豊臣秀吉と明智光秀は、織田家中で本当にライバルだったの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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豊臣秀吉の出自が分かります。

明智光秀の出自の見当がつきます。

豊臣秀吉明智光秀が活躍し始めた頃、どちらの身分が高かったのか分かります。

豊臣秀吉明智光秀のどちらが先に『城持ち大名』になったのか分かります。

豊臣秀吉の出自は?

通説では、尾張国愛知郡中々村の貧しい農民出身と言われ、記録によると、、、

一、父ハ木下彌右衛門ト云中々村ノ人 信長公ノ親父信秀(織田備後守)鐡炮足輕也 爰カシコニテ働アリ就夫手ヲ負五體不叶 中々村へ引込百姓ト成 太閤ト瑞龍院ヲ子ニ持チ 其後秀吉八歳ノ時父彌右衛門死去

一、秀吉母モ同國ゴキソ村ト云所ニ生レテ木下彌右衛門所へ嫁シ秀吉ト瑞龍院トヲ持 木下彌右衛門死去之ノチ後家ト成テ二人ノ子ヲハグゝミ中々村ニ居ル

一、信秀織田備後守家ニ竹阿彌ト云同朋アリ中々村ノ生レノ者ナリ 病氣故中々村ニ引込ム所ノ者 是幸ニ木下彌右衛門後家秀吉母ノ方へ入ル、其後男子一人女子一人秀吉ト種替リノ子ヲ持ツ兄男子秀利 幼名小竹後羽柴美濃守後大和大納言・・・

(引用:『太閤素生記』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”一、豊臣秀吉の父は、木下彌右衛門(きのした やえもん)と云い、織田信長の父信秀の鉄炮足軽をしていたが、合戦で手傷を負って体が不自由となり、中々村に引っ込んでいて、トモと秀吉を子に持ったが、その後秀吉8歳の時に彌右衛門は死んだ。

一、秀吉の母ナカも同じ尾張国の御器所村に生まれ、木下彌右衛門と結婚してトモと秀吉を生み、彌右衛門の死後は後家として二人の子を育て中々村に居た。

一、信長の父織田備後守信秀の同朋衆に竹阿彌(ちくあみ)と言う中々村出身の者がいて、病気で中々村引っ込んだところ、これ幸いと木下彌右衛門の後家であった秀吉の母の所へ入り込んだ。その後男子1人女子1人を持ってその兄を幼名小竹後の豊臣大和大納言秀長(とよとみ ひでなが)である”と言う意味です。

とあるように、通説では豊臣秀吉は、尾張国中村の織田信長の父信秀の元足軽であった父を持つ貧しい農民の出身となっています。

また別の史料では、、、

太閤御親父ハ尾州ハサマ村ノ生レ竹アミト申テ 信長公ノ同朋ナリ 太閤ハ申ノ年六月十五日淸須ミスノ、ゴウ戸ト申所ニテ出生シ玉フ・・・

(引用:『祖父物語』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”豊臣秀吉の父は、尾州ハサマ村の出身で竹阿彌と言って、織田信長公の同朋衆である。秀吉は申年6月15日に清須城下御園のゴウ戸と云う所で生まれた。”と言う意味です。

中世史研究者の服部英雄氏によれば、清須御園とは、清洲にある御園神明社の周辺を指し、こうした場所は定期市が立つ所で、ゴウトは船着き場を示す地名なので、清須城下の定期市の立つ御園の船着き場辺りということになりそうです。

つまり、秀吉は職人か所謂連雀商人(れんじゃくしょうにん)の子であった可能性があり、農民ではなく都市住民の生れだったと考えられると云います。

また姉のトモは、ツナサシ彌助と云う者に嫁いでおり、ツナサシとは鷹匠の配下で織田家の御狩場で鷹の世話・給餌・鷹場の管理などをする非人階級の男を言うので、この姉の嫁ぎ先から想定されるのは、身分のつり合いから言って、弟の秀吉もこの非人(河原者・乞食)階級の出身である事を示しているとしています。

これに関して、豊臣秀吉の軍師だった竹中半兵衛の息子である竹中重門(たけなか しげかど)が記した『豐鑑(ほうかん)』では、、、

羽柴筑前守豊臣秀吉。天文六年丁酉に生れ。後には關白になり昇給ふは。尾張國愛智郡中村とかやとて。熱田の宮よりは五十町計乾にて。萱葺の民の屋わづか五六十ばかりやあらん。郷のあやしの子なれば。父母の名もたれかは志らむ。一族なども志かなり。

(引用:竹中重門『豐鑑 巻一』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”豊臣秀吉は天文6年に生まれ、後には関白になり出世した。尾張国愛知郡中村と言う所で、熱田神宮から北西5キロ半ほど行った所の萱ぶき屋根の家が50~60軒ほどの乞食村で生まれた子で、父母の名も分からないし、親戚も同様だ。”位の意味です。

父竹中半兵衛は豊臣秀吉を熟知している人物で、その子重門の記述ですので、かなり信頼度の高いものかと思われます。

また、後年中国攻めの折から秀吉と緊密になった毛利家の外交僧安国寺恵瓊は、毛利家への書面の中で”羽柴は今こそはやされているが、若い時は小者だった、乞食もしていた”と述べているようです。

連雀商人(れんじゃくしょうにんー行商人)の家ではないかと言われている秀吉の妻ねねの実家杉原氏ですが、そのねねの母朝日がねねと秀吉の結婚に秀吉の生まれの悪さ故に反対していたと言う話もあり、豊臣秀吉の出自は”行商人階級以下”だと言う話の可能性もあるようです。

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明智光秀の出自は?

通説(『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』)によれば、、、

・・・明智光繼は、子息數多くあり。嫡子十兵衛尉光綱、後に遠江守といふ。日向守光秀の父也。二男、兵庫助光安入道宗寂といふ。左馬助光春の父なり。次は女子。・・・

明智家は東美濃随一の名家にして、一族數多くありて、殊に光繼の子息、皆以て知勇兼備の者共なれば、・・・

當國の風義を見るに、他國におしなぶるに、尤も宜しき國といへり。然るに土岐一族明智日向守光秀、弘治二年の秋當國を出でて、其翌年より六ヶ年の間、國々を遍歴して、其後織田信長公に仕へ、十五年の内に、六十八萬石を領す。尤も智謀軍慮を兼ね備へたる徳なり。

(引用:『美濃國諸舊記 41頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”明智光継(あけち みつつぐ)は息子が沢山いて、嫡男十兵衛尉光綱(じゅうべえみつつな)は、後に遠江守と云い明智光秀の父である。二男は兵庫助光安入道宗寂(ひょうごのすけみつやす)と云い、左馬助光春(さまのすけみつはる)の父である。次は女子・・・

明智家は東美濃随一の名家であり、一族の数も多く、特に光継の息子たちは知勇兼備の者たちである。・・・

美濃の様子をみると、他国よりも良い国だと思うのだが、土岐一族の明智光秀は、弘治2年(1556年)の秋に国を出て、翌年より6年もの間、諸国を遍歴して、その後織田信長公へ仕官し、15年の内に68万石の領主になった。智謀戦略の才を備えているお陰である。”位の意味です。

ここで明智光秀が生まれた国を出た理由は、斎藤道三を討った息子義龍の軍に攻められて、道三側に付いた明智城が落城したためとされているようです。

明智光秀の出自が不明であることは、豊臣秀吉の出自といい勝負なのですが、次に、前述の通説以外に、もうひとつ面白い説があります。

次の『言継卿記』の中にキーになる問題の記述があります。。。

卅日、戊辰、天晴、

・・・

〇織田弾正忠信長申刻上洛、公卿奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎ニ被行、上下京地下人一町に五人宛、吉田迄迎に罷向、予、五辻歩行之間、一條京橋迄罷向、則被下馬、一町計同道、又被乘馬、則明智十兵衛尉所へ被付了、彼所迄罷向、次歸宅了、

四日、庚午、天晴、

・・・

〇申刻織田弾正忠信長上洛、四五騎にて、上下丗人計にて被上、遂遂終夜上云々、直に武家へ被參之間、予則參、於北都之様體御雜談申、驚耳者也、次明智十兵衛尉所へ被行了、

(引用:『言継卿記 永禄13年2月30日の条、同7月4日の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”永禄13年(1570年)2月30日、晴れ、織田信長が午後3時過ぎに上洛して来た。公家衆・幕府奉公衆は、大津・堅田・坂本・山中辺りまで出迎えに行き、上京・下京の地元有力者が1町に5人宛てくらい吉田辺りまで出迎えに出ていた。私は、五辻を歩いて一条京橋辺りまで出かけて行き、馬を降りて信長の行列に同道し、又乗馬して明智光秀の屋敷に着いて終わり、帰宅した。

元亀元年(1570年)7月4日、晴れ、午後3時過ぎに織田信長が上洛して来た。供回り4~5騎で、行列の前後30人ほどの家来を引き連れての上洛である。とうとう終夜に及んだのだが、到着後直ちに将軍の所へ行かれ、私も行った。京都の政治状況についての話であるが、驚くことばかりである。その後明智光秀の屋敷へ行かれた。”位の意味です。

ここで注目するのは、織田信長のこの年2度の上洛時の宿舎に”京都にある明智光秀邸”を選んでいる事です。この当時はホテル・旅館などありませんから、戦国武将らの大人数による宿泊は大伽藍の宿坊・本堂を使うしかなかったのです。ところが、織田信長の大人数の上洛団を宿泊させることの出来る大規模な屋敷として明智光秀邸を選んでいることです。

どうも、他の史料からもこの明智光秀の屋敷は、室町幕府の有力奉公衆の屋敷が立ち並ぶ二条界隈にあったようです。

つまり、第一級史料と言われる山科言継の『言継卿記(ときつぐきょうき)』に記載されているこの話は、通説の土岐一族の名族とは言え、直前まで牢人して貧困状態にあった人物とされている明智光秀では、実現不可能な事実が存在していた事を示しています。

織田信長に仕官した後の明智光秀が、室町幕府奉公衆を引きまとめて活躍する様子から、実像の光秀は細川藤孝級の幕府有力奉公衆であった可能性が高いと考えられます。

永禄11年に、織田信長が足利義昭を岐阜に迎え入れる際に、明智光秀が途中まで500名の配下を引き連れて義昭を出迎えに行き、信長の待つ岐阜まで警護して行ったことが記録にあり、明智光秀は、信長に仕える前に既に数万石の大名級の人物であったことが分かります。

明智光秀の初期の文書の中に、織田信長が、宛先に”明智十兵衛殿”と敬称をつけていることから、信長とほぼ同格と見なされる幕府奉公衆の大物であったことが確実とみられます。

ところが、織田信長の上洛以前の室町幕府奉公衆の中に”明智光秀”と称する人物は見当たらず奇怪な事となっています。

これらを解決する説として、有職故実・武家典範に詳しい家系である進士(しんじ)氏一族の出身で、永禄8年(1565年)5月19日の『永禄8年の政変』で将軍足利義輝を守って討死したと言われる”進士藤延(しんじ ふじのぶ)”と云う人物がおり、これが明智光秀なのではないかという説を中世史研究家の小林正信氏が提唱されています。

足利義輝の前の名前”義藤(よしふじ)”から偏諱(へんい)を与えられ”藤延”としているなど、室町幕府への忠誠度の高い人物としてイメージは、”明智光秀”とぴったり合い、年齢もほぼ合致します。

また、江戸期に作られたとされる『明智氏一族宮城家相系図書』に、明智光秀は進士信周(しんじ のぶちか)の次男となっており、享禄元年(1528年)8月17日石津郡多羅(現在の大垣市から養老町一体)生と記載されているようです。

古くからの側近の存在や家来500名とか、上洛する信長軍が宿泊できる京都に所有する広壮な屋敷の謎を、通説の”浪人していた名族とは言え田舎の東美濃明智城の息子”だけでは全く説明出来ず、やはりこの”明智光秀=進士藤延説”は、結構説得力があるのでないかと思われます。

しかしこの説は、後世に作られた系図を基にした単なる”こじつけ”の説とてんで相手にしない歴史研究者も多いようで、異説扱いされています。

中世史の大家高柳光寿氏も著書『明智光秀』の冒頭に”光秀の出自はどうもはっきりしない”と記載されて、信長上洛後から話を始められていますが、そんな専門家が大半である中、この説は一応の結論として見てもよいのではないでしょうか。


(画像引用:坂本城址公園明智光秀像ACphoto)

 

どちらが先に城持ち大名になったの?

豊臣秀吉が城持ち大名になったのは、周知のとおり有名な例の北近江の『長浜城です。

天正元年(1573年)8月28日に3年かかった、織田信長と北近江浅井氏との戦いが終わり、9月1日に旧浅井氏所領と小谷城が論功行賞として、豊臣秀吉に与えられました

一旦小谷城に入城した豊臣秀吉は、時代の流れを敏感に感じ取り、典型的な山城である小谷城を捨てて、水運の拠点として有利な琵琶湖のほとりにある今浜へ築城し直すことを決意し、主君織田信長の許可を得て今浜を”長浜”に改名し、翌天正2年に”長浜城”として完成させ、ここを拠点として豊臣秀吉は天正10年までの足掛け9年間、織田軍の重臣として活躍する事となります。

一方、明智光秀は、近江の『坂本城』が有名です。

これは、元亀2年(1571年)9月に歴史上有名な”比叡山延暦寺の焼き討ち”を実行していますが、織田信長はその論功行賞として明智光秀に近江志賀郡を与え、年末には光秀は坂本城の築城を開始し、翌年末には完成させたようです。

つまり、出世の早い豊臣秀吉よりも、2年ほど早く居城の築城しており、織田信長配下の武将としては、明智光秀が城持ち大名一番乗りとなったようです。

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織田信長の永禄11年(1568年)の上洛当時の、豊臣秀吉と明智光秀の身分差はどんなもの?

豊臣秀吉が、主君織田信長関係の第一級史料と言われる『信長公記(しんちょうこうき)』の記録に現れるのは、、、

十一日愛智川近辺に野陣をかけさせられ、信長懸けまはし、御覧じ、わき貼数ヶ所の御敵城へは、御手遣もなく、佐々木父子三人盾籠られ候観音寺、並びに箕作山へ

同十二日に、かけ上げさせられ、佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八に仰せ付けられ、箕作山の城攻めさせられ、申剋より夜に入り攻め落し訖んぬ、

(引用:太田牛一『信長公記 巻一 信長御入洛十余日の内に、五畿内隣国仰せ付けられ、征夷大将軍の備へらるヽの事の条』インターネット公開版)

大意は、”永禄11年(1568年)9月11日近江愛知川(えちがわ)近辺に野営し、信長公は馬で駆け回って状況を見、周辺の数ヶ所の出城には、兵を出さず、六角丞禎(ろっかく じょうてい)父子三人の立て籠もる観音寺(かんのんじ)城と箕作山(みつくりやま)城へ攻め上ることとした。

12日には、佐久間信盛(さくま のぶもり)・豊臣秀吉・丹羽長秀(にわ ながひで)・浅井政澄(あざい まさずみ)に命じて、観音寺城ではなくて、奥に位置する箕作山城を攻めさせ、午後4時頃に攻撃を開始し、夜には落城させた。”

とあり、ここでは、豊臣秀吉はこの上洛戦での初戦に起用されると言う重臣佐久間信盛などと同等の有力武将となっている事が分かります。

史料などで、確認出来る豊臣秀吉は、永禄8年に織田信長の”知行宛行状”に副状を出していることから、永禄8年には『奉行』職に列せられていることが分かりますが、3年後の永禄11年には”有力武将”にまで取り立てられていることが確認出来ます。

 

一方、明智光秀として初めて公式に存在が確認されるのは、、、

当所寺社領之事、如有来、無異義被仰付候、被得其意、可有全領知事尤候、然者、各被相談、急与罷出、御礼可被申上候、為其如此候、恐々謹言、

霜月十四日                     明智光秀 在判
村井貞勝 同

上賀茂惣御中

(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引 補遺13 山城上賀茂惣中宛村井貞勝・明智光秀連署状写』1994年 吉川弘文館)

大意は、”当寺社領の事、従来通り問題なく安堵されるので、朱印状が出る前に、急ぎ信長公のところへ出頭して、御礼を申し上げよ。

永禄11年(1568年)11月14日   明智光秀・村井貞勝

上賀茂惣中殿 ”位の意味です。

ここで、注目は、織田家吏寮で信長から京都所司代を命じられている村井貞勝と幕府の行政の代表として明智光秀が連署しており、これは織田信長の上洛後、室町幕府の行政組織がやっていた仕事の織田政府への引継ぎだと考えられることです。

つまり、明智光秀が、幕府の行政面を取り仕切る”奉行職”をやっていた室町幕府の有力役人であったことが分かります。

要するに、明智光秀は将軍足利義昭のバリバリの直臣であり、また形の上では織田信長も天皇の臣下となるため、信長の配下の武将たちは将軍の陪臣であることになります。

ということで、明智光秀は将軍の直臣の大物で、豊臣秀吉はただの陪臣に過ぎないことが判明します。

前述にあるように、京の御所近くに織田信長の宿舎に出来るほどの自宅の豪邸を有し、昔から従う側近と500人以上の配下を従える、細川藤孝と並ぶ室町幕府の高官だったのではないかと考えられます。

こうした事から、どうやら通説にあるように、明智光秀は”諸国を放浪した素浪人”などでは全くなく、やはりその正体は室町幕府の高級官僚であった可能性が高いのです。

その後、織田信長の勢力が拡大してゆくにつれて、力関係は大きく変わってゆきますが、この”織田信長が足利義昭を奉戴して上洛した”永禄11年(1568年)の秋時点では、明智光秀は豊臣秀吉など及ぶべくもない高い地位にあったのではないかと考えられます。

 

豊臣秀吉と明智光秀の政権構想の違いは?

明智光秀が織田信長に協力していた最大の目的は、将軍家の親族との噂のある細川藤孝と同様に、足利将軍の下に”室町幕府を再建すること”でした。

細川藤孝・明智光秀ら幕府奉公衆の最大の不幸は、暗殺された第13代将軍足利義輝の後継として苦労して担ぎ上げた足利義昭の器量が、あまりにもお粗末だったことでしょうか。

そのため、別の武家政権構想(幕藩体制)を抱く天下人織田信長の排除に、代替将軍(さすがに光秀も義昭ではなく別人を考えていたとも言われています)の目処がはっきりしない状況のまま動いた明智光秀に対して、武家政権を諦めて正親町帝の”王政復古”に、密かに協力する細川藤孝分裂していったようです。

一方豊臣秀吉は、こうした激動する政局の中、”王政復古=公家一統”を目指す正親町帝と、細川藤孝が描いたプランを密かに引き受け、大博打に打って出てそれを実行して行ったようです。

しかし、豊臣秀吉の描いていたものは、正親町帝の考えていた王政復古ではなく、ただ自身が”帝王”になるだけだったようで、忠実な片腕であった弟・豊臣秀長の死後は政策方針も迷走し、信長が口にしていた”唐入り”を実行する愚策を始めるに至りました。

この失政により豊臣政権は大きく弱体化することとなり、豊臣秀吉の死後に豊臣政権は、織田信長のめざした『幕藩体制』の構築を密かに目指していた徳川家康に、あっと言う間に政権を取られるハメに陥ったことは周知の歴史が語るとおりです。

 

まとめ

豊臣秀吉の出自に関しては、尾張国中村に住んだ事があるようですが、通説で言われているように身分が農民であったと言う話はほぼ嘘のようで、都市部に居住する下層民の出身だった可能性が高いようです。

この話は戦国武将の世界では有名だったらしく、たびたび他の武将が関係するその豊臣秀吉の出自の噂が史料に出てくるほどでした。

一方、明智光秀は、あれだけ有名な人物にも拘わらず出自が全く不明の人物です。

通説では、明智光秀は名門土岐一族の流れに連なる東美濃の、名族明智氏明智光綱の嫡男だったと云います。その後、実家の没落で光秀は諸国放浪し、身を寄せていた越前朝倉氏の所で、都から逃れて来ていた足利義昭の知遇を得て、助力する織田信長と共に義昭を奉戴して上洛し、その後は周知のようだとされています。

とんとん拍子に出世する様子が豊臣秀吉と明智光秀は似ていることから、同じように革命児と言われる天下人織田信長の引きを得て、どん底の境遇から政権上層部へ出世する様子を、同一視する見方で捉えられています。

しかし、這い上がって来た豊臣秀吉と違って、明智光秀は元々細川藤孝と同じような身分の室町幕府高官の家系(有職故実の専門家の進士一族)だった可能性が高く、通説のように放浪する土岐一族の末裔だったとする話は、後の政権簒奪者たちによるプロパガンダに影響された、後世の作り話だったのではないでしょうか。

ここでの問題は、同じように室町幕府を支え、その復活を目指して活動を続けていたはずの細川藤孝と明智光秀が、一方は正親町帝のクーデターを演出する側で、一方はその話に乗りそのトリックにまんまと引っかかり、選りに選ってライバルの豊臣秀吉に滅ぼされる運命を迎えてしまうことです。

この説は今のところ、確実に証拠が揃っている話ではありませんが、光秀が突然政界に出現してくる疑問に、辻褄を合わせた作り話よりは筋が通っている気がします。しかしその場合、信長上洛以前の明智光秀の経歴をわざわざ偽造せねばならなかった理由がよくわかりません。

そこに不明点は残りますが、”実は、明智光秀は正親町帝の『公家一統=王政復古のクーデター』にも巻き込まれていたと云う話”は、後の”明治維新の謎”にも繋がりそうな魅力のある歴史秘話となりそうです。

常に”天皇”は、時の為政者たちに御神輿に担ぎ上げられて、”お飾り扱い”されていたと言うのは、戦後の”天皇は象徴”と云う認識が刷り込まれている、現代人の単なる思い込みに過ぎないのかもしれませんね。

今の『本能寺の変』に関する物語類は、変の直後に秀吉が作った『惟任退治記(これとうたいじき)』以外は、ほとんど江戸時代に作られており、後世の手が入っています。

つまり、この話がいつまでも謎なのは、今となってはよく分かりませんが、豊臣政権・徳川政権・朝廷のいずれにも都合の悪い真相が含まれていた可能性を示唆しているようです。

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参考文献

〇服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』(2013年 山川出版社)

〇『別冊歴史読本 豊臣一族のすべて』(1996年 新人物往来社)

『太閤素生記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

『祖父物語』(国立国会図書館デジタルコレクション)

竹中重門『豐鑑 巻一』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇桑田忠親『明智光秀』(1983年 講談社文庫)

〇小林正信 『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)

〇高柳光寿 『明智光秀』(2000年 吉川弘文館)

『美濃國諸舊記 』(国立国会図書館デジタルコレクション)

『言継卿記 』(国立国会図書館デジタルコレクション)

太田牛一『信長公記 巻一 』(インターネット公開版)

〇奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究 補遺・索引 』(1994年 吉川弘文館)

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