執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
石田三成『七将襲撃事件』とはどんな事件?黒幕は一体誰なの?
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豊臣秀吉死去の翌年慶長4年(1599年)3月3日、盟友前田利家も亡くなり、利家の抑えがなくなったことを受けて、予て蔚山城(ウルサンじょう)の攻防の戦況報告を巡る確執で三成を恨んでいた七将が暴発し、三成襲撃を実行します。
事前に大坂城の秀頼側近から七将襲撃の通報を受けていた三成は翌日3月4日に伏見城内の自分の屋敷へ逃げ込み、その仲裁に入った徳川家康によって三成の失脚が決まって領国の佐和山城へ戻って蟄居することなり、これ以降、家康が豊臣政権の筆頭大老として事実上政権を握った、”歴史的大事件”でした。
この事件の顛末から、徳川家康の天下取り戦略を明らかにして行きます。
目次
石田三成が狙われた『七将襲撃事件』とは何か?
先ず、概略を知るために、通説で伝えられている事件を時間経過順に箇条書きでまとめてみましょう。
1)慶長4年(1599年)3月4日未明、石田三成暗殺を目的に、大坂備前島(都島)石田屋敷へ肥後熊本城主・加藤清正ら7人の豊臣武闘派の武将が手勢を連れて襲撃。
2)しかし、三成は既に大坂城から桑山治右衛門と云う秀頼家臣より武闘派襲撃の急報を受けて、常陸54万石水戸城主佐竹義宣(さたけ よしのぶ)の助力で、襲撃前に間一髪で宇喜多秀家の屋敷へ脱出。
3)襲撃隊の探索の手が伸び始めたので、三成は逃げ込んだ宇喜多秀家邸から更に京都伏見城に向かって再び脱出を図り、七将の追撃を振り切って、何とか伏見城内の石田屋敷(治部少丸)へ入り立て籠もる。
4)伏見城を取り囲んだ七将の部隊と伏見城治部少丸(石田邸)に立て籠もった三成、当日伏見城在勤の奉行(増田長盛、前田玄以)らが双方睨み合いの膠着状態となる。
5)その時、秀吉の遺命により伏見城近隣の巨椋池(おぐらいけ)内に浮かぶ向島城在住で政務を取っていた徳川家康に対して、七将から三成引き渡しの要求が出る。
6)家康は七将の要求を断り、三成と七将の間に立って斡旋に入る。
7)その後徳川家康は、以下の条件にて双方を取りまとめ、この事件の収束を図る。
①石田治部少はこの騒ぎの責任を取る形で奉行を退任し、自領の佐和山城へ隠居する。
②文禄・慶長の役の論功行賞の査定に関しては見直しをやり、今回の七将が軍勢を動かした事に関しては責任を問わない。
8)石田三成は手勢を引き連れた家康の子の結城秀康に本領の佐和山城まで護送されて事件は収束。
これにより、豊臣政権の大権力者石田三成は失脚してしまうこととなり、家康は即伏見城へ入城し、半年後には大坂城西の丸へ入城し、堂々と政務を取り始め、この事件の結果、前田利家亡き後唯一の筆頭大老となっている徳川家康がその後は豊臣政権の全権を握ることとなりました。
これが私たちが通説として知っているストーリーです。
(この画像は加藤清正像です)
石田三成暗殺計画は前からあったの?
まず問題の七将ですが、、、
細川忠興(丹後宮津城主)
蜂須賀家政(阿波徳島城主)
福島正則(尾張清洲城主)
藤堂高虎(伊予宇和島城主)
加藤清正(肥後熊本城主)
浅野幸長(甲斐甲府城主)
黒田長政(豊前中津城主)
の7将が一般的ですが、以下の2将が入っている資料もあるようです。
蜂須賀家政(阿波徳島城主)⇔ 池田輝政(三河吉田城主)
藤堂高虎(伊予宇和島城主)⇔ 加藤嘉明(伊予松山城主)
他に兵だけ出したりした武将もいたようですので、混乱してるようです。
いずれも文禄・慶長の役で最前線で戦っていた武将たちです。
この慶長4年(1599年)3月3日~4日の行動を見ると、3日の深夜に大坂天神橋近くの清正邸に集合し、大阪備前島(都島)の三成邸までほんの半里ほどですが、軍としてのまとまりを持って進軍していることからも相当の打ち合わせが前からなされていたことが分かります。軍の行動はこのような帝都周辺で平時装備から出陣装備へ目立たず準備を進めるのは極めて難しいものです。それを当日まで規律を持って成し得たことに彼らの事前準備のほどと覚悟のほどが知れようと云うものですね。さすが豊臣秀吉の精鋭部隊です。
これだけ見ても、思いつきで前田利家の死去に合わせてやったものではなく、少なくとも半年以上前には計画されていたものと考えます。つまり秀吉の死去直後からとなりますね。
動機面は次章で見てみることにしましょう。
なぜ石田三成は七将に襲われたか?
通説では、、、
原因は前章でもお話した、豊臣軍団の武断派武将と文治派武将の確執にあります。大雑把に云えば、豊臣家臣団は子供のいない秀吉の周りに集められた少年たちの内、秀吉出身地の尾張から来た加藤清正を中心とした武断派と、秀吉が長浜に居城を構えた後に集まってきた近江出身の石田三成を中心とする文治派に分かれていたようです。黒田長政は播磨姫路の黒田家から長浜の秀吉に人質として豊臣家に入り、清正ら武断派の一員と見なされています。
どうも気が合わないのは少年の頃からのような気がしますが、決定的になったのは、文禄・慶長の役で、武断派武将たちは最前線で戦っているところへ、文治派の戦目付(いくさ めつけ)が現れ、現地軍の苦労を一顧だにしないで上から目線の勝手な戦況報告(現地諸将にとって都合の悪い報告ばかり)を秀吉へあげて、それが原因で彼らは身に覚えのない叱責を秀吉から浴びせられました。
そうして秀吉にひどく処断され、その原因がすべて石田三成ら文治派諸将のせいだと思われて対立が深まって行ったのがこの事件の直接理由だと言われています。政権内でも有名なこの両派の対立を抑えていたのが、大老の前田利家でしたので、利家死去とともに軍事行動をしたと云う事です。
通説以外の説では、この事件は家康が武断派の動きを利用して豊臣政権内の反徳川派の勢力を叩こうとした作戦のひとつだったとも言います。
太閤秀吉の盟友であった前田利家の死去は武断派の加藤清正らだけでなく、家康自身にとっても極めて大きなチャンスでした。利家は五奉行と豊臣恩顧の西国大名の一大勢力のヘッドになっていた人物でしたので、この一角が崩れたことにより、後は三成ら奉行たちの突き崩しが出来れば、豊臣宗家のコントロールはよりやりやすくなって行きます。秀吉の死後、家康が秀吉の禁令を犯してま武断派の諸将との姻戚関係作りをして来た意味がここに出て来ます。
ある意味ではもうすでに”関ケ原”の前哨戦が始まっていたとも言えます。初戦で佐竹義宣(さたけ よしのぶ)、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)の連携プレーで石田三成に逃げられ、攻撃が失敗した後、七将武断派諸将は三成を追跡して当然のように家康のいる伏見城南の巨椋池内の向島城に陣取りました。
一方、七将と家康の動きをつかんでいた毛利輝元(もうり てるもと)と宇喜多秀家は、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の助言もあってか、秀吉死後の家康の動きを看過出来ず、その専断をけん制するため利家の死後動きだすはずの武断派の動きを口実に家康との一戦を考えていたふしがあります。
”利家の死”を待っていたのは、大老の家康だけでなく、同じ大老の毛利輝元も待っていたようです。それがおそらく、三成への機敏な救出行動につながったのでしょう。やはり、城下で新たな軍団の準備を他家に悟られずに内密に進めるのは難しいのです。七将の軍事行動はやり手の戦国大名たちにはお見通しだったと思います。しかしそれでも石田三成の脱出が微妙だったのは、それほど清正らの軍事行動が機敏だったと云えそうです。
しかし、大乱への発展を恐れる大谷吉継(おおたに よしつぐ)が止めに入った為にやむなく断念をし、それから上杉景勝(うえすぎ かげかつ)の協力も得て七将への仲裁に入りますが、家康と連携している七将が受け入れるはずもなく、仕方なく家康に仲裁を要請する羽目に陥りました。
結果的に、家康には思い通りの運びとなり、三成の解任・追放に成功します。流れから見ますと、関係者全員が三成一人に責任を負わせて事態を穏便に収めたように見えますが、家康の狙いは”三成の追い落とし”ですから、これはこれで大成功な訳ですね。
この時、所謂五奉行は家康にずたずたにされたと見ていいですね。この事件の連座責任を問われなかった奉行の、増田長盛(ました ながもり)は裏で家康派に鞍替えします。
ここで家康が三成を処刑せずに追放だけにした理由として、豊臣諸将の急な反発を避けたいとの思惑以外に、あとの”関ケ原”を考えて三成のもとに反徳川を結集させ、一網打尽に殲滅する目的だったという説もありますが、そこまで家康が考えていたかどうかは少し無理があるような気がします。しかし、この考え方は非常に面白いですね。
立場は違いますが、西郷隆盛の西南戦争は”西郷が反政府勢を自分のもとに結集させ、それを一挙殲滅させて日本を安定させるための自爆行動だった”と云う話を聞いたことがあります。もしそうだったとすると多分盟友大久保利通に後事を託して自分は反政府の立場を意図的に取ったという事になるのでしょうか。
話の意味は違いますが、家康も個別撃破の行動では鎮圧に時間が掛かり、徳川政権は家康後に豊臣と同じに短命になってしまう可能性があります。徳川の天下を永続させるために、徹底的に一挙殲滅を図る必要があり、その”集魚灯”の役割に石田三成を選び、時期が到来と判断して、急ぐ必要のない上杉征伐を企画して東征し、わざと隙を見せて反徳川派の決起を誘ったと云えるのかもしれません。
しかしそうは言いますが、最初の軍事行動で決起軍が三成誅殺に成功した場合(織田信長の場合のように)は成り立たないことになりますが、家康にはその時のシナリオもあったのでしょうか?
この異説のなかで毛利輝元が不思議なのは、輝元が大谷吉継に”家康を打つ大義がない”と言って軍事行動を止められたやに伝えられていますが、それではどうも弱いですね。
これからは私の私見も入りますが、、、
そもそも毛利輝元がそう言う行動に出ようとした原因の可能性としては、毛利家の外交僧安国寺恵瓊が家康と七将の動き(石田三成襲撃計画)を掴んだうえで、輝元に献策(『これを理由にこの機に家康を殲滅しましょう!』)したに違いないと思います。別の説では、伏見に逃げ込んだ三成が輝元に決起を促したと言いますが、これは準備がなければ急に言われて出陣出来るものではありませんので、無理がありますね。
輝元の動きが止まったのは、おそらく大谷吉継(吉継もこの時までは家康派?)の諫言だけではなく、恵瓊を売僧(まいす)と言って警戒する吉川広家(きっかわ ひろいえ)が止めたのだろうと想像します。毛利家内で安国寺恵瓊と対立する吉川広家は、三成と組んで輝元を西日本の覇者とおだて上げる安国寺恵瓊を親(吉川元春)の代から危険視しており、太閤秀吉も、叔父の小早川隆景も亡くなってしまったこの時、次の時代の覇者は徳川家康だと当たりをつけていたのです。
それなのに、あろうことか恵瓊の口車に乗って家康と戦端を開きかねない輝元の行動を全力を挙げて阻止したことでしょう。これは後に”関ケ原の戦い”の折、毛利勢の最前面に吉川軍が陣立てをして完全に出口を封鎖して南宮山から毛利軍を戦場に出さないようにした行動からも見て取れます。
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襲撃軍の七将は親徳川派の武将なの?
家康は秀吉の死後早速、文禄・慶長の役で最前線で働いたにも拘わらず三成ら文治派の奉行たちの報告により、報われず不満をためている秀吉恩顧の大名たちを中心に秀吉によって禁止されていた姻戚関係作りを活発に始めます。
この時点ではもうライバルの大老前田利家が体調が思わしくなく、息子の利長に家督を譲ったこのチャンスを生かして、豊臣政権内での主導権を握りに多数は工作に取り掛かります。
この時、家康と姻戚関係を結んだ大名は、伊達政宗、蜂須賀家政、黒田長政、福島正則らです。つまり伊達政宗を除いて事件を起こした七将の中核ですね。彼らとて、いくら憎しとは言え豊臣政権の大番頭石田三成への暗殺を目的に襲撃をするわけですから、それなりにバックがなければ軽々に実行に踏み切れません。
首謀者の加藤清正は、秀吉の死後家康と姻戚関係を結び急速に家康に接近をしており、早くから家康派への帰属がはっきりしている大名ですね。そして反三成の急先鋒ですから、長駆渡海して異国の戦場で戦った仲間とともに三成抹殺へ猛進したわけです。
前章でも異説としてお話した、石田三成ー毛利輝元の家康暗殺計画があったとすると、むしろ”石田三成七将襲撃事件”は家康の三成方に対する先制攻撃だったとも言えそうで、双方とも前田利家が抑え込んで何とか武力衝突にならなかっただけの状態で既に軍事行動の準備は完了していたのかもしれません。
毛利軍は尼崎周辺に待機していたと伝えられていますので、もし七将の軍事行動の報に触れて伏見の家康陣営に向かっての毛利軍の進軍があったら、関ケ原以前に畿内で市街戦の内乱が勃発したかもしれません。
早い段階で家康は抜け目なく、大坂城内で徳川方に内応している豊臣家家老格の片桐且元(かたぎり かつもと)らに大坂城を押さえていました。それに気が付いた毛利輝元が(軍を動かせば、自分達が反乱軍になる可能性が高くなって、大谷吉継の言う”家康を討つ大義がない”事になってしまい)結局予定の軍事行動に踏み切れなくなったのが、三成が諦めて家康の斡旋どおり政権からの引退勧告を飲んだ理由ではないでしょうか。
話がぐちゃぐちゃで分かりにくくなりましたが、簡単に云えば、秀吉の死後から家康の政権奪取構想によって引き起こされた豊臣政権内を二分する勢力争いが、かろうじて抑え役となっていた大老前田利家の死去をきっかけに、”七将”の軍事行動により一気に表面化したものです。
ですから、もうこの時点では、決起した武将は家康派と言ってもいいのではないでしょうか。事実その1年半後に起こる”関ケ原の戦い”では七将はすべて東軍徳川方へ付いています。
石田三成はなぜ徳川家康に助けを求めたの?
この質問は、”七将の襲撃から逃れた三成が伏見の家康邸に逃げ込んだが、家康は三成を助けることで、将来三成を挙兵させ、反徳川勢力を一掃しようとした”と云う通説に基づいています。
この説を補強する話として、ここに書いてあることの他、もともと三成と家康は仲が悪かった事実はなく、筆頭大老と実力奉行として豊臣政権を支える仲であったと言います。そんな訳だから、影響力のある大老のふところに飛び込んで調停を依頼するのは別に不思議でもないと言うとらえ方です。
しかし真相は、、、
中央集権化を進める秀吉とその官僚たちにとって、大大名の家康の存在は邪魔以外のなんでもない訳ですから、表面上は豊臣政権として仲良くやっているフリはしますが、本音の部分では違ったことを考えていると言った状況だったのではないでしょうか。
最近の研究では、この通説は、明治期に陸軍参謀本部が作成した『日本戦史・関ケ原の役』、徳富蘇峰(ジャーナリスト)が書いた『近世日本国民史・関ケ原の役』などにより喧伝された誤った説だとされ、三成が逃げ込んだのは、伏見城内の三成邸となっている城郭?”治部少丸”であったと解説されています。
三成は、家康に助けを求めることはなかったばかりか、前章の話のように先手は打たれてしまいましたがそれでも逆襲しようと家康のライバル大老である毛利輝元に出陣要請まで出しているほどだったと言われています。
この違いはやはり、明治期はまだ”徳川の世”から変って時間も経過しておらず、幕府軍VS官軍の対立構図が人々の頭から抜けずにこうした”徳川憎し”の史観でモノを見てしまっていると云うのが理由のひとつでしょう。あの大ジャーナリスト徳富蘇峰をしてこうした時代の潮流の中で冷静にものを見れてなかったことがよく分かります。この家康を腹黒い悪者にした反動として、旧帝国陸軍では大陸進出の先駆者としての豊臣秀吉の人気が高まったのかもしれません。
この事件の黒幕は誰なの?
この事件は、加藤清正ら武断派の七人の武将たちが文禄・慶長の役での自分達の努力が報われず、あろうことか三成ら文治派の官僚たちの秀吉への間違った報告、意図的な讒言により自分達が処分を受けたことを恨みに思い、その意趣返しの機会を狙っていて、抑え役の長老前田利家の死去したことをきっかけに、暴発したものだとと説明されて来ました。
彼ら七将のパトロンはだれかと云う問いかけならば、やはりそれは徳川家康だと言わざるを得ないだろうと思います。
そもそも秀吉の遺命を守らず、権力への欲望を丸出しにして、姻戚関係を結ぶことによる多数派工作を続ける家康の行動が豊臣政権を秀頼に引き継ぐまで平穏に維持しようとする奉行達から警戒されるのは当然なのです。
そうした見方からは、黒幕=家康と云う構図は避けて通れないものと思います。
一方、秀吉亡き後の豊臣宗家による政権運営を維持して行く上で、大きな障害だと認識され続けていた徳川家康を排除するために、陰謀を巡らせて来た三成ら官僚と、その騒ぎのどさくさで漁夫の利を得ようする西の太守毛利輝元と云う構図を考えると、こちらも共に所謂”黒幕”の範疇に入るのではないかと思われます。
そうすると、『七将』は単に、両陣営から切っ掛け作りに利用された実行部隊(これは軍隊による暗殺行動作戦でしょう)と云うだけでなのでしょうか。私は少なくとも最初の企画は七将たちだけだったと思いたいのですが、、、
ひょっとすると、その思いを利用して騒ぎの実行計画を企画したのまで家康かもしれませんね。
となると、黒幕は家康と言っておいた方がよいのでしょうか。
まとめ
この『七将による石田三成襲撃事件』は、秀頼の守役の前田利家の死去をきっかけに発生しましたが、単に文禄・慶長の役での賞罰に不満のある武将の意趣返しと云う面からではなく、徳川家康VS石田三成の対立構図から生まれた事件のひとつと考えるべきなのでしょう。
この対立構図は豊臣秀吉が政権運営をして行く上で、政治家”家康”と事務方官僚”三成”の微妙なバランスを取りながら運営を続けていたところから発生しています。秀吉は自分抜きで両者が懇意になってしまうことは絶対に避けるようにして行き、両社もほぼ秀吉存命中は交渉がない状態だったようです。お互い特段に好き嫌いがあった(石田三成VS加藤清正のように)わけではないはずですから、秀吉に仕向けられた関係性がそのまま習慣化して行ったものでしょう。
秀吉の死後、むしろ行動的だったのは三成の方ではなかったでしょうか。力の差がある相手(徳川家康)を政権の場から外すには、三成には”家康排除(暗殺)”しか選択肢がなく、家康側は”、三成失脚”で十分な訳です。
そう考えると、度々噂される『家康暗殺事件』は三成側の取り得る最善の策なのでしょう。しかし、戦国最強の諜報部隊(伊賀衆)に守られている家康の暗殺は現実には難しいんですよね。あの家康が、いくら城(伏見向島城)にいるとは言え、本当に丸腰で何の備えもせずに敵地の真ん中にいるわけがないので、それなりの対応をしていたと見るのが普通です。
実戦に培われた徳川家康の権力に対する感覚(リスク管理・作戦実行能力)は、家康と較べれば実戦経験の少ない三成は敵ではなかったという事でしょうか。結果は家康にあっと言う間に政権の表舞台から追っ払われてしまった訳です。家康はあの高齢にも拘わらず、常に大事な戦闘には陣頭指揮に現れます。その度胸・胆力は常人のものではないのですから、三成は相手が悪かったとしか言いようがない気の毒な状況だったと思います。
この事件はこのあと1年半後の9月に起こる歴史上の大事件『関ケ原の戦い』の前哨戦であったと位置付けて良いのではないかと思います。
参考文献
・渡邊大門『家康伝説の嘘』(柏書房 2015年)
・川崎桃太『フロイスの見た戦国日本』(中公文庫 2006年)
・安藤優一郎『「関ケ原合戦」の不都合な真実』(PHP文庫 2015年)
・明智憲三郎『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社文庫 2013年)
・明智憲三郎『織田信長433年目の真実』(幻冬舎 2015年)
・imgm2154aaaa2145342 『石田三成襲撃事件って七将は前々から計画』(Yahoo知恵袋 ベストアンサー 2015/01/10)