豊臣秀吉は、織田信長を暗殺した本能寺の変に加担した!ホント?

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本能寺の変』のおかしな事実が分かります。

本能寺の変』の黒幕の想像がつきます。

豊臣秀吉の『本能寺の変』への関与の仕方が判明します。

本能寺の変』の黒子細川藤孝(幽齋)だとアタリがつきます。

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『本能寺の変』に関するおかしな事実

下手人とされる明智光秀が京都に現れたのは、本能寺が襲われた後?

本能寺の変』に係わる記録として、、、

公卿で神道家の吉田兼見の日記『兼見卿記(かねみきょう き)』には、、、

二日、戊子、早天自丹州惟任日向守、信長之御屋敷本應寺へ取懸、卽時信長生害、同三位中將陣所妙見寺へ取懸、三位中將二条之御殿親王御方御座也、此御所へ引入、卽以諸勢押入、三位中將生害、村井親子三人、諸馬廻等數輩、討死不知數、最中親王御方・宮館・女中被出御殿、上ノ御所へ御成、新在家之邊ヨリ、里村紹巴荷輿ヲ參セ、御乗輿云々、本應寺・二條御殿等放火、洛中・洛外驚騒畢、

悉打果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乘馬罷出、惟日對面、在所之儀萬端賴入之由申畢、

(引用:金子拓・遠藤珠紀校訂『新訂増補版 兼見卿記第二 天正十年六月二日の条 』2014年 八木書店)

大意は、”六月二日払暁、丹波より明智光秀織田信長の宿所本能寺に攻めかかり、すぐに信長は自害した同じく信長嫡男 織田信忠の宿所妙覚寺にも攻めかかり、信忠は誠仁親王の御座所である二条御殿へ逃れるも、すぐに攻め入られ信忠は自害、村井貞勝親子三名、馬廻りなど数知れず討ち死にす。親王様・御女中供回りは上御所へ、里村紹巴が手配した荷輿で逃れられた。本應寺・二条御殿は炎上し、洛中洛外大騒ぎとなった。

信長一行をことごとく討ち果たし、明智軍は午後2時頃には大津へ向って出発し、私(兼見卿)は、馬を飛ばして京都粟田口で、明智光秀をつかまえ、自分達の諸事万端を頼み入った。”との意味です。

又、正二位権大納言山科言経の日記『言経卿記(ときつねきょう き)』では、、、

二日、戊子、晴陰、

一、卯刻前右府本能寺へ明智日向守依謀叛押寄了、則時ニ前右府打死、同三位中將妙覚寺ヲ出了、下御所へ取籠之處ニ、同押寄、後刻打死、村井春長軒已下悉討死了、下御所ハ辰刻ニ上御所へ御渡御了、言語道斷之爲體也、京洛中騒動、不及是非了、

(引用:東京大学史料編纂所『言経卿記 天正十年六月二日の条』1959年 岩波書店)

大意は、”6月2日、晴れ後曇り、午前6時頃、織田信長宿所本能寺へ明智光秀が謀叛を起して攻め入り、すぐに信長は討死した。また嫡男信忠は宿所の妙覚寺を出て、下御所(二条御殿)へ籠城したが、攻められて討死した。村井貞勝以下の配下もすべて討死した。誠仁親王は、午前8時頃に御所へ移動された。言語道断のていたらくで、京都中大騒動となった。”との意味です。

又、奈良興福寺多門院英俊(たもんいん えいしゅん)の日記『多門院日記』では、、、

二日、

一、信長於京都生害云々、同城介殿も生害云々、惟任幷七兵衛(コレハウソ)申合令生害云々、今暁之事今日四之過ニ聞へ了、盛者必衰之金言、不可驚事也、諸國悉轉反スヘキ歟、世上無常、・・・

(引用:『多門院日記 天正十年六月二日の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”六月二日、京都において織田信長と嫡男信忠が自害した明智光秀が自害させたと言う、今朝払暁の事だが、午前10時過ぎ頃には聞こえて来ていた。『盛者必衰』のことわざもあるので、驚いてはいけないが、天下の状況はひっくり返るのだろうか、、、世は無常だ。”との意味です。

そして、織田信長に関する史料の大本命である太田牛一(おおた ぎゅういち)信長公記(しんちょうこうき)』では、、、

六月朔日、夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰を左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり候。既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり、信長も、小姓衆も、当座の喧警下の者ども仕出し候と、おぼしめされ候のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ候。

是は謀叛か、如何たる者の企てぞと、御諚のところに、森乱申す様に、明智が者と見え申し侯と、言上侯へば、是非に及ばずと、上意候。

(引用:太田牛一 『信長公記 巻十五 信長公本能寺にて御腹めされ侯事の条』インターネット公開版)

大意は、”6月1日夜、亀山から老の山へ上り右へは山崎天神馬場、摂津国への街道で、左へ下れば京都へ行く道である。ここを左へ下り桂川を越えて京へ明け方近く到着した。既に信長の宿所本能寺は軍勢に取り囲まれ、四方より乱入し始めていた。信長も小姓衆も当初は、警護の兵士の諍いかと思っていたが、そうではなく、鬨の声を上げて寺内へ鉄炮を打ち入れて来た。
これは謀叛か?何れの者の企てかとお尋ねがあったところ、森乱丸が「明智の手の者と見えます」と言上すると、織田信長は「仕方がないのう」とおっしゃられた。”と言う意味となります。

最後に有名な織田信長の”是非に及ばず”と言う名言となりましたが、正に”講談師見てきたような〇〇を言い”を地で行く感じの当時現場にいなかった太田牛一他の各種記事ともに、豊臣秀吉が勝利者となるという事態の帰趨がはっきりしてから、記述されたものなので、最初から明智光秀のクーデターであると決め付けて記載されています

それにしても、皆”伝え聞き”情報と秀吉による”大本営発表(秀吉の右筆大村由己による「惟任退治記」)”に基づいている気配が濃厚な文面(明智光秀によるクーデター話)となっています

つまり、”明智光秀の軍勢”と言う証言とされるのは、「信長公記」にある払暁の暗がりで攻めたてられて、慌てて答えた森乱丸(もり らんまる)の「明智が者と見えし候」と言う言葉だけなのです。

その後、明智光秀の存在が確認されるのは、「兼見卿記別記」にある”悉打果、未刻大津通下向、予、粟田口邊令乘馬罷出、惟日對面、(明智光秀は、すべて討ち果たした後、午後2時頃大津へ向い、私兼見卿は馬を飛ばして粟田口でその明智光秀と対面した)”と言う証言だけです。

あと、「言経卿記」に、”下御所ハ辰刻ニ上御所へ御渡御了(誠仁親王は午前9時頃には、御所へ避難された)、”とあり、誠仁親王の二条御殿からの脱出は、明智光秀が了承したとの話もあり、ここでも僅かに光秀の存在が確認出来るかもしれません。

とすると、確かな話としては、明智光秀が京都の現場に確実に存在した可能性のある時刻は、6月2日の午前9時頃から午后2時までと考えられます。

これに付いて、戦国期研究の権威 高柳光寿(たかやなぎ みつとし)氏は、、、

日、弑逆の当日、午前九時ごろから午後二時ごろまで、光秀は京都にいた。この間、信長および信忠の屍を求め得なかったので、心中甚だ安んじなかったといわれている。

(引用:高柳光寿 『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』1959年 春秋社)

 

とあり、やはり織田信長が午前6時から7時頃までに暗殺されているにもかかわらず、午前9時以降しか、明智光秀自身は現場での確実な存在確認が出来ていないようです。

これは、通説による戦国の覇王織田信長を暗殺すると言うクーデター(本能寺の変)を企画実行した人物が、当日犯行時間に遅参したことになり、まずこの頭脳明晰な明智光秀にしてありえない事態だと考えられます。

この時、6月4日に織田信長は、明智光秀の率いる畿内軍を主力とした中国応援部隊を指揮して、京都から豊臣秀吉が待つ”毛利討ちへ出陣する”こととなっており、6月4日までに京都周辺へ各武将の集結が命ぜられていたタイミングでした。

集結の兵で混乱を始める京都の町にあって、信長の命令通り自分は子飼いの近江の坂本兵3000と共に、斎藤利三(さいとう としみつ)ら亀山城代の率いる丹波兵10000?と合流するつもりで上洛して来た明智光秀を待っていたものは、焼け落ちた主君織田信長の宿所本能寺と周辺に散らばった家紋水色桔梗紋の光秀の旗印だったようです。、

天正10年(1582年)6月2日午前9時過ぎに、頭の中が真っ白となり、呆然と現場本能寺に立ち尽くす明智光秀の姿が目に浮かぶようです。

この話が事実だとすると、織田信長父子を暗殺したのは、本当は一体誰なのでしょうか?


(画像引用:京都本能寺跡ACphoto)

『本能寺の変』前後の公家衆のおかしな行動

本能寺の変』の1日前の6月1日に、本能寺の織田信長の下へ公家衆の多人数による訪問があります。

一日、丁亥、晴陰、雨、天霽、

一、前右府へ礼ニ罷向了、見參也、進物者被返了、參會衆者、近衛殿(以下略、総数四十一名)・・・、數刻御雑談、茶子・茶有之、大慶〃〃、

・・・

一、家中衆礼ニ來、令飮盃了、

・・・

一、禁中へ一荷兩種、如例月進上了、

・・・

(引用:東京大学史料編纂所編纂『言経卿記 <一> 六月一日の条』 1959年 岩波書店)

 

大意は、”6月1日、晴れ後曇、後雨、後雨上がる、
一、織田信長の宿所本能寺へ、上洛のお祝いで訪問する。参会者は、近衛前久他言経卿も入れて41名の公家衆。突然の訪問の為、玄関先で進物は断られたものの、座敷に上げて貰えて、茶・茶菓子の接待を受けた。話は上手く行きとても良かった。

一、家中の者がやって来て、酒を飲んだ。

一、内裏へ、例月のように、酒肴を届けに出掛けた。”位の意味です。

この時期での公家衆の大人数での本能寺訪問の理由は、恒例の信長上洛出迎えと織田信長の中国遠征出陣に伴う出陣見送りの意味があります。

つまり、この頃の織田信長は、征夷大将軍並みを扱いを朝廷より受けていて、、、

  1. 上洛に際しての「表敬勅使派遣」(この日の本能寺への勅使は、勧修寺晴豊と甘露寺経元)
  2. 上洛時の「公家衆の出迎え」
  3. 朝廷での「戦勝祈願」
  4. 朝廷からの「太刀の下賜」
  5. 陣中見舞いの「勅使派遣」
  6. 凱旋の帰洛の際の「公家衆の参礼」

をする事となっていますので、今回6月1日の公家衆の本能寺訪問は、6月4日の中国出陣に合わせた恒例行事だったと言えます。

しかしこの時、織田信長には、「三職推任(さんしきすいにん)問題」と云うものがあり、信長が朝廷を攻めたてている最中でした。信長自身はこの件に関して何らかの目処をつけてから、中国遠征へ出陣する腹づもりだったようです。

内容としては、「三職推任問題」に関し朝廷に攻勢を仕掛け続ける織田信長が、天皇を廃し奉るのではないかとの憶測も出始めていて、怯えた朝廷側の対応策として、誠仁親王の皇女の内から、信長の嫡男信忠へ皇女を降嫁させる案もあったと言われています。

その提案に対し、良い返事があったのか、或は特段何もなかったので、”大慶大慶”となったのかもしれませんが、山科言経卿は帰宅して家中の者と酒を飲んだ後、正親町帝の待つ御所へ”例月の酒肴献上”と称して織田信長の反応・感触を報告に行ったものと考えられます。

この時、勅使に立ったひとり公卿の勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)の日記(天正十年夏記)では、、、

 

一日、天晴。今日信長へ御使、甘露寺ト余両人。両御所ヨリ參候。其外公家衆各礼ニ被出候。則村井ニ申所ニ信長各見参候。音信共有間敷由候て各不出候。各出候て物語共、今度関東打はたし候物語共 被申候。又西手つかい四日出陣可申候。手たてそうさあるましき事、中々聞事也。十二月閏可有之由被申候。いわれさる事也。これ信長むりなる事候。各申事也。城介殿、余なと、二条殿、一条殿、九てう殿御出候。見参なく候也。余それより二条御盃ニ參候。やかて罷出也。

(引用:勧修寺晴豊『天正十年夏記』 立花京子『信長権力と朝廷 第二版』に掲載分より)

大意、”6月1日、晴れ。今日織田信長へ勅使として、甘露寺経元(かんろじ つねもと)と私勧修寺晴豊のふたりで上下両御所より参った。その他公家衆も京都所司代の村井貞勝(むらい さだかつ)に言われたのか參礼に来ている。礼物は要らないとのことで、皆出さなかった。信長との話は、今度、武田勝頼を討ち果たしたことと、6月4日に西国へ出陣するが、それも造作のないことだと言っている。暦問題で今年12月に閏月を入れると言っているが、これは無理な事で皆が言っていることだ。織田信忠殿や私、二条殿、一条殿、九条殿など来てみたものの面談するでもなし、私は二条殿邸へ酒を飲みに退出した。”位の意味です。

これを見ると、織田信長は武田戦の自慢話と毛利討伐の話の外は、『三職推任問題』に触れることもなく、今年は暦で12月に閏月を実施すると言われて、私勧修寺晴豊は、そんな無理強いしても閏月の実施は出来ないと閉口して退出し、帰りに二条邸で酒を飲んだようです。

そして、6月2日のこの政変(本能寺の変)後の公家衆の様子に関しては、、、前掲「夏記」の記事によりますと、、、

七日、・・・。近衛殿、内府御方御所へ いていにて御参候。御樽御進上候也。御盃参候。・・・

・・・

十一日、雨降、坊城へふるまい也。入道殿、通仙、烏丸大さけ也。

(後略)

(引用:勧修寺晴豊『天正十年夏記』 立花京子『信長権力と朝廷 第二版』に掲載分より)

 

大意は、”天正10年(1582年)6月7日(つまり、誠仁親王の命令で安土にいる明智光秀に対して祝勝の勅使が立った日の翌日)、従一位の公卿近衛前久(このえ さきひさ)殿は、息子の近衛信基(このえ のぶもと)邸へ武装のまま出かけ、酒を一樽進上し、私勧修寺晴豊(かじゅうじ はれとよ)も交えて宴会を行なった

6月11日、雨。東坊城盛長(ひがしぼうじょう もりなが)邸にて、入道(聖護院道澄か?ーしょうごいん どうちょう)、(典薬頭)半井瑞策(なからい ずいさく)、烏丸光宣(からすま みつのぶ)らと大酒を飲んだ。”位の意味です。

つまり、明智光秀クーデターによる織田信長暗殺成功の快挙に、大物の公家衆である近衛前久・勧修寺晴豊らが集まって各所で祝杯を挙げているとしか思えない記述が続きます。

こうした点も誠仁(さねひと)親王とその側近の公家達の、『本能寺の変』への関与が強く疑われるところです。

 

明智光秀は細川幽齋(藤孝)に裏切られた?

天正8年(1580年)頃には、織田信長は兵力1万人以上の軍勢を動かす”各方面軍”(現在の軍隊構成では「師団」規模か)を幾つか組織していましたが、明智光秀が任されていたのは、『畿内方面軍』と言われる畿内・京都周辺の防衛・治安維持を目的とする軍団でした

もともと子飼いの家来たちをほとんど有しない明智光秀なので、畿内方面軍の主力は、光秀の出自と言われる美濃地方の国衆、室町幕府軍に属する山城国の豪族たちと、織田信長に後から付けられた近畿周辺の与力大名たちで構成されていました。

  1. 旗本・譜代家臣団(美濃衆中心?)
  2. 近江衆(坂本城周辺国衆)
  3. 山城衆(室町幕府軍の主力)
  4. 丹波衆(亀山城周辺の領主)
  5. 筒井順慶(与力大名)
  6. 細川藤孝・忠興(与力大名)
  7. 摂津衆(高山重友中川清秀
  8. 兵庫衆(池田恒興父子

と言う構成になっていたようです。

これを与力大名だけの構成で見てみると、、、

  1. 丹後衆(細川藤孝父子
  2. 大和衆(筒井順慶
  3. 摂津衆(高山重友中川清秀
  4. 兵庫衆(池田恒興父子

となり、結果的には誰一人光秀のクーデターに加担しなかった大名たちで、その直後の『山崎の戦い』では、3.と4.は光秀の敵に回った武将たちです。これでは、光秀は6月2日当日に通説のとおり1万3千規模の兵で本能寺を囲むのは無理だったんじゃないでしょうか。

そもそも畿内担当と言う事なので軍団としての外征的軍事行動は少なく、光秀と与力大名たちとの結束は強いものではなく、組織と云うより形式上光秀配下とされていただけだったようです。この時の中国遠征も、近畿の大名には織田信長の出陣命令が明智光秀経由ではなくて直接出されており、信長の6月4日出陣に合わせて京都への終結を求められていました。

運命の日6月1日~2日には、細川忠興(幽齋の子息)も織田信長からの出陣命令に従って、居城の丹後宮津城から若狭・丹波の軍勢を引き連れて、京都目指して移動を開始していたものと考えられます。

ところが、通説(「細川家記」など)によると、、、

三日幸朝よりの飛脚(道鬼斎也)宮津に来る、藤孝君・忠興君御仰天愁傷甚し、暫有て藤孝君被仰候は、我は信長公の御恩深く蒙りたれは、剃髪して多年の恩を謝すへし、其方事光秀とは聟舅の間なれは彼に与すへきや、心に任せらるへしと有、忠興君御落涙被成、御同意にて倶に御剃髪被成候、扨光秀より沼田権之助光友使として来り、又書簡を以御父子を招かれ候、

・・・

御同心なく弥御義心を励され候、此時より藤孝君御隠居にて、御国を忠興君へ御譲被成、御剃髪にて幽齋玄旨と御改被成候、

(引用:細川護貞編『綿考輯録 第一巻 144~145頁』1988年 出水叢書)

大意は、”6月3日に細川家の情報源である愛宕下房福寿院の住職幸朝(こうちょう)より、早田道鬼斎(はやた どうきさい)が飛脚で丹後宮津にやって来て主君織田信長の凶事を知らせた。主君の凶報に藤孝君・忠興君は大変悲しまれて、しばらくして藤孝君が言われるには、私は信長公に大恩を頂いていたので、髻(もとどり)を切って弔意を示そう。忠興、お前は光秀とは聟舅の間柄なのだから、光秀の味方をすべきかどうか自由にしなさいと言われ、忠興君は涙を流され、父に同意されてすぐさま髻を切られました。すると、光秀より沼田光友が使者としてやって来て、光秀は書簡で以てお二人を謀叛に加わるように誘われていました。
お二人はそれに同心されることなく、この時より藤孝君は隠居され、家督(かとく)を忠興君に譲られて幽齋(ゆうさい)と名を改められました。”の意味です。

とあり、細川父子はなんと、主君織田信長の”中国出陣・京都集結命令”にもかかわらず3日の時点で出陣しておらず、そのため丹後宮津城にて訃報を聞くことになったと記録しています。時間的には、既に6月1日には出発していないと出陣命令には間に合わないはずのタイミングです。

疑えばキリがありませんが、細川藤孝が主君で戦国の魔王信長の命令を無視して出陣せず、6月3日まで丹後宮津に自宅待機していたなどあり得ない訳ですから、細川藤孝は、6月2日未明の現場本能寺には当事者としていたはずです。しかも「細川家記」にある6月3日は、丁度”変事”を終えて急遽現場から丹後宮津に帰城したタイミングだとするとドンピシャです。

与力大名の大和衆筒井順慶は、、、

二日、・・・、一、順慶今朝京へ上處、上様急度西國へ御出馬トテ、既ニ安土へ被歸由歟、依之被歸了、

(引用:多門院英俊『多門院日記 天正十年六月二日の条』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意、”6月2日、筒井順慶は織田信長様から西國出陣のご命令が出たので、今朝京都へ向かったが、既に信長様は安土へ帰られたと言うので、戻って来た。”位の意味です。

このように明智光秀の与力大名である筒井順慶は信長の命令により京都への移動中でしたが、変事の情報を聞き、京都からか途中からか引き返したのでしょう。

あとの与力大名の摂津衆・兵庫衆は信長の本隊に途中で合流して、信長は3万の軍団にまとめて豊臣秀吉の待つ備中高松城へ、毛利攻めの援軍に行く予定となっていましたので、当日京都へ集合せねばならない大名は、畿内方面司令官の明智光秀と、丹後衆の細川藤孝(忠興)、大和衆の筒井順慶となっていました。

彼らは、6月4日の織田信長出陣に間に合うように軍勢を進めていたと考えられます。丹後の細川軍が3日まで京都への出陣をしていないのは、あり得ない話です。

もし、近畿方面軍司令官の明智光秀の謀叛に加担しないのであれば、明智軍ではない与力大名細川藤孝(忠興)も行ったけれども引き返したと言う筒井順慶のような記録があってしかりですが、「細川家記」の記録は、丹後宮津城で”変事”を聞いたとあります。

細川藤孝(忠興)はこのクーデターに最初から関わり合いが一切ないことを、内外に示す必要性があったのではないでしょうか。

その後、明智光秀から執拗に参陣するように要請が出ていますので、細川藤孝は当初からクーデターメンバー・協力者に加わっていた可能性が高いのではないかと考えられます。よって、盟友?明智光秀に対する”裏切り”があったことは明白だと思われます。

 

やはりおかしい明智光秀の行動?

今日の教科書では、『本能寺の変』に関して、、、

信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み、1582(天正10)年、毛利氏征討の途中、滞在した京都の本能寺で、配下の明智光秀に背かれて敗死した(本能寺の変)。

(引用:笹山晴生外15名『詳説日本史改訂版』2018年 山川出版社)

と高校の歴史教科書では、簡単に事件の存在が述べられているにとどまり、信長の独裁的な政治手法に対する不満から、配下の明智光秀に単に”暗殺された”だけのような表現に終わっています。

筋の通った解説が付かない理由は、クーデター後の明智光秀の政治構想が全く見えて来ない事から来ているようです。
それに関しては諸説あるようですが、どれも決定力に欠けるようで、未だに歴史上、『謎の未解決事件』の扱いを受けています。

先ず、当日からの明智光秀の行動を見てみましょう。

  • 6月2日 午前9時~午後2時まで京都で織田信長父子の捜索。諦めて安土へ向かう途中で京都粟田口にて兼見卿と遭遇し、誠仁(さねひと)親王からの”京都静謐”の命を受ける。近江に着くも、瀬田大橋焼失により安土城へ入城出来ずに坂本へ帰城。
  • 6月3日~4日 近江周辺の呼応する国衆の力を借りながら平定を進める。
  • 6月5日 安土入城
  • 6月6日 美濃・尾張の平定を進める。
  • 6月7日 安土城で勅使の兼見卿を迎える
  • 6月8日 豊臣秀吉の襲来の情報が入り、全軍安土を発ち、山科・大津へ陣立てする。
  • 6月9日 今回の上洛に際し、京都白河口にて公家衆が出迎えに出ようとするものの、光秀出迎えを辞退する。当てにしていた与力大名で盟友の細川幽齋父子より参陣を断られる
  • 6月10日 参陣するはずの大和衆の与力大名筒井順慶を国境まで迎えに出るが結局現れず。
  • 6月11日 畿内方面軍の与力大名だった兵庫衆池田恒興父子・摂津衆高山重友・中川清秀が敵方に廻り、大和衆の筒井順慶も来ない、頼みの細川父子も中立という状況下、予想外の速さで押し寄せる豊臣秀吉に対応するため、下鳥羽まで帰陣し淀城の修復を始めた
  • 6月12日 早くも摂津衆が勝竜寺城界隈に放火するなど前哨戦が始まる。
  • 6月13日 16時頃に『山崎の戦い』が始まり、あっと言う間に敗戦して勝竜寺城へ逃げ込む。

と言う時間の流れですが、如何にも稚拙で杜撰なクーデター計画だったとしか思えないような顛末となっています。

どう考えても、織田軍内随一の明晰・緻密な頭脳の持ち主であった明智光秀の軍事行動とは思えないものです。そもそも嵌められて犯人にされたのか、或はその実行計画に大きな計算違いが発生したに違いありません。

そして、誰が見ても大きな原因はこれだなと思われるのは、豊臣秀吉の驚異的な『中国大返し』です。これによって、”明智コンピュータ”がすべて機能不全に陥ったのでしょうか。

明智光秀が司令官を務め・頼みにする”織田家近畿方面軍”の主力である与力大名の細川藤孝・筒井順慶・高山重友・中川清秀・池田恒興らが悉く裏切ったのですから、この戦いは最初から光秀に勝ち目があるわけがなかったのです。

この決定的なスイッチを押したのは、明智光秀が盟友と信じ切っていた”細川幽齋”その人ではないかと考えられます。

とにかく、この政変からわずか11日間で豊臣秀吉に制圧されてしまったので、光秀の政権構想がどうであったのかよくわからなり、その後の豊臣秀吉の巧妙なプロパガンダ(秀吉が手回しよく僅か3ヶ月ほどで発表した『惟任退治記』と言う書物)によって、、あっと言う間に今私たちが教えられているストーリー(明智光秀の単独犯による主君殺し)に定着してしまいました。

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明智光秀が打ち漏らしたとされる徳川家康への攻撃は誰が担当だったの?

織田信長の研究家である小林正信氏によると、『本能寺の変(天正10年6月の政変)』は、織田信長親子とその盟友徳川家康一門を同時に始末が出来る、明智光秀にとって千載一遇のチャンスだったと言います。

つまり、ここで徳川家康を始末しておけば、明智光秀は東側の事を気にせず、安土にその防衛のために、兵力を割いてまで明智秀満の部隊を残す必要がなかった訳で、その後の『山崎の戦い』での展開はかなり変わったと言います。

本能寺に普通に兵を出していた細川幽齋(出陣は細川忠興)は、事前の打ち合わせで大事な役目である徳川家康討伐の担当になっていたので本能寺には参加せず、そのまま堺方面へ進出して家康を討つはずが、本能寺で信長が討たれたのを確認後、現場を離れて家康を仕留めに行くふりをして、そのまま丹後宮津へ引き上げ、その途次に即座に備中にいる豊臣秀吉へ早馬を出して信長討死の報を知らせたと言う話になります。

こんな理由で、徳川家康は堺から”伊賀越え”して、三河の岡崎に無事帰還し、光秀討伐の為に部隊をすぐさま出陣させたなどと通説では言われています。

ところが、異説としては、明智光秀の子孫とされる歴史作家の明智憲三郎氏によれば、、、

そもそも明智光秀の作戦の中に、”徳川家康の討伐”など存在せず、その為の担当などいなかったと言います。つまり、この織田信長へのクーデター計画は、徳川家康を巻き込んだ形で進められているため、家康の討伐などあり得ないのです。

その証拠として、あの本能寺襲撃で、信忠の立て籠もった二条御殿で、織田方の武将に2名だけ生存者がいますが、一人が茶人として有名な織田信長の弟織田有楽斎で、もう一人が家康の叔父でこの日織田信忠の配下に加わっていた水野忠重その人でした。

すでに明智方と話が出来ているわけですから、家康の叔父は当然安全に脱出が可能だった訳です。あの状況で偶然はありえませんので、水野忠重の生還は、明智光秀と徳川家康が同調していたことの証拠と考えられます。

ここでの話としては、もし光秀と家康の盟約がなかった場合には、このクーデターで戦略的には当然必要な家康討伐を見逃したのは、細川幽齋(藤孝)が明智光秀(クーデター)側から豊臣秀吉側へ寝返っていた可能性を疑わざるを得ないという結論になりそうです。

それは、豊臣秀吉が確実に明智光秀が指揮する室町幕府軍を確実に仕留めるためには、徳川家康の存在は必要不可欠なものだったためだと考えられます。

 

やはりおかしい豊臣秀吉の『中国大返し』?

豊臣秀吉の『中国大返し』と言われる軍事行動を時系列的に見てみますと、、、

  • 6月2日 曇  備中高松城水攻め戦闘中
  • 6月3日 大雨 夜『本能寺の変』第一報 深夜毛利方と和議成立
  • 6月4日    高松城主清水宗治自刃、和議調印
  • 6月5日 大雨 高松在陣
  • 6月6日    備中高松陣払い、備前沼城まで移動
  • 6月7日 大雨 沼城発、姫路城着
  • 6月8日    姫路在陣
  • 6月9日 大雨 姫路発、兵庫着
  • 6月10日   兵庫発、尼崎着
  • 6月11日 雨 尼崎発、摂津富田近辺に進出
  • 6月12日   高山重友・中川清秀・池田恒興来參、合流帰属
  • 6月13日 雨 織田信孝・丹羽長秀合流。摂津富田から山崎へ展開。午後4時頃開戦。明智軍を打ち破り、光秀は敗退し勝竜寺城へ逃げ込む

わずか1週間足らずにて、土砂降りの中を合計219㎞におよぶ重装備の大軍団による驚異的な進軍となりました。

先ず、明智光秀謀叛の第一報ですが、、、

一、天正壬午(十年)六月二日、亥の刻四ツ半、この一点天下の大事を知るなり。すなわち丹波表の長岡兵部(細川藤孝)殿よりの御使者到来、前将(前野長康)様、兵部大輔様よりの密書を見られ候いて、慄然として声なし。

(引用:吉田蒼生雄全訳 『武功夜話 <二> 明智日向守謀反の事』1988年 新人物往来社)

大意は、”天正10年(1582年)6月2日午後11時頃、この時天下の大事が起こったことを知った。それは、丹波表から細川藤孝殿よりの急使が到着したことによるもので、その密書を見て前野將右衛門は慄然とした。”という意味です。

この時、前野将右衛門(秀吉が行商をやっている若造の頃から、秀吉の世話をしていた尾張国郡村の豪族の親方で、この時には秀吉軍の武将・秀吉子飼いの配下となっている)らは、秀吉に命じられて備中高松の陣所より移動して、現在の兵庫県三木市(姫路と尼崎の中間地点)辺りで、京都方面から来るはずの使者を待って街道警備に当たっていたものと思われます。

やはり、明智謀反決行(信長死去)の迅速な連絡は、細川藤孝その人から豊臣秀吉宛てに発せられていました。前野将右衛門から姫路の留守部隊へ2日深夜に早馬が出て、3日の夕刻には備中の豊臣秀吉の下に、信長死亡確認の報告が届きました。

表向き豊臣秀吉は、織田信長が援軍を率いて備中へ出馬して来るということで、怪しまれずに既に播磨・備前の街道整備を抜け目なく行っており、大軍が素早く移動できるように、街道筋に兵粮の備蓄までしており、秀吉軍の『中国大返し』の準備は万端整っていました。

”信長出陣への備え“がそのまま秀吉の『中国大返し』に活用出来たと言う訳です。もうこれは豊臣秀吉が事あることを知っていて準備していたとしか考えられません。

その上、更に問題なのは、毛利軍と豊臣秀吉の迅速な和議の締結です。

6月3日の夕刻に、細川藤孝からの『本能寺の変』の急報が豊臣秀吉に届いて、その深夜には毛利方との和議が整い、翌6月4日には備中高松城主清水宗治が切腹して和議の調印が終わるなどと言うことは、当時の合戦の常識ではあり得ない早業です

もうこれは、事前にすべての話合いが終わっており、毛利方の交渉責任者”安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)”と豊臣秀吉は、すべての事情を共有し合って、細川藤孝からの連絡が入り次第、即座に行動を起こすことを互いに示し合わせていた、と考えるしかないスピードです。

毛利がこんな話を真に受けた背景は、勤皇家である毛利家にとって無視出来ない存在である”正親町帝ー細川藤孝”からの根回しと、このまま信長に本気で攻められた場合、武田家の末路同様に、毛利家滅亡の可能性が高かったころから、話に乗ったのではないかと思われます。

豊臣秀吉立の成功した”大博打”の背後に細川藤孝(正親町帝)あり、と言うことでしょうか。

 

やはりおかしい徳川家康による春日局の登用?

江戸初期、第三代将軍徳川家光の乳母であった春日局(ふく)が、『本能寺の変』で信長殺害部隊の隊長として実行犯となった、明智家家老斎藤利三(さいとう としみつ)の娘であることは、よく知られた話です。

斎藤利三は、、、

十七日、天晴。早天ニ済藤蔵助ト申者明智者也。武者なる物也。かれなと信長打談合衆也。いけとられ車にて京中わたり申候。見物出也。事外見物也。京わらへとりとり申事也。あさましき事無申計候。・・・

(引用:勧修寺晴豊『天正十年夏記(日々記)』 立花京子『信長権力と朝廷 第二版』に掲載分より)

大意は、”6月17日、晴天、早朝に斎藤内蔵助と言う明智光秀の配下の武将が、囚われて車に乗せられ京中引き廻しにされている。彼などは信長暗殺の談合に加わっていた者だ。意外に見物人が多く、京わらべが姦しい。ひどい有様は言うべきもない。”位の意味です。

このように、春日局(ふく)の父斎藤利三は、織田信長への謀叛の罪で、罪人として京都六条河原で、斬首されて首を晒されました。

この人物の娘とはっきりわかる女性(ふく)が、豊臣秀吉没後の政権を担った徳川家康が創設した徳川幕府の、第3代将軍となる孫の徳川家光の乳母に取り立てられたのです

一説には、徳川家光は”ふくと家康の子供”とも言われ、徳川将軍の中で唯一、名前に明智光秀からの”偏諱(へんい)”を受けて”家光(家康と光秀)”となっていると言われています。

まったく不可解な話ですが、これに筋の通った説明するとすれば、、、

NHK大河ドラマ「女城主 直虎」にあったように、武田滅亡後にもう東国の押えとしての役割がなくなった徳川家の滅亡を図る織田信長の意図を、明智光秀が徳川家康に明かして、同盟することを求めるというのがありました。

出来た作り話のように聞こえましたが、実際、いくら同盟関係が長いとは言え、信長の招致に応じて、ほぼ全重臣を引き連れて護衛部隊も附けずに信長のいる安土城を訪問する徳川家康の行動は、当時の戦国武将としては自殺行為と考えられます

慎重な徳川家康が、それを敢えて実行した理由は、明智光秀の誘いに乗ったとしか考えられません

  1. 織田信長に命じられた豊臣秀吉が早馬で援軍要請を徳川家康の饗応をしている安土城まで寄越す
  2. 徳川家康には逃げられないように、京都・堺の見物をわざわざ資金まで提供して勧める
  3. 畿内方面軍を総動員して中国への援軍準備をさせ、当日6月4日を目指して京都へ集結するように指示を出す
  4. そうして、出陣時には、家康に京都本能寺までに上洛するように命じておく

これは、徳川家康からみれば、織田軍によって徳川家首脳陣が襲われることを想像させるに十分なシナリオと思われます。

明智光秀は、その計画を逆手に取って”織田信長暗殺計画”として、明智軍が召集想定日より一日早く上洛して、逆に本能寺に確実に宿泊している丸腰の織田信長を襲い殺害する(そしてこれは実行されました)

織田信長の丸腰上洛のおとり役を果たした徳川家康は、警護の伊賀軍団(190名)に守られて、帰国すると言うシナリオでした。

この謀叛のメンバーは、明智光秀斎藤利三細川藤孝徳川家康だったのではないかと思われます。

結果として、ものの見事に成功したかに見えましたが、ねずみが一匹(細川藤孝)いました

かれは、信長暗殺の成功が確認されると、早馬で備中高松へ、出陣の準備を終えている豊臣秀吉に連絡をします。それを受けて、兼ねての打合せの通りに毛利方安国寺恵瓊と取り進め、連絡を受け取って2日後には、秀吉は全軍を畿内へ戻し始めます。

結果的に、徳川家康は織田信長から武田勝頼に続いて滅亡させられる危機から脱し、一方、家康が世話になった明智家一統は、思いがけず豊臣秀吉ー細川藤孝の巧妙な計略にものの見事に引っかかった形で、全滅することとなってしまいました。

秀吉方の追手につかまった斎藤利三は、ひたすら沈黙を守り、徳川家康の謀叛関与に関しては一切口外しなかった事に、家康は大きな恩義を感じたのではないでしょうか。

その恩返しを斎藤利三の娘である春日局(ふく)を筆頭に、密かに”徳川家の大恩人”として遇したのではないかと考えられています

 

しかし、武家政権の強化(新しい幕藩体制の構築)を目指す織田信長にとって、徳川家康はなくてはならないパートナーであり、本来”信長の家康暗殺”はありえなかったはずです。しかし猜疑心の強い家康は信長を疑い、明智光秀のワナにハマって信長をおびき出す丸腰上洛の役割を受けてしまったのでしょうか。

この説の欠陥は、謀叛メンバーを裏切った細川藤孝が、なぜ徳川家康のことを本当に見逃したかですが、その後の細川家の巧みな世渡りを見るにつけ、藤孝はその後の徳川家康への保険にしたのかもしれませんね。細川家の栄達がそれを証明しています。

 

細川藤孝が豊臣秀吉に協力したのは、なぜなの?

細川藤孝(ほそかわ ふじたか)は、室町幕府奉公衆三淵晴員(みつぶち はるかず)と大外記(おおげき)清原宣賢(きよはら のぶかた)の娘との間に生まれ、母が将軍の側室だったことから、一説には将軍足利義晴(あしかが よしはる)のご落胤とされ、第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)の異母兄弟と言われている人物です。

学問は『延喜・天暦の治に帰れ』をスローガンとする王政復古主義者の公家三条西実澄(さんじょうにし さねずみ)を師として育ったため、幼き頃より天皇親政を支持する人物だったようです。

当時の天皇正親町帝が、後鳥羽院・後醍醐天皇の系譜につながる『王政復古主義者』だったことから、細川藤孝は天正8年(1590年)には室町幕府奉公衆ながら、正親町帝の侍従として仕えて、、、

  1. 永禄8年(1565年)5月19日の『将軍足利義輝弑逆事件』の折には、藤孝は側近ながら不在で助かるが、将軍と近侍は全滅す
  2. 永禄12年(1569年)1月5日の『将軍足利義昭が本圀寺で襲撃された事件』の折には、明智光秀ら奉公衆が健闘して防戦仕切った者の、藤孝は側近なのになぜか不在で姿見えず
  3. 天正10年(1580年)6月2日の『本能寺の変』でも織田信長父子側近ほぼ討死全滅するも、藤孝は当時所在不明で6月9日に居城丹後宮津城で確認される

と言う怪しい経歴となっています。

この3件ともに共通していることは、同じ正親町帝の在位期間内の、政権を担っている”武家政権の統領”が、天皇のお膝元である京都で襲撃された大事件だったと言うことです。

各々決め付けるだけの確証はないようですが、こんな大事件に続けて同じ人間が関係し続けることは偶然ではありえないと思われますので、どうやらその答えは一目瞭然と言う感じですね。

今風に言えば細川藤孝は、武家政権側に対する謀略を巡らす、”天皇の下で働く忠実な破壊工作員”と言う風に見えます。

 

そして、話は『本能寺の変』の本題に戻りますが、、、

天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変』直後の6月8日に、毛利軍と対峙していた備中高松の陣より、姫路城まで戻って来た豊臣秀吉を囲んだ側近たちの軍議の中で、、、

一、・・・

幽古御あいさつ被申候言葉にハ 御意のことく世間の様子物にたとへ候得ハ 其名花の櫻唯今花盛と見え候 御花見御尤かと奉存候・・・

・・・

一、黒田官兵衛差出被申上候事 主にハ申上にくき事を被申たなと人々申あへると承候 殿様にハ御愁嘆の様には相見え候得とも御そこ心をハ推量仕候目出度事出來るよ 御博奕も被遊幽古被申上候通 吉野の花も今盛そや 櫻の花寒のうちに御覧被成度と被思召候ても時きたらてハみられぬ花也、

(引用:『川角太閤記 巻一 22~23頁』 国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”(右筆の)大村由己(おおむら ゆうこ)殿のご挨拶された言葉には、殿(豊臣秀吉)がおっしゃられたように、世間の見方として、例えてみれば、その名花の櫻は今が盛りと見えます。お花見ももっともだと・・・・とあります。
黒田官兵衛が差し出がましく申し上げたことは、主君には申し上げにくいことを言われたなあと皆申していると聞いています。
それは、殿(秀吉)には信長公のご遭難にご心痛のご様子には見えますが、お心の底を当て推量するに実はめでたい事だと思われているようです。
この博奕のような行動に関しても、大村由古殿の申し上げた通り、吉野の櫻も今が盛りと見えますので、桜は寒いうちに御覧になるべきで、時を逃せば見られぬようになりましよう。”位の意味です。

これは、この『本能寺の変』とこの豊臣秀吉の素早い行動の裏に京都の朝廷が後ろ盾として付いていることを、黒田官兵衛始め秀吉側近の重臣たちは熟知していることを述べた部分と考えられます。
しかも、黒田官兵衛が”吉野の櫻”と云ったことで、この後ろ盾である禁裏の意図が、吉野=南朝=後醍醐天皇を示唆することで、『天皇親政』を目指した禁裏の動きであることまでを、この記事の作者は強く指摘しているようです。

この時はまだ『山崎の戦い』の前で、6月8日にやっと備中高松から姫路城まで一行が戻って来たところに過ぎず、明智光秀との勝敗の帰趨も未だ決まっていない段階にもかかわらず、重臣の黒田官兵衛がもうこの変事の種明かしをしているように受け取れます。

そもそも、、、

細川藤孝が織田信長に注目を始めたのは、永禄2年(1559年)の2月に信長が僅かな供回りを連れて尾張から京都へ、呼びかけに応じて藤孝が近侍する室町第13代将軍足利義輝に会いにやって来た時だと考えられます。

織田信長は、その上洛の翌年永禄3年(1560年)5月に、上洛を目指して尾張を押しとおろうとする駿河・遠江・三河の太守今川義元(いまがわ よしもと)の大軍を、将軍義輝の助けも借りて、『桶狭間の戦い』で破り戦国大名の間でも注目される存在となりました。

その後、前述の”義輝弑逆事件”が起こり、細川藤孝は将軍義輝の弟の義昭を後継将軍として擁立すべく、助っ人としてこの織田信長に白羽の矢を立て、室町幕府の再興に期待をかけます。しかし担いだ足利義昭(あしかが よしあき)が期待はずれの器量の残念な人物で、武家政権にすっかり失望してしまいます。

そこで、藤孝は天皇親政による”公家一統”の実現で、密かに政権を奪取し禁裏の再建を図ろうとしている正親町帝へ近づき、その側近となって行きました。

永禄11年(1568年)の足利義昭を奉戴しての上洛後、副将軍格として室町幕府の政府組織を使って政権を運営をしている織田信長に対して、幕府を捨てて”関白”となって、天皇の”統一国家体制”に協力するように働きかけ続けますが、源頼朝を手本とする織田信長は、あくまでも”武家政権”に拘って正親町帝の話に乗って来ません

その後徐々に、あくまでも”統一国家体制=公家一統”への夢を捨てない正親町帝とその帝に退位を求める続ける織田信長の間の溝が深くなって行きます。

天正10年(1582年)までに国内で織田信長に対する抵抗勢力はほぼ消滅して行き、大物の甲斐武田氏を天正10年3月に滅亡させると、織田信長はいよいよ自分を中心とする武家政権の樹立に動き始め、あくまで室町幕府再興を願いそれまで織田信長に付き従って来た幕府奉公衆たちが、トップの明智光秀と共に信長に反旗を翻す動きを始めます。

明智光秀と姻戚関係である細川藤孝もその動きに乗って、光秀には極秘で一挙に正親町帝の目標(統一国家体制=公家一統)を達成する動きに出始めます。
この時、正親町帝と細川藤孝が白羽の矢を立てたのが、武家でも公家でもない階級の出身者であるにもかかわらず、織田家の実力武将にまで上り詰めていた”豊臣秀吉”でした

つまり、正親町帝と細川藤孝は、、、

織田信長父子を明智光秀率いる室町幕府軍に討たせ、正親町帝の命で勤皇家の毛利と手を結ばせた豊臣秀吉を畿内へ戻して幕府軍を壊滅させると言う、手の込んだ仕掛けを作ってこの政変(本能寺の変と山崎の戦い)を成功させたもののようです。

これで、前述の6月8日の姫路城での黒田官兵衛の発言の意味がよく分かる訳です。

こうして、有力大名を抑え込んだ豊臣秀吉は正親町帝の権威と力を背景に、3年後の天正13年(1585年)7月に約束通り”関白”へ登りつめることとなりました。この一連の政治闘争の大功労者は細川藤孝(幽齋)その人です

 

まとめ

誰もが知る、日本では一番有名な叛乱事件『本能寺の変』ですが、関係者が日本で一番人気のある戦国武将の”織田信長”とであると言うことと、通説はあるものの誰もが納得する真相が分からないと言う政治性の高い事件であった事で人気があるのだと考えられます。

隠されると、もっと真相が知りたくなるのが人の性(さが)ですが、この事件は当時の記録が隠ぺいされた形跡が多く残っているため、いつまでも人の関心を集めているものです。

今回は、通説で主犯とされている”明智光秀”が、信長殺害時刻に現場に間に合っていない可能性があることが、過去より提示されていることを見てみました。

では、その明智光秀が指揮を執っていない殺害実行部隊は、どこの誰なのかが不明のままです。

そして、従来から”おかしい”とされている豊臣秀吉の”中国大返し”に関して、改めて豊臣秀吉がこの『本能寺の変』の情報を確実なものだと確信を得てから、前面に対峙している毛利軍と記録的速さで和睦して、ほぼ全軍撤収してあの時間内に畿内へ戻ることが、実戦では到底不可能であることを確認してみました。

豊臣秀吉は、備中高松から京都への途中にある姫路城までもどった段階で、すでに側近の重臣たちからは、この『本能寺の変』を仕掛けた黒幕が正親町天皇であることをそれとなく語り合っていることなど、まだ明智光秀率いる幕府軍との合戦を控えている段階にも拘わらず、もうすでに勝利を確信していなければ出来ないような発言と感じられ、すべてに亘って周到に準備計画されたものであること分かります。

本文中にも記載しましたが、この『正親町天皇の計画』は、、、

本能寺で織田信長父子を明智光秀率いる室町幕府軍に討たせ、正親町帝の命で勤皇家の毛利と手を結ばせた豊臣秀吉を畿内へ戻して光秀率いる幕府軍を壊滅させると言う、手の込んだ仕掛けを作ってこの政変(本能寺の変と山崎の戦い)を実行させたもののようです。

織田信長に気づかれることなく、正親町帝の意向が毛利と豊臣秀吉にきちんと伝わっていた理由は、織田信長が近年採用した楠長諳(くすのき ちょうあん)と言う右筆が正親町帝の間者だったことから、信長はしてやられたようです。なんと織田信長の書簡ルートを使ってやり取りをしていたようなのです。

細川幽齋の仕事は、なんとしてでも慎重な明智光秀に謀反を起させることだったはずですから、姻戚関係もあり露骨に誘ってその気にさせたのでしょうね。

ここに、正親町帝が事前に『本能寺の変』が起こる日付まで知っていた証拠があります。

廿九日、丙戌、下末、

一、前右府御上洛了、

一、御局御出了、軈而御歸了、

・・・

(引用:東京大学史料編纂所 『言経卿記 <一> 天正十年五月廿九日の条』1959年 岩波書店)

大意は、”天正10年(1582年)5月29日、夕刻雨、

一、織田信長公がご上洛された。

一、長橋局が御所から外出され、やがてご実家へ帰宅された。”位の意味です。

”織田信長が5月29日に上洛すると、正親町帝のお気に入りの女御である長橋局(ながはしのつぼね)が御所を出られて、ご実家へ避難された”と、御所周辺で近々何が起こるか分かっている山科言経卿は、正親町天皇が愛妾を御所から逃がしたことをわざわざ日記に記載しています。

消し忘れの記事なのでしょうか。
織田信長の上洛が確認されるとすぐさま、正親町帝が局を逃がしたのは、このあと何が起こるか正親町帝がご存じだったことになります。

もう正親町帝が関係者であることは明らかですね。

あと、もし明智光秀が本能寺に遅刻していた場合の、実際に信長暗殺をしてのけた別の本能寺攻撃の実行部隊に関してですが、、、

歴史作家の八切止夫氏と茶道・歴史研究家の井上慶雪氏がほぼ同じような次の説を唱えておられます。

この説によると、どうやら豊臣秀吉は明智光秀の部隊に『本能寺襲撃』を任せておけなくなったようで、織田信長父子の殺害と遺体搬出隠ぺいの実行部隊は、明智軍を装う豊臣秀吉配下の秀吉叔父の杉原家次(すぎはら いえつぐ)と配下の小野木縫殿助(おのぎ ぬいどのすけ)の指揮する川並衆を中心とした2000名ほどの精鋭部隊だったと言います。

彼らは本能寺での仕事をし終えると、丹波衆は明智軍と入れ替わりに丹波へ帰国し、加わっていた蒲生氏郷(がもう うじさと)の部隊は、明智光秀の坂本衆と入れ替わりに大津・安土へ急行し、瀬田大橋を焼くように瀬田城主の山岡景隆(やまおか かげたか)に指示を出し、光秀が来れないようにしてから安土城へ入城して待機する信長家族の救出を始めると言う流れのようです。

これによると、『本能寺の変』の実際の実行者はすべて豊臣秀吉で、明智光秀は濡れ衣を着せられただけと言うことになってしまいますが、現場の実行面で『中国大返し』より不確定要素が多すぎるので、文献がいくつか確認出来るものの、やはりこの説は”異説の域を出ていないと考えられます。

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参考文献

〇八切止夫 『信長殺し光秀ではない』(2002年 作品社)

〇井上慶雪 『本能寺の変 秀吉の陰謀』(2015年 祥伝社黄金文庫)

〇金子拓・遠藤珠紀校訂『新訂増補版 兼見卿記 第二』(2014年 八木書店)

〇東京大学史料編纂所『言経卿記 <一> 』(1959年 岩波書店)

多門院英俊『多門院日記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇細川護貞編『綿考輯録 第一巻 144~145頁』(1988年 出水叢書)

太田牛一 『信長公記 巻十五』(インターネット公開版)

大村由己 『惟任退治記』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇高柳光寿 『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』(1959年 春秋社)

〇立花京子 『信長権力と朝廷 第二版』(2004年 岩田書院)

〇谷口克広 『信長軍の司令官』(2005年 中公新書)

〇明智憲三郎 『本能寺の変 431年目の真実』(2015年 文芸社文庫)

〇笹山晴生外15名 『詳説 日本史B 改訂版』(2018年 山川出版社)

〇小林正信 『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)

〇吉田蒼生雄 『武功夜話 <二> 』(1988年 新人物往来社)

『川角太閤記 巻一 』 (国立国会図書館デジタルコレクション)

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