執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
『関ケ原の戦い』の覚え方(語呂合わせ)の決定版はこれだ!
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日本史の授業に必ず出て来る『関ケ原の戦い』ですが、知ってるようでよく分かりません。その原因は東軍と西軍が誰だったのかを良く覚えていないことですね。
そこで、両軍の武将が誰であったのかの覚え方(語呂あわせ)を作ってみました。この戦いはこの後の武将たちの運命を決めて行き、豊臣家と大阪の陣、江戸時代に繋がって行きます。
ここでは、この『関ケ原の戦いの本戦』で、東軍(徳川家康側)に参戦したのは誰で、西軍は誰なのかとその覚え方とその意義を簡単にご説明します。
目次
『関ケ原の戦い』関ケ原本戦関係者の覚え方(語呂あわせ)とは?
この戦いは本戦は美濃国関ケ原で行われましたが、奥羽・北陸・畿内・四国・九州と地方戦も同時に激しく行われており、全国規模の内戦でした。
ここでは、この内戦の行く末を決めた”関ケ原の本戦”の覚え方(語呂あわせ)をやりましょう。
慶長5年(1600年)9月15日(10月21日)朝霧の残る美濃国関ケ原で、午前8時頃から陣から飛び出して福島隊の前へ出た東軍井伊直政隊の射撃から始まったと伝えられています。
この戦いは奇妙な戦いでした。東軍7万、西軍10万と日本史上最大級の戦争ですが、本気で戦った者ばかりではなく、西軍側に裏切った者、日和見を決め込んで参陣しながら参戦しなかった者が続出し、先に地勢的に有利な場所に陣取り勝利確実のはずの西軍が大負けをしてしまいました。
この戦いを理解するには、どの武将がどちらの陣営にいたかをキチンと知っていないと訳が分からくなるので、少なくとも最初は誰がどこにいたかを覚えておくために、①戦う東軍武将 ②家康本陣の背後に詰めている東軍武将 ③戦う西軍武将 ④寝返った西軍武将 ⑤日和見西軍武将の5つに分けてゴロにしてみました。
(画像は関ケ原の戦い笹尾山石田三成本陣跡)
年号:1600年(関ケ原の戦い)ゴロ
囲炉裏の席で 家康が、勝手気ままに
(いろりのせきでいえやすが、かってきままに)
1600年 関ケ原 徳川家康 勝って
天下取り
(てんかとり)
天下取り
東軍ー戦う東軍主な武将ゴロ
徳川家康(とくがわ いえやす)
福島正則(ふくしま まさのり)
黒田長政(くろだ ながまさ)
細川忠興(ほそかわ ただおき)
井伊直政(いい なおまさ)
加藤嘉明(かとう よしあき)
藤堂高虎(とうどう たかとら)
本多忠勝(ほんだ ただかつ)
ナイフ家康、 福正宗を、 飲みながら
(ないふいえやす、ふくまさむねを、のみながら)
内府家康 福島正則
黒長槍は ”細か!”とただ置き、
(くろながやりは”ほそか!”とただおき、)
黒田長政 細川忠興
言い直しかと”よっしゃあ!”
(いいなおしかと”よっしゃあ!”)
井伊直政 加藤嘉明
呑み過ぎとうとう高トラに、
(のみすぎとうとうたかとらに、)
藤堂高虎
本多のジィはただ勝つのみ!
(ほんだのじぃはただかつのみ!)
本多忠勝
東軍ー家康本陣の後方に詰めている主な武将ゴロ
山内一豊(やまうち かつとよ)
浅野幸長(あさの よしなが)
池田輝政(いけだ てるまさ)
山の内には行かつとよ、
(やまのうちにはいかつとよ、)
山内一豊
朝の”よし!”は長くなり、
(あさのよしはながくなり、)
浅野幸長
池も田んぼも照る、 真に!
(いけもたんぼもてる、まさに!)
池田輝政
西軍ー戦う西軍主な武将ゴロ
石田三成 (いしだ みつなり)
小西行長 (こにし ゆきなが)
宇喜多秀家 (うきた ひでいえ)
大谷吉継 (おおたに よしつぐ)
島左近 (しま さこん)
戦う西軍、ジブ三成、
(たたかうせいぐんじぶみつなり、)
石田三成
商人小西は行くまで長く、
(あきんどこにしはゆくまでながく、)
小西行長
ウキっと秀家、
(うきっとひでいえ、)
宇喜多秀家
大谷へ、”よし!次は島さ近いぞ!”
(おおたにへ”よし!つぎはしまさちかいぞ!”)
大谷吉継 島左近
西軍ー寝返り西軍武将ゴロ
小早川秀秋 (こばやかわ ひであき)
脇坂安治 (わきさか やすはる)
朽木元綱 (くつき もとつな)
小川祐忠 (おがわ すけただ)
赤座直保 (あかざ なおやす)
寝返り西軍 小早川 、 ヒデーも飽きた、
(ねがえりせいぐん こばやかわ、ひでーもあきた、)
小早川秀秋
脇の坂で 安く張る、
(わきのさかで やすくはる)
脇坂安治
朽ちた木も元は綱、
(くちたきももとはつな、)
朽木元綱
小さな川は助けても、ただ!
(ちいさなかわはすけても、ただ!)
小川祐忠
赤い座布団は直っても安い。
(あかいざぶとんはなおってもやすい)
赤座直保
西軍ー日和見西軍武将ゴロ
毛利秀元 (もうり ひでもと)
吉川広家 (きっかわ ひろいえ)
長束正家 (なつか まさいえ)
安国寺恵瓊 (あんこくじ えけい)
島津義弘 (しまず よしひろ)
日和見西軍毛利さん、ひでりの元の
(ひよりみせいぐんもうりさん ひでりのもとの )
毛利秀元
吉川さん 広い家にお住まいです
(きっかわさん ひろいいえにおすまいです)
吉川広家
人になつかぬ正家さん、
(ひとになつかぬまさいえさん、)
長束正家
安国寺には参詣します
(あんこくじにはさんけいします)
安国寺恵瓊
土佐の鳥葬、壁の盛土近くで、
(とさのちょうそう、かべのもりつちちかくで、)
長曾我部盛親
始末”ヨッシャ!”
(しまつ”ヨッシャ!”)
島津義弘
『関ケ原の戦い』の日本史的意義の簡単な説明はこれだ!
”形の上では、豊臣家内部のお家騒動的な戦いなのですが、実態は政権交代のスタートとなる重要な戦いでした。この戦いに勝利することにより、家康は主だった反徳川勢力の排除と弱体化に成功し、徳川家が主催する武家政権確立への道を開きました。”
もう少し話をしますと、、、私見ですが、、、
要するに、官位をエサに公家社会に取り込まれかけていた豊臣家および豊臣勢力を政権中枢から強制的に切り離し、政権を鎌倉幕府型の武家主導による運営に引き戻すきっかけになったことが重要でした。
公家勢力の影響力の及ばない、東国江戸に幕府を開くことも、源氏を名乗る家康としてみれば、鎌倉に幕府を開いた源頼朝と同様に当然だったのかもしれません。
信長も将軍足利義昭とのことが取り沙汰されますが、京都と距離を置いた本当の理由は、公家勢力の政治干渉を避ける意味が大きかったのではないかと思っています。
そう云う意味では、家康は信長の政治手法をよく見ていたのかもしれませんね。
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その後の豊臣家と徳川家康はどうなったの?
良く知られていることのおさらいになりますが、この関ケ原の戦いは豊臣家内部の権力争いだったため、豊臣宗家には表面上はお咎めなしでしたが、処分された豊臣系家臣の領地にあった豊臣直轄地(蔵入り地)は没収され、結果豊臣宗家は220万石が畿内の65万石に減封されました。
この戦後処理により豊臣家譜代の家臣団は大きく地盤沈下して、秀吉がもっとも警戒していた外様の徳川家康が完全に実権を握ることとなりました。
家康は政権樹立へまっしぐらに走り、3年後の1603年に征夷大将軍の宣下を受けて、江戸に徳川幕府を開くことに成功します。
その後慶長19年(1614年)になって、方広寺鐘銘事件によって豊臣家を追い込み、大坂の陣(1614年~1615年)で豊臣宗家を滅亡させ、徳川政権の安定化を達成します。
まとめ
以前『秀吉の五大老五奉行制』に関する『覚え方(語呂合わせ)』を作りましたが、今回は『関ケ原の戦いの覚え方』を作ってみました。
『関ケ原の戦い』は歴史の節目となった大事件ですが、タイトルだけで中味がよくわからないので、今回のゴロが内容理解の一助になること出来れば幸いです。
結果はこの戦いを境に徳川家康の世の中になって行く訳ですが、戦闘に参加した武将はどうなるかわからないこの戦いに家の将来を賭けて頑張って知恵を絞りました。
各武将の対応したそのパフォーマンスがこの出来事の見所ですね。
『関ケ原の戦い』は別記事も用意していますので、お時間があれば参照してください。
参考文献
ウィキペディア『関ケ原の戦い』