徳川家康の好敵手!北条氏政は『関東将軍』だった!ホント?

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徳川家康は秀吉の命令で北条氏政の説得に回りますが、なぜ同盟があるのもかかわず氏政を見限って秀吉方についたのか?

徳川家康は『本能寺の変』の後、本当は何をしていたのかを明らかにします。

天正壬午の乱』で寡兵の徳川軍が北条の大軍をどうやって破ったのかタネ明かしをします。

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徳川家康はなぜ関東の覇者北条氏政を見限って豊臣秀吉についたのか?

この問題に関しては、ここに至る経緯(少し長くなりますが)を見るしかないのですが、、、

まず、『武田勝頼(たけだ かつより)との戦』から始まります。

徳川家康・織田信長(おだ のぶなが)との連合軍が天正3年(1575年)に『長篠(ながしの)の戦』で武田軍に勝利すると、武田領に対する攻勢を一層強めて行きました。

特に、武田勝頼(たけだ かつより)が天正9年(1581年)に徳川軍に攻められていた駿河の高天神(たかてんじん)城へ救援を送れなかったことから,ここが落城して急速に武田家に対する忠誠心が失われて内部崩壊が始まり、翌天正10年2月1日には武田家外戚の木曾義昌(きそ よしまさ)が織田方へ寝返ります。

これに激怒した勝頼は、義昌へ兵を差し向け2月3日に木曽一族を殺害しますが、これを契機に信長の『甲州征伐』が開始されます

2月12日に織田本隊60000の大軍が岐阜城を進発し美濃口から信濃へ向かいます。

これを見た武田方諸将の寝返りと逃亡が相次いで、ほとんど戦いもなしで南信濃は織田方へ降伏し、2月18日には、徳川家康が浜松城を発し駿河西部へ侵攻し、2月下旬には北条氏が駿河東部へ侵攻開始します。

臣下の離反と敗戦続きで武田軍は崩壊し、追い詰められた勝頼は3月11日に甲州天目山にて自刃し、ここにあっさり戦国の雄 武田氏は滅亡することになります。

ところが、6月に突然勃発した本能寺の変』により戦国の覇者織田信長が横死してしまい、織田家の旧武田領に対する支配力が揺らいだため、旧武田領を巡る大名(北条・徳川・上杉)間で争奪戦(世にいう『天正壬午ーてんしょうじんごーの乱』)が発生します。

最初に動いたのは北条氏政でしたが、『本能寺の変』後に泉州堺から陸路『伊賀越え』を韋駄天走りで岡崎へ帰還した徳川家康も、すぐに動き出します。

つまり『本能寺の変』で、織田家が滅びてしまった訳ではないので、家康は”織田政権に対する「謀叛人」北条氏”を討つという大義名分で、旧武田領制圧戦へ出陣しました。

北条氏は、8月から旧武田の新府城に着陣する徳川軍と睨み合いとなり、10月に”黒駒合戦”で徳川方にしてやられて戦いに敗れ、その後織田家の仲介があって、家康の娘”督姫(とくひめ)”が嫡男氏直(うじなお)に嫁することを条件に和議となります。

これで、天正11年(1583年)8月に督姫が北条氏直へ輿入れして、形の上では徳川と北条は姻戚関係となりました。

この和睦による国分けで、甲斐(かい)・信濃(しなの)は徳川領上野(こうずけ)が北条領と決められました。

しかし、動き出したのはこの大大名だけではなく、信州小県(ちいさがた)の真田昌幸(さなだ まさゆき)もそのひとりでした。

この徳川・北条の和睦により、この時徳川方に属していた真田昌幸は、独力で手に入れていた上野側にある沼田城・岩櫃城を北条へ引き渡さねばならなくなり、徳川からもらったものではない沼田・岩櫃の引き渡しに抵抗します。

その後、武力で”和議の結果”の獲得に動く北条と、拒否する真田昌幸との間で武力衝突が続きますが、北条は徳川に真田対策を頼み、それに対抗して真田は一度は裏切った上杉家に再び助けを求めると言った具合で解決を見ませんでした。

そうした中、織田家の織田信雄が豊臣秀吉の政治に不満を持って仲違いを起こし、徳川家康に助けを求めたため、天正12年(1584年)3月から織田信雄(おだ のぶかつ)・徳川家康同盟と豊臣秀吉との間に『小牧・長久手の戦』が勃発します。

この戦により、結果的に秀吉と家康の同盟関係が作られることとなり、この真田を巡る『沼田問題』は実質”天下人”となった豊臣秀吉が裁定することとなって行きます

また、この交渉は『小牧長久手の戦』の結果も含んで、徳川家康は秀吉へ臣従させられることとなり、これで豊臣秀吉に臣従しない大大名は”北条氏”だけとなって行きます。

しかも、流れから真田の後見人ともなっていた徳川家康が、豊臣秀吉の”北条臣従問題”の責任者となってしまいました。

この時、秀吉の示した仲裁策は、”真田”が主張する沼田領の3分の2を”北条”へ引き渡し、その替地は”徳川”が”真田”に用意すると云うものでした。

この一連の騒ぎによって、真田昌幸は徳川家の与力大名ながら、”豊臣大名”ともなりその存在が認められることになりました。

その後に秀吉から、各大名間の”私戦禁止”にあたる『惣無事令(そうぶじれい)』が出され、勝手な戦争を禁止され、従わない場合は軍勢を派遣して処罰することになりました。

『真田問題』の秀吉裁定により、天正17年(1589年)7月秀吉から検使が沼田へ派遣され、徳川家臣榊原康政(さかきばら やすまさ)の指示の下、沼田城が北条方へ正式に引き渡されました。

ところが、天正17年11月3日になって、沼田城近隣の真田領として秀吉が認めて真田に残された”名胡桃城(なぐるみじょう)”が北条方に急襲され攻略されます

この『名胡桃城事件』は、取り決めが成ったこの期に及んでは、秀吉の定めた『惣無事令』への明確な違反行為となり、激怒した豊臣秀吉は”北条征伐”の命令を出します。

長い前振りでしたが、、、

このような経緯で、穏便にまとまりかけていた”北条氏に対する豊臣政権服属問題”も水泡に帰し、責任者であった徳川家康の面目は丸つぶれとなりました。

『小牧長久手の戦』後に秀吉と手打ちをしてから、北条家の姻戚でもある家康は、北条氏政の説得工作を続けていて、やっと北条氏政の上洛の日程が出て来たところだっただけに、この事件は家康には相当ショックだったのではないでしょうか。

北条氏政の腹では、やはり氏素性の卑しい秀吉の配下となるなどプライドが許さないところにもって来て、先に秀吉に臣従している宿敵上杉景勝の後塵を拝するなど到底承服しかねるところでしょう。

それに、氏政は和睦をして姻戚関係にある徳川家康を味方に得れば、豊臣秀吉に対抗することは十分可能であると踏んでいたようです。

秀吉の”陣ぶれ”に各大名がこぞって出陣を始めたのを見て、北条氏政は己の失敗に気づいたことでしょう。

氏政は、秀吉がすでに”政権を確立し終わっていた”ことに気づいていなかったのではないでしょうか。

あの状態では、よほどのことがなければ家康が氏政の肩を持つことなどあり得ないのです。

家康が氏政を見限ったのは、ちょっとだけ氏政より”政治の流れが見えていた”という事ではないでしょうか。


(画像引用:Yahoo画像 北条氏政像

『天正壬午の乱』で北条軍10000と徳川軍2000が激突(黒駒合戦)してなぜ徳川軍は勝利出来たのか?

天正10年(1582年)6月2日に京都で『本能寺の変』が起き、信長が横死すると、織田家が3月に統治を始めたばかりの旧武田領はたちまち混乱を始め、その混乱に乗じて6月12日に小田原の北条氏政は陣ぶれを出し、上野を目指して進軍を開始してここに『天正壬午の乱』が始まりました。

この乱は実質的には、徳川家康と北条氏政の旧武田領を巡る争奪戦でした。

本能寺の変』後、泉州堺から決死の『伊賀越え』を実施して6月4日に岡崎城に帰還した徳川家康は、すぐに信長側近で甲斐国新領主となって現地にいた川尻秀隆(かわじり ひでたか)に退去勧告を出しますが、川尻は律儀に踏みとどまって沸き起こる旧武田遺臣たちの”国人一揆”に対応します。

しかし、6月18日になって防ぎきれずに国人一揆衆に殺害されてしまいます。

家康は、急ぎ三河岡崎から京へ向かって光秀討伐軍を進めますが、尾張の鳴海まで来た6月15日に秀吉による光秀討死の報に接し直ちに軍を岡崎へ退きます。

その後織田家の『清須会議』が6月27日に行われ、織田家の新筆頭格に躍り出た豊臣秀吉の同意を得てから、家康は甲斐へ軍を進めています

前章でも述べた通り、『本能寺の変』直後から、旧武田領国争奪戦が始まりました。

主役は、徳川家康北条氏政(氏直)、上杉景勝です。

3者の内、もっとも早く動いたのは”北条氏直(氏政)”で、もっとも遅かったのは中央に関わった分だけ遅れた”徳川家康”でした。

当初、上野(こうずけ)方面へ旧武田領の接収に向かっていた北条軍は、遅れて動き出した徳川家康に対応するべく、天正10年(1582年)8月6日、北条氏直が20000の大軍を率いて甲斐へ侵攻し、”若神子(わかみこ)城”に本陣を置き、いよいよ甲府に入って来た”家康退治”へと動きます

対する徳川家康は、7月2日に浜松城を発し、途中駿豆国境の補給路確保の防衛を固めつつ、『北条家に簒奪されつつある甲斐・信濃・上野の織田領確保の承認』が織田家から出るのを待って、7月9日に甲府(尊躰寺ーそんたいじ)へ入りました。

そして、北条氏直の大軍の甲斐侵攻に対応して、8月8日に甲府(尊躰寺)から新府城へ入り若神子城の北条軍と対峙します。

徳川軍の新府城正面の守りは固く、容易に破れないため小田原城本部にいる北条氏政は、実弟の氏忠(うじただ)を総大将に別動隊10000の追加派遣を決め、相模から越境した北条軍は本拠地を御坂峠の御坂城に定めて、ここから8月12日に全軍が甲府方面へ動き出しました。

甲府地区の徳川軍は鳥居元忠(とりい もとただ)ら総勢1500ほどで黒駒地区で御坂峠を下って来た北条軍10000を迎え撃ちに出ます。

いよいよ『黒駒合戦』と言われる戦いの始まりでした。

峠から降りてくる兵10000に下から迎え撃つ兵1500では、全く状況的には話にならず蹴散らされると思いきや、結果は不利な徳川軍の大勝利に終わります。

10000からの大軍の北条兵は、すでに敵方徳川が1500ほどしかいない”寡兵(かへい)”つまり少人数であることを承知しており、戦いにならず逃げだすと踏んでいて、戦闘準備などせずに、各隊ばらばらに近隣民家の略奪に回っていたと言います。

この信じられない油断行動で、大軍が分散していた北条兵は徳川軍に個別に撃破され、黒駒に布陣していた北条氏忠本隊も大混乱となり、全軍総崩れで出発した御坂城まで押し戻され壊滅する大敗を喫しました。

家康は『黒駒合戦』で獲った北条兵の首級を新府城まで持って来させ、北条氏直が対陣する若神子城近くに物見場を設けて、そこに獲った北条兵の首級を並べさせると言う、北条軍兵士に対する心理作戦も併せて展開し、まだ伝わっていなかった氏忠軍10000の敗戦を知らせて北条全軍の戦意喪失を狙ったと言います。

この北条氏忠の別動隊10000名の敗戦に関して、理由として徳川軍があまりに寡兵のために油断をしたことが挙げられていますが、実際は地元の土豪・僧兵などの多数が徳川方についていたという記録があり、どうやら家康の事前に地元の協力を得ていた”周到な戦闘準備”が功を奏したと言うのが真相のようです。

この『黒駒合戦』の結果は、北条・徳川を天秤にかけて、事態の推移を見つめていた国中の甲斐衆たちが続々家康の呼びかけに応じる効果を生み、その後北条との戦闘は膠着状態に陥って、10月に入って徳川・北条の”手打ち”となって行きます

『清須会議』の推移を見つめ、旧武田領の争奪戦に関して『織田家の承認』まで取って侵攻に踏み切り、事前に家康が多数かくまっていた旧武田の遺臣を素早く派遣して、地元の国人領主への働きかけを怠ることなく迅速に進めると言う、徳川家康の”政治手腕の物凄さ”が垣間見える出来事でした。

豊臣秀吉に同じように敵対して、『徳川家康は同盟者となり、北条氏政は切腹となった』と言うこの違いはどこにあるのか?

ふたりとも、天下人豊臣秀吉に正面から大戦(おおいくさ)を挑んでいます。

徳川家康は、この『本能寺の変』の2年後の天正12年3月から11月に、秀吉の専断に不満を持った織田家の御曹司織田信雄が秀吉に反旗を翻した騒ぎに巻き込まれて『小牧・長久手の戦』で”豊臣秀吉と覇を争う”こととなります。

その後秀吉からの歩み寄りにより、家康は面子を捨てて秀吉に臣従し、それからの”秀吉の天下取り”を助ける形で政権に参加し与力に徹して行きます

一方、北条氏政は、『天正壬午の乱』の余波で巻き起こった真田昌幸との領土争いに関して、折角豊臣秀吉の調停を受けていながらそれを反故にする失敗を犯し、このチャンスを台無しにしてしまいました

この一連のストーリーの始まりは、戦国の覇者織田信長の遭難『本能寺の変』のあとから始まります。

天正10年(1582年)6月27日の『清須会議』の後、秀吉が『天下人への道』を歩き始めますが、家康は飽くまで慎重に清須会議の行方を見守り、決まった責任者秀吉の承認をもらってから、旧武田領への進軍を始めます

それに対して、織田家と同盟を結んでいながら、信長の死が伝わるや否や織田家の援助に回るどころか、略奪に回った北条氏政のやり方は、強く秀吉の中に印象付けられることになりました

家康独自の慎重な考え方、、、と言うよりは、家康は『信長のやり方』、つまり”変事が起こった時は、慌てて行動せずに一呼吸おいてよく考えてから動くこと”を学んでいたのだと思います。

秀吉だけでなく、家康も大成功者信長のやり方を良く心得ていて、このような火急の折にも慌てずにそれを実践していたものと考えられます。

それが、織田家内部で皆もが認める『律儀な徳川殿』のイメージをつよくアピールすることになり、あくまでも戦国の覇者織田信長の後継は織田家からというセオリーを守っている家康姿勢を諸将に見せたのです。

北条氏政は、早くから織田信長に臣従する政策を取るなど、巧みな外交手腕を見せる戦国のらつ腕政治家なのですが、やはりほとんど付き合いもなく、百姓上がりの織田家の一武将に過ぎなかった豊臣秀吉の能力を見くびっていたとしか考えられません。

徳川家康と北条氏政とはほんの少しの差(おそらく秀吉に関する情報量の差)で運命が大きく変わってしまったようです。

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北条氏政は最大240万石の大大名となったのに、なぜ秀吉と張り合って滅びたのか?

北条氏政は天正10年6月2日の『本能寺の変』後に起きた旧武田領の争奪戦である『天正壬午の乱』も、同年10月29日に徳川家康と和議を結んで一定の終息を見ていますが、その年末(12月20日)に武蔵国古河城で『古河公方(こがくぼう)』”足利義氏(あしかが よしうじ)”が死去していました。

それで、足利利氏に後継者がいなかったことから、その権力を北条氏が継承し、実質北条氏政が関東管領職を越えた権限を持つ存在である「関東将軍」に就任した形となりました。

この「古河公方」とは、貞和5年(1349年)に足利幕府が当初『鎌倉府(かまくらふ)』と称して関東地区の出先機関として”鎌倉”に設置したものです。

その後”関東管領”の上杉氏と対立し、第4代将軍足利持氏(あしかが もちうじ)の時に永享11年(1439年)に「永享(えいきょう)の乱」が起こり”鎌倉府”は滅亡しました。

持氏旧臣たちの要望により文安4年(1447年)に足利成氏(あしかが なりうじ)が第5代鎌倉公方に就任し「鎌倉府」は再興されました。

しかし、上杉勢ら反対勢力が強くて関東の政局はその後も安定せず、そのため鎌倉公方の勢力が比較的強く及ぶ下総国古河へ本拠地を移し、結果古河は第2の鎌倉・東国の都となって行きました。

そんな経緯で、”北条氏政”は北条氏の関東での軍事力・政治力を背景にこの時「古河公方(こがくぼう)」に成り替わり、”240万石の大戦国大名”であるばかりでなく、足利幕府の「関東将軍」ともなっていたようです。

こうした状況を踏まえると、北条氏政は『本能寺の変』後の豊臣秀吉が天下人への道を走り始める政治情勢をそれなりに理解していたとしても、自分は長らく武家の統領として号令して来た足利幕府の「関東将軍」であると言う思いを強く持っていたと思われます。

つまり北条氏政にすれば「足利幕府の関東将軍」たる自分が、単なる信長の一武将に過ぎなかった取るに足らない百姓上がりの豊臣秀吉の後塵を拝することなど、我慢できないことであったに違いありません。

氏政のこうした思いに巨大化した所領と軍事力が相まって、秀吉政権への対応を遅らせて行き、最後には対立も辞さないと言う決心を生んで行ったものと考えられます。

武田家滅亡後、織田信長は同盟者の徳川家康には駿河国を安堵したのに、なぜ北条氏政には北関東の領地を渡さなかったのか?

織田信長は非常に猜疑心(さいぎしん)が強く、自分の身近な存在以外、本性をよく理解出来ない相手に対しては心を開かないタイプの人間です

信長は、この武田滅亡の後始末に関しても、長らく続いている上杉ー武田ー北条の領地争奪関係のことは、天正6年に起こった上杉謙信の跡目争いである『御館(おたて)の乱』で、北条氏政実弟の上杉景虎が敗死した原因を作った武田勝頼に、氏政が強く恨みを持っていることも含めて熟知していたものと思われます。

つまり、この信長が天正9年後半に準備を始めた『武田勝頼(たけだ かつより)討伐戦』に関して、正式に北条の手を借りることは獲得領地の配分に大きな発言力を北条に与えることにつながると考えていたのでしょう。

ですから、、、

この『武田討伐戦』にしても、ぎりぎりに出陣情報を与えて、予定通りの活躍をしてもその結果を敢えて評価しなかったと言う事です。

信長は、北条氏政の都合の良い自分本位の考えなど”お見通し”だった訳です。

ですから、天正8年(1580年)3月に同盟の誘いが北条からあってもはっきりした返事を与えずにいました。

さすがに信用されていない自分に気が付いた北条氏政は、織田の姫を自分の跡取り息子氏直の嫁に所望するなど工作に走ります。

信長の反応がイマイチなのを見て、天正8年8月には19歳の氏直に家督相続して自分は隠居することまでやっていました。

『武田勝頼討伐戦』で、北条が長年かかってもケリをつけれなかった”武田討伐戦”を、ものの1か月ほどで決着をさせてしまった信長の実力のすさまじさを見せつけられて、氏政の焦りと怯えは頂点に達していたと思われます。

戦後の論功行賞の漏れてしまったことの”不満”さえ漏らせずにいた事でしょう。

家康と比べて氏政は凡将であったのか?

名古屋地方で言う所謂『郷土三英傑』に共通するところは、”行動が果断で早い”ことです。

始まりは、織田信長にあると考えています。

信長が悪ガキの吉法師(きっぽうし)と言われていた頃、尾張で馬借をやっていた生駒家(因みに信長は後年ここの娘の”吉乃ーきつの”を側室にして信忠信雄徳姫を生ませています)に出入りしていて、ここに出入りする様々な人々からもたらされる情報の価値を、幼少の頃から知っていたと思われます。

信長の配下には多数の情報員たちがいたようで、『桶狭間の戦』の勝利もそれによるものと言われています。

家康などは、伊賀者を多数かくまいその後幕府を開いてからも”御庭番”として使っていました。

この英傑3名は『情報力』の重要性を十分熟知していて、交通の要衝である中部地区に生まれ育って、そうしたやり方が身に付いていたのも、後に彼らが『天下人』となって行った要因のひとつだったと思います。

そうした観点から、徳川家康と北条氏政を見てみると、家康は信長の教育でこの情報工作員の部隊を当時から持っていたと思われますので、普通の武将である北条氏政と較べてその点にすこし分があると思われます。

当時の『戦(いくさ)』は、軍団同士の決戦の前に相手の城下町・小荷駄隊も含めロジスティクスに対する破壊工作などテロ行為は当たり前の事でした。

ひと言で、武将同志では、『調略(ちょうりゃく)』などと洒落て言いますが、その仕事は鎧兜の武者ではなくて、破壊工作員たちの所謂”汚れ仕事”だったのです。

いくさ上手の三英傑たちは多数のこの諜報・破壊工作専門の人員を抱えていたはずで、おそらく信長場合はその裏仕事の統括をやっていたのが大名になる前の秀吉だったのでしょう。

だから、豊臣秀吉は百姓上がりの身でありながら信長に命じられて、後に京都の所司代?まで務めています。

このすさまじい行政能力は、ただの農民や武士では出来ません。

そして、この能力・仕事がその後、弟の”羽柴秀長”に引き継がれて豊臣政権を支えていくことになります。

気が付かれると思いますが、『三英傑』の皆さんは他の”武辺自慢の大名”に比べて”民政”が上手ですよね。つまり下々に入り込んだ仕事をしているからですね。

ですから、豊臣秀吉は『中国大返し』などと言う”大技”が決めれたのではないでしょうか。あれは普通の”お侍さん”では無理ですよ。

横道が長くなりましたが、北条氏政に関しては、”北条早雲以来引き継がれた北条の身代”が、氏政をして活躍せしめたと言うことが言えそうで、武将としては一流だったと考えられます。

しかし、徳川家康は巷間に伝えられているような『竹千代お坊ちゃま』ではなくて、出身が下層民だったのではないかと言われるほど、痛めつけられた経験のある強者だったようです。

要するに、三英傑に共通する『育ちの悪さ』を持っていました。

北条氏政は決して”凡将”ではないですが、相手(徳川家康)が悪すぎたと言う事でしょうか。

まとめ

戦国の覇王織田信長が天下統一一歩手前の天正10年(1582年)6月2日に『本能寺の変』で倒れた後に関東で240万石の大大名となった北条氏政が、その後信長の後継者で天下取りとなった豊臣秀吉と対峙してもろくも滅ぼされてしまう不思議を考えてみました。

北条氏政は巷間に伝えられるような意固地なだけの”凡将”ではなく、機をみるに敏な出来る武将で、後北条家(ごほうじょけ)始まって以来の大領土を得る英雄でした

しかしたまたま、足利幕府始まって以来ずっと関東の出先機関であり、後年独立した行政機関になった『鎌倉府(古河府)』の後継者の地位が、なんと信長没の天正10年末、北条氏政に転がり込んで来ました

つまり”名目上”に近いのかもしれませんが、北条氏政は足利幕府から東日本の支配権を委ねられ『関東将軍』と称されていた地位に昇ったのです。

高禄と高地位が手に入り悦に入っていた氏政に、その邪魔をするように現れた織田信長の後継者豊臣秀吉があろうことか”関白”の地位に登りつめて、氏政を臣従させようと迫って来ます。

もう氏政には、驚きと悔しさで状況が見えなくなって行ったようです。

最後、あるはずのない徳川家康の同調(助太刀)が当然あると思い込み、”関白豊臣秀吉”と本気の戦いに突入して行きます。

『秀吉などに頭を下げるか!』との思いが充満していたことでしょう。

秀吉は、この『北条氏滅亡後』の東国の収拾が手間取ることを考えて、徳川家康に小田原以東の東国の支配を委ねます。

勿論、”家康の軍事力を恐れた秀吉が遠隔地に追っ払った”と巷間では伝えられていますが、鎌倉の昔から政権にとっては大変危険な”東国”と言う武士を大量に動員できる場所を任せたのは、家康の力量を評価してのことなのでしょう。

やはり、秀吉が家康に信頼を寄せていたのは、間違いのない事実でしょう。

北条との交渉窓口を家康に任せたのも、ある意味『北条氏をどう料理するか』の判断を家康に委ねたとも言えます。

最晩年の秀吉が家康に『秀頼のことをよろしく頼む。』と言ったのも多少そんな信頼の証だったのではないでしょうか。

参考文献

日本史史料研究会 『家康研究の最前線』(2016年 洋泉社)
平野明夫編

平山優 『増補改訂版 天正壬午の乱』(2015年 戎光祥出版)

丸島和洋 『真田四代と信繁』(2015年 平凡社新書)

黒田基樹 『戦国北条氏五代』(2012年 戎光祥出版)

八切止夫 『戦国仕留人』(1975年 日本シェル出版)

大久保彦左衛門 『三河物語』(2002年 ニュートンプレス)
小林賢章訳

宮城谷昌光 『新三河物語』(2011年 新潮文庫)

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ウィキペディア天正壬午の乱

ウィキペディア武田勝頼

 

 

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