幕末京都の風雲児、新撰組局長近藤勇、武州流山で捕縛!なぜ?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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幕末京都で大活躍した新選組局長近藤勇武州流山で捕縛される

即座に連行されて、なんと江戸郊外板橋の地で”斬首”されて最期を迎えることになります!

いったい、武州流山で何があったのか?土方どうしたのか?近藤が引き連れていた隊士はなぜ助かったのか?

流山で、近藤勇の身の上に降りかかった出来事の一部始終を見て行くことにしましょう!

近藤勇はなぜ流山で幕府軍に捕縛されたのか?

京都鳥羽・伏見の戦いで官軍に奮戦しながら負けた新撰組は、慶応4年(1868年)1月10日に幕府軍とともに幕府の艦船で大坂から江戸へ向かいます。

 

江戸に帰還した近藤勇は土方歳三とともに、1月16日に江戸城に登城し、幕閣に江戸城での籠城・徹底抗戦の進言をします。
しかし幕府の真意は、すでに官軍に「恭順降伏」・「江戸城無血開城へ向かっており、近藤らの意見は取り入れられるはずもなく、むしろ治安維持のための敗残兵掃討・警備の仕事が割り振られました。

 

そして当時の責任者幕府若年寄大久保一翁(おおくぼ いちおう)の命令により、2月30日に”近藤ら新撰組”は甲府城接収および治安維持に向かいます(甲陽鎮撫隊と云います)。
近藤勇は幕臣大久保剛土方歳三は内藤隼人と名乗り総勢180名ほどで江戸から中山道を出発しました。

しかし当時幕府は、江戸総攻撃を避ける為に新政府軍(官軍)を刺激したくない状況下にありました。

 

そこで幕府若年寄大久保一翁から新政府軍との衝突は避けて、もし接触したら武器を捨てて恭順するようにと近藤は言われていたにもかかわらず、3月6日に勝沼で新政府軍東山道分遣隊と衝突します。

 

本来幕軍の脱走兵を取り締まる役割の”鎮撫隊”ですが、若年寄大久保一翁から近藤たちへの命令の中に、”幕府領である甲府城の確保”がありました。ところが、近藤が甲府に近づいた時には、もうすでに新政府軍が甲府城を占領していました。

 

つまり、この時点で近藤やるべき仕事は終了しているので、江戸へ戻る必要があったのです。

 

ここで、近藤の使命感・責任感の強さが裏目に出ます。武士たるもの戦場に赴いて何もせずに敵に背を向けて撤退することなどできなかったわけです。

 

 

これが、大久保一翁の思惑と違う行動に近藤が出た理由です。

 

 

ところが近藤の”甲陽鎮撫隊”は進軍に従って脱走・離隊が相次いでいたため兵力不足に陥っており、結局激闘空しく敗戦してしまいます。

 

混乱の中、江戸に敗走した隊士の内、一部が会津にそのまま向かったため、近藤指揮下には40数名となっていました。

 

近藤と土方は江戸で新撰組再起の隊士募集を行うため、3月13日には江戸郊外千住近隣にある五兵衛新田(現足立区綾瀬)金子健十郎宅を拠点としました。

五兵衛新田・旧金子健十郎宅
(画像は東京綾瀬に現存する金子邸です)
募集を掛け始め、集まり始めた入隊希望者が200名を越えた4月1日辺りで拠点を下総流山へ移転します。

下総流山では会津藩主松平容保の実弟松平定敬の桑名藩出入りの御用商人”鴻池”の長岡七郎兵衛宅に本陣を置きました。

 

なぜ流山かと云えば、その後新政府軍を避けて会津へ行く近道の集合拠点として地理的条件から選んだものと思われます。

 

しかし、新撰組の多人数による流山への移動の動きは、”不逞浪人の集団移動として”新政府軍の探索網に引っかかり、板橋にあった新政府軍総督府は急遽4月1日中には軍勢を進発させ、4月3日には流山の新選組本陣を包囲します。

新政府軍参謀役薩摩藩士有馬藤太(ありま とうた)から、流山の新撰組本陣に対して”何者で、どんな用向きで滞陣しているのか”と問い詰められた土方歳三は”脱走兵取り締まりと治安維持のために出張している幕府の鎮撫隊だ”と説明します。

 

そして、有馬が即時の武装解除を求めると、窮した土方は”幕臣旗本大久保剛(近藤勇)と言う責任者が武器を全部集めて持って行く”とこれに応え、近藤勇自らが出頭することになりました。(近藤がなぜ自ら出頭したのか?については後述します。)

近藤は夜更けに流山の陣屋から越谷の新政府軍本部へ連行され、更に総督府への出頭を求められて、翌4日には板橋にある総督府本部へ護送されました。

JR板橋駅前にある近藤勇像
(画像はJR板橋駅前にある近藤勇立像です)

 

近藤以外の新選組隊士はなぜ逃げることが出来たのか?

3月3日夜更けに有馬藤太の求めに応じて出頭し、その後越谷に連行された近藤は、越谷の新政府軍本部にいた彦根藩士渡辺九郎左衛門(わたなべ くろうざえもん)に幕臣旗本大久保剛ではなく、元新撰組局長近藤勇であることを見破られ、板橋の新政府軍総督府本部へ護送されます。

 

近藤が越谷へ向かったあと、戻って来た近藤の付き添い兵からの情報(近藤の正体が見破られたこと)に基づいて、土方歳三は江戸の幕臣勝阿波守のところへ近藤の助命嘆願に出掛け、残った隊士100余名は4日の夜明けを待って会津へ進発することとなりました。

 

この土方の迅速な判断により、結果的に近藤を救う事は出来ませんでしたが、土方自身は千葉鴻之台にいた幕府歩兵奉行大鳥圭介(おおとり けいすけ)率いる幕府軍への合流ができ、流山に残留した新撰組隊士100余名も無事、会津へ逃れることが出来ました。

言わば、近藤自身が自分を犠牲にして隊士の脱出と会津戦争参戦への時間稼ぎをした形になった訳です。

近藤勇はなぜ正体を見破られてしまったのか?

この後で、幕臣大久保剛大和守の正体が新選組局長近藤勇である事が露見した理由に少しづつ触れて行きますが、ここでまとめて正体がばれた理由をお話しておきましょう。

最初に新選組流山本陣を包囲した新政府軍の有馬参謀大久保大和(近藤勇)の正体に関して土方の思惑通り全く気がついていなかったようです。

近藤が要求通り武器を持参して、新政府の陣屋に出頭しましたが、結局新政府軍の責任者に事情を説明するために越谷にあった新政府本部まで行くこととなりました。

 

 

ここで、後述するように彦根藩士渡辺九郎左衛門に見破られてしまいます。

彦根藩は筆頭の譜代大名でしたが、大老となった藩主井伊直弼の暗殺(桜田門外の変)後に後任者により在任中の直弼の施政に関して咎めを受け、井伊家は10万石も減封され長きにわたって彦根藩の仕事となっていた京都守護職も与力にまわされました。

そのため、幕府の彦根藩に対するこの一連の仕打ちに関して藩士の不満は大きく、井伊家は戊辰戦争の半ばから新政府側へ鞍替えをしてしまい、新政府東征軍の主力となっていました。それで、彦根藩士渡辺九郎左衛門がこの越谷本部に詰めていたわけです。

つまり戊辰戦争前は会津藩の与力として、事があれば新選組の治安維持活動の応援をしていた関係上、渡辺九郎左衛門は新選組局長近藤勇の顔はよく知っていたわけです。

これがひとつで、もうひとつの経緯は、、、

その夜の内に、板橋にある新政府総督府への近藤の護送が決まり、渡辺はこれに同行して行きます。

板橋の総督府では、さらに元御陵衛士加納鷲雄清原清が面通しをして”大久保大和が元新撰組局長の近藤勇”であることが確認されたわけです。

 

ここで元新撰組の隊士であった加納と清原がここにいる大久保大和は近藤勇ではない、違うと云えば、近藤は助かる可能性があったことになります。

 

すでに袂を分かっていたとは言え、なぜ”近藤に間違いない”と元上司を売ったのかが気になります。

 

実はこれには、次にような理由があります。

長州征伐後、新選組も組織が拡大していくにしたがって古参と新参の軋みが目立って来ました。

新参者の中に伊東甲子太郎(いとう かしたろう)と言う人物がいました。伊東は主催する道場を閉めてまで新選組に参加したバリバリの”尊王攘夷論者”でした。

ところが、新選組の近藤は佐幕派で簡単に言うと”幕府大好き人間”だったわけです。その近藤率いる新選組の”攘夷をしない約束破りの幕府”へのすり寄り政策に失望した伊東甲子太郎は、慶応3年(1867年)3月、孝明天皇崩御に寄せて御陵を警護するという名目で朝廷に働きかけ同調する隊士14名を引き連れて新選組の下部組織として”御陵衛士(ごりょうえじ)”と言う組織を立ち上げます。

名目は崩御された孝明天皇の御陵を守護する役割ですが、実態は反幕運動の拠点として活動を始めました。そしてあろうことか新選組局長近藤を暗殺して新選組そのもののを乗っ取ろうと図りました。

 

 

これを事前に察知した近藤勇は、同年12月18日伊東甲子太郎をおびき出して、隊士35~36名で京都油小路で伊東を始めとする近藤の元部下たち”御陵衛士”の殲滅行動油小路事件)に出ます。

結果伊東ら4名を斬殺しましたが、薩摩藩邸へ逃げ込むなど多くを打ち漏らしてしまいました。

この逃げた御陵衛士中に後に板橋で薩摩藩士に頼まれて近藤の首実検に立ち会った、加納鷲雄と清原清がいたのです。
言わば近藤は伊東甲子太郎らを斬殺した”油小路事件”の仕返しを受けた形となったわけです。

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実は近藤勇は切腹しようとしていた?

新撰組流山本陣の長岡七郎兵衛宅が新政府参謀有馬藤太の軍に包囲された時に、隊士の大半は訓練で出払っており、残りは近藤・土方含めて4~5名しかいなかったために、もはやこれまでと近藤は自刃を覚悟しました。

しかし、この隊があくまでも”甲陽鎮撫隊”の一団で近藤は幕臣大久保剛大和守であると名乗っていたので、土方はまだ近藤の”面”は割れておらず、幕臣大久保大和守で押し通せば大丈夫、ここで切腹すれば犬死だと近藤を説得します。

それを受けて、近藤は自ら武装解除に応じることとなりました。
もし、ここで近藤が切腹していれば、全員が討死か身元の取り調べに捕縛された可能性もあり、土方は誤魔化し通せば、もしばれても時間稼ぎが出来ると踏んだと思います。

 

近藤は、すでに新政府軍に恭順した幕府の兵であるふりをした訳ですが、討伐隊に近藤の顔見知りがいた事が不運となりました。

新選組流山陣屋跡
(画像は新選組流山陣屋跡です)

 

近藤勇はどこで処刑されたのか?

近藤勇は連行された越谷の新政府軍本部で、顔見知りの彦根藩士渡辺九郎左衛門に見破られて、板橋の総督府本部へ護送されます。

 

板橋でも元新撰組(御陵衛士)で、新政府軍となっていた加納鷲雄に確認をされ、幕府旗本大久保剛大和守は、元新撰組局長近藤勇であることが判明してしまいました。
加納が”大久保大和改めて近藤勇”と声を掛けると、さすがの近藤も顔色を変えたと記録に残っています。

 

この時を境に、近藤勇は幕臣大久保大和守ではなく、”元新撰組局長近藤勇”として罪人扱いされることとなります。

 

近藤勇は4月13日に旗本の岡田家の座敷牢に収監され、足枷もはめられました。
この近藤勇の扱いを巡って、土佐と薩摩に激しいやり取りがあったとされます。

 

土佐藩士は、未だに真相が不明な”京都近江屋での坂本龍馬と中岡慎太郎の暗殺”は新撰組の仕業だと思い込み、激しく新撰組局長の近藤勇を憎んでいたのです。
なにせ、近江屋は京都の土佐藩邸の斜め向かいにあったのですから、土佐人の面子をつぶされた怒りが近藤勇に集まっていたのかもしれません。

 

土佐藩士谷干城(たに たてき)が急先鋒となって寛容派の薩摩藩とやり合ったようですが、新政府軍の軍監香川啓三(水戸藩)は厳罰主義で臨み、近藤勇の斬首が決定しました。

 

近藤勇は慶応年4月3日に流山で拘束され、4月25日に板橋(現在の北区滝野川)で処刑(斬首)されました。

近藤勇の遺体は処刑後どうなったのか?

近藤勇は慶応年4月25日正午過ぎに、刑場とされた「馬捨て場」(北区滝野川)に引き出されました。

 

この場所は往来の南側に面して広場となっており、後ろに土手があったため近郷近在から見物人が山のように押し寄せ、吉田松陰のように小伝馬町の牢屋敷内部の刑場でひっそりと処刑されたのではなく、ほぼ公開処刑でした。

 

30名ばかりの鉄砲隊が周りを警備する中、刑は執行されましたが、近藤勇は少しも見苦しいところはなく”武士らしく”落ち着いて刑に臨んだようです。

 

近藤の首級は板橋の新政府軍総督府本陣で”首実験(検視)”が行われた後、白木綿で巻いて焼酎付けにして箱へ納め江戸の総督府へ送られた後、京都へ送られました。

京都で、”甲州勝沼、武州流山において官軍に敵対した極悪人”との罪状が付けられて三条河原に3日間晒され、その後京都東山に埋葬されたと伝わっています。

遺体は板橋総督府の命令により、処刑当夜に滝野川の寿徳寺境外墓地(現在のJR埼京線板橋駅東口前広場)に埋葬されました(その後実家宮川家のある三鷹龍源寺に改葬されたようです)。

JR板橋駅前にある近藤勇仮埋葬地
(画像はJR板橋駅前にある近藤勇仮埋葬地です)

その後の新撰組はどうなって行ったのか?

越谷に連行された近藤勇の正体が見破られたことを受けて、土方歳三は伴を連れて江戸の幕府軍陸軍総裁の勝海舟のもとへ近藤勇の助命嘆願に向かいました。

しかし、当時江戸城無血開城に向け新政府軍の西郷隆盛と最後の詰めに入っていた勝はそれどころではなく、土方の折衝は不調に終わります。

この間4月11日に江戸城は新政府軍に明け渡され、第15代将軍徳川慶喜は水戸で謹慎となります。
混乱の中、旧幕府陸軍の脱走兵は歩兵奉行の大鳥圭介を総督として千葉鴻之台に参集します。
土方は流山を脱出して来た数名の隊士とともに鴻之台で3000名ほどの旧幕府陸軍と合流し、宇都宮城奪還戦に参戦しますが負傷して、4月24日に会津街道を北上し29日に会津城下に到着します。

 

ここで、離散していた旧新撰組隊士100余名が合流を果たし、負傷して動けない土方に代って斎藤一(さいとう はじめ)が隊長となって、白河方面へ進出し新政府軍と戦います。

ここから新撰組は旧幕府陸軍会津軍奥羽越列藩同盟軍と共に新政府軍との戦いに参戦して行きます。

負傷の傷が癒えて、土方も7月から戦線に加わりますが、各地で新政府軍に押されて敗走が続き、とうとう8月25日から会津攻城戦が始まります

土方は9月7日、列藩同盟軍を代表する仙台藩へ救援を求めに行きますが、仙台藩は藩論が新政府軍への恭順降伏へ傾いており、9月12日には土方は到着した旧幕府海軍の榎本武揚とともに仙台藩と談判に及びますが、藩論は変わらず彼らの蝦夷地への転戦が検討されます。

この時、旧幕府艦船に限りがあるため蝦夷地に渡る乗艦人員の制限があり、旧幕府陸軍残存部隊の内、優先搭乗出来る新撰組への入隊を希望する者が増え、ここに新撰組は再び100名を超える陣容に復活します

そして、旧幕府全軍は明治元年(1868年)10月12日に石巻を出港し、蝦夷地へ向かいます。
蝦夷地で土方歳三は歩兵奉行の大鳥圭介と並ぶ旧幕府軍の司令官として侵攻部隊を指揮し、10月26日には新政府箱館府(旧松前藩)の守る箱館五稜郭を占領します。

翌明治2年4月9日に新政府軍が乙部(北海道南西部ー北海道乙部町)の海岸に上陸作戦を実行し、13日から本格的な函館戦が始まりました。

優勢な新政府軍は4月29日までに五稜郭と箱館周辺を除いてすべて制圧してしまい、箱館総攻撃が5月11日に始まりました。

午前3時頃から新政府軍の総攻撃が始まり、新撰組を含めた旧幕軍は善戦しますが、箱館郊外亀田村に入ったところ辺りで午前7時過ぎに土方歳三は馬上で流れ弾を受け落命します。

5月15日に相馬主計(そうま かずえ)を最後の隊長とする新撰組は弁天台場で降伏し、最後まで戦った五稜郭の幕軍は慶応4年(1868年)5月18日に降伏し、ここに戊辰戦争は終焉を迎えました。

流山ってどこ?

新撰組流山本陣のあった流山、現在の千葉県北西部にあります。流山市は人口約19万人の千葉県内で8番目の街で、明治期には葛飾県庁がおかれたことも有ります

2005年(平成17年)の”つくばエクスプレス線”の開業(流山おおたかの森駅)で東京都心との距離が一気に20分以上縮まり、学園都市としての顔も持ち、今人口増加が急激な注目の街となっています。

新撰組の流山本陣跡は流鉄線流山駅から徒歩4分の場所にあります。ここは、結果的に近藤勇と土方歳三の別れの地となりました。

地図(流鉄線流山駅より徒歩3分)

 

JR東京駅からの公共交通機関でのアクセス(新撰組流山本陣跡地まで)
  1. JR東京(山手線・京浜東北線)乗車時間28分・388円⇒JR上野(乗換ーJR常磐線)⇒JR馬橋⇒(乗換ー流鉄線)乗車時間12分・200円⇒流鉄線流山⇒徒歩4分⇒現地までのトータル経費(所要時間59588
  2. JR東京(山手線・京浜東北線)乗車時間32分・550円⇒JR上野(乗換ーJR常磐線)⇒JR柏⇒(乗換ー東武アンバーパークライン線)乗車時間10分・195円⇒江戸川台(乗換ー京成バス)乗車時間50分・300円⇒流鉄流山⇒(徒歩4分)⇒現地までのトータル経費(所要時間102745円
  3. JR東京(上野東京ライン)乗車時間18分・216円⇒JR北千住(乗換ーつくばエクスプレス線)乗車時間9分・411円⇒南流山(乗換ー京成バス)乗車時間30分・200円⇒流鉄流山⇒現地までのトータル経費(所要時間67827円

バスは朝夕以外は本数も限られ道路状況により所要時間が大幅に変りますので、電車のみの①がおススメ!

JR東京駅からの自家用車でのアクセス(新撰組流山本陣跡地まで)

首都高速6号向島線と首都高速6号三郷線経由で距離32,5㎞・渋滞ナシで34~35分

 

まとめ

幕末の京都で長州を中心とする攘夷派浪士による要人テロが続発していたため、上京する将軍徳川家茂の警護役として文久3年(1863年)正月に江戸で募集された浪士隊が、京都に到着後問題が発生してすぐにそのまま江戸へ帰還する組と残留する組が分かれました。

 

京都に残留する組は、その後京都守護職となった会津藩の配下に入り攘夷派のテロ対策部隊へと任務が変り、反幕府勢力の取り締まりを専門とする『新撰組』となります。

そして、”文久3年8月18日の政変”で会津藩にその働きを認められ、9月に隊内の芹沢鴨を中心とする水戸派の粛清を行なって、近藤勇を局長とする『新撰組』が誕生しました。

その後京都守護職である会津藩主松平容保の指示に沿って活躍しますが、慶応3年(1867年)11月9日に”大政奉還”が行われ、薩長土肥を中心に新政府が立ち上がり、さらに薩摩藩が挑発して仕掛けた戊辰戦争が慶応4年(1868年)正月から始まり、新撰組の京都での”反幕府勢力取り締まり任務”は終了します。

新撰組は幕府軍の一部隊として会津藩の支配下で活躍しますが、幕軍が”鳥羽・伏見の戦い”で敗戦し、江戸へ幕軍とともに撤退しました。

その後、近藤勇を中心とした『新撰組』は幕臣となっていきますが、もう既にその幕府は消滅してゆくと言う悲劇的な彼らの運命が明らかになりました。

近藤勇は江戸近郊の日光街道の宿場千住宿に近い五兵衛新田(足立区綾瀬)で新撰組を再構築し、ほどなく会津を目指すために流山に移動しますが、そこで新政府軍に追い詰められ、とうとう最後を迎えることになります。

 

江戸時代の身分制度で最下位に置かれる『非人』の元締め浅草弾座衛門(あさくさ だんざえもん)の支配地域出身だった近藤勇らは、”剣術”をテコに江戸時代の武士社会で出世を図ろうとして行きます。
しかし、折角つかんだ”幕臣”の身分も幕府の瓦解によりすべてが水の泡となってしまいました。

 

明治維新は”革命”だったと言われますが、本当の最下層の人々は結局”新撰組”の例が示すように”革命の直接的な恩恵”は受けることなく歴史の中に消えて行った様がよくわかります。

 

その”最後の叫び”が江戸に帰還してからの近藤を中心とする”新撰組隊士”の活動だったのではないでしょうか?

 

後世の私たちはどうしても”勝者”の目線で歴史をみてしまう傾向を避けられません。

 

この新撰組隊士らの行動を単なる”ならず者たちの自滅”と見ないで、改めて”敗者”の論理を知る良い機会ととらえることが必要なのではないかと思いました。

参考文献

菊池明 『新撰組 粛清の組織論』(2016年 文芸春秋)
松浦玲 『新撰組』(2003年 岩波新書)
永倉新八 『新撰組顛末記』(1971年 新人物往来社)
瀧澤中 『幕末志士の「政治力」』(2009年 祥伝社新書)
前田政記 『新選組全隊士徹底ガイド』(2004年 河出文庫)
ウィキペディア新選組
ウィキペディア近藤勇

 

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