太閤豊臣秀吉の墓の存在は、家康の徳川幕府の脅威なの?

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太閤豊臣秀吉お墓の場所が分かります。

徳川家康豊臣秀吉の墓を破壊したのかどうか分かります。

なぜ徳川家康豊臣家倒すために14年間も掛かったのかが分かります。

日光東照宮豊臣秀吉が祀られている!ホント?

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豊臣秀吉の墓はどこにあるの?

太閤豊臣秀吉は、慶長3年(1598年)8月18日に伏見城にて病死したとされています。

辞世の句と言うのは、あの有名な、、、

『 露と落ち 露と消えにし  わが身かな

浪速のことも  夢のまた夢 』

ですね。秀吉とねねのふたりで築き上げた豊臣家でした。

秀吉の遺体は、”吉田神道”にて神葬にてその日のうちに京都東山にある阿弥陀ケ峯に仮埋葬されたと言われています。

豊国神社画像


(画像引用:豊国神社ACphoto)

所在地地図
豊国廟( 605-0924 京都府京都市東山区今熊野阿弥陀ケ峰町 )

しかし、正式には慶長4年(1599年)4月13日に豊臣秀吉の遺体は伏見城から阿弥陀ケ峰(あみだがみね)へ移送されたとされ、4月17日に後陽成天皇の勅命として『豊国大明神(とよくにだいみょうじん)』との神号が付けられ、4月18日に”遷宮(せんぐう)”が行われました。

豊臣秀吉にはいわゆる”葬儀”と云うものは行われていないようで、つまり、秀吉は人間として死んだのではなくて、そのまま”神”になったと言うことらしいです。

死後このように遅れたのは、直後から神宮の造営を始め、出来上がってから正式に豊臣秀吉は”神”となった(葬られた)と言う事になるのでしようか。

翌4月19日に、徳川家康は、”秀頼公御名代、家康社参と言う事で、豊臣秀頼の名代として、参詣したようです。

 

豊臣秀吉の墓は徳川家康に破壊されたの?

前述のように、死後豊臣秀吉は『豊国大明神(とよくにだいみょうじん)』と号され、慶長4年(1599年)4月18日に正遷宮(しょうせんぐう)され、廟名”豊国社(とよくにしゃ)”となりました。

お墓は、豊国社の背後にある阿弥陀ケ峰に作られています。

北政所(ねね)は、夫豊臣秀吉を祀る”豊国社”が創建された年の9月26日に、大坂城西の丸から京都三本木屋敷に移り住み、豊国社に通って夫の菩提を弔う日々に入りました。

年が変わって、豊臣秀吉の遺言など守るつもりもない徳川家康は、着々と政権固めを進めて行きますが、反徳川の急先鋒であるうるさい石田三成は政権から追放したものの豊臣家を守護する勢力は残存したままで、これを一掃する戦略として、世に言う『関ケ原の戦い』が始まりました。

結果、反徳川派を一掃した徳川家康は、慶長7年6月11日になって突然、阿弥陀ケ峰の豊国社の本殿前にある神聖な唐門”極楽門”を琵琶湖の竹生島観音へ寄進します。こうして豊臣家関係に直接手を出し始めます。

翌慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康に”征夷大将軍”の宣旨が下り、徳川政権の誕生です。そして豊臣家を懐柔するために7月豊臣秀頼と家康の孫娘千姫を婚儀が行われました。

豊臣家と徳川家の婚儀を終えてひと安心した北政所は、11月3日に朝廷に院号を願い出て『高台院(こうだいいん)』を賜ります。

翌慶長9年(1604年)8月の”豊臣秀吉七回忌”の臨時祭は、信長時代を彷彿とさせるような大規模な神官の馬揃えなども挙行され京都の町衆が大変盛り上がり、一方伏見の徳川家康はその様子を聞くに及んで、いまだに続く”秀吉人気”に不快感を表し、社参どころか城に籠りきりで、その家康の顔色をうかがう伏見に詰めていた大名たちも豊国社への社参を控えたと言います。

北政所は、秀吉の臨時祭が終わるとともに、『高台寺』の建立に向かって動き出します。

それは、徳川家康の全面協力もあり、慶長11年(1606年)8月8日に無事『高台寺』は落慶の日を迎えます。

そして、失火により焼失していた方広寺大仏殿は、徳川家康からの再建への勧め(豊臣家の莫大な蓄財を浪費させるため)もあって、慶長16年から造営に取り掛かり、慶長19年(1614年)1月に竣工しました。この年は、豊臣秀吉の17回忌にもあたり、8月に高台寺大仏の開眼供養と合わせて盛大な例大祭を開催することなり、これを目がけて徳川家康の豊臣家滅亡作戦がとうとう始まります

”方広寺梵鐘問題”に端を発した徳川家康の攻勢(大坂の陣)は、翌慶長20年(1615年)5月8日の大坂城落城・豊臣家滅亡で幕を閉じました。

その後”社領改め”が行われ、7月9日になって、家康の沙汰が示され、”豊国社は社頭一円取り潰し、秀吉の廟墓を大仏殿の境内に移し替える”との懲罰となって現れました。

神領破却・社領神官の知行召しあげと言う徳川家康の沙汰に、それを聞いた北政所は、すぐさま二条城へ駆けつけて徳川家康へ嘆願に及びます。

その結果”豊国社”は、”崩れ次第(つまり破却はせずに放置する)”と言う沙汰に代り豊国社の社殿は取り壊されずに残る事となりました。

しかし、豊国社外苑部はすべて取り壊しとなり、壮大な楼門・参道沿いの僧坊殿舎・石灯籠・鳥居などは姿を消し、表から見ると豊国社は完全に姿を消したようになってしまいましたが、神廟・廟堂などは残りました。

広大な境内は、大仏殿を管理する妙法院に下げ渡されて、廃屋の姿となった豊国社と秀吉の墓は完全破却は免れたものの、阿弥陀ケ峰の西麓に封じ込められ歴史の舞台からは完全に姿を消すことになりました

 

徳川家康はなぜ北政所との約束を破って『豊国社』を破却したの?

豊臣秀吉の死後に徳川家康が北政所と関係を深めていた狙いは、豊臣家を分断させることでした。北政所側についている尾張出身”武功派大名たち”の存在を、家康は恐れていました。これを味方に付ける、少なくとも敵対しないために、彼らに強い影響力を持つ北政所との友好関係構築は必須だったのです。

時間をかけても、その北政所のまわりに集まる豊臣恩顧の武功派大名たちの排除(自然死も含めて)を図ることが、徳川家康の大阪豊臣家滅亡・徳川政権確立のために絶対条件だったと思われます。

それを達成するまでは、北政所との関係を繋いでおくことが必要で、勿論、どんな約束でもしたことでしょう。

そうです。お察しのとおり、徳川家康にとって、もう北政所の影響力が薄れた又は、頼りにする必要がなくなった事が、『豊国社』が破却された理由だったのです。

徳川家康が北政所に対して害する行為をした場合に、豊臣家ゴッドマザーである北政所のところに結集する可能性のあった有力大名は、、、

  • 慶長16年(1611年)4月に”浅野長政(あさの ながまさ)”享年65歳
  • 慶長16年(1611年)6月に”堀尾吉晴(ほりお よしはる)”享年69歳
  • 慶長16年(1611年)6月24日に”加藤清正(かとう きよまさ)”享年53歳
  • 慶長18年(1613年)1月に、”池田輝政(いけだ てるまさ)”享年50歳
  • 慶長18年(1613年)8月に、”浅野幸長(あさの ゆきなが)”享年38歳
  • 慶長19年(1614年)5月に、”前田利長(まえだ としなが)”享年53歳

と、このように慶長16年(1611年)3月に加藤清正・浅野幸長らの尽力で、豊臣秀頼が京都二条城にて徳川家康との面会を果たした以降から相次いで死去して行き、残ったのは福島正則だけとなり、徳川家康の目の前の視界が急速に晴れて行ったのが分かります。

これで、前提条件が揃ったと考えた徳川家康は、慶長19年8月の方広寺大仏開眼供養に目をつけ、難くせをつけて大阪豊臣家滅亡させる作戦に踏み出してゆきます。

徳川家康は、慶長5年(1600年)の『関ケ原の戦い』以来苦節14年も掛かって、慶長20年(1615年)5月8日に、やっと大坂城落城ー大阪豊臣家滅亡の目的を達成します。

そうなると放置しておけば、再び親豊臣派残党の拠り所になりかねない豊臣秀吉慰霊施設である『豊国社』の廃棄は、徳川家康にとって絶対条件だったと思われます。

事実、この徳川家康の明らかな裏切りに対して、北政所は何の有効な手立ても打てず、家康にやらっれぱなしでした。

もう北政所が頼みとする”秀吉・ねね”子飼いの大名たちは、『大坂の陣』以前に鬼籍に入っていて、この時ねねを助けに現れませんでした。

 

徳川家康の霊廟である日光東照宮になぜ豊臣秀吉が祀られているの?

ネットで調べてみますと、、、

『栃木県神社誌 神乃森 人の道』(栃木県神社庁/編、発行 2006)
p.189-207が、「東照宮」の記述です。確かにこちらに「配神 豊臣秀吉公 源頼朝卿」との記述があります。
このことについて、「由緒沿革」の中に「明治六年六月九日、東照宮は別格官幣社に加列し、(略)御祭神については、相殿神として源頼朝卿・豊臣秀吉公が配祀された。」との記載があります(p.192)。

(引用:栃木県立図書館 『2014年9月11日の質問への回答欄 資料「栃木県神社庁編/2006年発行 《栃木県神社誌 神乃森 人の道》」より

とあります。

他の関係記事を見ても、明治になって日光東照宮が、明治政府によって”別格官弊社(べっかくかんぺいしゃ)”に指定された折に、”源頼朝”・”豊臣秀吉”が合祀されたと短くコメントがあります。

“源頼朝”に関しては、主神の徳川家康が源氏として尊敬していたと言われていますので、さもありなんですが、”豊臣秀吉”に関しては、豊臣家を滅ぼした徳川家康ですから、これは非常に不思議なことです。

これに関するコメントで多いのは、明治新政府は徳川の世を一掃する必要があり、またぞろ徳川残党に復活されても困ると言う事で、徳川家守護神の徳川家康を祀る『日光東照宮』に、徳川を抑えると言う意味で豊臣秀吉に登場してもらったという説明があり、これが案外正解のように思われます。

『豊臣秀吉』は、明治の『富国強兵策』の時代に再見直しされておりますので、こうした役目をまた仰せつかったと言う事でしょうか。

徳川家康も草葉の陰でさぞかしびっくりしている事でしょうね。

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北政所・淀殿・秀頼・国松の墓はどこにあるの?

北政所墓所  高台寺霊屋

(画像引用:絹本着色高台院像 高台寺所蔵)

〒605-0825 京都府京都市東山区下河原町526

 

淀殿墓所


(画像引用:伝淀殿画像 奈良県立美術館所蔵)

大阪府大阪市中央区大阪城1 淀君の墓

 

伝秀頼墓所


(画像引用:豊臣秀頼像 養源院所蔵)

『大坂の陣』の折、真田信繁・大助親子が豊臣秀頼を守り、鹿児島まで落ち延びたと言う伝承だそうです。

〒891-0141 鹿児島県鹿児島市谷山中央4丁目4869

 

豊臣国松墓所(豊国廟太閤坦)松の丸殿のとなり

〒605-0926 京都府京都市東山区今熊野北日吉町61−1

 

 

まとめ

慶長3年(1598年)8月18日に、太閤豊臣秀吉は死去しました。

本人は、後の徳川家康ほど長生きすることを考えていたのでしょうが、想定よりずいぶん早く思いもかけず寿命が尽きてしまい、豊臣秀吉は後継体制を固めることに完全に失敗してしまいました。

こんなことになるのなら、予定通り関白豊臣秀次にそのまま後を託しておくべきだったのですが、すでにあとの祭りでした。

最終場面では、『五大老五奉行』体制をつくり、残された後継者”おひろい(秀頼)”をサポートさせることで乗り切ろうと考えたのです。

問題の実力者”徳川家康”を押える役割は、実弟の大納言豊臣秀長の亡き後、実直な前田利家に託す外ありませんでした。

豊臣秀吉の死去後、秀吉の遺言で”政権運営に様々な制約事項”が課せられていたのですが、事実上の政策責任者として伏見城に入城した家康は、遺言の制約などどこ吹く風と早速、豊臣恩顧の大名の取り込みに取り掛かります。

やはり、前田利家では徳川家康の抑えなどになりはしなかったのです。

家康は、伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政との婚儀を進めており、これが文禄4年8月2日に秀吉が通達した”大名間の私婚禁止”の条項に違反するものだとして、家康を除く四大老五奉行から、詰問されることとなります。

徳川家康は、慶長4年2月5日に書面で回答をしており、内容的には、、、

  1. 縁邊(婚儀関係)の件については、大老・奉行らの警告を承認すること
  2. 秀吉の遺令及び五大老五奉行間の誓約に背かざること
  3. この度双方へ各々入魂の者に対しても、遺恨を含まざること

などを誓約しています。

そして、抑えになるはずの大老前田利家も、慶長4年(1599年)3月3日に病没し、その後家康の謀略により反家康の急先鋒石田三成は、知行地佐和山城へ蟄居となり、政権中央から失脚します。

4月18日には秀吉の『豊国社(とよとみしゃ)』の”正遷宮祭(しょうせんぐうさい)”が行われ、ひとまず”豊臣秀吉の墓”が阿弥陀ケ峰(あみだがみね)に出来て、ねねは頻繁に社参する毎日となります。

ねねは、この状況を守るためもあり、徳川家康と妥協を続け、結果的に”秀吉とねね子飼いの武将たち”を徳川の援軍に付けてしまい、慶長5年(1600年)9月の『関ケ原の戦い』を迎えます。

反徳川の西軍を破って勝利を得た徳川家康は、功労者ねねにその報酬として、結果その後”14年間の安息”を与えたことになりました。

ねねは、その間徳川家康の全面協力により、三本木屋敷から『豊国社』により近い場所に、新たに建立した豪壮な『高台寺』へ移り、秀吉の菩提を弔う日々を送ります。

しかし、秀吉の遺産である恩顧の大名たちが次々と病没して行き、徐々に”ねねの重要性”は薄れて行き、辛抱強く”関ケ原”から14年間もこの時を待っていた徳川家康が、慶長19年(1614年)夏から満を持して”豊臣家討伐”へ動き始め翌慶長20年(1615年)5月8日には大坂城は落城し、豊臣秀吉の継嗣秀頼が家康に殺されて豊臣家は滅亡します。

それから、徳川家康は豊臣色一掃に動き始め、”秀吉の墓所的存在の『豊臣社』”も狙い撃ちされ、ねねの願いもむなしく『崩れ次第(そのまま放置)』の処置となり、隆盛を誇っていた豊国社は破却・廃止に一気に追い込まれ、社殿の形は辛うじて残ったものの無残な廃墟となりました。

こうして、ねねが必死に菩提を弔っていた『秀吉の墓所』は、ねねが豊臣一族を守ろうとして手を貸した徳川家康によって、歴史の表舞台から消し去られてしまいました。

その後300年近く経って、徳川幕府を倒した明治政府の『富国強兵政策』によって、豊臣秀吉の名誉回復と関連施設の復興がなされ、規模は小さくなったものの、ねねが必死に守っていた豊臣秀吉を祀る阿弥陀ケ峰の社殿は復興しています。

さぞかし、ねねは喜んでいる事でしょう。

 

参考文献

〇津田三郎 『北政所』(1994年 中公新書)

〇野村玄 『豊国大明神の誕生』(2018年 平凡社)

〇岡本良一 『大坂冬の陣夏の陣』(1983年 創元社)

〇栃木県立図書館 『2014年9月11日の質問への回答欄 資料「栃木県神社庁編/2006年発行 《栃木県神社誌 神乃森 人の道》」より』

〇中村孝也 『徳川家康文書の研究 中巻』(1959年 日本學術振興會)

 

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