徳川家康は豊臣秀吉の『唐入り』撤収成功で評価された!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉の引き起こした『唐入り』の撤収での、德川家康の功績が分かります。
豊臣秀吉「遺言」によって、德川家康を政権の後継者に指名していたことがはっきりします。
明国との和睦協議に関し、小西行長主導の「和談」は成立していなかったことが分かります。
「朝鮮退口」でのごたごたが、その後の政局に影響し、結局『関ケ原の戦い』に繋がって行きます。

徳川家康は秀吉の死後、豊臣政権トップとして「唐入り」の日本軍撤収(朝鮮退き口)に尽力した。

歴史家の本多隆成氏によれば、、、

五大老・五奉行による最初の施策は、秀吉の喪を秘して、朝鮮と和議を結び、朝鮮在陣中の将兵をすみやかに撤収させることであった。・・・(中略)・・・。

和議はもとよりかなわず、明の大軍の支援をえた朝鮮側の反転・攻勢はきびしかったが、年末までには諸軍の撤収を終えることができた。

(引用:本多隆成『定本徳川家康 181頁』2011年 吉川弘文館)

とあり、豊臣秀吉の亡くなった慶長3年(1598年)末までに、侵攻軍の撤収を終えたと状況も簡潔に記載されています。

 

先ず、『豊臣秀吉遺言覚書』に、、、

 

内府久々りちきなる儀を御覧し被付、近年被成御懇候、其故 秀頼様を孫むこになされ候之間、秀頼様を御取立候て給候へと、被成 御意候、大納言殿年寄衆五人居申所にて、度々被 仰出候事、

(引用:東京大學史料編纂所『大日本古文書 家わけ二 浅野家文書 107豊臣秀吉遺言覺書 135頁』1968年 東京大學出版會)

 

とあり、大意は、”徳川家康は長らく律儀なところを見せ、近頃更に親しくもなって秀頼を孫聟(まごむこ)にしたので、家康に秀頼を補佐させ政権を受け持たせようと言うのが私の意志である。これを前田利家ら大老衆のいる前で何度も話をした。”位の意味です。

 

つまり、正式に後継者として德川家康を指名していた訳です。

 

この「豊臣秀吉の遺言」を受けて政権後継者となった『律儀な』家康は、秀吉がやりっぱなしで死んでしまった『唐入り(朝鮮侵攻)』の後始末に、政権責任者として早速取り掛かります。

 

 

其表御無事之上を以、可被打入之旨、御朱印幷覚書、徳永式部卿法印・宮木長次口上ニも被相含、被差渡候、然者被打入候刻、舟以下も可入哉と、上様被 仰付候、新艘其外諸浦之舩、追〃差渡候、其上至博多、安藝宰相殿・浅野弾正小弼・石田治部少輔被罷り越候間、其方一左右次第、急度令渡海、可及相談候条、可被得其意候、恐々謹言、

 

八月廿八日    輝元(花押)

´        秀家(花押)

´        利家(花押)

´        家康(花押)

黒田甲斐守殿

 

(引用:『黒田文書 第一巻 23豊臣氏大老連署状 65頁』 1999年 福岡市博物館)

 

大意は、”

そちら(朝鮮)での明軍との和議締結を以って、撤退を始める旨の上様(秀吉)の朱印状と覚書を、徳永寿昌(とくがな ながまさ)・宮城豊盛(みやぎ とよもり)に主旨を口頭で言って聞かせて渡しておいた。となれば、撤退の時には、舟も必要となるはずと上様(秀吉)が命じられ、新造船に加えて津々浦々の船を徴発し、徐々に引渡しを行う。その上、博多へ毛利秀元・浅野長政・石田三成が出向き、貴殿からの連絡あり次第、急ぎそちらへ渡海し、お打合せ致します。ご理解賜りますように。

(慶長3年)8月28日     毛利輝元(花押)

’              宇喜多秀家(花押)

’              前田利家(花押)

’              徳川家康(花押)

黒田長政殿                 ”位の意味です。

 

とあり、徳川家康が豊臣秀吉の死後10日後の8月28日付にて、死が秘匿されていた上様(秀吉)の命令として、大老衆の連名にて朝鮮派遣軍へ撤退帰国指示を出したことが分かります。

 


(画像引用:玄界灘ACphoto)

間違いなく豊臣秀吉は徳川家康を政権の後継者として指名する遺言をしていた。

前章にあったように、豊臣秀吉の『遺言書』によれば、豊臣政権の秀吉死後の後継は、徳川家康に託されていたことがはっきりしています。

 

これを受けて、それまで徳川家康との個人的な繋がりがなかった筆頭格の奉行石田三成は、、、

 

内府公、太閤爲伺御機嫌、御登城の処、石田治部少方ゟ使者八十島を以て、太閤御他界の事告申。御登城可被差止の旨なり。依之路次より御帰宅、内府公思召すは、治部少日來さして御入魂もなきに、今度の事申越懇志と被仰、

 

(引用:藤井治左衛門『関ケ原合戦史料集一 慶長3年八月十九日〔戸田左門覚書〕62頁』1979年 新人物往来社)

 

大意は、”その日徳川家康は、豊臣秀吉の御機嫌伺いの為に伏見城へ登城しようと向かっていた道中、石田三成のところから八十島道與斎(やそじま どうよさい)と言う使者が来て、豊臣秀吉が死去したと告げに来て、登城を中止してほしいとのことであった。これによって、途中より引き返し帰宅した。徳川家康の思うに、「石田三成は日頃親しくもしてないのに、秀吉の死去を知らせて来たのは、感心なことだ。」と言われた。”位の意味です。

 

ここのところは、石田三成が日頃付き合いのない徳川家康に、極秘にされている「豊臣秀吉死去」の情報を知らせて来たのは、家康へ接近を図ったのだなどと言われていますが、意地悪く見ると、ここはどうも三成が家康に秀吉の死の寝間まで踏み込まれて、その後のイニシアティブを取られるのを避けるため、家康の登城を阻止したのではないかとも思われます。

 

その後8月28日になって、石田三成は大老毛利輝元と三成を含む四奉行衆との間で密約を結び、更には9月3日に「敬白零社上巻起請文前書之事」にて、、、

 

 

・・・(前略)・・・、

一、諸事御仕置等、其軽重ヲ決シ、十人之衆中、就多分可相究事

一、十人之衆中者、諸傍輩之間ニオイテ、大小名ニヨラス、何事ニ付候テモ、一切誓紙取遣ヘカラス、如此相定上、若誓紙ヲ取扱仕候衆ニ到者、徒黨ヲ立、逆意之基眼前候條、各相談仕、曲事ニ可被仰付事、

・・・(後略)・・・、

 

(引用:山鹿素行『武家事紀 中 巻第三十一 古案豊臣家下 537頁下~538頁上』1916年 山鹿素行先生全集刊行會)

 

大意は、”

・・・(前略)・・・、

一、政策決定に於いては、その重要性を考え、老中・奉行の10人にて相談して決める

一、この十人衆は、その政治力の大小によらず、またどんな理由があろうと、互いに誓紙を交わしてはいけない。この取り決めをした上は、もし誓紙を取り交わす者が出た場合、徒党を組んでの豊臣政権(豊臣秀頼)に対する叛意は明らかで、その他の者は相談の上、これを謀反とする。

・・・(後略)・・・、

”位の意味です。

 

つまり、石田三成は「豊臣秀吉の遺言」に背いて、秀吉死後10日目の慶長3年8月28日に密かに三成派の奉行衆と大老毛利輝元と誓紙を交わして徒党を組み、更に「豊臣秀吉の遺言」にある「徳川家康が後継者」である事を無効にすべく、慶長3年9月3日に「政策は大老・奉行10人による合議」にて取り進めるとの誓紙を「大老・奉行の10人」で結ばせる工作を進めていきました。

 

反家康派の筆頭石田三成の動きを見ていた徳川家康は、「豊臣秀吉の遺言」により、政権継承に関し豊臣秀吉本人の言質を取っていることもあり、もとより三成の小細工などに従う気はないものの、従っているふりだけはしていたようです。

 

後に、三成一派が慶長5年(1600年)7月17日に徳川家康弾劾状として各大名に出した有名な『内府ちかひの條々』にある、「家康は秀吉の遺言に背き」などとあるのは全くの言いがかりで、三成が急遽「秀吉の遺言」に背いてでっち上げた「10人衆合議体制(敬白零社上巻起請文前書之事)」の合意内容に家康が従わなかっただけの話でした。

 

 

家康は、完全に本来の「秀吉の遺言」に従って行動していたと言うのが正しい見方と考えられます。つまり豊臣秀吉の死の直後から、水面下に潜んでいた『徳川家康対石田三成』の対立構図が、つまり石田三成の豊臣政権掌握の権勢欲が一気に浮上して来ていたと見られます。一時期徳川家康と石田三成は親和していたと言う見方は、家康が三成を相手にしていなかっただけではないでしょうか。

 

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「日明和談」は難航していた。

戦国時代の合戦で力が拮抗している場合、一番大きな被害を出すのは「撤退戦」です。そのため、撤退戦の最後尾を務める『殿(しんがり)』は最大の被害を出す決死の任務になります。

 

これをやらずに済ますには、敵対する相手と『和睦』する以外に方法はありません。

 

豊臣秀吉の死後、『遺言』により豊臣政権を引き継いだ徳川家康の一番の大仕事はこの『朝鮮半島からの安全な撤退』で、戦闘相手の(中国)明軍と和睦することが必須となっていました。

 

当時の状況は、、、

 

慶尚左兵使成允文、秘密馳敬曰、被虜人回環言、関白病重、兇賊将有撤帰之計、西生之賊、尽焚窟穴、将欲撤帰釜山、東萊之賊、亦焚巣穴、帰向西生浦、兇謀叵測、整軍待変、

(引用:北島万次『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 3  962頁 「宣祖実録」宣祖三十一年八月癸酉の条』2017年 平凡社)

 

大意は、”慶尚道左兵使の成允文(ソン・ユンムン)が密かに駆け付けて報告するに、「捕虜の日本兵が言うには、『豊臣秀吉が重病になっており、日本軍は撤収作戦に転換している』と。実際、西生浦(ソセンポ)の黒田長政軍は陣を焼き、釜山(プサン)へ撤退しようとしている。東萊(トンネ)の毛利軍もまた陣を焼き、(釜山近郊の)西生浦へ帰ろうとしている。今後の日本軍の動きは読めないところがあるが、軍を再編成して今後の動きを待て。」と。”位の意味です。

 

 

とあり、豊臣秀吉の死去は秘密にされていましたが、すでに日本から朝鮮遠征軍へ撤退命令が到着していた事もあり、その情報は早くも8月末には明・朝鮮軍へ情報が洩れている様子がこの朝鮮側史料(朝鮮王朝実録ー宣祖実録)で確認出来ます。

 

これでは最初から、「豊臣秀吉の死を隠して、明軍と和議を結んで撤収」と言う三成ら豊臣政権の吏僚たちの構想は成り立たず、結局厳しい「撤退戦」を強いられることとなりました。

 

  1. 9月21日 蔚山城(加藤清正)へ明軍(7~8万人)
  2. 10月1日 泗川旧城(島津義弘)へ明軍(4万人)
  3. 9月23日 順天城(小西行長)へ明軍

 

と現地(朝鮮半島南部)で、撤退する日本軍へ追撃戦を仕掛ける明軍の攻勢が始まり、この様子は10月15日には伏見にいた5人の大老と奉行増田長盛(ました ながもり)に伝えられ、折り返し以下のような軍令が下されます

 

 

急度以早舟令申候、

一、順天城へ大明人取懸之由候、然者後詰之儀、各如被存知、陸地之儀者、大河節所候間、以舟手可被及行事、

一、そてん、こせう、両城之儀、からしまへ引執、順天之一着迄可被在陣事、

一、ちやわんの城引払、竹嶋一所ニ相加可被在陣事、

一、大明人於引執者、最前徳永・宮木両人ニ如被仰含候、諸城引払、釜山海へ相集、其より可有帰朝事、

一、うるさん於執巻者、西生浦之儀、うるさん一着之間、堅固可被相拘候、若不慮於有之者、早々釜山浦へ可被引執事、

一、最前如被仰遣候、安芸宰相・浅野弾正・石田治部少輔、至博多在陣候間、一さ右次第ニ可有渡海之由、被仰付候、其外中国人数、幷舟手四国衆・九鬼大隅・脇坂中務少輔・堀内安房守・菅平右衛門尉以下、大あたけ・小あたけ数百艘被仰付候条、早速可令渡海候、猶使者可申候、恐々謹言、

十月十五日       輝元(花押)

’           景勝(花押)

´          秀家(花押)

´          利家(花押)

´          家康(花押)

黒田甲斐守殿

(引用:福岡市編集委員会『新修 福岡市史 資料編 中世1 黒田家文書 145 豊臣氏大老連署書状 746頁』2010年 福岡市)

 

大意は、”

 

急ぎ、早船にて申し伝えます。

一、順天城へ明の大軍が攻めかかったとの事、となれば援軍の事、各々方の知ってるように、陸地は大河があり難所であるので、船の手配をする事

一、泗川(ナチョン)・固城(コソン)の両城の衆は唐島(タンド)へ引き揚げ、順天(スンチョン)城が決着するまで唐島に在陣する事

一、昌原(チャンウォン)城は引き払い、金海竹島(キムヘジュクド)一か所に加わり在陣する事

一、明軍が撤退したら、先に徳永寿昌・宮城豐盛両人を通して指示したように、諸城を撤収し、釜山海(プサンヘ)へ集結し、それから帰国する事

一、蔚山(ウルサン)の事態が終了したので、西生浦(ソセンポ)は安全だが、もし蔚山が攻められるなどした場合は、早々に釜山浦へ引き上げる事

一、先に秀吉様の御命令にあったように、毛利秀元・浅野長政・石田三成が博多で在陣し、現地から連絡があり次第、渡海するよう命じられています。その他中国地区の軍勢・四国の水軍・九鬼水軍の九鬼嘉隆(くき よしたか)・淡路洲本城主脇坂安治(わきざか やすはる)・熊野水軍の堀内氏善(ほりうち うじよし)・淡路水軍の菅達長(すが みちなが)以下、大安宅船・小安宅船数百隻を秀吉様が仰せ付けられましたので、早速渡海させます。尚、詳しい事は使者が申します。

 

(慶長3年)10月15日   毛利輝元 (花押)

´           上杉景勝 (花押)

´           宇喜多秀家(花押)

´           前田利家 (花押)

´           徳川家康 (花押)

黒田長政殿

”位の意味です。

 

また、この明軍が押し寄せて来たこれらの撤退戦の動向は、一家を挙げて参戦していた薩摩の島津家の記録に、、、、

 

・・・、仍高麗之事、去十月朔日、又八郎相抱候泗川之城へ、大明人数拾萬騎取掛候之処、励一戦於手前数万騎討果得大利候、

就夫加藤主計頭拘之蔚山、小西摂津守拘之順天海陸取巻候敵も引退候、其後泗川口へ大明人罷出無事之儀懇望仕候間、寺沢志摩守・小西摂津守令相談、大明質人請取、寺志へ引渡候、

小摂手前之儀も、無事被相調質人被請取、去月十日順天引払ニ相定、

兵糧以下釜山浦表から嶋迄被越置候処、船手之儀小摂如何被相談候哉、又々番船取出順天通路取切候、右之仕合二候而、順天篭城之儀者不成事ニ候、然間固城衆羽左近方、南海羽柴対馬守方申談、

去月十七日順天通路へ罷出、小摂立柄之様躰をも可承合と存、南海磯きハまて罷出候処、同十八日寅之刻より、数百艘之番船取掛候之条不及是非、午之刻末迄遂防戦、朝鮮大船四艘・江南大船弐艘共六艘切取、互引退候、

手前わつかの小船共にて数百艘之大船ニ掛合、数剋相戦候之条、手負之儀者不及申、忰者共歴々遂戦死候、併此防戦を以、其日小西を始順天人数不残繰取候、・・・、

 

(引用:高橋陽介『慶長四年の豊臣政権と島津領国における内乱 前編 第一章慶長三年末の政治情勢 所収「鹿児島県史料 旧記雑録後編三 613号」より抜粋 50~51頁』2020年 星雲社)

 

大意は、”

 

・・・、朝鮮の事ですが、慶長3年(1598年)10月1日、島津忠恒が守っていた泗川倭城へ、明軍数十万騎が攻めかかって来た時、奮闘して一戦を行い数万騎を討ち取り大勝利を挙げました。

その大勝利によって、蔚山・順天を包囲していた敵も撤退しました。その後泗川倭城へ明軍が和議の求めてやって来ましたので、寺沢正成・小西行長と相談し、人質を請取り、寺沢正成へ引き渡しました。

また小西行長の進めていた和議交渉も成立し、人質を請取り、11月10日に順天城の小西軍も撤退を決めました。

兵糧などを釜山浦から唐島まで運んでいましたら、小西行長がいったいどんな交渉をしていたのか、またまた明軍の軍船が攻めて来て、順天との通路を封鎖してしまいました。このような状況なので、順天城で籠城することは出来ません。そこで、固城の立花親成・南海の宗義智らと相談し、

11月17日順天との通路へ、小西行長を助けようと、南海の海岸際まで出て行った処、11月18日午前4時頃から明の軍船が数百隻攻めかかって来ましたので、仕方なく午後2時頃まで掛かって防戦を致し、朝鮮水軍の大船4隻・明水軍の大船2隻を沈没させ、お互いに撤退しました

我が軍はわずかな小船で数百隻の敵と何時間も戦ったので、負傷者が出た事は言うに及ばず、若者たちが多数亡くなってしまいました。しかし、この防戦によって、その日の内に小西行長を始め順天の兵は残らず撤収することが出来ました。

 

”位の意味です。

 

このように、撤退戦は困難を極め、撤収につけ込んで執拗に攻めて来る明軍の様子が描かれていますが、日本軍は敗北して撤退した訳ではなくて、まだ十分な余力を残しながら撤収を行っていた様がよく分かります。

 

そして、どんな約束をしてもその場しのぎでその後守る気が全くないと言う、中国・朝鮮の民族気質が丸出しで、400年以上経過した現在でも、「信義」と言う考え方を持ち合わせず、御都合主義で自己中心的に行動する彼らに、お人好しで誠実なわが日本が泣かされている現状は周知の通りです。

 

朝鮮での加藤清正と小西行長の諍いは、明軍に迄知られていた。

この二度目の『唐入り』での豊臣秀吉の慶長2年(1597年)2月の『陣立書』冒頭に、、、

 

一、先手動之義、加藤主計頭、小西攝津守、以鬮取之上、可爲二日替、但非番者二番目ニ可相備事、

(引用:東京大學史料編纂所『大日本古文書 家わけ二 浅野家文書 270豐臣秀吉朱印状 483~484頁』1968年 東京大學出版會)

 

大意は、”

一、先陣は加藤清正と小西行長が務め、くじ引きによって二日交替で一番と二番とつとめるように。

・・・以下省略、 ”位の意味です。

 

とあり、そもそも最初から加藤清正と小西行長を競わせるような豊臣秀吉の命令書になっています。

 

加えて、、、

 

忠清兵使李時言擒倭子福田勘介、供招曰、父為前国王将帥、関白簒立時被殺、以此嫌我逐之、遂属清正、有軍百余、始自西生浦、随清正向全羅、当初、約攻南原、・・・(中略)・・・、

清正・行長、相偽矛盾者、行長見敗於平壌之事、清正常言之、且行長欲為講和、而清正則不可、故以此不相得、当初講和之時、行長誣言、天朝将依日本所願、故姑許之、及其封使之帰、但有封王之事、而無実利、故終不成矣、雖欲講和、必似実事、言于清正、然後可以成矣、・・・(後略)・・・、

 

(引用:北島万次『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 3  771頁 「宣祖実録」宣祖三十年十月庚申の条』2017年 平凡社)

大意は、”

忠清兵使の李時言(リ・シオン)が捕虜の倭人福田勘介を連れて来て語らせるには、『私の父は織田信長の家臣でしたが、豊臣秀吉が政権を簒奪した時に殺されました。その為、秀吉は私の事も嫌い追放しました。私は加藤清正に仕え、配下に100人を持つに身になりました。

朝鮮では最初西生浦から清正に従って全羅道へ向い、当初南原攻めと言う約束で・・・(中略)・・・、

加藤清正と小西行長は、たいへん仲が悪いのです。小西行長が平壌で大敗したことを、加藤清正はいつまでも言うのです。行長は明国との講和を進めようとしているのですが、清正はこれに賛成しません。ですから仲が悪いのです。』

当初、和談が成立しそうになった時、行長は「明は日本の要求をすべて受け入れた」と言っていたので、そのままにしていると、日本から冊封使が帰国しても、なんら日本に有利にならなかった。つまり講和は成立していなかったのです。小西行長が講和を望んでいるのは事実ですが、清正が信用していないので、成立しません。

”位の意味です。

 

とあり、朝鮮側の記録によると、日本の降伏兵(降倭ーこうわ)の話から類推すれば、小西行長がきちんと明国と折衝出来ていなかった事が明らかで、加藤清正はまったく行長の折衝の力量を信用していなかったようです。

 

その後、両者が帰国後についても、、、

 

 

戊戌(一五九八)年一二月一五日すぎ、〔加藤〕清正と〔黒田〕甲斐守〔長政〕とが、先ず倭京に到着した。〔小西〕行長と〔島津〕義弘とは、一二月の末に、追って倭京に着いた。

<清正が、先にもどって、行長の怯懦(きょうだー臆病で気が弱い事)をあざ笑った。行長は、もどって来るや、また、

「清正は、朝鮮の王子を待たずに、陣営を焼き払ってあわてて退却し、和議そのものを、ほとんど成立させる寸前にぶちこわした。私と島津とは、唐の質官(ちかんー人質の事)を連れ、落ちついて殿をつとめながら、後からもどったので。私が怯懦か、清正が怯懦か」

と宣言した。〔毛利〕輝元らは、和議不成立の咎を清正のせいにし、清正は清正で、やはり行長が、わが国〔との交渉〕に二心をもっている、と咎めた。議論はもつれにもつれ、反目はますます深まった。>

 

(引用:朴鐘鳴訳注『看羊録 第二章賊中聞見録 167~168頁』東洋文庫440 1984年 平凡社)

 

と、捕虜となり日本に抑留されていた、朝鮮人儒者であった姜沆(カン・ハン)と言う人物の記録『看羊録(かんようろく)』にも、加藤清正と小西行長の抗争の様子が残されています。本来の武人ではない小西行長が豊臣秀吉に重用されることに関しての加藤清正の不満と、またその外交官として結果が出せずにいるにも拘らず、表面を糊塗しようとする姑息なやり口に清正が激怒している様子がよく分かります。

 

朝鮮側にこの内情が漏れているのは、降伏投降した武士(降倭)たちから正確な情報がもたらされていた事にあるようです。

 

 

実は、「朝鮮退き口」は「関ケ原の戦い」につながっていた。

『関ケ原の戦い』の確信的な当事者は、やはり東軍徳川家康と西軍は石田三成でしょう。西軍の大将毛利輝元は、「別記事」で示した通り毛利家の領土野心を主目的にしており、基本的に石田三成と大きく政治的大義が違うような気がします。

 

別記事

 

 

こうしてみると、前述した豊臣秀吉の『遺言書』によって、慶長3年(1598年)8月18日の豊臣秀吉逝去時に、正統に政治的なイニシアティブを握ったのは、德川家康であったのは間違いない事実でしょう。

 

これに対して、事実上「秀吉後の豊臣政権」をわが物にしようとしていた石田三成は、大急ぎで浅野長政を除く四奉行と、仲間である毛利の外交僧安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の力を借りて、大きな武力を持つ毛利輝元を仲間に引き入れて、8月28日付で秘密裡に仲間になる起請文を結びます。明らかで重大な『秀吉の遺命違反』の「密約」に該当します。

 

このようにしておいてから、9月3日になって、大っぴらに大老5名と奉行5名の10名による政権運営の方針、本来明らかな「『秀吉の遺命』違反」である『敬白零社上巻起請文』を結び、豊臣政権の政策決定権を「10人衆合議体制」へ強引に移行させ、自分石田三成の権限を、大老徳川家康と同等である事にして行きます

 

最初の章で記述しましたように、德川家康は朝鮮在陣の「唐入り全軍」に対して撤収命令を出しています。

 

これに対して、石田三成は、、、

 

さて、そちら朝鮮方面では、たびたびの勝利をされており、めでたいことです。石田三成老が、一〇月二日にこちら伏見を出発なされますので、すぐに明との和談交渉は成立し、日本へ帰朝のはこびとなるでしょう。そのための船は、油断なく手配しています。日本に帰朝したら、そのまま薩摩へ帰国してよいと、石田三成老の許可をいただきました。ただし、島津義弘と父子でよく相談して行動することが大切です。

 

(引用:高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた 所収「鹿児島県史料 旧記雑録後編三 470号」より現代語訳抜粋 118頁』2019年 河出書房新社)

とあるように、島津忠恒への書状に、家康が命じていた朝鮮からの撤退だけでなく、政権トップの家康の同意が必要と思われる島津忠恒の帰朝後の領国薩摩への帰国まで石田三成が許可していたことがわかります。

 

これは、朝鮮からの全面撤退と言う混乱期のことではありますが、三成ばかりでなくその周辺も、「三成が政権トップの権限を有する」ものと判断していたのではないかと思われます。

 

秀吉から遺言により政権の後事を託された徳川家康としては、この「石田三成のあからさまな家康軽視の振る舞い」は、そのまま放置出来ることではなかったのではないでしょうか。

 

そして、この半年後の翌慶長4年(1599年)閏3月4日、所謂『七将襲撃事件』が勃発します。

 

別記事

 

実際に武力による襲撃があったのかどうかは別として、この騒ぎの収拾策として、豊臣政権トップの徳川家康は、奉行の石田三成に領国佐和山城への隠居を申付け、三成は政権から失脚させられます。

 

慶長3年8月の豊臣秀吉死去以来、水面下で対立を続けた徳川家康と石田三成のひとつの決着の形が出来上がりました。

 

こうして、『関ケ原の戦い』への動きが始まったと言えそうです。

 

直接『「朝鮮退き口」が「関ケ原の戦い」につながっていた』訳ではありませんが、秀吉の晩年に台頭して来た石田三成が、秀吉政策の後始末にからんで、秀吉と同等の力量を持つ徳川家康と、政権内の覇を競って対立を深めて行った結果、起こるべくして起こった戦いと言えそうです。

 

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まとめ

慶長3年(1598年)8月18日に豊臣秀吉が死去した後、2年後の慶長5年(1600年)9月15日に『関ケ原の戦い』が勃発し、東軍を率いた徳川家康が勝利し、反徳川派を一掃して、以後徳川の天下を固めて行くことになりますが、、、

 

流れを追いますと、先ず記事で示しましたように、豊臣秀吉は『遺言』で、後継者に徳川家康を指名して亡くなりました。

 

それを受けて、家康は大老・奉行衆の総意の形を取って、秀吉の引き起こした『唐入り』の手仕舞いに着手して行きます。

 

しかし、永年秀吉の側近として豊臣政権を動かして来た石田三成は、秀吉が後事を徳川家康に託したにもかかわらず、その秀吉の遺志には従わずに密かに浅野長政を除く奉行衆4名と語らい、8月28日家康に対抗する武力を持つ毛利輝元を引き入れて、秀吉の遺言を盾にして豊臣政権を簒奪しようとする徳川家康を排除する準備を始めます。

 

そうした事が進行する中で、家康は三成が率いる奉行衆と協力しながら日本軍の撤退を着々と進めます。明軍に圧迫されながらも、、、

 

 

從上關之書状披見申候、仍高麗表御無事相澄、何も歸朝之儀、大慶候、猶以面可申候間、不能具候、恐々謹言、

 

十二月九日      家康(花押)

藤堂佐渡守殿

 

(引用:中村孝也『徳川家康文書の研究 中巻 慶長三年の条 藤堂高虎に遣れる書状 361頁』1959年 日本學術振興會)

 

大意は、”

 

上ノ関(山口県)よりの書状を拝見しました。朝鮮の和談も上手く行き、派遣軍すべて帰国出来たとの事、大変めでたい事でした。撤退時の様子を詳しく聞いておりませんが、まずは結構でした。

(慶長3年)12月9日      徳川家康(花押)

藤堂高虎殿

”位の意味です。

 

この文書は、11月の始めに徳川家康に命じられ、日本軍の朝鮮からの撤収支援の為に渡海しようと博多まで出動していた藤堂高虎でしたが、前述した島津軍の善戦もあり、撤収を阻止しようとした明軍を撃破したので、順調に釜山港からの撤収が進んでいたので、藤堂高虎は渡海をせずに帰国する軍勢を見定めてから、帰路上ノ関から家康へ飛脚でもって報告を挙げた書状に対して家康が返事をしたものです。

とあり、慶長3年の年内には、遠征軍の帰国は無事終了し、大名皆博多から伏見へ帰朝報告に上洛していました。

 

当初の朝鮮侵攻中に発生した、加藤清正を大将とする「東目衆(ひがしめのしゅう)」と、小西行長を大将とする「西目衆(にしめのしゅう)」の確執は、撤退時も引き続き、更に帰国後も収まっていない状況でした。

 

そんな政情不安の中、後に『七将襲撃事件』とも呼ばれる、朝鮮の戦場で発生した軍事行動の成果に対する石田三成の偏った裁定を訴える事件が勃発し、この訴えに対して、、、

 

 

朝鮮蔚山表後巻之仕合、今度様子聞届候之處、御目付衆言上之通、不相屆儀と存候間、新儀之御代官所、如前々返付候、幷豐後苻内之城も、早川主馬二返付候様ニ申付候、然上者、於彼表、其方非越度之段、歴然候間、可被得其意候、恐々謹言、

閏三月十九日      利長

´           輝元

´           景勝

´           秀家

´           家康

蜂須賀阿波守殿

黒田甲斐守殿

 

(引用:中村孝也『徳川家康文書の研究 中巻 慶長四年の条 蜂須賀一茂(家政)・黒田長政に遣れる豐臣氏五大老連署の書状 361頁』1959年 日本學術振興會)

大意は、”

朝鮮蔚山の戦いでの援軍の作戦について、この度調べなおしたところ、目付衆の報告に誤りのある事が分かりましたので、皆さんに新しい代官所として以前の領地を返還致します。併せて、豊後府内城も早川長政に返還するように命じました。しかる上は、蔚山においてあなた方(蜂須賀家政・黒田長政)に落ち度がないことは明らかですので、そのように理解してください。

 

慶長4年(1599年)閏3月19日  前田利長

´              毛利輝元

´              上杉景勝

´              宇喜多秀家

´              徳川家康

蜂須賀家政殿

黒田長政殿

”位の意味です。

 

とありますが、慶長3年3月に、ここに出て来る「御目付衆(福原長堯・垣見一直・熊谷直盛ら3人)」によって報告され、豊臣秀吉より、蜂須賀家政・黒田長政の二人は臆病者と叱責をされて改易処分にあっていたものです。

 

これに対して、上記のような徳川家康が豊臣秀吉の裁定を覆し、蜂須賀・黒田の両名は領地を取り戻し、石田三成の妹婿の福原長堯(ふくはら ながたか)は領地を取り上げられました。また、小西行長に与えられていた肥後水俣の領地も加藤清正に返還されたようです。

 

このように石田三成は、幼少より秀吉に側近として仕えて、懸命に獲得して来た権力も含めた成果を何もかも失い、この政権簒奪者の徳川家康に対する恨みを大きく膨らませながら、政治の中央から転落し、領地の佐和山(彦根)へ静かに向かったと考えられます。

 

 

やはり、秀吉の死後の『「唐入り」退口』と『関ケ原の戦い』は、深いところでつながっていると思わざるを得ないところです。

 

参考文献

〇高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』(2019年 河出書房新社)

〇本多隆成『定本徳川家康』(2011年 吉川弘文館)

〇東京大學史料編纂所『大日本古文書 家わけ二 浅野家文書』(1968年 東京大學出版會)

〇福岡市博物館編纂『黒田文書 第一巻』 (1999年 福岡市博物館)

〇藤井治左衛門編『関ケ原合戦史料集』(1979年 新人物往来社)

〇山鹿素行編『武家事紀 中』(1916年 山鹿素行先生全集刊行會)

〇北島万次編『豊臣秀吉朝鮮侵略関係史料集成 3』(2017年 平凡社)

〇福岡市編集委員会編『新修 福岡市史 資料編 中世1』(2010年 福岡市)

〇高橋陽介『慶長四年の豊臣政権と島津領国における内乱 前編』(2020年 星雲社)

〇朴鐘鳴訳注『看羊録』東洋文庫440 (1984年 平凡社)

〇中村孝也『徳川家康文書の研究 中巻』(1959年 日本學術振興會)

 

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