幕末の志士・英雄坂本龍馬はフリーメイソンだった!ほんとう?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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坂本龍馬(さかもと りょうま)の行動の解明によって、”坂本龍馬フリーメイソン説”の謎解きをして行きます。

幕末のキーマン、イギリス商人トーマスグラバーとは何者なのかを明らかにします。

坂本龍馬暗殺の黒幕が誰だったのかを考えてみます。

この”フリーメイソン”って一体なに?

起源はかなり古く、エジプトのピラミッド建設に集まった石工達の集まりから発生したと言われてますが、1396年にロンドンの”ウエストミンスター寺院”改築時の工事記録に”フリーメイソン”の名前が登場するのが確認される最古との記録とされています。

”フリーメイソン”とは、建物・施設を石で作るヨーロッパ建築に必須の”石工”組合の職人たちの昔からある”総称”のようです。

その会員の集会場所を”ロッジ”と呼び、そこにヨーロッパ中の様々な情報が集まるところから、石工だけではなく政治・宗教・軍事の関係者が情報収集の為に出入りするようになり、徐々に”秘密結社”化していったものです。

時代が下るとともに”フリーメイソンの会員”は中世欧米社会の隅々に亘って拡がって行き、完全に国家の枠を超えた存在となって行きました。

そして徐々に巨大な政治力・軍事力・経済力を持ち合わせるようになり、中世から現代に至るまで世界史の裏を仕切っているのではないかとまで言われています。

ここに、フリーメーソンは幕末の日本へ早くも列強の進出の先兵として日本に入り込んで来て(例えば、商人・駐在外交官・軍事顧問等)、日本の幕末・明治維新を演出したのではないかという噂話があります。

その中で、幕末政治の裏でフィクサーのように動き回った坂本龍馬は、作家司馬遼太郎の手で”維新の英雄”にまで祭り上げられていますが、本当は”フリーメイソン”の手先に過ぎなかったのではないかと一部の歴史家の間で、最近疑われ始めています。

桂浜の坂本龍馬像
(画像は桂浜の坂本龍馬像です)

龍馬はフリーメイソンだった!どこからそんな話が出て来たのか?

トーマスグラバーと龍馬の関係?

まず、トーマスグラバーの経歴から見てみましょう。

グラバーはスコットランドのアバディーン近在の出身で19歳の時に、同じスコットランド出身者のウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンが1832年に中国広州に設立し、大商社となっていたジャーディンマセソン商会を頼って上海へ渡ります。

この会社はアヘン戦争を引き起こしたとの噂もありなかなか怪しげな会社です。(同社は、現在もしっかり共産中国でもビジネスを展開しており、動乱の20世紀も見事に乗り切りっています)

グラバーは1859年9月17日21歳の時に長崎へ来日し、ジャーディンマセソンの長崎代理店”グラバー商会”を開きます。そして、4年後の25歳の時に今も長崎に現存するグラバー邸を作っており、富豪として名を成しました。

さて、龍馬とグラバーとの出会いですが、、、

1865年に勝海舟が幕閣の意を受けて、長州との戦争回避の談判に向かった折に、長崎で勝と旧知の豪商小曽根英四郎(おぞね えいしろう)がグラバーに勝と龍馬を紹介したと言われています。

この時期は第一次長州征伐の前後から、駐日フランス公使レオンロッシュによって、幕府が親仏政権にとなって列強各国に長州との取引を事実上禁止していて長州が経済封鎖されていた時でした。

ジャーディンマセソン商会は、アメリカの”南北戦争”用に準備されたものの、1865年に予想より早く戦争が終結してしまった為に不良在庫となっていた武器を、丁度政情が不安定さを増して来た明治維新前夜の”日本へ売却する”ことを考えていたようですでに上海にはアメリカから大量の武器弾薬が運び込まれていました。

ジャーディンマセソン商会からのグラバーへのミッションはこの武器を日本で売りさばくことだったと考えれます。

グラバーは、ジャーディンマセソン商会からのグラバーへのミッションをこなす為に、そして同時にイギリス陣営がこの幕府に加担しているフランスの日本での利権独占を突き崩す方策として、大胆にも”倒幕”を考え、その為に目立たずに長州へ武器を渡すダミー役として”龍馬”を使う事を思い付いたのではないかと考えられています。

トーマスグラバーはフリーメイソンだったの?

フリーメイソンの会員資格は21歳以上にならないと取得できなかったようですので、上海に来た頃のクラバーは19歳でしたので非会員としても、、長崎に到着するのはまるで21歳(1938年6月6日生)になるのを待つかのように1959年9月19日でした。

この時は、上海のロッジで入会式(秘儀)を済ませてフリーメイソンの会員になってから日本に入国したのでしょうか?

いずれにせよ”フリーメイソンの非常に盛んなスコットランド”出身者の創業したジャーディンマセソン商会に、このスコットランド出身の若者が事業での成功を夢見て身を投じたわけですから、確認できないとは言え、グラバーがフリーメイソンの会員だった可能性は非常に高いと考えねばなりません。

彼の役割は、まさにフリーメイソンの世界戦略の先兵と云う位置づけでしょうか。

龍馬が作った”亀山社中”の活動資金源

例えば、、、

1864年2月23日に幕臣勝海舟に連れられて初めて長崎を訪れた坂本龍馬が、翌年の5月に日本最初の総合商社と言われる”亀山社中”を立ち上げ、3ヶ月後くらいに7800挺という途方もない数の銃を仕入れます。

どうやら”龍馬は偉大だ”だけで済む話ではなさそうです。

この『亀山社中』が仕入れた銃の代金ですが、よく幕末話に出てくる”ミニエー銃”だったとすると1挺の価格は18両(慶応元年当時)くらいと思われますので、14万両(7億円ほどになります。

もし、この銃がアメリカの南北戦争で使用されていた”エンフィールド銃”とすると、1挺価格は40両(慶応元年当時)くらいに跳ね上がりますので、31万両(15億6千万円と莫大な金額になります。

これは、どう考えても当時の龍馬が調達できる金額とは思えません。

この資金を亀山社中の設立から事務所に資金まで提供したのは、長崎の豪商小曾根英四郎と言われていますが、もしそうだとすると”保証”したのは、グラバー商会なのでしょうか?

異説では、この亀山社中の設立は薩摩藩の若き家老小松帯刀が関与していると言われていますので、遠洋航海の出来る武装大型船団を持つ実力のある薩摩の資金力を考えると可能性はありそうです。

そしてまた異説では、グラバーの背後に控える黒幕、”フリーメイソン”となるわけですが、これは簡単に云えばヨーロッパのロスチャイルドを筆頭とするようなユダヤ資本と言い換えることが出来ますので、彼らの資金だったとも言われています。

小まとめ

こんな話の中から、『坂本龍馬=フリーメイソン』説が出て来ているのですね。

あるとも、ないとも言えないですが、すべては龍馬の人脈コネクションが始まりです。

龍馬が文久2年(1863年)12月に幕府軍艦奉行並の勝海舟(かつ かいしゅう)の門人になってから、志士たちのコネとは次元の違う”政治のコネ”が拡がったように感じます。

要するに、”大物たちとのコネ”を持ったと言った方がいいのかもしれません。

坂本龍馬は身分としては、土佐藩の郷士(ごうし・身分的に戦国の足軽程度)ですから、このような人物が政局を左右するような活躍ができるところに、ちょっと分からない”フリーメイソン”だと取りざたされるのだと思います。

フリーメイソンのシンボルマーク
(Yahoo検索から画像引用:フリーメイソンのシンボルマーク

幕末の英雄”坂本龍馬”の行動に疑い!何かがおかしい?

一般的に龍馬の行動が”あり得ない!おかしい!でも偉大だ!”と思われている点は、龍馬が持つ『一介の志士にあるはずもない”資金力”と”政治力”の凄まじさ』に集約されるのではないでしょうか?

そこに日本史上にほとんど顔を出さない、学校では教科書に絶対載らない”秘密結社フリーメイソン”の話が尤もらしく出てくる背景があるのだと思います。

それでは先ず、坂本龍馬が”力”を得て行く過程を見てみましょう。

最初の脱藩”文久2年(1862年)3月24日”以後、勤皇志士のつながり(橋本左内横井小楠など)を通じて面談の叶った福井藩主松平春嶽(まつだいら しゅんがく)からの紹介を得て、幕府軍艦奉行並の幕臣勝海舟の門人になるところから龍馬の本当の活動が始まります。

この後、龍馬は本当に勝海舟の手足のように働き、勝の発想した『海軍操練所』建設に向かって進み成し遂げました。

しかし、元治元年6月5日に起こった”池田屋事件”で、ここの『海軍操練所』の生徒が新選組に斬殺される出来事が発生しました。

そして、この『海軍操練所』に反幕の不逞浪士がいた事実が問題視され、その為に勝は海軍奉行を罷免され、『海軍操練所』は翌慶応元年(1865年)に閉鎖されてしまいました。

勝はこのスタートしたばかりの『海軍操練所』塾頭の坂本龍馬と修業生ら20余名を、つながりのある薩摩藩の若き家老小松帯刀(こまつ たてわき)と西郷隆盛(さいごう たかもり)に託します。

小松帯刀はこの坂本龍馬と操練所の修業生20余名を薩摩藩で引き取り、長崎へ向かわせます。

薩摩の目的は大型船の操艦訓練を受けた技術者の受け入れでしたので、表立って幕府が放り出したものを薩摩に組み入れる事をしないで、別組織・別動隊として使う腹でした。

薩摩と付き合いのあった長崎の豪商小曽根英四郎が引き受けて、薩摩の資金援助でここに海運会社・商社である”亀山社中”がその年の5月に立ち上がります。

その前年、勝は海軍操練所の立ち上げ頃、朝廷の”攘夷決行の勅命実行”のため、関門海峡封鎖の挙に出て、外国船を砲撃する馬関戦争を始めた長州への説得に行くため、九州を訪れています。

同行した坂本龍馬は、勝ととも小曽根英四郎、グラバー、小松帯刀らと会っていたと思われ、この”亀山社中”立ち上げは想定された流れと云えそうです。

この小曽根ーグラバー小松は、薩英戦争を通じて英国とつながっており、英国の通訳をしていた英国人外交官”アーネスト・サトウ”が裏舞台で暗躍しています。

勝自身がどう思っていたのかはよくわかりませんが、”亀山社中”代表としての坂本龍馬はこの大きな”グラバー・小曽根”そして”英国の日本戦略”の中に組み込まれて行ったと考えると龍馬の動きはある程度理解できるのではないかと思います。

本当にこの一時期だけだったのかもしれません。

龍馬の”亀山社中”は、英国の”倒幕戦略”のひとつである”薩長同盟”が龍馬の力もあって達成されたあと、”亀山社中”の役割が終わったと考える薩摩からの援助が滞りがちになりました。

それを助けたのが、長州の桂小五郎(かつら こごろう)でした。

桂は”薩長同盟”により長州を滅亡の淵から救ってくれた龍馬の苦境を助けるために、土佐の後藤象二郎(ごとう しょうじろう)と龍馬の和解(龍馬は脱藩していました)を進め、結果、受け入れた後藤により”亀山社中”は土佐藩の別動隊”海援隊”として再生し、龍馬は海援隊長となります。

これもそもそも江戸で剣士仲間であった桂小五郎(神道無念流練兵館の塾頭)と龍馬(北辰一刀流小千葉道場塾頭)の関係が生きたとも言えるのではないでしょうか。

前章で見たように、幕末の大物たちと対等に渡り合い、大金のかかる武器・軍艦をこともなげに調達してくる”龍馬の行動力”に驚きと怪しさを感じる訳ですが、この流れを見るとそれなりに種明かしになりそうですね。

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龍馬暗殺の黒幕はフリーメイソンっていう人がいますが、ほんとう?

これは、長崎に在住していたスコットランド出身の英国人貿易商”トーマスグラバー”が、龍馬のスポンサーのひとりだったことから、どちらかと言えば”公武合体論者”だった龍馬の影響力が大きくなり、”武力倒幕”を方針とする”英国ーグラバー”らにとって邪魔になったとする考え方です。

事実、龍馬暗殺後、イギリスの指導を受けている薩摩藩は具体的行動に出始め、江戸市中で西郷隆盛が組織した”赤報隊(せきほうたい)”が町家を襲うなど挑発的テロを行ないます。

これにものの見事に引っかかった幕府は、江戸の薩摩藩邸焼き討ちを行い、”戊辰戦争(ぼしんせんそう)”への道を開いてしまいました。京都にいた西郷隆盛はこの報を聞いて手を打って喜んだと伝えられています。

その歴史的経緯を見ると、穏健な公武合体政策を推進する”邪魔者・坂本龍馬粛清”によって、時代の流れが”武力倒幕”へ向ったとも見えます。

そんな見方をすれば、”龍馬の暗殺犯は武力倒幕派とその黒幕フリーメイソン”となるのかもしれません。

私見ですが、、、

龍馬暗殺の動機と云うところからすると、フリーメイソンがバックかどうかは別として、予想外な龍馬の政治力を感じた”武力倒幕派”が犯人と云うのは、一番説得力のある意見だと思います。

今と違い、当時は政局の邪魔となるものは”天誅(てんちゅう)”とか何とか云って粛清することに誰も異議を差し挟まない状況だったと考えます。

問題は、その命令を誰が出したかですね。

ちょっと”フリーメイソン”ってのは飛躍しすぎですよね。

ここでそんな命令(龍馬暗殺)を出せる状況なら、その後の明治新政府にもう少し”イギリスの影”が濃厚にないとおかしいんですよね。

例えば、軍艦は買ったにしても、”医学”なんか明治政府はイギリスではなくてドイツを選んだりしていますし、伊藤博文(いとう ひろぶみ)が自ら2年も日本を留守にしてヨーロッパに勉強に行かないでイギリスの顧問団が来ていてもいいはずですよね。

”医学”ってのは、ひどくお金のかかるものですから、こんな美味しい話をイギリスが見逃すはずはないですよね。という事は、要するに日本人主導でその後の”国造り”は行われたという事ですね。

つまり、”示唆”はあったかもしれませんが、やっぱり、”黒幕”ってのは考えすぎだとみていいんじゃないでしょうか。

もし龍馬がフリーメーソンなら、その目的はなにか?

前述しましたが、当時、グラバー商会の親会社にあたるジャーディンマセソン商会からの指示は、物産の売買以外にはアメリカの南北戦争終了により不要となった大量の武器弾薬と軍艦つまり兵器の販売であったはずです。

そのための人脈づくりと政局づくりがグラバーの仕事でしょう。

まずもって、フランスと結びつきつつあった徳川幕府を反政府勢力に倒させて、イギリスと友好的に関係を保ってくれるはずに薩摩・長州を中心とした新政府の樹立に走るのが自然です。

もし龍馬がグラバーに誘われたフリーメイソンになっていたとしたら、グラバーの命令に従って倒幕活動へまい進することが第一義的な目的となるはずです。

 

しかし実際には、龍馬は政治的に独立した貿易立国を目指していて、武力倒幕を行なわずに維新の政治的な混乱を早期に収拾する案を推し進めていたと考えられます。

 

やはり、龍馬はフリーメイソンではないのではないでしょうか。

幕府瓦解のシナリオはフリーメーソンが書いたのか?

当時のイギリスの駐日公使パークスは最後まで”武力倒幕”に反対だったと伝えられています。

薩英戦争後すっかり英国と仲が良くなってしまった薩摩藩は、通訳官の英国人アーネストサトウと何事も相談しながら政策を進めるようになって行きます。

しかし薩摩はあくまでも故島津斉彬(しまず なりあきら)の構想した『雄藩連合政権』を推し進めていて、”徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は外国との条約を実行するための朝廷の勅許は得られずに結果『雄藩連合政権』へ移行する流れになる”と読んでいたようです。

ところが、徳川慶喜は粘り腰で孝明(こうめい)天皇を説得して条約締結の勅許を取り付けてしまい、徳川政権の継続を天下に示します。

ここに至って、薩摩藩は『雄藩連合政権』成立の可能性を諦めて、”武力倒幕”の意志を固める方針の転換を図ります。

そして、坂本龍馬の仲介による『薩長同盟』がなり、第二次長州征伐が失敗する中、日本中が『薩摩と長州が手を組めば幕府に対抗できる』と言う雰囲気も醸成されて行きます。

この上手く出来た筋書きは、イギリス系の”フリーメイソンのシナリオ”なのかどうかよくわかりません。

ここで注目しなければいけないのは、締結した条約にある開港された港もあるため、この時期に列強諸国の艦隊が日本に詰めていたことです。

その証拠に、下関戦争を仕掛けた長州がコテンパアにやられたのは、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの艦隊が日本近海にいたからです。

鳥羽伏見の戦いで幕府軍優勢の中、徳川慶喜が大坂から善戦する大名たちを騙して幕府戦艦で江戸に逃げ帰ったのは、イギリスが大阪湾に12隻の艦隊を浮かべる示威行動をして将軍徳川慶喜を脅したからです。

こう考えると、討幕軍(新政府軍)を側面援助したのは外国勢(フリーメイソン?)で、倒幕を成功させたのは”薩長の軍事力とイギリスの武力をうまく見せて西国大名の寝返りを誘った岩倉具視(いわくら ともみ)と薩摩藩士大久保利通(おおくぼ としみち)の戦略”と云えそうです。

ところが明治政府は、”『明治維新』は一貫して外国の手を借りずに自力で行った革命だ”と主張しています。

どう見てもイギリスの”指導”があったように思うのですが、新政府はイギリスを利用するだけ利用して戊辰戦争を勝利すると、今度はうまくイギリスの政治介入を排除します。

これを実現して行った大久保利通たちの手腕には舌を巻きます。

それとも、これも”フリーメイソンのシナリオ”でしょうか?

よくわかりませんが、やはり徳川家康の予言(心配)通り、徳川幕府は西から崩れていったと言えそうですね。

まとめ

”フリーメイソン”は秘密結社と言う事で、身分を隠し通して行動するのが鉄則なので、実は正史が残っているわけではありません。

幕末の英雄(徳川幕府滅亡の立役者)たる坂本龍馬は、英雄ではなくただ英国商人トーマスグラバーの手下として命令通り働いていただけだと、びっくりするような話が飛び交っています。

しかも、件のグラバーは”フリーメイソン”と言う怪しげな組織の会員で、龍馬も入会して手下になっていたと噂されます。

こうした話が今更出てくる背景は、『明治維新の真相』が開示されていないこと、解明されていない事が非常に多いのが原因だと考えられます。

今回、龍馬および関係者たちの行動を詳しく見て行きますと、出来事の源泉がすべて”龍馬の幸運”ではなくて、”龍馬の示す魅力によって形作られる人脈”がベースとなって、出来事を引き寄せているように感じます。

日本人を自立させようとする考えを持つ「博愛心」に満ちた外国人(フリーメイソン?)がいた事は事実だと思われますが、やはり幕末・維新の出来事は日本人主導で進められたと考えるのが至当ではないかと思います。

坂本龍馬が”フリーメイソン”だったと言うのは、考えにくい話だと判断します。

この維新の革命活動に関して、外国勢力からの積極的軍事介入・資金援助など、後の20世紀の謀略話みたいなことの可能性はあったかもしれませんが、幸運にも実際にはほとんどなかったと考えていいと思います。

いまのところ、日本の武士たちによる”自決の行動”であったと考えます。

参考文献

松浦玲 『検証・龍馬伝説』(2001年 論創社)
一坂太郎 『司馬遼太郎が描かなかった幕末』(2013年 集英社新書)
瀧澤中 『幕末志士の「政治力」』(2009年 祥伝社新書)
加治将一 『龍馬の黒幕』(2009年 祥伝社文庫)
加治将一 『石の扉』(2006年 新潮文庫)
ウィキペディア坂本龍馬
ウィキペディアトーマス・ブレーク・グラバー
ウィキペディアジャーディン・マセソン
ウィキペディア海援隊

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