太閤豊臣秀吉の死後、正室ねねは豊臣家を守ろうとした!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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天下人豊臣秀吉と正室北政所の出自とふたりはどんな夫婦だったのか興味深いことが分かります。

秀吉の主君織田信長と秀吉の正室ねねの面白い逸話があります。

豊臣秀吉の正室北政所は、『関ケ原の戦い』では”東軍”だったってホント?

秀吉の正室北政所と側室淀殿との関係はどう?

”豊臣秀吉”と”ねね(北政所)”はどこから来たの?

”豊臣秀吉”の出自は?

通説では、豊臣秀吉尾州愛智郡中々村(現在の名古屋市中村区)の百姓の子と言う事になっています。

その根拠として、江戸初期に武田家遺臣土屋知貞(つちや ともさだ)と言う人の書いた『太閤素生記(たいこうすじょうき)』というものに、、、

太閤素生之事

一、尾州愛知郡ノ内ニ上中村中々村下中村ト云フ在所アリ秀吉ハ中々村ニテ出生

一、天文五丙申年正月大朔日丁巳日出ト均ク誕生幼名猿改メテ藤吉郎・・・

・・・、

一、父ハ木下彌右衛門ト云中々村ノ人信長公ノ親父信秀織田備後守鐡炮足輕也・・・

一、秀吉母公モ同國ゴキソ村ト云所ニ生レテ木下彌右衛門所ヘ嫁シ秀吉ト瑞龍院トヲ持・・・

・・・

(引用:『太閤素生記』国立国会図書館デジタルコレクション)

とこれが、通説の根拠と考えられていたものです。

大意は、”尾州中々村で、天文5年(1536年)1月1日に秀吉は生れ、幼名は”猿(さる)”、後に”藤吉郎”と言った。父は、木下彌右衛門(きのした やえもん)と言い、信長公の父信秀の鉄炮足軽だった。母なかも尾州御器所村に生まれ、木下彌右衛門の嫁となり秀吉瑞龍院(とも)を得た。”とあります。

ところが、、、

近年の研究では異説として、秀吉の生まれたのは、天文6年(1537年)2月6日で、母”なか”は、秀吉とも小一郎あさひの4人の子供を木下彌右衛門との間に生み、彌右衛門と死別の後、織田信長同朋衆の竹阿彌(ちくあみ)に再嫁したことが判明しています。

また、豊臣秀吉の出自に関しても、、、

一、太閤御親父ハ尾州ハサマ村ノ生レ竹アミト申テ信長公ノ同朋ナリ 太閤ハ申ノ年六月十五日淸須ミスノ、ガウ戸ト申所ニテ出生シ玉フ 幼名コチクトゾ申ケル・・・

(引用:『祖父物語』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”秀吉の父親は竹阿彌(ちくあみ)と言う織田信長の同朋衆(ここは通説と一致しています)で、清須の御園ゴウ戸と言うところで生まれた”とあり、、、

豊臣秀吉の出生地は中々村ではなくて、”清洲の御園町ゴウ戸”だと言っています。

これについて、歴史家の服部英雄氏は著書で、、、

この”淸須ミスノガウ戸”に関して、”清須の御園”は、定期市の立つ市場で、”ゴウト”は”渡し場”の事を言う事が多いことから、この場所は商業地として盛んなところだったと考えられます。そして、『太閤素生記』にある母親の出生地のゴキソ(御器所)とは、器などを作っていた職人が集まっていた場所と考えられます。

つまり、豊臣秀吉の出身地は、鄙びた農村ではなくて、にぎやかな商業地で、母親も流れ職人の家の出身である可能性が高いことから、豊臣秀吉は農民ではなくて、都市下層民の出身であると考えられます。

そして、豊臣秀吉の姉(とも)が嫁いだ”弥助”も、、、

海東郡ノウチオトノコウト申所に彌助ト云ツナサシアリ 是ハ藤吉郎姉ムコナリ・・・・、

馬カシタル姉ムコ彌助ニ五百石トラセケル 後ニ三位法印ト申セシハ カノ彌助カ事ナリ・・・

(引用:『祖父物語 324-325頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”海東郡の内 乙之子(おとのこ)村の出身に彌助(やすけ)と言う「つなさし」がおり、これは秀吉の姉ムコである。・・・秀吉に馬を貸した姉ムコの彌助を五百石で召し抱えたが、これが後の「三位法印(さんみほういん)」である。”

とあり、「つなさし」とは、領主の”鷹狩場のエサ係”のことです。つまり、織田信長が”鷹狩”をするの時に下働きする最下層民で、ほぼ”非人”と呼ばれる人のことですが、これが秀吉の姉(とも)ムコの彌助(やすけ)でした。つまり、関白となる豊臣秀次の実父となります。

こうした史料は、豊臣秀吉一家が”尾州中々村の百姓”ではなくて、尾州清須の町場の行商人街で生まれた最下層の貧民(被差別階級の民)だった事を伝えています。

と、以上のような見解を述べています。

これに従うと、豊臣秀吉は中村の農民どころか、清洲の船着き場近くの行商人街に生まれ、姉も織田家の御狩場の鷹の世話をしている最下層民と所帯を持ったことが分かり、後に関白になっても豊臣秀吉が大名筋から「あやしの人」とか「故なき仁」などと言われていることと話が符合して来て、これらの説の筋が通ることとなります。

出自が不明な豊臣秀吉に関して、この異説がもっとも説得力を持っていることは明らかです。

 

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”ねね”の出自は?

前出の土屋知貞の『太閤素生記』によれば、、、

幼名禰々御料人後政所・・・太閤本妻也 浅野又右衛門姪ナリ 太閤藤吉郎ノ時浅野又右衛門長屋ヘ入聟ト成テ來ラル 其長屋茅葺スガキ藁ヲ敷上ニ薄緑ヲ敷キ祝言シツルト政所殿サレ物語

(引用:『太閤素生記 308頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”幼名ねね御寮人は後の北政所、太閤秀吉の本妻で、浅野又右衛門の姪である。まだ太閤秀吉が藤吉郎の時、浅野又右衛門の長屋へ入り聟となった。その長屋は茅葺屋根で、藁を敷き詰めた上で祝言を上げたと北政所は語っている。”

また、『祖父物語』では、、、

・・・浅野又右衛門ト申者 是ハ信長公ノ御弓大将ニテ有ケルカ女房ニ語リケルハ小竹ハ利発モノナリ 我聟ニシテ娘オ子ヽヲ遣へシト語リケレハ・・・

(引用:『祖父物語 324頁』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”浅野又右衛門は、織田信長の弓大将(足軽組頭)であるが、女房へ言うには、小竹(藤吉郎)と言う男は賢い奴なので、娘のねねの聟(むこ)にしようと言った”とあります。

つまり、織田信長の足軽組頭であった浅野又右衛門が、信長の小者として働いている藤吉郎に目をつけ、娘のねねの婿にしたということが通説となっています。

ここでは、”ねね(後の北政所)”は、織田信長の弓大将浅野又右衛門の娘となっていますが、、、

歴史作家津田三郎氏によると、、、

ねねは、播州龍野出身の足軽”杉原助左衛門定利(すぎはら すけざえもんさだとし)”の二女で、母は”朝日”だと言います。ねねは妹のややと一緒に浅野又右衛門のところへ養女に出されて、そこで秀吉に嫁したと言われています。

ねねの兄の”家定”は、母朝日の実家の”木下姓を名乗り、木下家定”となって、戦乱(関ケ原・大坂の陣)の中、高台院(ねね)の警護を引き受け中立の立場を守り、江戸時代まで生き残って備中足守藩主となっています。

異説ですが、歴史家服部英雄氏によると、、、

”ねね”自身も実は清洲の行商人である”連雀商人(れんじゃくしょうにん)”の家の娘であったが、母の妹(七曲ーななまがり)が織田信長の足軽組頭浅野又右衛門の妻となっていたことから、浅野又右衛門の養女となり、折角最下層の身分から脱していた。

それなのに、よりによっての下層民出身(連雀商人など)の秀吉との縁談に、ねねの実母である朝日がこの縁談に猛烈に反対したが、妹七曲の取りなしで縁談が進んだと伝わっています。

つまり、秀吉ばかりでなく、妻となる”ねね”にもまた下層民出身であったとの噂があったようです。


(画像引用:京都高台寺ACphoto)

豊臣秀吉とねねはどんな夫婦だったの?

豊臣秀吉は、希代の”筆まめ”だったようで、膨大な数の公私に亘る文書が残されています。

そのお陰で、正室ねねへの手紙も多く遺されており、豊臣秀吉は恐らく名前の売れている戦国武将のなかでは、ダントツに”女房に書いている手紙”の数が多いのではないかと思われます。

 

長浜城主時代

北近江の長浜は、豊臣秀吉が初めて本格的な城持ち大名となった場所で、その統治の苦労を体験させられた場所でした。

旧浅井領の江北三郡を一括して領地として織田信長から任されたのですから、張り切って着手するのですが、、、

かへすかへすそれさま御ことわりにて候まゝ、まちの事ゆるし申候。よくよく此ことわり御申きかせ候へく候、以上

まちのねんく申つけ候ニつゐて、文くわしくはいけん申まいらせ候、

・・・

(天正二年)十月廿二日      藤きちらう ひて吉

こほ

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文章集 <一> 103こほ宛書状 35頁 』2015年 吉川弘文館)

大意は、”(町の年貢・諸役を免除して、城下町振興を図ったところ、領国の百姓が年貢に音を上げて、町へ逃げ込んで来るものが多くなった。それは怪しからんことなので、町に通常通り年貢・諸役を掛けることにした。)しかし、ねねが町の年貢を取り立てるのはやめたらどうかと言うので、言う通り元に戻した。町の年貢に関する事についての手紙は詳しく読みましたよ。”と言う事です。

つまり、領国の統治方針について、正室ねねがくわしく意見を述べる書状を秀吉に出していることになりますが、以後の流れを見ても秀吉側から、先に手紙を出して意見を聞いているのではないかと思われます。

これは、秀吉が正室ねねと二人三脚で武家稼業を進めている事の証拠ではないかと考えられます。

ここに、”戦国時代における正室の役割”がはっきりと出ているようです。

 

九州平定戦の時期

なをなをそくさいに候、そうかんかたの事もゆたんなく申つけ候まゝ、御心やすくおほしめし候へく候、

卯月八日の文、この九日ニさつまのくにせんたいがわのきわ大へいしにて□ミまいらせ候、まつまつ何事なく御そくさいのよし、御うれしく思まいらせ候、

一、つくし一へんに申つけ、しまついまいらせ候かこしまへ五里六里のあいたにむまおたて、しまつかうへをはね申へきところに、かしらをそり、一めいおすてはしり入候あいた、ぜひにおよはす、いのちをたすけまいらせ候事にて候、二三日中かこしまへこし、くにのしおきを申つけ、廿四五日ころにハちくせんのくにはかたへこし、大たう・なんはこくのふなつき候よし候まゝ、しろをちやうふに申つけ、人数のこしおき申へき事、

一、かうらいこくへ人数つかハし、かのくにせいはい申へく候まゝ、そのあいたはかたにとうりう申へく候事にて候、

一、つしま・いきのくにの物とも、のこらすことことくしゆしいたし候事、

一、しまつ一るいの物とも、ミなミなめしつれ、上らく申へき事にて候、ミきのとおりかたく申つけ、七月のはしめ比にハ、

「むまお入まいらせ候へく候まゝ、御心やすくおはしめし候へく候、

(天正十五年)五月九日      ひてよし

こほ   まいる            」

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文章集 <三> 2182こほ宛自筆書状 』2017年 吉川弘文館)

 

大意は、”こちらは元気ですよ。留守の警護もしっかりするように言ってありますから、安心していてください。4月8日に受け取ったあなたの文ですが、9日に薩摩川内川の際にある太平寺にて読んでいます。まずまず何事もなく元気の様子で嬉しく思います。

  1. 筑紫は一気に平定して、島津のいる鹿児島まで5~6里のところまで来ています。これから馬を押し立て、島津公の首をはねようと思っていたら、頭を丸めて投降して来たので、命は助ける事にしました。2~3日中に鹿児島へ行き、戦後処理をして、24~25日には博多へまで戻り、大唐・南蛮用の船着き場を直し、城を改築して、軍を駐留させます。
  2. 朝鮮の高麗国へ軍を送り、成敗させますので、その間博多に逗留することとします。
  3. 対馬・壱岐の島の武将たちも皆残らず恭順出仕して来ています。
  4. 島津には一族の武将を引き連れて、上洛するように固く命令しておきます。7月の始め頃には、馬に乗って凱旋しますので、安心していてください。”

のようなことです。

豊臣秀吉は、かくのごとく事細かに正室ねねに”報告”しています。これは完全に行動報告書であり、正室ねねが実質秀吉軍の幕閣のひとりであることを示しています

 

『小田原攻め』の時期

返々はやはやてきをとりかこへいれ候ておき候間、あふなき事ハこれなく候まゝ、心やすく候へく候、わかきミこしく候へとも、ゆくゆくのため、又ハてんかおたやかに申つく可候へ者、こいしき事もおもいきり候まゝ、心やすく候へく候、我等もやいとうまでいたし、ミのようしやう候まゝ、きつかい候ましく候、おのおのへも申ふれ、大めうともニにうほうをよはせ、小たわらニありつき候へと申ふれ、ミきとうとうりのことくニ、なかちんを申つけ候まゝ、其ためによとの物をよひ候ハん間、そもしよりも、いよいよ申つかわせ候て、まへかとによをいさせ候へく候、其もしにつヽき候てハ、よとの物我等のきにあい候ようニ、こかにつかれ候まゝ、心やすくめしよせ候よし、よとへも其もしより申やり、人をつかわせ候へく候、我等としをとり可候とも、としの内ニ一とうハ其方へ参候て、大まんところ又ハわかきミをもミ可申候まゝ、御心やすく候へく候、

さいさい人給候、御うれしく候、小たわら二三てうニとりまき、ほり・へいふたへつけ、一人もてき出し候ハす候、ことにははんとう八こくの物ともこもり候間、小たわらをひころしニいたし候へ者、大しゆまてひまあき候間、まんそく申ニおよはす候、二ほん三ふん一ほと候まゝ、このときかたくとしをとり候ても申つけ、ゆくゆくまても、てんかの御ためよきようニいたし候ハんまヽ、このたひてからのほとをふるい、なかちんをいたし、ひやうろ又ハきんきんをも出し、のちさきなののこり候やうニいたし候て、かいちん可申候間、其心ゑあるへく候、此よしミなミなへも申きかせ候へく候、かしく、

(天正十八年)四月十三日

五さ         てんか

(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <四> 3029 五さ宛自筆書状 』2018年 吉川弘文館)

 

大意は、”もう早くも敵を駕籠(城)の中に閉じ込めてしまったので、危ないことはないので、安心するように。若君(鶴松)は恋しいのだが、将来のため、又天下の平和のために、恋しい事も思い切る。私はお灸などして、体の養生に努めているので、気遣いは無用だ。皆にも申して、大名たちにも女房を呼び寄せ、小田原に入るようにと申している。右のとおりに長陣の準備を命じているので、淀殿を呼び寄せようと思う。そなたから淀殿に、用意するように伝えてくれ。淀殿も私の気に入る様に気を遣うだろうが、気楽に来ればよいので、その旨そなたから淀殿に伝えてほしいこちらからも人を出そう。私は年を取ったけれども、年内には一度そちらへ行って、母と若君に会いに行くので、安心してくれ。

度々応援の兵を送ってもらい、うれしく思う。小田原城の2~3町に渡って包囲し、堀・塀を二重に取り付け、一人も敵を外へ出さないようにした。この中には、関東八州の兵が立て籠もっているので、小田原城を兵糧攻めすれば、奥州まで空き地となり、これで満足なのは当然で、日本の1/3くらいになるので、ここで時間がかかっても、将来のためになるのだから、世の中の為になるようにしようと思う。この戦いは懸命に頑張り、長陣もし、兵糧もお金も使って、後に名前の残るようにして、凱旋しようと思うので、その旨を皆に説明しておこうと思っている。”

と言うような内容ですが、やはり作戦方針を細かく、正室ねね(北政所)に報告をしています。自分の在陣中の無聊を慰めるために淀君を小田原に寄越す手配まで、ねねに命じている秀吉には驚きです。ここも殿と正室と側室の役割分担がはっきりしていて面白いところです。

 

『唐入りー朝鮮出兵』の名護屋城在陣の時期の秀頼誕生の折

返々、子の名は、ひろいと申し候べく候。こなたを廿五日にいで申すべく候。やがて参り候て、御目にかゝり、御物がたり申し候べく候。

はやばやと、松浦人を越し候事、まんぞくにて候。そもじより礼申し候べく候。さだめて、松浦子を拾い候て、はやばやと申し越候間、すなはち、この名は、ひろい子と申すべく候。

したしたまで、おの字も附け候まじく候。ひろいひろいと申すべく候。やがてやがて凱陣申すべく候。心やすく候べく候。めでたく、かしく。

八月九日         大こう

おねへ

まいる

(引用:桑田忠親『太閤の手紙 お拾の誕生 194頁 』1985年 文春文庫)

 

大意は、”子供の名前は「ひろい」と名付けるように。こちらを8月25日には出発するので、すぐに行って、会って話しかけようと思う。早々に松浦讃岐守が、人を寄越して連絡してくれて満足している。

そなたからも礼を言っておいてくれ。松浦讃岐守が拾って、すぐに連絡してくれたので、この子の名は「ひろい」と名付けようと思う。下々まで「お」の字を付けずに「ひろい」と言っているようだ。すぐにも凱旋するので、安心してほしい。めでたいことであった。”

と言うようなことですが、秀頼を自分の子として正室ねねに扱うように話、ねねも当然のこととして扱っているような感じに受け取れます。

側室が生もうがどうであろうと問題なく、生まれた男の子は嫡男として扱い、母は正室であると言う事を改めて教えてくれます。

”銃後の守り”と言う言葉がありますが、正に武家の正室は、戦争に出た亭主の要請に応えてなんでもこなしてゆくと言う姿がよくわかる豊臣秀吉の手紙です。

しかし、戦国時代の女性は、後年の時代小説・映画・ドラマの中では、専業主婦のようなイメージで描かれていることが多いような気がしますが、現実には夫と変わらぬ活躍(領国経営)をしていたようです。

他国との合戦中に武具を身につける女性たちを見ることは、テレビ・映画では、一部しか出て来ませんので、見かけると奇異に感じてしまいますが、どうやらかなり普通にやっていたようです。

『女だてらに』と言う揶揄する言葉は的外れなのです。おそらく落城を前に落ち延びて行く女性たちの姿が時々描かれますが、彼女たちは本当に統治に係わっていない専業主婦だった女性たちなのでしょう。落城の時に正室が城と運命を共にするのは夫と同じ活躍をしているからだと思われます。

となると、領主たる夫と緊密な連絡を取りつつ、留守の統治を続けるのは、戦国武将の正室たちの普通の仕事なのでしょう。

となれば、合戦が多い戦国時代には、頻繁に現場に出ている領主の夫と連絡を取り合う留守将を引き受けている正室との往復書簡は実際はかなり多いはずですが、ほとんど目にしません。

最終的に天下人となった豊臣秀吉だからこそ、残ったのかもしれませんね。

まめにいちいち妻に連絡を取る(報告をする)秀吉を称して、恐妻家だったと言う歴史家の話もありますが、驚異的な出世をした豊臣秀吉を支えた糟糠の妻と言う面からみれば、互いに信頼感が強かったとも言えそうです。

出征地から手紙で指示してくる秀吉の軍務も含む要求を、粛々としてこなしてゆく北政所(ねね)の姿が浮かぶようで、やはりずい分従順で優秀な妻だったのでしょうか。

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織田信長から”ねね”へ手紙が来た!ホント?

おほせのことく、こんとハこのちへはしめてこし、けさんニいり、しうちやくに候、ことにみやけ色ヽうつくしさ、中ヽめにもあまり、ふてにもつくしかたく候、しうきハかりに、このはうよりもなにやらんと思ひ候へハ、そのはうより見事なる物もたせ候あひた、へちに心さしなくのまゝ、まつまつこのたひハとゝめまいらせ候、かさねてまいりのときそれにしたかふへく候、なかんつく、それのみめふり、かたちまて、いつそやみまいらせ候折ふしよりハ、十の物廿ほともみあけ候、藤きちらうれんれんふそくのむね申のよし、こん五たうたんくせ事候か、いつかたをあひたつね候とも、それさまほとのハ、又二たひかのはげねすみあひもとめかたきあひた、これよりいこハ、みもちをようくわいになし、いかにもかみさまなりにおもおもしく、りんきなとにたち入候てハ、しかるへからす候、たゝし、をんなのやくにて候あひた、申ものヽ申さぬなりにもてなし、しかるへく候、なをふんていに、はしハにはいけんこひねかふものなり、 (信長朱印)

藤きちらう をんなとも     のふ

(引用:奥野高廣『増補 織田信長文書の研究 下巻 (628)[附録]羽柴秀吉室杉原氏宛消息 』1994年 吉川弘文館)

 

大意、”言われるように、今度初めてこの安土に来て、またそなたと会う事が出来てとてもよかった。またたくさんの土産の品、筆舌に尽くしがたい美しいものばかりで、何か祝儀を渡そうと思ったが、そなたのものがあまりに素晴らしいので、思いつかずこの度は止めにした。今度にしょう。

また、そなたの器量が以前に会った時より、倍ほどにより良くなっている。藤吉郎が不足を申しているとはけしからん話だ。どこを見てみてもそなたのほどの女人は、あの「はげねずみ」には二度と見つけることは出来ないのだから、これからは、そなたももっと気持ちを明るく持ち、如何にも奥方として堂々として、焼きもちなど起してはいけない。ただし、夫の世話をするのは、女の役目なのだから、今後あまり言いたいことを言わずに面倒見てやりなさい。この手紙にあるように、藤吉郎には意見してやってくれ。”とのことです。

ねね”は、安土築城の監督に出向いてきた織田信長のところへ、出陣している夫秀吉に成り代わって、長浜から手土産を多数持参して信長のご機嫌伺いに現れ、そのついでに、夫の女性出入りの激しさの愚痴をこぼしたところ、信長からすこしたしなめられたもののようです。

しかし、戦国の魔王と恐れられた織田信長にして、部下の女房への気遣いまでする良い上司ぶりを発揮しています。

驚いた一面を織田信長は見せていますが、他の重臣たちの妻にもそのような気遣いをするのでしょうか。どうやら、ほかには見当たりませんので、どうも”ねね”にだけのようです。

通説での説明は、織田信長が豊臣秀吉のその働きを大きく評価しているために、このような慈愛に満ちたアドバイスを忠臣の女房である”ねね”したのだと言われていて、織田信長の隠れた一面が分かる大事な史料だとされています。

異説では、織田信長は秀吉とは違い女性たちに頻繁に手紙を出すことはなく、この手紙の存在は、織田信長とねねの関係が特別なものだと示唆していると言います。

つまり、幾ら忠義に励んだとしても、豊臣秀吉の出世のスピードは異例中の異例で、幸運だけでは説明できないと考えられており、本当は”ねね”が信長の娘だったのではないかと疑っています。

要するに、豊臣秀吉は、こういうことには、異常に長けた男なので、信長に仕官した経緯でも、信長が通い詰めていた尾張の郡村の土豪生駒将右衛門の妹”類(るいー吉乃)”に近づいて取入り、愛人関係にあった織田信長との関係作りに成功しています。

ですから、信長の傅役平手政秀が、信長が町娘に生ませた子(ねね)を弓大将の浅野又右衛門の養女にしていたのを知り、秀吉は、ねねを織田信長の娘と知って近づいたのではないかと云うものです。

そうなるとそもそも身びいきな織田信長が、勤めも人一倍頑張る娘聟の秀吉をほっておくはずがなく、結果異例の大出世をしたと言う謎解きです。

いかにかわいい部下だとて、あの織田信長が、身内でもない部下の女房にまで気を遣うはずはない(当然他の例は皆無)と言う理屈で、織田信長は娘夫婦のことだから、あれだけ世話を焼いているのだと言う説です。

案外これはありそうな面白い話ですが、25歳の秀吉と結婚したねねが14歳だったことが分かっており、そうなるとねねは信長が7歳くらいの時の子になりそうなので、残念ながらこれはまず無理スジですね。

織田信長が若い頃、織田家の中でねねの養父浅野又右衛門は、信長の頼りにしていた弓大将だったのでしょうね。その娘のねねの事は、信長も気にかけていたのではないでしょうか。

ねねも美形好きの織田信長のメガネにはかなわなかったものの、その頭の回転の良さは家中でも評判だったのではと思います。

豊臣家は、どうやら夫婦ともに主君織田信長のお覚えめでたかったようですが、加えて信長は”忠義者の切れ者”が好きだったんですよね。

 

『関ケ原の戦い』で、北政所(ねね)は徳川方についたの?

慶長3年(1598年)8月18日、太閤豊臣秀吉が病死し、その時までに、実父杉原定利(すぎはら さだとし)、実母朝日、義母なかを失っていた”ねね(北政所)”は、実子が生まれなかったこともあって、親類縁者以外には守るべき者がいない孤独な存在となりました。

もそも権力欲の薄いねねは、夫豊臣秀吉主筋の側室”茶々(淀殿)”とは”そりが合わない”こともあり、大坂城からの退去を考えていましたが、夫の盟友で、豊臣家世継ぎの秀頼の傅役である前田利家(まえだ としいえ)の取りなしで大坂城西の丸に留まりました。

しかし、翌慶長4年(1599年)3月に前田利家が病死すると、加藤清正ら豊臣家武功派の大名と、石田三成ら吏僚派の奉行たちの対立が一気に表面化し、徳川家康の裁定で”石田三成”が罷免され領地の佐和山城蟄居処分にて一応事態は収まります。

4月に入り、元太閤豊臣秀吉の神廟である「豊国社(とよくにしゃ)」が完成し、4月18日に正遷宮(しょうせんぐう)がおこなわれ、各大名の社参(しゃさん)が始まりました。ねねは4月25日に親類一同とともに社参します。

その頃から、ねねは大坂城退去を決意し、京都新城に高台院三本木屋敷(現仙洞御所の場所)を設け、7月より仮住まいを始め、9月26日に正式に大坂城西の丸から京都へ退去し、夫の菩提を弔う生活へと入って行きます。

一方、3月の政変で豊臣家吏僚派(文治派)の首領石田三成(いしだ みつなり)を政権の中枢から取り除いた徳川家康は、居城の伏見城より京都の居館にねねを度々訪ねて根回しを重ね、ねねが大坂城より退去した2日後の9月28日に、秀頼の後見役として伏見城よりねねが退去した大坂城西の丸へ入り、事実上豊臣政権の実権を握ります

この間に徳川家康とねねとの間でどのような話し合いがもたれたのか、確実なものはなにも残っていませんが、おおかたこの時にその後の歴史を決める話し合いがもたれたものと考えられます。

この時、豊臣秀吉未亡人の”ねね(北政所)”から何らかの了解を取り付けた、或は”ねね(北政所)”との妥協・取引が成立したと思われる徳川家康のその後の動きは迅速でした。

誰も秀頼が豊臣秀吉の実子だとは考えていないこともあり、豊臣家は分裂し、いわゆる”豊臣恩顧(とよとみおんこ)”の武闘派(武功派)大名・重臣たちは、皆豊臣秀吉夫人でほぼ養母ような”ねね(北政所)”の下に結集してゆきます。

そして、1年後の慶長5年(1600年)4月18日に京都阿弥陀ケ峯(あみだがみね)の「豊国社」で、例大祭が行われ、そこに社参した徳川家康は、それ以後”反徳川派大名”を一掃する目的に向かって動き始めます。

徳川家康は、同じ五大老のひとりである上杉景勝が領国の城の修理をしていたのに言いがかりをつけ、これに引っかかった上杉に対して、家康は諸大名に上杉討伐の出陣命令を出し、一気に政権奪取の大博打に出ます。

家康の主力は、北政所(ねね)の下に集まる豊臣家武闘派大名たちで、ねねからは家康へ味方するように指示が出ていたものと考えられます。(これが”ねね”と”家康”の成立した妥協ではないでしょうか)

簡単に言えば、家康はねねへの調略を成功させていた訳で、これを頼みとして家康が攻勢に出た訳です。

結果は、”家康側であった伏見城”攻撃に間違って参加してしまった小早川秀秋(こばやかわ ひであき)が北政所に怒鳴られて、家康側に寝返り、西軍石田三成は『関ケ原の戦い』に大敗し、徳川家康はまんまと政権奪取に成功した訳です。

このように、思いは別として、北政所(ねね)が『関ケ原の戦い』に関して、徳川家康に味方したことは、事実だと思われます。

石田三成は、北政所(ねね)の真意を見誤り、その力(影響力)を見くびっていたのでしょう。豊臣秀吉が没してからまだ2年も経っていなかったのですから、秀吉子飼いの武将たちにとって”ねねの命令は、秀吉の命令だった!”のではないでしょうか。豊臣一族のゴッドマザーですね。

 

北政所と淀殿の関係は?

豊臣秀吉とねね(北政所)の夫唱婦随とも言える戦国時代の模範的な夫婦関係は、秀吉が恐妻家であったと言われるような事もあるほど”ねね”を大事にしていて、現代に生きる私から見ても他の戦国武将の夫婦では見られないほど理想的なものでした。

これは、恐らく豊臣秀吉が武家の出身でなかったことが、幸いしたものと考えられます。やはり、織田信長や徳川家康ら戦国武将の政略結婚した夫婦たちとは、全く違ったあたたかなものが感じられます

そんな秀吉とねねも実子が出来なかったことと、秀吉の異例とも考えられる出世のため、武家出身の女性たちが側室としてなだれ込んで来たことから、新たなねねの正室としての役割が生じます。

幸運にも主家の織田家から政権を簒奪(さんだつ)することに成功した豊臣秀吉は、織田家中で憧れの女性、主君織田信長の妹御お市の方の娘茶々(淀殿)を側室として獲得してしまいます。

ある意味、秀吉夫婦にとって”茶々は戦利品”でもあるのですが、その茶々に子を産ませることを極秘に夫婦で決めたのではないかと考えられます。

恐らく子種のない秀吉の、たっての希望(茶々に執心)に”ねね”が同意したのでしょう。

どうやったのかに関しては、最初の子”鶴松”が夭折した後、『朝鮮出兵』で秀吉が九州の名護屋に在陣中に、淀殿が二人目の”お拾い(秀頼)”の出産し、その後に起こった事件がこの”種明かし”をしてくれます。

関白は名護屋在陣中、運勢占いをする陰陽師たちが、大坂城の女たちから十本の金の棒を取り上げた事実を知ると激昂し、その地方にいる陰陽師たちを召喚した。・・・

関白の宮殿の女たちの間でも多くの不行跡がみられたので、多数の男女と仏僧が関白の命によって死刑に処せられた。・・・・。僧侶たちは人目につかぬところで、女たちと数知れぬ紊乱、かつ破廉恥な行為に耽っている。よって、予はこれらの僧侶たちを朝鮮に遣わすであろう、と。

(引用:松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史⑤豊臣秀吉編Ⅱ 第45章 283頁』2014年 中公文庫)

 

唱聞師払いの儀あり、大坂において、在陣の留守の女房衆みだりに男女の義を問い、金銀多くとりそうろう罪によってなり、

(引用:河内将芳 『落日の豊臣政権』2016年 吉川弘文館 『時慶記 文禄二年十月十九日の条』からの引用文)

 

とあり、何かの拍子に豊臣秀吉夫妻・淀殿の秘密が漏洩し、大坂城内で問題を引き起こしたようで、”すべては城内の風紀の問題だった”として大掛かりに取り締まって処分を断行し、事実を隠蔽したようです。

つまり、後継者のいない武家にある”内密の手立て”のようですが、要するに”茶々に種馬をつけた”と言う事の秘密が漏れたので、関係者の一斉処分を恐らく北政所が差配して実行したものと考えられます。

そしてこの『声聞師(しょうもんじ)追放令』が出されたのは、文禄2年(1593年)10月19日頃と考えられます。

このあとに、声聞師たちが全国的に集められたようですが、

爲御諚申入候、仍日本國之陰陽師京都へ被召集候、御分領之内一人も不残妻子共ニ被仰付、急度被副御使者可被差上候、畢竟豊後國ニ居住候様可被仰付之旨候、不可有御油斷候、恐々謹言、

十一月七日                           民部卿法印 玄以  (花押)

石田治部少輔三成  (花押)

浅野弾正少輔長吉  (花押)

羽柴吉川侍従殿
人々御中

(引用:『大日本文書 家わけ九ノ一 吉川家文書之一 816前田玄以外二名連署奉書』国立国会図書館デジタルコレクション)

大意は、”太閤様のご命令により通達します。日本国中の陰陽師を京都へ集めてください。領内に一人の妻子も残らないようにしてください。かならずお使者が参ります。結局豊後の国に居住させるように命じられますのでご油断なきようにお願いいたします。”

と毛利の吉川家に文書が残っており、当時、豊臣秀吉の命令で声聞師(陰陽師ーおんみょうじ)が全国的に摘発され集められたのは事実のようで、大坂城での事件の存在を裏付けるものとなりそうです。

因みに、”おひろい(秀頼)”の誕生は、文禄2年(1593年)8月3日のことです。

そして、無事茶々が世継ぎの秀頼を出産したことから、茶々(淀殿)の豊臣家中での地位は上昇して行きます。

それは、秀吉からの”茶々宛ての手紙”が増加していくことで徐々に表れて来ます。

 

かへすかへす、ひろいに乳をよくよくのませ候て、ひとね候べく候。ちゝ足り候やう、飯をもまいり候べく候。すこしも、もの気にかけ候まじく候。以上。

鷹の鳥五つ、蜜柑の髭籠三つ、進じ候。

一日は文給はり候。返事申し候はんところに、いそがはし事候て、返事申さず候。おひろい、なほなほけなげに候や。ちゝもまいり候や。やがても参り申し候はんが、糾明をいたし候て、参り申すべく候。そなたへわが身こし候はヾ、業腹立ち候はんまゝ、まづまづこなたにて聞きとヾけ候て、すまし候て、参り申すべく候、かしく。

廿五日
伏見より 大かう
おちゃちゃへ

(引用:桑田忠親 『太閤の手紙 お拾の誕生 195頁』1985年 文春文庫)

大意は、”お拾には乳をよく飲ませて、寝かせてください。乳が足りるように飯などよく食べて、あまりくよくよしないように。鷹の鶏肉五羽、みかんのかご三つを送っておきました。

一日に手紙をもらっていましたが、忙しくて返事をしていませんでした。おひろいは元気にしていますか。乳もあげていますか。まもなくそちらへ行きますが、色々糺してから参ります。”くらいの事です。

このような文のやり取りが、以前のように北政所経由からではなくて、直接に行われることが増えて行き、若君の生母が近江浅井氏の姫君と言う事から、石田三成ら近江出身の吏僚たちが淀殿の廻りに集まり始めます

一方、尾張出身の武功派大名たちは北政所の子飼いの者たちで、おのずと派閥が分かれて行きます。

そして、”極端な秀吉嫌いだったお市の方”のその娘である淀殿は、北政所とおのずと距離が出来ており、両者は自然と反目しているような立場となって行きます。

これが、徳川家康に利用されてゆく原因となっていきます。

正室として豊臣家を運営する立場の北政所と、天下人豊臣秀吉の愛妾として力を蓄えてゆく淀殿は、跡継ぎの秀頼の成長とともに関係が悪化して行ったものと考えられます。

淀殿がもっとしたたかに、北政所ねねを立てて従順に従っていれば、ひょっとすると徳川家康の時代は訪れなかったかもしれませんね。

 

大坂城落城後のねね(高台院)はどうなったの?

前に見たように、ねねは豊臣恩顧の大名に対して西軍ではなくて、東軍の徳川家康支持を明らかにして、関ケ原の戦いの東軍勝利に大きく貢献をしました。

大坂城の豊臣家が家康に追い詰められてゆく中、秀吉が作り上げた天下の政権存続には何の未練もない”ねね”は徳川家康と比較的良好な関係を保ち、秀吉の遺した親族たちの安泰を願って、政権を取った徳川家康との妥協を重ねながらも一族の生き残り策を模索していました。

一方、徳川家康は『関ケ原の戦い』から辛抱強く15年、豊臣系の加藤清正ら主だった武功派大物大名たちの始末がつくのを待ってから、慶長19年(1614年)8月の方広寺の大仏開眼供養の開催を契機に、満を持して豊臣家滅亡への動きを始めます。

大坂城に結集した真田信繁ら関ケ原西軍残党武将たちも懸命に抵抗を続けますが、奮戦空しく徳川の大軍に殲滅され、慶長20年(1615年)5月8日に大坂城は落城し、豊臣秀頼と淀殿の自刃で『大坂の陣』は終了し豊臣家は滅亡します。

ねねが願っていた秀頼の助命も叶わず、7月9日には、ねねが心の拠り所として家康から存続の約束を得ていたはずの、豊臣秀吉を祀る”豊国社(とよくにしゃ)”の破却が決定されるなど、ねね(北政所)は、徳川家康と事前に取り決めたことがほぼ反故にされてしまいました

そして、直後の慶長20年(1615年)7月13日に、徳川家康は”慶長(けいちょう)”から”元和(げんな)”への改元を実施することによって、完全に豊臣時代を払拭して”徳川時代”へ変る事を国内に宣言しました。

役割を終えたように、徳川家康は翌元和2年(1616年)4月17日駿府城にて死去し、家康に騙され続けた”ねね(高台院)”は、高台寺を何とか守り寛永元年(1624年)9月6日に高台寺の屋敷にて生涯を終えました。秀吉の死後26年後の事でした。

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まとめ

”ねね”は、天下人豊臣秀吉の”糟糠(そうこう)の妻”で最後まで添い遂げ、慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなった後は、必死になって秀吉の菩提(ぼだい)を弔うとともに、秀吉と自分の眷属(けんぞく)を守り通そうとした戦国の女性です。

ねねは普通に大人しく収まっている奥方ではなく、夫の政治に容喙(ようかい)したとまで言われますが、秀吉から求められる意見に対し的確な助言を与え、また協力実行する模範的な戦国大名の妻でした。

二人の出会いの真相に関しては、町場の下層民(河原者)出身の豊臣秀吉に対して、ねねは織田信長の足軽組頭であった浅野又右衛門の養女、武家の娘となっていましたが、恐らくねねが母”朝日”の清須の連雀商人であった実家に遊びに行った折に、以前からねねに目を付けていた秀吉に手籠めにされたものと考えられ、この婚儀に関してねねの母”朝日”は秀吉の出自が卑しいことを理由にして徹底して反対し、その後どれだけ出世しても一生豊臣秀吉を許さなかったと言います。

出会いの事は別にして、その後の秀吉は、武門の妻として政策面での意見を聞くなど”ねね”を立て続け、若い頃からの”ねねへの想い”を貫き通したところは、信長や家康とは違う面を見せています

誤算があったのは、夫婦に実子が出来なかったことですが、代りに夫婦の親類縁者の子たち(加藤清正・福島正則・浅野長政ら)を大事に育ててファミリーを大きくして行くことが出来ました。

しかし、秀吉が異常に憧れていた織田信長の妹お市の方の長女”茶々”を側室にして、茶々に跡継ぎを生ませることを考えたことから、”秀吉とねねの豊臣家”の命運は大きく傾いて行ったのではないかと思われます。

案の定、北政所ねねと後継者秀頼のお袋様淀殿(茶々)とで、家中が2分して行き、秀吉の死去とともに両派の対立は修復が効かないほど激化し、豊臣家中は分断されてゆきます。そのすき間を老獪な政治家徳川家康に巧妙に利用されて、豊臣家は滅亡へと向かって行きました

天下人豊臣秀吉が亡き後、ねねは一種の女性宰相として揺れる豊臣家を支え続けましたが、夫豊臣秀吉に代わる力のある政治家のパートナーは現れず、その振りをして近づいて来た徳川家康に巧妙に政権を簒奪されて行きました。

ねねと淀殿が、がっちりスクラムを組んでいたら、おそらく徳川家康の江戸時代は来なかったのではないかと思われます。

そうなると、現在の日本の首都は”東京”ではなくて、”大阪”になり、標準語は関西弁だったかもしれませんね。

 

参考文献

〇桑田忠親 『豊臣秀吉研究』(1975年 角川書店)

〇阿部一彦 『「武功夜話」で読む信長・秀吉ものがたり』(2013年 風媒社)

〇服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』(2013年 山川出版社)

『祖父物語』(国立国会図書館デジタルコレクション)

〇津田三郎 『北政所』(1994年 中公新書)

〇桑田忠親 『太閤の手紙』(1985年 文春文庫)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文章集 <一> 』(2015年 吉川弘文館)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文章集 <三> 』(2017年 吉川弘文館)

〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <四> 』(2018年 吉川弘文館)

〇松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史⑤豊臣秀吉編Ⅱ』(2014年 中公文庫)

〇河内将芳 『落日の豊臣政権』(2016年 吉川弘文館 )

『大日本文書 家わけ九ノ一 吉川家文書之一 』(国立国会図書館デジタルコレクション)

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