執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
戦国の奇跡!徳川家康と織田信長の同盟 なぜ20年も続いた?
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織田信長の時代、戦国武将たちから律義者と言われた徳川家康。
戦乱の時代になぜ!二人の同盟関係は20年以上も続いたのかを明らかにします。
そして、歴史的大事件『本能寺の変』では、本当に家康は巻き添えを食っただけなのか、或は関係していたのかを読み解きます。
目次
ふたりが初めて出会ったのはいつのことか?
徳川家康(とくがわ いえやす)は、天文11年12月26日(1543年1月31日)に戦国大名今川義元(いまがわ よしもと)配下の三河国岡崎城主松平広忠(まつだいら ひろただ)の嫡男(竹千代)として生まれました。
NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎(なおとら)』の主人公”おとわ”ように、今川から人質を求められ岡崎から駿府へ向かう途中に、広忠の後妻の父 田原城主戸田康光(とだ やすみつ)の裏切りによって、拉致されて敵方織田信秀(おだ のぶひで)のところへ送られたとされていました。
しかし最近の研究では、父の松平広忠は織田信長(おだ のぶなが)の父織田信秀に攻められて降伏し、そのため広忠の嫡男竹千代(家康)が最初から織田方へ人質として送られたのが真相だとされています。
織田方に送られた家康のところに、”うつけ者”の評判だった織田信秀の息子であった吉法師(きっぽうしー織田信長)がのぞきに行ったとの説はあるようですが、その記録は確認されていないようです。
ここでの出会いは有ったとしても、お互いの交友につながるものではなかったようです。
家康が織田へ人質として送られたのが、天文16年(1547年)8月でしたが、天文18年(1649年)に父の松平広忠が配下の者の裏切りで暗殺され、それを契機に今川家が織田信秀の庶子織田信弘(おだ のぶひろ)の守る安城城を攻め落し、信弘を人質とします。
信弘と人質交換で家康は今川方へ戻され、そのまま三河今橋城(現豊橋)に他の松平系の人質と一緒に収容されました。
最新の研究では江戸時代に作られた通説とは違い、人質家康が駿府に移動したのはこの時すぐにではなくて、家康が元服する弘治3年(1557年)ではないかとみられています。
有名な今川家の大軍師・大龍山臨済寺住職太原雪斎(たいげん せつさい)から薫陶を家康が受ける話は、駿府に行ってから今川義元が『桶狭間(おけはざま)の戦い』で討ち死にするまでの3年間だったことになります。
このように信長と家康の出会いは、人質時代にあったかもしれないと云う話はあるものの記録には残っていませんので、やはり『桶狭間の戦い(1560年)』以降ということになりそうです。
江戸時代に出来た通説では、家康は『桶狭間の戦い』直後も、織田方の城を攻め続けて今川との連携を保ち、後継の今川氏真(いまがわ うじざね)に義元の弔意合戦を勧めるものの、駿府から動こうとしない氏真に見切りをつけて織田方と結んだとされています。
しかし最近の研究で、家康が攻め続けたとされた”織田方の城”は、当時今川方のまだ支配下であったことが判明しており、家康は『桶狭間の戦い』直後から、今川方の城を攻めていたことが明らかになりました。
となると、家康の織田方との盟約は『桶狭間の戦い』直後であった可能性が高いと考えられます。
当時の情勢から、やっと独立を果たしたばかりの家康が、居城の岡崎から遠く離れて仇敵信長の織田領の奥深く清州城まで、出かけて行くのはまだ全面的に”織田信長を信用できない状況下”には非常に困難であると言えます。
とすると、、、家康と信長の最初の出会いは、従来から織田方についていた家康の伯父水野信元(みずの のぶもと)の仲介で会った鳴海城あたりではなかったかと思われます。
(引用画像:三英傑田んぼ画像)
徳川家康と織田信長の”攻守同盟”である『清州同盟(きよすどうめい)』は本当にあったのか?
江戸時代に確立した通説では、永禄3年(1560年)5月に今川義元(いまがわ よしもと)が『桶狭間の戦い』で討ち死にすると、義元の弔い合戦を後継の今川氏真(いまがわ うじざね)に勧めて、自らも織田方との戦いを続けました。
しかし、氏真が駿府から動こうとしないのに失望して、織田方についている伯父の水野信元を通じて織田方と和睦することにしました。
そんな経緯で永禄4年(1561年)2月に、尾張鳴海城にて双方の境界線を決めて和睦が成立、永禄5年1月に家康が清州の信長を訪問し、家康と信長が会見をして両者の攻守同盟『清州同盟』が成立したとされています。
ところが最近の説では、、、
従来の見方と違って、家康は前述のように『桶狭間の戦い』終了直後から、今川からの独立・失地回復を図るべく今川方の城(挙母、広瀬、伊保、梅ヶ坪、沓懸)を攻めています。
織田軍側からすれば、家康のこの行動は結果的に”家康ー松平宗家の調略に成功して寝返らせたようなもの”ですから、今川義元討死直後の混乱の時期はその両者(織田ー徳川)の境界線(国境)だけを決めておけばよい訳です。
それが証拠に、言わばこの”家康の独立戦争”でしかも、攻守同盟を結んだにもかかわらず織田軍が家康の戦いに援軍を送った形跡はなく、家康側へ信長からの出兵要請があったのは、なんと信長が足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて上洛する永禄11年(1568年)以降、つまり7年後となります。
と言う事は、この時期(『桶狭間の戦い』直後)の織田信長と徳川家康の『清州同盟』と言う攻守同盟の成立はなかったのではないかと言うのが最近の説です。
その根拠の中に、『清州同盟』に関して、信長・家康の双方の配下の者が残したとされる、有名な信憑性の高い『信長公記(しんちょうこうき)』、『三河物語(みかわものがたり)』などに、この『清州同盟』の記述が一切ないことが挙げられています。
どうもこのタイミングでの『清州同盟』は、江戸時代に入ってからの幕府の意向(徳川家康の神格化の一環)による創作ではないかと疑われています。
本領が”尾張”と”三河”で国境を接して、しかも親は敵同志なのになぜ手を結んだの?
前章のように、そもそも”清州同盟”を結んだ様子はないのですが、お互いに親の代のいがみ合いに拘っている様子もありません。
家康は、この”桶狭間の戦い(織田信長の不意打ち)”の時、今川軍の最前線で先鋒として織田方の丸根砦を攻め落とした後、大高城へ入っていたために、NHK大河ドラマ『おんな城主・直虎』の井伊直虎の父井伊直盛(いい なおもり)のように、今川方武将として織田信長の奇襲攻撃に巻き込まれていないので、軍団の勢力を維持したまま事後に対応出来る幸運に恵まれました。
織田信長はこのあと、この『桶狭間の戦い』勝利の勢いに乗じ、調子に乗って今川領へ攻め入るということはしないで尾張の領国へまっすぐ引き上げています。
そして、数日経過しても静かにしていて、改めて本格的な今川領への進軍の動きを起こしていません。
この信長の機略は、常々『勝ちに乗じて、ことをなす時には、必ず天魔波旬(てんまはじゅんー法華経で仏道修行を妨げる魔のこと)につけ入られる。』と言って、自身を戒めていたと伝えられています。
実はこれが、当時の信長の戦略の基本となっていました。
家康は、この信長の動きにその真意に気が付き、長期の人質生活でなまった自身にむち打ち、他の勢力をあてにせずに自力で解決する方針に転換して、今川との領地・勢力回復戦に積極的に打って出るようになりました。
とは云うものの、この間に全く織田―徳川間で盟約が成されなかったのではなく、両者が停戦する為に協定が必要なのは当然で、『桶狭間の戦い』直後に大高城にいた徳川家康は、織田信長と最低限の休戦協定だけは結んでいたのが真相ではないかと思われます。
つまり、”休戦協定”は結んだけれども、家康が昨日の敵である織田領奥深くの清州まで”ノコノコ”と出かけて、”同盟”までを結びに行くことはあり得ないと言う事ですね。
家康は、今川に代り織田の先兵となって今川と戦い始めたのではなくて、この機を利用して松平宗家の本領回復(今川家からの独立)のために戦い始めたと言えそうです。
この協定によりこの後徳川ー織田の両者は刃を交えることはせずに、徳川が東へ、織田は西へと勢力を拡大していくと言う進むべき方向性が確認されたと考えていいのではないでしょうか。
信長の過酷な命令に、なぜ家康はおとなしく従ったのか?
『桶狭間の戦い』直後の家康と信長の関係は、事実上の同格の同盟関係に近かったと考えられます。
しかし、時代が進んで来ると信長の勢力はどんどん成長し、元亀3年(1573年)の『三方が原(みかたがはら)の戦い』で家康が武田信玄(たけだ しんげん)に惨敗したあたりから織田に対する依存度が高まって行き、元亀4年(1573年)に信長が将軍足利義昭を京都から追放したあたりから、信長は家康に命令を直接下すようになり同盟関係は変化を始めて行きます。
天正3年(1575年)5月の『長篠(ながしの)の戦い』では、もう完全に家康は織田軍の先陣を務める一武将(国衆)となっています。
象徴的な出来事は、”家康の正室築山(つきやま)殿の処罰事件と息子信康(のぶやす)の切腹”でしょうか。
事件は、天正7年(1579年)に家康の実子松平信康の正室徳姫(とくひめ)から、実父の織田信長へ”築山殿と信康の武田氏への内通の告げ口”があり、家康は信長から対応が求められ、結果築山殿を斬殺し、信康を切腹させると言う顛末となりました。
まさに、血のつながりよりも”家門”を守るために、信長の圧力に屈した”徳川家康屈辱の事件”として伝わっています。
家康の正室”築山殿”は家康が駿府人質時代に今川家よりつけられた太守今川義元の妹の娘でした。
家康が今川義元から非常に可愛がられていた証拠でもありますが、『桶狭間の戦い』以降別居している状態で、家康にとっては既に目の上のたんこぶと化していた人物だっただけに、種々取り沙汰されています。
そして、その頃 織田信長から完全に配下の”国衆”扱いされていた家康は、信長からの『徳川殿にその処置をまかす』との命令?に、泣く泣く身内を殺害したと言われています。
そんな事からこの時期には、家康が信長に完全に隷属していたことは間違いない事実でしょう。
やはり武田軍に手も足も出なかった『三方が原の戦い』での惨敗が尾を引いているのでしょうか。
家康が絵師にその時の敗戦したみじめな自分の姿を描かせた、自虐的な肖像画『しかみ像』が今に伝えられているところを見ると、家康自身も自覚していたのかもしれません。
(引用画像:徳川家康しかみ像)
信長と家康はどちらが”いくさ上手”だったのか?
幼い時の育ちからすれば、”うつけ者”とか”大うつけ”と呼ばれ、野山を子分の悪童たちを引き連れて駆け回っていたイメージのある信長の方が、人身掌握術・野戦能力に関しては人質生活を送っていた家康より、早くから上手くやっているような気がします。
一方家康は、今川人質時代に義元の軍師・軍司令官をしていた臨済宗僧侶太原雪斎(たいげん せっさい)の薫陶を受けており、先生のいなかった信長より軍略知識は長けていたかもしれません。
ふたりとも、すぐれた将器を持つ天才武将でしたが、現代での人気は信長の方が数倍評価が高いようです。
理由としては、信長の『桶狭間の戦い』の大成功があるでしょう。
たった2,000騎くらいで、25000名の今川の大軍を破った戦略に拍手喝采なのでしょう。
一方、家康には『狸オヤジ』のニックネームが付きまとい、武将としての評価よりしたたかな政治家としてみられることが多いことから”庶民ウケ”しないような気がします。
合戦に関して、家康も秀吉も10万・20万と言う兵力を動かす戦闘を仕掛けていますが、信長はそんな大兵力で戦っているイメージがありません。
個々の戦闘での、優劣はあるのかもしれませんが、ひょっとしたら大軍の扱いは家康の方が能力があったのかもしれません。
しかし、考えてみると信長の戦闘と云うものは、同時多方面作戦を常に実行して成功させています。
天下を掌握するまでに、1か所で10万単位の軍を動かさねばならない状況を作り出していない、各個撃破の戦闘で処理をしていたとも言えます。
一方家康は天下を取るために、大坂夏の陣では20万以上の大軍を集めています。
比較は非常に難しいですが、細かい戦闘を積み重ねて、低コストで戦っていたのが信長で、莫大な資金力を使って戦争するやり方を好んだのが家康かもしれません。
もし、第二次大戦で言うなら戦闘部隊の編成の仕方が、信長が日本軍で、家康がアメリカ軍みたいな見方も出来そうですね・笑。
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家康は『本能寺(ほんのうじ)の変ー織田信長暗殺』に加担したのか?
”家康が信長暗殺に関わった”と言うのは、今までの通説からすると唐突に感じます。
むしろ、家康も苦難の”伊賀越え”を強いられている被害者のひとりと言う認識でした。
しかし、近年話題の新説 明智憲三郎氏の著作『本能寺の変ー431年目の真実』によれば、家康と明智光秀の間で盟約がすでに存在し、岡崎に帰着してすぐに旧武田領の織田軍切り崩しと光秀への援軍準備に取り掛かったとあります。
確かにこの『本能寺の変』における、豊臣秀吉と徳川家康の動きは非常に不自然であることは、以前から感じていました。
秀吉に関しては、”謎の中国大返し”があり、”これはありえへんやろ!”と疑惑に感じる人と、奇跡と言って賞賛する人と様々です。
しかし、家康の行動に関しては、疑問を持つ人は本当に少なかったのではないかと思います。
そんな訳で、この明智憲三郎氏の資料を丹念に調べた新説には、衝撃を受けました。
勿論、研究者の歴史資料の使い方と云うものは、全部を並べてどうだと言うのではなく、自説の補強に役立つ資料だけそろえると言う性格があります。
私のような読者は本当に困るのです。
つまりそういう疑り深い見方をすれば、どれも信用ならないことになるからです。
とは云うものの、、、
この”家康の宝くじにでも当たったような幸運な成功物語”に、明智憲三郎氏は一石を投じたことにはなります。
『幸運』は偶然が続くものではなくて、続く場合は”演出”があると考えるのが歴史に対する正しい理解だと思います。
つまり、この”演出の可能性”を提起した明智憲三郎氏の説は十分有り得る話であると考えるのが妥当でしょう。
家康の『信長暗殺への関与』は、事実は不明ながら十分に説得力のある話と云えそうです。
しかし、全体に家康に与えられた時間が厳しいのです。
”武田勝頼(たけだ かつより)への掃討戦”の後、家康は一体いつ頃”明智光秀(あけち みつひで)の企み”を知ったのかがよくわかりません。
と言うのは、安土で初めて光秀から打ち明けられたにしては、家康側の準備が整いすぎと考えられることです。
そもそも”信長のワナ”は十分に有り得る話なので、あの用心深い家康が危険な信長の誘いに対して信長の『家康暗殺』の企みを予想しないはずはなく、あのような少人数で三河から安土へ向かう訳がないのです。
おそらく事前に光秀との談合があったからこそこの話に乗って少人数で三河から出て来たんでしょうが、やはり『本能寺の変ー信長暗殺』はまだまだ”真実は闇の中”と言えそうですね。
まとめ
徳川家康と織田信長の”同盟”は、信長が一躍名声を上げた『桶狭間の戦い(1560年)』直後から、信長が暗殺される『本能寺の変(1582年)』まで20年以上に亘って続いた戦国時代の奇跡と言われるものです。
信長の周辺の武将たちから”律儀な徳川殿”と評された家康ですが、私が昔地元名古屋の学校で習ったことのある”幼少期の人質時代からの交友”に基づくものではないようです。
信長も織田家内部で、のし上がるのにさんざん苦労を重ね、挙句の果て兄弟殺しまで実行して家督を勝ち得た人物です。
家康も西の織田家と東の今川家に食い物にされ、地元三河の領地を散々蚕食された”国衆”の跡継ぎ?です。
家康の父松平広忠は、あろう事か今川義元と語らった信長の父織田信秀によって東西両方向から挟み撃ちに合い、万策尽きて信秀に降伏させられ、幼子の家康(竹千代)を人質に取られています。
本当に家康の実家松平宗家も、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の実家である遠江の国衆 井伊家と同じ運命に翻弄されていたのです。
家康の幼少期はまさに、”たらいまわしの人質人生”だったと言えそうです。
そんな二人、家康と信長の同盟関係は、微妙な力関係で成り立っていたと考えられます。
お互い隙あらば”亡き者”にしようとする”戦国武将”の緊張関係は、信長の最期まで続くわけです。
二人の同盟関係は、現代人が考えるような友情関係ではなかったと考える方が正解のようです。
では、なぜこの同盟は続いたのかと云えば、やはりお互いの力を認め合っていたと言えるのではないでしょうか?
互いに”利用価値”が無くならなかった訳です。
実力社会では、”実力のない者”、”利用価値のない者”と”敵対する者”は必ず排除されます。
二人の関係が長く続いた理由は、お互いに上記のどれにもずっと該当しなかったからと言えそうです。
参考文献
日本史資料研究会 『家康研究の最前線』(2016年 洋泉社)
平野明夫編
日本史資料研究会編 『信長研究の最前線』(2014年 洋泉社)
榛葉英治 『新版 史疑 徳川家康』(2008年 雄山閣)
太田牛一 『現代語訳 信長公記』(2013年 新人物文庫)
中川太古訳
明智憲三郎 『本能寺の変 431年目の真実』(2013年 文芸社文庫)
明智憲三郎 『織田信長 433年目の真実』(2015年 幻冬舎)
仁志耕一郎 『玉繭の道』(2013年 朝日新聞出版)
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