豊臣秀吉は、戦国の革命児織田信長に大変忠実だった!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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織田信長豊臣秀吉の出会いが分かります。

織田信長豊臣秀吉幕府を開かなかった理由が判明します。

豊臣秀吉がいなかったら、政権は、織田信長から徳川家康へ渡っていた?

豊臣秀吉は、”織田信長殺害の犯人か”を再検討します?

 

織田信長と豊臣秀吉の関係はどうやって出来たの?

織田信長が若い頃出入りしていた郡(こおり)村の生駒家の記録『武功夜話』に豊臣秀吉との関係が出ています。

この人、弘治乙卯年の夏越方の出会いと承るなり。そもそもの因縁は、尾州郡村に生駒屋敷雲球宅に候。

蜂須賀小六殿、彼の者雲球屋敷にて見知り、色々不審の儀もこれあるにより、乱波の類にては候わずや、その風躰は無頼の輩の如く、小兵なれども武芸あり、なりに似合わず兵法の嗜みも深く初めは得体知り難し。

去る程に仕切りに懇願して蜂須賀の桛好み候なり。なむなく小六殿、宮後屋敷へ伴い出入り御用に足し候ところ、才智を働き、機転は人に勝れ、胆力殊に英で、遂には小六殿閉口すれども、彼の者桛多太凡人を超え、日を追って調法を感じなされ候由に候なり。

彼の者、信長公に奉公の濫觴は、郡村生駒雲球屋敷の久庵様御口添えあるによる所多太あり。小六殿の使い走りに郡村雲球屋敷へ往来。久庵様の御前少しも憚らず長談義もしばしば、生来の利口者なれば、久庵様の御機嫌取る事たくみなり。

当時久庵様は、信長公御手付きとなる事よくよく承知仕りての所行、あきれ果てたる御仁に候。よくよく一同、藤吉郎の厚顔恐れ入りたる仕業に候。

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 <一> 巻三 木下藤吉郎因縁の事の条』1995年 新人物往来社)

大意は、”豊臣秀吉とのそもそものきっかけは、弘治元年(1555年)の夏頃(秀吉18歳)の尾張国郡(こおり)村にある生駒家長(いこま いえなが)の屋敷(雲球屋敷)での出会いだったと聞いている。

その時、蜂須賀小六は、秀吉が雲球屋敷に出入りしているのをみつけて、見たところ怪しい奴ではあるが、野盗の仲間ではなさそうだが、ならず者のような風体である。小柄だが武芸が達者で、見かけによらず兵法の知識もあり、どうも得体のしれない奴だと感じた。

ところが、しきりに蜂須賀党の仕事が好きだとせがむので、仕方なく小六は、秀吉を屋敷に連れ帰って、小者の一人に加えた。すると、知恵があり機転は利くし、胆力もあり、遂には他の者を超える働きぶりで、小六は閉口しているが、徐々に重宝するようになって行った。

秀吉の織田信長公への奉公の始まりは、郡村生駒雲球屋敷の生駒類(吉乃)の口添えによるものである。当初蜂須賀小六の使い走りで雲球屋敷に頻繁に出入りし始め、周囲を憚らずに吉乃を捕まえては、話上手で吉乃の機嫌をたくみにとり結んでいた。聞くところによると、秀吉は当時吉乃が信長公の愛人であることを承知の上で近づいていたと云い、全くあきれ果てたる人物である。その厚顔無恥には、一同恐れ入った。”位の意味です。

つまり秀吉は、身分によらず有能な人材を登用すると言う織田弾正忠家の嫡男三郎信長の噂を聞きつけ、最初から信長狙いで、先ず信長が通う郡村の生駒雲球屋敷に出入りする大物蜂須賀小六の所へ入り込み、次に雲球屋敷で信長の愛人吉乃(生駒類)に目を懸けてもらうように取入って、最後に吉乃から信長へ推薦してもらう形で、清須城での信長奉公を勝ち取った訳です。

因みに、この”生駒類(いこま るい)”は織田信長の側室(後に正室になったとの説もあります)で、”吉乃(きつのー吉法師の側室の意か)”とも呼ばれ、信長の嫡男信忠・次男信雄・長女五徳のお袋様(お腹様)です

秀吉は自分の卑賎の階級出身者であることを自覚し、出自によらず知恵と実力で勝負をさせてくれる織田弾正忠家の跡取り織田信長に目をつけました。そして、その信長が吉乃を訪ねるために小折の生駒屋敷に通っていることを突き止め、近づくために知恵を絞って、先ず同じような境遇で野武士の親分として既に名を成していて、生駒屋敷に出入りしている蜂須賀小六に取り入ることから始めたものと思われます。

織田信長がいかに出自によらず人材を登用すると言ったところで、武士階級でもない卑賎の身の秀吉がその織田信長に近づくために、どれだけ知恵を絞ったことでしょうか

とにかく、ここから、豊臣秀吉の未来が開けて行ったのです。


(画像:吉乃ー生駒類の菩提寺2018年4月4日撮影)

 

 

織田信長と豊臣秀吉は、なぜ幕府を開かなかったの?

中世史研究家の小林正信氏によれば、、、

織田信長は、”足利幕府の管轄領域を継承して、平清盛・足利義満を念頭に公儀を主催する太政大臣となることで、公家・武家の区別なく支配層の包括的統合を実現して君臨する。”と云う構想を抱いていました。

具体的には、”織田信長が太政大臣となって公家・武家の上に君臨し、その上で盟友徳川家康を征夷大将軍として東国の経営に当らせると言う「鎌倉体制」を発展させた『幕藩体制』の成立”を目指し、武家主導で、武家の分権を基本とする国家体制の構築を指向していたようです。

一方、正親町帝は、あくまでも”公家一統=統一国家体制”の実現、つまり『武家による分権体制』ではなくて、『天皇による中央集権体制』の実現に固執して譲らない構えでした。

それで織田信長は、正親町帝に退位を求め、誠仁親王への上位を実現するように、天正元年(1572年)から再三にわたり要求し、正親町帝は居座り続けて、両者睨み合いが続いている状態だったと云います。

つまり、織田信長は、盟友徳川家康に征夷大将軍として、源頼朝の鎌倉幕府の如く東日本を管理してもらい、自身は太政大臣(公家)となって、西日本と東日本を支配する幕府の上に君臨しようとしていたものと思われます。

一方、豊臣秀吉は、天皇に仕える細川藤孝の構想に乗って、正親町帝の進める『公家一統=統一国家体制』、つまり”王政復古”に協力して、公家の長たる”関白”となって”天下統一”をしようとする構想でした。

要するに、豊臣秀吉の出自は武家でも公家でもありませんから、信長=家康のように”武家政権”に拘るものは何もなく、自身が”天下人”になるのであれば、どんなことでもよかったと考えていたようで、いつまでも織田信長の下ではやっていけないと、すでに限界を感じていたところなので、細川藤孝からの誘いは”渡りに舟”だったと考えられます。

織田信長と豊臣秀吉が、”幕府開設”にまっすぐ進んでいなかった内情は以上のようなことだったようです。

慶長3年(1598年)8月の太閤豊臣秀吉の死後、”正親町帝=細川藤孝=豊臣秀吉”が作ったその『公家一統=統一国家体制』を破壊するため、徳川家康は石田三成ら統一国家体制の中枢機構を慶長5年(1600年)の『関ケ原の戦い』で壊滅させそして”関白職”の五摂家への返上を行って豊臣家による世襲を阻止するなど戦後処理を始め、慶長8年(1603年)に征夷大将軍となって『幕府』を開いて武家政権を構築しています。

そして、豊臣政権の武断派の大物たちの死去を待ってから、豊臣政権の最後の牙城『大坂城』へ、残党を追い込み一気に滅亡させて、『幕藩体制』と呼ばれる武家による支配体制を構築することに成功しました。

織田信長の『天下布武(てんかふぶ)』を理想とする新生武家政権の構築は、盟友徳川家康によって『元和偃武(げんなえんぶ)』となって継承されたと見られます。

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もし豊臣秀吉がいなかったら、織田信長は徳川家康へ政権を渡したの?

前述しました織田信長の政権構想の中に、豊臣秀吉の主要な役割は想定されていないことから、もし『本能寺の変』が無かった場合には、そのまま徳川家康は征夷大将軍に任命されて、幕府を開いて東国支配を始めると言う流れはあるのではないかと考えられます

しかし、秀吉の話の前に、織田政権の政府を京都で支え動かして来た、明智光秀率いる”室町幕府奉公衆”をはじめとする官僚武士団がいます。彼らは、織田信長が弱体化した室町幕府を再興してくれるものとして協力している(決して織田家に仕官した御家人になったのではなく)訳ですから、この室町幕府を解体する織田信長の動きに黙ってはいないと思われます。

そして、室町幕府奉公衆の旧領地は、奉公衆270家中、三河関連奉公衆は44家に及び本領・恩給地を合わせて室町中期までは、実に奉公衆全体の20%に及ぶことが分かっていますが、徳川家康の松平家はその奉公衆の三河の領地を横領する(江戸時代であれば、”天領侵犯行為”)ことによって勢力を伸ばして来た経緯(戦国大名化)が明らかであり、奉公衆にとって徳川家康の将軍就任など決して容認出来るものではなかったと言う背後事情が存在していました。

また、徳川家康は一向宗の一揆に悩ませられ、永禄7年(1564年)にやっと平定しますが、武士団・親戚・一族の対立まで伴い松平家崩壊寸前まで追い詰められ苦戦を強いられました。

これも当時本願寺と足利幕府の関係は密接であったことから、家康が手を焼いた『三河一向一揆』も足利幕府(有力奉公衆など)が黒幕だった可能性も疑われるなど、徳川家康と幕府奉公衆はお互いに相入れない関係にある事は容易に想定されるところです。

こんなに根深い対立を内包しているので、豊臣秀吉の存在とは無関係に、織田信長の新生幕藩体制への起動開始は、旧幕府奉公衆たちの激しい反発を呼んだことは、想像に難くありません。

となると、正親町帝の意向意外に、『本能寺の変』と云う政変は”信長の新政治構想”によって、引き起こされた可能性が高いと思われます。

それに、”正親町帝の真の狙い”は、密かに細川藤孝を動かして、豊臣秀吉の『中国大返し』を可能とさせて、反乱軍として孤立させた明智光秀率いる幕府奉公衆(旧幕府軍)を壊滅させて、武家政権に代って正親町帝の考える『公家一統=統一国家体制』を実現させることにあったのではないかと考えられます。

従って、掲題の”豊臣秀吉の存在が無い場合、織田信長から徳川家康へすんなり政権を渡してゆくと言うプロセス”は、幕府奉公衆と正親町帝と云う大きな壁が立ちはだかっていて、そもそも実現は極めて困難だったと言えそうです。

 

織田信長の下、秀吉と光秀の評価に差はあったの?

前出のように、豊臣秀吉は織田信長の下に出仕したのが、弘治元年(1555年)くらいと言われていますが、次に公式文書に秀吉発信書類が現れるのが永禄8年(1565年)です。つまり、18歳で出仕して10年、28歳頃にはすでに織田家の奉行職に就いていたことが、確認出来ます。

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そして、明智光秀に関しては、公式文書に初登場するのが、織田信長の上洛直後の永禄11年(1568年)11月14日付の『山城國上賀茂惣中宛』の文書で、織田家吏僚の村井貞勝との連署してあり、これは京都の行政に関しての引継ぎ文書ともみられ、織田家における村井貞勝の地位からして、光秀が幕府側の行政責任者だったことを示しているようです。

この直前、永禄11年(1568年)9月に、織田信長の上洛戦の先鋒の一員に豊臣秀吉が加えられていることが『信長公記』で確認出来ますので、豊臣秀吉はもうただの奉行ではなくて、一軍の侍大将に列せられていることが分かります。

この上洛(永禄11年)段階での織田信長の評価で言えば、豊臣秀吉は、織田家内で侍大将に抜擢しているのですから、身内の織田家内で出世した人物として評価されていました。一方明智光秀は、足利義昭を上洛させて室町将軍に据える為の幕府側の交渉相手として存在していたわけで、そもそも同じ家臣ではないので、較べようがない感じです。

出世レースで、言えば別記事にあるように、豊臣秀吉より2年も早く、明智光秀は『城持ち大名』となっていますが、織田家の重臣としての評価なのかどうかよくわからないところです。

織田信長の豊臣秀吉に対する評価と云うのは、”家臣としても評価”となるかと思いますが、明智光秀にたいする評価と云うのは、途中から家臣扱いになっているとは言うものの、やはり織田信長にとって徳川家康の立場に近い『客将』だった、と考えた方が良いのではないかと思われます。

となると、おのずと”評価基準”が違うと云う事になりそうです。

 

実は、豊臣秀吉が織田信長を殺したの?

『本能寺の変』に関しての話として豊臣秀吉がからむのは、”豊臣秀吉黒幕説”と云うものが大半かと思います。

こんな話が疑われる一番の理由は、おそらく『中国大返しの謎』があるからではないでしょうか?

あまりにも早い備中高松から京都への戻りの不思議で、通説によるこの説明には相当無理があるのです。

もうひとつは、主犯とされている明智光秀の事後のあまりの不手際、緻密な光秀とは思えぬ手抜かり・杜撰なクーデター計画であろうと考えられます。

まるで、怒りにまかせて織田信長の暗殺を謀り、その後の手立てのプランがまるでなかったかのような印象を受ける大失敗だった訳です。

先ずは、”黒幕”はさておきまして、秀吉が直接手を下す(計画を実行する)ことはあり得るのでしょうか?

その疑問を最初に出したのは、歴史作家の八切止夫氏でした。。。

天正10年(1582年)6月2日の明智光秀の行動を、、、

午前四時    本能寺包囲される。

午前七時    本能寺炎上、二条御所包囲、誠仁親王上御所へ動座、信忠軍と包囲軍交戦。

午前九時    明智光秀入洛。

午後二時    明智光秀出落。

午後四時    瀬田大橋に現れる。

午後五時    三千余の軍勢のみにて光秀は、坂本に帰城す。

(引用:八切止夫『信長殺し光秀ではない 63頁』2002年 作品社)

とあり、明智光秀の在京が確認されているのは、当日午前九時~午後二時までで、明智光秀が坂本兵3千を引き連れて上洛したのが午前9時過ぎとすると、本能寺と二条下御所を襲撃したのは、別人の可能性が高いとしています。

そして、その該当者は、その頃畿内周辺にいた者で、秀吉の身内・その後異常な出世を遂げた者などに目を付けて、、、

1.杉原七郎左衛門家次(すぎはら しちろうざえもん いえつぐ)

豊臣秀吉の正室ねねの叔父であり、通説明智光秀滅亡後に丹波福知山城主になったと言われていますが、実は天正8年に織田信長から朱印状が出ており、『本能寺の変』当時の丹波福知山城主だったと言う説があります。

つまり杉原家次は、通説にあるように、事件当時は秀吉とともに備中高松城周辺に詰めていたのではなく、6月1日の夜は福知山城から強兵でならす丹波兵を引き連れて、6月2日の払暁に京都本能寺へ攻めかかったとしています。

2.小野木縫殿助重次(おのぎ ぬいどのすけ しげつぐ)

豊臣秀吉が長浜城主になった頃からの家人で側近である黄母衣衆(きほろしゅう)、子飼いの部下。杉原七郎左の後に福知山城3万1千石の城主になった人物で、『本能寺の変』当時、七郎左の丹波衆(内藤党)を実質指揮していたと言われています。

後に『関ケ原の戦い』に関連して、無抵抗だったにもかかわらず、細川忠興から攻められ処刑されているところから、『本能寺の変』の細川幽齋の秘密を知る人物として消されたのではないかと言う説もあります。

3.木村弥一右衛門吉清(きむら やいちえもん よしきよ)

明智光秀の雑兵頭(その昔は幕府奉公衆で丹波の内藤一族の配下)から丹波亀山城代をしていましたが、本能寺の変後の秀吉の”東北仕置き”に於いて、大崎・葛西十三郡、三十万石の太守になったことから、この豊臣秀吉による木村弥一右衛門の異例の大出世の原因は、丹波兵を率いて『本能寺の変』で大活躍したことではないかと疑われています。

と、対象となりそうな怪しい人物候補を挙げています。

それの後押しをするように、茶道研究家の井上慶雪氏が、『本能寺の変 秀吉の陰謀』と云う著書で、、、

この実行部隊の実体は、秀吉の正室ねねの伯父である杉原家次を隊長として、羽柴秀長・蜂須賀正勝・川並衆から選りすぐった精鋭部隊・計2千有余の、ほぼ身内で固めた特殊軍団である。さらに、細川藤孝・蒲生氏郷等の地元誘導班の数百名であったであろうか。

天正十年(1582年)六月二日未明、羽柴秀吉家臣の杉原家次を隊長とした明智軍を謀る特殊擬装軍が京都・四条坊門西洞院の本能寺で宿泊中の織田信長を急襲し、わずか四~五十分で信長の弑逆を完了。その遺骸を収容し、『御成御殿』に火を放った(別動隊も、本能寺至近の妙覚寺から二条御所に逃げ込んだ織田信忠を弑逆して、これまた遺骸を収容した。)

・・・(中略)

かくして本能寺襲撃が計画どおり成就すると、擬装軍団の一部は杉原家次とともに高松へ戻り、あとの一部は氏郷に誘導されて近江・日野城に引き揚げた。

(引用:井上慶雪『本能寺の変 秀吉の陰謀』2015年 祥伝社黄金文庫)

とあり、明智光秀がいくら探しても、織田信長父子の遺骸が見つからなかった合理的な理由までつけて、八切説の後押しをしているようです。

つまり、豊臣秀吉は、明智光秀の部隊が織田信長を仕留める前に、明智光秀と云う他人任せではなくて、自身の息のかかった者に確実にやらせ、その確認が出来てから備中高松の撤収作業に取り掛かったと言うことになります。

人任せでは、時間とタイミングが読めないと考えれば、大博打に出た豊臣秀吉にとって、最重要の信長殺害は自分の手で確実にやるしかない、と考えたかも知れません。

これが、”豊臣秀吉犯人説”と云うことになりますが、かなり実際の運用面で困難が伴い、現実的に実行は難しいような気がします。家臣の異例の出世とか、福知山にある明智光秀を祀る『御霊社』の存在など偶然とは言えない事が現実的に存在するため、そんなことはありえないとは誰も言えない状況です。

 

むすび

今回記事は、タイトルにあるように、”織田信長”と言う日本史を変えた戦国の革命児に、仕官して必死で仕えた”豊臣秀吉”と云う男の本心を探ってみようと言うものです。

通説のような農民出身ではなく、賤民階級の出身である可能性が高い豊臣秀吉は、この境遇から脱出する方法として、行商人となって資金を作り商売を大きくして財を成すことと、戦国時代なので武家に仕官して出世することの内、武家に仕官する方を選びました。

実家を飛び出した後に、地力で生きて行く内に、年貢を納める側ではなくて、取る側の方が有利であることを体得し、武士になる事を選んだのではないでしょうか。

尾張に帰って来て、売り出し中の若殿様織田信長(おだ のぶなが)に目をつけ、”將を射んとすれば先ず馬を射よ”の諺どおり、信長が決まった愛人の所へ通っていることを探り出し、その場所である郡村の地侍生駒将監(いこま しょうげん)の屋敷に出入りする野武士の頭の蜂須賀小六(はちすか ころく)に取り入ることから始めます。

狙い通り織田信長の家臣になって清須城に仕官して、そこから豊臣秀吉の出世譚が始まる訳です。

ところが、『太閤素生記(たいこうすじょうき)』では、異説として、、、

其比信長小人ニガンマク一若ト云フ小人頭二人アリ 彼一若中々村ノ者也 猿父猿共ニ能知 之一若所へ猿來ル

一若之ヲ見テ驚此三年何國ニ有ツルヤ 母嘆悲シム急行テ逢へト云テ遣ス 母是ヲ見テ悦事無限夫一若ヲ頼ミ 御信長草履取ニ出ル

少ノ内ニヘアガリテ小人頭ト成ル ガンマク一若猿三人ノ小人頭ノ内猿ハ 秀吉也依之藤吉郎ト名ヲ改メ 日々月々年毎輕上テ 信長公ノ代ニ播磨一国ヲ給 此時羽柴筑前守ト號シ・・・

(引用:『太閤素生記』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”その頃、信長公の小人(こびと)にガンマク・一若と云う小人頭(こびとがしら)がいたが、一若は中々村の出身で、秀吉とその父ともに知合いであるが、丁度その時、秀吉が清須城の一若のところに顔を出した。一若は秀吉を見て驚き、3年もどこへ行っていたんだ、母親が嘆き悲しんでいると、すぐに母のところへ行かせた。

母は、秀吉を見て大変喜んだが、一若に頼んで、信長公の草履取りに採用してもらった。わずかな間に秀吉は小人頭に出世し、小人頭が、ガンマク・一若・秀吉と三人になったが、秀吉は藤吉郎と名を改め、どんどん出世して、信長公が天下人になる頃には、播磨一国の太守となり羽柴筑前守(はしば ちくぜんのかみ)と称した。”位の意味です。

どちらのエピソードがホントか云えば、どちらも事実かもしれません。豊臣秀吉は、この時は信長に仕えると云う目的のために、あの手この手を使っていたということでしょう。

織田信長と豊臣秀吉はどちらも幕府を開かなかった理由は、織田信長は武家政権の継続を狙った事もあり、少し手こずった分、『本能寺の変』に遭遇して間に合わなかったということで、豊臣秀吉は天下人になる政権が、もともと天皇の主導による『統一国家体制』と云うことで、武家政権ではなかったので、幕府を必要としなかったということになります。

織田信長が、武家政権を徳川家康へ継承するとした場合、豊臣秀吉の存在が邪魔したのかと云う点に関しては、秀吉以外にも織田信長には阻害要因が多く、もし秀吉の出現がなかったとしても困難だったのではなかったかと思われます。

織田信長の豊臣秀吉と明智光秀の評価に関しては、ふたりに期待されている役割が全く違うので、比較の対象としづらいと考えられます。

最後に、『本能寺の変』に関して、豊臣秀吉の加担はあったのかと云う疑いについては、企画段階で加担したとは考えられませんが、そのプレーヤーとして入っていた可能性は排除出来ないと考えられます。それを疑う重要な理由は、やはり『中国大返し』をあのスピードで、現実に実現出来た事であることは明らかなところです。

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参考文献

〇吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 <一> 』(1995年 新人物往来社)

〇小林正信 『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)

〇八切止夫 『信長殺し光秀ではない』(2002年 作品社)

〇八切止夫 『信長殺しは秀吉か』(2003年 作品社)

〇高柳光壽・松平年一『増訂版 戦国人名辞典』(1981年 吉川弘文館)

〇井上慶雪『本能寺の変 秀吉の陰謀』(2015年 祥伝社黄金文庫)

『太閤素生記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

 

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