天下人豊臣秀吉は、『惣無事令?』で天下を統一した!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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天下人豊臣秀吉の出したと言われている『惣無事令』の”100字まとめ”・”200字まとめ”を付けました。

惣無事令』を最初に言い出したのは、誰なのかが分かります。

滅亡した小田原の北条氏には、『惣無事令』はあったの?

天下人豊臣秀吉が『惣無事令』をどう使ったのか分かります。

豊臣秀吉の出した『惣無事令(そうぶじれい)』とはどんなもの?

100字まとめ

豊臣政権における『惣無事令』とは、①停戦命令、②知行安堵、③当事者間の紛争裁定、④境目画定による静謐化、⑤に従わない者への制裁と言う五点を『天皇叡慮』を根拠として、各地の大名に強制した法令である。(100字)

 

200字まとめ

豊臣政権による『惣無事令』とは、天皇の『叡慮』による”天下静謐”を目的とする職権的な広域平和令であり、戦国大名領主間の交戦から百姓間の喧嘩刃傷にわたる諸階層の中世的な自力救済権の行使を体制的に否定し、豊臣政権による領土高権の掌握をふくみ紛争解決にために最終的裁判権の独占を以てこれに代置し、軍事力集中と行使を公議の平和の強制と平和侵害の回復の目的にのみ限定しようとする政策の一端を担うものとされる。(199字)

 

教科書では?

山川出版の高校日本史の教科書に、、、

関白になった秀吉は、天皇から日本全国の支配権をゆだねられたと称して、全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定を秀吉の裁定に任せることを強制した(この政策を惣無事令と呼ぶこともある)。

(引用:笹山晴生 外15名『改訂版 詳説日本史B』2018年 山川出版)

 

とあり、豊臣秀吉は織田政権を継承して、”天皇の権威”をうまく利用して、主君織田信長が達成間際だった”全国制覇”を巧みに成し遂げたとしています。

以前より関東奥州関係では、文書中にある『無事(ぶじ)』の文言が、『和睦(わぼく)』、『和与(わよ)』と同義語として扱われ、戦国期における停戦・和睦、それによってもたらされる秩序を意味する言葉として文書類に使用されていたようです。

そこへ歴史学者の藤木久志氏が、史料中にある”無事”にすべてを意味する”惣”が付いた『惣無事』と言う言葉に注目し、豊臣秀吉による全国統一過程で、天皇の権威を利用して、交戦の停止を各地の大名へ命じ、さらに秀吉が大名間の領地紛争を”裁定”して平和的な解決を図るということを強制する法令を発令して、全国統一を進めたとして、これを『惣無事令』と名付けて提唱され、それが広く受け入れられて来たものです。

 

最近の研究では?

豊臣秀吉が『惣無事令』を天正15年(1587年)12月3日に、奥州の国人領主3名に出したとされる根拠の発給文書は、あくまでも”『関東奥両国惣無事(かんとうおうりょうごくそうぶじ)』を徳川家康に命じたことを奥州の国人領主に伝えた文書”に過ぎないのではないかとの疑義が出されました。

この元となる秀吉から家康への”命令”とは、、、

(前略)兼而又関東ハ無事之儀被仰調候よし、被仰越候、乍去于今御遅延に候、如何之義に御座候哉、最前 上様(織田信長)御在世之御時、何茂無御疎略方々に候間、早速無事も被仰調尤候、自然何角延引之仁御座候ハヽ、其趣被仰越候ハヽ御談合申、急度其行可有之候、(後略)

羽柴筑前守 秀吉

(天正11年)十月廿五日

参河守(徳川家康)殿 人々御中

(引用:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文章集 <一> 833徳川参河守宛書状写』2015年 吉川弘文館)

大意は、”(前略)兼ねてより関東は無事のことは整ったと言われてましたが、それが遅れていると聞いています。どうした事でしょうか?最前の信長様御在世の時には、そのような不手際のない方々なのですから、速やかに無事を整えてください。引き延ばしの原因となる相手がいるようでしたら、仰せいただければお打合せいたします。必ず実行していただくように。”位の意味です。

時期的に、織田政権が崩壊し、関東の覇権をめぐって、徳川と北条が揃って旧織田領へ侵攻して張り合っていた時期(天正壬午の乱ーてんしょうじんごのらん)のことです。

つまり、これが『惣無事令が出されていた根拠』の文献であるとするのであれば、豊臣秀吉の『惣無事令』とは、どうやら他の法令と言われているもののように、明文化されたものではない可能性が高くなって来ており、また、豊臣秀吉は、法令には『大高檀紙(おおたかだんし)』と言う大判で厚手のしわのある紙を使いますが、これにはそのようなものが存在しません

慣例法のようなものであれば、明文化はないのかもしれませんが、もしこの『惣無事令』が改めて豊臣秀吉が考えて法令化したものであれば、彼の性格からして『大高檀紙(おおだかだんし)』を使ったしっかりした体裁のものを発給した可能性が高いので、これは正式な法令でない可能性が高いのではないかとされています。

 


(画像:2018年11月29日投降者撮影沼田城主真田信行・小松姫像)

 

豊臣秀吉は、奥州に『惣無事令』を出したの?

前章の話と重なりますが、豊臣秀吉が奥州に『惣無事令』を出していたとされるその例とは、、、

対富田左近(一白)将監書状披見候、関東惣無事之儀、今度(徳川)家康ニ被仰付候之条、其段可相達候、若相背族於有之者、可加成敗候間、可得其意候也、

(天正14年)十二月三日   (秀吉花押)

片倉小十郎(景綱)とのへ

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 2036片倉小十郎宛判物』2017年 吉川弘文館)

 

対富田左近(一白)将監書状披見候、関東惣無事之儀、今度(徳川)家康ニ被仰付候之条、其段可相達候、若相背族於有之者、可加成敗候間、可成其御旨也、

(天正14年)十二月三日   (秀吉花押)

白土右馬助とのへ

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 2037白土右馬助宛判物』2017年 吉川弘文館)

 

対石田治部少輔書状遂披見候、関東・奥両国迄惣無事之儀、今度(徳川)家康ニ被仰付候之条、不可有異儀候、若於違背族者、可令成敗候、猶治部少輔可申候也、

(天正14年)十二月三日   (秀吉花押)

多賀谷修理進(重経)とのへ

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 2036 片倉小十郎宛判物』2017年 吉川弘文館)

 

何れも北関東から奥州にかけての国衆と思われ、”富田一白、石田三成からの書状にあるように、関東・奥州両国の『惣無事』を徳川家康に申付けたので、従うように”と脅しつけています。

例えが適切でないかもしれませんが、これはヤクザ・侠客の脅し文句によく似ていて、”今度、この辺りは自分のシマ内になったので、すべての事はこの秀吉が仕切る。もし逆らったら痛い目を見る事になるぞ!”と言っているようなものです。

この書状が『判物(はんぶつ)』になっていることから、言ってみれば、この書状は”所領の安堵状”のようなものだと考えられます。その意味からも受け取った国衆にとっては『無事』なのだと思われます。

そして、日付ですが、古くは天正18年(1590年)頃のものとされていたものを、『惣無事令』の提唱者である歴史学者の藤木久志氏によって天正15年(1587年)とされ、最近では天正14年(1586年)ではないかと言われています。

この天正14年(1586年)の秋は、徳川家康が豊臣秀吉へ上洛臣従を行なった時であり、、、

昨日廿四日、家康六万騎程ニテ在京、明日廿六日大坂へ被越付、於宰相殿宿所爲翫藝能可在之トテ、神人幷猿楽衆被召寄、云々

(引用:『多門院日記 第4巻(巻32-巻40)天正14年十月廿五日の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大意は、”昨日24日に、徳川家康が6万騎ほどで在京した。明日26日に大坂へ行くが今豊臣秀長邸で芸能で饗応を行なうとして、神人や猿楽衆などが呼び寄せられた。”の意。

こうして、徳川家康が豊臣秀吉に臣従して、秀吉政権成立の山を越えたばかりの時、まさに家康が秀吉の命を受けて関東での行動を開始したことを裏付ける、秀吉の書状3通と言えるようです。

 

『惣無事令』を出したのは、豊臣秀吉が初めてなの?

前章までの話で、そもそもこの時期に『惣無事』の話を持ち出したのは、徳川家康であるようなのですが、、、

急度令啓候、抑今度各申合候處、上方申事在之付而、三介殿自御兄弟當表對陣之儀、令無事、諸事御異見等之儀、我等被賴入候旨、度々御理之條、任其儀、(北條)氏直と和与之事二、其方如存知、我等年來信長預り御恩儀不淺候間、無異儀候て、落著ニモ付而、信長如御在世之時之節、惣無事尤候由、氏直江申理候間、(結城)晴朝へ御諫言第一候、委細幡龍齋可爲口上候、恐々謹言、

(天正十年)十月廿八日         御名御判

水谷伊勢守殿

(引用:中村孝也 『徳川家康文書の研究 上巻』1967年 日本学術振興会)

 

大意は、”上方(織田家)の織田信雄・信孝兄弟から、この対陣について、『無事』(停戦)にするように度々言って来るので、それに従って、北条氏直と和議を結ぶこととする。そなたも知っているように、私は昔から織田信長公よりいただいたご恩は浅からずあるので、異議なくこの戦いを落着させる。信長公の御代のように『惣無事』であることはもっともだと思い、北条氏直にもそう説いているので、結城晴朝にもそのように諫言することが第一である。詳細は、水谷正村が口上をもってするのでよろしく。”位の意です。

徳川家康は、このように天正10年(1582年)の段階で述べており、天正10年前後に織田信長周辺の大名間では、『惣無事』と言う言葉が関東方面で『相互停戦』で『天下静謐』状態を示す意味に使われていたらしいことがわかります。

恐らく、天正10年3月に武田氏を滅亡させて、織田信長が重臣の滝川一益を上野へ送り込んで関東支配に当らせましたが、その過程で関東地区独特の秩序『惣無事』と言う表現を織田信長が使っていたからではないかと思われます。

単なる『停戦命令』であれば、信長は天下人となってから使っていたようなので、前掲の徳川家康も、織田信長が武田氏を滅亡させて創り出した”関東騒乱の停止状態”を知っており、その戦闘停止状態を示す『惣無事』を使ったのではないでしょうか。

前掲文からすると、徳川家康は決して織田兄弟の『惣無事命令』を受けたのではなく、織田政権の勧告に従って停戦したと言う感じです。

この時期ですと、まだ織田政権が存在していたようですが、決して織田家から『惣無事令』と言う命令が出ていた訳ではなさそうです。

と言う訳で、豊臣秀吉も『惣無事』と言う言葉とその意味は知っていましたが、この時点では、これを『惣無事令』と言う法令を出したのではない可能性が高いのではないかと思われます。

 

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後北条氏の『惣無事令』違反は本当にあったの?

天正18年(1590年)3月から始まる『小田原攻め』の開戦理由となった、豊臣秀吉から後北条氏に天正17年(1589年)11月24日付で通告されたとする有名な最後通牒は、長文なので要点をまとめると、、、

 

  1. 実質当主の北条氏政(ほうじょう うじまさ)が、度々の秀吉の求めにも素直に上洛しょうとしなかったこと
  2. 秀吉の裁定で真田領となっていた上野(こうづけ)の名胡桃城(なぐるみじょう)を、北条が強奪して秀吉の決定に逆らったこと

 

とあり、豊臣秀吉は、『天下の静謐』・『関東惣無事』を実現するために、強制した命令を守らなかった”『惣無事令』違反”を理由として、諸侯に総動員を掛け北条家を討伐に向かいました

『惣無事令違反』と言うことであれば、直接的には上記2点の内、2番目の”名胡桃城強奪”事件が該当しそうです。

歴史研究家の森田善明氏の研究によって、驚くべきことに、”名胡桃城強奪事件”がどうやら豊臣秀吉による”ねつ造”だった可能性が高いことが指摘されています。

この場所は、天正10年(1582年)10月の『天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)』の停戦時に、徳川と北条の和睦条件として、この上野沼田領が徳川から北条へ引き渡される事となっていたのですが、ここを所領としていた真田昌幸が引き渡しに応ぜずに徳川より離反して上杉へと走り、それに怒った徳川と北条に攻められたものの真田昌幸が守り切ったと言う曰く付きの場所(上野沼田領)に含まれたところでした。

そして天正12年の『小牧長久手の戦い』で豊臣秀吉と徳川家康が戦い、天正14年になって家康が秀吉に臣従してから、秀吉の命令で真田昌幸は越後上杉より再び徳川家康配下へ付け替えられます。

そして、徳川家康の取りなしで、天正16年には北条家も秀吉へ臣従する動きが出始めました。

こうなると未解決の真田昌幸が居座る上野沼田領の帰属問題が浮上し、その結果関白秀吉の『裁定』となり、”上野の真田の支配地の内沼田城を含む2/3を北条へ渡し、その他は城も含めて真田に残すものとする”と言う結論が出されました(通告は天正17年5月末か)。

しかし、名胡桃城は沼田城の支城(つまり沼田領内)だったため、この秀吉裁定では北条へ引き渡されるべきものでした。

これを受けて、北条氏直(ほうじょう うじなお)は、天正17年6月5日付の書簡で、、、

 

拙者父子一人司令上洛旨、御両使御演説之条々、具得心仕候、然者老父氏政可致上洛由申候、年内者雖可為無調候、涯分令支度、極月上旬、爰元可致発足候、委細直ニ可申述候、可然様頼入候、恐々謹言、

(天正十七年)六月五日      氏直花押

妙音院

一鷗軒

(引用:『小田原市史 史料編 中世Ⅲ小田原北条2 1945北条氏直書状』 1993年 小田原市)

 

大意は、”我々父子の内一人は上洛いたします。津田・富田の両使者からあった太閤殿の裁定の結果は、納得いたしました。それで、老父の北条氏政を上洛させようと思います。年内は準備が整いにくいのですが、精一杯支度して、12月上旬にここを出発するように致します。詳細は直接お話するようにしますので、なにとぞよろしくお願いいたします。”位の意です。

これは、北条氏が豊臣秀吉の領土裁定の結果を受け入れ、尚且つ年内に実質当主の北条氏政が上洛することを約束する書簡です。

この後、7月下旬に沼田領の北条への引き渡しに関して、秀吉側からの立ち合いに、津田隼人正(つだ はやとのしょう)と富田左近将監(とみた さここんしょうげん)が下向して来て、北条側は猪俣邦憲(いのまた くにのり)が受け取っています。北条側はこの受取に関して細心の注意を払っており、受け取りも北条家の信頼の厚い猪俣邦憲を選んで行っております。

秀吉側から立ち合い人まで下向して見守っていると言う前後の状況から見ても、頭がおかしくない限り北条側から軍勢で仕掛ける『名胡桃城強奪事件』など起こりようがないことが分かります。

しかも、この名胡桃城は裁定により引き渡された沼田城の支城であり、この際同時に引き渡されているものと考えられます。

 


(画像:2018年11月29日投降者撮影の写真ー沼田城から名胡桃城を遠望するに、対岸の写真中央の出っ張り辺りにあり、距離およそ2㎞くらいかと思われ、目と鼻の先にあることが目視でわかります。)

 

 

この事件は、真田昌幸から徳川家康へ報告されて、”明るみに出た(発覚した)事件”で、、、

・・・

一、北條事、年内上洛相違ニ付、來春彼表可被成 御動座之由、被仰出、・・・

・・・

已上     和久又兵衛入道宗是(花押)

(天正十七年)十一月廿日

(引用:『大日本古文書 家わけ 三ノ一 伊達家文書一 450上郡山仲爲和久宗是連署覺書狀 573頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”北条家のことですが、年内に上洛するという約束を違えたので、来春太閤殿下は小田原へ討伐のため出陣されるとおっしゃられています。”の意となります。

この天正17年11月20日の書状(秀吉側近の和久宗是が伊達政宗に上洛を勧める書状)は、この事件が公式文書上に現れた最初となるようです。

豊臣秀吉が、真田から天正17年11月3日に徳川家康経由で上がって来た”北条による名胡桃城強奪事件”の情報を聞いたのは、上記の11月20日くらいと考えられ、激怒して宣戦布告をするのは、天正17年11月24日付となっています。

ところが、豊臣秀吉から側近の奉行長束正家に対して、”北条による名胡桃城強奪事件”が発覚されたとされる11月3日より、1ヶ月近く前の天正17年10月10日付にて兵糧を駿河国江尻・清水の港へ送る手配の命令が発令されています

 

条々

一、兵粮奉行長束大蔵大夫幷小奉行十七人被仰付事、

一、年内従代官方弐拾万石請取之、来春早々船ニ而駿州江尻・清水江令運送、藏を立入置、惣軍勢江可相渡事、

・・・

天正拾七年十月十日  秀吉

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <四> 2723 兵粮等ニ付条々写 』2018年 吉川弘文館)

 

大意、”一、兵糧奉行長束正家と小奉行17名に命じられた事

一、年内より代官から兵糧20万石を集め、来春早々に船で駿河国江尻・清水の港へ運び、倉庫を建てて入れておき、進軍して来た全軍に兵糧を渡す事 ”との意です。

つまり、実は豊臣秀吉は、北条家の強奪が発生したとされるその1か月近く前に、すでに小田原攻めの準備を命じていることがはっきりします。

そもそも、、、

 

去月七日返礼到来、遂披見候、仍會津与伊達、累年鉾楯由候、天下静謐處、不謂題目候、早々無事段馳走、肝心候、境目等事、任當知行可然候、双方自然存分於在之者、依返事、可差越使者候、不斗富士可一見候条、委曲期其節候也、

(天正十七年)四月十九日 秀吉花押

佐竹左京大夫殿

(引用:『大日本古文書 家わけ 十二ノ二 上杉家文書二 835豊臣秀吉直書 220頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

 

大意は、”先月7日に返事を受け取った。会津と伊達は、長年敵対しているとのこと、天下の静謐のためには見過ごせない。早々に和睦させるように働きかける事。領地に関してはそのままにするべきだろう。双方に言い分がある時は、使者を派遣する。図らずも富士山を見れそうなので、詳細はその時に話をしよう。”の意です。

”図らずも富士山を見れそう”とは、小田原に出陣するということを意味していますので、豊臣秀吉は、すでに天正17年4月19日には”北条討伐”する考えに固まっていたと思われます。

つまり、時期から見ると、豊臣秀吉は、真田を巡る”裁定”を行なう以前からすでに”北条討伐”を決めていたことになり、ということは、”裁定”そのものが”引っかけ(ワナ)”であった可能性が高くなるわけです。よって真田は、熱望している領地を安堵してもらう代わりに、この秀吉の陰謀に加担したと考えられます。

と言うことは、真田の『北条の名胡桃城強奪事件』は、豊臣秀吉による”ねつ造(でっち上げ)”だった可能性が高く、『北条の”惣無事令違反”などはなかった』と言うのが真相だったのではないかと考えられます。

 

豊臣秀吉にとって『惣無事令』と言われるものは、どんな効用があったの?

そもそも中世の大名間の諍いの仲裁は、天皇・将軍などの権威のある存在のお仕事だったのですが、この当時はそれに加えて”天下人”と言う存在が主役となりそうです。

前述しましたとおり、天正10年(1582年)3月に織田信長が武田氏討伐後、滝川一益(たきがわ かずます)を上野に配置して『天下』の論理の下に、”北条”対”反北条”の関東の対立構図を『惣無事』と言う東国独自の秩序体系に包含して行くように関東支配を始めます。

天正10年(1582年)6月2日の天下人織田信長の横死後、勃発した東国における織田家領地の陣取り合戦である『天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)』を終結するに当たって、徳川家康が発した”信長公の生前のような『惣無事』”の状態を東国諸侯に要請した経緯にみられるように、東国の停戦状態を示す言葉となっていたようです。

当時織田家宿老の立場であった豊臣秀吉もその後の東国支配に関して、旧主君織田信長の権威をも超える『天皇の補佐役である関白』として、織田政府の政策を踏襲して行きます。

従来豊臣秀吉の『惣無事令』が発令されている根拠とみられていた書簡は、天正11年(1583年)10月25日に徳川家康へ出されており、以前織田政権が実現していた『東国惣無事(とうごくそうぶじ)』状態は、『天正壬午の乱』以後、徳川家康の報告にあったような再建が、出来ていないことを指摘しただけものであるようです。

しかし、その後豊臣秀吉は、全国的に天皇の権威を活用して圧倒的な兵力を結集し、反豊臣である各地の大名に恫喝(どうかつ)を仕掛け、臣従させてゆきますが、その際”秀吉に臣従することは、天皇の望まれる『天下静謐』(=『惣無事』)に協力することである”と言う論理を楯に、天下統一への政策を推し進めて行きます

本来織田信長が東国支配のために使用したスローガンであった『惣無事』も、そのまま豊臣秀吉によって東国向けには利用されたようです。

簡単に言えば、豊臣秀吉は東国における”反北条勢力”結集させるためのスローガン的に『無事』・『惣無事』の言葉を使用していたようで、”東国の大大名である北条氏”を追い詰めるのに有効利用していたようです。

 

まとめ

天下人豊臣秀吉は、一揆対策で農民の武装解除をしたと言われる『刀狩令(かたながりれい)』・兵農分離をしたと言われる『身分法令(みぶんほうれい)』・キリスト教宣教師を追放した『伴天連追放令(ばてれんついほうれい)』等、種々有名な法令発給していますが、その中に大名間の合戦を禁じたと言われる『惣無事令(そうぶじれい)』があると言われています。

 

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そして、この『惣無事令』は、東国相模の大大名である後北条氏を滅亡させたとして有名です。

冒頭の説明にありますように、『惣無事令は』、、、

 

  1. 停戦命令
  2. 知行安堵
  3. 当事者間の紛争裁定
  4. 境目画定による静謐化
  5. 決定に従わない者への制裁

 

と言う体系になっており、天皇の”叡慮(えいりょ)”を楯にして大名に強制することが、関白となった豊臣秀吉の特色となっています。

そして重要な点は、3.の当事者間の紛争裁定を口実に、その紛争にオフィシャルに介入する事が可能となっているところです。

それがまた、5.の圧倒的な戦力をもって制裁を加えることと、天皇の権力をバックボーンとしており、非常に強力な権力法制だと言えます。

従来の天皇・将軍の『停戦命令』では、この時代はすっかり軍事動員力を失くしていた為、迫力・強制力に乏しいものとなっていますが、関白秀吉の場合は、上記のように非常な軍事力をもったもので、この帰結として豊臣秀吉は独裁政権への突き進んでゆくことになります。

つまり、豊臣秀吉の思うままに、力の強い反対勢力にこの法令を利用して、言いがかりをつけて攻撃をして潰して行くことが可能となっています。

豊臣秀吉のみの存在であれば、反豊臣大名連合で対抗は可能かと思いますが、秀吉は天皇権威を楯にしているものですから、正面から大名等が反対しにくい性格を創り出していて、非常に巧妙なやり方で、驚異的に短時間で独裁政権を作り上げました。

織田信長の創り出した下地を横領した事による面も当然あるでしょうが、やはり大きいのは天皇権威をバックにして、この『惣無事令』に代表される自由な”軍事介入権”を駆使して、各地に群雄割拠する強力な軍団を組織する大名たちを、あっさりと降伏させていったことにあると考えられます。

巨大な軍事政権である織田政権が”あっと言う間に崩壊”する中、巧妙に立ち回って瞬く間に織田政権を乗っ取り、権威の象徴である朝廷・公家たちの鼻面を引き廻す”関白”にも就任して、武家と公家を両方の権力頂点に立ってしまった、豊臣秀吉の辣腕には驚くばかりです。

ここでは、大名間の紛争に強引に軍事介入する例として、東国の太守後北条家の滅亡に至るプロセスを見て行きましたが、そこには所謂正義とか慈悲のひとかけらもなく、政治目的を達成するために”謀略に謀略”を重ねる豊臣秀吉の姿が浮き彫りになって行きます。

この謀略を重ねたストーリーのねつ造による競争相手潰しは、その豊臣秀吉没後17年後に、その相方ともなっていた徳川家康によって再現され、権力中枢にいた豊臣一族はことごとく滅亡させられる因果となって巡って行きます

近年、この『惣無事令』が所謂法令としての体裁が整っていないことから、”法令”ではないのではないかとの疑問が歴史家の中から出されているところです。

秀吉は、織田信長の東国支配における『惣無事』の政策の中に、単なる『停戦命令』だけではなくて、『裁定』を巡り軍事介入権の発動が容易な点を見出して大きな魅力を感じ、法制化を進める間もなく、ぐいぐいと『天下静謐』=『惣無事』の政策をスピードをもって取り進めて行ったということではないかと考えられます。

と言うことで、豊臣秀吉は天下統一を達成するために、『惣無事令』を上手く利用した可能性が高いのではないかと思われるのです。

この稀代の政治家豊臣秀吉のやり口をみると、偶然目の前に現れたチャンスをものにしただけの人物ではなく、すべての状況を創り出してゆく能力があるのではないかと考えられ、やはり明智光秀だけでは、出来過ぎの『本能寺の変』に関しての大きな関与を疑わざるを得ないような気がします。

やはりこの豊臣秀吉と言う人物は戦国と言う時代が創り出してしまった『怪物・妖怪』だったのではないでしょうか。

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参考文献

〇日本史史料研究会編 『秀吉研究の最前線』(2015年 洋泉社)

〇藤田達生 『天下統一』(2014年 中公新書)

〇小和田哲夫 『豊臣秀吉』(1995年 中公新書)

〇藤田達生 『秀吉神話をくつがえす』(2007年 講談社現代新書)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 豊臣氏時代乙篇』(1981年 講談社学術文庫)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 豊臣氏時代丙篇』(1981年 講談社学術文庫)

〇三鬼清一郎 『豊臣政権の法と朝鮮出兵』(2012年 青史出版)

〇笹山晴生 外15名『改訂版 詳説日本史B』(2018年 山川出版)

〇名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文章集 <一> 』(2015年 吉川弘文館)

〇名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <三> 』(2017年 吉川弘文館)

〇武井英文 『織豊政権と東国社会』(2012年 吉川弘文館)

〇森田善明 『北条氏滅亡と秀吉の策謀』(2013年 洋泉社)

〇『小田原市史 史料編 中世Ⅲ小田原北条2 1945北条氏直書状』 (1993年 小田原市)

『大日本古文書 家わけ 三ノ一 伊達家文書一 』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <四> 』(2018年 吉川弘文館)

〇『大日本古文書 家わけ 十二ノ二 上杉家文書二 』国立国会図書館デジタルコレクション)

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