天下人豊臣秀吉の『刀狩令』は、”一揆防止”のため!ホント?

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天下人豊臣秀吉の『刀狩令』に関して、簡単まとめ100字・200字を付けてみました。

豊臣秀吉の『刀狩』は百姓衆の”一揆防止”の為だったかどうかわかります。

豊臣秀吉の『海賊禁止令』の狙いが分かります。

豊臣秀吉の『刀狩』のおかげで、”現代日本の治安がいい”ってホント?

 

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豊臣秀吉『刀狩』政策の簡単説明

100字まとめ

豊臣秀吉の『刀狩令』とは、天正16年(1588年)7月に発給されたものを言う。主旨は①百姓の武器所持の禁止没収した刀・脇差は大仏建立の釘・鎹にする。百姓は農耕に専念する事3カ条が述べられている。(100字)

 

200字まとめ

豊臣秀吉は、天正16年(1588年)7月に”一揆防止の目的”で、『刀狩令』と言う百姓階級の全面武装解除の命令を発給した。主旨は①百姓の武器所持を禁止し領主らはこれを没収して提出すること。没収した刀・脇差は大仏建立の釘・鎹にして、来世までご利益があるようにする。百姓が農耕に専念すれば、子々孫々まで繁栄することになる。併せて、武士と百姓の身分の区別を明確化する”身分法令”的な意図もあったとされる。(200字)


(画像引用:腰に下げた刀ACphoto)

 

豊臣秀吉『刀狩』は”一揆防止”のためだったの?

豊臣秀吉による『刀狩』は、天正13年(1585年)4月に紀伊国雑賀(さいか)の一揆軍攻略の折、投降する百姓を武器没収だけで許した経緯があり、これが豊臣秀吉の『刀狩』の最初だと言われています。

しかし、有名な『刀狩』は、天正16年(1588年)7月に発給された『刀狩令』で、、、

條々

一、諸国の百姓等が、刀・わきさし・弓・鑓・鉄炮、その外武具の類を所持する事は、堅く禁じなされました。その理由は、不必要な武具を蓄え、年貢所当を上納せず、一揆を企て、もし給人に対し非儀の働きをなす者がいれば、当然成敗なされる。そうなれば、その所の田畠は不作となり、知行が無駄なものになるので、その国主、給人、代官等として、右の武具をすべて取りあつめ、進上せよとの事です。

 

一、右の没収されるべき刀・わきさしは、無駄になさるものではありません。今度大仏殿を御建立なさる釘やかすかいに使うよう命じられます。そうすれば、現世の事は云うに及ばず、来世までも百姓が救われることになるでしょう。

 

一、百姓は農具だけを持ち、耕作に専念すれば、子々孫々まで長く安泰です。百姓を御憐れむ心からこのように仰せ出されたのです。本当に、国土安全、万民快楽の基になる法である。異国では、中国の堯の時代、天下を鎮撫し、寶剣利刀を農器に用いたという故事がある。日本ではその例はない。此旨を守り、それぞれがその理由を理解し、百姓は農桑に精をいれるようにせよ。

右の道具を必ず取り集め、進上せよ。油断してはならない。

天正十六年七月日  秀吉朱印

(引用:山本博文 『天下人の一級史料』刀狩令 原文「大日本古文書 島津家文書」の現代語訳 2009年 柏書房)

とあり、まとめると、、 、

  1. 諸国の百姓が、刀・脇差・弓・槍・鉄炮など武具を持つことを禁止し、領主はそれを没収して進上する事。
  2. 没収した武具は鋳直して、今度建立する方広寺大仏殿のくぎやかすがいに使わせてもらう。
  3. 百姓は武器など振り回しておらず、耕作に専念すれば子々孫々まで安泰である。これは百姓のために出す法令で、国家安全・万民快楽の基になるものだ。

 

と言う事で、豊臣秀吉は、農民から武器を取り上げて彼らの自衛手段を剥奪しておいて、みんなお前たちのためなのだと自画自賛するわけです。

これに対して、当時の世間の受け取り方は、、、

一、天下ノ百姓ノ刀ヲ悉取之、大佛ノ釘ニ可遣之、現ニハ刀故及闘諍身命相果ヲ爲助之、後生ハ釘ニ遣之万民利益理當ノ方便ト被仰付了云々、内證ハ一揆爲停止也ト沙汰在之、種々ノ計略也、

(引用:多門院英俊『多門院日記 巻三十四 天正十六年七月十七日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

大意は、”世の中の百姓の刀をことごとく没収し、これを方広寺大仏殿建設の釘にするといいます。刀は現実には命を懸けた戦闘の助けとなるものですのに、来世の万人のご利益となるとの方便を言われます。本当のところは、一揆防止だと言われています。色々考えるものです。”

となり、つまり”刀狩」は、いくら有難い大仏殿建立の建設資材に使うからと言い募っても、百姓の戦闘能力を奪って一揆を防止するためだと世間では言ってますよ”と多門院英俊は論評しています。

近年の研究では、、、

一般的には、『検地』が先行していることから、百姓身分を確定させてから、刀を取り上げていると言うプロセスになっており、百姓と地侍の境目があいまいな戦国時代にあって、身分固定化への道筋となっているという考え方が主流となって来ています。

つまり、この時期に豊臣秀吉が行った『刀狩』は、一揆の事前防止とともに、百姓身分を固定化する一種の『身分法令』ではないかと言われています

豊臣秀吉の場合は、天正13年(1585年)には、もう既に『唐入り(からいりー海外出兵)』の考えがあることから、その後発生する大量動員の必要性から身分固定をして”戸数調査”に入っているのではないかと思われ、その一環として『太閤検地』と『刀狩』が考えられます。

武功夜話(ぶこうやわ)』にある『刀狩』の”鉄炮の提出問題”の逸話として、、、

一、戊子年(天正十六年)は、煩裡の間に暮れ行き候なり。耶蘇宗門御禁制の事、百姓、寺社において武具等停止の事等、厳重なる御沙汰に候なり、それがしども領内柏井は信長公御在世の頃より、格別の御取り扱いあり、すなわち鉄炮は三百有余挺取り持ち居り候。

一、柏井衆鉄炮取り持ちの事。
永禄乙丑年(八年)信長公より御墨付下し置かれ候、以来三十年来不変の鉄炮衆に候なり。此度の御触れ武具取り持ち百姓においては罷り成らずの御沙汰に付き、それがしども領地内の事まことに仕置き当惑候なり。

一、・・・、過ぐる天正甲申(十二年)三州中入りの時、関白殿下を追い慕い鉄炮打ち放し散々に打ち崩し候。柏井一揆衆の働きは、関白殿下御内の人々知らぬ人相無し。かくし鉄炮、かくれ切支丹の事御僉議稠しく候ゆえ、十分に気遣いあって御処置ある様と申されけるなり。無拠次第、領内村々の鉄炮一応差し出し候なり、まこと残念なる次第に候。

一、信長公以来鉄炮手と相唱え、在郷頭衆十四家、惣頭衆梶川権六、加藤平三罷り越し不服相唱え候。これ等の者ども信長公以来の強力なる者ども、親代々挺身の者に候ゆえ、種々申し喩し候も聞き入れず候。言うところの言い分もあり、関白殿下の威勢もさる事ながら、某ども残らず鉄炮差し出し候いては、鹿、兎等田畠荒しの所置も出来兼ね、行く行く子分れ致しその数を増し作毛も立たず候と、重ねて申し諭し候も承服仕らず、・・・、三郎兵衛様御相談の上、柏井、篠木は山合い原野なれば鳥獣はびこり、作毛に支障これある事相成らずと、五十六挺は孫九郎土蔵の中へ扣え置き、村中へは不法の働きに使用の儀は罷り成らず、鹿、鳥を討ち取るための使用のみ、なお不法狼藉の者には使うべからずの旨申し伝え候、頭衆納得候なり。

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話<三> 天正十六年、小坂孫九郎雄吉の領地、刀狩り始末の事 』1991年 新人物往来社)

 

大意は、、、

  1. 天正16年は、忙しく暮れました。キリシタン禁令と百姓・寺社の武具所持禁止の厳重な命令がありました。私たちの領内の柏井は信長公の時代より、特例を頂き、300挺以上の鉄炮を所持しています。
  2. この柏井衆の鉄炮所持に関して、永禄8年に信長公から特別許可を頂いている、以来30年来変わらない”鉄炮衆”なのです。この度のご命令により百姓衆の武器所持は罷り成らぬとのことで、領内は大変困惑しております。
  3. 去る天正12年の小牧・長久手の戦役時にも、関白殿下のために鉄炮を撃ちまくって戦った柏井一揆衆の活躍のことは、関白殿下の御身内でご存じない方はおられません。この度の厳しいご命令に、一応領内の鉄炮を差し出しましたが、本当に残念に思っています。
  4. 信長公以来の鉄砲隊であるの在郷14家の総司令官の梶川権六と加藤平三がやって来て不服を申します。皆、親代々の鉄炮打ちで、こちらの言う事を聞きません。彼らの言い分にも一理あり、関白殿下のご命令ではありますが、所持する鉄炮を全部差し出しては、田畠をあらず鹿やウサギの処置も出来なくなってしまい農耕にも差し支えます。・・・そこで、相談の上、56挺を私孫九郎の土蔵で管理し、不法なことには使わせず、鹿・鳥の駆除のみには使用させると申しましたところ、柏井の頭衆は納得したようです。

とあり、豊臣秀吉の出身地尾張国においても、織田家直轄地(柏井・篠木地区)において信長公の足軽鉄炮隊を務めていた百姓たちが、容易には『刀狩令』に服さなかった様子が、見て取れます。

また、『兵農分離政策』の旗手として、謳われる”織田信長”にして、事実は『百姓の鉄炮隊』に依存していたことが図らずも判明して、信長時代(永禄年間)にはまだまだ『兵農分離』が進んでいなかったことが分かりますね。

 

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豊臣秀吉の『刀狩』と『海賊禁止令』の主旨は同じ?

所謂、豊臣秀吉の『海賊禁止令』と言うのは、天正16年(1588年)7月8日付にて発給された以下のものをいいます。

   定

一、諸国於海上賊船之儀、堅被成御停止之処、今度備後・伊与両国之間、伊津喜島にて盗船仕之族在之由被聞食、曲事ニ思食事、

一、国々浦々船頭・猟師、いつれも舟つかひ候もの、其所之地頭代官として速相改、向後聊以海賊仕ましき由誓紙申付、連判させ、其国主取あつめ可上申事、

一、自今以後、給人領主致由断、海賊之輩於在之者、被加御成敗、曲事之在所知行以下、末代可被召上事、

右条々堅可申付、若違背之輩在之者、忽可被処罪科者也、

天正十六年七月八日(朱印)

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集<三> 2545 賊船停止等ニ付定「近江水口加藤子爵家文書」』2017年 吉川弘文館)

大意は、、、

一、諸国の海上で賊船行為を固く停止していたところ、今回、備後・伊予両国の間にある斎(いつき)島において、それをおこなう者があったということを(秀吉が)お聞きになり、けしからぬことと思われたこと。

一、国々浦々の船頭・漁師で船を操っている者については、在所の地頭・代官が速やかに調査して、今後いささかも賊船行為をしないということを、誓紙に書かせ連判をさせて、その国の国主大名が集めて、(秀吉のもとに)提出するべきこと。

一、今後は、給人領主が油断して賊船行為をおこなう者がいたならば、(秀吉が)処罰する。そのような事を犯した在所については、その給人領主の知行以下を永久に没収すること。

(現代訳引用:藤田達生 『秀吉と海賊大名 128~129頁』2012年 中公新書)

とあります。

つまり、以前から船乗りの海賊行為を禁止していたところ、今回瀬戸内海の斎島(いつきじま)付近で海賊行為を行なった者がいるので、今後全国の船乗りは、海賊行為をしないと言う誓約書を出せと言う事で、禁止命令の徹底を図るものです。

そして、実は『刀狩令』と、この『海賊禁止令』というのは、”天正16年(1588年)7月8日”の同じ日に同時に出されているのです。片や”陸上”、片や”海上”ということで、豊臣秀吉がどちらも武士以外の人間に戦闘行為を行なわせないよう規定した”一般法令”を全国に布告したことになります。

そんなところから、この『海賊禁止令』に関しての豊臣秀吉の本音部分は、やはり『唐入り』準備と見てよいようです。

本来、彼ら海賊は、”海関(うみぜき)”を設置して、その海域を通行する商船から”関役・上乗料”などの通行料を取り立てていますが、海の秩序を守る意味合いから政権からも認められた存在でもありました。

しかし、独立性が強く、秀吉が都合よくは使えない人達でしたが、この先の”海外遠征”には、必要不可欠の軍団であり、圧力を加え乍ら統制下に引き込む手法で、豊臣秀吉が取り組み始めたと見て良いと考えられます。

『刀狩令』も百姓と武士の身分固定が目的と言うよりは、『唐入り』時における大量動員の基礎作りだったとも考えられますが、『海賊禁止令』は独立性が強く扱いづらい彼ら『海賊』を、豊臣秀吉が手足として使える『豊臣水軍』として組織化する第一歩だったのではないでしょうか。

 

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豊臣秀吉の『太閤検地』は『刀狩』に先行して行われた?

天正10年(1582年)6月2日の『明智光秀の乱(本能寺の変)』以降のいわゆる太閤検地』のその基礎は、秀吉が初めて長浜で城持ちとなった時の石田三成ら近江出身の家臣が作ってものと言われています。

太閤検地』の実務上の基本原則は、、、

  1. 縦横を一間(けん)=六尺三寸で測量する。
  2. 面積を一反(たん)=十畝=三百歩とする。
  3. 京枡を使う。
  4. 田畑を上中下の等級分けし、上田の斗代を一石五斗とし、中田以下は二斗づつ減ずる。

と決められていましたが、その他『検地帳』に請人(うけにんー所有者)が記載されました。(一部の例外はあったものの、ここで基本的に武士階級の農地所有は禁止されてゆきます。)

また、年貢も、、、

  定
・・・、
一、百姓其在所に在之田畠あうらすへからす、其給人其在所へ相越、百姓と令相対検見を遂、其毛上升つきをして、あり米三分一百姓ニ遣之、三分二未進なく給人可取事、
・・・、
正月十九日

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 1844奉公人等ニ付定写 「竹中氏雑留書」』2017年 吉川弘文館)

とあり、”五公五民”か”六公四民”くらいだったものを豊臣秀吉はなんと”2/3公1/3民”とする厳しい取り立てを行い、専業化した百姓から搾り取ります。

この検地の結果、統一基準によって正確に各大名の石高が割り出され、豊臣政権は各大名からの正確な動員兵力の算定が可能となり、合わせて原則武士の田畑所有を禁止したことから、兵士として動員しない専業農民=刀狩される対象農民が明確となりました。

動員できる対象者(武家奉公人など)も、農村に住めない事となった武家と同様に城下への転居を強いられることとなります。

ここに、『刀狩』の実施面から見る『太閤検地』先行の必要性がはっきりして来る訳です。

 

豊臣秀吉の『刀狩』もその一種とだと言われる豊臣秀吉の『身分法令』は『唐入り(朝鮮出兵)』の準備だったの?

豊臣秀吉の『身分法令』は、、、

   定

一、奉公人、侍、中間、あらし子に至る迄、去七月奥州へ御出勢より以後、新儀ニ町人百姓ニ成候者在之者、其町中地下人として相改、一切をくへからす、若かくし置ニ付てハ、其一町在所可被加御成敗事、

一、在々百姓等、田畠を打捨、或あきない、或賃仕事ニ罷出輩之者、そのものゝ事ハ不及申、地下中可爲御成敗、幷奉公をも不在、田畠をもつくらさるもの、代官給人としてかたく相改、をくへからす、若於無其沙汰者給人過怠にハ、其在所めしあけらるへし、爲町人百姓かくし置ニおゐてハ、其一郷同一町可爲曲言事、

一、侍小物ニよらす、其主に暇を不乙罷出輩、一切不可拘、能々相改、請人をたて可置事、但右者主人有之而、於相届者、互事之条、からめ取、前之王の所へ可相渡、若此御法度を相背、自然其ものにがし候ニ付てハ、其一人ニ三人首をきらせ、彼相手之所へわたさせらるへ、三人の人代不申付ニをいてハ、不被及是非候条、其主人を可被加御成敗事、

右条々所被定置如件

天正十九年八月廿一日 ○(秀吉朱印)

(引用:北島万次 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 「小早川家文書 天正十九年八月二十一日 豊臣秀吉朱印状」』2017年 平凡社)

大意は、、、

  1. 奉公人・若党・中間(ちゅうげん)・あらし子(合戦時に下働きする侍)に至るまで、去る7月の奥州出陣以降に、新規で町人・百姓になったものがいたならば、町人・村人が調べて、一切住まわせてはいけない。もし匿っていたら、その町を成敗する。
  2. 村の百姓が田畑を捨てて、商売や奉公人に出ている者がいたら、その本人は当然ながら、村の住人をも成敗する。また、奉公もせず、田畑も作らない者がいたら、代官・領主は厳しく調べ、住まわせてはいけない。もしなにもないのが、その領主の怠慢であれば、その領地を召しあげ、町人・百姓が隠していたものであれば、その町・村を罰せよ。
  3. 侍・小物によらず、その主人に断りもなしに、勝手に辞めて来た者がいれば、一切雇ってはいけない。しっかり調べて、請け人を立てて雇うこと。ただし、主人がいて、勝手にやめたと主人から届け出があった者は、つかまえて元の主人に渡すこと。もしこの法令に背いてその者を逃がした時は、その一人に代り三人の首を切り、相手に渡す様に。それをしないのであれば、仕方ないので、その主人に成敗を加える。

これは、従来、武士・武家奉公人が町人・百姓へ身分を移動することを禁じ、また百姓が商人や奉公人になることを禁じたもので、加えて、武士・武家奉公人の農村への居住も禁止した法令、「身分法令」だとされていました。

しかし、近年の研究で、豊臣秀吉の『唐入り』を控えて、武家奉公人の大量動員が必要なこととなって、折角動員した彼らの”脱走”を防ぐのが目的の法令との見方に変わって来ているようです。

要するに、豊臣秀吉は、従来言われているような”身分制度の固定化を狙った法令づくり”をした訳ではなくて、『唐入り』直前に発生し始めた”武家奉公人達”の頻発する脱走に、武家奉公人の数が揃わず各大名が兵力動員に手を焼く中、時期から考えてその対応策として、これら関連法令を打ち出したのではないかと考え始められています。

 

現代日本の治安の良さは豊臣秀吉『刀狩』のおかげなの?

江戸時代になると豊臣秀吉の出した刀の『帯刀規制』は、どんどん形骸化して、17世紀に入ると、町人・百姓のが刀と脇差を差すのは、日常化していたと言います。

その後、武士と百姓・町民の身分固定化のために、『刀の帯刀規制』は、たびたび出されていたと言いますが、この際も『脇差し』に関しては何の規制もなくそのまま明治まで過ごしたようです。

明治になっても、自宅に武器を持つものはごく普通にいたようで、、、

  1. 明治9年(太政官布告第38号)  『廃刀令』・『帯刀禁止令』  軍人・警察官以外の帯刀禁止。
  2. 明治38年(法律第53号)     『鉄砲・火薬類取締法』   銃砲類の市販製造は政府への登録制とし許可無く所持することを禁止。
  3. 昭和21年(勅令第300号)    『鉄砲等所持禁止令』    連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指示を受けて定められた1946年のポツダム勅令の一つ。

と言う事で、どうやら、日本人が自宅に個人で武器を許可なく所有することが禁止されたのは、昭和21年(1946年)のことだったようです。

それ以前、江戸期においても武器を所有している一般人は多く、明治期に入っても『武士の象徴』としての大小佩刀の気風があり、時代が変わったことを印象付ける『廃刀令』が出ても、相変わらず所有している個人は多かったようです。

一般人の武器の所有が完全に禁止されたのは、第2次大戦後のことだったのが分かります。案外最近のことだったんですね。

ということで、現代日本の治安の良さを特段”豊臣秀吉のおかげ”と言い切るのは難しそうです。

 

まとめ

歴史上有名な豊臣秀吉の天正16年(1588年)7月の『刀狩令』ですが、単純に”百姓の武装解除”と捉えるだけでは、その実態がつかめないかもしれません。

最近では、豊臣秀吉の『兵農分離政策』の一環として”百姓”と”武士”の身分を区別する”身分法令”の一施策とも見られて来ています

しかし、それは考えすぎと言うもので、当時の識者である多門院英俊(たもんいん えいしゅん)の言うように、”ただの一揆防止策”と言うのが、案外正しいのかもしれません。

当時は、天正15年(1587年)5月に、島津氏が降伏し、豊臣秀吉の”九州平定”が完了し、6月に帰路の博多で、渡海(朝鮮出兵)準備とも考えられる”筑前博多津宛定ー博多復興令”と”伴天連之儀ニ付定ー伴天連追放令”出しています。

そうした中、九州に新しく配属となった大名佐々成政(さっさ なりまさ)の領地熊本で大規模な百姓一揆が蜂起し、それを受けた形で天正16年(1588年)7月に『刀狩令』が出されていますので、ここでは”一揆防止策”かと言う事になりそうです。

ところが一方で、豊臣秀吉は渡海準備に入っている段階で、小田原の後北条氏の始末が付けば海外派兵する段取りとなっていました。事はすべてその出兵準備に向かって動いており、”小田原の戦”後は、天正19年(1591年)8月の『身分法令』、天正20年(1592年)3月の『人掃令(ひとばらいれい)』と続いて行くのも事実です。

こうした流れを見てみると、天正16年(1588年)7月の『刀狩令』は、戦う百姓勢(武家奉公人等)の身分の固定化(戦力化)とも言えない事はないのかもしれませんが、まだまだ東国小田原の”後北条家”が臣従せず、天下統一が完了していないこの段階ではやはり『一揆防止』のための、”武装解除”と見た方が良いような感じです。

前述した『武功夜話(ぶこうやわ)』に記述されているまるで”足軽鉄炮隊”ような尾張の村の百姓の武装解除の様子からも、この『刀狩令』は”武装解除”の色彩が強いものと考えた方が良いような感じです。

『海賊禁止令』に関しては、『刀狩令』と同年同日に発給されていますが、”武装解除”ではなくて、”海賊・盗賊行為の禁止”なので、渡海準備としての有力海賊の”豊臣水軍”への集約化政略と考えた方が分かりやすいのではないかと思います。

又、現代日本が”銃社会”ではない理由は、”豊臣秀吉の『刀狩』”のおかげではなくて、昭和21年(1946年)のGHQの指示によるものだったんですね。

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参考文献

〇日本史史料研究会編 『秀吉研究の最前線』(2015年 洋泉社)

〇山本博文 『天下人の一級史料』(2009年 柏書房)

多門院英俊『多門院日記 巻三十四 天正十六年七月十七日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> (2017年 吉川弘文館)

〇吉田蒼生雄全訳 『武功夜話<三> 』(1991年 新人物往来社)

〇藤田達生 『秀吉と海賊大名 』(2012年 中公新書)

〇平井上総 『兵農分離はあったのか』(2017年 平凡社)

〇北島万次 『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 第1巻 』2017年 平凡社)

Wikipedia銃砲刀剣類所持等取締法

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