『幕末の巨星・坂本龍馬の暗殺事件』!どうして”迷宮入り”?

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幕末史最大の謎とされている”坂本龍馬暗殺事件”の犯人を明らかにします。

新政府が公式に”下手人”を明らかにしているのもかかわらず、その発表があまり信用されないで”なぜ迷宮入りと考える人が多いのか”の理由も考えてみます。

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坂本龍馬が暗殺された『近江屋事件』の真相とは?

幕末の慶応3年(1867年)11月15日夜、京都四条河原町の醤油屋近江屋井口新助邸で、幕末の志士坂本龍馬(土佐海援隊隊長)と中岡慎太郎(陸援隊隊長)が刺客に暗殺(斬殺)された事件です。

暗殺実行犯は刀の鞘を残しており、それが新選組の隊員のものと類似しているところから、事件発生当初新撰組の犯行が疑われていました。

しかし、戊辰戦争後北海道箱館で降伏した旧幕府軍の今井信郎(いまい のぶおー元幕府京都見廻り組隊士)が京都見回り組の犯行(龍馬暗殺)を自供し、その公式調書が現在も残っており、これにて現代の歴史学会的にはこの事件は解決されたとされています。

ところが維新後、事件直後に近接する土佐藩邸から現場に駆け付けたひとりである旧土佐藩士谷干城(たに たてきー維新後に陸軍中将、初代農務大臣、子爵)は、”今井ごときに龍馬の暗殺が出来るものか”と鼻でせせら笑っていました。

彼は事件当初から”新撰組の仕業”と決めつけており、事実、武州下総流山で新政府軍に投降した元新撰組局長近藤勇(こんどう いさみ)を、龍馬暗殺犯として江戸近郊板橋で斬首刑にし、更に京都三条河原にて梟首にまでしています。

明治の後半になってからも、谷干城は講演会を開き、龍馬暗殺は新選組の仕業だと訴え続けていました。

それ以外に、暗殺実行者と言われる京都見廻組の内佐々木只三郎(ささき たださぶろう)ら5名がその後の戊辰戦争で戦死するなどして自供が取れなくなっていることもあり、歴史学会で犯人を特定していても、未だにそれで決着と考える一般人は少なく、幕末の大きな謎として研究が進められている事件のひとつとなっています。

坂本龍馬暗殺事件近江屋
(画像引用:近江屋事件現場

坂本龍馬暗殺犯はだれ?

大本命京都見廻組説

前章で述べたように、明治3年(1870年)箱館で降伏した元新撰組隊士から近江屋事件は京都見廻組の仕業との証言があり、同じく囚われていた元京都見廻組今井信郎が問い詰められて自供したことから、京都見廻組の犯行が明るみに出たものです。

それによると、組頭佐々木只三郎渡辺吉太郎高橋安二郎桂隼之助土肥仲蔵桜井大二郎今井信郎ら7名にて実行されたとされています。

戊辰戦争で戦死したものが多く、生き残った元京都見廻組と自称する渡辺篤(わたなべ あつし)が大正期になってから、周囲の者に自分も実行犯のひとりだったと話しています。

ここで、問題は命令者ですが、この龍馬暗殺の実行犯の直接の上司は当時京都見廻役の小笠原弥八郎(おがさわら やはちろう)とされていますが、後日新政府の事情聴取により小笠原は無関係だったとの結論が出されています。

勝海舟と親しかった元大目付で大阪奉行の松平大隅守(まつだいら おおすみのかみ)は、勝海舟がこの暗殺事件は榎本対馬守(えのもと つしまのかみ)が怪しいと言っていたと話していますが特に根拠はないようです。

新撰組と京都見廻組は、京都守護職松平容保(まつだいら かたもり)の支配下にあり、この命令体系ははっきりしていたようですから、そうなると龍馬暗殺の命令者は松平容保と言う事になりそうです。

ここで考えねばならないのは、この松平容保と将軍徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)の関係ですが、松平容保はガチガチの慶喜援護者です。

この当時、龍馬が暗殺された詳しい理由は後述しますが、徳川幕府の『大政奉還』にあったと思われます。

この『大政奉還』の中には、徳川家の延命が盛り込まれていて、”倒幕”とは大きく違うものでした。

つまり、徳川慶喜は苦境打開の最良策として、この土佐藩の建白(大政奉還)に飛びついたわけですから、これの起案をした坂本龍馬の暗殺命令はこの筋からは絶対に出ないはずです。

事実、徳川慶喜からは会津藩に対して、坂本龍馬と中岡慎太郎には手を出すなと指示を出ていたと伝えられています。

となると、すでに幕臣のつもりの新選組と元々幕臣待遇の京都見廻組が暗殺をする必然性はほぼないのではないかと思われます。

彼らを初期(文久2年頃)の倒幕テロリストのような暗殺集団と決めつけるのは間違いで、彼らは統率された治安維持警察特殊隊(今で言えばSATでしょうか)ですから、京都守護職松平容保からの命令通りの行動が基本です。

いくら、公式な調書があるからと云って、京都見廻組もこう言う行動原理を持つ”サムライ集団”だと考えると、野盗・押し込み強盗と同様の殺人鬼だと決めつけて暗殺犯だとするのは誤りですね。

 

しかし、異説では、、、

暗殺に至る動機面から見ると、私はやはり薄いような気がするのですが、事件発生後の暗殺に関わる証言類は圧倒的にこの京都見廻組関係のものが多いのです。

そして、京都守護職松平容保のすぐ下役の上司は当時会津藩の公用人をしていた手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)で、見廻組の組頭佐々木只三郎(ささき たださぶろう)は実弟でした。

手代木は病弱な藩主松平容保になりかわり、藩主代行として数々の公式の場に出席するなど、幕末京都の会津の顔でした。

要するにこの説は、手代木の過剰な危機意識が危険人物”坂本龍馬”暗殺へ向かわせたのではないかと推測するものです。

実際の命令は手代木が実弟の佐々木只三郎へ出し、佐々木率いる京都見廻組が実行したと言うストーリーです。この話を手代木直右衛門が死の間際にその事実を漏らしたとされています。

手代木は若いころから俊英として名高く、洞察力に優れた人物で、実際幕末の会津藩の政治を一手に任されていた藩の重臣でした。

そのような人物が、本当に洞察力のある人物であれば、あの坂本龍馬を”危険人物”と言うだけで、まるで若手の尊攘志士のようにこの政治的リスクの高い”暗殺”という政治手段に訴えるでしょうか?

実行犯と命令系統は完全に一致しますが、ハッキリ言って、ちょっと動機面では少し腑に落ちないですね。

、、、と考える人も多いので、実行犯が自供しているにもかかわらず未だに謎となっているのかもしれません。

新撰組犯行説

これは、事件直後に駆け付けたとされる土佐藩士谷干城(たに たてき)が現場に落ちていた刀の鞘と下駄による物証と、まだ話が出来た瀕死の中岡慎太郎が犯人が切りつける時に四国の伊予弁(”こなくそ!”)を使ったと語ったと言う話から、新選組に伊予出身の隊士(原田左之助ーはらだ さのすけ))がいることから、犯人は新選組と決めつけたと伝わっています。

谷干城はその後戊辰戦争で武州下総流山で投降した近藤勇を、龍馬暗殺犯として斬首刑に処しその首級を京都三条河原で梟首しました。

当時も巷間で新選組犯人説が普通にささやかれていたようですが、実は新撰組にはアリバイがあったのです。

龍馬暗殺の2日後の11月17日に、京都油小路で元新撰組の御陵衛士総裁伊東甲子太郎(いとう かしたろう)が新選組に襲われ、その後駆け付ける御陵衛士を30余名ほどの新選組隊士が待ち受けて襲っています。

この伊東甲子太郎暗殺と御陵衛士殲滅の大作戦の打ち合わせを、龍馬暗殺の当日11月15日にほぼ全隊士でおこなっていました。

どうやっても龍馬暗殺は出来ません。

新撰組は本件に関しては”無実”でした

全くの”濡れ衣”だったのですが、一部の人物がこれを主張し続けたことが後述するように暗殺事件の主犯を想定させる”手がかり”にもなって行きます。

薩摩藩黒幕説

普通に考えて、薩摩藩は龍馬の『亀山社中』の出資者・後援者であり、個人的にも薩摩の西郷隆盛(さいごう たかもり)と龍馬は極めて親しい中にあり、お尋ね者の龍馬はいつも薩摩藩にかくまわれていました。

つまり一番の龍馬の理解者のはずですから、あり得ないと考えるのが当然です。

薩摩藩が幕末に発言力を増して行ったのは、藩公島津斉彬(しまず なりあきら)の存在が極めて大きな力になりました。

この島津斉彬にかわいがられ育てられた若手の人材(小松帯刀西郷隆盛大久保利通五代友厚ら)が、まさに幕末の薩摩藩を動かしていました。

斉彬の逝去の後、事実上の藩主となった島津久光(しまず ひさみつ)は出来る兄の真似をして背伸びしていましたが、それをあからさまに罵った西郷は疎まれて、実力家老の小松帯刀(こまつ たてわき)と世渡り上手な大久保利通(おおくぼ としみち)は重用されて行きます。

龍馬は、この西郷と小松の理解を得て、”薩長同盟”の仲立ちをして行きます。

同盟成立後、用済みになった龍馬の”薩摩におけるプレゼンス”は大きく後退をして行きますが、西郷と小松の力で引き続き薩摩藩の庇護は受け続けていたようです。

ここで問題は、薩摩藩も西郷・小松と大久保の動きに違いがあることです。

大久保利通は京都に在住を続けて、武力倒幕派公卿の岩倉具視(いわくら ともみ)と組んで朝廷工作・政治活動を行っていました。

そして、龍馬と大久保の間にはなぜかほとんど接点が見つかりません。

この倒幕激派とも呼べる大久保グループは、同じ薩摩藩内でも龍馬に対する考え方が、西郷らとは違っていたのではないかと思われます。

薩摩藩の犯人説はこのあたりが根拠となっているのではないでしょうか。

なんせ、龍馬が土佐藩参政後藤象二郎に建白させた『大政奉還』が、大久保・岩倉が苦心して朝廷に出させた(偽造した?)”倒幕の密勅”を無駄にさせたのですから、大久保の土佐藩の龍馬への”怒り”は相当なものだったでしょう。

という訳で、龍馬暗殺の動機は薩摩藩にもあるということになります。

土佐藩黒幕説

安政の大獄に連座して隠居させられていた前藩主山内容堂(やまのうち ようどう)が復権し、元々快く思っていなかった土佐勤皇党の武市半平太(たけち はんぺいた)一派を粛清してしまいましたが、土佐勤皇党のメンバーでしかも武市と親友だった龍馬も同類とみられていました。

つまり、復権した佐幕派から見れば、龍馬は反幕尊攘派浪士で脱藩者のお尋ね者であった訳です。

しかし、長州桂小五郎(かつら こごろう)の周旋により、武市ら土佐勤皇党粛清の立役者である土佐藩参政の後藤象二郎(ごとう しょうじろう)と龍馬は手を握っており、この時期は龍馬を頼りにしている実力者後藤の庇護があったはずです。

”大政奉還”で政治に夢中になっている後藤に龍馬暗殺指令を出す気配はないでしょうし、後藤の意向を無視して龍馬粛清に動くことの出来る実力者は藩内には見当たりません

と言う事で、私見ではありますが、土佐藩は除外して良いのではないかと思います。

紀州藩黒幕説

慶応3年(1867年)1月に後藤象二郎と龍馬が和解して、”亀山社中”を衣替えして4月に”海援隊”を作りました。

その海援隊が大洲藩から借用していた”いろは丸”が4月23日に備中国(岡山県)笠岡諸島付近で紀州藩船明光丸と衝突し、その後鞆の浦に曳航中に沈没しました。

所謂『いろは丸事件』が発生しました。
この御三家の紀州藩に対して、龍馬は”いろは丸と積み荷”の賠償交渉を始めます。

結果、国際法に詳しい薩摩藩の五代友厚(ごだい ともあつ)が斡旋に入り、紀州藩は8万3千両(40億円以上)もの高額賠償金を支払うハメに陥りました。

御三家としての体面を汚され、多額の実損を被らされて、龍馬に対して強い恨みを抱くようになったとされ、動機としては紀州藩が一番強いと言われています。

御三家である紀州藩の命令なら、ひょっとしたら実行犯と言われている京都見廻組も動かせるのではないかと言えそうで、それなりに有力な説なのではないでしょうか。

いろは丸事件の鞆の浦港
(画像引用:いろは丸事件鞆の浦港

フリーメイソン黒幕説

これは、龍馬が頻繁に出入りをしていた長崎のグラバー商会から想起される説です。

坂本龍馬が政治的な力をつけて行ったキッカケが、大枠では江戸の千葉道場を足掛かりにした剣客人脈と、勝海舟(かつ かいしゅう)関連で知り合った長崎のトーマス・グラバーの存在がベースだと思います。

龍馬は、勝海舟の手足となって動く内に、グラバーの商売のエージェントのように見られ(あくまで結果論だと思いますが)、丁度赴任して来た英国駐在公使館の通訳官アーネスト・サトウらによって、更に利用されて行きました。

グラバーは中国にあるスコットランド人の経営する巨大商社ジャーディンマセソン商会の長崎代理店だったことから、彼らが属していると考えられている秘密結社”フリーメイソン”の意向を反映しながら活動していたと思われます。

英国の日本戦略の中で見てみると、薩長連合(の倒幕運動)は英国通訳官アーネスト・サトウを通じて、英国の軍事援助を受けて動いていたと疑われる節もあり、ここでは英国=フリーメイソンと考えて、龍馬の取った行動(土佐藩に”大政奉還”の建白をさせること)は大きく彼らの利益を損なう行動だと判断されたと言う見方です。

ちょっと、”英国=フリーメイソン”と言うのは強引な感じがしますが、鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜が松平容保(まつだいら かたもりー会津藩主・京都守護職)と松平定敬(まつだいら さだあきー桑名藩主、京都所司代、松平容保実弟)を連れて、大坂から江戸へ逃げてしまったのは、”英国が大坂湾に戦艦12隻を並べて脅しをかけた”からだとも言われ、幕府軍徳川慶喜にとって英国のプレゼンスは非常に大きなプレッシャーになっていたと考えられます。

そんな”英国=フリーメイソン”に盾突く・余計な動きをした”龍馬”が消されたと言う筋書きですね。

アーネスト・サトウの日記にも”武力倒幕”の話は出て来ますので、異説ではパークス公使はあくまでも武力倒幕には反対だったなどと言われていますが、少なくとも日本人にパークスの指示を伝えるサトウには龍馬は邪魔者だったのではないでしょうか。

そうなると、実際の暗殺企画はアーネスト・サトウに指示を受けた薩摩の西郷隆盛か大久保利通と言う事になりますね。

どうでしょうか?

薩摩藩黒幕説と同様にこの説も実行段階がよく見えませんね。

なぜ犯人がわからないのか?

坂本龍馬はたかが一浪士ではありますが、慶応3年(1867年)当時には幕末の政局を動かしている大政治家のひとりとなっていました。

もし実行犯が京都見廻組とすると、暗殺企画者の実行動機は”幕藩体制に対する危険人物の粛清”でしょうか?

幕府に対する危険人物などもっといましたよね。かれらの暗殺ターゲットは大久保・西郷・桂・岩倉・三条と倒幕激派の誰でもよかったのでしょうか?

たまたま、一番警備の薄い龍馬が狙われただけでしょうか?

幕府治安部隊の企画実行とする説では、龍馬暗殺は以前から周到に計画されたことだと説明します。

しかし、それなら、そんなに情報通なのなら、”大政奉還建白”の前に実行するのが、普通ですよね。

やはり、この暗殺の本当の理由・動機は”大政奉還”にあると考えるのが、自然じゃないでしょうか?

こう考えると、犯罪捜査の常道で、その殺人で一番利益を受けた者の仕業だと考えるのが一般的だと思います。

そのあと起こった政治イベントは、武力倒幕派の岩倉具視と大久保利通による”王政復古の大号令”と云う名のクーデターです。

これが、失敗したとみるや、薩摩藩の幕府に対する激しい挑発行動(例えば”赤報隊”の無差別テローこの命令者は西郷隆盛です)を始めました。

それに幕府は引っ掛かり、江戸市中取締役の庄内藩が幕府新徴組の力を借りて、テロの元締である江戸の薩摩藩邸の焼討ちを決行し、これをキッカケとしてついに戊辰戦争が始まってしまいます。

龍馬が生存していても、この流れは止められなかったかもしれませんが、龍馬の存在は西郷の軍事行動をかなり制約したのではないでしょうか?

この龍馬暗殺事件の碌な捜査が行われていないのは、その後徳川政権が暴力的に転覆させられて新政府へ移行すると言う、極めて行政運営の継続性が保ちにくい時期にあたっていたことも理由のひとつです。

しかし、龍馬のお陰で”維新(政権転覆)”を成功させたことを一番良く知っている人たちが新政府を形作ったいるわけですから、この功労者を殺害した犯人の追及は厳しくされるのが普通ですよね。

もし、真剣に追及されてない理由があるとすると、それは犯人(黒幕)が旧幕府(敗残者)側にいるのではなくて、新政府(勝者)側にいることを示すものだと考えるのが自然です。

今出ている証言・証拠類では、京都見廻組が実行犯ですので、幕府の命令系統でしか組織を動かせないはずですから、武力倒幕派(新政府)の関与は技術的に困難と言う事になっています。

私見ですが、事件現場の目と鼻の先にいて事件後駆け付けたとされる土佐藩士の谷干城が、碌な証拠・証言が取れてないうちに強引に幕府側治安機関である”新撰組”の犯行と決めつけていることが不審に思えます。

つまり、真相は逆だと谷干城が白状しているように感じるのです。

それとまだ宵の口の夜8時過ぎの京都四条河原町の通りに面した暗殺現場で、襲撃の目撃者が誰も名乗りでないのは不審としか言いようがありません。

事件後目と鼻の先の土佐藩邸から駆け付けたとされる谷干城も、龍馬から云いつけられた買い物からほどなく戻って来た小僧の峯吉も含めて、皆口裏を合わせるように”もう襲撃者は誰もいなかった”と述べているのです。

しかも、宵の口の京都の繁華街四条河原町の通りにいたはずの通行人の目撃者も名乗り出た人はいないのです。
この話は非常におかしいですね。

これにひとつのヒントを与えたのは、ちょっと信じられませんが、同時に襲撃されたとされる土佐陸援隊長の”中岡慎太郎犯人説”です。

全くあり得ない話に思えますが、消えた犯人の説明はつくような気がします。

では中岡慎太郎の殺害はだれ?となりますから、話にならないと言われていますが、政治的には有り得るのではないかと思っています。

敢えて言うなら、目撃者がいないこと、速やかな犯人の逃走(ほんの数分で消えた)を考えると、そもそも現場から出た人間がいなかったとすれば分かりますね。

無理やりですが、あとから駆け付けたと言われているひとのなかに、最初から中岡慎太郎と一緒に龍馬と話していた人物がいて、その人物が中岡が龍馬を斬殺した後、中岡の始末をして自分は後から来たと言ったら辻褄は合いますね。

何と云っても、龍馬暗殺の結果で最大の利益を享受したのは、薩長土肥の武力倒幕派(新政府の幹部たち)であることは間違いない事実ですから、こんな話もあとを絶たないのではないかと思う次第です。

暗殺現場”近江屋”の様子はどうだったのか?

近江屋は京都四条河原町の土佐藩邸のほんの斜め向かいにある醤油屋でした。

通説では、主人の井口新助が裏の土蔵に龍馬の隠れ部屋をしつらえて、龍馬は日頃そこに身を潜めていたようですが、11月15日当日は風邪気味で蔵の中は空気が悪いと言って醤油屋の二階へ移動して休んでいたようです。

見廻組の密偵が乞食に化けて一日中龍馬を監視していて、当日も龍馬の在宅を確認していました(後年に話を漏らした自分は暗殺実行参加者だと言っている元京都見廻組渡辺篤の証言)。

襲撃者は、前出の今井信郎の自供によると、佐々木只三郎、桂隼之助、渡辺吉太郎、高橋安二郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の7名だと言います。

しかし、後年自分も参加したと言う渡辺篤の話によると、”声を掛け、応対に出た藤吉に十津川郷士と名乗って名刺を出した。”と言っています。

藤吉が二階の龍馬に取次に上がると、襲撃者がすぐ後を追って後ろから藤吉をバッサリ斬り倒し、ちゃぶ台を挟んで左右に分かれて対座していた龍馬と中岡慎太郎に同時に切りかかり倒したと話しています。

龍馬は正面から脳天を割られていてこれが致命傷になったようで、土佐藩の人間が駆けつけた時には絶命していたようです。

最初に切られた藤吉にはヶ所龍馬は34か所中岡にも28か所の傷があり、めった突きめった切りの状態だったようです。

狭い京都の商家の屋内ですから、初太刀を浴びせたのは襲撃参加者のうち、小太刀の名人である早川隼之助、渡辺吉太郎ではなかったかと推測されています。

室内はおびただしい血液が飛び散り、床の間の掛け軸にも血が飛んでいたと言われています。

前出の渡辺篤の話によると、見廻組の引き上げの様子は、まだ宵の口の四条通はにぎわっていて、酔った振りをして皆で肩を組みながら屯所に帰り、一同祝杯を挙げてからそれぞれ帰宅したとしています。

なんと、人ごみに紛れて帰還したと言っているのです。

一体、返り血を全身に浴びた男たちが人通りを人に紛れて歩けるものでしょうか?
刀傷の話を聞いて思い出すのですが、薩摩の独特な剣術である”示現流”で斬殺されるとこのように切り刻まれた悲惨な遺体になるそうです。

醤油屋の主人井口新助夫妻は階下で震えていたようで、碌な証言を残していません。

関係者の証言自体も、すでに相当の時間(年月)が経過してからのものであり、食い違いがあって未だに真相はよくわかっていません。

土佐藩士谷干城(たに たてき)はなぜ新撰組を龍馬暗殺犯だと強硬に主張しつづけたのか?

土佐藩士谷干城は、事件後、一番近くにあった土佐藩邸(近江屋から20秒くらいのところらしいです)から駆け付けたとされ、まだ生存していた中岡慎太郎から聞いたと云う話と、現場に落ちていたとされる”刀の鞘”と”下駄の片方”から新撰組の犯行と断定しています。

その後、ほどなく捜査関係者の間では新撰組は無関係とされたにも拘わらず、戊辰戦争終結後の箱館で捕虜となった元京都見廻組今井信郎の自供を認めず、何が何でも新撰組の犯行と決めつけています

原田信郎自供以前に谷干城は、戊辰戦争で江戸郊外板橋の新政府軍総督府本部に詰めていた時、連行されて来た元新撰組局長近藤勇を極刑に処すことを強硬に主張して、近藤を斬首刑にしてしまいました

その為、引っ込みがつかなくなって、自分の誤りを認めなかったという見方もありますが、本当は別の真相があって犯行を新撰組になすりつける方針があったとも考えられます。

しかし、これが旧幕府側である新撰組や京都見廻組の犯行ではなくて、当時京都にいた武力倒幕開国派(後の明治政府)の一味の犯行だとすると、土佐藩にあってもあの時あの場所にいた谷のような武力倒幕派であった人物はこの犯行隠ぺいに加担していたと言えないことはない訳です。

真相は、谷干城本人のただの勘違いと思い込みだったのかもしれませんが、これも謎のひとつとなっています。

新撰組近藤勇は龍馬暗殺の罪で断罪された?

戊辰戦争時に武州下総流山で投降して捕虜となった近藤勇は、前述のように板橋の新政府軍総督府で斬首刑に処せられます。(刑場は現在のJR板橋駅前)

その時の状況は、別稿に詳しいですが、近藤ら新撰組に総裁であった伊東甲子太郎(いとう かしたろう)を暗殺された元御陵衛士の加納鷲雄(かのう わしお)、清原清(きよはら きよし)によって正体が確認された後、総督府の現場にいた土佐藩(谷干城)と薩摩藩(平田九十郎ーひらた くじゅうろう、有馬藤太ーありま とうた)の間で激しい対立が起こります。

総督の岩倉具定(いわくら ともさだー公卿岩倉具視の息子)に影響力を持つ軍監の香川啓三(かがわ けいぞうー水戸藩)も激派で、結局、志士の多数を殺害した新撰組の近藤の処遇は切腹ではなくて、斬首にされてしまいます。

その後近藤勇の首級は京都三条河原に梟首されますが、その高札の罪状は”龍馬暗殺の罪”ではなくて”新政府軍に抵抗した罪”となっていたようです。

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龍馬を誰が目障りだと思っていたのか?

龍馬は当時の狂気と思える尊攘ブームの最中に、文久2年(1862年)頃に長州藩(吉田松陰とその門下)が京都で多用した”暗殺テロ”には全く加担しておらず、すべて政治で解決を図る考え方を持っていました

そのために、龍馬に係累を殺害されたと言うような恨みを龍馬に抱く人物はいなかったはずです。

政治家を暗殺する動機としては、一般に”思想的な憎悪”、”権力争い”、”利害の対立”などがあげられますが、龍馬の場合は対立する立場の誰もが”龍馬の権力に対しての無欲”を認識していたと思われますので”権力”はないでしょう。

龍馬のケースは何に抵触して暗殺されるに至ったのでしょうか?

幕府治安維持グループは、龍馬を”幕藩体制転覆を図る危険人物”と言う位置づけたようで、”大政奉還”に反対していた京都見廻組のトップの会津藩公用人手代木直右衛門(てしろぎ すぐえもん)が実弟の京都見廻組与頭佐々木只三郎(ささき たださぶろう)に命じて龍馬暗殺を決行したとされています。

武力倒幕開国派は、倒幕の同じ目的で事を進めていたはずの龍馬が、徳川家も取り込む形での新政府形態を模索始めた(大政奉還)のを裏切りと判断して、政治暗殺を目論んだと考えます。

 

誰が坂本龍馬の存在を目障りだと思ったかと云えば、、、

幕府治安維持グループは暗殺隊に命令を出せる立場にある手代木直右衛門で、会津藩への忠誠心から容保公の仕事を助ける意味で動機は十分だとみられていますが、やはり少し不明確な感じがします。

武力倒幕開国派は西郷隆盛・大久保利通ですが、この場合は実行犯に京都見廻組を使うことは出来ません。可能性があるとすれば、薩摩の暗殺部隊(人切り半次郎ら)と中岡慎太郎の混成チームでしょうが、事実関係の想定が難しいですね。

異説では、この時に近江屋に切り込んだ実行犯は、中岡慎太郎谷干城(土佐藩)、毛利恭介(土佐藩)、田中光顕(土佐陸援隊)、白峰駿馬(海援隊)と言われています。

しかし、そうなると中岡慎太郎は坂本龍馬にやられたことになりますね。それにしては、ちょっと中岡の傷の数が多すぎるような気がします。

この事件は、隊長坂本龍馬を殺された海援隊士が黒幕と噂される紀州藩三浦久太郎の宿泊していた天満屋へに切り込むと言う騒ぎはあったものの、隊長を殺された海援隊も陸援隊も組織だった報復行動に全く出ていません

またそうした行動の話すらないのも当時の常識(仇討ちの実行)としてはまったく奇異な話と言わざるを得ないでしょう。

もしこの時期の京都に、薩摩の特殊工作隊(赤報隊)関係者が存在したとしたら、西郷の指示ひとつで機動的に動いた可能性は否定出来ませんね。

しかし、もしそうだとすれば、こちらの本当の黒幕は岩倉ー大久保なんでしょうね。

どうも、疑問だらけですが、こうした状況下、通説の”京都見廻組説”が徐々に定着しているように思います。

龍馬が消されて、政治に何が起こったのか?

 

慶応3年(1867年)8月14日に西郷は長州に向かって武力倒幕の方針を伝えており、9月には薩摩・長州・芸州の3藩での”共同出兵協定”が成立し、薩摩は土佐の『大政奉還』による新政府樹立案には乗らず、武力倒幕に方針を固めます。

ところが、薩摩藩内もこの上方出兵案への反対は非常につよく、出兵計画そのものが遅延する事態となっている間に、龍馬が提案して土佐藩が幕府に建白し、徳川慶喜から上奏した『大政奉還』が10月14日に発表されしてしまいました。

この慶喜のスピーディな”大政奉還”は薩摩藩が想定した以上に各藩の評判が良く、徳川慶喜は政治力を取り戻してそのまま朝廷主催の新政府でも中心人物に居座る可能性まで出て来ました。

実は、同日に武力倒幕すべく朝廷から『倒幕の密勅』が出ていたのですが、幕府が速やかに政権返上したために、なんと薩摩の思惑は空振りに終わってしまいました。

10月24日に徳川慶喜は将軍職の辞表を出し、ここに徳川幕府は消滅する事態を迎え、政局は新政府の人事に移って行きます。

しかし、新政府でのイニシアチブを握るためにも、兵力の上方集中は必要との考えで、3藩の共同出兵案は実行されることとなり、11月25日に当初予定よりかなり遅れて薩摩軍は藩主島津茂久率いる1000名が京都に到着し、在京兵力は2800名となりました。

この兵力を背景に、今度は薩摩・土佐・芸州・尾張・福井の5藩が新政府のイニシアチブを握るための政変”王政復古の大号令”が12月9日に決行されることが決まりました。

こうした政局の流れの中で、坂本龍馬が暗殺されたのは、慶応3年(1867年)11月15日の事でした。

10月14日になされた”大政奉還”の動きは龍馬の動きの結果であったのは間違いないところですが、倒幕の方向から一転徳川家も交えた形での政権交代へ持って行った龍馬の狙いは、”内乱を避けることによって、外国からの干渉を避けたい”との思いからでした。

そんな動きをしていたにもかかわらず、龍馬の粛清後は武力行使を結局止める人がおらず、政局は武力倒幕・内乱(戊辰戦争)へと進んで行く事になりました。

しかしあの時点で、生存した龍馬に本当に戊辰戦争の発生を回避させることが出来たのかどうかはよくわかりません。

戊辰戦争後明治時代になり、新政府は武力倒幕派の薩長に力を貸していた英国とその後軍事同盟を結んで行く事になりました。

龍馬が暗殺されて、一番得をしたのはだれだったのか?

慶応3年(1867年)になって、龍馬は長州の桂小五郎の周旋で土佐藩参政の後藤象二郎と和解し、2月に薩摩から見放されて苦境に陥っていた”亀山社中”を海援隊”と云う名の海軍に生まれ変われさせました。

そして、海援隊をスタートさせたばかりの4月23日に大洲藩から借りて運行していた”いろは丸”が紀州藩軍艦”明光丸”との衝突事故が発生します。この後始末に1ヶ月以上要しましたが、解決しその後、後藤に”船中八策”を提示して”大政奉還”を建白させます。

その後は、船中八策に基づく新政府づくりに邁進しており、この時期の龍馬は自分の行動が人から命を狙われるようなことになるとは、気配も感じていなかったようです。

ここで、龍馬が殺されるほどの恨みを受ける事件を起こしているようには見えませんが、現実には坂本龍馬は『暗殺』されています。

 

なにかをしでかしているはずです。。。

ここで龍馬は、日本の幕末の政治の方向を決めかねない徳川幕府の”大政奉還”の献策を企画実行しています。
従って、、、

龍馬のこの政治活動によって

自分が権力を取り損ねる、或は持っている権力を失うと脅威を感じた人物・勢力
龍馬の目指す政治の方向が著しく不利益を自分或は組織が被ると感じた人物・勢力

が存在したと言う事になります。

理由で見てみれば、どちらにも該当者が存在すると思いますが、龍馬が目指したのは日本の新政体ですから、その点で云えば後に政権を取ったグループ、つまり尊攘武力倒幕開国グループ”が一番利益を得たと判断して良いと思います。

まとめ

幕末最大の謎と言われている『坂本龍馬暗殺事件』は、明治維新を決定させた薩長と中心とする反幕府軍(官軍)と幕府軍の内戦”戊辰戦争”の直前の慶応3年(1867年)11月に起こったため、碌な調査も行われずにいました

そのため、維新後しばらくして当事者たちが社会の第一線をリタイアするあたりから、ぼちぼち白状し始めていたりするので、極めて犯人が特定しづらい状況です。

日露戦争の頃に、あの近藤勇の斬首刑を決定した新政府東山道軍総督府大軍監だった香川啓三が、皇后大夫をしており、美子皇后が坂本龍馬の夢を見たとの話を披露して国民を鼓舞し、坂本龍馬の存在をふたたび世に出しました。

そうして、龍馬の暗殺に関しても一般人の関心も呼ぶようになって行きます。

いろいろな資料が研究者によって検討され、今の通説は京都守護職の補佐役である会津藩公用人手代木直右衛門が、主君松平容保の仕事として、”大政奉還”を徳川幕府を転覆させる企てとして認知し、その企画推進者の坂本龍馬を危険人物として目をつけました

そして、実弟で会津藩配下の京都見廻組にいる実弟佐々木只三郎に命じて、京都四条河原町の醤油屋近江屋にいる坂本龍馬を誅殺したとなっています。

証言ではありますが、他説よりは証拠の筋が通っており、研究者の間では実行者に関しては、京都見廻組が下手人とされています。

黒幕に関しては諸説が出ていますが、決め手に欠くものが多く今のところ、龍馬暗殺による最大利益享受者を認定して黒幕とするにとどまっています。

結果、幕末の最大成功者は薩長の政治指導者ですから、黒幕は一番軍事力と政治力のあった薩摩武力倒幕グループ(西郷隆盛、大久保利通、吉井幸輔)とサポート(公卿岩倉具視、英国アーネスト・サトウ、トーマス・グラバー)あたりじゃないかということになります。

しかし、薩長勢力と苦闘を続けていた京都守護の会津藩の気持ちからすれば、少しでも危険と感じる者は”除去”しておきたいと考えるのもわからないでもないですね。

結果、大久保ー岩倉を利してしまったとしても、龍馬暗殺はやったかもしれませんね。これも”忠義”なのでしょうか。

※龍馬暗殺の理由に関して別記事でもう少し考えてみましたのでこちらもよろしくお願いいたします。⇒龍馬暗殺の理由

参考文献

瀧澤中 『幕末志士の「政治力」』(2009年 祥伝社新書)

松浦玲 『坂本龍馬』(2008年 岩波新書)

松浦玲 『新撰組』(2003年 岩波新書)

松浦玲 『検証・龍馬伝説』(2001年 論創社)

菊池明 『新撰組 粛清の組織論』(2016年 文春新書)

安藤優一郎 『「幕末維新」の不都合な真実』(2016年 PHP文庫)

磯田道史 『龍馬史』(2013年 文春文庫)

加治将一 『龍馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)

ウィキペディア坂本龍馬

ウィキペディア海援隊

ウィキペディア近江屋事件

ウィキペディア京都見廻組

 

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