執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
坂本龍馬暗殺さる!その後どうなった!日本は?海援隊は?
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政権交代のソフトランディングを目指していた坂本龍馬が消されて、幕末政局に一体何が始まったのか?
そして、龍馬がボスだった『海援隊』のポスト龍馬はどうなって行ったのか?
そしてそして、龍馬のお墓は本当はどこにあるのか?
きっちりお教えします!
目次
『大政奉還』の推進者坂本龍馬がいなくなって幕末日本の政局はどうなってしまったのか?
大軍で軍事行動を起こせる力を持つ”薩摩と長州”の動きを、政治的に抑制する事が出来る可能性のある人物・坂本龍馬がいなくなって、薩摩の企画していた”武力倒幕”の動きは彼らの予定通りに始まりました。
先ず、岩倉卿と薩摩大久保利通の仕掛けによる政治クーデター”王政復古の大号令”の後、ついに西郷の組織したテロ部隊(赤報隊)による江戸市中での幕府への挑発行動が始まりました。
その手口は、江戸市中での富豪商家への押し込み・斬殺と人切り横行で、実行部隊(赤報隊)の仕事が終わると堂々と江戸の薩摩藩邸へ逃げ込むやり方を繰り返すやり方でした。
そしてとうとう業を煮やした江戸市中治安担当の庄内藩中心の部隊が薩摩藩邸に攻撃(焼討ち)を仕掛ける事件が起こりました。
薩摩の術中に嵌り、我慢堪らず幕府側(庄内藩)から薩摩藩へ手を出してしまったのです。
この庄内藩の行動は薩長に武力倒幕行動の口実を与えてしまい、それを待っていた京にいる西郷は手を打って喜んだと言います。
しかし、私見ですがよくよく考えてみるとこの狡猾なやり口は到底日本人の武士のやり方とは思えません。
この手口と平素の西郷の行動が全く一致せず、本当に同一人物かと目を疑うばかりです。
豊臣秀吉の死後、豊臣家を追い込んで行った晩年の徳川家康の手口も褒められたものではありませんが、これもひどい感じですね。
この西郷も結果的に(西南戦争で)始末されてゆくところを見ると、あながち巷間に流れる英国黒幕説を荒唐無稽とばかり言えず、彼もまた英国の手先に過ぎなかったのかなどと思いそうになります。
つまるところ歴史の結果から見ると、この時点で坂本龍馬はアーネストサトウら英国が進める”日本植民地化計画(英国が同時に中国でもやっていたアジア戦略の一環)”の邪魔者となっていたから消されたとの見方までも浮上する訳です。
常識的に考えて、薩長軍があの兵力であの強さがあったのは、幕軍との武器の性能の差が圧倒的であったのが理由だろうと見るのが当然です。
それはあの2藩(薩長)が如何にお金をため込んでいても、到底無理と思われるほど十分な性能の良い兵器の購入を、英国の援助(+グラバー商会)を利用して行なっていたようです。
英国干渉の証拠が目立たないのは、英国(外交官アーネスト・サトウら)が周到にすべて日本人を主役にして自分達は表に出ないようにする、言わば”隠ぺい工作”を慎重に行なっていた結果らしいのです。
そこまでする理由は、当時列強6か国(英・米・蘭・仏・伊・晋)が日本の内政に『局外中立宣言』を出し合っていた為、他国にばれないようにしていたことに拠ります。
これを近現代では、『謀略』と云います。
このように坂本龍馬の暗殺によって、革命(維新)のソフトランディングの努力は水泡に帰し、薩長土肥の新政府軍による武力倒幕の戦い(戊辰戦争ー内乱)は幕府側が手を出した(江戸の薩摩藩邸焼討ち事件)ことを口実に始まってしまいました。
(引用画像:坂本龍馬像です)
そもそも坂本龍馬は政治的影響力を持ち始めてから何をしようとしていたのか?
新政府の政権構想(船中八策と人事構想)
龍馬が政治意識に目覚めてから、考えていたことは師匠勝海舟から繰り返し教えられ共感していた”日本をアメリカ型の『共和制』国家にする”ことではなかったでしょうか。
龍馬の考えていた新政府の人事構想に龍馬本人の名前はなく、自分は所謂政治的な野心とは無縁の存在たろうとしていたことが見て取れます。
本人はさすがに商家の子供で、興味は”貿易”に強く惹かれていて、新日本の貿易立国についてのイメージを膨らませていたようです。
その為、官の立場での夢の実現を目指すのではなく、自身が民間の立場で商売としてやって行くことを夢見ていたのです。
そんな”龍馬の『夢』と『志』”とは関係なく、それに伴うひとつひとつの龍馬の行動が政治的な野心を持つ勢力にとっては、好意を持って迎えられたり、邪魔者扱いされたりと云う風にとらえられていたのではないかと思います。
その中で龍馬には狂信的な”思想”とか”主義”は存在していないのですが、そんなものに凝り固まった幕末の群像(尊攘志士)の中では、次第に異色の存在として浮き上がって行きます。
一方、西郷隆盛も武力討伐一筋ではなく、幕藩体制ではない勝海舟の説く”共和制”には惹かれていたようですが、すぐに現実の政治(英国主導の倒幕)の中での政治行動へ戻って行く事になります。
ここで、話を戻して龍馬のいわゆる”船中八策”を見てみます:
①大政奉還
②上・下議院を設けての議会政治
③有用な人材の政治への登用
④不平等条約の改定
⑤憲法制定
⑥海軍力の増強
⑦御親兵の設置
⑧外国為替の正常化
と、卓越した内容ですが、これは龍馬のアイディアではなく、今までの幕臣の勝海舟、大久保一翁、開明派学者の横井小楠、佐久間象山らから学んだ龍馬の集大成と云えるものなのでしょう。
しかしこれを単に言うだけでなく、うまくまとめて実際に政策として進めて行こうとしたところに龍馬の功績があります。
結果的に明治新政府は、この龍馬がまとめている『八策』と大外れしない方向で政策を進めていますので、やはりこの献策は龍馬の先見性を表しているものと言えるでしょう。
この後残念ながら、龍馬はこの”八策の具体化”の実行を進めている途上で死を迎えることとなります。
列強勢力の干渉排除
本人も尊攘志士たちと同様に倒幕目指していた龍馬の一番の心配事は、内戦の混乱中での列強諸外国勢力の干渉・侵略の懸念だったと考えられます。
つまり、、、
18世紀に入ってスペインに代って覇権国家となりつつあったイギリスは、インドで東インド会社の軍が1757年の”プラッシーの戦い”で地元ベンガル太守と組んだフランス軍を打ち破り、インドの植民地支配を始め、1840年のアヘン戦争を境に直接自国軍隊を進駐させて中国に本格的に進出を始め、他の列強と連携して実質的に中国大陸の植民地化を始めていました。
イギリスは日本においても、幕府軍のバックについたフランスに対抗するように、反幕府勢力の薩長を煽り立てて、インド・中国でのノウハウを駆使して”武力倒幕と言う内乱”に乗じて日本の植民地化を狙う戦略があからさまでした。
こうした日本国内外の空気を敏感に感じ取った坂本龍馬は、何とか内乱(武力倒幕)を防ぐ方向(維新のソフトランディング)の方策を考えて、手を打ち続けていたのです。
戦後の日本では、この”明治維新”の一連の歴史がまるで日本人のみで成し得たかのように論じられていますが、実際に存在していた他国の干渉とその影響もきちんと検証していくことが今の日本史の学習の中に必要なのではないでしょうか?
”尊皇攘夷”時代の空気の理解としては、外国の干渉が”ペリーの砲艦外交”で、脅されて通商条約を結んだだけで終わったのではなく、実際には武力侵略が表面化しなかっただけで、色々な形で”植民地化政策”が存在・実行された可能性もあると考える必要があります。
例えば、明治の元勲と呼ばれるキーマンの人たちは、皆欧米に留学(洗脳教育)していて外国のシンパであった可能性が高いことを忘れてはいけません。
実は、明治初期から彼ら留学生シンパ(元勲たち)を通して、欧米の間接統治が意図又は実行されていた可能性があることも現代の私たちは考えた方が良いのではないでしょうか。
何かと云えば日本人は、深く日本に関与する外国人を”知日派”とか”日本びいき”とか言って歓迎する風潮がありますが、そんなもの(彼らが日本好きのお人好しばかり)であるはずがないのが当然で、それが欧米流の植民地政策だったとも言えるのではないでしょうか。
龍馬が国を守ろうと実行しようとしていた事は、こうした”欧米の植民地政策”からの回避・対抗なのだと思います。
貿易立国へ”民の立場”で促進
龍馬は、”武士階級”と”農町民階級”の間に立っている男でした。
彼が開きたい新しい世とは、農町民を含む万民(庶民・国民)が豊かで平穏な生活をすることだったと思います。
それで、勝海舟の説く米国型”共和制”に惹かれたのです。
そして官(政治)には制度(法律)の完備と国防を求め、万民が自助努力で国として貿易を盛んにして富国を実現することを望んでいました。
それを実現する、”海運”に対する思い入れは大変なものであったと思います。
軍事力・侵略能力に重点を置く、”海運”ではなくて、貿易を行う力を持つ”海運”に力点が置かれています。
万民を豊かにする”貿易立国”実現が龍馬の望みでした。
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龍馬暗殺によりトップが不在となった『海援隊』のその後はどうなったのか?
龍馬遭難の当時『海援隊』は、長崎の本部と京都の屯所を拠点としていました。
龍馬の死後、長崎で海援隊を率いたのは、土佐藩大監察佐々木高行(三四郎)でした。
幕府の瓦解による長崎奉行所撤退のあと、在留諸藩士とともに長崎の治安を守るべく、薩摩藩松方助左衛門(正義)ともに長崎奉行所を改称した”長崎会議所”を動かします。
一方、龍馬の死に直接遭遇した京都では、大混乱で海援隊は分裂状態でした。
しかし、鳥羽伏見の戦いで幕府軍の江戸への撤退を機に海援隊士の長岡謙吉(ながおか けんきち)らは、瀬戸内海にある天領小豆島の占領を企て、新政府軍の土佐藩第一軍に呼応して四国諸藩の平定に協力します。
その功あって、小豆島を含む讃岐諸島は海援隊が統治権を確保し、これにより、長岡謙吉は正式に土佐藩から海援隊長に任命されます。
その後長岡謙吉より、坂本龍馬の意志を継いだ”海軍建白書”が出されたりしますが、藩主山内容堂の指示があり、慶応4年(明治元年)4月に海援隊と土佐商会は解散します。
元海援隊士は長崎で”長崎振遠隊”として再組織され、イギリス船(これひとつ取ってみても、新政府軍とイギリスの蜜月関係は明白ですね)を借り受けて、奥羽地方へ新政府軍の加勢に出撃して庄内藩と交戦し奥羽鎮圧に功を挙げました。
こうして龍馬が残した人材(海援隊)を元に、日本帝国海軍は明治5年(1872年)東京築地に海軍省が作られてスタートし、初期にはあの勝海舟もその指導に当たります。
こうして龍馬の夢はひとつ国防の分野で実現し始めました。
(引用画像:長崎港の帆船です)
龍馬が育てた人材は羽ばたいたか?
陸奥宗光(むつ むねみつ、旧名伊達小次郎、紀州藩士伊達宗広の6男)
もっとも有名なのは、龍馬の秘書役のようだった陸奥宗光です。
新政府では、外交を担当して幕府がアメリカへ発注した軍艦を折衝の上、新政府側で引き取り戊辰戦争で幕府榎本艦隊を降伏させるキッカケとなりました。
陸奥は外交官として辣腕を振るい、後に伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正に尽力します。
爵位は侯爵。
男爵
中島信行(なかじま のぶゆき)、野村維章(のむら これあき)、石田英吉(いしだ えいきち)、関義臣(せき よしおみ)。
中でも、石田英吉は海援隊の中でも長岡謙吉とともに”海援隊の二吉”と呼ばれた俊才で、海援隊の仲間の陸奥宗光が農商大臣の折、次官を務めています。
一方の龍馬の『船中八策』をまとめた長岡謙吉は、前述のように海援隊2代目隊長となり、新政府でも三河県知事、大蔵省、工部省など歴任しますが、39歳の若さで病没しています。
龍馬が近江屋で暗殺されずにそのまま生きていたら、明治維新はどんな風景だったのか?
まずもって、武力倒幕ではない明治維新が実現出来たかどうかと言う点が焦点になるかと思います。
つまり、生きていたら龍馬に薩摩の倒幕軍事行動を止められたかですね。
薩摩藩は、当時1867年4月のパリ万博に、日本国として出展していた江戸幕府とは別途に、『日本薩摩琉球国太守政府』として出展までしており、明確に江戸幕府と相いれない政策を取っていました。
加えてこの時点で出兵を始めており、もう既に腹は決めていたという事なので、おそらくこの時に龍馬の出来ることは、常識的には土佐藩参政後藤象二郎を通じて、藩主山内容堂を動かすこと以外なかったと考えます。
薩摩藩の黒幕?イギリスはすでにパークス公使が長崎での”英艦イカロス号水兵殺傷事件”にかこつけて、土佐まで乗り込み藩主山内容堂に面談して、薩長の武力倒幕に助勢するようにクギを刺そうとしています。
勘繰れば、この結果が思わしくなかったことが、龍馬暗殺につながったのかもしれませんが、龍馬のやれたことは土佐藩を武力倒幕の勢力から分離させることくらいだったのではないでしょうか。
当時イギリスは、アヘン戦争・アロー戦争と大艦隊と陸戦隊を中国へ派遣しており、隣国の日本の内乱への介入はいともたやすい状況で、パークス公使の脅しは十分具体性がありました。
ライバルのフランスが幕府側についている以上、薩長・イギリスの打つ手はきちんと決着のつけれる武力倒幕へ踏み込む以外選択肢はない状況だったのではないでしょうか。
異説では、坂本龍馬には薩摩の西郷を操れたので、十分薩軍を止める力は有った(つまり武力倒幕を阻止する力があった)とする意見もあります。
さらに、異説では、龍馬が『大政奉還』をもって事態は峠を越えたと判断し、あれだけ(身辺に気を配ることなく暗殺されるほど不用心だったのは)新政府づくりに没頭したのは、すでに西郷らと話がついていてこれ以上の武力衝突はないと判断していた証左ではないかとも云います。
この説に従えば、龍馬の暗殺なかりせば、徳川慶喜は薩・土・芸の軍事力の後押しで政権の中枢に残こり、会津藩の悲劇・上野彰義隊の悲劇もなかった(つまり戊辰戦争は無かった)ことになります。
そうなれば無駄な消耗がなかった分、明治の御代にもう少し多彩な人材があふれ、まず足軽出身の総理大臣が生まれることはなかったでしょう。
でもやはりここまで考えて来ても、私見ですが残念ながら”坂本龍馬”の在不在で歴史(明治維新の風景)が変ることはなかったような気がします。
一方龍馬は、検討していた新政府の人事構想にも、前述のように自身の名前を載せていませんでしたので、政治を避けて岩崎弥之助のように商社を起こして運営することとなったと考えられます。
そして維新後の失業武士たちを使った北海道の開拓構想をもっていたので、おそらく早い段階で実行していただろうと思います。
事実、龍馬の死後坂本家の家督を継いだ甥の小野惇輔(坂本直)は、龍馬の遺志を継ぐ形で北海道へ移住して開拓事業を始めています。
龍馬の遺体はどうなったのか?お墓はどこ?
坂本龍馬の墓は、京都東山・霊山護国神社の霊山中腹に中岡慎太郎の墓と並んであります。
この神社は明治天皇の招魂神社で、明治の新国家建設に奮闘し倒れた人の御霊を祀ってあります。
当初木戸孝允・久坂玄瑞・武市半平太など1300余名の幕末勤皇の志士たちの御霊が祀られ、その後の戦争で追加され、合わせて7万3千余柱が祀られています。
”慰霊”と言う感じですと、同地にご遺体が埋葬されていないのが普通のようですが、どうも坂本龍馬に限ってはこの場所にご遺体は埋葬されたようです。
まとめ
志半ばで倒れた幕末の巨人・坂本龍馬は、政権交代を目指して倒幕運動に身を投じますが、過激派とは一線を画して、幕府の『大政奉還』をベースに置いた雄藩合議により政策をすすめる新政府づくりを目指しました。
龍馬の死後、残念ながら武力倒幕へ突入(戊辰戦争)してしまいますが、国民の団結力によって西南戦争を最後に大規模な反政府運動は終結して、かろうじて国家分裂の危機を脱することが出来ました。
万が一、江戸時代以前の戦国時代のような群雄割拠するほどの内乱状態となれば、隣国の中国同様に各地に外国勢力と結びついた軍閥が出来て、日本にとって不幸な事態を招いていたことでしょう。
幸い薩長が徳川家に取って代わって天下を取る政治形態ではなく、明治新政府が中央集権化する形で収束出来たことも幸運でした。
結果的に、天皇の権威を利用しながら万民が参政出来る欧米型の民主国家への転換に成功した訳ですが、いくばくか坂本龍馬の活躍も関係したのではないかと思います。
龍馬のつくった”亀山社中・海援隊”も多くの人材を明治の世へ輩出し、近代日本の礎となって行ったことは龍馬の大きな功績のひとつとなりました。
また、龍馬の墓がそのまま京都にあることも案外知られていないことかもしれませんね。
参考文献
松浦玲 『坂本龍馬』(2008年 岩波新書)
平尾道雄 『海援隊始末記』(1976年 中公文庫)
加治将一 『龍馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)
加治将一 『幕末戦慄の絆』(2016年 祥伝社文庫)
宮地佐一郎 『龍馬の手紙』(2003年 講談社学術文庫)
松浦玲 『勝海舟と西郷隆盛』(2011年 岩波新書)
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