執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
ありえへん!坂本龍馬をあの西郷隆盛が暗殺した!ホンマ?
スポンサーリンク
あの幕末の英雄西郷隆盛が風雲児坂本龍馬暗殺事件の黒幕だと言うのです。
いままで、龍馬の一番の味方・理解者と思われていた薩摩の西郷隆盛が、実は龍馬暗殺の下手人!
なぜそんな話が出てくるのかすべて明らかにします。
目次
坂本龍馬はいつ西郷隆盛に出会ったのか?
元治元年(1864年)7月の”禁門の変”後の”第一次長州征伐”へ出陣するに当たり、幕府軍(この頃の主力は未だ薩摩軍)の足並みが乱れて出征が難攻していたおり、薩摩の渉外掛りの吉井幸輔(よしい こうすけ)が、前年より面識のある坂本龍馬(勝海舟の代貸として)を同行して幕府のケツを叩くために上京しました。
その時、吉井は幕府軍事関係の有力者である勝海舟(かつ かいしゅう)の意見を添えて、薩摩が幕府と一緒に長州を攻める為に、一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)を担ぎ出すと言う建白を行うハラでした。
その折、上京中の8月中旬に龍馬は、吉井の紹介で在京薩軍の大将である西郷隆盛と会っています。これが二人の最初の出会いとなりました。
8月23日に神戸へ帰村した龍馬は早速勝海舟に西郷の印象を述べています。
『初めて会ったが、茫漠(ぼうばく)としてとらえどころがない。しかし、これを大きく叩けば大きく答え、小さく叩けば小さく答える。』と伝えています。
この当時、長州討伐に熱心な西郷は、少しも動こうとしない幕府軍首脳相手に活路を見出すため、幕府軍に影響力のある勝海舟との会見を求めていました。
折しも事態打開のために上方に出張して来た幕府老中阿部豊後守から大坂へ呼び出された勝海舟は、9月11日に大坂の宿舎で、面会を求めて来た西郷隆盛と会合を持つことになります。
この出会いが『明治維新』につながる幕末の両巨頭の歴史的な出会いとなりますが、龍馬はその前座役で、西郷と面談したものと考えられます。
(引用画像:上野公園の西郷隆盛像)
龍馬の『亀山社中』設立に、なぜ西郷(薩摩)は手を貸したの?
勝海舟はこの政局を徳川家を含めた『雄藩連合』にて対処すべきで、徳川家は関東の一大名になるべきと考えていましたが、この老中阿部豊後守はあくまでも従来通りの幕府政権の維持を念頭に置いており、元治元年(1864年)9月9日の海舟との会合で海舟を危険思想の持主(獅子身中の虫)と判断して後日罷免することを決定します。
勝の失脚により、勝が企画して出来上がったばかりの『神戸海軍操練所』は閉鎖が決定し、藩士・幕臣以外の牢人(脱藩浪士)は失業の憂き目に遭うこととなりました。
その為、勝は人物と見込んだ薩摩の西郷に頼み込んで、これを拾ってもらう形を取ろうとします。
しかし実は、薩摩藩実力家老小松帯刀(こまつ たてわき)は勝が作っている『海軍』に従来より関心を持っており、『神戸海軍操練所』の解体が見え始めたころ(戻るところのない脱藩浪士を含む)塾生たちを京・大坂の薩摩藩邸にかくまうことを始めていました。
小松と西郷の狙いは薩摩藩の軍艦の操船要員等の海軍兵力の人材確保でした。
薩摩はどこまでも『討幕』の為の軍事力強化に関心があったと思われます。
勿論龍馬と同じく、その基礎となる貿易収入確保のための”海運力”と云うものも目的に含んでいます。
塾頭の坂本龍馬は、最終的に塾生たちと慶応元年(1865年)4月25日に薩摩藩船”胡蝶丸(こちょうまる)”で薩摩へ向かうこととなりました。
藩内の反対勢力も多い薩摩にあって、龍馬たちは長崎へ移されて藩とは別組織”亀山社中”として、活動を始めます。
スポンサーは薩摩藩(家老小松帯刀)となり、仕事は、龍馬の構想にある日本最初の商社となっての販売(輸出入)・海運・船員の貸し出し等と、小松の考える薩摩のミッションの両方をこなすものでした。
この”亀山社中”の後ろ盾は、薩摩藩以外に、長崎の豪商”小曾根家”とイギリスとのパイプ役”グラバー商会”がついていました。
龍馬の商才は十分に生かされて、結果的に『亀山社中』は長崎の豪商小曾根家と薩摩藩を保証人として、グラバーが仕入れた大量の武器弾薬を”薩長土肥討幕連合”に流して幕末戦争を動かしていく裏方となって行きます。
慶応2年(1866年)の『薩長盟約(同盟)』の成立に龍馬はどんな役割を果たしたのか?
薩摩藩と長州藩は、文久3年(1863年)8月18日の”政変”以来ハッキリした敵対関係にありました。
その後も、薩摩は会津との”薩会同盟(1863年の”政変”前に島津久光が結んだ密約)”もあり、禁門の変・第一次長州征伐と立て続けに長州と対決します。
薩摩藩は、”公武合体思想”を藩論として信奉して、尊皇攘夷激派の長州藩の過激行動を危険視する立場だった訳です。
つまり会津藩に同調・協力して、幕府政権を擁護する体制側でした。
しかし、徐々に場当たり的な対応しか出来ない幕政に失望し、迫りくる欧米列強の動きに危機感を募らせます。
薩英戦争(1863年)のあと1865年頃には、パークス駐日英国公使の薩摩訪問などがあり、英国と手を結び始めていた薩摩は急速に幕府から気持ちが離れて、逆に”倒幕”へ傾いて行っていたようです。
こんな中、西郷と勝の対面が実現して、幕府内にも幕藩体制継続に反対する”開明派(雄藩連合推進)”の存在が確認出来て、あとは倒幕のために尊攘激派が政権を握った長州藩との和解が必要な情勢となっていました。
そこへ、勝の門人・客分で勝海舟の作った”海軍操練所の面々”を率いる”倒幕雄藩連合推進派”の坂本龍馬が現れ、薩摩と長州の和解(薩長盟約)を強く勧めて来ました。
龍馬は、勝は言うに及ばず、江戸遊学時代を通じて長州尊攘派とのパイプが太く、言わば”幕府開明派”と”倒幕激派”の双方に顔の利く真に貴重な存在でした。
もうひとり龍馬の昔馴染で、土佐の脱藩浪士の中岡慎太郎(なかおか しんたろう)も、”禁門の変”に従軍するなど長州の尊攘激派と行動を共にしており、龍馬と同じく長州と薩摩の間にいる男でした。
二人は倒幕を進める為に、協力して薩長の説得に当たり薩長盟約成立に尽力して行きます。
そのため”薩長の仲介役”などと言われています。一言で言うと『キレる長州をなだめ、ためらう薩摩の背中を押す』ということでしょうか?
慶応2年(1866年)1月21日に京都の薩摩小松帯刀(こまつ たてわき)邸で行われた薩長の会合の席には、武士の格・身分の違いから龍馬の同席は許されなかったとも言われていますが、後日長州の桂小五郎(かつら こごろう)が当日口頭で合意した内容につき、文書化して龍馬に裏書(現存しているようです)を求めたのは有名な話です。
つまりこの事実は、龍馬がこの『薩長盟約(同盟)』の公式な立会人として、双方に認められていたことを示しています。
こうして、坂本龍馬(と中岡慎太郎)が、”倒幕勢力”の結集に成功し、”明治維新”への大きな歯車を動かしたことは紛れもない歴史的な事実です。
スポンサーリンク
慶応2年(1866年)に西郷(薩摩)はなぜ『亀山社中』への援助を打ち切ったのか?
薩長盟約が成立した慶応2年(1866年)1月21日の翌々日23日の深夜午前2時頃に、坂本龍馬は定宿の伏見寺田屋で伏見奉行所の捕り方、応援の京都見廻り組に襲われます。
有名な”坂本龍馬遭難・寺田屋事件”です。
寺田屋の女将お登勢に預けられていた龍馬の妻おりょうの機転もあり、九死に一生を得るわけですが、まるで『薩長盟約』が成立するのを待っていたかのようなタイミングの良さで襲われています。
不穏な動きをする薩長の動向を探っていた幕府探索方の網にかかったと言われていますが、どうでしょうか?
私見ですが、やはり本当は『タレコミ』が奉行所にあったのではないでしょうか?
その時龍馬は、伏見にあった薩摩屋敷に逃げ込んで匿われ、その後薩摩本国へ身を隠して受けた手傷の治療をしたあと、8月には第二次征長戦に”亀山社中”の海兵隊を引き連れてユニオン号に乗って小倉で参戦しました。
ユニオン号は長州藩が購入したものですが、同船の引き渡しのついでに参戦した訳です。
そして、この第二次長州征伐の幕府軍敗戦により、政局は一気に”倒幕”へと情勢が進んで行き、薩長はともに『倒幕』から『討幕』へと変化して、まとまって行きます。
一方、龍馬の”亀山社中”はユニオン号を長州に引き渡した後、運行する船がなくなり、薩長盟約締結後、薩摩は龍馬に政治的な動きを期待することはなくなり、つまり”御用済み”になったかのごとく、薩摩による亀山社中への目だった援助はなくなっていきます。
そこに長州桂小五郎の周旋もあったのか、龍馬は古巣の土佐藩との和解が成立して、土佐藩参政後藤象二郎(ごとう しょうじろう)が翌年慶応3年(1867年)春4月に”亀山社中”改め”土佐海援隊”として引き受けます。
薩摩が”亀山社中”の面倒を見なくなった理由は、一般的には薩長盟約成立により、龍馬の役割が終わったことと、”亀山社中”が薩摩の負担になっていたのが原因、要するに御用済みとなったためと言われています。
私見ですが、おそらく”亀山社中”を立ち上げた頃は、薩摩藩内の大久保・西郷ら『精忠組』への反対勢力が多く、”亀山社中”を隠れ蓑に使って軍事力の増強を図っていたのではないでしょうか。
ところが幕府軍が長州に敗北するのを見て、もう反対者を気にせずに堂々と軍事行動を取る自信が出来た西郷らにとって、隠れ蓑”亀山社中”はお荷物なだけとなり、しかも龍馬の利用価値もなくなったと言う事が大きな理由だったのではないでしょうか。
慶応3年(1867年)11月15日『坂本龍馬の暗殺』の盟友西郷隆盛黒幕説は本当?
前章までの記事で、”寺田屋龍馬遭難事件”と”龍馬暗殺近江事件”は、類似性があると思われませんでしょうか?
つまり、『的確な情報提供(タレコミ)』・『下手人が幕吏』・『周到な準備』と言う点においてです。
このふたつの事件に共通しているものとして、動機面では、”指名手配のお尋ね者を探す幕吏”の他に、”邪魔者を始末したい何者か”と云うものがあるような気がします。
薩摩の軍事責任者西郷隆盛は、どちらにも関連があるように思えます。
西郷は単純な武人ではなくて、戦国武将のような軍事力・政治力を持ち合わせています。
それから、そもそも論ですが、やはり西郷隆盛は”武士階級のひと”なのでしょう。
龍馬は剣士・志士として名をあげていますが、もともと町人がお金で武士株を買った郷士の子で、武士としては身分も低く、それに比べて最後薩摩の家老格までになった西郷とは大きな隔たりがあります。
つまり、西郷は幕府の組織内で身分のある勝海舟には一目置いていたようですが、やはり武士未満の坂本龍馬のことは下に見ていたのではないでしょうか。
しかし、戦国武将的軍人政治家としての西郷は志士仲間・開明派藩主に人気のある龍馬を堂々と排除することは政策(倒幕)上得策でないことを百も承知なのです。
西郷は事を実行するに当たって、私情を交えずに冷徹に完遂する強い意志を持ち合わせており、常に目的を優先するひとです。
薩摩は『薩会同盟』を結んでいたくらいですから、会津が管轄する京都の治安維持掛りの幕府捕吏との連絡は薩摩には十分可能なのです。
前述の2件とも治安維持関係の出動とすれば、西郷(薩摩)は自分で手を汚すことなく幕吏の手を使って、坂本龍馬の始末が出来る計算となります。
つまり、『寺田屋遭難事件』は、会津藩から直接伏見奉行を動かしたもので、『龍馬暗殺近江屋事件』は、新撰組打倒の計画を持つ、御陵衛士の伊東甲子太郎を動かして、京都見廻組に実行させた犯行と見ることは可能だと思います。
暗殺の2~3日前に近江屋へ龍馬に会いに行った伊東甲子太郎の高台寺党(御陵衛士)のスポンサーが薩摩藩であるのは周知の事実ですし、そのうえ伊東甲子太郎は京都見廻組佐々木只三郎とも懇意?とか言われていますから、全部つながりそうですね。
勿論、具体的な証拠などないので、ただの憶測にすぎませんが、これが一番すっきりする可能性の高い話ではないかと私は思っています。
戊辰戦争後、龍馬暗殺を自供した元京都見廻組の今井信郎の赦免に西郷隆盛が尽力したと言うのは有名な話ですし、暗殺実行者の生き残りの元京都見廻組の渡辺篤の維新後の生活を何かと面倒見たのも元薩摩藩士の新政府幹部でした。
やはり、”西郷隆盛(薩摩)黒幕説”はかなり信ぴょう性が高い説ではないでしょうか。
これに対して、、、
何を言っているんだ!『寺田屋事件で龍馬が襲われた時に薩摩藩は助けて、その後本国でも匿ったではないか』と言われそうですが、古来『窮鳥懐に入れば猟師も殺さず』と言うではありませんか。
西郷は人が悪くて、その後懐から出してから、他人に殺させたのです。
まとめ
坂本龍馬と西郷隆盛の初見は、前述したように、元治元年(1864年)8月中旬頃と考えられます。
8月23日に神戸の勝海舟の元に帰村して述べた龍馬の西郷評は『初めて西郷に会す其人物茫漠(ぼうばく)として模促(もそく)すべきなし、之を大きく叩けば大なる答えを見、之を小さく叩けば小なる答えをみる。』と述べています。
その後9月11日に勝は西郷と面談していますが、後にこの龍馬の西郷評は非常に的確だったと述べています。
私的な理解では、この西郷が龍馬に見せた態度は極めて傲慢な考え方から出ているように思います。要するに龍馬を見下しているのでしょう。
龍馬の手紙は多数残されていますが、西郷・大久保宛てのものは、なかったように思いますので、桂小五郎など長州関係者にはずい分出しているのと較べて、龍馬と薩摩関係者とは肝胆相照らす仲ではなかったことがわかります。
西郷は多数の人から慕われている人格者とされていますが、西郷の方は勝海舟に心酔したようには、坂本龍馬に心酔はしていないように見えます。
西郷は龍馬の人物に関して、あくまでも関心を持ちその行動力に感心はしたけれども、結局利用するだけの人物だと判断したと言えるのではないしょうか。
薩摩にあって極めて活発に外交・諜報・営業活動をしていて、当時の英国外交官アーネストサトウの日記にもたびたび顔を出す薩摩藩士吉井幸輔にさえ、龍馬は手紙を出していません。
西郷(薩摩藩関係者)と龍馬が親しかったと、見るのはどうも間違いではないかと思います。ビジネス上での付き合い程度と云ったところでしょうか。
そして慶応3年11月15日(龍馬の暗殺日)前には、薩摩京都の重役たちはすべて、軍事行動準備のために京都を離れています。つまり必要な手立てはすべて組んだ上で、軍事行動の準備に出掛けていたのです。
その必要な手立ての中に”邪魔者坂本龍馬の暗殺”も入っていたのではないでしょうか。京都には見届け人として吉井幸輔を残していて、吉井は犯行直後近江屋へ駆けつけた人物のひとりです。
その証拠に前出の”英人外交官アーネストサトウの日記”にも吉井幸輔から龍馬暗殺の報告があったと記されています。
龍馬暗殺の可能性のひとつとして、西郷(薩摩)には『龍馬暗殺動機』・『暗殺実行者と結ぶ線』が存在するほか、『龍馬との同志意識に必要な精神的な深いつながり』がほとんど見受けられないことから、西郷隆盛(薩摩藩)黒幕説は十分可能性を残しているように見えます。
参考文献
松浦玲 『坂本龍馬』(2008年 岩波新書)
松浦玲 『勝海舟と西郷隆盛』(2011年 岩波新書)
中村彰彦 『竜馬伝説を追え』(1994年 世界文化社)
宮地佐一郎 『龍馬の手紙』(2003年 講談社学術文庫)
アーネスト・サトウ 『一外交官の見た明治維新(下)』(1960年 岩波文庫)
坂田精一訳
平尾道雄 『海援隊始末記』(1976年 中公文庫)
ウィキペディア西郷隆盛
ウィキペディア坂本龍馬
ウィキペディア海援隊