寄進しその後『本能寺の変』で本人が横死したため、そのあとを後継者となった豊臣秀吉が完成させました。
繰り返された戦の資金も必要でしたが、彼らはこのようなお金の使い方をする人たちで、徳川家康もそのひとりに含まれます。
日頃は質素倹約をして資金を貯めておき、いざとなったら必要なところに”ドンと使う”のです。
一般庶民では、中京地区の人は冠婚葬祭と家屋にお金を使い、日頃の贅沢は厳に戒めると言うのが昔からの習わしですね。
おそらく、徳川家康もその基本線に沿った考え方であって、所謂『けち!(吝嗇ーりんしょく)』ではないと思います。
中京地区で有名な金遣いの荒いお殿様は、豊臣秀吉を除いたら、尾張徳川家第7代目当主徳川宗春(とくがわ むねはる)だけではないでしょうか。
徳川幕府”中興の祖”と言われた第八代将軍徳川吉宗(とくがわ よしむね)の”享保(きょうほ)の改革”による過度の『質素倹約』に反発して、尾張で派手に歌舞音曲(かぶおんぎょく)を奨励し、このため当時の名古屋の繁栄ぶりは語り草になっています。
食事に気を使う”健康オタク”だった?
これだけ”ケチ”と言われた徳川家康ですが、日頃の食事はどんなだったでしょうか?
食文化史研究家永山久夫氏の著書『戦国武将の食生活』によりますと、
先ほどの”郷土三英傑”の寿命は、
- 織田信長 49才(天正10年1582年没)
- 豊臣秀吉 63才(慶長3年1598年没)
- 徳川家康 75才(元和2年1615年没)
となっています。徳川歴代将軍の平均寿命が49.6才だそうですから、家康は飛びぬけて長寿だったことが分かります。
食事は『麦飯』と『三河味噌(豆味噌)』が基本でした。
特に『麦飯』の効用(食物繊維とカルシュームが多く含まれる)が非常にあったとされています。
また、大豆100%の豆味噌(三河味噌ー八丁味噌)には、行動力・直観力の源泉となるアルギン酸が多く含まれており、この大豆100%の豆味噌は日本では中京地区でしか生産していなかったことから、”郷土三英傑”とも感慨があるのではないかと言われています。
結果的に徳川家康は、質素倹約の名のもとに、極めて健康にいい食事を継続していたことが分かりました。
しかも、無類の”鷹狩”好きで、鷹の獲る鳥肉を必ず食していたことから、動物性たんぱく質もほどよく摂っていたことが分かります。
野菜などは旬のもの以外は手をつけなかったとされています。
これを聞いた武田信玄が”身の養生を考えて旬のものしか食べないのだろう、さすがだ。”と感心したとあります。
また、、、
近習のものが家康の茶碗の中に、白米を入れて上からかぶせて麦飯を入れて出したところ、”汝らはわしを、単なるケチとでも思っているのか。今は戦国の世で、毎年のようにいくさがある。戦場の士卒たちは、安心して寝食も出来ないでいるのに、どうしてわしだけが贅沢が出来るのか。”と言ったとされて、粗末な食事を意識して摂っていることを話しているようです。
と言う事で、日常的な『家康メニュー』のおさらい:
麦飯、豆味噌(三河味噌・八丁味噌)、香の物、タンパク質(煮魚、焼き鳥?)、芋・大根の煮物、酒少々
とまずまずのお食事だったようです。
最後に、、、
『織田がこね、羽柴がつきし天下もち、ただ安々と食らうは家康』などと、庶民に揶揄(やゆ)されましたが、”健康”をパワーの源泉として、大きな目標を達成したことは間違いない事実ではないでしょうか。
まとめ
織田信長、豊臣秀吉と比べて、同じ天下人でも地味で人気がない人物として徳川家康は見られています。
それは、260年にも及ぶ長い治世を達成していたのに、最後明治政府となる薩長軍に武力討幕されたため、敵方徳川幕府の『悪玉イメージ』を以後150年以上にもわたって引きずらされているのも原因のひとつです。
戦国の覇王織田信長の盟友・協力者として早くから名前が出ていたにもかかわらず、未だに真相のわからないクーデター『本能寺の変』により農民出身の豊臣秀吉に天下を横取りされて、それでもあきらめずに出番を待っていた執念に人々は畏敬の念を持つとともに恐怖しています。
それが、家康の『狸オヤジ』イメージで、最後に明治政府に『悪玉イメージ』を添えられてしまってワリを食っていると言うところでしょうか?
タイトルの『家康の性格』ですが、信長、秀吉のように最後に『ちょっとおごり高ぶったような態度』も出さずに、後につながる体制作りに精を出したところは、”極めて実直な性格”と評していいのではないでしょうか。
『性格』面から見てみると、一応家康は上記のような『性格』だと考えておけばいいのですが、ここでひとつ引っかかるのは、明治35年に村岡素一郎氏が著書『史疑 徳川家康事蹟(とくがわいえやす じせき)』で疑問を出されている『徳川家康の成替わり(なりかわり)疑惑』でしょうか。
『松平信康事件』始め、三河松平党との紛争とそれに引き続く『一向宗徒との抗争』、『徳川改名』など色々な事が『家康成替わり』を想定すると腑(ふ)に落ちてくるような気がします。
今までの、『徳川家内紛』に終止符を打つのが”女房と嫡男の斬殺”、では非常におさまりが悪いですよね。
要するに以前の話のままでは、艱難辛苦して待っていた唯一の跡継ぎの”竹千代君”である”家康”を、なぜ松平党が引きずりおろそうとするのか理解が出来ません。
村岡説だとよくわかるのですが、残念なことに村岡説は決定的な証拠に欠けるような気がします。
この証拠が世に出るまでは、『家康は物事をよく考えて慎重に行動する実直な性格の人物』と言う理解でいるしかないようです。
参考文献
日本史史料研究会監修 『家康の研究の最前線』(2016年 洋泉社)
平野明夫編
日本史史料研究会編 『信長研究の最前線』(2014年 洋泉社)
大久保彦左衛門 『三河物語(下)』(1980年 ニュートンプレス)
小林賢章訳
渡邊大門編 『家康伝説の嘘』(2015年 柏書房)
榛葉英治 『新版 史疑 徳川家康』(2008年 雄山閣)
八切止夫 『家光と春日局』(1982年 日本シェル出版)
永山久夫 『戦国武将の食生活』(1990年 河出文庫)
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