流人だった源頼朝がなぜ挙兵出来たの?その理由は何?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

スポンサーリンク
・流人だった源頼朝挙兵出来た理由が分かります。
『石橋山の戦い』で大敗後、源頼朝は、ほんの1か月ほどで大軍を集めた。どうやって?
『富士川の戦い』で、源頼朝は、なぜ平家の追撃戦を行わなかったのか?
北条氏は平氏だったはホントか?

流人の源頼朝が、なぜ挙兵に成功出来たの?

周知のように源頼朝は、保元元年(1156年)の『保元の乱』で勢力を伸ばし、平治元年(1159年)の『平治の乱』で、クーデターに失敗して平清盛に討ち取られた源義朝(みなもと よしとも)の三男で、当時年少だったことから清盛に命を助けられ、伊豆蛭ケ小島(ひるがこじまー現伊豆の国市)へ流罪となっていた人物です。

 

源頼朝の父義朝は、その父為朝(ためとも)と折り合いが悪く、廃嫡されて東国へ下り、三浦氏・上総(かずさ)氏・大庭(おおば)氏などを傘下に入れて勢力拡大を図っていました。

 

父義朝の勢力拡大とともに、京都で公家のような暮らしをして幼少期を過ごし、年齢の割に極めて高い地位に就いていた頼朝ですが、『平治の乱』後に伊豆に流され、平家の命を受けた伊東氏の監視下に置かれながらの流人生活となりました。ところが、頼朝の乳母であった比企尼(ひきのあま)が都より武蔵国比企郡(現埼玉県比企郡と東松山市)の領国へ下って、流人生活する頼朝へ人も含めた十分な援助を続け、頼朝自身は何不自由なく暮らしていたようです。

 

その後、『平治の乱』で源義朝ら対抗勢力を一掃し、強力な武力を背景に朝廷政治を壟断(ろうだん)して、正に『我が世の春』を謳歌(おうか)している平清盛一門に対し、京都の公家・在京武士団の不満は高まっていました。

 

そんな中で、平清盛は手を組んでいた後白河法皇との間が険悪となりますが、安元3年(1177年)6月に清盛は先手を打って、現在はその実在さえも疑われている、世に言う「鹿ケ谷(ししがたに)の陰謀」をでっち上げて、僧で官僚の西光(さいこう)ら後白河法皇の側近たちをしょっ引いて一掃してしまいます。

 

ところが、2年後の治承3年(1179年)後白河法皇は反撃に転じ、清盛の娘で藤原基実(ふじわら もとざね)の後家である盛子が6月に死去すると、その管理していた摂関家領を後白河法皇が預り、相続する予定であった基実の嫡男で20歳となった基通(もとみち)を押しのけて、関白藤原基房の嫡男で8歳の師家(もろいえ)が権中納言に任命されて、摂関家領を相続することとなりました。

 

 

つまり、婚姻関係を結んで清盛が勢いに任せて手中にしていた摂関家の所領を、後白河法皇と関白基房が組んで元の摂関家の下に取り戻しにかかった訳です。更に7月に亡くなった清盛長男重盛(しげもり)に代った維盛(これもり)が支配していた越前国を朝廷が没収します。

 

 

さすがにここに至り、福原遷都の事業にかまけて、後白河法皇の動きに反応していなかった清盛も、とうとう座視出来ず11月14日に福原から数千騎を率いて上洛、京都を軍事制圧して藤原基房父子の官位を剥奪し、基房を大宰府へ左遷、後白河法皇の息のかかった公家達を根こそぎ解任して、後任に平家一門と平家派の公卿たちでポストを独占し、後白河法皇を鳥羽殿へ幽閉してしまいました。

 

この清盛のクーデターである『治承三年の政変』により、後白河法皇の院政は終焉を迎え、事実上「平家政権」が成立しました。

 

翌治承4年(1180年)2月高倉天皇が、清盛の娘徳子の生んだ「言仁親王(ときひとしんのう)」に譲位し、そして践祚(せんそ)して「安徳天皇」となり、件の藤原基通(ふじわら もとみち)が摂政となり、これによって上皇(法皇)・天皇・摂政がすべて清盛の近親者で占められ、平家の世は盤石となったと思われました。

 

 

ところが、後白河法皇の第3皇子である「以仁王(もちひとおう)」が、治承4年(1180年)4月9日『平家追討(へいけ ついとう)』の令旨(りょうじ)を東国武士に対して発します。

 

 

廿七日、高倉宮の令旨、今日前武衛将軍伊豆國の北條館に到著す、八條院蔵人行家の持ち來る所なり、武衛水干を装束き、先づ男山の方を遥拝し奉るの後、謹んで之を披閲せしめ給ふ、侍中は、甲斐信濃两國の源氏等に相觸れんが爲、則ち彼國に下向す、

 

武衛は、前右衛門督の緣坐として、去る永歴元年三月十一日、當國に配せらるるの後、歎きて二十年の春秋を送り、愁へて四八餘の星霜を積めるなり、而るに頃年の間、平相國禅閤恣に天下を管領し、近臣を刑罰し、餘へ仙洞を鳥羽の離宮に遷し奉る、上皇御憤ありて、頻りに叡慮を惱まし御ふ此時に當りて、令旨到来す、仍つて義兵を擧げんと欲す、・・・、

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(一) 治承四年四月小廿七の条 14頁』2008年 岩波書店)

 

大意は、”

治承4年(1180年)4月27日の今日、以仁王の令旨源頼朝のいる北条の舘に到着した。以仁王を後援する八条院暲子内親王(はちじょういん しょうし ないしんのう)に仕える源行家(みなもと ゆきいえ)が届けて来た。

頼朝は、ふだん装束の水干を身に着け、先ず皇居遥拝を行った後に令旨を拝見した。その後行家は、甲斐信濃両国の源氏にも「令旨」を持ち届けるために、すぐに両国へ向った。

源頼朝は、『平治の乱』の当事者藤原信頼に連座して、去る永歴元年(1160年)3月11日に伊豆へ流罪となってより、20年の歳月を送り32歳を越えたこの頃である。

一方、平清盛は好き勝手に天下を壟断し、近臣を罰し、あろうことか後白河法皇までも鳥羽殿に軟禁してしまった。

法皇はお怒りになり早期の解放に苦慮されている。(事態打開の為、以仁王から)皆に挙兵を促す命令が到着したので、(それを受けて)源頼朝は、法皇をお救いいたす兵を挙げた。

”位の意味です。

 

とあり、源頼朝を巡る政治情勢は、大きく変わり始めました。

 

以仁王(もちひとおう)と源頼政(みなもと よりまさ)の挙兵は、5月26日の『宇治川合戦』で以仁王が敗死して終焉を迎えましたが、清盛は残党狩りの強化を命じ、また、以仁王の令旨を受け取った諸国の源氏の追討令を出しました。

 

 

十九日、庚子、散位康信の使者、北條に參著せるなり、武衛、閑所に於て對面し給ふ、使者申して云ふ、去月廿六日、高倉宮御事有るの後、彼の令旨請くるの源氏等、皆以て追討せらる可きの旨其沙汰有り、君は正統なり、殊に怖畏有る可きか、早く奥州の方に遁れ給ふ可きの由存ずる所なり者、此康信の母は、武衛の乳母の妹なり、・・・、

・・・(中略)・・・、

廿四日、乙巳、入道源三品敗北の後、國々の源氏を追討せらる可きの條、康信の申状浮言に處せらる可からざるの間、遮りて平氏追討の籌策を廻らさんと欲す、仍って御書を遣はして、累代の御家人等を招かる、・・・(後略)・・・、

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(一) 治承四年六月の条 17~18頁』2008年 岩波書店)

 

 

大意は、”

治承4年(1180年)6月19日、三善康信(みよし やすのぶ)の使者が伊豆の北条館に到着した。源頼朝は、空いた部屋で対面したところ、使者が言うには、「先月26日、以仁王(もちひとおう)の挙兵騒ぎが収まった後、平清盛から件の令旨を受け取った源氏武士を全員追討せよとの命令が出された。頼朝君は源氏の正統であり、特に狙われており、直ちに奥州へ脱出すべきだ」と。この三善康信の母は、頼朝の乳母比企尼の妹である。

・・・(中略)・・・、

24日、以仁王と源頼政が清盛に敗北した後、令旨を受け取った諸国の源氏を追討するとの話、三善康信の情報は単なるうわさ話と捨て置くわけには行かない。対抗して平氏を攻撃する計画を立てねばならない。そこで、書状を出して、累代の源氏御家人の召集を図りたい・・・

”位の意味です。

 

都から、比企尼(ひきのに)の都の手の者から、平清盛から頼朝の追討令が出された事を早飛脚で知らせて来ています。これに対して頼朝は、清盛に追討されるくらいなら、挙兵して対抗しようと腹をくくった事が判明します。

 

このように、そもそも父の源義朝が地盤を築いていた東国に流されると言う幸運に恵まれていた頼朝は、以仁王挙兵の残党狩りを清盛が実行するとの情報に接し、父義朝ゆかりの東国の御家人たちの挙兵を組織したことが分かります。

 

以上まとめてみると、、、

 

  1. あろう事か、朝廷のトップである後白河法皇を軟禁すると言う暴挙に出た平清盛の目に余る行動
  2. 日頃、清盛一門の専横に不満を募らせ、何とか反撃をしたいと機会を狙っていた東国武士団の反抗機運の高まり
  3. 平家から人心が離れたこの時宜を得た、源義朝正嫡である源頼朝の挙兵行動

 

などが上手くかみ合った結果が、20年も逼塞している流人に過ぎなかった頼朝が、幸運にも挙兵に踏み出せた理由のようです。

 

 


(画像引用:源頼朝旗揚げの碑ACphoto)

 

源頼朝の挙兵は以仁王の宣旨を拠所としていた!ホント?

頼朝の挙兵行動に関して、大義名分となっていたのは、平清盛の暴挙(『治承三年の政変』)に怒った以仁王が発した「令旨(挙兵を促す檄文)と自らの挙兵」であったことはほぼ間違いないところでしょうが、前章にありますように、この以仁王の引き起こした騒ぎの後始末に、平清盛が源氏の討伐を命じていると言うのがありました。

 

これに関しては、頼朝の身を案じ、都から慌てて「清盛の源氏討伐命令」を知らせた三善康信(みよし やすのぶ)の早とちりだったのではないかと言われています。

 

 

同時代の貴族の日記を見る限り、当時の清盛は福原遷都に専念しており、全国の源氏を討伐することをは考えていなかった。清盛はあくまで残党狩りを指示していただけである。

おそらくは康信はこの動向を諸国の源氏の討伐と誤解したのだろう。この早とちりが頼朝を挙兵へと突き動かすことになる。

 

(引用:呉座勇一『頼朝と義時 第一章の4挙兵の決断 40頁』2021年 講談社)

 

異説に「後白河法皇の平家追討の院宣(いんぜん)」が頼朝の挙兵を促したと言うものが『平家物語』などに有るようです。

 

これに関して、その他の文献史料には、「後白河法皇の平家追討の院宣」に関する記述がみられない事と、、、

 

この頼朝この宮の宣旨と云物をもて來りけるをみて されハよこの世の事ハ さ思しものをとて心於ごりにけり 又光能卿 院の御氣色をみて文覺とて餘りに高雄の事勸すごして伊豆に流されたる上人在き それして云やりたる旨も有けるとかや 但是は僻事也・・・、

 

(引用:近藤瓶城編『改訂史籍集覧 第二冊 所収「愚管抄 巻五 144頁」』1967年 史籍集覧研究會)

 

大意は、”源頼朝は、この後白河法皇の宣旨と言うものが持って来られたのを見て、そうなのだ、天下は私の挙兵を望んでいると得意になった。又、藤原光能(ふじわら みつよし)卿が後白河法皇のお考えを察して、文覚(もんがく)と言う「高雄事件」を起こして伊豆に流された高僧に、「院宣」の使者をお願いしたとか言う話があるが、これは間違えである・・・”位の意味です。

 

このように、当時の同時代記録である『愚管抄(ぐかんしょう)』(鎌倉初期の天台宗僧侶慈円が作者)にも、頼朝に「後白河法皇の平家追討の院宣」が出されたと言う話はウソだと記載されており、これはなかったようです。

 

 

つまり、以仁王と源頼政の叛乱の後始末の一環である「清盛の源氏残党狩り」で、京から清盛が頼朝を攻めるとの情報があり、それならばと頼朝は奥州へ逃亡するよりも、受けて立つ決心した事と、以仁王の宣旨が出ていた事頼朝を突き動かしたと見るのが自然な様です。

 

 

源頼朝が『石橋山の戦い』に大敗して、わずか1か月で大軍を集める事が出来た理由は?

先ず、『石橋山(いしばしやま)の戦い』とは、、、

 

治承四年(一一八〇)八月、相模国足柄下郡の石橋山で平家方の軍隊が源頼朝を破った戦闘。

源頼朝は以仁王の令旨を奉じて治承四年八月十七日伊豆国の目代山木兼隆を殺して平家追討の軍事行動を開始し、周辺の武士を招きつつ東進したが、相模の住人大庭景親が平家方の熊谷直美・渋谷重国らを率いて、頼朝を討とうとして、同月ニ十三日に石橋山で対戦した。

平家方は相模国の中小規模の領主を中心に三千余騎、頼朝方は三百騎の兵力だったと伝える。頼朝は父祖以来源氏の家人だった関東地方の武士を味方にする必要があったが、この地方には平治の乱以後平家方に随従する武士も多かった。

戦闘は平家方が大勝し、翌日に至り近くの山中で頼朝を追跡するが、敗兵の奮戦や、平家方梶原景時の裏切り行為のためついに頼朝を捕らえられなかった。

頼朝は箱根を経て真鶴から海路安房国に逃れ、上総・下総の大領主で当時の関東地方で最大級の兵力を有した上総介広常・千葉介常胤を味方に得て、その後の関東地方制圧の出発点とした。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第一巻 「石橋山の戦」の条 534頁』1979年 吉川弘文館)

 

前掲した『国史大辞典』の記事によれば、頼朝が大軍を催す事が出来たのは、上総介広常(平広常)と千葉常胤を味方にする事が出来たからだと言う話でしたが、この『石橋山の戦い』で大敗し、言わば落武者である源頼朝に、なぜ彼等関東の有力武将らが味方したのでしょうか?

 

義朝は幼少から東国で成育したと考えられている。成人した義朝は鎌倉を中心とする相模を本拠地として南関東一帯で勢力の拡張につとめ、在地武士の家人化をおしすすめるとともに、天養元年(一一四四)の相模国大庭御厨押領事件や康治二年(一一四三)から久安元年にかけて起った下総国相馬御厨をめぐる千葉氏との紛争を通じて所領の拡大と有力武士の服属をはかった。

・・・(中略)・・・、保元の乱に際して義朝は、相模の大庭景義、両総の上総広常・千葉常胤、武蔵七党などの東国武士を結集し、平清盛とならんで後白河天皇方の軍事力の中核となった。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十三巻 「源義朝」の条 426頁』1992年 吉川弘文館)

 

とあり、この話から千葉常胤(ちば つねたね)上総広常(かずさ ひろつね)らが義朝(よしとも)の息子である頼朝に服属したのは、康治2年の『相馬御厨(そうま みくりや)乱入事件』・天養元年の『大庭御厨(おおば みくりや)押領事件』などで、源義朝が積極的に東国武士の立場に立って活動してくれた事を皆よく認識していたからだと思われます。

 

こうして、頼朝自身の持つ指導力も然ることながら、やはり父親義朝の功績の上に頼朝の挙兵成功の礎があったものと考えられます。つまり、『石橋山の戦い』で大敗後に上手く、頼朝の有力なパトロンとなる見込みのある豪族が多数いる房総半島への逃げ込みに成功した事が、頼朝が幸運を引き寄せた大きな理由だったようです。

 

スポンサーリンク

源頼朝は『富士川の戦い』に勝利したあと、なぜ平家を追撃しなかったの?

先ず、『富士川の戦い』とは、、、

 

治承四年(一一八〇)十月二十日、富士川をはさんで平維盛を総大将とする追討軍と源頼朝の軍との間におこった戦。

九月末に京都を出発した追討軍は十月十八日、富士川西岸に陣を構えた。追討軍の出発が遅れたため、石橋山敗戦後の再起の機会を得た源頼朝は十月二十日、富士川に近い賀島(静岡県富士市)に軍を進めた。

平氏方の駿河国目代橘遠茂が甲斐源氏の武田信義らに敗れ、追討軍は進撃の途上で期待した兵力の結集に失敗し、劣勢の状態になっていた。

二十日夜半、『山槐記』によると、川のほとりの池からいっせいに飛び立った水鳥の羽音を頼朝軍の来襲と誤認した追討軍は、ほとんど合戦のないまま敗走したという。

こののち頼朝は西上をめざそうとしたが、諸将の進言に従って東国の地固めを図るために鎌倉に帰った。

この戦の勝利は結果として東国武士を頼朝のもとに走らせることになった。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十二巻 135頁』1991年 吉川弘文館)

別の史料に拠りますと、、、

 

治承四年十月廿日己亥、武衛令到駿河國賀嶋給、又左少将維盛・薩摩守忠度・參河守知度等、陣于富士河西岸、而及半更、武田太郎信義廻兵畧、潜襲件陣後面之處、所集于富士沼之水鳥等群立、其羽音偏成軍勢之粧、依之平氏等驚騒、爰次将上總介忠清等相談云、東國之士卒悉屬前武衛、吾等憖出洛陽、於途中已難遁圍、速令歸洛、可構謀於外云々、羽林已下任其詞、不待天曙、俄以歸洛畢、

 

(引用:神奈川県企画調査部県史編集室『神奈川県史 資料編 1古代・中世(1)1003吾妻鏡一 389頁』1971年 神奈川県)

大意は、”治承4年(1180年)10月20日、源頼朝公は駿河国賀嶋(するがこく かじまー現静岡県富士市加島)に到着された。一方、平維盛(たいら の これもり)、平忠度(たいら の ただのり)、平知度(たいら の とものり)らは富士川の西岸に着陣したが、対陣は深夜に及んだ。

武田信義(たけだ のぶよし)は、策を巡らせて、密かに平家の後面を襲おうとしたところ、富士沼に群れていた水鳥が兵の動きに驚いて飛び立ち、その羽音が軍勢の攻勢のように思われ、平氏の軍は驚き騒いだ。

ここで、次将の藤原忠清(ふじわら ただきよ)らが打合せで言うには、東国の武士はすべて頼朝の父義朝の臣下で、我々は気もすすまずに京都を出て来ており、ここに来てもう包囲網を破る事は出来ない、速やかに京都へ戻り攻撃に備えるべきであると言う

平維盛以下はその言葉どおり、夜明け前に急に慌てて帰京した。”位の意味です。

 

 

と言うように、同時代史料の『山槐記(さんかいき)』『吾妻鏡(あずまかがみ)』ともに、『富士川の戦い』での、源氏軍勝利の様子を伝えていますが、頼朝が追撃したとの記載はなく、頼朝は鎌倉へ戻ったことが知られています

 

では、この間の事情に関し『吾妻鏡』での話は、、、

 

廿一日庚子、小松羽林を追ひ攻めんが爲、上洛す可きの由を士卒等に命ぜらる、而るに常胤、義澄、廣常等諫め申して云ふ、常陸國佐竹太郎義政幷に同冠者秀義等、數百の軍兵を相率ゐ乍ら、未だ歸伏せず、就中、秀義の父四郎隆義は、當時平家に從ひて在京す、其外驕れる者猶境内に多し、然れば先づ東夷を平ぐるの後、關西に至る可しと云々、・・・

 

(引用:龍肅訳注『吾妻鏡(一) 治承四年十月の条 51頁』2008年 岩波書店)

 

大意は、”治承4年(1180年)10月21日、源頼朝は平維盛を追撃せんとして上洛すると軍に命じられたが、千葉常胤・三浦義澄・上総廣常等は頼朝を諫めて言うには、常陸の佐竹義政と秀義等が数百の兵を率いながら未だに臣従していない。特に、佐竹秀義の父隆義は、昔平家に従って在京しており、まだ管内には反抗する者が多い。先ずこれを平定してから、上洛すべきであると言う。”位の意味です。

 

 

 

特に、この『富士川の戦い』は、頼朝軍はただ布陣しただけで、記録に残る前述の実際の戦闘行動は、一足先に甲斐から出陣した甲斐源氏の武田信義(たけだ のぶよし)がすべて行っており、しかも武田軍は頼朝軍と全く同調しておらず、駿河・遠江の国は戦勝で追撃した武田軍に占拠されてしまい、源氏の長者も源頼朝でなくて、甲斐源氏の武田信義になりかねず、上洛するも何もあったものではない状況でした。

 

そして何よりも、源頼朝は戦果を甲斐源氏の武田信義に取られて、関東から長駆出陣して来た上総・千葉らの武将たちに論功行賞で渡す領地の宛てもなく、頼朝の要請に応じ出陣して、赤字出張になってしまった武将たちが、さっさと揃って帰国を求めたのは当然の帰結でした。

 

 

北条氏は平家だった!ホント?

先ず、『平氏』とは、、、

 

臣籍降下の皇族に下賜された姓の一つ。天長ニ年(八ニ五)桓武天皇皇子葛原親王の子高棟王らに、平(たいら)朝臣の姓を与えたのが賜姓平氏の最初である。令制では天皇の四世以内を皇親とし、六世は姓を賜わって臣籍に下ることになっていたが、八世紀後半の桓武天皇の時代、天皇皇子(一世王)に対しても姓を与えて臣籍に降下させる政策がとられ、以後、皇族に対する賜姓が頻繁になった。源朝臣は、歴代、天皇皇子に下賜される姓、平朝臣は二世王以下のそれであった。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十二巻 457頁』1991年 吉川弘文館)

 

とあり、一方『源氏』とは、、、

 

皇族賜姓の一つで、平安時代に始まる。皇室経済窮迫の打開策として、皇族に源(みなもと)朝臣の姓を与えて臣籍に降した賜姓源氏の初例は、弘仁五年(八一四)嵯峨天皇が信以下の皇子・皇女に与えた嵯峨源氏である。この後に、仁明・文徳・清和・陽成・光孝・宇多・醍醐・村上・花山・三条らの各天皇の皇子女が源姓を賜わり、始祖の天皇名を冠した呼称をもつ源氏の諸流がうまれた。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻 148頁』1985年 吉川弘文館)

 

とあります。つまり皇室経済窮迫の打開策として、皇子女が臣籍降下させられ、最初は『源氏』姓であったことが分かります。そして、源氏の方が降下前の位が上であったようです。その事が関係するのか、京より遠い遠国である東国には位の低い『平朝臣(たいら あそん)』を下賜された皇族が多く下って行ったようです。

 

そして、件の『北条氏』に関しては、、、

 

鎌倉幕府の執権として、鎌倉時代に繁栄した一族。桓武平氏の分流で時政を始祖とし、伊豆国田方郡北条(静岡県田方郡韮山町)を本拠とした。諸系図などの所伝では、先祖は代々伊豆国の在庁官人であって、時政の父時方の代に伊豆介となって北条に住み、北條氏を称したという。

歴史上での一族の活躍が認められるのは治承四年(一一八〇)源頼朝の挙兵のときであり、以来、時政は頼朝の岳父として鎌倉幕府の創設に勲功をたてて勢力を獲得し、頼朝の死後は将軍家の外戚として権威を輝かし、執権となって幕政を掌握した。

ついで義時・泰時の代には頼朝創設以来の有力御家人である比企・梶原・畠山・和田らの氏族を順次に討滅し、将軍頼朝の政策を継承しながら、承久の乱などの難局をたくみに処理して幕府の実権を握り、大いに繁栄した。

しかし、本来この一族は、大武士団を構成し、膨大な所領を保有していた形跡はなく、後世いわれるほどの有力豪族であったとは考えられない。三浦・千葉氏などの関東の有力豪族と性格を異にし、国衙の機構を通じて京都と密接な関係をもった一族とみられる。

 

(引用:国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十二巻 598~599頁』1991年 吉川弘文館)

 

 

とあり、北条氏は、立派な『桓武平氏の血統』だったようです。

 

 


(画像引用:黒板勝美編『新訂増補国史大系 60下 尊卑分脉 第四篇 17頁』1967年 吉川弘文館)

 

 

『尊卑分脈 第四巻』に北条流の記載がありますが、桓武平氏の流の中に入っていますので、この伊豆国出身の鎌倉北條氏は、立派な平氏の一族です。

 

まとめ

建久3年(1192年)7月12日に征夷大将軍となって鎌倉幕府を開き、日本史上初めて武家による政権を打ち立てた源頼朝(みなもと よりとも)ですが、それは治承4年(1180年)の挙兵から始まりました。

 

平治元年(1159年)12月に起った『平治の乱』で父源義朝が平清盛に敗れ、翌永曆元年(1160年)に伊豆に流された三男の頼朝は、平家方の伊東祐親(いとう すけちか)らに監視されながら、治承4年迄の約20年をその地で過ごしました。

 

通説では、治承4年(1180年)4月27日に、以仁王(もちひとおう)から令旨(りょうじー挙兵の檄文)が届いたものの、頼朝等東国の源氏は事態を静観視し、5月26日の『宇治川合戦』で以仁王が討死し、清盛がその残党狩りの指示を出しました。以仁王に同調した源頼政(みなもと よりまさ)が伊豆国主をしていたため、その頼政子息の有綱(ありつな)が伊豆に在国していたところから、掃討戦をやるため平家は東国へ軍を出すとの情報が、京都から6月19日になってもたらされました

 

情報をもたらした三善康信は頼朝に、平家の追討の手を逃れて伊豆から奥州まで逃亡することを勧めます。実際には、清盛の命令を受けて伊豆・相模に在住の平家方伊東祐親(いとう すけちか)と、京都から下向して来た相模の大庭景親(おおば かげちか)らが、挙兵の気配が噂される頼朝討伐に動く気配があり、源頼朝はこれに対抗するため、本気で急ぎ挙兵せざるを得ない立場に追い詰められたのではないかと思われます。

 

案の定、準備不足を反映して、急な挙兵に東国武士たちは反応せず、頼朝の周囲には側近の北条時政の兵を中心にやっと100騎程度で、初戦を終えても300騎程度が集まったくらいで、頼朝が陣取った石橋山で、3000名以上の兵力で頼朝鎮圧にやって来た大庭景親らの軍に大敗してしまいます。

 

『石橋山の戦い』で敗走して、這う這うの体で舟で安房国へ渡ってから状況が変わります。父源義朝(みなもと よしとも)恩顧の豪族たちが頼朝の廻りに参陣し始めて、有力豪族の千葉常胤(ちば つねたね)・上総広常(かずさ ひろつね)らが加わるなど、軍勢はあっと言う間に2万を数える威勢を誇り始めます

 

頼朝軍の巨大化に、9月になると平家の意向を踏まえて朝廷から『頼朝追討の宣旨(せんじ)』が出され、京から平維盛(たいら これもり)を総大将とする平家の頼朝追討軍が東国へ下向し始めます。

 

富士川西岸に平家の追討軍が着陣した時には、既に甲斐源氏武田氏が東岸に布陣しており、後詰として頼朝軍も着陣し、すでに源氏軍は4万を超える軍勢となっており、これを怖れた西岸の平家軍は夜陰に紛れて戦わずして京都へ逃げ帰ってしまいます。これにより、京都における平家の威信は失墜してしまいます。

 

 

ここで、富士川を渡河して追討軍を追った甲斐源氏に、駿河國・遠江國は占拠されてしまい、頼朝軍は豪族らの反対にやむなく上洛の途につかずに鎌倉へ引き返したようです。頼朝軍は、甲斐源氏にこの『富士川の戦い』の戦果を横取りされた形となり、論功行賞に預かる見込みが立たないので、頼朝の家人たちは頼朝の意向に関係なく、さっさと領地へ引き揚げたと言うのが事の真相なのでしょう。

 

また、『頼朝源氏軍』とは言うものの、その最側近である北条氏でさえも、系図でみれば、明らかに桓武平氏の血脈にある「平家」であることがよく分かります。東国は平家一族の下向が早かったこともあり、ほとんどの豪族が平家の一族に含まれており、源平ではっきり勢力図が分かれて争っていたと言う事はなかった言うのが正解のようです。

京都で政権を争っている一族は別として、地方では源平入り乱れて存在している状態だったと考えるのが妥当のようです。

 

スポンサーリンク

参考文献

〇大森金五郎/高橋昇造『増補最新日本歴史年表』(1934年 三省堂)
〇呉座勇一『頼朝と義時』(2021年 講談社)
〇呉座勇一『陰謀の日本中世史』(2018年 KADOKAWA)
〇龍肅訳注『吾妻鏡(一)』(2008年 岩波書店)
〇近藤瓶城編『改訂史籍集覧 第二冊』(1967年 史籍集覧研究會)
〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第一巻』(1979年 吉川弘文館)
〇本郷和人『鎌倉殿と13人の合議制』(2022年 河出書房新社)
〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十三巻』(1992年 吉川弘文館)
〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第十二巻』(1991年 吉川弘文館)
〇神奈川県企画調査部県史編集室『神奈川県史 資料編 1 古代・中世(1)』(1971年 神奈川県)
〇竹内理三編『角川日本地名大辞典22 静岡県』(1982年 角川書店)
〇国史大辞典編集委員会『国史大辞典 第五巻』(1985年 吉川弘文館)
〇黒板勝美編『新訂増補国史大系 60下 尊卑分脉 第四篇』(1967年 吉川弘文館)
スポンサーリンク



コメントを残す

Time limit is exhausted. Please reload the CAPTCHA.