徳川家康が勝った『関ケ原の戦い』、毛利輝元は何をしていたの?
目次
西国の太守毛利輝元は、毛利家の外交僧安国寺恵瓊にだまされて石田三成と組んだ!ホント?
通説では、『関ケ原の戦い』における毛利輝元には、主犯の石田三成と安国寺恵瓊によって、西軍大将へ祭り上げられて、結果徳川家康に丸め込まれて戦いもせず大坂城を退去した人の好い『凡將』のイメージが鮮明にあります。
それを決定づける問題の文書は、、、
去五日、雲州罷立、至播州明石罷着候處、安國寺於江州石治少、大形少手前見及子細候哉、大坂罷歸候て、我等事も可相扣由申候条、昨日罷着候、然者右御兩所御企承、驚入存候、殊更安國寺自輝元被呼歸候様申廻候段、無是非次第ニ候、於輝元ハ、前後存間敷与不審ニ存計候、爰許之様子、留主居之者共、至廣嶋ニ申遣候、頓而可有到来候間、追々可申上候、此由御心得所仰候、恐惶謹言、
七月十四日 吉川藏人 廣家(花押)
榊原式部太輔殿
御宿所
(引用:『吉川家文書之二 912 吉川廣家自筆書狀(折紙) 61頁』1979年 東京大學出版會)
大意は、”
(私、吉川広家は)慶長5年(1600年)7月5日に出雲(富田城)を出発し、播州明石まで来たところ、安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)が近江(佐和山)に於いて石田三成(いしだ みつなり)・大谷吉継(おおたに よしつぐ)とこちらの状況について協議し、それでなにかあったのか大坂迄帰って来ました。私にも大坂迄来るようにとのことなので、昨日到着致しました。そこで、石田・大谷の計画(西軍決起)を聞かされ、びっくりしたところです。
安国寺はわざと、輝元から大坂へ呼び戻されたように言い廻っており、まったく怪しからん話です。
輝元は、(私と同じように)その事情を知る訳もないですから、不審に思うばかりです。(大坂城)留守居の者がこの事態を、広島に(いる輝元へ)連絡を取りましたので、すぐに返事が来る事と思います。到着次第ご連絡いたします。この事情を(内府様へ)ご連絡ください。
(慶長5年)7月14日 吉川広家(花押)
(徳川家臣)榊原康政(さかきばら やすまさ)殿 御宿舎
”位の意味です。
史実としての毛利輝元は、なぜかこの吉川広家が話した大坂城留守居役からの書状が届く前に、大坂へ向けて広島を出陣してしまっているようなのですが、吉川広家を始め毛利家の重臣たちは、反徳川派の西軍決起に関して、輝元は事前に全く知らなかったと言い張り、すべては前述吉川広家書状にあるように、安国寺恵瓊の独断で毛利家の参戦・輝元の西軍大将就任が決められてしまったと言う事になりました。
この筋書きが、「毛利輝元は、安国寺恵瓊と石田三成の策略に騙されて、『関ケ原』の西軍大将に祭り上げられた」と言う話の出元らしいです。
では、、、
この話は本当なのでしょうか?
先ずは、在坂している三奉行が反徳川決起の為に、広島へ帰国していた毛利輝元を大坂へ呼び戻すところですが、、、
大坂御仕置之儀付而、可得御意儀候間、早々可被成御上候、於様子者、自安國寺可被申入候、長老爲御迎、可被罷下之由候へ共、其間も此地之儀申談候付而、無其儀御座候、猶、早々奉待存候、恐惶謹言、
七月十二日
長大増右
徳善
輝元樣
人々御中
(引用:『松井文庫所蔵古文書調査報告書 二 415 前田玄以外二名連署状写』1993年 八代市博物館未来の森ミュージアム編集・発行)
大意は、”
大坂での政策方針について、御同意を得たいので、早急に上坂をお願いいたします。こちらの様子に関しては、安国寺より説明しますので、本人がお迎えに下向すべきですが、その間にもこちらで話合いがありますので行けません、早々の御到着をお待ちいたします。
(慶長5年)7月12日 長束正家(なつか まさいえ)
増田長盛(ました ながもり)
前田玄以(まえだ げんい)
毛利輝元樣
御家中
”位の意味です。
次いで、、、
急度申候、従両三人、如此之書状到来候条、不及是非、今日十五日出舟候、兎角秀頼様へ可遂忠節之由言上候、各御指図次第候、早々御上洛待存候、恐々謹言、
七月十五日 藝中
加主
御宿所
(引用:『松井文庫所蔵古文書調査報告書 二 416 毛利輝元書状写』1993年 八代市博物館未来の森ミュージアム編集・発行)
大意は、”
しっかりと申し伝えます。大坂の三奉行よりこのような(前述の)書状がやって来ましたので、やむなく今日(慶長5年7月)15日に広島を出航しました。とにかく(貴殿も)秀頼様への忠節を尽くされるよう申し上げます。ご準備出来次第、早々に上洛されるようお待ちいたしております。
”位の意味です。
とあり、なんと毛利輝元は、肥後の加藤清正に対しても、自分が上洛するので、すぐに上洛して西軍(大坂城の豊臣秀頼)に加わる様に勧誘と言うより、命令書のような書状を出しています。
大坂の三奉行から7月12日付の書状が広島まで、当時の最短3日で到着し、その当日7月15日に、即全軍船で出陣したと言う事は、すでに毛利輝元が下坂する前から、この「反徳川決起」の企みが石田三成・大谷吉継と三奉行を含め、大老毛利輝元を中心に進められていた可能性が非常に高いことを示しているようです。
さらに、、、
五年、石田三成逆意を企、秀頼の命と稱し輝元をめす。輝元其正邪を決せずして廣嶋を發し大坂におもむく。・・・(中略)・・・、終に東照宮の御座所大坂城の西丸を奪ひてこれに住し、三成等がはからひによりて惣大將となる。
(引用:『新訂 寛政重修諸家譜 第10 毛利の条 244頁』1984年 続群書類従完成会)
大意は、”(慶長)5年、石田三成が謀叛を企て、(主君豊臣)秀頼の命令だとして毛利輝元の出仕を求めた。輝元はその命令の真偽も確認もせずに広島を出発し大坂へ出陣した。・・・(中略)・・・、とうとう家康の御座所である大坂城西の丸を占領し、三成等四奉行によって西軍の総大将となった。”位の意味です。
各史料の示す事態は、とてもじゃないですが、『大老毛利輝元は、毛利家外交僧上りの安国寺恵瓊の口車に乗せられて、反徳川の西軍大将に祭り上げられた。』などと言う、当時の毛利一統の言い逃れの作り話で説明できるものではないことが明らかのようで、明確に、この石田三成らが企んだとされる「反徳川を目的とするクーデター」に当初から、毛利輝元が主犯として加担していたことを示しているようです。
毛利輝元は、領地奪還にこの『関ケ原の戦い』の騒ぎを利用した!ホント?
この話は、豊臣秀吉が晩年に出したある裁定に原因があります。。。
そもそも、毛利宗家の当主である輝元(てるもと)には子がなく、叔父元淸(もときよ)の次男秀元(ひでもと)を養子に迎えていました。それに対して、豊臣秀吉より天正20年(1592年)に、、、
就我等身上之儀 従
大閤樣忝被 仰出候、然者、御實子出來申候者、私身躰似相申程之可被成御扶助候、今之姿候者、折々被加御慈教、於其上茂、致自由候者、可被任 御心候、涯分於心底者、可抽忠孝存候、若於此旨偽申者、
梵天、帝釋、四大天王、日本國中大神祇、殊者 嚴嶋兩大明神、氏神御罸可罷蒙候、此由可有御披露候、恐惶謹言、
天正廿年卯月十三日 秀元(花押)
(切封ウハ書)
隆景樣
安國寺
(引用:東京大学史料編纂所『毛利家文書之三 1035 毛利秀元起請文』1997年覆刻 東京大学出版会)
大意は、”
私(毛利秀元)の立場に関して、
太閤様より、ありがたくもお話があり、(毛利輝元に)実子が生まれた時には、(養子に立てていた)秀元には相応の扶持を与えるべし、今の立場のまま保護されて、その上は、太閤様に心より懸命に仕え、忠義を尽くす事、
もしこれに反する時は、梵天・帝釈天・四大天王・日本国中の神社、特に安芸の厳島大明神・氏神様の罰を受けます。このため、この事を御披露申し上げます。
天正20年(1592年)4月13日 毛利秀元(花押)
(封書上書きの宛先)
小早川隆景殿
安国寺恵瓊殿
”位の意味です。
とあり、3月に攻撃命令を出した『唐入り(朝鮮侵攻)』に、自身も大坂を出陣した豊臣秀吉が、天正20年4月11日に、毛利の本拠地安芸の広島へ到着し、宿舎を新築してまで迎えに出た毛利輝元に、後継者がいないために叔父の毛利元淸の次男秀元を養子に迎えて後継者とする件の承諾がありました。
しかし、養子承諾の条件として、もしこの後に輝元に嫡男が出来た場合でもその子を後継者と認めるとともに、今養子としている秀元にも後継者としてふさわしい領地を与えて遇することを申し渡します。
そして秀元は、不安定な自身の立場を強化する為に早速前述の書面をもって、自分は豊臣公儀に認められた立場であることと、それにふさわしい領地の保有が保証された旨を、毛利家内に公言したわけです。
果して輝元には、文禄4年(1595年)10月に嫡男秀就(ひでなり)が生れ、天正20年に秀吉に裁定された通り輝元は、養子にしていた秀元には領地を分け与える必要が生じ、さらに慶長2年(1597年)6月12日に重鎮小早川隆景が死去し、隆景にも嫡男がいなかったため、この遺領も分割する必要が生じてしまいます。
これは、秀吉にとって信頼出来る大事な僚友であった小早川隆景亡き後、器量を評価していない毛利家の現当主輝元にそのまま大領地を与えておく事の危険性から、毛利家の実質的な分割を図ろうと意図し、養子秀元に独立大名並みの領地を持たせて、輝元の力を削ごうとした秀吉の巧妙な政策でした。
そこへ、慶長3年(1598年)8月19日に豊臣秀吉が死去します。つまり毛利輝元にとって、権力を取り戻す千載一遇のチャンスが巡って来たわけです。
輝元は、自分の相続した権力を大きく削ごうとする『天正20年の秀吉裁定』を無いものとするため、秀吉が死去すると間髪入れずに、豊臣政権の実質的な後継者に指名されている徳川家康に対して強く反感を持ちながらも、なお政権の中枢で力を持つ石田三成ら奉行たちへの、積極的接近を図り始めます。
太閤様御他界以後、秀頼様へ吾等事無二ニ可致御奉公覺悟候、自然世上爲何動乱之儀候江共秀頼様御取立之衆とハ胸を合、表裏無別心可遂馳走候、太閤様被 仰置候辻、自今以後不可有忘却候、各半、於于時惡やう尓申成候共、無隔心、互ニ申あらハし、幾重も半よきやう尓可申合候、若於此旨偽者、
「石田三成ノ加筆」
もし今度被成 御定候五人之奉行之内、何も 秀頼様へ逆心ニハあら須候共、心心ニ候て、増右、石治、徳善、長大と心ちかい申やからあらハ、於吾等者、右四人衆と申談、秀頼様へ御奉公之事、安藝中納言 輝元
慶長三年八月廿八日
増右
石治
長大
徳善
(引用:東京大学史料編纂所『毛利家文書之三 962 毛利輝元起請文前書案 起請文前書之事 247頁』1997年覆刻 東京大学出版会)
大意は、”
太閤様が亡くなられた後、私(毛利輝元)は秀頼様へ無二のご奉仕を致す覚悟です。世の中がどんな動乱となりましょうとも、秀頼様に取り立てられた者達(奉行達)と胸を合わせて表裏無く働き申し、太閤様の御遺言すべてを以後も忘れることなく、時として諍いがあっても、隔たりなく心を開き合い、仲良くして行きます。もしこれを偽れば・・・
(「石田三成による加筆」との注あり)
もし太閤様のお決めになった五大老の内、秀頼様への謀叛を企てていないにしても、増田長盛(ました ながもり)・石田三成(いしだ みつなり)・前田玄以(まえだ げんい)・長束正家(なつか まさいえ)の四奉行に同調しない者が出て来たら、私(毛利輝元)は、四奉行にお味方して秀頼様へ御奉公を致します。
慶長3年(1598年)8月28日 毛利輝元
増田長盛(殿)
石田三成(殿)
長束正家(殿)
前田玄以(殿)
”位の意味です。
とあり、前半の起請文は、上席の大老である徳川家康と前田利家に対して提出したものの案文(下書き)のようですが、問題は、原文では前半の案文の行間に加筆されている、後半の後日毛利家の者が「石田三成ノ加筆」と注記された案文の部分です。
秀吉が死去して10日も経たない内に、毛利輝元は豊臣政権の政策実務の実権を握っている四奉行に対して、積極的に誼(よしみ)を通じようとしている輝元の姿勢がはっきり出ています。これは明らかに、『天正20年の秀吉裁定(輝元が支配している領地を元養子の毛利輝元に分割する命令)』を反故にしようとする働きかけを始めたと考えられます。
石田三成ら四奉行を利用して、『秀吉裁定』を自分に有利なように持って行こうとし、そんな動きが四奉行にも利用され、反徳川軍(西軍)の決起に繋がって行くことになります。

(画像引用:広島城ACphoto)
毛利輝元は、反徳川西軍挙兵に乗じ四国・九州に乱入し領土拡大を目指した!ホント?
阿波占領
阿波國猪山城山上山下之外、陣取不可有之候、若亂妨狼藉之族於有之者、速ニ可被加御成敗物也、仍下知如件
慶長五年七月廿九日
長束大蔵 判
増田右衛門 判
徳善院 判
輝元 御判
佐波越後守殿
(引用:『萩藩閥閲録 第二巻 巻71 佐波庄三郎の条の20 638頁』1968年 山口県文書館 編集発行)
大意は、”
阿波国の(蜂須賀家の居城)渭山城(いさんじょう)の城と城下町以外の占領はしてはならない。もし乱暴狼藉をするものがあれば、速やかに成敗せよ。
慶長5年(1600年)7月29日 長束正家 判
増田長盛 判
前田玄以 判
輝元 御判
佐波広忠殿
”位の意味です。
更に、、、
定
一 於先様諸事兩三人談合候而、外聞可然様調肝要候、自然そもそもニ候てハ曲あるへからさる事
一 喧嘩一むすひ之事
付、地下人と於申分者、彼家中衆申談之、有躰ニあるへき事
一 狼藉停止之事
以上
七月廿九日 輝元公 御黑印
佐波越後守殿
村上掃部頭殿
村上三郎兵衛殿
(引用:『萩藩閥閲録 第二巻 巻71 佐波庄三郎の条の19 638頁』1968年 山口県文書館 編集発行)
大意は、”
定
一、占領先の諸事に関しては、三名で打合せをして世評上問題のないようにすることが大事である。当然悪事・不正はあってはならない。
一、住人との諍い事・訴訟事については、在国の蜂須賀家中の者とよく相談して、問題なく処理する事。
一、毛利家中の者による乱暴狼藉は禁止
以上
慶長5年(1600年)7月29日 輝元公 御黑印
佐波広忠(さは ひろただ)殿
村上元吉(むらかみ もとよし)殿
村上景親(むらかみ かげちか)殿
”位の意味です。
毛利輝元から、武力侵攻した後の占領政策まで指示が出されており、この時期毛利軍によって阿波国(蜂須賀領)が占領されていたことが分かります。
輝元の書状の宛先に、能島村上水軍の長が名を連ねていることから、毛利水軍による電撃作戦の上陸侵攻であったようです。
伊予侵攻
「毛利の両川」のひとりで、毛利家の大黒柱にして輝元の叔父であった小早川隆景が、伊予一国を豊臣秀吉から天正13年に与えられたものの、天正15年(1587年)の「九州征伐」後に、秀吉の『唐入り』前進基地の九州へ転封となり、それ以来伊予の領地奪還は毛利家にとって念願となっていました。
伊予で東軍に与したのは、南予の松前(まさき)城主加藤嘉明(かとう よしあき)と、板島城主藤堂高虎(とうどう たかとら)でした。
輝元は、小早川時代の配下であった喜多郡の国人領主曽根景房(そね かげふさ)を使い加藤嘉明・藤堂高虎領に在国している国人領主たちへの調略を開始します。
雖未申通候令啓候、其表之様子爲可承合、曾禰孫左衛門尉被差渡候、先年公廣中國御入魂之好、旁以此時候条、萬事御馳走干要候、委細孫左口上可被申候、恐々謹言
八月十八日
堅田兵部少輔元慶 判
毛利大蔵太輔元康 判
久枝又左衛門殿 御宿所
(引用:『萩藩閥閲録 第三巻 巻91 曾禰三郎右衛門の条の5 2頁』1970年 山口県文書館 編集発行)
大意は、”
初めてご連絡申し上げます。伊予の情勢ご相談したく、(お仲間の)曾根景房(そね かげふさ)を伺わせます。旧主西園寺公広(さいおんじ きんひろ)公にお仕えした関係もあり、その時のようにいろいろとお働きをお願いしたく、詳しくは曾根孫左が口頭でご説明いたします。
(慶長5年)8月18日
堅田元慶(かただ もとよし)判
毛利元康(もうり もとやす)判
久枝又左衛門殿 御家中
”位の意味です。
とあり、毛利輝元が、伊予の国人領主仲間の曾根景房を使い、元西園寺氏の家臣であった久枝氏に対して、武装蜂起を要請している様子が分かります。
次いで、、、
急度申遣候、藤 佐領分之儀、留守居操之道在之儀候条動之儀今少可差延、やかて趣可申下候、加藤佐馬領之儀ハ成次第、涯分可令發向候、仍津城之儀一昨日廿四日切崩之由候、美濃表之儀敵罷出候、大河を越深入候、幸候間此度不殘討果、調儀申付候条勝手案中候、可心安候、追々吉事可申聞候、其面之儀丈夫可申付候、不可有緩候
かしく
八月廿七日 輝元公 御判
村 大和
宍 善左
村 掃
曾 孫左
(引用:『萩藩閥閲録 第三巻 巻91 曾禰三郎右衛門の条の3 1頁』1970年 山口県文書館 編集発行)
大意は、”
たしかに申し付ける。藤堂高虎領については、留守居役への調略の方策があるので、兵を動かすのはもう少し待つこと、すぐにでも方針は下す。加藤嘉明領に関しては、準備整い次第全力で出陣すること。伊勢の安濃津城は、一昨日7月24日に落城した。美濃方面については、敵が木曽川を越えて深く侵入して来たが、幸いにもこの度は全滅させた。計画して命じていた事は予定通り進んでいるので、安心すること。追々良い知らせを聞かせよう。そちらの方面もしっかりやり、油断のないように。
(慶長5年)8月27日 輝元公 御判
村上武吉
宍戸元真
村上元吉
曽根景房
”位の意味です。
とあり、毛利輝元の伊予侵略は、曾根景房を使って調略に当たらせた結果、伊予の藤堂高虎領に関しては、手ごたえがあったらしく調略で進める方針で、加藤嘉明領に関しては、調略の可能性がなかったようで、準備が出来次第、即軍事侵略を開始するように命じています。
九州侵攻
九州に関しては、東軍側に付くことがはっきりしている、豊後の細川忠興の留守居役松井康之、筑前の黒田如水、肥後の加藤清正が西軍のターゲットとなりました。
毛利輝元は、秀吉の『唐入り』以後取り潰しの状況に置かれている、元豊後の戦国大名大友宗麟の息子吉統(よしむね)に「お家再興」をエサに九州攻めをやらせる事として、大坂を出発させます。
如ゟ人ヲ差下由候条、致言上候、
・・・(前略)・・・、
一、大伴よしむねへ当郡之義奉行衆ゟ進之、中国まて被下候由候、うすき・府内・熊谷城・垣見城四ケ所之内へ被着、当郡へ之行可仕と存候、在々人質、弥、丈夫ニ相〆申候、誰々何程にて參候共、堅固ニ相抱可申候条、被成御氣遣ましく候事、
・・・(中略)・・・、
一、主計殿、追々人を被下、御懇共ニ候、兵粮、府内ニて御かり候て、弐百石計被入候、玉薬五千放被下候、何程成共申次第、可被指籠旨候、御念入候段、書中ニ不被申上候事、
一、田邊之義、御堅固之由候間、珎重ニ奉存候事、
一、加主御女中盗出、一昨日廿六中津下着、昨日隈もとへ御送之由、如ゟ申来候、珎重無申計候事、
・・・(中略)・・・、
一、毛壱、去十八日罷下、隈本へ被越旨候、輝元奉行衆ゟ〇使として被下由候、今度伏見ニて森九左衛門・同勘左衛門・其外数多討死候、家中よハり無正躰旨候、如ハ人数被集、何れへ成共働構にて候条、小倉、不成大方、氣遣之旨候、然者、主計殿大坂へ之御返事も、使者ニて被申登、主ハ上洛あるましきと存候、もじの城拵申之由候、此れも毛壱被相抱義不罷成、輝元人数可被入やうに申候事、
・・・(中略)・・・、
八月廿八日 各
加ゝ山少右衛門殿
牧 新五殿
(引用:『松井文庫所蔵古文書調査報告書 三 445 松井康之之列書状案』1998年 八代市博物館未来の森ミュージアム編集・発行)
大意は、”
黒田如水が、応援の兵を出してくれたそうですのでご報告致します。
・・・(前略)・・・、
一、大友義統(おおとも よしむね)は、当国(豊前)への進軍を(大坂の)奉行衆より命じられて、(すでに)中国(毛利領)まで下向して来ていて、臼杵・府内(現大分市)・熊谷氏の城(安岐城)・垣見氏の城(富来城)の四ケ所へ上陸し、その後当領国の豊前杵築へ進軍する方針と思われます。領内の有力者の人質を取って置き、万全の準備をし、誰がどのように攻めて来ても、しっかり防衛するので、心配なされませんように。
・・・(中略)・・・、
一、加藤清正殿は、すぐに応援を出すと好意的です。その兵粮を府内で苅田をして、二百石ばかり手に入れ、火薬も五千発分いただき、どんなことになりましても、十分に籠城の準備出来ています。
一、(幽齋さまの)丹後田邊城は、防備が堅固とのことで、上々の事とお喜び申し上げます。
一、(大坂の)加藤清正さまのご家族は脱出に成功し、一昨日7月26日に豊前中津に到着し、昨日熊本の清正さまの下へ送ったと黒田如水から連絡があり、めでたい事です。
・・・(中略)・・・、
一、(小倉の西軍)毛利勝信(もうり かつのぶ)は、去る7月18日に熊本へ下り、毛利輝元と奉行衆の「加藤清正殿への使者」として出かけたようです。しかし、今度の伏見城攻めで家老の森九左衛門・同勘左衛門・その他多数が討死しており、家中は大混乱で、如水は兵力を集め、応戦する構えですが、小倉はおそらく心配ないでしょう。と言う事で、清正公への西軍への出陣要請の使者は来ていますが、清正公の西軍参陣はないでしょう。門司の城も作ると言ってますが、毛利勝信は身動きが取れず、結局輝元に出兵招請をすることになるでしょう。
・・・(中略)・・・、
(慶長5年)8月28日 松井康之ほか10名
加々山荘右衛門殿
牧 新五殿
”位の意味です。
とあり、豊前木付(杵築)城で籠城準備をしている細川家城代家老松井康之(まつい やすゆき)が、東軍に参戦して関東にいる主君細川忠興(ほそかわ ただおき)宛てに出した、敵西軍の九州での戦況報告の案文となっています。
九州での毛利輝元の侵略戦争は、天正年間まで豊後で力を振るっていた大友宗麟(おおとも そうりん)の息子で、朝鮮役後は不遇を託(かこ)つていた大友義統(おおとも よしむね)を担ぎ出して、九州侵略軍の大将に据えて戦闘開始している様子が判明します。
『関ケ原の戦い』で毛利輝元と吉川広家は、徳川家康の命を受けた黒田長政の調略に応じていた?
吉川広家(きっかわ ひろいえ)の、この事態を丸く収めようとする状況づくりの奮闘は、前述冒頭の「慶長5年7月14日付の広家の家康への書状」にある”輝元は何も知らず、安国寺恵瓊の独断により反徳川決起に騙されて乗っただけだ。”から始まりました。
一、對輝元、聊以内府御如在有間敷候事、
一、御兩人別而被對内府御忠節上者、以來内府御如在被存間敷候事、
一、御忠節相究候者、内府直之墨付、輝元へ取候而可進之候事、付、御分國之事、不及申、如只今相違有間敷候事、
右之三ヶ条、两人請取申事、若偽於申者、忝も
・・・(起請文言略)・・・、
慶長五年九月十四日
本多中務太輔忠勝(花押 血判)
井伊兵部少輔直政(花押 血判)
吉川侍従 殿
福原式部少輔 殿
(引用:東京大学史料編纂所『吉川家文書之三 1020 井伊直政本多忠勝連署起請文 296~297頁』1997年覆刻 東京大學出版會)
大意は、”
一、毛利輝元に対して、少しも内府(徳川家康)は疎略に思ってはおられません。
一、御両人も内府に叛意なく忠節を尽くして頂くならば、以後内府は疎略に思わないでしょう。
一、(内府への)御忠節が明らかになれば、内府は直筆を以て輝元へ書状を差し上げるでしょう。付いては、領国の事は言うに及ばず、今のまま変わりありません。”位の意味です。
右の三ヶ条、両人受け取って、もし偽りを言うのであれば、
・・・(起請文言略)・・・、
慶長5年9月14日
本多忠勝 (花押 血判)
井伊直政 (花押 血判)
吉川広家 殿
福原広俊 殿
”位の意味です。
とあり、吉川広家の事前交渉の結果、ここ『関ケ原の戦い』の前日に、「徳川家康が毛利輝元に対して身分保証・領国安堵も誓約」して、徳川家と毛利家の和睦の裏交渉が実質成立の方向を見せています。
そして、すでに『関ケ原の戦い』が終わっている9月19日付で、回答をした毛利輝元の書状案が毛利家に残っています。
御札拝見候、於今度先手、吉川、福原以下得御意候處、以御肝煎、内府公別而御懇意之段、忝候、殊分國中不可有相違之通、預御誓帋、安堵此事候、増右、徳善申談候条、一具御取成肝要候、猶两人可得御意候、恐々、
九月十九日 (輝元)
羽左太
黑甲
(引用:東京大学史料編纂所『毛利家文書之三 1023 毛利輝元書状案 300頁』1997年覆刻 東京大學出版會)
大意は、”
書状を拝見いたしました。先般お邪魔致しました吉川広家と福原広俊に接見していただき、友好的にしていただき忝く(かたじけなく)存じます。特に、領地の事、従来通りとの誓紙をお預りし安堵しています。尚、奉行の増田長盛、前田玄以を交渉係といたしますので、ご了承いただけますでしょうか。
(慶長5年)9月19日 (輝元)
福島正則(ふくしま まさのり)
黒田長政(くろだ ながまさ)
”位の意味です。
とあり、この後、家康からの大坂城の受け渡し要請にも同意して、輝元は大坂城西の丸から退去して行きます。
吉川広家の主君思いの必死の和睦交渉が上手く行ったと思われる流れとなっています、、、ところがこの時、京の大物の公家で元関白の近衛前久(このえ さきひさ)が、現地で聞き込んだ交渉の真相を暴露しています。
・・・(前略)・・・、
一、キズ川ハ輝元被取候。知行分悉給置候者家康へ味方ニ可參候トノ 噯 ニテ候へドモソレハ余之□之由候テ、半分ノ契約ニテ、一味申候トノ事候。安国寺ハ乗物ニテノキ候ヲ、キズ川者共追懸候へ共、行方シラス見失候。生捕之沙汰不承候。但其行末不存候ト申候。
・・・(中略)・・・、
九月廿日 東入
(引用:藤井治左衛門編著『関ケ原合戦史料集 関ケ原合戦史料 六 九月二十日の条 450頁』1979年 新人物往来社)
大意は、”
・・・(前略)・・・、
一、吉川広家(きっかわ ひろいえ)は、毛利輝元が知行している領地のすべてを貰えるならば、徳川家康に味方すると言う「噯(あつかいー事前折衝)」を行ったけれども、それでは余りにも多すぎると言う事で、その半分で契約をして家康の味方をすることになった。安国寺恵瓊は関ケ原の戦場から乗り物に乗って逃れ、吉川広家の家臣が追い掛けたが行方を見失い。その後生け捕ったとの情報もなく、行く末も分からない。
・・・(中略)・・・、
(慶長5年)9月20日 東山入道(近衛前久)
”位の意味です。
この史料は、京都市右京区にある近衛家の『陽明文庫』に所蔵されている前久書状「九月二十日 近衛信尹宛近衛前久書状」の原本から『関ケ原合戦史料集』に所収されたものとされていますが、『関ケ原の戦い』直後の現場の空気が伝わって来るような生々しさがあり、後年の「吉川広家が毛利家を救った美談」とは、かなり違うニュアンスが見て取れます。
吉川広家の東軍への内通の事実があからさまとなっており、史実の見極めの難しさを教えてくれているようです。逆に徳川家康は調略に(実質「空手形」となる)破格の条件を出して、寝返りを誘っていたことも窺わせます。
後に、吉川広家は「毛利家の存続の為に家康と和睦交渉を行った」などとして自分の行為を正当化していますが、実際のところは、この「前久状」にあるような内容が真相だったのかもしれません。
『関ヶ原の戦い』の時、なぜ毛利輝元は大坂城で籠城しなかったの?
徳川家康は、大坂城の戦略的価値を重要視しており、『関ケ原の戦い』終了後、西軍の毛利輝元が豊臣秀頼を抱え込んだまま、大坂城で籠城された場合のリスクを避けるため、前章にあったように合戦前日の9月14日から、輝元を大坂城西の丸から追い出す工作を開始しました。
そして、、、『関ケ原の戦い』後の9月17日に輝元本人宛に和睦を提案して行きます。
態申入候、今度奉行共逆心之相構付而、内府公濃州表御出馬付て、吉川殿・福原殿、輝元御家御大切ニ被存付、两人迄御内存、則内府公へ申上候處、對輝元少茂無如在之儀候間、於御忠節ハ、彌是以後茂可被仰談之旨、两人ゟ可申入之御意候、委曲福原口上ニ申含候間、可被申上候、恐惶謹言
九月十七日
黒田甲斐守長政(花押)
羽柴左衛門大夫正則(花押)
輝元樣
人々 御中
(引用:中村孝也『徳川家康文書の研究 中巻 713頁 福島正則・黒田長政より毛利輝元に遣れる書状』1959年 日本學術振興會)
大意は、”
わざわざ申し入れします。この度奉行達が謀反を企み合戦に及んだ件につき、家康公が美濃関ケ原まで出陣いたしました。吉川殿・福原殿は毛利家を大切に思われ、ご両名の一存で参戦されたと家康公へ申されています。家康公は輝元殿に対して少しも敵視していないので、忠節において、これ以後も尽くされるよう申され、両人からも輝元殿に話をするとのことで、家康公は了承されています。詳しくは福原殿からあると思います。
9月17日
黒田長政(花押)
福島正則(花押)
輝元殿
御家中 御中
”位の意味です。
これに対して、前章の9月19日の返事があり、和睦交渉が始まり、次に、、、
一 於今度先手、我等心底之通、吉川侍従、福原式部少輔得御意候處、以御取成、被遂御分別、忝存候事、
一 我等分國、無相違被思召分之通、誠令安堵候事、
一 於此上者、西丸之儀渡可申候、已來奉對 内府様、聊不存如在、表裏別心不可有候事、
右於偽申者、
九月廿二日 輝元(花押)
井伊侍従殿
本多中務殿
(引用:東京大学史料編纂所『毛利家文書之三 1024 毛利輝元起請文前書案 301頁』1997年覆刻 東京大學出版會)
大意は、”
一、この度先行交渉において、私の気持ちの通り、吉川広家・福原広俊と面談頂き、その話にご理解をいただけ、大変ありがたく存じます。
一、私の領国に関して、こちらの考えと相違なく、まことに安堵いたしました。
一、こうなりましたら、大坂城西の丸はお渡しいたします。以後家康様に対して、すこしも逆らうことなく、謀意も抱かないよう致します。
右の事に偽りあらば、
(慶長5年)9月22日 輝元(花押)
井伊直政殿
本多忠勝殿
”位の意味です。
とあり、毛利輝元は、ここに至って、家康に対して「大坂城西の丸明け渡し」の約束をしています。
徳川家康の先読みの勝利と言えそうな結果でした。
そして最初から、徳川家康は約束など守る気はなかったと考えられることから、「戦国時代の一代たたき上げの武将」と、「大名三代目で、欲は深いが決断力に欠けるボンボン」との、いざと言う時の貫禄の差が出たと言う感じでしょうか。
まとめ
慶長5年(1600年)9月15日の『天下分け目の関ケ原の戦い』で、徳川家康率いる「東軍」が勝利したのは、「西軍」小早川秀秋(こばやかわ ひであき)の裏切りと毛利の大軍団が戦場近くの南宮山に着陣しながら、実際の戦闘に参戦しなかったからだとも見られています。
「西軍」総大将の毛利輝元(もうり てるもと)は戦場の関ケ原には行かず、戦場から遠い大坂城で指揮を執っており、最前線関ケ原の桃配山で本陣を構えた徳川家康(とくがわ いえやす)と大きな違いをみせました。
通説によれば長い間、毛利輝元は石田三成(いしだ みつなり)と安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)に騙されて大坂に呼び出され、やむを得ず西軍に参加して、総大将に祭り上げられた凡庸な人物で、むしろ被害者だったとされて来ました。
近年の研究で、『関ケ原の戦い』でのそんな毛利輝元のイメージが大きく変わろうとしています。
前述しましたように当時、毛利家当主の毛利輝元は「元養子の毛利秀元への知行分配問題」と「死去した叔父小早川隆景の知行分配問題」を抱えていました。特に「秀元問題」は、「豊臣秀吉の裁定」が絡んでおり、秀吉の決めた通り実行すれば、大きく毛利宗家の力が大きく削がれると言う難問でした。
そこで、慶長3年(1598年)8月19日の「豊臣秀吉死去」を好機と捉えて、「秀吉裁定」を反故(ほご)にする事を企画して、政権の実権を握る三成らへ急速に近づき、更に、彼ら奉行の「徳川家康弾劾工作」に乗って、秀吉の出した「惣無事令」を無視し、石田三成らの反徳川軍(西軍)決起と同時に毛利家全軍を使って、瀬戸内一帯の東軍参加武将の領地へ軍事侵略を開始しています。
輝元はそんな事を考え、正統性の証(あかし)となる大事な玉の「豊臣秀頼」を抱えて、瀬戸内一帯の軍事作戦の指揮を執っていたのですから、関ケ原へなんぞ出掛けている暇はなかったわけです。
石田三成ら豊臣政権の奉行衆が決起した西軍と、徳川家康との戦いである『関ケ原の戦い』の勃発は、領地拡大をする最大の好機と、毛利輝元は捉えたのではないでしょうか。
奉行衆から大坂への上坂要請が到着するなり、大軍を率いて即船で出発し、あっと言う間に大坂城へ入城したのは、そんな事情が背後にあったと考えられます。
おそらく毛利輝元は、思惑どおり西軍勝利の場合、占領地はすべて毛利家の自領へ組み込むつもりだったと思われますが、結果は東軍が勝利し、しかも和睦交渉過程で、徳川家康にしてやられて「簡単に大坂城を明け渡すと言う大失策」を犯して、全占領地と合戦前の146万石あった知行地を失い、防長二ヵ国の37万石余へ大削減されてしまいました。
一 周防長門両国進置候事
一 御父子身命異議有間敷事
一 虚説等在之付ては可遂糺明事
右条々若於偽者
・・・(中略)・・・、
慶長五年十月五日 家康(花押)
安芸中納言殿
毛利藤七郎殿
(引用:藤井治左衛門編著『関ケ原合戦史料集 510頁 関ケ原合戦史料 七』1979年 新人物往来社)
大意は、”
一、周防・長門の両国を進呈する。
一、毛利父子の助命には異議はない。
一、もし間違いがある場合には、糺す事とする。
右の条文にもし偽りが有れば、
・・・(中略)・・・、
慶長5年(1600年)10月5日 家康(花押)
毛利輝元(もうり てるもと)殿
毛利秀就(もうり ひでなり)殿
”位の意味です。
毛利輝元は、クーデターの首謀者として、京都六条河原で斬首されなかっただけでも儲けものなのかもしれません。しかも、「輝元は安国寺らに騙されて乗せられ、西軍大将に祭り上げられただけだ」などと言う嘘話まで家康に了承してもらい、その後の通説にまでしてもらったのですから、恨む筋合いはないのかもしれません。
ところがこの徳川家は、それから260年も経った幕末に、なんと毛利家(長州)に政権をひっくり返されるのですから、歴史とはわからないものです。