坂本龍馬暗殺事件!中岡慎太郎はなぜ殺されたか?

スポンサーリンク



竜馬暗殺事件(近江屋事件)の本当の狙いは中岡慎太郎暗殺だった?
薩長盟約(同盟)』の功労者は坂本龍馬中岡慎太郎か?
竜馬と中岡の思想はどう違うのか
などなど明確に解説いたします!

スポンサーリンク



実は、坂本龍馬(さかもと りょうま)は中岡慎太郎(なかおか しんたろう)暗殺の巻き添えを食っただけ?

定説となっている”坂本龍馬暗殺実行犯の京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)”が本当に狙っていたのは、坂本龍馬ではなくて中岡慎太郎だと言う説があります。

この話のベースになっているのは、ひとつには龍馬は”倒幕”を目的としているものの徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)を政権に残す『公議政体(こうぎせいたい)』案が基礎になっているのに対して、中岡は武力討幕を前提とした過激案であることです。

実際、徳川慶喜からも穏健な”王政復古(おうせいふっこ)”を進める坂本龍馬の政治的利用価値の高さから、間違って殺害しないように”お触れ”を関係先に出していたとの話もあります。

もうひとつは中岡慎太郎は朝敵となった過激な長州勢力の中に深く入り込んで、『禁門の変(きんもんのへん)』には長州軍の一員として参戦しており、反幕行動が目立っているので幕府側の狙いは反政府運動の巨魁中岡慎太郎だったのだろうと言うものです。

つまり、薩長の尊攘志士の間では中岡慎太郎の方が顔が売れており、尊攘志士の反幕行動に神経をとがらせていた幕吏の網には中岡慎太郎が引っかかりマークされていたのではないかと言う事ですね。

こうした考えから、慶応3年(1867年)11月15日夜8時過ぎに京都四条河原町の醤油屋”近江屋”で、京都見廻組と思われる一団に襲われたのは本当は中岡慎太郎で、坂本龍馬は巻き添えを食ったのだけなのではないかと言う説が生まれる訳です。

しかし実際には、ふたりとも精力的に動き回っており、政治的なパフォーマンス能力はどうも龍馬の方が上で、中岡は愚直に地味に一生賢明に動いていた印象が強く、同じことをやっていても龍馬の方が目立っていた感じです。

軍艦を動かすと言う組織的なこと(海軍)に携わっている分、遥かに龍馬の方が軍事面での脅威となり”危険人物視”されやすかったこともあるのではないかと思います。

それに、当日の中岡慎太郎の行動からすると、隠れ家『近江屋』に居座っていた龍馬に比べて、中岡は動き回っており、偶々あの時『近江屋』に上がり込んでいたにすぎないので、組織的な暗殺団が計画的に襲う対象にはなりにくい状況があります。

一般的に云って、暗殺団は隠れ家にずっといた龍馬を狙ったと考えるのが妥当ではないかと思います。

そんな傾向が見て取れますので、単純に”龍馬は中岡の巻き添えを食った!”と言う説は取りにくいのではないかと判断します。

中岡慎太郎
(画像引用:Yahoo画像中岡慎太郎

坂本龍馬と中岡慎太郎はどちらが”薩長盟約”に貢献したのか?

江戸幕府の終焉(明治維新)を招き寄せるキッカケとなった慶応2年(1866年)1月21日の『薩長盟約(同盟)締結』はどのような推移で実現したのでしょうか。

一般的に知られていることは、仇敵同志の”長州の桂小五郎(かつら こごろう)”と”薩摩の西郷隆盛(さいごう たかもり)、小松帯刀(こまつ たてわき)”の提携を龍馬が取り持ち、どうにか両者の会合の段どりをつけたものの、意地の張り合いで決裂しかけていたところを立ち合っていた坂本龍馬が懸命に両者を説得して締結に漕ぎつけたと言う龍馬の”龍馬の功績”を謳います。

そこだけが強調されているので、龍馬ひとりが発案して、両者を取り持って締結に導いたかのように印象づけられています。

もっと詳しく見てみると、龍馬は”同志中岡慎太郎”の協力も得て進めていたと言う事がやっと出て来ます。

本当はどうなのでしょうか?

中岡慎太郎は文久3年(1863年)8月18日の『政変』で、都落ちした公家七卿の落ち着いた長州三田尻(現防府市)の”招賢閣(しょうけんかく)”に集まって来た脱藩浪士のひとりでした。

その後前述のように『禁門の変』の折、長州軍に加勢した浪士隊”忠勇隊(ちゅうゆうたい)”の隊長として参戦し、戦後処理を巡っての公家五卿ー長州ー薩摩の談判に加わっていた関係上、長州ー薩摩の人脈に深く関与していました。

中岡はその後、長州ー薩摩と、九州大宰府に落ち着いた公家五卿の間を頻繁に飛び回り、次第に倒幕派の調整役的な役割を担っていきます。

一方龍馬の方は、別記事で記述したように幕臣勝海舟(かつ かいしゅう)の企画した『神戸海軍操練所』創設に尽力し、塾頭的立場で勝の手足となって幕臣および雄藩要人の間を走り回っていました。

そこへ元治元年(1864年)6月5日に発生した”池田屋事件”の影響で、勝海舟は海軍奉行を罷免され、作ったばかりの『神戸海軍操練所』の廃止が決まりました。

そこで勝は残された龍馬を含む海軍操練所の人材を、長州征討に絡んで勝がその人物を認めた薩摩の西郷隆盛に託します。

こうして、”薩・長・公家五卿”に強いコネを持つ中岡慎太郎と”薩・長・開明派幕臣”のパイプを持つ同郷の志士坂本龍馬の運命の線が交わります。

そもそも二人はその師匠武市瑞山(たけち ずいざん)を介してつながりがあるわけですが、再びまた同じ方向を向いて活動を始めます。

中岡は土佐藩士ながら五卿三条実美(さんじょう さねとみ)に同行している同じ武市瑞山の”土佐勤皇党(とさきんのうとう)”出身の土方楠左衛門(ひじかた くすざえもん)と”薩摩と長州の和解工作”に走り始めていました。

薩摩西郷隆盛と長州桂小五郎の会談を計画をしていたところ、西郷隆盛の上京の報に接し、京都の薩摩藩邸の賛同(長州との和解案)を得て、中岡と土方は薩摩の藩船”胡蝶丸(こちょうまる)”で薩摩へ向かいます。

途中、土方は長州桂小五郎を説得するべく、豊前田の浦(ぶぜん たのうら)で下船して下関へ向かい、中岡はそのまま乗船して薩摩へ行き西郷の説得を試みると言う手筈で動きます。

結果は歴史にある通り、桂と別途加わった坂本龍馬が下関で待つものの、西郷は京の政治情勢が優先して京都へ直行し、桂は下関で待ちぼうけとなります。

そこで、ひとりで空しく下関へやって来た中岡は、龍馬と同道で京都の西郷のところへ再び説得へ向かい、今回は龍馬の力を得て何とか京都での桂との面談をセットすることに成功します。

このあと、半年以上かかって二度目の会談を実現させ、やはり逡巡する西郷の背中を龍馬が押す形で慶応2年(1866年)1月21日に『薩長盟約(同盟)』が締結されました。

こうした経過を見ますと、一度目の失敗に終わった”薩長の面談”は中岡と土方がほぼセットをしており、坂本は最後に下関で同席する感じです。

半年後の二度目の時には、中岡は大宰府の五卿の応接掛りとなっていて、下関から京都へ移動する桂小五郎を京都まで送ったものの、役目柄(大宰府の五卿掛り)、とんぼ返りで大宰府へもどり肝心の薩長談判の場には不在となっていました。

そのため、大事なところはすべて坂本龍馬が仕上げた形になってしまいます。

一般的にすべて、この『薩長盟約(同盟)』締結は龍馬の手柄となって、歴史上有名になっていますが、おぜん立てはほとんど中岡と土方がやっていたとも言えそうです。

長州桂の気持ちを大きく引き寄せたものに、幕府の妨害で長州が入手出来なかった武器を、薩摩名義で買い集めそれを”亀山社中”が長州に届けたと云うものがあります。

これで、薩摩の誠意を長州が理解して、大きく盟約締結へ前進した訳です。これは”龍馬の仕事”です。

歴史は結果が残りますので、やはり”龍馬の貢献”が光りますが、もし中岡がいなければこのように瞬足で『薩長盟約(同盟)』の成立は無かったかもしれません。

つまり、龍馬だけでは『明治維新』は遅れたか、ひょっとしたら無かったかもしれません。

歴史の中に埋没していますが、中岡慎太郎の仕事はもっと評価されて良いのではないかと思います。

『薩土盟約(さつどめいやく)』とはなにか?

慶応3年(1867年)は、”龍馬暗殺の年”でもありますが、本格的に”明治”へ時代が動き始めていた年でした。

その中で、この慶応3年6月22日に京都三本木の料亭吉田屋で結ばれた『薩土盟約』はほとんど注目をされていませんが、私は『龍馬暗殺』の”パズルを解くキー”の重要なひとつではないかと思います。

その経緯としては、幕府の第二次長州征討の帰趨が慶応2年(1866年)8月には幕府軍の敗北がはっきりし、それを見た土佐藩は政策転換を迫られ、10月に大監察福岡藤次(ふくおか とうじ)が上京して薩摩藩との接触を深めて、藩論を”佐幕”から”討幕”へ切り替えることを決断します。

結果、慶応3年(1867年)1月に薩摩西郷隆盛が高知を訪問して、1月17日に土佐藩実権者山内容堂(やまのうち ようどう)に謁見し、上京を勧め、合わせて脱藩浪士の赦免を促します。

そうして、坂本龍馬と中岡慎太郎の帰藩が決まり、海援隊と陸援隊の創設へとつながります。

このように志士龍馬と坂本を取り込んで、土佐藩も藩論が”佐幕”から”倒幕”へ変化する中、土佐藩参政後藤象二郎(ごとう  しょうじろう)は龍馬の出した”船中八策”をベースとした『大政奉還の建白』を考えます。

まだまだ幕府に未練を残す土佐藩実権者山内容堂と武力倒幕に気持ちが傾いている薩摩藩実権者島津久光(しまず ひさみつ)の調整を図るべく、後藤と福岡は土佐と薩摩との同盟を企画します。

そのために、後藤と龍馬は協力して”武力討幕論”の中岡慎太郎と薩摩藩の説得に努めます。

最終的に6月22日に前述のとおり京都の料亭で『薩土盟約』は結ばれました。

当日の参加者は、土佐藩は:後藤象二郎福岡藤次、寺村左膳、真辺栄三郎、薩摩藩は:小松帯刀西郷隆盛大久保利通、浪士代表:坂本龍馬中岡慎太郎の面々でした。

内容的には、土佐の主張にそった大政奉還による『王政復古』と徳川家も入れた『諸侯会議』が盛り込まれていました。

これにより、龍馬は”薩摩の武力討幕の動き”に寸前で”待った!”を掛けた形になりました。

その後これをテコに、龍馬は長州の使節団を高知へ迎え入れることにも成功し、中岡を使って公家の対立する三条実美と岩倉具視の和解の周旋を試みるなど、『大政奉還建白』に当たって反幕勢力の統合を画策して行き、龍馬の考える穏便な政権移行の雰囲気づくりが上手く行きかけていました。

勿論、龍馬は和戦両備えで徳川慶喜の『大政奉還』拒否があった場合は、”武力討幕”へ踏み切るべく、土佐へ大量の”銃器”を搬入するなどの準備は怠っていませんでした。

こうした中、最後まで後藤・龍馬の進める『大政奉還建白提出』に反対していた薩摩藩もやむなくほぼ了承の方向に傾いていました。

ところがところが、ここに長崎でイギリス船の水夫殺害事件である『イカロス号事件』が出来します。

駐英公使パークスはなぜか強硬に土佐藩藩士の犯行説を主張し、国際問題化させて来ました。結局嫌疑は晴れたのですが、その対応に後藤象二郎と坂本龍馬は忙殺され9月下旬まで時間を空費します。

その間に薩摩藩は土佐の穏健路線ではなくて、従前の”武力討幕路線”実行の腹を固めて行きます。空費された時間が重みを増していたのです。

土佐中心の政権移行の動きに水を差した形の『イカロス号事件』が作り出した”時間の空費”の間に、薩摩はまた武力討幕の意志を固めてしまいます。

その変化(薩摩の心変わり)に気が付かない土佐藩後藤と龍馬は、遅ればせながら予定通りに10月に幕府に『大政奉還の建白』を提出、即座に対応した15代将軍徳川慶喜によって慶応3年(1867年)10月14日上奏され、15日に勅許が降りて『大政奉還』がなります。

武力討幕の意志は固めていた薩摩は、どうせ将軍家は大政奉還に応じないはずだと考え、薩摩大久保と公家岩倉は『幕府討幕の密勅』を用意していました。

現実には、慶喜はあっさり大政奉還をしてしまいましたが、前述のとおり、たとえ大政奉還がなっても、徳川慶喜が列候会議に出席することを前提とした、土佐案の大政奉還を認めてない方針の薩摩は、どんな結論が出ようと”武力討幕”を決めていたようです。

しかし、『大政奉還』成功に舞い上がって、新政府案づくりに夢中になっている龍馬は、福井に出掛けて新政府財務担当に起用する予定の三岡八郎と長時間に亘って話し込むなど、薩摩の本音・自分の身の回りに迫っている危険などに全く気が付かないのでした。

このあと、実にタイミングよく”邪魔者坂本龍馬”の暗殺が11月15日に、徳川慶喜から龍馬に危害を加えないようにと言うお触れが出ていたにもかかわらず、幕府京都見廻組によって実行されるのです。

もっとも、挙兵準備に大わらわで帰国していた薩摩首脳陣は、薩摩討幕論シンパの”中岡慎太郎”まで巻き添えを食うとは思っていなかったようです。

当時の薩摩大久保利通の文章には龍馬ではなくて、”中岡慎太郎の遭難死”を悼むものが残されています。

11月15日の『近江屋事件』当日現場に駆け付けた薩摩吉井幸輔は早速各方面に結果を連絡し、その中に駐日英国外交官アーネスト・サトウへのものもあり、サトウはその日記に龍馬の死を伝えています

スポンサーリンク

坂本龍馬は、じつは中岡慎太郎に暗殺された!本当なの?

ちょっとこれは、本当に意表を突く説だと思います。

多数の方が唱えられているのかもしれませんが、私は作家加治将一氏の『龍馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)という本で初めて知りました。

説としては、”武力討幕派犯行説”のひとつかなと思われます。

龍馬と後藤象二郎は前章にあるように、特に薩摩の動きに警戒して、なんとか取決めで縛ろうとして『薩土盟約』まで持ち込んで薩摩の動きをけん制して内戦回避へ持って行こうとしていました。

勘繰って考えれば、武力討幕はイギリスの方針で、龍馬に引っ張り込まれそうになる薩摩に、偶々起こった?『イカロス号事件』を利用して時間稼ぎをして、イギリスが薩摩を”武力討幕方針”へ引き戻したとも言えそうです。

このように、武力討幕派の龍馬殺害動機は十分すぎるほどあります。

そして、龍馬があまりに無警戒だったことが様々な研究者によって指摘されています。

そこで、作家加治将一氏は龍馬が本当に不用心に不意打ちを食ったことに重きを置いて、その解決案として『中岡慎太郎犯人説』を述べてらっしゃいます。

確かに強烈な”薩摩シンパ”で反幕運動家の”中岡慎太郎”は、龍馬と”倒幕”では一致するものの、方法論では正反対と云える過激な行動家でした。

とは言え、、、

本当に殺るでしょうか?同志の龍馬を、、、

龍馬が政治運動に身を投ずるあまり、剣士としての鍛錬を忘れて感覚が鈍くなっていたのかもしれませんが、免許皆伝級の剣豪は常に”殺気”に鋭敏だと聞いています。

龍馬の暗殺現場があまりに素人すぎると言うかまるで、宴会をやっていて不意に襲われた町人のような殺され方なのです。

他の新選組などの暗殺は、相手が剣豪の場合はほぼ酒を呑んだ後を狙って仕掛けています。

この時は、酒を呑んで泥酔していたのでしょうか。

少なくとも、龍馬と中岡は”三条制札事件”で奉行所に捕まっていた土佐藩士宮川助五郎(みやがわ すけごろう)の引き取りを巡っての話し合いをしていた訳で、宴会をしていたのではないのです。

つまり、話に気を取られていたとしても、剣豪の坂本龍馬が階下から迫りくる殺気に気が付かないのはまったくおかしいのです。尚且つ、警備役の藤吉が襖の向こうで切られているのです。

その藤吉がバッサリ斬られた騒音を、龍馬が”ほたえな!(うるさい!)”と一喝するだけで終わりでしょうか、私はあり得ないと思います。

その点をついて、剣豪龍馬の意表をついたとしか考えられないため、そうした状況で龍馬を殺れるのは、目の前にいて気心知れた中岡慎太郎しかいないと言う論法です。

そして、中岡には動機が充分にある訳です。

かれは、まじめな言わば『武力討幕原理主義者』っぽい訳ですから、作家加治将一氏の説(中岡慎太郎実行犯説)は説得力を増すことになります。

この説に、瑕疵(かし)があるとすると、あまりにも京都見廻組実行犯説の傍証が多いと言う事でしょうか。

しかも、人通りの多い京都の繁華街四条河原町に面した醤油屋近江屋で宵の口に起こった事件です。

土佐藩のホントに目の前にある近江屋で、土佐藩の重要人物が殺害されたのに、土佐藩の反応は極めて鈍いと言えます。

元治元年6月5日に起こった『池田屋事件』では、夜の10時過ぎにも拘わらず関係者が多数集まり、翌日の昼過ぎくらいまで、京都市中で探索と斬り合いの大騒ぎを演じているのです。

それと比べて、『龍馬が暗殺された近江屋事件』はあまりにもおかしな感じです。あまりに静か過ぎますね。

作家加治将一氏の説は犯人中岡慎太郎だけに限定せずに、土佐・薩摩の過激派分子集団での共同謀議の可能性(つまり彼らは連絡を受けて駆け付けたのではなくて、最初から暗殺現場にいた暗殺犯だと言う事です)まで触れています。

そうなると、中岡の負傷は龍馬の抵抗か、仲間の口封じかと言う事になりますが、中岡が即死ではなく生き残っていたというのが引っかかります。

どうも、うまく説明がつかない感じがしますね。

まとめると、

  1. 京都見廻組犯行説には傍証が多数あり、それが全部ウソと言うのには無理がある事
  2. 中岡慎太郎の死亡の合理的な説明が難しい事

がこの説を不利にしているようですが、通説の実行犯”京都見廻組”の素早すぎる人間ワザとは思えない暗殺行動と撤退行動も極めて不自然なのです。

全員が作り話をしているように思えますね・笑

まぁ、確証に乏しいですが、”中岡慎太郎実行犯説”は、龍馬が全く無警戒で殺害されていることの説明としては、非常に興味深い説であると思います。

中岡慎太郎の思想は龍馬と同じなのか?

坂本龍馬と中岡慎太郎は同じ土佐の脱藩浪士ですが、最初の接点は『土佐勤皇党』です。

土佐勤皇党を作った武市瑞山とは、龍馬とは年齢が7年ほど違いますが、龍馬は二回目の江戸遊学時に武市と同部屋となって薫陶を受けています。

次第に剣士同志と言う枠を越えて、思想的にも影響を受け始め、武市の反幕思想へ傾倒して行きます。

一方、中岡慎太郎は農家(大庄屋)出身で武市が帰国後開いた塾・道場の弟子となり、まじめな性格から純粋に武市の尊皇攘夷思想に染まって行きます。

ですから武市瑞山は、どちらかと言うと龍馬にとっては先輩・同志みたいでしたが、中岡にとっては先生・恩師だったのです。

龍馬は後に、勝海舟の知己を得て、門人・客分になり次第に勝の説く米国型の『共和政治』への憧れを強めて宗教性のない政治の世界に目覚めて行きます。

中岡は山内容堂の政治的巻き返しで、武市の土佐勤皇党が壊滅させられる状況の中、脱藩して三田尻へ向かい以後長州人と行動を共にして行き、武市の思想をベースとした長州の過激な宗教性の強い尊攘思想へ埋没して行きます。

そんなふたりが、薩長盟約(同盟)成立の運動の中で、同志として動いて行きます。

薩長盟約成立後、第2次長州征討で薩摩の後押しもあって幕府軍に勝利し、いよいよ倒幕へ拍車がかかり始めてから、いよいよふたりの思想の違いがはっきりと出始めます。

武力討幕だけを目的としてまい進する中岡は、あとの政治形態を模索しながら共和制を目指す龍馬と大きくズレをみせ、土佐藩主導で進めていく『大政奉還』に裏では反発して行く事になります。

徳川家を政治の舞台から武力を使って引きずりおろす薩長勢力の中岡と、あくまでも徳川家も政治に関与させながら内戦を避けて新政府(議会政治)を作り上げようとする龍馬とは大きく立場が違うと言えそうです。

万が一、”坂本龍馬暗殺中岡慎太郎犯人説”があるとすると、よほど心酔する人物から命令されたのか、或は本当に自分の進む道の”悪質な邪魔者”だと龍馬を認識して殺意を抱いたかですね。

中岡慎太郎はいつから龍馬と同志になっていたのか?

これは、前章の中にも答えがありそうですが、本当の意味で同志になったことはないのかもしれません。

しかし、あの時代の熱に浮かされた若者世代として、おおむね同じ方向(幕藩体制の終焉)を演出する一員となっているのでしょう。

同じ地方出身でも、身分的には町人に近い町場の郷士の龍馬と、地方の農民の指導者大庄屋でほとんど士分の中岡では、時代が違えば恐らく会うこともなかったのではないでしょうか。

彼らを最初にふたりを結んだものは、白札と呼ばれる郷士出身の武市瑞山(半平太)の思想でした。

しかし、最初は名前を知った程度で、本当に同じ目的に向かって動き始めたのは、お互い脱藩浪人となり、反幕府の大勢力長州と薩摩の和解を考え始めてから(慶応2年頃)です。

中岡は長州勢と同行して反幕活動を続けて行くうちに、東の会津藩と肩を並べる軍事力を持つ大藩薩摩との和解・連携の必要性を感じて、同じ土佐の脱藩者の土方楠左衛門と活動を始めます。

ほどなく、幕府側に足を突っ込みながら幕府開明派の中で動いて倒幕運動をしている龍馬と連携するようになります。

つまり、同志として動き始めたのは、”薩長盟約(同盟)”成立に向けて運動始めて、第一回目の桂と西郷の面談が失敗した時下関で待っていた龍馬に中岡が薩摩から手ぶらで来た時からではないかと思います。

これ以降、中岡の環境整備の努力が続く中、龍馬は政治的に有効な手を打ち続けて中岡が手足のように動いて行く事になって行き、ふたりの協力関係はうまく回って行きます。

このふたりは、”薩長の和解工作”と言う仕事上の”同志”であったと言った方が良いのかもしれません。

まとめ

慶応3年(1866年)11月15日の『坂本龍馬暗殺事件(近江屋事件)』で、龍馬と中岡はふたりして斬殺されました。

このふたりは2年違いくらいのほぼ同年代の幕末勤皇の青年志士でした。

通説では、京都守護職会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)の命令で、配下の京都見廻組与頭佐々木只三郎(ささき たださぶろう)指揮下の7~8名の暗殺隊により斬殺されたと言われています。

しかし、亡くなるまでに成し得たふたりの最大の功績としては、幕府終焉のきっかけとなった長州藩と薩摩藩の手を結ばせる『薩長盟約(同盟)』の締結でした。

中岡が走り回っておぜん立てをして、龍馬が上手く取りまとめて行った事により、他の大人たちが成し得なかった最強の討幕勢力の結集に成功しました。

そして、この革命(明治維新)に全精力をつぎ込み努力していたふたりに、幕末の闇の大きな政治の怪物が襲い掛かり、新生日本(明治新政府)を見ることなく命を散らしました。

坂本龍馬は、政治性に富み、なにかにつけて派手なパフォーマンスが目立つ有能な人物で、中岡慎太郎は地道に自分の目標に向かって努力を重ねる地味な男でした。

同じような境遇に生まれ、育ち、そして大きく成長していったふたりの軌跡は歴史上に大きな足跡を残すこととなり、新生日本の礎を作ったふたりと言えるのではないでしょうか。

参考文献

松浦玲 『坂本龍馬』(2008年 岩波新書)
平尾道雄 『海援隊始末記』(1976年 中公文庫)
平尾道雄 『陸援隊始末記』(1977年 中公文庫)
加治将一 『龍馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)
中村彰彦 『竜馬伝説を追え』(1994年 世界文化社)
中村彰彦 『明治新選組』(2016年 光文社文庫)

アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新(下)』(1960年 岩波文庫)
坂田精一訳

ウィキペディア坂本龍馬

ウィキペディア中岡慎太郎

ウィキペディア薩長同盟

ウィキペディア薩土盟約

スポンサーリンク



コメントを残す




CAPTCHA


Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.