豊臣秀吉の『兵農分離』策は、軍事力強化策なのか統治政策なのか?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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天下人豊臣秀吉の『兵農分離策』関連法令と呼ばれるものを簡単に200字でまとめてみました。

豊臣秀吉は『兵農分離策』をいつから始めたの?

豊臣秀吉の『刀狩り』・『人掃令』は『兵農分離策』なの?

豊臣秀吉は、『唐入り(朝鮮出兵)』をいつ頃から考えていたのか判明します。

豊臣秀吉の『兵農分離関連諸政策』簡単まとめ(200字)

『兵農分離(へいのうぶんり)』の通説とは?

戦国大名の軍団の兵士は、平素は農村に居住し、陣ぶれがあれば兵士として城に駆け付けるもので、本人が専業農家の場合は農繁期には出陣しにくい弱みがあった。織田信長は金銭で牢人を雇い、いつでも出陣出来る直属部隊を編成していたが、1560年5月19日の『桶狭間の戦い』で、この部隊が機敏な攻撃で今川義元の大軍に大勝利を挙げて、その強味が注目され、他国の農村在住の武士も農村を離れ城下に居住するようになった制度。(200字)

 

『刀狩り(かたながり)』での身分固定策とは?

戦国時代、農村の地侍・農民が刀・槍などで武装していることは、普通の事であった。しかし、戦乱の時代が続き、各地に主君を失った牢人等村に住み着く者・宗教勢力などを中心に武装勢力化する地域も現れ、領国を拡大して行く戦国大名も無視出来ず、また放棄耕作地拡大の原因ともなっていて、とうとう豊臣秀吉は1577年に『刀狩り令』を発し、百姓の持つ刀・槍・鉄炮などの武器類を取り上げ、農業に専念するように命令を下した。(200字)

 

『太閤検地(たいこうけんち)』の身分政策とは?

織田信長の検地よりも調査が徹底していたことで知られる『太閤検地』では、田畠の所有者・年貢納入者などが検地帳に『名請人』として記載してある。それには武家は認めず百姓のみとすると云うような身分隔離政策は存在しなかったと近年判明して来た。しかし、そこに名請人との記載のある百姓は、大名の国替え時には新任地に召し連れてゆく事は禁止されており、年貢納入者となっている百姓の土地移動は認めていなかったようである。(200字)

 

『城下集住(じょうかしゅうじゅう)』の理由とは?

江戸時代の武士は大名の城下町に住むのが基本であったが、戦国時代の武士は自分の領地・村に住むのが普通であった。武士が城下集住するようになった理由としては、従来大名が配下の武士を城下に集め軍事訓練を重ねる事と、領地から引き剥がして服従させる事だとされていた。しかし近年の研究では、1589年の聚楽第完成後に、秀吉が大名の妻子を人質に取る政策として、大名を家族と共に京都に住まわせたのが切っ掛けだとされる。(200字)

 

『身分法令(みぶんほうれい)』の正体とは?

通説では近世の兵農分離制を形作ったのは、豊臣秀吉が出した『身分法令』だったと云われる。これは1591年8月に出された秀吉の三カ条から成る朱印状の事を指す。武士・奉公人の階層のものが、町人・百姓の身分へ移動することを禁ずるものとされて来た。しかし、実態は朝鮮出兵を控えて武士の主人のところから逃げ出す奉公人の多さに手を焼いて、その逃亡防止対策法令として出したものであり、身分固定法ではないとしている。(199字)

 

『人掃令(ひとばらいれい)』の本当の狙いとは?

これは1592年に毛利家の外交僧安国寺恵瓊等が毛利家内へ出した、関白豊臣秀次の通達内容文である。身分別に人数調査する命令で、奉公人は軍役、百姓は陣夫役と云う役割分担を前提に、豊臣秀吉の大規模な海外派兵を契機として、逃亡した奉公人・陣夫が村に入り込んでいないかを調べるのが主目的の法令であった。調達可能な人数を調べるとともに、部隊から逃亡した奉公人・陣夫を引き戻すことを主眼としている政策と考えられる。(200字)


(画像引用:肥前名護屋城址ACphoto)

豊臣秀吉が『兵農分離(へいのうぶんり)』策を進めた理由は何なの?

通説の『兵農分離』のイメージは、”織田信長は『兵農分離』を早くから進めていたので、他の戦国武将と比べて格段に合戦に強かった!”と云うことが刷り込まれています。

それは、日頃から即日出陣可能な多数の職業軍人を中心とした軍団を整備しているため、農民兵中心の他の戦国武将たちに較べて農繁期に関係なく兵を素早く動かす事が出来たからだと云う説明になっていました。

信長の『桶狭間の戦い』における『信長公記』の記述、、、

夜明がたに、・・・、追々御注進これあり。此の時、信長、敦盛の舞を遊ばし候。・・・。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ、具足よこせ、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。
其の時の御伴には御小姓衆、・・・、是等主従六騎、あつたまで、三里一時かけさせられ、辰の剋に源太夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候。此の時、馬上六騎、雑兵弐百計りなり。

(引用:『信長公記 首巻 今川義元討死の事』インターネット公開版

このように突然出陣し、わずかな供回りだけで飛び出す織田信長の出陣イメージが、この行動に即座に対応し出陣出来る織田軍団の強さと共に、この時永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』で織田信長が歴史的大勝利を収めたことと合わせて、『兵農分離』政策の勝利として通説に固定されたようです。

その後も信長は、家臣団の『城下集住(じょうかしゅうじゅう)』を進めた事と、『楽市楽座(らくいちらくざ)』の推進して商工業者を城下や都市部への集中をさせ、その都市を支配下に治めて行くやり方で政治力を高めて行きました。

史実の詳細は別として通説では、織田軍団の中で出世して織田政権の後を継いだ豊臣秀吉も、この『兵農分離』策を採って”強い軍団”を継承して行ったものと捉えられています。

豊臣秀吉は、信長も実施していた”検地”を即座に実施するに当たり、さらに徹底させた『太閤検地(たいこう けんち)』を行ない、年貢を納める百姓と年貢を収受する武士との間の立場の区別をはっきりさせて行き、それに加えて天正16年(1588年)に『刀狩り(かたながり)令』を発し、百姓の所持する刀剣・弓・槍・鉄炮などの武器を取り上げて、百姓は営農に従事し 武力を保持させないことを徹底して行きました。

更に、天正19年(1591年)に『身分法令』を発布して、農民が商工業者になること、一旦武士団の下部を構成する中間・小物になった者などが百姓に戻る階級間の移動を禁じて、”戦いを行なう武士”と”営農を行なう百姓”の『兵農分離』の社会体制を確立させました。

豊臣秀吉の諸政策をまとめると、、、

  1. 兵を農民から職業軍人へ(軍事力強化)
  2. 武士と農民の土地所有形態を分離(太閤検地)
  3. 武士の居住地の変更(城下集住)
  4. 農民の武器所有禁止(刀狩り)
  5. 武士と農民(百姓)の身分分離(身分法令)

と云うのが従来からの見方となります。

 

豊臣秀吉が『兵農分離』を進めたのは、いつからなの?

種々の推計統計に依りますと、戦国時代の日本の人口はなんと1200万人くらいと、ひょっとすると当時の統一国家としては世界最大級の人口を持つ国だったようです。このうち所謂都市人口は推計統計によると約100万人くらいだったと思われます。

これだけの人口を食べさせるのは何と言っても米・農業で、都市生活者以外はほぼ農業従事者と言って良いでしょうが、戦国時代(実は江戸時代も)はこの農民と下級武士(兵士)の垣根が案外はっきりしていないのです。

豊臣秀吉がこの”都市生活者と農民”との問題に遭遇したのは、天正元年(1573年)に北近江旧浅井(あざい)領”江北三郡”の支配者となり、浅井氏の城下町”小谷(おだに)”から琵琶湖岸の地である”長浜(旧今浜)”に移動して、本格的城郭と城下町の建設を始めてからの事だったと思われます。

天正元年9月1日付で、織田信長より旧浅井の領地を与えられると、豊臣秀吉はすぐさま領地の『検地』に取り掛かり、天正3年(1575年)11月頃までに完了していますが、長浜の新城築造、伊勢長島への出陣等軍務と重なり、地元農民への年貢・賦役の負担はひどく重いものとなって行きます。

・・・。尤も三郡の御領内の百姓衆酉年(天正元年)以来の水害、今浜新城の普請造作のため、向う二ケ年の扶役を課され候。・・・
(引用:『武功夜話<一> 巻六 長浜新城の事』1995年 新人物往来社)

一、ここに羽柴筑前守様、江州三郡の御領主と相成り、すなわち浅井郡今浜成る処に御築城、町名を長浜と改め御居城なり。元浅井の給人、阿閉の給人、今西の給人、京極の給人ども多太く御召抱えに成り、その数二百五十有余人御座候。
小谷越しの町屋の諸職人、商人、今浜において御屋敷を賜う、且つは向う二ケ年間諸役銭を御免なされ候の次第。・・・
(引用:『武功夜話<一> 巻五 浅井郡草野谷、伊香郡の山谷在郷困窮の事』1995年 新人物往来社)

とあり、豊臣秀吉の江州長浜での新城下構築の工事の労働賦課は、近郷の農民に課せられて、農民が大変な目に遭っている一方、新城下へは税金を免除してまで商人・職人の誘致に躍起になって城下町新興に腐心している秀吉の様子が伺われます。

この当時、豊臣秀吉の上司である織田信長は商業振興に非常に熱心で、永禄10年(1567年)の美濃制圧後の岐阜城下建設にも成功しており、豊臣秀吉の小谷城下から琵琶湖岸の今浜(長浜)新城下町建設に関しては信長も賛成しているところから、長浜城下建設は着々と進められました。

しかし、前述のような新城建設の騒ぎのなかで、年貢をどんどん上げられ、労役に駆り出される領内の農村に住む百姓から、税金の減免措置まで受けられる都市(長浜)へ移住(逃散)する農民が増加しつつあったことに豊臣秀吉は気づいていたようです。

一、町人の事、われわれ不愍がり候て、よろづ容赦せしめ候ところに、随になり申し候て、在々の百姓を町へ呼び越し申し候事、曲事にて御入り候事。
一、よその領地の者よびかへし候事は、もっともに候へども、北の郡の内、われわれ領分の者よびこし候て、諸役仕り候はぬを、よく候とて、在々をば挙げて、内々に呼びこし申し候事。所詮、町人に年貢・諸役ゆるし候故に候まゝ、唯今もうしつけ候事。
一、かやうにもうしつけ候へども、それさま御ことわりにて候まゝ、前々のごとく年貢・諸役ゆるし申し候まゝ、奉行の者共に、此のよし御申しつけ候べく候。かしく。
藤きちらう ひで吉
十二月廿二日
こほ

(引用:桑田忠親『太閤の手紙』1985年 文春文庫)

とあり、豊臣秀吉が天正2年(1574年)12月22日に正室の於寧(おね)へ出した手紙ですが、、、

大意は、”長浜町人に年貢と諸役を免除したところ、領内の百姓たちを長浜城下へ呼び寄せていてまことに怪しからんので、優遇策を差し止めようと思ったが、おまえ(正室の於寧)がやめろと云うから、元に戻した”とあります。

しかし、一応百姓の移動は禁止したものの、百姓が在所を逃散して長浜城下に逃げ込んで来ていることには危機感を募らせた様子が感じられます。

そんな動きなど気にも止めずどんどん邁進する性格の主君織田信長に対して、経済感覚の鋭い豊臣秀吉は、この農民逃散が農村部人口の減少(田畑の荒廃⇒年貢の減少)につながる危険性に危機感を持ち始めます。

この当時の戦国大名の経済的バックボーンは、あくまでも農業生産に大きく依存しており、上記の事態が引き起こす農村部の人手不足は即農業生産高に影響し、経済面・軍事面で戦国大名にとって致命傷になる恐れを含んでいました。

この時期ここに、豊臣秀吉の直接”『兵農分離』の動き”と見るのは早計かもしれませんが、”百姓の移動禁止”を打ち出しているようなので、『兵農分離策』の中核を為す”身分固定・階級移動禁止”の走りと見ると、秀吉の行動開始は天正2年(1574年)からと考えても良いのではないかと思われます。

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豊臣秀吉の有名な『刀狩り(かたながり)令』は、『兵農分離』なの?

通説で、豊臣秀吉の『刀狩令(かたながりれい)』とは、天正16年(1588年)7月に、九州の大名中心に出されたとみられる命令を指します。

一般的な『刀狩り』そのものの起源は古く、記録に残るものとしては、、、

九月の丙寅の朔に、使者を諸国に遣して、兵を治む。或本に云はく、六月より九月に至るまでに、使者を四方の国に遣して、種々の兵器を集めしむといふ。・・・

(引用:坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀 <四> 252頁 』1995年 岩波文庫)

とありますが、これは、大化(たいか)元年(645年)6月12日に起こった『乙巳(いっし)の変ー大化の改新』の直後(9月1日)に、首謀者の中大兄皇子(なかのおおえのみこ)が反対派の”刀狩り(武装解除)”を行なったと言う日本書紀にある記述で、史上一番古いものだとされています。

豊臣秀吉自身にしても、最初の『刀狩り』は、天正16年(1588年)ではなくて、天正13年(1585年)の4月のことでした。。。

高野山宛条々
一、寺僧行人、其外僧徒学問嗜無之、不謂武具鉄炮以下被拵置段、悪逆無道歟事、
一、比叡山・根来寺儀、天下へ依敵対申、終破滅眼前に相見候之条、爰を以可被分別候事、
天正拾参年四月十日      秀吉
高野山

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <二> 1395「高野山文書」』)

仕置条目
一、在々百姓等、自今以後弓箭・鑓・鉄炮・腰刀等令停止訖、然上者鋤・鍬等農具を嗜、可專耕作者也、仍如件、
天正十三年卯月廿二日     秀吉朱印

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <二> 1413「太田文書」』)

とあり、最初の天正13年(1585年)4月10日付の高野山宛ての文書の大意は、”高野山の僧徒は、学問をたしなまず、武具どころか鉄炮まで備えており、悪逆無道である。比叡山・根来寺のように敵対すれば、破滅することになろう。よく理解して武器を放棄して従うことだ。”となっています。

次は、そのほんの10日くらい後の天正13年4月22日付の紀州太田村の百姓衆への文書で、大意は、”在々の百姓は、今より以後弓矢・槍・鉄炮・腰刀など使用を禁止した。こうなったら、鋤・鍬など農具をたしなみ、今作に専念するべきである。”と云うことになります。

下の文書は、明確に”百姓の武装解除ー刀狩り”となっていて、これが豊臣秀吉による農民への初めての”刀狩り”だと思われます。

そして、豊臣秀吉は本格的に全国へ発せられた”天正16年(1588年)7月8日の『刀狩令』”と言われるものを統一事業の進展とともに進めて来ます。

羽柴柳川侍従(立花宗茂)とのへ

条々

一、諸国の百姓、かたな(刀)・わきさし(脇差)・ゆみ(弓)・やり(槍)・てつはう(鉄炮)、其外武具のたくひ所持候事、かたく御停止候、其子細は、不入たうく(道具)相たくはへ、年貢所当をなんしう(難渋)せしめ、一揆をくハたて、自然給人に対し非儀之動をなす族、もちろん御成敗あるへし、然ハ其所の田畠令不作、知行ついゑに成候間、其国主・給人・代官等として、右道具悉取あつめ可致進上事、
一、右取をかるへきかたな・わきさし・ついゑにさせらるへき儀にあらす、今度大仏御こんりう(建立)候釘・かすがい(鎹)に被仰付へし、然ハ今生之儀ハ不及申、来世まても百姓たすかる儀に候事、
一、百姓は農具さへもち、耕作を專に仕候へハ、子々孫々まて長久に候、百姓御あはれミを以、如此被仰出候、寔に国土安全、万民快楽のもとひ也、異国にてハ唐堯のそのかみ、天下をなてまもり給ひ、宝釼利釼を農器に用と也、此旨をまもり、其趣を存知、百姓は農桑を情に入へき事、
右道具急度取集可致進上、不可油断候也、
天正十六年七月八日   (朱印)

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 2556 刀狩ニ付条々 「立花文書」』2017年 吉川弘文館)

とあり、大意は、、、

  1. 諸国の百姓は、刀・脇差・弓・槍・鉄炮・その他武具類を持つ事を堅く禁止する。その詳細は、不要な武器を所有して年貢の支払いを渋り、一揆を企み、領主に対して盾突こうとする者は、勿論成敗するが、それでは人手不足で田畑が不作となり領地経営がダメになってしまうので、国主・領主・代官等は百姓の持つ武器を回収して提出すること。
  2. 回収した武器は廃棄するのではなくて、今度建立する大仏の釘・鎹などに使うこととし、そうすればそのご利益で、現世は云うに及ばず来世まで百姓が助かることとなる。
  3. 百姓は農具だけ持って、耕作に専念すれば、子々孫々まで生き長らえることが出来る。この事は、百姓を思えばこそ言っており、本当に国土の安全、万民の幸福のもととなるものだ。大陸では中国の堯と云う国の時、国王が国民のことを思って、剣を農機具に変えて用いたという。百姓は農作業を真剣にやるべきなのだ。

豊臣秀吉は、”刀を取り上げるのは、天下泰平のため、お前たち農民のためなのだ”などと言って、農民の『刀狩り(武装解除)』を取り進めて行きます。

ここで、この事に関する当時の識者の受け取り方は、、、

一、天下ノ百姓ノ刀ヲ悉取之、大佛ノ釘ニ可遣之、現ニハ刀故及鬪諍身命相果ヲ爲助之、後生ハ釘ニ遣之万民利益理當ノ方便ト被仰付了云々、内證ハ一揆爲停止也ト沙汰在之、種々ノ計略也。

(引用:『多門院日記 天正十六年七月十七日の条第三項』国立国会図書館デジタルコレクション

これは奈良興福寺塔頭多門院主の”多門院英俊(たもんいん えいしゅん)の日記”にあるものですが、大意は”天下の百姓の武器をすべて取り上げ、鋳潰して方広寺大仏建立の釘にするという。現世では、刀のことだから命をかけてやり合う武器だが、来世では万民利益のために使われると云う、実は一揆を防止するためのものだが、まったく豊臣秀吉はよく色々屁理屈を考えるものだ。”

とあり、やはり”一揆防止”ためだと見られていたようです。

この時は、高野山始め寺院勢力からの『刀狩り』も同時に進行しており、宗教勢力と一緒になって襲い掛かって来る『百姓一揆』から、武器を取り上げることを主眼としたものであったようです。

しかし、豊臣秀吉は『刀狩り』とともに『太閤検地』も同時に進めており、文中にあるように、武器を取り上げて、百姓を合戦仕事から遠ざけて農業生産に専念させ、秀吉への”敵対勢力を弱体化させると同時に年貢の増収”を計っていたものとみられます。

ここで、所謂『兵農分離政策』が問われる訳ですが、この初期の狙いとしては『軍事力強化』の意味合いでの『兵農分離政策』ではなくて、前述の天正13年に実施した『刀狩り令』と同様に、”敵対勢力の弱体化と年貢の確保・増収”が狙い”と云う域を超えないものであったと考えられます。

 

関白豊臣秀次の出したと言われる『人掃令(ひとばらいれい)』は、『兵農分離』なの?

この『人掃令』は、一般に”身分統制令”と言われているものひとつですが、天正19年(1591年)8月に豊臣秀吉より出された『身分法令』と対を成すものです。

原文では、”天正19年3月6日付”となっていますが、”当関白から命じられた”とあることから、秀次が関白になっている”翌天正20年3月付”の誤記とされる説が有力となっています。

『人掃(ひとばらい)』との言葉が入っているために、注目されますが、内容の主旨はあまり変わらない気がしますので、先に大元の豊臣秀吉の『身分法令』から見てみますと、、、


一、奉公人・侍・中間・あらし子に至る迄、去七月奥州へ御出勢より以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者、其町中地下人として相改、一切をくへからす、若かくし置ニ付てハ、其一町一在所可被加御成敗事、
一、在々百姓等、田畠を打捨、或あきない、或賃仕事ニ罷出輩有之者、そのものゝ事ハ不及申、地下中可爲御成敗、幷奉公をも不仕、田畠をもつくらさるもの、代官給人としてかたく相改、をくへからす、若於無其沙汰者給人過怠にハ、其在所めしあけらるへし、爲町人百姓かくし置ニおゐてハ、其一郷同一町可爲曲言事、
一、侍小物ニよらす、其主に暇を不乞罷出輩、一切不可拘、能々相改、請人をたて可置事、但右者主人有之而、於相届者、互事之条、からめ取、前之主の所へ可相渡、若此御法度を相背、自然其ものにがし候ニ付てハ、其一人の代ニ三人首をきらせ、彼相手之所へわたさせらるへし、三人の人代不申付ニをいてハ、不被及是非候条、其主人を可被加御成敗事、
右条々所被定置如件
天正十九年八月廿一日 秀吉朱印

(引用:北島万治編 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 <一>「小早川家文書」天正19年8月21日 豊臣秀吉朱印状 』2017年 平凡社)

とあり、大意は、、、

  1. 奉公人(武士)が町民百姓として各町・各在所に入り込んでいるかどうかを調べ、そのような者を一切置いてはいけない。
  2. 百姓が田畑を捨てて、商売や賃仕事をしてはならない。
  3. 主人(武士)に許可を得ず出奔した奉公人を、別の武士が召し抱えてはいけない。

となります。

これらの事は、武士・商人・農民の”身分固定”につながり、『身分法令』と言われています。これに基づいて関白となった豊臣秀次から『人掃令(ひとばらいれい)』が出されることになりますが、こちらの方は、江戸時代の”人別改め”的な、『戸口人数調査』と言われています

急度申候

・・・

一、家数人数男女老若共ニ一村切ニ可被書付事、
付、奉公人ハ奉公人、町人ハ町人、百姓ハ百姓、一所ニ可書出事、但書立案文別紙遣之候、

・・・

(引用:北島万治編 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 <一>「吉川家文書」天正20年3月6日 粟屋彦右衛門尉・桂左馬助宛 安国寺恵瓊・佐世元嘉連連署書状の一部 』2017年 平凡社)

秀吉は、渡海の大動員令を下す前段階の『戸口人数調査』を全国の大名に厳命したと考えられます。

この一連の『人掃令』・『身分法令』の朱印状・命令の中味は、動員対象者の区別をはっきりさせる決め事を通達したような記述であり、『身分制度』を念頭においた『兵農分離』政策とはどうやら少し主旨が違うと考えられます。

 

豊臣秀吉の『兵農分離』政策は、『唐入り(からいりー朝鮮出兵)』と関係するの?

豊臣秀吉の『兵農分離(へいのうぶんり)』政策と言われているものの主なものには、、、

  1. 刀狩令(かたながり れい)
  2. 太閤検地(たいこう けんち)
  3. 身分法令(みぶん ほうれい)
  4. 人掃令(ひとばらい れい)

などがあります。

前述したように、天正13年の”高野山”あたりから、『刀狩』が始まって、『検地』に至っては『明智光秀の乱(本能寺の変)』が起こった天正10年には、もう秀吉は実施していました。

豊臣秀吉が天下統一戦を進めていく時期での『刀狩』は、敵対勢力化する可能性のある支配地農民層の武装解除ばかりでなく、農業労働の人手確保の爲の百姓の専業化促進の意味がありました

そもそも戦国大名にとっては、戦時に領国の百姓を軍事動員するのはごく普通のことでした。『兵農分離』もどこ吹く風と云う事なのでしょうか。

話を『唐入り』へ戻しますと、豊臣秀吉は、九州平定直後の天正15年(1587年)6月15日付で、対馬の宗氏に対して、”朝鮮を日本へ服属させる命令”を出します

・・・、次高麗儀被、差遣御人数、成敗之儀申付候処、(宗)義調御理有之条、先指延候、、然者国王至日域於参洛者、諸篇可爲如先規候、若遅滞有之者、即時渡海被仰出、可被加御誅罰候、・・・、
・・・
(天正十五年)六月十五日 (花押)
宗讃岐守(義調)とのへ
宗対馬守(義智)とのへ

(引用:名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <三> 2237 宗讃岐守他宛判物 』より一部)

とあり、大意は、”次は朝鮮(高麗)のことだが、兵を差し向けて成敗してしまおうと思ったが、対馬の宗義調(そう よししげ)より考えがあるというから先に伸ばした。それは、朝鮮王を日本の京都に上洛させることで、もしぐずぐず言って遅れる様なら、すぐに渡海して罰を加えてやろう、、、”位のところです。

豊臣秀吉は、天正13年(1585年)に関白に就任してから、急速に『唐入り(明国征服)』の情熱を燃やしており、東国の後北条氏の仕置きを残しながらも、九州平定が終了したこの段階(天正15年時点)で日本統一には確信をもっていたようで、次の段階への準備を始めます。

つまり、もう本気で”海外派兵”を考えていたようです。この宗氏への命令を出すと同時に、大陸派兵の拠点都市を整備するべく戦乱で廃墟となった”博多”の町の復興にも着手します。

   定   筑前国博多津

一、当津にをゐて諸問・諸座一切不可有之事、
一、地子・諸役御免許之事、
一、日本国津々浦々にをゐて、当津廻船、自然損儀雖有之、違乱妨不可有之事、
一、喧嘩・口論於仕者、不及可成敗事、
一、誰々によらす付沙汰停止之事、
一、出火・付火、其壱人可成敗事、
一、徳政之儀雖有之、当津可令免許事、
一、於津内諸給人家を持儀、不可有之事、
一、押買・狼藉停止之事、
右条々、若違犯之輩於有之者、忽可被処罪科之由候也、

天正十五年六月日 秀吉朱印

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 2260 筑前国博多津宛定「櫛田神社文書」』2017年 吉川弘文館)

 

通常の優遇策を盛り込んだ所謂『楽市楽座令』での条文と同様ですが、第三条の博多の廻船への便宜を全国に指示している事と、第八条に領主が町内に屋敷を持つことを禁止していることが目立ち、自由都市とするというよりも、地元領主の介入を廃して、秀吉自身が”博多”を直轄都市とするつもりであることが分かります。

そんなタイミングでの前述『身分関連法令』の発令でした。

因みに、この4日後の天正15年(1587年)6月18日付・19日付にて歴史上有名な『伴天連追放令(バテレン ついほうれい)』も出しており、この博多逗留の時期に豊臣秀吉は、歴史の転換点となる政治決定を下しているのです。

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関連記事にあるような、豊臣秀吉がこの時期にイエズス会に圧力をかけて、『本願寺ー一向宗』のように”キリスト教を自身の政権管理下に置こうとした”動機は、この”海外派兵”の準備(国内整備)に取り掛かる一環の行動だったのかもしれません。

いずれにしても、この時点で対馬の宗家に対して”対朝鮮交渉”を開始させた豊臣秀吉にとって、念頭に”海外派兵準備”があったのは当然の事だと考えられます。

3年後の天正18年(1590年)7月に、秀吉の敵対勢力として残っていた小田原城の後北条氏を滅亡させ、一応日本統一を達成した後の天正19年(1591年)8月に出した『身分法令(みぶんほうれい)』と天正20年(1592年)3月に出されたとされる『人掃令(ひとばらいれい)』が、素直に『兵農分離』の”身分制度政策”であったはずはないのです。

つまり、間近に控えた”海外派兵”の兵力大動員のために、制度的にもあいまいであった”農民兵”の定義をはっきりさせて、彼らの自分勝手な階級移動を禁止して、スムーズな計画動員が出来るようにしたというところが、この制度を進めた動機だったのではないでしょうか。

豊臣秀吉が出した『身分法令』・豊臣秀次の『人掃令』は、住民統治の為(身分制度の固定化)ではなくて『唐入り(朝鮮出兵)』ありきで、その大量動員に向けて兵力確保のために導入したと考えられるのではないかと思われます。

 

まとめ

その昔私たちは、織田信長の軍団が強かった理由のひとつにこの『兵農分離』政策があると教えられました。

つまり、他の戦国大名は農繁期になると動員できる農民兵の数が大幅に減少するため、現金で常設軍を装備している織田信長の動員力に、農民兵主体の大名は勝てないと云う理屈でした。

しかし、近年の研究により信長の政策は不徹底で、近現代の軍隊のように徴兵制を引いた大軍団を組織するようなものではなくて、あくまでも供回りの充実させることに注力されていたことが分かり始め、また他の大名達も農繁期に大軍を動かしていることも多いことが判明しています。

信長は、その供回りのそれこそ一日で出陣出来る人数が800人近くいたことが、大きな強みだったようです。城下集住策』もこの旗本たちに強要されていたもので、大軍団化した織田軍全般に適用出来るはずもないものでした。

信長の能力は、むしろ”権威”を上手く利用するところにあったようです。

例えば、永禄2年(1559年)4月に将軍足利義輝の要請で上洛した上杉謙信は、越後から5千名の兵を連れて来て京都に半年近く駐屯させましたが、翌永禄3年(1560年)5月19日に織田信長が『桶狭間の戦い』が今川義元を討取った勝利の結果を受けて、将軍足利義輝はすぐに関東の後北条家(ごほうじょうけ)の討伐命令を上杉謙信に出しますが、此の時の謙信の動員兵力は本人の実力を大きく上回る11万5千名にも上っています。

前年子飼いの兵力5千をやっとひねり出して上洛した上杉謙信が、翌年足利将軍の権威で動員すると東国武士を糾合出来てなんと11万5千もの大軍勢に仕立て上げることに成功しているのです。

織田信長も同じで、永禄12年(1569年)1月、前年に京都から追っ払ったはずの三好三人衆によって将軍足利義昭の御所が襲われますが、岐阜から救援に向かった織田信長は足利将軍の権威をフルに利用して8万もの大軍を動員しています。

さて、本題である豊臣秀吉の『兵農分離』ですが、豊臣秀吉が織田信長の後継者の形になっている面もあり、信長と同様に農民兵を排除して常備軍化して軍事力強化するという発想は持ち合わせていなかったと思われます。

兵農分離策』の一環だと言われる『刀狩り』に関しても、これまで見て来たように、初期は単なる”武装解除”の域を出ていないと考えられます。

信長の実施した『検地』より更に徹底していた『太閤検地』に関しては、、、

    定
・・・
一、百姓其在所ニ有之田畠あらすへからす、其給人其在所へ相越、百姓と令相対検見を遂、其毛之上升つきをして、有米三分一百姓ニ遺之、三分二未進なく給人可取事、
・・・
天正十四年正月十九日

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 1844 奉公人等ニ付定写 「竹中氏雑留書」の一部 』

とあり、大意は”百姓は田畑を荒らしてはいけない。領主はその村に行って、百姓立ち合いの上で、調査を行い収獲を升で計って、その収獲の1/3を百姓に与え、2/3は領主がとるようにすること。”となります。

これが、豊臣政権の基本政策でした

のひどい収奪の影響で、農家の生活は窮地に追い詰められ、農地放棄・夜逃げである百姓の『逃散(ちょうさん)』が多発するようになってゆきます。

又、『太閤検地』により、その帳簿に一筆ごとに所有者と明記し、”一地一作人一領主”の原則のもとに、基本的に武士の農地所有と村への居住を禁止し、所謂”土豪が土地を所有する形態”を変化させ年貢は領主に集中させて、土豪は御家人として領主から俸給をもらうサラリーマンへの変身させる走りだったと言えそうです。

こうして、秀吉は配下の大名たちをも収入でコントロール出来る形へ変らせ、その支配力を高めて行きました

豊臣秀吉は、当時”四公六民”か”五公五民”くらいの年貢率であったものを、一挙に百姓の取り分を1/3にしてしまい、逃げまどう農民を『刀狩り・検地・身分法令・人掃令』で、抵抗出来ないように土地に縛り付けて、更に搾り上げて行ったことになります。

これを総称して豊臣秀吉の『兵農分離』政策と云っているのではないかと思われますが、その背景にあったものは、『海外派兵』に伴う莫大な軍事費の増大であったことは論を待たないようです。

豊臣秀吉の人気が『大坂の都市住民』の間で高いのも、商業都市に対する優遇策があったせいかもしれません。

天正15年6月に博多で出した『バテレン追放令』の中に、、、

  覚
・・・
一、其国郡知行之儀、給人被下候事ハ、当座之儀ニ候、給人ハかはり候といへ共、百姓ハ不替もの候条、理不尽之儀、何かに付て於有之ハ、給人を曲事可被仰出候間、可成其意候事、
・・・

天正十五年六月十八日

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 2243 伴天連之儀ニ付覚写 「三方会合記録」』2017年 吉川弘文館)

この第三条の大意は”知行が領主に任されているのは当座のことである。領主は替わるが、百姓は替わらないものなので、理不尽なことがあれば、領主を処罰するので、そう考えよ”とあり、、

もうすでにこの九州平定が終了した時点で、豊臣秀吉はその土地の領主にたまたま任せているだけで、全国の土地・領土は自分のものなのだと日本中に宣言しているようです。

そして、その土地に居住する民百姓も全部自分臣民なのだと云う事でしょうか。

こうして見て来ると、、、

豊臣秀吉の『兵農分離』と言われる諸策は、武士と農民の身分固定につながるものがあるとしても、結果、すべて『海外派兵』に必要な政治的・経済的準備であったとも言えそうです。

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参考文献

『信長公記 首巻 今川義元討死の事』インターネット公開版

〇山本博文 『天下人の一級史料』(2009年 柏書房)

〇山本博文・堀新・曽根勇二編 『消された秀吉の真実』(2011年 柏書房)

〇平井上総 『兵農分離はあったのか』(2017年 平凡社)

〇日本史史料研究会編 『秀吉研究の最前線』(2015年 洋泉社)

ウィキペディア近代以前の日本の都市人口統計

〇脇田修 『秀吉の経済感覚』(1991年 中公新書)

〇吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 <一>』(1995年 新人物往来社)

〇桑田忠親 『太閤の手紙』(1985年 文春文庫)

〇坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀 <四> 』(1995年 岩波文庫)

〇名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <二>』(2016年 吉川弘文館)

〇名古屋市博物館編 『豊臣秀吉文書集 <三>』(2017年 吉川弘文館)

〇『多門院日記 天正十六年七月十七日の条 第三項 』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇桑田忠親 『豊臣秀吉研究』(1975年 角川書店)

〇北島万治編 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 <一> 』(2017年 平凡社)

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