執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
豊臣秀吉の『太閤検地』の結果、百姓は村を逃げ出した!ホント?
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豊臣秀吉の『太閤検地』の簡単まとめ(100字・200字)作りました。
豊臣秀吉が大名となった時、近江長浜の地で何が起こっていたのかが分かります。
豊臣秀吉の『太閤検地』は、「荘園制」の息の根を止めました。
関白となった豊臣秀吉が、町人・百姓に残した大きな”遺産”とは何だったのかが分かります。
目次
『太閤検地』の簡単まとめ
100字まとめ
『太閤検地』は天正11年(1583年)に始まった検地からそう呼ばれる。検地帳に土地の所持者として百姓を記載し、武士の城下町移住を推進した事から、身分固定化を図り『兵農分離政策』を進める一環ともされる。(100字)
200字まとめ
『太閤検地』は、天正11年(1583年)に始まった検地からそう呼ばれ、慶長3年(1596年)の『慶長検地』では、ほぼ全国で実施された。豊臣秀吉が最初に大名となった北近江の慣行を基本原則に採用し、領主側が増収となり百姓側に大変厳しいものとなっているが、『検地帳』に土地所持者に百姓が記載されたことから、『刀狩』と同様に身分の固定化を図る『身分法令』のひとつとされ、『兵農分離政策』の一環と言われている。(200字)
(画像引用:近江長浜ACphoto)
織田信長の配下時代、豊臣秀吉の最初の領地となった”近江長浜”周辺で起こっていた事はどんなこと?
天正元年(1573年)9月に近江の浅井氏が織田信長に滅ぼされると、その戦いの功績により豊臣秀吉は北近江三郡の旧浅井領を一人で領有することとなりました。
・・・。
爰にて、江北浅井が跡一職進退に、羽柴筑前守秀吉へ、御朱印を以て下され、悉く面目の至なり。
・・・。
(引用:太田和泉守『信長公記 巻六 』インターネット公開版)
大意は、”こうして信長は、北近江の旧浅井領を豊臣秀吉一人に任せることとし、朱印状を以て命じた。大変名誉なことであった。”となります。
上記にありますように豊臣秀吉は、一連の浅井攻めの軍功により旧浅井氏の旧領と小谷の城を任せられますが山城で不便なため、翌天正2年(1574年)織田信長の許可を得て、琵琶湖岸の旧京極氏の居城のあった今浜に城を新築し”長浜”と改称して、新城下を琵琶湖水運の拠点ともします。
そして新領地には、のちに『太閤検地』と呼ばれることになる厳しい『検地』を実施し、在所の百姓に対して厳しい年貢の基準と、新城建設の多大な賦役を課して行きます。
一方新都市”長浜”には、城下への人集め・商業振興のために、主君織田信長の政策に倣い、免税・各種賦役の免除などの優遇策を実施します。
それに対して、、、
一、まち人の事、われわれふびんかり候て、よろづようしやせしめ候ところ、うずいニなり申候て、さいさいの百しやうをまちへよひこし申候事、くせ事ニて御入候事、
一、よそのりやうちのものよひかへし候事ハ、もつともニ候へとも、きたのこおりのうち、われわれりやうぶんのものよひこし候て、しよやくつかまつり候ハぬを、よく候とて、ざいざいをハあけてゑんゑんニよひよし申候事、しよせんまち人ニねんく・しよやくゆるし申候ゆへに候まゝ、たゝいま申つけ候事、
一、・・・・、
藤きちらう ひて吉
十月廿二日こほ
(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一>』2015年 吉川弘文館)
この天正2年(1574年)10月22日付の書状は、長浜で普請を進める豊臣秀吉が国許(岐阜か)の”正室の御寧(おね)”と長浜の実情をやり取りしているものですが、大意は、”町人がかわいそうだと思って、様々な優遇策を講じていたところ、おごり高ぶり、在所の百姓たちを町へ呼び寄せている。これは怪しからんことだ。他国の領地から来るならまだしも、北三郡の領内の者が、諸役・耕作を放り出してどんどん来てしまっている。これは所詮、長浜町人の年貢・諸役を免除したのが原因だろうから、今禁止した。”
とあり、、、簡単に云えば領内の農村で百姓衆の『逃散(ちょうさん)ー逃亡』が起こっていることを示しています。豊臣秀吉の掛ける高い年貢・夫役に音を上げた百姓たちが、優遇されている長浜へ押しかけていることを秀吉が嘆いているものです。
江戸初期に『太閤記』を著した”小瀬甫庵(おぜ ほあん)”は、驚いたことにその冒頭で”豊臣秀吉”を評して「算勘にしわき男(金銭勘定にえげつない男)」と書いています。
また、、、
今度城州検地出来百姓等過半逃散由候、如何之子細候哉、然者去年物成未進分儀、只今令納所段於難成者、来秋迄百姓ニ可借遣候間、悉召直、荒地以下をも開作候様ニ、念入可申付事肝要候也、
三月十九日 秀吉(朱印)
片桐加兵衛尉殿
(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <二> 1255 片桐加兵衛尉宛朱印状』2016年 吉川弘文館)
天正13年(1585年)の豊臣秀吉の朱印状で、大意は、”今度検地の終わった山城国の百姓どもが過半数も「逃散」したと言うが、詳細はどうなっているのだ。去年の年貢を支払えない未進の者は、来秋まで貸してやるから、皆つかまえて来て荒れ地を開墾させるようにせよ。”などと、重臣の片桐且元(弟の貞隆宛て)に指示を出しています。
『太閤検地』の始まったばかり(本件は”差出検地”にて実施とある)の頃のもので検地の後、山城国(京都府)の百姓が大半夜逃げをしてしまったと言う異常事態を伝えています。
前述小瀬甫庵の指摘も、さもあらんと言うほどのもので、豊臣秀吉が国持大名になった頃に領地で実施した『検地』とその後の”年貢”が原因で、長浜で起こった出来事は、どんどん領国中に広がっている様子がわかります。
豊臣秀吉は日本中の土地は全部自分のものだと思っていた?
豊臣秀吉が九州平定を達成して、帰路筑前博多に立ち寄った天正15年(1587年)6月発給された『伴天連追放令』によれば、、、、
覚
・・・、
一、其国郡知行之義、給人被下候事ハ、当座之義ニ候、・・・、
・・・
天正十五年六月十八日
(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 1243 伴天連之儀ニ付覚写 』2017年 吉川弘文館)
大意は、”その国郡知行(領地)が給人(領主)に下されているのは、一時的なことである”となる。
豊臣秀吉は、天正13年(1585年)7月11日に”関白”という顕官に任官し、「公家一統」の政権確立を意図しました。
既に織田政権をほぼ横領した立場で実質的に武家の棟梁でもあった豊臣秀吉は、それに加えて国家の最高権力者としての”関白”となったことにより、日本の土地は国家のものであり、その最高権力者である自分が支配するものだと言う論理が秀吉の中に出来上がっていました。
その結果、前出の『伴天連追放令』の条文の中のあの”大名には領地を預けているだけと言い放つ”関白豊臣秀吉の発言となって現れたわけです。
そして、この考え方は、中世の権力構造を大きく変化させるものとなり、そのことが、後述する『荘園制度』にも関係する事となって行きます。
と言う事で、どうやら豊臣秀吉は、”関白就任”とともに、権力の全権を握ることに成功した事から、日本の土地の支配権はすべて自分にあると考えるようになっていたようです。
豊臣秀吉の『検地』は地侍の家臣化への第一歩か?
豊臣秀吉は、この『太閤検地』によって百姓の”一地一作人”として、その”請人(大半が百姓)”を決め、代々土地を継承している国人領主・土豪たちと地元民との切り離しを企画し、関白就任により前述のような土地の国有化(関白秀吉の支配)に近い形を確立させて、中世の大名・領主・地侍の”土地の領有権”を否定しました。
そのため、武士たちは”本領(代々の領地)”の土地を失い、領主の城下町に居住して領主から”知行(サラリー)”を当てがわれて生活する家臣(サラリーマン)へと変貌して行きます。
その領主(大名)たちも、豊臣秀吉から”国替え”を命じられれば、故郷を捨てて新任地へ家臣団となった国人・地侍・武家奉公衆を引き連れて移ってゆきます。この規模の大きなものが、徳川家康の旧領地”三河”・”遠江”・”駿河”から関東への転封と、上杉景勝の”越後”から”会津”への転封です。
その転封に当って、豊臣秀吉は、上杉景勝に対して以下のような朱印状を出しています。。。
今度會津江國替ニ付而、其方家中侍之事者不及申、中間小者ニ至る迄、奉公人たるもの一人も不殘可召連候、自然不罷越族於在之者、速可被加成敗候、但、當時田畠を相拘、年貢令沙汰撿地帳面之百姓ニ相究ものハ、一切召連間敷候也、
(慶長三年)正月十日(秀吉朱印)
羽柴(景勝)越後中納言とのへ
大意は、”今度の会津への国替えについては、上杉家中の侍は云うに及ばず、中間・小者に至る迄武家奉公人は一人も残さず召し連れてゆく事。しかし、行かない者がいれば、速やかに成敗すること。ただし、常に田畑の耕作に係わって、年貢を支払っており検地帳で百姓である事がはっきりしている者は、一切召し連れて行ってはならない。”とあります。
この国替えに当って、はっきりと国衆・土豪たちは、農耕をしない者としての百姓と明確に区別され、土地の農作業に必要な農民たちと家臣は切り離されてゆくこととなりました。
このやり方は、その後江戸幕府に踏襲されてゆくこととなります。
『検地』⇒『刀狩』⇒『身分法令』とすすみ、侍と百姓を区別して管理して行こうとする、織田信長より進化した”豊臣秀吉流の統治方法”を確立して行きます。
皮肉なことに、秀吉の大成功した”権力を掌握したその苛烈な政治統治手法”により、後の物語・歴史物語などで持ち上げられるほどの人気や人望が、当時の人々にはなかったようで、秀吉が一代で築き上げた豊臣家もまた、まるで豊臣秀吉が織田家にした自らの仕打ちの仕返しを受けるかのように、有力大名らの助けもなく滅びの道を歩むこととなります。
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豊臣秀吉の『太閤検地』は、荘園制度を破壊したの?
一般的に、“中世社会の破壊者(革新者)”と言えば、先ず”織田信長”が頭に浮かんで来ます。
『荘園制』と言うものは、周知のように天平15年(743年)の『墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)』により、当時資本力のあった中央貴族・大寺院・地方豪族などが活発な開墾を行ない大規模な私有土地が出現したのが、始まりとされています。
その後、鎌倉時代には”地頭(じとう)”が、室町時代では”守護(しゅご)”が、荘園領主から年貢を取り立てる役割を持ち、徐々にその年貢の裁量権をも持ち始め(つまり横領)、事実上支配者として彼ら自身が荘園(農民)に対する支配権を強めながら、時代は戦国期へ移行して行きます。
そして本来の荘園領主(公家・寺社)は実権を失って、後の”戦国大名”と言われる人たち(この守護・守護代・地頭などから領地支配者に成り上がった者が大半)が成り代わり、この『荘園制』はほとんど形骸化して行きます。
そこで、戦国末期の覇者・改革者として登場した織田信長の政策ですが、、、
殿中御掟
追加
一、寺社本所領・当知行之地、無謂押領之儀、堅停止事、
・・・、
一、於当知行之地者、以請文上、可被成御下知事、
永禄十二年正月十六日 弾正忠判
(引用:奥野高廣『増補織田信長文書の研究 <上> 142 室町幕府殿中掟案 』1994年 吉川弘文館)
この文書は、将軍足利義昭宛てに書かれたもので、大意は、”一、寺社や神社の領地で、現在知行している土地を理由もなく横領することを固く禁じる。一、現在の知行地は、請文を以てする以上、安堵の御下知なさるべきしょう。”とあり、寺社の持つ”荘園”に関しては、そのまま承認する意向です。
つまりは、信長の武威をもって任官出来た身ながら、将軍になれた喜びから舞い上がった足利義昭自身が、家来衆(奉公衆)に恩賞で与える土地欲しさに公家・寺社から所領を横領しようとしたのを信長が咎めたものと考えられます。
恐らく、、、京都の朝廷勢力からもクレームが出ていたのか、彼らと何らかの妥協が必要だったのか、この事から織田信長にはこの時点では”例外なしに旧来からの「荘園制」は廃止”との意向はないと考えられる訳です。
織田信長が上洛後一旦京都を離れて、まもなくの永禄12年(1569年)正月に、前年に追い払ったばかりの三好党が再び京都の足利義昭を襲いました。この時、その掃討に8万もの大軍を引き連れて再上洛したタイミングでしたから、”荘園廃止”をやる気なら訳もなかった、にも拘わらずこの承認となりました。
では、豊臣秀吉は、どうかと言えば、、、
この豊臣秀吉の『太閤検地』ですが、織田信長の『検地』が、”差出(さしだし)”と言われる書類審査が大半だったのに対して、豊臣秀吉は”度衡量統一・京枡統一”にて実測で、手間をかけて厳格に実施しました。
そもそも、鎌倉期以来武家社会が発展し、南北朝内乱を経て、武家領の拡大により旧来の支配勢力による”荘園制”は、この戦国時代を迎えるに至ってとっくに終焉を迎えていたと考えられます。
織田信長の場合は、手こずっていた正親町天皇を含む朝廷・公家勢力への貸しを作るためにも、わずかに残っている”荘園制”の存続を認め、一方豊臣秀吉の場合は、すでに”荘園制”の実態として大きな中間搾取をしていた在地領主たちの勢力を弱め、直接に百姓から根こそぎ年貢を取り立てるためにも、『太閤検地』によって邪魔な従来の土地制度を変えてしまい、信長が延命させていた”荘園制”の息の根を止めたということでしょうか。
言わば、豊臣秀吉は領地支配のために、複雑な権利関係を一掃してしまったとも言えそうです。これが可能となったのも関白に任官し、天下の顕官となったご利益と言えるかもしれません。
豊臣秀吉は、”荘園制廃止”ばかりでなく、織田信長が存続を認めていた”京都七口の関所(関税が朝廷・公家勢力の莫大な収入源となっていた)廃止”をもあっさり実行するなど驚くばかりですが、これだけ強引に豊臣秀吉が政策を進めることを可能にした背景は、異説では織田信長の遭難ー『明智光秀の乱(本能寺の変)』への”朝廷・公家”関係者の関与を豊臣秀吉が一切不問に付した事と大いに関係していると見ています。
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何れにせよ、豊臣秀吉の『太閤検地』を以て、事実上『荘園制』が終わったことは定説となっているようです。
『胡麻の油と百姓は絞ればいくらでも出る』と言ったのは豊臣秀吉なの?
豊臣秀吉に関してありそうな話ですが、この名言「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」を吐いた記録が残っているのは、徳川八代将軍吉宗『享保の改革』時の旗本で勘定奉行の神尾春央(かんお はるひで)のようです。
百姓からは”酷吏”と評され、幕府からは”財政改革の功労者”として知られているようです。
さて、豊臣秀吉ですが、、、
前述したように、政権を取った最初の天正13年(1585年)の『山城国検地(ここは実測ではなく”差出”にて実施)』で、結果大量の百姓逃散(逃亡)が発生する事態を迎え、大慌ての秀吉が責任者の片桐克元に”年貢を待ってやるなど方策を講じて、百姓の逃散を止めろ!”と指示を出しています。
これは抜け穴のない豊臣秀吉のがめつい『検地』に、百姓が行動を起こしたものですが、当時の戦国領主と農民の関係はどうなのでしょうか。
歴史学者の永原慶二氏によると、、、
中世後期、とりわけ戦国期において、なぜそのように百姓・下人の逃亡が顕著になるのかは、今日のところ十分な史料的裏づけをもって説明されていない。・・・貫高制年貢の搾取強化や精銭要求のきびしさが農民経営を破壊した事も少なくあるまい。また逃亡先がしばしば町場であることも注意されている・・
(引用:永原慶二『戦国期の政治経済構造 第1部第一 大名領国制の構造 19頁』1997年 岩波書店)
とあり、戦国期は豊臣秀吉に限らず、戦費がかさむ大名たちの年貢取り立ては厳しくなる一方で、農民闘争も宗教と絡んで激しくなる時代の傾向として、大なり小なり皆抱えていた問題と思われます。
しかしとりわけ豊臣秀吉は、升や検地棒を変更して増収を図り、尚且つ百姓が抜け道としていた”裏作・二毛作”にまできっちり調べ上げて、逃げ道を無くして”ケツの毛”まで抜こうとしたやり口に、百姓が逃げ出したものと考えられます。
下層民出身の秀吉は、武闘派の武将たちとは大違いで、下人・農民の生活実態を熟知しており、農民の蓄財の仕方など当然頭に入っていてそれを掠め取ろうとしたことが、農民たちを恐れさせたと考えられます。
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少し横道にそれますが、歴史家の脇田修氏が、実に興味深い指摘をしています。それによると、、、
土地制度を総括してみると、近代のものではないことに気づく。・・・領主は土地を「預かり」、そこに住む人と支配していたが、その土地を売買・譲渡はできなかった。法的にいえば、それは所有とはいえず領有といっている。百姓の土地は一定の制限はあったが、基本的に自由に処分しており、それは所有に近いので、所持といっている。・・・町人は都市に土地・家屋をもっていたが、土地に関していえば家屋の敷地として使用しているにすぎなかった。・・・つまり用益権しかなかったのである。・・・。
近代の廃藩置県・秩禄処分の過程において、武士は禄高に応じて金禄公債を得て、この領有権は消滅した。彼らは屋敷の所有をみとめられただけであった。・・・。
これに対して、百姓と町人の土地権利は近代の所有権となった。・・・。
いずれにしても百姓に所持という、もっとも所有に近い権利を認めたことが、この措置につながったことは確かである。百姓の子であった秀吉は、生前には百姓にきびしい負担をかけたが、思わぬ遺産を残したのであった。日本社会のある種の平等意識もここに基礎をもっている・・・。
(引用:脇田修『秀吉の経済感覚 天下の土地 79~80頁』1991年 中公新書)
これによると、現在一般によく言われる”この土地は先祖代々の土地”と言う言葉は、まったく事実と相違していて、実はこの豊臣秀吉が関白に登りつめたことにより、一旦すべての土地が『国家の所有』となって、『太閤検地』によって実際に耕作する(年貢を納める)百姓が決められたことに起源を発し、その後下級武士・郷士・農民階級出身者たちが中心になって引き起こした『明治維新』の折、高級官僚となった彼らが、大名・武士には土地の権利を認めず、用益・所持していただけの町人・百姓にそのまま『所有権』として認めたことから権利が確定したことが判明します。
なんと、現代の土地問題のひとつ”一般庶民層の感じている不平等感”の原因は『豊臣秀吉』にも責任の一端があるのではないかとも言えそうですね。現代の地主の権利は決して”先祖代々”のものではなかったのですね。
豊臣秀吉の『太閤検地』と豊臣家の蓄財は関係あるの?
噂話の部類ですが、、、
慶長20年(1615年)5月の『大坂夏の陣』で大坂城が落城し豊臣家の滅亡後、徳川家康は1か月ほどかけて丹念に豊臣家の財産を回収しました。
その結果は、驚くべきことに、金2万8千枚(28万両)、銀2万4千枚(2.2万両)で、合計30万両(約900億円)と言う途方もない額になったと言います。
実は、徳川家康は秀吉の死後豊臣家に残った秀吉の多額の遺産を散財させるために、10年ほどかけて、豊臣家に全国の寺社への寄進、方広寺大仏殿の再建などを盛んに行わせており、さらにこの『大坂の陣』での戦費は莫大なもので、滅亡後さらに30万両の蓄えがあったと言うのは信じられない事です。
この噂話がもし事実なら、豊臣秀吉は生前に一体いくらのお金をため込んでいたのでしょうか。
真相はどうなのかわかりませんが、とにかく現実の豊臣秀吉の蓄財額が途方もないものだったのは間違いないようです。
生野銀山・佐渡金山などの運上金があるにしても、両鉱山が活況を呈するのは江戸期に入ってからだと言われていますので、秀吉の金の茶室をつくるほどの大きな足しになったとは思えません。
異説として、豊臣秀吉は毎年金3万枚・銀70万両以上の上納があり、年間で100万両以上の収入があったとありますが、文禄年間の豊臣家の”蔵入目録”によると、金山運上で3391両、銀山運上で米換算で2万石(ほぼ生野銀山分)となっており、前者とずい分数字に差がありますが、後者の方が信憑性があるような気がします。
やはり、豊臣秀吉の収入の太宗は、石高(『當代記』にある文禄3年の検地記録では、1835万3942石となっていて、単純計算では2937億円くらい)の方が金額が張りそうなので、やはり豊臣秀吉の錬金術の源泉は”年貢の増収ー百姓の搾り上げ”の可能性が高いですね。
手口としては、『太閤検地』を厳格に実施する事により百姓からの取り分(年貢米)を大幅に増やし、年貢の中間搾取(在地領主の知行・旧来の荘園領主)を極限まで排除して、年貢米で受け取って米を商品として扱い、地方と中央の価格差で運用益を得ることまでやっていたようですし、『伴天連追放令』を出しても南蛮貿易は継続するなど、儲かる事にはなんでも手を出した感じです。
まとめ
豊臣秀吉が”天下人”となって実行した政策の中で、『太閤検地』・『刀狩』・『兵農分離ー身分法令』などは、一連のものとみられていますが、その基礎としての『検地』が、土地ばかりでなく”戸口調査”ともなり、現代の”国勢調査”のような役割を果たしていたようです。
そもそも豊臣秀吉は、織田信長の重臣となった頃より、織田信長の『唐入り』を支持し、自身もその実行を考えていて、政権を獲って関白に任官する天正13年(1585年)頃には、周囲に公然とその意思を表明していました。
一、・・・、秀吉日本国之事ハ不及申、唐国迄被仰付候心ニ候歟、・・・
(天正十三年)九月三日 (朱印)
一柳市介とのへ
(引用:名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <二> 1614 一柳市介宛朱印状 224頁』2016年 吉川弘文館)
大意は、”一、・・・、この秀吉は日本国の事は申すに及ばず、唐国までお引き受けするつもりだ、・・・”のようなことですが、子飼いの武将一柳市介に対して、はっきりと海外派兵の考えを述べた有名な文書(朱印状)です。
この『太閤検地』は、その”唐入りー海外遠征”の基礎固めとして、”軍費調達”と”兵力動員確保”の2点を主目標に取り進められて行った事が、豊臣秀吉の意思として間違いないものと考えられます。
豊臣秀吉の『唐入り』は、明治時代に当時政府の『富国強兵』と言う国策と合致した部分(海外派兵)があり、英雄として持ち上げられた時期もありましたが、その死後間もない江戸時代初期には、小瀬甫庵『太閤記』の冒頭にある”算勘にしわき男”と言われており、この表現の方が豊臣秀吉に対する当時の人々の評価を正しく伝えているのかもしれません。
天正10年(1582年)6月2日の『明智光秀の乱(本能寺の変)』勃発から、天正12年(1584年)に徳川家康と臣従させることに成功して、天正13年(1585年)に関白に就任し”天下人”となって行った豊臣秀吉にとって、中心に据えられた目標が『唐入り(海外派兵)』であったとすると、その他の政策がすべて腑に落ちて来る感じがします。
どうやら、豊臣秀吉の『唐入り』は、成功した老人の名誉心とかでやったようなものではなくて、彼の後半生すべてをかけて始めたもののようです。
この『太閤検地』も、その目標の基礎固めをする重要な政策であったと考えられます。
しかし、国内準備までは万全でしたが、最盛期の秀吉らしくなく、肝心の相手に対するいつもの準備行動が全く抜け落ちていたように思えます。
戦う相手が外国人だと言う事を忘れて、ほとんど九州平定の延長戦としか考えていないような戦いの進め方となり、加えて予想外に早い”大明国精鋭部隊”の参戦もあって豊臣秀吉の朝鮮遠征軍は大敗する事となりました。
無謀な”海外派兵”と言われ、結果はどこかで誰かに騙されて始めてしまったとしか考えられないような戦争となりました。
しかし、後継となった徳川家康が、これを教訓としてその後260年も戦乱の無い政権の樹立に成功するわけですから、豊臣秀吉は大陸派兵と言う失敗を犯しましたが、この『太閤検地』を含む諸政策などは、それなりの遺産だったと言う事かもしれません。
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参考文献
〇脇田修 『秀吉の経済感覚』(1991年 中公新書)
〇井上上総 『兵農分離はあったのか』(2017年 平凡社)
〇太田和泉守『信長公記 巻六 』(インターネット公開版)
〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <一> 』(2015年 吉川弘文館)
〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <二> 』(2016年 吉川弘文館)
〇名古屋市博物館編『豊臣秀吉文書集 <三> 』(2017年 吉川弘文館)
〇『大日本古文書 家わけ十二ノ二 上杉家文書 863豊臣秀吉朱印状』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇永原慶二 『戦国期の政治経済構造』(1997年 岩波書店)
〇谷口克広 『信長の政略』(2013年 学研パブリッシング)
〇奥野高廣『増補織田信長文書の研究 <上> 』1994年 吉川弘文館)
〇『當代記 巻二 此比諸國知行之高帳之事 60-66頁』(国立国会図書館デジタルコレクション)
〇本郷恵子 『中世人の経済感覚』(2004年 NHKブックス)