天下人 豊臣秀吉は農民の出身である!と言う話はホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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通説では、豊臣秀吉はバリバリの農民でした!

豊臣秀吉竹中半兵衛を軍師にスカウトする時、出身の秘密を話していた!

安国寺恵瓊豊臣秀吉を”乞食の子”だと言った?

豊臣秀吉は、信長に仕えてからも”雌伏の期間”が長く、我慢強く階段を上って行った苦労人だった?

通説の秀吉の生い立ちはどんなもの?

これには諸説ありということですが、、、

小瀬甫庵の『太閤記』では?

江戸初期、寛永3年(1626年)に出版された、儒学者小瀬甫庵(おぜ ほあん)による『太閤記(たいこうき)』によると、、、

・・・、木下藤吉郎秀吉と名乘て、・・・。其の比信長公は、淸洲に御在城ありけるに、永禄元年九月朔日に、直訴せられけるは、某父は織田大和守殿に事へ、筑阿彌入道と申候へ、愛智郡中村之住人にて御座候。代々武家之姓氏をけがすと云共、父が代に至て家貧しければ、某微小にして、方々使令之身と成て、・・・

(引用:小瀬甫庵『太閤記(上)豊臣記巻第一〇秀吉公素性の条』岩波書店 )

とあり、豊臣秀吉は、永禄元年(1558年)9月1日に清洲にいる織田信長(おだ のぶなが)のところへ、直接就活に行き信長に対して自分は木下藤吉郎秀吉(きのした とうきちろうひでよし)だと名乗り、”父は筑阿彌(ちくあみ)と言って尾張中村の住人で、代々清洲織田家に仕えた下級武士だった”と申告しています。

これは通説にある”豊臣秀吉の父は織田家の足軽だった”と言う話となります。


(画像引用:日吉神社ACphoto)

 

『太閤素生記』では?

江戸幕府旗本土屋知貞(つちや ともさだ)によって、寛永2年(1625年)から延宝4年(1676年)の間にまとめられたとされる『太閤素生記(たいこうすじょうき)』によれば、、、

一、尾州愛知郡ノ内ニ上中村中々村下中村ト云フ在所アリ秀吉は中々村ニテ出生
・・・
一、父ハ木下彌右衛門ト云中々村ノ人信長公ノ親父信秀鉄炮足軽也爰カシコニテ働アリ就夫手ヲ負五體不叶中々村ヘ引込百姓ト成ル・・・・其後秀吉八歳ノ時父彌右衛門死去
・・・
一、秀吉母公モ同國ゴキソ村ト云所ニ生レテ木下彌右衛門所ヘ嫁シ・・・
一、信秀織田備後守家ニ竹阿彌ト云同朋アリ中々村ノ生レノ者ナリ 病気故中々村ヘ引込ム所ノ者是ヲ幸ニ木下彌右衛門後家秀吉母ノ方ヘ入ル・・・

(引用:『太閤素生記』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、秀吉は尾張中々村の生れで、父木下彌右衛門(きのした やえもん)は、信長の父信秀の鉄炮足軽をしていて、けがをして中々村に引っ込んで百姓をしていましたが、秀吉8歳の時になくなりました。

一方母は、尾張御器所村(おわり ごきそむら)の出身で、木下彌右衛門の処へ嫁ぎ、後家になってから竹阿彌(ちくあみ)と一緒になりました。

秀吉の育った環境は、足軽と百姓をしていた家族のところであったことを示します。

しかし、母の実家が尾張御器所村出身とあり、中世史研究家の阿部一彦氏によれば、この村は碗や盆などを作り売り歩いた漂泊民の居住地であり、秀吉の母(後の大政所)が農民出身ではない可能性が高いことが分かります。

 

『祖父物語』では?

江戸時代の歴史史料で、尾張清須朝日村住人 柿屋喜左衛門(かきや きざえもん)の手になる、慶長12年(1607年)頃の織豊期の武将らに関する見聞録『祖父物語(じじものがたり・そふものがたり)』によれば、、、

一、太閤御親父ハ尾州ハサマ村ノ生レ竹アミト申テ信長公ノ同朋ナリ 太閤ハ申ノ年六月十五日淸須ミスノ、(中島郡水野)ガウ戸ト申所ニテ出生シ玉フ 幼名ヲコチクトゾ申ケル・・・
・・・海東郡の内オトノコウト申所ニ彌介ト云 ツナサシアリ 是ハ藤吉郎姉ムコナリ・・・七郎左衛門トテ淸須ニレンジャクアキナヒシテ居ケル者アリ 是ハ藤吉郎伯母ムコナリ・・・

(引用:『祖父物語』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、豊臣秀吉は清洲の”御園のゴウ戸(みそののごうと)”の生れと言い、海東郡乙之子村(かいとうぐん おとのこむら)と言う所にいる姉の亭主弥介(やすけ)は”ツナサシ”をしており、伯母の亭主七郎左衛門(ひちろうざえもん)は、清洲で”連尺商人(れんじゃくしょうにん)”をしているといいます。

秀吉の生まれた当時の”清洲御園”は職人又は商人の集まるところで、秀吉が農民ではなく都市住民であることを示しており、義兄の弥介は織田家の鷹匠(たかじょう)の助手で”ツナサシ”と言われる鷹のエサ(鼠のような生餌)を担当していた人間であり、伯父の七郎左衛門は、清洲の行商人だったようです。

歴史学者の服部英雄氏によると、これ等秀吉の親戚筋の職業の事から、豊臣秀吉の生い立ちの環境は農村ではなくて、清洲の都市部の賤民・商人たちの暮らす地域だった可能性が非常に高いと言います。

『武功夜話』では?

昭和34年(1959年)9月26日に中部地方を襲った”伊勢湾台風”により、愛知県江南市の旧家吉田家の土蔵が崩れて発見された、戦国時代から安土桃山時代の尾張国の土豪前野家(まえのけ)の記録です。

その『武功夜話(ぶこうやわ)』によると、、、

藤吉郎の生国は、尾張下の郡中々村在、親代々百姓をもって生業仕る村長役人の家なり。・・・天文この方、度重なる兵乱あり。・・・結句百姓逃散失家多く御座候なり。・・・中々村の藤吉郎在所は仲々の大村に候ところ、失家二十有余戸、貧村と相成り、藤吉郎の家、代々与頭を相勤むるも。備後様御在世の砌、御軍役を相勤るも天文の歳相果て、後添えの義父と折り合わず、口減しのため、寺奉公に追い出され寺住い候・・・

(引用:吉田蒼生雄全訳『武功夜話 巻三 木下藤吉郎因縁の事』(1995年 新人物往来社)

ここでは、豊臣秀吉の実家は尾張中々村で代々村長の役人(組頭)の家で、父は、天文年間に織田信秀(おだ のぶひで)の軍役で倒れ、藤吉郎(とうきちろう)は口減らしのために寺奉公へ出されたと言います。

従来の史料にはない、『実家が代々中々村で組頭をやっている役人の家柄』であったとの記述があり、新しい史料として注目されていますが、ここにしか出てこない記述のため、未だ確認されていません。

 

非農民説とは?

前述の歴史研究家服部英雄氏が提唱されるように、豊臣秀吉が尾張中々村の農民出身と標榜しながら全く”農民臭のしない秀吉”の出自とは、『祖父物語』に記載されている秀吉の一族がそうであるように、都市部である清洲の行商人の家の出である可能性が高いと考えられます。

そして現代の感覚で言う商人と違い、この時代の”商人・行商人”とは人別帳にも乗らない漂泊民(非人)と言う”賤民階級(せんみんかいきゅう)”であることを示しています。

どの史料にも共通した話として、父が亡くなった後に、母が次に結婚した義父との折り合いが悪く、尾張を出奔し”縫い針”を仕入れてそれを売りながら遠江まで行き、そこで今川家配下の松下加兵衛(まつした かへいー之綱)に下で働く話になりますが、もし秀吉が農民の倅であればそう簡単にはいかないようなのです。

中世の農民と云う人々は土地を離れることが禁止されている身分で、簡単に出奔など出来ないのです。この一見自由で現代チックな秀吉の行動は、彼が農民ではなくて自由民(漂泊民・非人)階級であることを示していると考えられます。

この時代に土地を離れる農民は『逃散(ちょうさん)』と言い、年貢納入義務から夜逃げする犯罪行為とみなされ、見つかれば処刑される対象となります。

つまり、秀吉は人別帳(戸籍)にも載っていない賤民だった可能性が高いと言う説ですね。

また、豊臣秀吉が生涯の軍師として仰いだ竹中半兵衛(たけなか はんべえ)の子息重門(しげかど)が残した『豐鑑(ほうかん)』によれば、、、

羽柴筑前守豊臣(の)秀吉、天文六年丁酉に生れ、にちには関白になり昇り給ふは、尾張の國愛智郡中村とかやとて、あつ田の宮より五十町計乾にて、萱ぶきの民の屋わづか五六十ばかりやあらん、郷のあやしの民の子なれば、父母の名もたれかはしらむ、一族などもしかなり。

(引用:『新校 羣書類從 巻第三百七十九 合戰部十一 豐鑑 』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、これは他の文献にも引用されていますが、秀吉の生家はどうも農村の端っこにある被差別民の部落にあったことが明白のようです。

竹中半兵衛は、もっとも豊臣秀吉が信頼していた人物と言われ、秀吉は本当の事を話していた可能性が高いので、その半兵衛の子重門の遺した『豐鑑』の豊臣秀吉に関する記述は信憑性が高いと思われます。

また、中世史研究家の網野善彦氏によれば、、、

・・・都市の成立する場の特異性である。
・・・その集落は浜ー湖の水際に集中していた。こうした立地は、港町といわれてきた中世の都市には、当然ながら多く見出しうる。小浜、桑名、尾道等々、事例はいくつもあげることができよう。もちろんこれを非農業民ー漁撈民や廻船民の生業と関連させて理解するのが常識であろう。
・・・居住条件がよいとは決していえないこうした場に、都市的な集落が立地する理由は、単に生業上の経済的な動機からだけでは説明し難いのではなかろうか。それは中洲と言う特異な場の特質と深く関連している・・・
伊勢湾に注ぐ諸川の河口にも、また同様の現象がみられる。木曽川河口には古くからこうした中洲島が数多く存在していた。・・・『河内』とよばれる『川の民』・非農業民の集住地となっていた・・・また、古日光川の中州には、尾張の名社津島神宮が鎮座している。・・・津島の町も古くは同じような地形だった・・・。
中洲はやはり浜とおなじ『無主』『無縁』の場であり、それ故に遍歴する非農業民の集住地となることが多く、おのずとそこに都市が成立することになった。

(引用:網野善彦『増補 無縁・公界・楽』1990年 平凡社)

とあり、都市には遍歴する非農業民(漂泊民、連尺商人ら)が集まって来るといいます。

豊臣秀吉の一族たちが住みついていた清洲(きよす)は、尾張守護の斯波(しば)氏の居城がある城下町であるばかりでなく、伊勢湾に通じる五条川の水運でも栄えており、非農業民・無主無縁の流れ者たちが集まる”都市”ともなっていたものと考えられます。

 

小まとめ

冒頭にありましたように、豊臣秀吉の出自問題は、二つあり、①尾張中村の農民説、②清洲都市居住 非農民説です。

農民説には、所謂通説である”元織田信長の父信秀の足軽をやっていた家柄だったが、父が戦いで負傷し、中村に引きこもって農民をやっていた”というもの、と代々領主の役人で中々村の小頭をやっていて、農民を管理する立場だった(庄屋)と云うものもあります。

非農民説は、通説にある母の再婚相手の義父竹阿彌と折り合いが悪く、縫い針を売りながら遠江まで出かけて行ったという逸話が共通してあります。

又、豊臣秀吉の軍師竹中半兵衛の子重門が残した『豐鑑』の記述のより、秀吉が”あやしの民(被差別民)・非人階級”の出身である可能性が高いと思われます。

前出の1959年に伊勢湾台風被災により偶然出て来た史料『武功夜話(ぶこうやわ)』によりますと、、、

一、この人、弘治乙卯年の夏越方の出合いと承るなり。そもそもの因縁は、尾州郡村の生駒屋敷雲球宅に候。蜂須賀小六殿、家の者雲球屋敷にて見知り、・・・小六殿の使い走りに郡村生駒屋敷へ往来。久庵様の御前少しも憚らず長談義もしばしば、生来の利口者なれば、久庵様の御機嫌取る事たくみなり。当時久庵様は、信長公の御手付きとなる事よくよく承知仕りての所行、あきれ果てたる御仁に候。

(引用:吉田蒼生雄全訳『武功夜話<一> 巻三 木下藤吉郎因縁の事』1995年 新人物往来社)

とあり、弘治元年(1555年)の夏に、現在の一宮市にあった生駒将監(いこましょうげん)の屋敷に秀吉が現れています。

この地侍の屋敷には、当時梁山泊(りょうざんぱく)の如く、正体不明の人材が居候していたと言われ、後に秀吉の手足となる、蜂須賀小六(はちすか ころく)、前野将右衛門(まえの しょうえもん)など”川並衆(かわなみしゅう)”も出入りしていたらしいです。

遠江から松下加兵衛(之綱ーゆきつな)にお金をもらって帰国し、こんなところに出入り出来ることを考えると、やっぱり秀吉は中々村のただの農民じゃないような気がしますね。

秀吉の出世譚はここから出発することになる訳ですから。


(生駒将監屋敷跡 2018年4月4日投稿者撮影)

蜂須賀小六との出会いのエピソードとは?

有名なのは、岡崎での橋の上で出会ったものですが、これは『絵本太閤記(えほんたいこうき)』に載っているものです、、、

爰に尾州海道郡の住人、蜂須賀小六正勝と云へるも者あり、・・・、近國の野武士をかたらひ、東國街道に徘徊し、・・・、其手下に属する者一千餘人、勢ひ近國に震ひける。或夜属手數多引具し、岡崎橋を渡りけるに、彼日吉丸此橋の上によく寝て、前後もしらで有けるを、小六通りざまに日吉丸が頭を蹴て行過る。日吉丸目をさまし、大きに怒り、「汝なに奴なれば無禮をなすや。我幼稚といへども汝が爲に恥しめをかうむるいわれなし。我前に來り禮をなして通るべし。」と云ふ。

(引用:『絵本太閤記 巻之一 〇日吉丸見小六 の条』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、、、ここに尾州海東郡の蜂須賀小六(はちすか ころく)と云うものがいて、近隣の野武士を集めて東国街道を徘徊し、その部下1000名と云い、近郷に名前が知れ渡ったいます。

ある夜のこと、部下を多数引き連れて岡崎橋を渡る時に、秀吉が橋の上で寝ていましたが、小六が秀吉の頭を蹴飛ばしてしまします。起き上がった秀吉は大いに怒って、「お前は何者だ、なんで無礼なことをするのか、自分が若造であっても無礼をされる理由はない。自分の前に戻って謝れ!」と云いましたの意です。

小僧のくせに肝の据わった奴だと、蜂須賀小六は感心してその後自分に仕えさせたという話です。

この話は、実はこの時期に岡崎に橋が架かっておらず渡船だったことが近年の研究で判明してから、史実ではないとされてしましましたが、未だに人気のある逸話です。

武功夜話』では、前出しましたが、、、

一、この人、弘治乙卯年の夏越方の出会いと承るなり。そもそもの因縁は、尾州郡村の生駒屋敷雲球宅に候。蜂須賀小六殿、家の者雲球屋敷にて見知り、色々不審の儀もこれあるにより、乱波の類にては候わずや、その風躰は無類の輩の如く、小兵なれども武芸あり、なりに似合わず兵法の嗜みも深く初めは得体知り難し。去る程に仕切りに懇願して蜂須賀の桛好み候なり。やむなく小六殿、宮後屋敷へ伴い出入り御用に足し候ところ、才智を働き、機転は人に勝れ、胆力殊に英で、遂には小六殿閉口すれども、彼の者桛多太凡人を超え、日を追って調法を感じなされ候由なり。

(引用:吉田蒼生雄『武功夜話<一>巻三 木下藤吉郎因縁の事』1995年 新人物往来社)

豊臣秀吉と蜂須賀小六の出会いは、弘治元年(1555年)夏に尾張郡村(こおりむらー現在は”小折”となっています)の生駒将監屋敷であったことが述べられていますので、『太閤素生記』によれば、秀吉の出奔は天文20年(1551年)春と言う事ですので、帰郷するまで4年の放浪だったという事になります。

これも偶然を装っていますが、秀吉が生駒屋敷に近づいたのは、なにも川並衆の蜂須賀小六に雇ってもらうのが目的ではなくて、売り出し中の新進気鋭の織田信長が生駒の出戻娘吉乃(きつのー本名は類)に熱を上げているとの情報を得てのものと思われます。

小六もすぐに気が付いて、この秀吉の周到さにあきれています。

たった4年の”放浪と松下加兵衛への奉公”でこんなに悪知恵がつくものかどうか判然としませんが、秀吉が尾張に帰って来た理由は、織田信長という人物に目を付けていたからと考えるのが妥当のようです。小六は踏み台にされ、後には手足に使われています。

小六は北尾張では大勢力をもつ土豪の親方ではありますが、しょせん天下を獲る器ではないと秀吉は考えていたようです。

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織田信長との出会いはいつ頃どのように?

武功夜話』には、弘治元年(1555年)秀吉18歳の頃、前出のように蜂須賀小六を使って郡村の生駒屋敷に入り込み、織田信長の愛妾吉乃(きつの)に近づいた秀吉は、吉乃の口添えをもらって、信長へ仕官する道をつかんで永禄元年(1557年)20歳頃に清洲城勤務となります。

祖父物語』によりますと、、、

・・・アル時淸須ノ城 大手口松ノ木門ノ下ヲ 小竹通リシニ信長公二階ノ上ニ御座アリテ フシアナヨリ小竹ニ小便ヲシ掛タマフ 小竹何ヤツソ士ホドノモノニ小便ヲシカケタルソトテ 以ノ外ニ腹ヲタチ 二階門ヘソ 上リケル折フシ 御伴ノ衆一人モナシニ 御脇差ハカリニテ御座アリケル オレニテアルゾ苦シカルマシト仰ラル オレトハ誰信長ナリト宣ヒケル イカニ御主ナリトテ小便ヲシカケラルハ無念ナリト掛リ玉フ 信長ソノ時汝カ心ヲ見ントテシタル事ナリ堪涊セヨ 以來ハトリ立召ツカハサントテ ソレヨリカラゲサセ木下藤吉トソナサレケル・・・

(引用:『祖父物語』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、たまたま秀吉が清須城の門をくぐったところ、二階から織田信長が小便をひっかけ、怒った秀吉が門に駆け上がって詰問したところ、信長が勘弁する代わりに仕官させ、木下藤吉と名乗らせたという話でした。

これは、後々の作り話っぽい感じですが、当時の信長の周囲の雰囲気をよく伝えているように思いますが、時期は不明です。

また、前出の『豐鑑』のよりますと、、、

二八計の年、只ひとり遠江の國まで浪人行にてさそらへ行て、松下氏石見守とかやにつかへてしばらくありしが、思定ざるにや、又もとの里にかへりぬ。その頃尾張國の司は織田上總守平信長主なり。いかにしても宮仕ばやと思はれしかど、かくいふべくたづきも更になかりければ、いかゞはせんと念じ給へりし。
信長川逍遙して歸り給ふ道の邊ちかくゐて、宮仕の望あんなると高く宣給へば、我につかへんや、いかさま思ふ所もありなんとゆるし給へば、やがて淸洲に供奉して朝夕に宮仕せり。

(引用:新校 羣書類從 巻第三百七十九 合戰部十一 豐鑑巻一 長濱眞砂』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、信長が馬で川辺を逍遙している時を待ち伏せて、仕官したいと自訴したと述べられています。28歳の頃と云っていますが、これはちょっとおかしくて信長のところへ出仕したのは、『太閤記』によると永禄元年(1557年)で20歳前後の頃と思われます。

また、前出の『太閤素生記』によりますと、、、

其比信長小人ニガンマク一若ト云テ小人頭二人アリ 彼一若中々村ノ者也猿父猿共ニ能知之一若所へ猿來ル 一若是ヲ見テ驚此三年何國ニ有ツルヤ 母歎悲シム急行テ逢ヘト云テ遣ス
母是見テ悦事無限 夫ヨリ一若ヲ賴 信長御草履取ニ出ル

(引用:『祖父物語』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、織田信長の小人頭(こびとがしら)に中々村の”ガンマク一若(がんまく いちわか) ”と言うものがいて、秀吉親子を良く知っていました。秀吉が清洲に現れると早速心配している秀吉の母に会いに行けと言います。母は出奔した秀吉が戻って来たので大変喜び、”ガンマク一若”にさっそく秀吉を信長の草履取りすることを依頼します。それから有名な草履取りになった話につながって行きます。

出奔してから3年経ったと言っていますので、やはり20歳前後の永禄元年(1557年)辺りではないかと思われます。

冒頭の章で引用したように、有名な小瀬甫庵の『太閤記』では、、、

・・・、木下藤吉郎秀吉と名乘て、・・・。其の比信長公は、淸洲に御在城ありけるに、永禄元年九月朔日に、直訴せられけるは、某父は織田大和守殿に事へ、筑阿彌入道と申候へ、愛智郡中村之住人にて御座候。代々武家之姓氏をけがすと云共、父が代に至て家貧しければ、某微小にして、方々使令之身と成て、・・・

(引用:小瀬甫庵『太閤記(上)豊臣記巻第一〇秀吉公素性の条』岩波書店 )

とあり、遠江へ修行に行った後、父筑阿彌(ちくあみ)が信秀に仕えたことをネタに、永禄元年(1557年)9月1日、織田信長に直訴したとしています。

偶然に信長が門の上から小便をする訳もなく、如何にこの戦国時代とは言え、賤民の子である秀吉が領主に直訴はあり得ないのではないでしょうか。

中々村出身の信長小人頭”ガンマク一若”と出会い、秀吉の母”なか”が”ガンマク一若”に秀吉の就職を頼む辺りはなかなかリアルのようなかんじです。

当時の”梁山泊(りょうざんぱく)”であり『散所(さんしょ)』のような生駒将監の屋敷に入り込み、蜂須賀小六と信長愛妾吉乃を使い、自分の能力を目いっぱい発揮して信長のフトコロに入り込んだ手管が、いかにも天才豊臣秀吉らしい逸話だと思われます。

という訳で、豊臣秀吉と織田信長の出会いは、蜂須賀小六ー生駒吉乃を仲介とした話か、信長の小人頭をしていた知り合いの”ガンマク一若”の就職あっせんかと言う辺りが信憑性のありそうな話です。

 

武士階級の出身でない豊臣秀吉はコンプレックスを持っていたの?

当時、コンプレックスがどうのこうのと言う話よりも、立身出世を夢見て、当時勢いのある今川家の領域の武家に仕官してみるものの、3年間の努力も武家出身でない秀吉の出世の見込みは今川家では全く立たず、見切りを付けて新興の織田信長の伝手を求めて走りまわったというところでしょうか。

信長は、父が身分の低い家柄にも拘わらず、主家の織田家を押さえ込んで上に立って家を大きくしていたものの、父の死後忽ち元の木阿弥になり掛けていて、譜代の家臣は頼りにならず、能力のある人材を広く求めていたところでした。

そうしたところへ、才覚をもって信長に接近していった秀吉を、信長は認めて抜擢をして行きます。信長の周辺では力を示さない者は譜代家臣であっても相手にされず、才能のある新参家臣が登用されるまさに”能力主義”の軍団でした。

豊臣秀吉は、当時の武将としては遅咲きと言われていて、スタートも身分が邪魔して遅れ、加えて、武家社会の壁に阻まれて、やっと自分を生かせる織田信長に仕官してからも、雌伏の期間がかなりあった事が知られています。

明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰(とくとみ そほう)によれば、、、

秀吉の信長に仕えたるは、・・・彼が、二十歳前後より、三十歳までは、信長のの下において、雌伏の時代といわねばならぬ。彼は決して一躍にして、兵卒より大将となったものではない。彼の名が太田牛一の『信長公記』に掲げたるは、彼が三十三歳、永禄十一年九月、箕作城攻めの際だ。
・・・。もし天文二十二年とせんか、足掛け十六年となるのじゃ。
戦国時代の英雄はいずれも少壮の成功者だ。信長は二十七歳にて、今川義元を殲した。家康は二十二歳で、一向宗を平らげた。謙信は二十歳にて、春日城の主となり、越後一国に号令した。信玄は二十一歳のときに、甲斐一国のの主となり、信州の侵略を始めた。而して秀吉は三十三歳にしてようやく織田氏の将校中に列記されるに至った。かれは実に晩成の英雄である。

(引用:徳富蘇峰『近世日本国民史 豊臣秀吉<一>』1981年 講談社学術文庫)

このように、雌伏の期間が16年もあり、やっと『信長公記(しんちょうこうき)』に参戦した武将にひとりとして”木下藤吉郎(きのした とうきちろう)”と名前が載るようになります。

こんな中で、豊臣秀吉の出世物語が始まり、最後は重臣まで上り詰め、遂に主家から政権を簒奪するところまで来た豊臣秀吉でしたが、彼の女好きは留まるところを知りません。

当時の戦国武将たちの女人への期待はあくまでも跡継ぎを生んでもらうことでしたが、秀吉の場合は”子だねがない事”は、本人も承知でしたので、人質目的以外では、彼の女人漁りは武家・公家などの高貴な女性たちに限られていて、彼が卑賎の出身であることのコンプレックスが理由だとも考えられるところです。

因みに豊臣秀吉の後を襲った徳川家康の側室選びは、本来の目的に沿って、出産経験のある女性に限られていて、子作りに失敗のない人材を選んでいたようです。

 

豊臣秀吉が長期政権作りに失敗したのは”武士階級の出身ではない”事と関係があるの?

失敗理由として通説として言われていることは、、、

 

  1. 豊臣家には家を支えてきた譜代の家臣団と言うものがそもそも存在しなかった
  2. 秀吉自らの手で、折角育っていた後継者を抹殺してしまった(跡取りとした関白秀次を一族ごと抹殺した・片腕としていた弟秀長の死後その優秀な跡取りたちを抹殺した)

等々、挙げられていますが、、、

”名門意識”に胡坐をかいているとすぐに叩き潰されてしまうこの戦国末期に、しのぎを削っていた梟雄(きょうゆう)たちには、皆、名門武士階級の出身者はほとんどいないので、武士は言うに及ばずその出自が問題にされることはほとんどなかったようです。

これが問題にされたのは、政権が安定して来た江戸時代に入って幕府が各大名に系図の提出を求めた爲、『清和源氏=姓は源氏』などと揶揄されるような状態に陥ってしまってからのことと思われます。

こんな中で、、、今更、出身階級を取沙汰することもないのではないでしょうか。

秀吉の出自に関しては、後世はいざ知らず、当時はかなりオープンになっていたようです。

例えば、天正14年(1586年)に九州で大友宗麟(おおとも そうりん)と島津義久(しまず よしひさ)が戦っていた時、大友宗麟の要請で関白豊臣秀吉が島津義久に対して”停戦命令”を発しますが、その折島津家内で家臣上井覚兼(うわい かくけん)が述べて有名な言葉があります。。。

羽柴は、誠に由来なき人物であると世の中でいわれている。当家は頼朝以来変わることのない家柄である。しかるに羽柴へ関白とみなした返書を送ることは、笑止なことである。また、右のような由緒のない人物に関白を許すとは、何と「綸言(りんげん)」の軽いことであろうか。

(引用:日本史史料研究会編 『秀吉研究の最前線』2015年 洋泉社)

などと、島津家の一家臣が関白である豊臣秀吉のことを『由来なき人物』などと酷評し、また、、、

毛利の使僧安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)の天正12年(1584年)正月一日付書状に、、、

 

羽柴羽柴と申し候て、少事之儀ハ、小物一ケニても、又、乞食をも仕候て被存候仁・・・

(引用:服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』2013年 山川出版社)

とあり、以前の文書で秀吉への評価として「さりとてはのもの」と褒めちぎったあの有名な安国寺恵瓊が、本音では”羽柴羽柴と云ったところで、幼少時は小物(出自が卑しい)で、乞食をしていたというではないか”と秀吉を馬鹿にしています。

つまり、この時代の政治家には地方の端々に至るまで皆、関白豊臣秀吉という人物がどんな出自なのか周知されていたことを示しています。

と言う事は、秀吉の出自問題と豊臣政権が長期政権にならなかったことは、直接には関係しなかったようです。

むしろ、愛妾茶々(淀君)が生んだ自分の息子秀頼(ひでより)の政権相続に関する妄執の方が問題なのかもしれません。

 

まとめ

太閤(たいこう)と言うのは、関白(かんぱく)又は摂政(せっしょう)を子弟に譲って引退した人の地位を言うので、史上何人もの太閤がいるのではないかと思われますが、太閤殿下と言えば豊臣秀吉のことを言うようになりました。

これもひとえに、江戸時代初期の儒学者小瀬甫庵(おぜ ほあん)の書いた『太閤記(たいこうき)』が名を成さしめたと思われます。

その『太閤記』によれば、豊臣秀吉の出自は尾張中村の農村で、父は織田信長の父信秀(のぶひで)の”足軽(あしがる)”をしていたものの、合戦で負傷し中村へ引っ込んで百姓をしていたというものです。

別に、幕府旗本土屋知貞(つちや ともさだ)が書いたと思われる『太閤素生記(たいこうすじょうき)』にても、秀吉は尾張中々村の出身だとしています。

そんなことから、通説では豊臣秀吉は尾張中村の農民の子倅(こせがれ)から身を起し、織田信長に仕えて出世して、最後は日本を統一して戦国時代を終わらせ、権力者の頂点の関白へ登りつめた”英雄”となっており、居城が大坂城であったことから、特に関西地方で庶民人気の高い戦国武将のようです。

しかし、最近の中世研究の進展により、”豊臣秀吉の『非農民説』”が勢いを増して来ていて、未だ確定的になっている訳ではありませんが、中世社会の下層民の身分制度の解明とともに明らかになりつつあります。

いずれにせよ、豊臣秀吉の出自が、小作農民か、或はそれ以下の被差別民に近い下層民であった可能性もあるわけです。

ここで、豊臣秀吉が軍師として尊敬し頼りにしていた美濃の地侍”竹中半兵衛(たけなか はんべえ)”の息子”竹中重門(たけなか しげかど)”が残した『豐鑑(ほうかん・とよかがみ)』に、、、

羽柴筑前守豊臣(の)秀吉、天文六年丁酉に生れ、にちには関白になり昇り給ふは、尾張の國愛智郡中村とかやとて、あつ田の宮より五十町計乾にて、萱ぶきの民の屋わづか五六十ばかりやあらん、郷のあやしの民の子なれば、父母の名もたれかはしらむ、一族などもしかなり。

(引用:『新校 羣書類從 巻第三百七十九 合戰部十一 豐鑑 』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、秀吉は竹中半兵衛を軍師に迎える為に説得するに当たり、慧眼な半兵衛に自身の出自の真実を語っていた可能性が高いと考えられるので、この半兵衛子息の重門の遺した史料は秀吉の真相を語っているのではないかと思われます

これによれば、尾張の中村には違いが無くとも、問題は秀吉が”あやしの民の子”であり、生家は村はずれの賤民部落(被差別民部落)であった可能性が高いようです。

後年、九州征伐の折には、島津の家臣上井覚兼に”由来なき人物・由緒のない人物”と言われ、10年前には”さりとての人”と褒めちぎった毛利の使僧安国寺恵瓊に”幼少時は小物で、乞食をしていた”などと言われ、主な人物は秀吉が”賤民階級の出自”であることが知れ渡っていた形跡もあることから、農民以外の出身であった可能性も強くなっています。

しかし、”脱賤(だつせん)”と云って、お金を貯めて賤民階級から脱出し一家を成す人物も数多くいたことから、秀吉だけが特別な経歴と言う訳ではありません。ただ豊臣秀吉の栄達の仕方が尋常でなかったことから、殊更それを話題にする向きも多いという事でしょうか。

とにかく、豊臣秀吉と言う人物は、”最下層民”から”天下人”へ登りつめた事が、はっきりしている”日本の歴史上ただひとりの人物”らしいことは明らかなようです。

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参考文献

〇小瀬甫庵著・桑田忠親校訂 『太閤記(上)』(1984年 岩波書店)

『太閤素生記』国立国会図書館デジタルコレクション

〇阿部一彦 『「武功夜話」で読む 信長・秀吉ものがたり』(2013年 風媒社)

『祖父物語』国立国会図書館デジタルコレクション

〇服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』(2013年 山川出版社)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 豊臣秀吉<一>』(1981年 講談社学術文庫)

『新校 羣書類從 巻第三百七十九 合戰部十一 豐鑑 』国立国会図書館デジタルコレクション

〇網野善彦 『増補 無縁・公界・楽』(1990年 平凡社)

『絵本太閤記 巻之一 〇日吉丸見小六 の条』国立国会図書館デジタルコレクション

〇日本史史料研究会編 『秀吉研究の最前線』(2015年 洋泉社)

 

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