執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
天下人 豊臣秀吉は、突然キリスト教弾圧を始めた?ホント!
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豊臣秀吉の『キリスト教弾圧』の時期と内容が分かります。
豊臣秀吉がなぜ『キリスト教弾圧』に踏み切ったのか、裏事情も判明します。
豊臣秀吉が『キリスト教弾圧』を行なったのに、なぜ信徒が増え続けたのか理由が分かります。
目次
豊臣秀吉がキリスト教弾圧を始めたのはいつなの?
豊臣秀吉は、天正10年(1582年)6月2日未明の『本能寺の変』での織田信長没後に、『山崎の戦い』を制し頃て反乱を起した明智光秀を斃して、織田政権後継レースのトップに立って以来、織田信長の政策を踏襲することから政権運営を始めています。
従って色々理由はあるにせよ、”キリスト教保護”の政策を取り続けていた織田信長の方針を、そのまま継承していました。
時系列的に豊臣秀吉の政治事件を追って行きますと、、、
天正11年(1583年)の4月に、織田家重臣柴田勝家(しばた かついえ)を越前北ノ庄城にて滅ぼし、天正12年(1584年)末に『小牧・長久手の戦い』の結果、徳川家康(とくがわ いえやす)と和議を成立させて休戦し、天正13年(1585年)7月には『関白』に任官し、翌天正14年(1586年)10月にやっと難敵徳川家康を”上洛臣従”させました。
これにて、中央から東国への心配のなくなった豊臣秀吉は、天正15年(1587年)になって、九州の大友宗麟らから度々”秀吉による親征”要請のある九州へ平定の兵を起し、まったく臣従しようとしない”島津征伐”に出かけます。
島津方は、当初より秀吉をばかにして掛かった。彼らは悪言して曰く、猿に似たる関白来るとも、恐るるに足らず、・・・。
(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 豊臣秀吉<二>』1981年 講談社学術文庫)
と島津方は九州内では連戦連勝で、勢いに乗って勝ちに奢っているようすです。
一方、豊臣秀吉は、”家康問題”にケリのついた天正14年(1586年)12月に、支配地24か国に対して、九州への”西征軍”30万人もの動員命令を掛け、自身は翌天正15年(1587年)3月に大坂を出発しました。
この秀吉軍の様子に、さすがの島津も北九州の占領地から、即座に撤退を開始します。そして、5月8日には、島津軍の降伏が伝えらえ、秀吉にはそもそも徹底的に島津家を殲滅する意志のなかったこともあり、ここに九州平定は終わりました。
その帰路、凱旋で博多に立ち寄った秀吉は、戦乱で荒廃した博多の町の再興を命じ、来るべき”渡海作戦”の足懸りを作ろうとしているようでした。
そして、豊臣秀吉から歴史上有名な『バテレン追放令』は、この博多滞在中の天正15年(1587年)6月19日付にてイエズス会日本副管区長コエリョへ出される(発表される)こととなり、併せてこの『西征戦(島津討伐戦)』に参戦していたキリシタン大名の”高山右近”が領地没収の上、追放されることとなります。
(画像引用:十字架ACphoto)
豊臣秀吉の突然の弾圧開始をバテレンたちは予想していたの?
『九州平定戦』を予定通り勝利で筑前博多の町へ凱旋して来た豊臣秀吉は、天正15年(1587年)6月11日にイエズス会日本副管区長コエリョ神父を引見し、大いに接待し、後日コエリョ神父が乗って来たポルトガルの”武装フスタ船”に乗り、博多湾を視察して回りました。
気を良くした秀吉は、平戸に来航しているポルトガルの定期便の巨船も博多湾に回航するように命じますが、コエリョ神父は大船の深い吃水の関係で、博多湾では本船が座礁してしまい航行は不可能なことを、6月19日の午後になって平戸から駆け付けた当該船の船長本人に説明させ秀吉本人の理解を得ます。
この件に関しても秀吉のキリスト教に対する日頃の好意的な態度には、なにも変化はありませんでした。
ところがその夜の事です。フスタ船で就寝していたコエリョ神父は、秀吉からの二人の使者に叩き起こされ、船外へ引き出され、、、
- パードレ達が、何故にかくの如く熱心に諸人に勧め、また強制してキリシタンとなせるか
- 神仏の社寺を破壊し坊主を迫害し、これと融和せざるか
- 牛馬は人間に仕へ有益なる動物であるに、何故にこれを食ふ如き道理に背いたことをなすか
- ポルトガル人が多数の日本人を買ひ、これを奴隷としてその国に連行くは何故であるか
(一部引用:ルイスフロイス/村上直次郎・柳谷武夫訳『イエズス会日本年報(上)』1969年 雄松堂書店)
等の質問が成されました。そして、翌日正式な『バテレン追放令』として、発給されました。
定
一、日本ハ神国たる處、きりしたん国より邪法を授候儀、太以不可然候事、
一、其国郡之者を近付、門徒になし、神社仏閣を打破之由、前代未聞候、国郡在所知行等、給人に被下候儀者、当座之事候、天下よりの御法度を相守、諸事可得其意處、下々として猥義曲事事、
一、伴天連其知恵之法を以、心さし次第ニ檀那を持候と被思召候へハ、如右日域之仏法を相破事、曲事候条、伴天連儀日本之地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日之間ニ用意仕、可帰国候、其中に下々伴天連に不謂族申懸もの在之ハ、曲事たるへき事、
一、黒船之儀ハ、商売之事候間、各別候之条、年月を経諸事売買いたすへき事、
一、自今以後、仏法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつれにてもきりたん国より往還くるしからず候条、可成其意事、
巳上
天正十五年六月十九日(引用:ルイスフロイス/村上直次郎・柳谷武夫訳『イエズス会日本年報(上)』1969年 雄松堂書店)
この文の大意は、、、
- 日本は神国なので、キリスト教国から邪法を授けることは、決してあってはならないことである。
- (大名がバテレンに)民を近づけて、門徒にし、神社仏閣を破壊させていると聞く。これは前代未聞のことである。国・郡・在所・知行等が大名に渡されているのは当然であるが、天下の法度を守り、何事も天下の意向に沿うべきなのに、大名が下々の分際のくせに勝手なことをしているのは、悪事である。
- 伴天連の考え方を以て、(バテレンが)好き放題に大名クラスに布教してよいのだ思っているのであれば、それは日本の仏法を壊すことになり、悪事であるので、伴天連は日本においては置けない。今日より20日以内に帰国するように。その間にバテレンに危害を加える者は取り締まるべし。
- 貿易船は商売のために来るもので、全く別のものである。今後も商売は許可する。
- 今後とも、仏教に危害を加えないものは、商人は言うに及ばず、キリスト教国からの来訪者も許可する。この事を告知する。
こんなところかと思いますが、2.は高山右近のようなキリシタン大名の行動に釘を刺す条文のようです。全体の印象も西国の力を持ち始めたキリシタン大名たちの力を削ぐのが目的のような感じです。
簡単に云えば、豊臣秀吉の意向よりもバテレンの意向で動きかねない状況を危惧した秀吉がコントロールをかけ始めたとみて良いのではないでしょうか。
バテレンたちは、突然の秀吉の豹変ぶりに、大混乱となっていますが、歴史学者の松田毅一氏によれば、、、
秀吉は、イエズス会が日本に領土的な野心を持ち合わせているかどうかに関して、強い疑念を以前から持っており、九州への遠征で、キリシタン大名がイエズス会に寄進している土地がかなりのものであることが判明し、特に繁栄する貿易港”長崎”がイエズス会に寄進されていることに、秀吉は強い危機感を持ったのではないかと云います。
イエズス会は、以前秀吉が信長に対して、”イエズス会の領土的野心問題”に関する意見を具申したことは知っており、秀吉との会見時も疑念を起させないように十分気を付けていたようです。
つまりイエズス会は、秀吉の疑心の高まりが『キリスト教への弾圧』を引き起こすことは、百も承知だったと言えそうで、秀吉の豹変ぶりに驚く、”こんな事態は万に一つもかんがえていなかった”というはずはなさそうです。
織田信長が許していたキリスト教を、豊臣秀吉はなぜ弾圧を始めたの?
通説では?
前章にあったように、以前から信長の側でバテレンたちの言動を見聞きしながら、秀吉は”イエズス会の領土的野心”に疑念を持ち続けており、この天正15年の『追放令』もその疑念が昂じたものだと当時の在日イエズス会士たちは見ていたようです。
手なずけ説とは?
もう一つの見方としては、織田信長?よりの懸案とされる『唐入り(からいりー半島から大陸侵攻)』の、前線基地たる九州の制圧を終えた秀吉が、前線基地の”博多の町の再建・整備”に着手しますが、それと同時に『バテレン追放令』を出したという事は、いままで自由にさせていたキリスト教をコントロール下に置くことにしたと考えられます。
生前の信長をあれだけ悩ませた『本願寺』も、この時期には、、、
扨も此度關白秀吉公九州に御下向在せられ武威を以て、さしも剛敵の島津を攻詰剰さへ仁慈を施されしかば、島津一家も其御仁徳を感じ眞實に歸伏し奉り・・・・、然るに、此度義弘對戰の砌、上方勢間道より不意に亂入せし事心得難し・・・此事甚だ不審なりとて詮議しけるに獅子島の道場坊幷に門徒等が、手引きせし様子概略露顕に及びける・・・去年より本願寺の顕如上人獅子島の道場に御座ありしに合戦の時に至り太守始め諸役人等にも告げず志て退去有し・・・
とあり、なんとあの本願寺の法主”顕如上人(けんにょしょうにん)”本人が、”秀吉西征軍”の侵攻前年に自ら薩摩へ先乗りして、侵攻直前まで諜報活動をして秀吉軍侵攻の手引きをしていたことが記録されています。
つまり、このようにあの難敵本願寺を手なずけたように、今度は海外遠征に当って、海外宗教である”キリスト教・イエズス会”の手なずけに入ったのではないかと言う見方です。
強権発動して、脅しながら規制をはめて行くやり方ですね。
この考え方の背景は、、、
1587年10月4日付平戸発信フランシスコ・パシオ書翰によると、、、
「・・・秀吉は、パードレ達は霊的熱意から日本に来たのではなく、統治慾・征服慾から来たものと信じてその迫害令(天正15年)を発布したのである。又秀吉は、曾て信長に向ってこの考えを述べたことがあるが、信長はその問題をよりよく認識していたので、いとも遠方からかくの如き企てを遂行するに足るだけの兵力を差し向けることは、能うることではないと答えた。」(引用:松田毅一『大村純忠伝』1978年 教文館)
とある織田信長の考え方で、バテレンたちは本当の脅威にはならないと判断していると言う事です。
秀吉もそのことは十分承知をしていたと考えられます。脅威にはならないから、うっとしいけれども利用できるものに変えて行こうとするわけです。
異説『正親町帝との約束話』って何?
これは織田政権瓦解の後、豊臣秀吉は天下人にしてもらうに当たって、正親町帝の政策に協力することを当然条件としており、その重要な政策が『キリスト教排除』だったという説です。
第106代正親町(おおぎまち)帝は、”戦国天皇”と呼ばれて有名な陰謀家です。
簡単にこの説の前提を紹介しますと、、、
織田信長はキリスト教政策などでこれを断固排除するという朝廷の意向を反映させず、それどころか統治権に干渉し、朝廷中心の天下秩序を志向する正親町帝には譲位を求め続け、皇儲の誠仁親王を擁立して朝廷の二元化を図って攻勢をかけた。帝もまた、新たな世界観を採用しかねない信長の進取の気性と、圧倒的な武力を背景とした政治力の強大化を恐れる以上に武家政治を終わらせ、公家一統の政治を実現させるため、実は巻き返しを図っていたのである。それが信長の更迭と、幕府の滅亡を同時に図る構想に帰結した。
(引用:小林正信『正親町帝時代史論ー天正十年六月政変の歴史的意義 90頁』2012年 岩田書院)
とありますが、こうした正親町天皇のクーデター(王政復古)実現後の傀儡政治家に選ばれたのが、豊臣秀吉であったと言う話です。
これは”とんとん拍子だった秀吉の異例の出世”のカラクリ話でもありますが、、、
正親町帝から『天下人』にしてもらった豊臣秀吉は、この天正15年(1587年)に至って、やっと正親町帝の条件のひとつである『キリスト教の排除』に乗り出したと言う訳です。
約束より遅れた原因は、徳川家康を臣従させるのに予想外に時間がかかったことと、九州平定するために依然としてキリシタン勢力の協力がどうしても必要だったことが考えられ、薩摩島津家を降伏させた時点で、すぐさま正親町帝との約束である『バテレン追放令』を発令したと言う訳です。
しかし、前出した本拠地薩摩で島津家があっさり”降伏”した原因に、あの”本願寺法主顕如”の活躍があったと言うのは、面白い話ですね。
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豊臣秀吉のキリシタン弾圧で、配下のキリシタン大名たちはどうしたの?
実は、この『バテレン追放令』は、文言・当初の口調が強いものがありますが、実際は極めて不徹底なもので、徐々に空文化して行ったようです。
秀吉は、その後イエズス会士が一部を除き、ほとんど国外退去していないことを知りつつ、事実上黙認していたようで、そして、変わらず配下のキリシタン大名ー小西行長、蒲生氏郷、黒田季高、牧村政治、小西隆佐などを寵愛していました。
本音では、秀吉も織田信長同様に、イエズス会の勢力が日本の脅威になると言う考え方には同調していなかったようです。
と言う事はやはり、秀吉のこの『伴天連追放令』の意図するところは、”キリシタン宗門”を前述した”本願寺”のように、『御用宗教化』するのが狙いだったという事と、ひょっとすると前章の異説のような果たさねばならない約束のようなものがあったのかもしれません。
追放処分となった高山右近にしてみても、、、
処分に従って、領地・財産すべて放棄しましたが、同じキリシタン大名の小西行長に保護され、翌天正16年には前田利家の庇護を受け、客将として招かれ1万五千石の待遇で、天正18年(1590年)の小田原攻めにも参戦しました。
秀吉の意向に従いさえすれば、『弾圧』などは差し控えるというもので、このスタイルは後の徳川家康にも引き継がれて行きました。
かれら、戦国時代の政治家は後世の人間が考えるほど頑なな政策を取っておらず、柔軟に世界と向き合っていたようです。
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豊臣秀吉が『バテレン追放令』を発布しても、国内の信者が増えたのはなぜなの?
通説では、、、
フランシスコ・ザビエルの来日は天文18年(1549年)となっていて、それ以後天正11年(1583年)にイエズス会の信者数は約15万人、その内九州内で11万5千人と言われています。
秀吉が天正15年(1587年)に『バテレン追放令』を出していますが、その後の天正18年(1590年)『小田原攻め』の頃で約25万人、『関ケ原の戦い』の10年後の慶長15年(1610年)には22万人、『島原の乱』の寛永14年(1537年)直前の江戸時代初期に、一説には70万人とも言われていますが、最大30~40万人くらいではないかとの説が多いようです。
どうやら、秀吉の『追放令』の後も信者数が増え続けていたことは間違いないようです。
では、政権側から”禁令”に近いものが出ているのに、なぜ増加していったのでしょうか?
『禁令』が出た直後の話として、、、
秀吉の耶蘇教師退去令は、日本における諸大名その他の信徒には、ほとんどなんらの影響も与えなかった。否むしろ改宗の風潮を、刺戟した趣があった。秀吉の弟秀長や、京都所司代前田玄以や、いすれも宣教師に好意を表して、その保護者となった。北政所の甥なる木下勝俊のごときは、受洗して、ペテロの名を称するに至った。
(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 豊臣秀吉』1981年 講談社学術文庫)
とあり、日本の西端の九州博多で出されたものと言う事で、あまり影響しなかったのか、誰も本気の禁令と思っていないような有様です。
考えれることは、もうすでにフランシスコ・ザビエル師が伝道を始めて以来、38年も経過して、その間室町幕府奉公衆など日本の支配層・織田信長と言う庇護者を得て、日蓮宗や本願寺などと同様に、門徒組織がしっかり形成されて、”宣教師は単に説教師であればよい”くらいに育っていたと考えて良いのではないかと思います。
仏教で言えば、既に”檀家組織”がきちんと作られていたことが考えられます。
そして、大きなことは、この豊臣秀吉の出した『追放令』は、『禁教令』ではないため、信徒には及ばないことになっています。
天正15年6月19日付の『バテレン追放令』以外に前日の6月18日付で、『キリシタン禁令』が出ていますが、、、
定
一、伴天連門徒之儀、其者之心次第たるへき事
・・・・
天正十五年六月十八日 御朱印(引用:村上直次郎・柳谷武夫訳『イエズス会日本年報 下』1969年 雄松堂書店)
これは、上記の第一条以下11箇条にのぼるもので、伊勢神宮に対する「禁制」として出されたものですが、『追放令』が、宣教師向けであるのに対して、これは一般信徒向けと言われている『禁令』となっています。
ここに、第一条に”キリスト教を信仰することは、その者の自由である”と謳われています。
また、、、
天正十五年に秀吉が真に意図したのは「危険にして恐るべき」性格を孕むキリシタン宗門ではあるが、要するに一向宗の如く彼の支配下に属し、御用宗教と化することであって、その場合には、不必要な弾圧は差し控えるというにあった。徳川家康も略々同じ見解を宿して、・・・
(引用:松田毅一『大村純忠伝』1978年 教文館)
とあり、貿易と言う観点も含めて信教の自由をベースに事実上布教の自由も与えていた状況が分かり、また徳川家康も同じ政策であったことから、この桃山期から江戸初期にかけて”キリシタン信者”数の増加がみられた原因がここにあることがよく分かります。
やはり、貿易のもたらす”旨味”に関しては、為政者たちも豪商たちと同じ感覚であったようです。
まとめ
天正15年(1587年)の豊臣秀吉の出した『バテレン追放令』は、事実上の”禁教令”と考えられがちですがそうではなくて、”20日以内の宣教師国外退去処分”が実際には一部実行されたものの、大半の宣教師は身を隠して滞在(今で言う不法滞在でしょうか)を続けるなど、為政者側も言ってはみたもののその実行状況を厳しく追及することもなく、事実上骨抜きの通達になってしまいました。
そもそも、秀吉にしても、、、秀吉の従軍作家大村由己(おおむら ゆうこ)の『九州動座記(きゅうしゅうどうざき)』によると、、、
一、伴天連、此近年おり〃〃進上物を仕候しを無御忘候て、彼坊主帰国用意可仕之由候て、米壱万俵被下候、猶以寄特成御遠慮無申計候。
(引用:松田毅一『南蛮史料の研究 フロイス文書の内容検討 例32 502頁』1967年 風間書房)
とあり、秀吉は、近年、宣教師たちから折々進物を受け取っていたことを思い出し、彼らの帰国の準備に米一万俵を下賜したと言う内容で、とても厳しく追い出すと言う感じではありません。
こうして『追放令』が骨抜きになることを最初から容認していたような発令でしたが、この事は豊臣秀吉の意図は別にあると示唆しているようです。
通説では、文字通り、豊臣秀吉は昔から”イエズス会の領土的野心”を疑っており、九州遠征して初めて九州内のイエズス会のやり方と実情を目にして、もう捨ててはおけないと決心して『弾圧』を開始したというものでした。
しかし、その後のパフォーマンスを見てみると、とても”厳しい弾圧”とは言えないもので、一発かまして反応を見たと言ったところに見えます。
つまり、”ひつじの皮をかぶった狼”の可能性のある『イエズス会』を揺さぶって牙を抜き、”御用宗教”にしようと言うものです。
もうひとつは、『天下人』にしてくれた正親町天皇に恩返しをする必要があり、朝廷の政策である『キリスト教排除』を実施する必要があったというものです。
どれが正解かわかりませんが、後に『貿易将軍』などと呼ばれたほど、貿易での金儲けに力を入れた徳川家康も、当初同じ政策を取っていることから、これは『手なずけ作戦』が正解なのかと考えられます。
しかし、正親町天皇への”恩返し”も異説ですが、捨てがたいところです。
通説の厳しい話は、どうやら『立てまえ』だったのだろうと思われます。
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参考文献
〇山本博文 『天下人の一級史料ー秀吉文書の真実』(2009年 柏書房)
〇村上直次郎訳 『イエズス会日本年報 下』(1969年 雄松堂書店)
〇松田毅一 『南蛮史料の研究』(1967年 風間書房)
〇松田毅一 『大村純忠伝』(1978年 教文館)
〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉』(1981年 講談社学術文庫)
〇『豊臣鎮西軍記 島津の領國一向宗停止の事』国立国会図書館デジタルコレクション
〇小林正信 『正親町帝時代史論ー天正十年六月政変の歴史的意義 』(2012年 岩田書院)