風雲児 織田信長は『まむし』の斎藤道三に見込まれた!ホント?

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織田信長濃姫(帰蝶)の結婚が決まったいきさつが分かります。

歴史上有名な、斎藤道三と織田信長の会見の裏側が見えます。

 

前代未聞の織田信長の”留守番出兵”依頼を、斉藤道三はなぜ引き受けたのか?

衝撃的な”斎藤道三の横死”を織田信長が見殺しにしたとの噂の真相は?

 

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織田信長の婚儀が決まったいきさつは?

父信秀の思惑は?

天文12年(1543年)、京都の朝廷に御所の修理費4000貫(現在価値約7億円相当)もの資金を献納をするなど、日の出の勢いだった織田信秀ですが、翌天文13年(1544年)9月の尾張全軍を動員した美濃攻略戦における記録的な大敗を境に、さすがの信秀も勢いに陰りが見え始めます。

信秀には、天文13年の大敗から織田家内での指導力に陰りが見え、17年に美濃勢に大垣城を囲まれた折、援軍に出て行ったところ、留守に居城の古渡城(ふるわたりじょう)を同族の清須織田家に攻撃される始末です。

信秀はその後、東の三河国への戦いを主体にしてゆきますが、美濃方面への不安と多方面作戦の不利を解消するため、天文17年秋には美濃の実権者斎藤道三(さいとう どうさん)との和議を結ぶ事とし、その和睦の証として、道三の正室小見の方の娘”帰蝶(きちょう)”と信秀の嫡男”信長”の婚儀が成立します。

この事を『信長公記』の記事では、、、

・・・、さて、平手中務才覚にて、織田三郎信長を斎藤山城道三聟に取り結び、道三が息女尾州へ呼び取り候ひき。然る間、何方も静謐なり、・・・

(引用:『信長公記 巻首 上総介殿形儀の事』インターネット公開版

上記のように、信長付きでもある家老の平手政秀(ひらて まさひで)が、美濃との交渉をまとめてとあります。また信長をはっきり斎藤道三の聟(むこ)にすると謳っており、この事が所謂”形ばかりの政略結婚”でなく、大幅に信秀が道三に譲歩して既に嫡男として決まっている信長を婿に出して成婚に漕ぎつけたことを感じさせます。

これは、尾張の人々・織田家中にも認識されていたようで、信長は美濃から嫁を貰ったのではなくて、尾張から聟に出されたと受け取られ(事実上廃嫡)、家中にも信長の弟勘十郎信行(かんじゅうろう のぶゆき)の方が跡取りと言う雰囲気は醸成され、史料上からも信長の署名のものと、信行の署名の公文書が存在することから、二人とも信秀の嫡男として認知されていた可能性があります。

この事は、後々織田信長を家督相続に関して苦しめることにつながって行きます。

 

まむしの道三の思惑は?

土岐氏の内紛に乗じて、僧侶・油商人から土岐氏重臣まで成り上がった長井新左衛門尉(ながい しんざえもんじょう)は、土岐政房(とき まさふさ)の次男土岐頼芸(とき よりのり)を立てて、長男土岐頼武(とき よりたけ)を美濃から追い出して政治の実権を握っていました。

そして、父長井新左衛門尉の後を継いでいた息子の規房(のりふさー後の斎藤道三は、天文13年(1544年)9月に美濃復帰を目的として、土岐頼武の子土岐頼純(とき よりずみ)が身を寄せる越前朝倉孝景と、応援に出た尾張守護斯波氏の守護代織田信秀の大軍の攻撃を撃退することに成功します。

土岐家の内部抗争に動揺しないためにも、執拗に美濃侵攻を繰り返す、近隣の最大の敵である尾張織田信秀との和睦は大きな利益を道三にもたらします

娘帰蝶の輿入れが終わり、尾張織田の脅威がなくなった天文19年(1550年)に、美濃守護土岐頼芸を追放し、斎藤道三は美濃一国を手に入れます

・・・只明らかに事を發し、大桑に押寄せ、頼藝を攻落して、一時に國家を奪わんと欲し、兼て語らひ置きし所の一味合體の軍兵一萬餘人を催し、翌天文十一壬寅年五月二日、不意に起りて大桑の城に押寄せ、短兵急に攻動かし畢。・・・爰に於て道三、多年の宿望一事に晴らし、屋形頼藝を攻出し、忽ち一國を掌握して、・・・稲葉山の城に在住し、終に當國の守護職となり畢。實にや亂國の世の中、浅間しき有様なりける。過ぎし大永の頃には、油賈の庄五郎と號して、賤しき商民にありける者が、十五ケ年餘の内に、忽ち美濃國の太守となりし事、未曽有の事共なり。

(引用:『美濃國諸舊記 土岐頼藝松波庄五郎を取立つる事 46~48頁』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、戦国の梟雄(きょうゆう)と呼ばれ『下剋上(げこくじょう)』を地で行った斎藤道三は、主君守護職土岐頼芸を追い出して、一気に美濃国を奪取します。この記事の日付は天文11年となっていますが、最近の研究でこれは”天文19年”のこととされています。


(画像引用:まむしACphoto)

 

織田信長、斎藤道三の有名な『正徳寺の会見』での両者の駆け引きは?

冨田の『正徳寺(しょうとくじ)』はどこにあったの?

 

一、四月下旬の事に候。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく候間、織田上総介殿も是まで御出で候はゞ、祝着たるべく候。対面ありたきの趣、申し越しの候。・・・上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曽川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で候。富田と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、美濃・尾張の判形を取り候て、免許の地なり。・・・やがて参会すべしと申し、罷り立ち候なり。廿町許り御見送り候。

(引用:『信長公記 巻首 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版

とあり、富田の正徳寺と言うのは、尾張と美濃の境界地にあり、寺内町の”楽市”にて賑わって、裕福な町だったようです。つまり往来の激しい街道筋ですから、今の”濃尾大橋”も昔の街道筋と関係してると考えられますから、富田の寺内町はその延長線上だったのかもしれません。

当時の”富田正徳寺”は、木曽川の氾濫で現在は跡形もなくなっていますが、会見終了後に織田信長が斎藤道三を送って行ったと言われている『起の渡し場』の跡地は確認出来るため、『正徳寺』があったのは、その近辺の愛知県側の一宮市富田の住所地あたりと考えられます。


(画像:正徳寺跡 投稿者撮影)

記事中に”20丁”ほど送って行ったとありますので、約2㎞余りですから、渡し場跡からですと丁度富田町内に収まりそうですね。

 

信長のそろえた軍団の鉄炮500挺はホント?

太田牛一の『信長公記』の記事によりますと、、、

・・・、先づ、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し候。其の時、信長の御仕立、髪はちゃせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちゃせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひょうたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮5百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、・・・

(引用:『信長公記 巻首 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版

とあり、織田信長お側衆だった太田牛一は、このように『鉄炮500挺』などと書いていますが、実際どうだったのでしょうか?

この事件は、織田信長の傅役の平手政秀が自害して3ヶ月ほど経った時期ですので、天文22年(1553年)の事です。

日本に鉄炮が伝来したのは天文12年ですから、この織田信長の義父との面会の10年前という事になります。

信長が中央と繋がりをもって、伴天連ルートで火薬(硝石)の手当てが充分出来るようになるのが、永禄年間に入ってからのこととなりますので、その7~8年前のこの時に、鉄炮の製造代金の問題を別としても、正規軍に鉄炮を配備できる可能性はほぼないと考えられます。

従って、この件は『信長公記』作者である太田牛一の、”作り話”の可能性が高いのではないでしょうか。幾ら織田信長でも、この時期ではあり得ない話だと思われます。

しかし、織田信長が重要な意味を持つ”重装備の軍団”を引き連れて、会見の場に現れたのは事実であったようです。

 

信長の思惑は?

 

・・・、信長公の御出の様体・・・、髪はちゃせんに遊ばし、・・・、ゆかたびらの袖をはずし、・・・、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひょうたん七ツ、八ツ付けさせられ、・・・、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、
一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、
一、何染置かれ候知人なきかちの長袴めし、
一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵えをかせられ候を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し候て、さては、此の比たわけを態と御作り候よと、肝を消し、各次第貼に斟酌仕り候なり。・・・

(引用:『信長公記 巻首 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版

とあり、織田信長は、異形の風体でやって来ながら、いざ道三との会見に当たっては、控えで着替えて武士の正装で臨み、居並ぶ美濃の武士たちの度肝を抜きます。信長の演出勝ちと言うのが通説となっています。

歴史研究家武田鏡村氏によれば、、、この会見で信長は道三に対して、”大うつけ者”との世評とは違って、まともな武将であることを見せつけ、印象付けた上で、、、

  1. 婚約はしたものの、事実上反故にされていた道三の娘”帰蝶”との婚儀を進め、関係を強化するために、改めて姻戚同盟を結ぶ申し入れを行った
  2. もうひとつは、東から迫り来る今川義元の上洛行動に関し、共同戦線を組む要請をした。

と言います。

その後の信長からの対今川戦への出兵要請に、道三が快く応じていることなどから、”今川義元”への共同戦線は十分ある話だと考えられます。

 

まむしの道三の感想は?

太田牛一の『信長公記』の記事では、、、

・・・、斉藤山城道三存分には、実目になき人の由、取沙汰候間、仰天させ候て、笑わせ候はんとの巧にて、古老の者、七、八百、折目高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り候様に構へて、先ず、山城道三は、町末の小家に忍び居りて、信長公の御出様体を見申し候。

(引用:『信長公記 巻首 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版

上記のように、斉藤道三は、どうせ異様な姿で現れるであろう信長に対して、正装させた家臣を700~800人も寺の縁側に並べて、相手の度肝を抜いて笑いものにしてやろうと言う企みで迎えることとしていました。

勿論、スキだらけのダメ男だったら、いっそのことその場で暗殺することも視野に入れていたと思われます。

しかし、ものの見事に予想は裏切られ、武装した軍を引き連れて現れ、しかもただのうつけでないことも証明し、相手の戦略的発想を思い知らされ、自らの軍より装備が上だと思い知らされました。

そこで、有名な言葉、、、

・・・、途中、あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し候ても、上総介はたわけにて候。と申し候時、道三申す様に、されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候と計り申し候。今より己後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。

(引用:『信長公記 巻首 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版

ここに、道三が信長に対して下した評価が現れています。もう絶賛ですね。これが、後に信長から要請のあった”留守番出兵”の実施と、帰蝶を本当に尾張の那古野へ送り、婚姻同盟を成立させた理由なのだと考えられます。

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織田信長が、舅の斎藤道三に那古野城の留守番を依頼したのは本当か?

それはいつの事なの?

太田牛一の『信長公記』によると、、、

一、去る程に、駿河衆岡崎に在陣候て、鴫原の山岡構へ攻め干し、乗っ取り、岡崎より持ちつゞけ、是を根城にして、小河の水野金吾構へ差し向ひ、村木と云ふ所、駿河より丈夫に取出を相構へ、駿河衆盾籠り候。・・・、御後巻として、織田上総介信長御發足たるべきの旨候。併し、御敵、清洲より定めて御留守に那古野へ取懸け、町を放火させ候ては如何とおぼしめし、信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣はされ候。

(引用:『信長公記 巻首 村木の取出攻められしの事』インターネット公開版

と状況が語られていますが、、、

織田信長と斎藤道三の富田正徳寺での会見の翌年、天文23年(1554年)1月24日に、織田信長が、今川方へ寝返った村木砦への攻撃を掛ける折、舅斎藤道三へ信長居城の那古野城の留守番として美濃兵出陣を要請したと言う記事です。

敵対していた隣国の兵に、自分の居城の留守番・守備を依頼するなど、当時の常識では考えられないことを、姻戚同盟を梃子に織田信長は敢然と実行に踏み切ります

 

誰が来て、どうなったの?

前述に引き続き、太田牛一の『信長公記』によると、、、

道三方より、正月十八日、那古野留守居として、安東伊賀守大将とにて、人数千計り、田宮・甲山・安斎・熊沢、物取新五等を相加へ、見及ぶ様体日々注進へと申し付け、同じ事に、正月廿日、尾州へ着き越し候き。居城那古野近所、志賀・田幡両郷に陣取りをかせられ、廿日に、陣取り御見舞として、信長御出で、安東伊賀に一礼仰せられ、翌日御出陣候はんのところ、一長の林新五郎、其の弟美作守兄弟、不足を申し立て、林与力、あらごの前田与十郎城へ罷り退き候。御家老の衆、いかゞ御座候はんと申し候へどもも、左候へども、苦しからざるの由、上総介仰せられ候て、御働き。
一、正月廿四日払暁に出でさせられ、駿河衆盾籠り候村木の城へ取り懸げ、攻められ、・・・手負死人其の数を知らず。・・・・。辰の刻に取り寄せ、申の下刻まで攻めさせられ、御存分に落去候ひ訖んぬ。・・・。翌日には、寺本の城へ御手遣はし、麓に放火し、是より那古野に至って御帰陣。
一、正月廿六日、安東伊賀守陣所へ信長御出で候て、今度の御礼仰せられ、廿七日、美濃衆帰陣。安東伊賀守、今度の御礼の趣、難風渡海の様体、村木攻められたる仕合、慇に道三に一々物語申し候ところに、山城が申す様に、すさまじき男、隣には、はや成人にて候よと、申したる由なり。

引用:『信長公記 巻首 村木の取出攻められしの事』インターネット公開版

信長の要請に対して斎藤道三は快諾の上、安藤伊賀守(あんどう いがのかみ)を大将に守兵1000名を派遣し、那古野城の留守番をさせます。正月20日に安藤伊賀守が那古野城周辺に着陣し、信長は挨拶をして、翌日から荒れる海を渡海して、知多半島へ上陸し、正月24日から村木砦の奪還作戦を開始し、奮戦の上、奪還し26日は那古野へ帰還します。27日には、安藤伊賀守は、美濃へ帰還し、道三へ顛末を報告すると、道三は、信長の奮戦・知略を褒めたたえて、その傑物ぶりに驚嘆します

こうして、織田信長と斎藤道三の同盟は実際に機能し始め、信長は今川軍の追い払いに成功し、美濃兵は任務終了後、速やかに那古野城から美濃へ無事引き上げています。これにより、織田家内部・近隣大名に対して、信長と道三の『尾張・美濃姻戚同盟』の存在がアピールされることとなりました。

信長の武将としての戦略的行動は思惑通り、成功裡にすすんで行きます。

 

織田信長が、舅の斎藤道三を見殺しにしたのは本当か?

美濃國諸舊記(みのこく しょきゅうき)』によれば、、、

斎藤道三の息女帰蝶(きちょう)は、天文18年(1549年)2月24日に尾張古渡城へ輿入れしたとされています。つまり、斎藤道三は、織田信長の義父(舅)となりました。

このように道三は、強敵尾張織田家との間に姻戚同盟関係を作り、政権が安定して来たことから、嫡男斎藤義龍(さいとう よしたつ)へ家督を譲り鷺山城(さぎやまじょう)へ隠居しました。

しかしその後、道三と義龍の関係はうまくゆかず、道三は義龍を廃嫡(又は殺害)して次男孫四郎龍重へ家督を譲る陰謀を企てますが、義龍側近の日根野備中守弘龍(ひねの びっちゅうのかみ ひろたつ)の注進により、義龍の知るところとなり義龍は先手を打って、弘治2年(1556年)4月1日、道三が出かけた隙に道三の次男三男を討ち果たして、実権者道三に対するクーデターを宣言します

知らせを聞き驚いた道三は、すぐさま合戦の準備に領内全域に出陣命令を出します。

しかしいつの間にか、領内に義龍は追放された前美濃守護職”土岐頼芸(とき よりのり)”のご落胤だとの評判が高まっており、一方斎藤道三には”名族土岐氏からの政権簒奪者”だとのレッテルが貼られていました。

そのため、義龍陣営の稲葉山城に集まった軍勢は1万7千5百名にも上り、一方道三陣営の鷺山城には、わずかに2千7百名を数えるに止まりました。

既に勝負あった感じですが、双方4月12日より、稲葉山と鷺山との間で戦いが始まります。

太田牛一の『信長公記』の記事を見てみますと、、、

・・・明くる年四月十八日、鶴山へ取り上り、国中を見下し居陣なり。信長も道三聟にて候間、手合のため木曽川・飛騨川舟にて渡り、大河打ち越え、大良の戸島、東蔵坊構へ至りて御在陣。

(引用:太田牛一『信長公記 巻首 土岐頼芸公の事』インターネット公開版

・・・、信長御陣所大良口へ人数を出だし候。則ち、大良より三十町計り懸け出で、および河原にて取合ひ、足軽合戦候て、・・・
山城も合戦に切り負け、討死の由候間、大良御本陣まで、引き入るなり。爰にて大河隔つる事に候間、雑人・牛馬、悉く退けさせられ、殿は信長させらるべき由にて、惣人数こさせられ、上総介殿めし候御舟一艘残し置き、おの貼打ち越え候ところ、馬武者少々川ばたまで懸け来なり候。・・・さて、御舟にめされ、御越しなり、然るところ、尾張国半国の主織田伊勢守、濃州の義龍と申し合せ、御敵の色を立て、信長の館清洲の近所、下の郷と云ふ村放火の由、追々注進これあり。御無念におぼしめし、・・・

(引用:太田牛一『信長公記 巻首 信長大良より御帰陣の事』インターネット公開版

とあり、舅の斎藤道三の出兵に応援して、聟の織田信長も出兵します。場所的には、稲葉山を挟んで道三軍の反対側に着陣して、義龍軍を挟み撃ちにする作戦だったようです。

しかし、道三・義龍親子が激戦を繰り広げる中、信長軍は義龍軍にほとんど無視される形で、又、信長も積極的に合戦に割って入る事もせずに、多勢に無勢の形で敗戦する道三軍が敗走する中、信長は既に退き陣に入っている様子が分かります。

『信長公記』の記事中に、岩倉織田家が義龍軍に呼応し、信長の留守宅清洲の城下を襲っている記事が入っていて、この情報が、”信長の退却の原因”とも考えられますが、何となく言い訳がましい感じです。

歴史作家八切止夫氏によると、、、

・・・信秀が急死したとき。信長は道三の尽力で三男ながら跡目につけたのだ。
が、こういう立場は、信長のような向う意地の張った者には堪えぬところだったようである。
しかし、・・・組織の上にたつ道三を、若輩の信長ごときがどうなるものでもない。
そこで、当時のクチコミともいうべき唱門師たちを使って、美濃の保守勢力である旧土岐グループの結集を計った。これが成功して斎藤義龍はクーデターを起し道三を殺した。
これが信長の計画だった証拠には、彼程の向う意地の強い男が千余の軍勢を率い、長良川の上流保戸島まで行きながら、道三と義龍の決戦を河原で見物し一矢も飛ばさず、道三が城田寺で殺されるやさっさと引揚げて来ている。

(引用:八切止夫『戦国鉄仮面 132頁』2003年 作品社)

ここにあるように、信長の行動は不審を極める訳で、『信長公記』で太田牛一が”言い訳”を書いていますが、どうやら信長の分は悪く、『世話になって義理の有る斎藤道三を見殺しにした』と言われても仕方のないような行動だったと考えられます。

もっと言えば、”斎藤道三の抹殺”は、織田信長にとってなにか別の理由があるのかもしれません。

つまり、織田信長の中央政権とのファーストコンタクトが、時期的に目前だった事など考慮に入れると、美濃に領地を持つ”幕府奉公衆”が多いと言うことも何か関係するのかもしれません。

関連記事

 

織田信長の正室帰蝶(濃姫)は、斎藤道三の三女なのか?

江戸時代寛永末期のものとされる『美濃國諸舊記(みのこくしょきゅうき)』の記事には、、、

尾州の織田備後守は、道三相舅の契約にして、一方の盾となし置けるが、天文十八年の春に至り、信秀病氣に取結びける故に、早く存命の内血緣たるべしと、催促あるに付きて、婚禮を急ぎ、則ち明智入道宗寂を媒として、同年二月廿四日、尾州古渡に入與し、上總介信長の北の方とぞ相なりぬ。道三本室の子は、此の息女のみなり。

(引用:『美濃國諸舊記 土岐頼藝松波庄五郎を取立つる事 54頁』国立国会図書館デジタルコレクション

とあり、帰蝶が織田信長に嫁ぐ経過が記載されていますが、一般に斎藤道三の女(むすめ)と言う人たちは、、、

  1. 姉小路頼綱(あねがこうじ よりつな)室
  2. 土岐頼香 (とき よりたか)室
  3. 織田信長 (おだ のぶなが)室
  4. 土岐頼純 (とき よりずみ)室
  5. 斎藤利三 (さいとう としみつ)室
  6. 伊勢貞良 (いせ さだよし)室
  7. 稲葉貞通 (いなば さだみち)室

 

と並んでおり、帰蝶が3番目に書かれていることが多いので、三女とされているようです。

ほぼ全員が美濃・飛騨に関係した豪族・貴族・大名の筋であることから、斎藤道三の人脈の凄みが現れているようです。

しかし道三の正室は、美濃の名族明智氏出身の”小見の方(おみのかた)”ひとりであったことが知られていますので、他は側室の子となり、正室の子(むすめ)が”帰蝶(濃姫)”ただ一人であった事は、一致した見解となっています。

 

まとめ

最後は”天下人”まで上り詰めた織田信長と、舅である戦国の梟雄斎藤道三とが出会ったのは、美濃・尾張の境界地富田の”正徳寺でした。

信長の父信秀と道三は、好敵手同志でしたが、お互い苦しい状況下で姻戚同盟を以て和睦していました。そこへ、信秀から子供同志の婚姻の督促がやって来ます。

そして、信秀の体調が思わしくないことを知った道三は、娘に因果を含めて急遽、天文18年(1549年)2月24日に嫁入りさせます。

つまり、”若様の信長が噂通りのバカ殿”であったら、娘を利用して尾張略奪も視野に入れてのものでした。

そして、3年後の天文21年(1552年)に信秀が病没すると、想定通り一族をまとめきれない若輩者の信長に跡目争いが起こります。娘と密に連絡を取っていた道三は、早速尾張国境沿いに出兵して、織田の宿老衆に軍事圧力を掛けて、”信長に跡目を継がせるという信秀との約定”の履行を迫ります

大量の資金による買収と軍事圧力によって、道三の策略は成功し、無事終わりの跡目は”織田信長”が執ることが決まります。

しかし、その後のことを自分の目で確認したい道三は、翌年天文22年(1553年)4月に、美濃・尾張の境界地にある富田正徳寺においての会見を織田信長に申し入れます。

期待に違わず、敢然とその申し入れを受けて来た信長に対し、罠を仕掛けていたぶり、動揺でもしようものなら、切り殺してやろうと勇んで会場へ乗り込んだ道三でした。

しかし、度肝を抜かれたのは道三の方で、道三の思惑をすべて読み取り対応し準備をして来た、若造の聟信長の知力に舌を巻きました。

それが、有名な”されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候”と言う言葉となります。

翌天文23年(1554年)1月、信長から前代未聞の”留守番出兵”の依頼が舞い込みます。道三は、即刻了解し、腹心の安藤伊賀守の1000名の将兵を付けて、信長の行動をつぶさに観察してくるように申付けます。

1月20日に、尾張に着陣した安藤伊賀は、1月27日に退き陣して、直ちに道三へつぶさに報告しました。1月24日荒天をついて出撃した織田信長のその立ち振る舞い、現場での判断、戦闘指揮ぶり、1月26日の帰還後の対応など、どれをとっても武将の頭領として超一流であることが判明します。、

これを聞いて、愛娘帰蝶を嫁にやった織田信長と言う人物に惚れて、見込んだ甲斐があったと安堵し、”山城が申す様に、すさまじき男、隣には、はや成人にて候よと、申したる由なり。”と言う言葉となって今に残る事になりました。

この後、『織田信長』は”斎藤道三の思い”をはるかに超えて巨大化して行き、その過程で道三自身もひとつの”踏み台”として利用されたのに過ぎなかったのかもしれません。

 

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参考文献

〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社新書)

〇谷口克広 『織田信長の外交』(2015年 祥伝社新書)

〇八切止夫 『戦国鉄仮面』(2003年 作品社)

〇吉田蒼生雄訳 『武功夜話』(1995年 新人物往来社)

〇日本史史料研究会監修/渡邊大門編 『信長研究の最前線②』(2017年 洋泉社)

〇愛知県史料編さん委員会『愛知県史 資料編10 中世3』(2009年 愛知県)』

太田牛一『信長公記 巻首 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版

『美濃國諸舊記 土岐頼藝松波庄五郎を取立つる事』国立国会図書館デジタルコレクション

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 織田信長(一)』(1980年 講談社学術文庫)

〇武田鏡村 『大いなる謎・織田信長』(2006年 PHP文庫)

太田牛一『信長公記 巻首 村木の取出攻められしの事』インターネット公開版

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