豊臣秀吉は『九州征伐』を”天皇の権威”で勝ち抜いた!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉の『九州征伐(九州平定)』へ動員した兵力が分かります。

『九州征伐』の先陣を勤めた、毛利長曾我部の立場の差が分かります。

『九州征伐』のターニングポイントとなった『根白坂の戦い』が分かります。

豊臣秀吉は、なぜ島津義久を助命したのかが分かります。

豊臣秀吉が博多で出した『切支丹追放令』の真意が分かります。

 

豊臣秀吉の『九州征伐』での動員兵力は、どのくらいの規模だったの?

豊臣秀吉は、亡き織田信長の計画に沿って『九州征伐』を考えていたようで、7月11日に関白となった天正13年(1585年)の10月には、早くも、、、

就 勅諚染筆候、仍関東不残奥州果迄被任 綸命、天下静謐処、九州事于今鉾楯儀、不可然候条、国郡境目相論、互存分之儀被聞召届、追而可被 仰出候、先敵味方双方相止弓箭旨、 叡慮候、可被得其意儀尤候、自然不被專此旨候者、急度可被成御成敗候之間、此返答各為ニ者一大事之儀候、有分別可有言上候也、

(天正十三年)拾月二日 (秀吉花押)

島津修理大夫殿

(引用:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文集 <二> 1640 島津修理大夫殿』2016年 吉川弘文館)

大意は、”関東は残らず奥州の果て迄、勅命に従い、天下静謐が実現しているが、今も戦いが行われているのは、よくない事だ。国境争いについては、お聞き届けの上、仰せ下さるので、叡慮であるのだから、先ず双方矛を収めるべきであろう。だから、この意に背くようなら、かならず御成敗となるはずであり、この返答は重大事であるから、よく分別して言上せよ。”位の意味となります。

このように、島津が止めようとしない北九州への侵略行為に対して、早速”叡慮(えいりょー天皇のご意向)”と言う言葉を使って恫喝(どうかつ)を加え、田舎者の島津義久(しまづ よしひさ)を挑発しているようです。

そして、命に従おうとしない島津を見定めて、豊臣秀吉は翌天正14年4月より『九州征伐(九州平定戦)』の準備を着々と始めて行きます。

また、本願寺の元法主顕如上人(けんにょ しょうにん)にも、薩摩の事前工作を命じています。

元來 軍術智謀は孫子を欺く大將なれば、遠慮を連らされ、前に本願寺の顕如上人をお頼みありて 粕屋内膳正、平野遠江守をはじめ、御本陣の諸士五六人を上人の家老用人又は若黨などに仕立て差添へられ、九州御下向の以前 去年十一月中に、顕如上人は薩州に下向ありて獅子島の道場に入り給ひ・・・

(引用:通俗日本全史 巻二十 『豊臣鎭西軍記 156頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

とあるように、天正15年(1587年)の豊臣秀吉の『九州征伐』出陣の前年天正14年(1586年)の11月に、あの織田信長と10年余にも及ぶ戦闘を続けていた本願寺派の元法主顕如上人その人が、なんと豊臣秀吉の命令を受けて、薩摩の情報収集・事前工作のために、秀吉の家来を、自身の付き人たちに紛れ込ませて鹿児島入りしていたことが分かります。

実際の”九州征伐(島津討伐)への出陣”は、天正14年(1586年)8月5日付の豊臣秀吉の命令に基づいて8月末には、中国から毛利(もうり)軍が、四国から長曾我部(ちょうそかべ)軍が九州へ渡海出陣を始めたようです。

その後豊臣秀吉は、天正14年(1586年)12月1日になって、畿内はじめ20数ケ国に出陣の準備命令を下します。

そして、明けて天正15年(1587年)1月25日の備前宇喜多秀家(うきた ひでいえ)1万5千名を皮切りに順次出陣を始め、総勢12万人の大軍が九州を目指し、豊臣秀吉は3月1日に大坂から出陣しました。

昨年来先発して、北部九州に駐屯している部隊と合流し、現地での兵力はおよそ20万人ほどに膨れ上がり、豊臣秀長(とよとみ ひでなが)は支隊として約半分10万人ほどの軍勢を率いて、豊前より豊後へ九州の東側のルート日向表を南下進軍し、豊臣秀吉は本隊として筑前から九州西側のルート肥後表を薩摩国を目指して南下して行きました。


(画像引用:鹿児島 鶴丸城 ACphoto)

中国の毛利と四国の長曾我部は、なぜ先陣を勤めさせられたの?

中国の毛利も四国の長曾我部も、豊臣秀吉がまだ織田信長の武将であった最後の頃に戦っていた対戦相手でした。

天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』直後に毛利とは”和睦”の形で、長曾我部は天正13年(1585年)7月に豊臣四国征討軍に”投降”しています。

長曾我部の場合は完全な敗軍の将の扱いで、”次の戦いには先陣を仰せつかる”と言う戦国の習いとなった事と、九州へ攻め込むには、四国からの渡海に関して、九州日向口への最短距離の武将と言う地の利も考えられます。

毛利の場合は、正親町天皇(おおぎまち てんのう)を仲介として、豊臣秀吉とは”同盟”に近い形の立場だと思われますので、本来は自ら名乗り出ない限り”先鋒申しつけ”は無いはずですが、九州諸大名との利害関係も深く地理的な条件から、そうなったと考えられます。

おそらく”織田信長の九州平定スケジュールに毛利を手先として攻め入るプラン”が存在していたようなので、豊臣秀吉はかなり早い段階から、毛利に島津攻略の準備に入らせています。

  覚

一、分国置目、此節可申付事、

一、簡要城堅固申付、其外下城事、

一、海陸役所停止事、

一、人数揃事、

一、藏納申付、九州弓箭覚悟事、

一、豊前・肥前人質可取堅事、

一、門司・麻生・宗像・山鹿城々へ人数・兵粮可差籠事、

一、至九州通道可作之事、

一、一日路々々御座所城構事、

一、赤間関御藏可立事、

一、筑前検使、安国寺(恵瓊)・黒田官兵衛(孝高)仰付事、

一、高麗御渡海事、

一、大友(義統)与深重可申談事、

一、大仏殿材木事、

已上

(天正十四年)四月十日 (秀吉朱印)

毛利右馬頭(輝元)殿

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三>  1874 毛利右馬頭宛分国置目覚 』2017年 吉川弘文館)

大意は、”

  1. 支配地の確定はこの九州征伐の時決定する
  2. 拠点の城の守りを固め、その他の城からは退去せよ
  3. 海陸の関所の業務は停止しておく事
  4. 兵力を集めておく事
  5. 藏に兵糧の準備をして、心して九州での戦闘に備える事
  6. 豊前(ぶぜん)・肥前(ひぜん)の諸侯から人質をしっかり取っておく事
  7. 薩摩への肥前口要路に当る門司(もじ)・麻生(あそう)・宗像(むなかた)・山鹿(やまが)の各城に兵と兵糧を入れて準備しておく事
  8. 九州へ至る通行路を確保構築しておく事
  9. 行軍する豊臣秀吉の為に、毎日の御座所を構築しておく事
  10. 下関に倉庫を作っておく事
  11. 筑前(ちくぜん)の検使役に安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)と黒田官兵衛孝高(くろだ かんべえよしたか)を任命した
  12. その後高麗(こうらい)へ渡海することを念頭に入れておく事
  13. 豊後(ぶんご)の大友宗麟(おおとも そうりん)とはよく打合せをしておく事
  14. 14.京都の方広寺大仏殿(ほうこうじ だいぶつでん)の建設用木材の事を忘れないように” と言うような内容です。

 

このように豊臣秀吉は、天正14年(1586年)4月10日の段階で、すでに毛利に対して『九州征伐』戦の準備を始めるように、この14箇条にも及ぶ命令を出していることが分かります。

この時期豊臣秀吉は、薩摩の島津義久(しまづ よしひさ)に対して九州内での領地拡大を意図する侵略戦争を止めて、兵を退くように関白命令を出しているところですが、一方では、上記のように事細かに、平定戦の準備を申付けているところから、毛利を自軍の大きな頼みとして頼りにしていることが分かります。

単に和睦しただけの相手ではこうは行かないので、毛利は隷属させながらも同盟に近い関係であることを示しており、間違いなく天皇と近い関係にある関白秀吉に対して、古くからの勤皇家である毛利家もしっかり協力をする姿が見て取れます。

 

豊臣西征軍と島津軍の勝敗を決定づけた『根白坂の戦い』ってどんなもの?

天正15年(1587年)2月の領地の大和郡山(やまとこおりやま)を発した関白の弟豊臣秀長(とよとみ ひでなが)は、3月には九州豊後まで入り、順次集まった約10万の兵とともに着陣し、関白秀吉の下知を待っていました。

3月下旬に秀吉より、豊後より撤退する薩摩軍を追って、九州を東廻りに日向口より薩摩へ進軍することを命じられ、4月6日に日向(現在の宮崎県)のほぼ中央に位置する高城(たかじょう)を約8万の兵力で包囲します。

東側に秀長の軍1万5千、筒井定次(つつい さだつぐ)・大友義統(おおとも よしむね)の軍1万5千、北側に毛利・小早川軍2万5千、西側に吉川元長(きっかわ もとなが)・広家(ひろいえ)軍1万、南側に宇喜多秀家(うきた ひでいえ)軍1万5千を配し、薩摩の援軍に対応するために根白坂(ねじろざか)に空堀を備えた防塁に防御柵を幾重にも造作した砦を造営して、宮部継潤(みやべ けいじゅん)・南條元續(なんじょう もとつぐ)・亀井玆矩(かめい これのり)ら4千を伏せ、東方高地には黒田孝高(くろだ よしたか)軍2千、西側には尾藤知定(びとう ともさだ)軍3千、近隣に蜂須賀家政(はちすか いえまさ)軍6千が計1万5千ほどで待機する布陣で、高城を救援に来る薩摩軍を待ち伏せしました。

一方、島津義久(しまづ よしひさ)は、日向都於郡城(ひゅうが とのこおりじょうー現在の宮崎県西都市辺りの山城)にあって兵を集めていましたが、高城の危急を聞き、取り急ぎ4月17日の夜、集まっていた兵2万を率い、北郷一雲(ほんごう いちうん)・伊集院忠棟(いじゅういん ただむね)を先鋒として高城を救援に向かい、そのまま根白坂の砦へ夜襲を掛けます。

薩軍の攻撃は熾烈を極めますが、夜襲を想定していた守將の宮部継潤は、空堀・防塁・防護柵を駆使しての必死の防戦に努め、一気に防衛ラインを突破するはずに薩摩の精鋭も勢いを良く防御します。

藤堂高虎(とうどう たかとら)軍も防戦に加わり、戦いは払暁になっても続いて行き、黎明時には黒田軍・小早川軍も防戦に加わました。

この頃には高城周辺に詰めていた日向口本隊の豊臣秀長軍3万も応援に入り始め、根白坂の砦周囲にアリが群がるように取りついて猛攻を加えていた薩軍も次第に劣勢へと向かい、被害甚大な状況についには島津義久も都於郡城へ引き上げます。

この戦いは、薩軍の抜刀突撃戦法に対して、西征軍は鉄砲隊で陣立てして対応したことによる、武器の差が一番の決め手となった戦いとなりました。

一方、豊臣秀吉の本隊は九州西岸を肥後口より進軍を続け、筑前豪族秋月種実・種長(あきづき たねざね・たねなが)父子の投降により、近隣豪族の投降が続き、4月10日には、肥前の龍造寺政家(りゅうぞうじ まさいえ)も降り、彼らを先鋒として肥後へ進出して4月14日には隈本に入りました。

薩軍は、次々に諸侯の裏切りに遭い、とうとう薩摩本国へ引かざるを得なくなり、5月3日には、秀吉は薩摩の大平寺(たいへいじ)に本陣を進めました。4月12日には、将軍足利義昭(あしかが よしあき)の命を受けた僧木喰応其(もくじき おうご)が講和を進めに都於郡までやってきているなど、島津義久の周辺は慌ただしくなってきました。

加えて、あろう事かの4月17日の”根白坂の夜襲”失敗による薩摩軍主力の大敗で、とうとう島津義久も決断をするに至り、天正15年(1587年)5月8日に剃髪して、大平寺に在陣する豊臣秀吉の所へ面会を乞い、降伏する事となりました。

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豊臣秀吉は、なぜ寛容に島津の降伏を認めたの?

薩摩軍の島津義久(しまづ よしひさ)はギリギリまで重臣配下と協議を重ねた上で、前章のような経緯で、関白秀吉に投降するに至りました。

一、つくし一へんに申つけ、しまついまいらせ候かこしまへ五里六里のあいたにむまおたて、しまつかうへをはね申へきところに、かしらをそり、一めいおすてはしり入候あいた、せひにおよはす、いのちをたすけまいらせ候事にて候、二三日中かこしまへこし、くにのしおきを申つけ、廿四五日ころにハちくせんのくにはかたへこし、大たう・なんはこくのふなつき候よし候まヽ、しろをちやうふに申つけ、人数のこしおき申へき事、

・・・

(天正15年)五月九日   ひてよし

こほ    まいる

(引用:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <三> 2182 こほ宛自筆書状 』2017年 吉川弘文館)

 

大意は、”筑紫(つくし)を一気に平定し、島津義久がいる鹿児島まで、5~6里のところまで、軍を進めて来た。これから敵将島津義久の首を刎ねようとしていたところ、本人が頭を丸めて、命懸けで投降して来たので、それを認めて命を助けてやった。2~3日は鹿児島へ行って論功行賞などの戦後処理を行ない、5月24~25日には筑前博多へ行き、大唐・南蛮国への船着き場として、防御施設を強化し、部隊も駐屯させるつもりだ。”とあります。

これは豊臣秀吉が、大坂で待つ正室北政所”ねね”へ、自分の行動報告するいつもの書状ですが、この中に島津義久の降伏を認め助命したことが記載されています。

これによると、勝者の鷹揚さで、殊勝にも投降して来た敵将島津義久を助命してやったように書いてありますが、明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰によりますと、豊臣秀吉はそもそも島津家を滅亡させる考えを持っていなかったと言います。

つまり、豊臣秀吉の腹は、精強な薩摩隼人(さつまはやと)の兵士を率いる島津家を自分の配下にして、来るべき『唐入り(朝鮮出兵)』の際の貴重な戦力として利用することに重点を置いており、そもそも島津軍壊滅させるとか島津家を滅亡させることなど、全く考えていなかったと言うことになります。

そのため、出来るだけ双方の消耗を可能限り少なくして、秀吉の意図する形を実現する為、早期の戦勝にもって行くことが必要でした。

兄秀吉の意図を正確に理解している豊臣秀長は、”根白坂の戦い”で敗走する薩摩軍に、合戦の定石通りに追撃を加えようとする武将たちを抑えて、薩摩軍を壊滅させるようなことを避けました。

既に前年天正14年(1586年)12月に、関白秀吉の意を受けたと思われる将軍足利義昭から、島津義久宛てに和睦の勧告がなされており、それに対して義久は”当方は防衛戦をやっているだけで、関白には何の意趣もない。”と繰り返しています

領土意欲丸出しの侵略をしながら、よくぞ言ったものだと言う感じですが、関白秀吉に対してまともに敵対する言質は意識的に控えており、あくまで慎重に対処していることが感じられます。

天正15年(1587年)3月に入ってから、将軍義昭の使者一色昭光(いっしき あきみつ)と秀吉の意を受けたと見られる高野山の僧木食応其(もくじき おうご)上人が、和睦を強く勧めに来薩して来ます。

一方では、3月末より豊臣秀吉率いる”西征軍”が九州に侵攻し、本格的に大軍による討伐戦を開始し、島津を追い詰めて行きます。

豊臣秀吉は、こうした硬軟取りあわせた戦いの進め方により、可能な限り島津の戦闘能力を壊滅させないようにしながら島津軍を圧倒して、島津義久を屈服させるやり方で推し進めて行き、最終的に島津義久を降伏させて助命します。

関白秀吉が島津義久の降伏をあっさり受け入れた理由は、前述したとおり、来るべき『唐入り』時に島津の兵力を利用する構想を実現させる為だったと考えて良いのではないでしょうか。

 

博多の豪商島井宗室と神屋宗湛は豊臣秀吉に本当に協力したの?

島井宗室(しまい そうしつ)・神屋宗湛(かみや そうたん)は、大賀宗九(おおが そうく)を加えて、戦国期に”博多三傑”と呼ばれた博多の豪商たちでした。

彼らは、古くから北部九州六か国の守護職にあった大友氏と深く結びついて発展していましたが、南部の島津氏の侵略で大友氏が圧迫される中で彼らの商売も大きな影響を受けていました。

そこで、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの天下人織田信長への働きかけをして、島津氏への対抗をしようとしていました。

島井宗室はもともと室町将軍足利義政(あしかが よしまさ)の所有物であったとされている『楢柴肩衝(ならしばかたつき)』と言う、”初花肩衝(はつはなかたつき)”・”新田肩衝(にったかたつき)”と並ぶ”天下三肩衝”と呼ばれる名器の茶入を所有しており、これを所望する織田信長に九州の島津氏への対応を願っていたと言われています。

そして、信長への陳情のために上洛していて、信長は自己で所有の名物の茶器の一部を彼らに披露するために、中国出陣の直前にもかかわらず安土城から京都の宿所本能寺まで持参していました、正にその時天正10年(1582年)6月2日に『本能寺の変』が勃発したわけです。

出来過ぎた話ですが、島井宗室と同道した神屋宗湛も遭遇し、這う這うの体で本能寺から逃れたと言います。

織田信長が彼らをわざわざ引見した理由は、名物茶器『楢柴肩衝』の事もありますが、もともと中国の毛利征伐の後に天下統一のために九州征討のために、大友氏との繋ぎをとっていたところでしたので、次の一手(九州攻略)のために工作をしていたところだったのです。

そんな経緯があり、彼らは信長の死後に天下人となった豊臣秀吉にも、うまく取入り秀吉の『九州征伐』の大きな力となりました。

要するに、かれらは”九州征伐”に出陣する豊臣秀吉の『西征軍』の兵站と軍資金の世話を引き受けたわけです。

そして、思惑通りに九州平定を終えた豊臣秀吉は、帰途博多に立ち寄り、、、

六月十一日より、秀吉公博多町を建てんとて、指図を書かせ給ひ、翌十二日より町割を仕給ふ。

経営は黒田孝高に仰せ付けられ、奉行は瀧川三郎兵衛(下総守雄利)、長束大蔵大輔、山崎志摩守、小西摂津守等なり。下奉行三十人あり。

此所の老人どもを呼び出し、博多の町を十町四方に定め、竪横の小路を割り、民屋を営み作らせらる。

博多の津は、古昔異賊防禦の所として、大宰府への道路なれば、北を外面とし、南を内面とし、町割は南北を縦とし、東西を横とせり。南の外の外部には、横二十間餘(約三六メートル)の湟を堀り、瓦町の西南の隅より辻堂の東に至る。是を南方の要害の固めとす。

秀吉公此の町を再興し給ふ時も、奉行人昔の古実を尋ね、南北を縦とし道を広くす。屋宅を広くして、多くは冨人居れり。是を本町とす。縦町凡そ九筋あり。昔大宰府へ通じ、且つ又唐船の著きし海辺に通ずるがために、南北の道を広くせしなるべし。東西を横として道狭し、屋宅も狭くして、冨人は稀なり。

秀吉公斯くの如く、廃れたるを発し、絶えたるを継で、博多の町を建て給ひしかば、博多の者ども、再び世に出たる心地して、各々本土に立ち帰り、思ひ思ひに屋宅を建て並べ、人の集まること元の如し。

此の時博多の富商神屋宗湛、島井宗室両人どもに、表口十三間半(約二四メートル)の屋宅を賜り、永く町役を除かる。(筑前国続風土記)

(引用:徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣氏時代乙篇 335~336頁』1981年 講談社学術文庫)

 

とあり、豊臣秀吉の『九州征伐』戦への協力に対して、その後の博多の町の経営を含めて神屋宗湛と島井宗室が重用されて行く様子がよく分かります。

織田信長の政策路線を継承した形となった豊臣秀吉の政策方針は、神屋宗湛・島井宗室の両豪商たちの協力により、見事達成されて行ったようです。

 

『伴天連追放令』は、なぜ『九州征伐』の直後に筑前博多で出されたの?

ルイスフロイスの『日本史』によりますと、”施薬院全宗(せやくいん ぜんそう)”と言う比叡山の僧侶が、女好きの秀吉の命を受けて”少女狩り”に行っていたところ、キリシタン大名の有馬領で少女たちに拒絶されてしまい、連れて来るのに失敗したその腹いせに、夕食の後にキリシタンの悪口をあることないこと秀吉に吹き込んだところ、秀吉は激怒してしまい、それが『伴天連追放』につながったのだと訴えています。

いくら豊臣秀吉の女癖が悪くても、”少女狩り”などをやらせて、それが失敗したことに激怒して、怒りに任せて政策方針を誤ってしまうほど愚かな人物でないことは、歴史が証明していることです。

この時天正15年(1587年)6月19日に、関白豊臣秀吉から出された『伴天連追放令』は、その程度のくだらない言い訳しか思いつかないほど、あの聡明なルイスフロイス神父を混乱させたショッキングな出来事だったようです。

イエズス会(ルイスフロイス師)は、強大な軍事力・資金力と膨大な信徒数を誇り、あの”戦国の魔王織田信長”を10年に亘って苦しめた本願寺教団の、カリスマ的法主である”顕如上人(けんにょしょうにん)”を、なんと”手先”として薩摩へ送り込み、『九州征伐』を成功に導いた剛腕”豊臣秀吉”の、次なる政策方針を完全に読み違えていたようです。

『九州征伐』で、豊臣秀吉が”施薬院全宗”に命じていたのは、フロイスの云うような”少女狩り(女集め)”ではなくて、イエズス会支配地の実態調査だったと考えられます。

”金銭”に敏い豊臣秀吉が、天下人になって最初に考えたのは、”海外交易(貿易)”の利益の独り占めだったと思われます。そのため、豊臣秀吉は以前から宣教師たちとポルトガル商人の交易利益に関して、著しく関心を抱いていたようです。

”九州平定”を達成した直後に、西日本に拠点を置く、イエズス会・ポルトガル商人とキリシタン大名の実態にメスを入れたという事でしょうか。今まで、西日本全域を平定するまでは、キリシタンとキリシタン大名の力が必要だったので、我慢していたのですが、それが完了した今、いよいよ着手した訳です。

それでも、最後に秀吉の要求する平戸に入っているポルトガル貿易船の博多回航に応じる(つまり、イエズス会が秀吉の要求を満たす為なら、何が何でも協力する姿勢)ようなら、秀吉としてもまだイエズス会も使い勝手があると判断したかもしれませんが、それを貿易船の吃水のせいにして断って来たことから、躊躇なく根こそぎ叩く挙に出たものと思われます。

イエズス会がここでするべきだった外交政策は、ポルトガル商人の貿易に関して”がめつく強欲な豊臣秀吉”に共同事業を提案・奉仕するくらいの発想が必要だったのではないでしょうか。

西日本平定が終了した事から、もう”キリシタン”を頼りにする必要の亡くなった”豊臣秀吉の危険”を察知する感覚が最低限必要だったのでしょう。

とにかく、イエズス会はヨーロッパ人の感覚で、日本人をなめてやり過ぎていたとも言えます。

それは、天正8年(1580年)4月にキリシタン大名の大村純忠(おおむら すみただ)・喜前(よしあき)父子に天然の良港”長崎”を寄進させており、戦国のどさくさに紛れて、なんと長崎始め数か所がイエズス会領となっていたのです。しかも長崎は、貿易港としての能力を発揮して商業も盛んな都市に成長していました。

大げさに言えば、日本の中に”他国の領土”が存在する事態となっていたのです。秀吉でなくても、日本の統治者として君臨する人物であれば、看過できない事態となっていた訳で、それを秀吉から命を受けた施薬院全宗は、僧侶の立場を利用して現地を踏査し、確認し、調査した実態を報告したものと考えられます。

キリシタン側は、他地域(例えば東南アジア・南米)で成功したこのやり方をそのまま実行していたわけで、”日本でも大丈夫、豊臣秀吉は低い身分から這い上がって来た教養もない男だから、機嫌さえ取っておけば問題ない”と、なめてかかって布教(侵略)に執心していたのではないでしょうか。

在日期間の長いルイスフロイス師にして、そんな感覚とは恐ろしいものです。

こんなところが、九州平定直後の天正15年6月19日に、筑前博多で”キリシタン弾圧”が始まった理由だと考えられます。

 

まとめ

薩摩の島津氏は、天正5年の末には、日向の伊東氏を追い出し、日向・大隅・薩摩の三州を支配下に治め、九州の一大勢力となりました。

それ以後、天正6年(1578年)11月の”耳川の戦い”で、大友氏に大勝してから、島津氏は九州第一の勢力にのし上がりました。

宿敵本願寺との戦いに目処をつけて、毛利との戦いに臨もうとしていた織田信長は、天正8年には毛利家と過去より関係が深い公家近衛前久(このえ さきひさ)を使って、島津に毛利と対抗する勢力である豊後の大友氏との戦いを止めるように警告を発し始めていました。

しかし、島津が言う事を聞かないまま、毛利との決戦に臨もうとしていた織田信長が、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』で横死すると、毛利と同盟を結んで織田信長の後継者に名乗り出た豊臣秀吉は、天正13年に関白に就任し、”天皇の天下静謐(てんかせいひつ)”の名のもとに、島津討伐(九州征伐)に乗り出します。

兵力約20万もの大軍で九州に侵攻した豊臣秀吉率いる『西征軍』は、『根白坂(ねじろざか)の戦い』で島津軍主力を大敗させると、天正15年(1587年)5月8日に島津義久を降伏させます

島津義久を助命の上、薩摩・大隅の領有を認め、薩摩鹿児島での仕置きを終えると、筑前博多まで戻って論功行賞も含めた”九州征伐”全体の戦後処理に当ります。

ここに九州平定を終えた豊臣秀吉は、東国の後北条氏・奥州諸侯を除き、駿河以西の西日本の大名をすべて切り従えたこともあり、いよいよ念願の『唐入り(からいり)』の”準備・地ならし”に取り掛かります。

6月7日に博多に到着すると、豊臣秀吉は、先ず、『唐入り』の兵站都市とするべく戦災で荒廃してしまった博多の町の復興に取り掛かります。責任者として黒田孝高(くろだ よしたか)に、その他奉行4名・下奉行30名を命じ、九州征伐に戦商として功のあった博多の豪商島井宗室(しまい そうしつ)・神屋宗湛(かみや そうたん)を起用して、博多の町割りから始めます。

そして、密かにイエズス会と九州のキリシタン大名の動向を調査させていた側近で比叡山延暦寺の僧施薬院全宗(せやくいん ぜんそう)の報告を基に、6月19日に『切支丹追放令』を出し、イエズス会の弾圧に着手します。

その意図は、イエズス会領となっていた交易都市長崎の地を召しあげるとともに、キリシタン大名とイエズス会の資金源となっているポルトガル商人との貿易権益を、豊臣秀吉が独り占めしようとする試みが真意だったと考えられます。

『本能寺の変』の事態収拾に当たって、正親町天皇との政治政策の約束事のひとつに『切支丹追放』がありましたが、九州征伐を終えてもうキリシタン大名の力に頼ることもなくなってイエズス会のパードレたちを追放する挙に出て、正親町天皇との約束を果たしたものだと思われます。

豊臣秀吉にとって、一挙両得の『切支丹追放令』でしたが、表面上の友好的な対応にすっかり油断し、権謀術数の政治家豊臣秀吉の真意をくみ取れなかったルイスフロイス師らイエズス会側の甘さが招いた事態だったと言えそうです。

天正15年(1587年)の『九州征伐』の成功は、天正12年に頭を低くしてまで天敵徳川家康を味方に引き込んで実現した、豊臣秀吉の政治的成果のひとつだったと考えられます。

この時以降、豊臣秀吉は”天皇の『叡慮』”を使って、短時間で全国制覇をやり遂げ、念願の『唐入り(朝鮮出兵)』へと大きく舵を切って行くことになります。

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参考文献

〇名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文集 <二>』(2016年 吉川弘文館)

〇徳冨蘇峰 『近世日本国民史 豊臣氏時代乙篇』(1981年 講談社学術文庫)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 豊臣氏時代甲篇』(1981年 講談社学術文庫)

〇桑田忠親 『豊臣秀吉研究』(1975年 角川書店)

通俗日本全史 巻二十 『豊臣鎭西軍記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 』(2017年 吉川弘文館)

〇清水紘一 『織豊政権とキリシタン』(2001年 岩田書院)

〇山本博文 『天下人の一級史料』(2009年 柏書房)

〇松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史 4 豊臣秀吉篇1』(2012年 中公文庫)

〇奥野高廣 『増訂 織田信長文書の研究 下巻』(1994年 吉川弘文館)

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