執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
これで決まり!織田信長がキリスト教を保護した理由!
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戦国の覇者織田信長の“キリスト教保護理由”を簡潔に100字でまとめてみました。
織田信長が若い頃、なぜ父の葬儀の場で暴れたのか分かります。
織田信長が『全国制覇』後に”キリスト教弾圧”をするかどうか考えてみました。
織田信長は、当事者の宣教師ルイス・フロイスのどう思われていたのでしょうか?
目次
簡潔な”織田信長のキリスト教保護理由”の説明
戦国末期の天下人たちが、『キリスト教』を禁教にし、宣教師を追放し、信者を弾圧している中にあって、なぜ戦国の寵児”織田信長”だけが保護政策をとったのかについて考えてみます。
信長を巡る諸説には、、、
- 通説の二項対立説
- 宗教に対する公平(無関心)説
- イエズス会のスポンサー説
などがありますが、以下のようになります。
通説(仏教Vsキリスト教の二項対立説)<100字説明>
織田信長は、新興宗教勢力キリスト教を積極的に保護することにより、政治経済に深く関与して既得権益を所有し、武装して戦国大名化して敵対する一部の既存仏教勢力を押さ込む、『二項対立構造』とする考え方でした。
宗教に対する公平(無関心)説 <100字説明>
織田信長は、元来宗教に対して淡白であり、、いかなる宗教であろうと公平に対応して、自分に対して叛逆し敵対して来ない限り、弾圧することなく保護政策を取っていたため、キリスト教も保護されていたと言う事です。
イエズス会のスポンサー説 <100字説明>
1568年の上洛以降、織田信長の使う軍資金は莫大な額に上りますが、スポンサーはイエズス会と後押しする幕府関係者・豪商達でした。信長はその契約によりキリスト教を保護しましたが、信者ではありませんでした。
(画像引用:大浦天主堂ACphoto)
詳しい織田信長のキリスト教保護理由の説明
通説(仏教Vsキリスト教の二項対立説)
古くからある考え方です。
というのも、一般的には織田信長は、1571年の『比叡山(ひえいざん)焼き討ち』、1570~1580年までの『石山本願寺(いしやま ほんがんじ)との戦い』などで、仏教への弾圧姿勢が顕著で、一方、キリスト教は各地に教会の建設を認め、保護し、織田政権が主催するイベント(馬揃え等)に宣教師を招待するなど厚遇しています。
こうした事から、信長は自らの政策実行に立ちはだかる仏教勢力への対抗馬として、キリスト教をぶつけることを考えて実行したと言う考え方になります。
この考えに対して、最近の仏教史研究によって、信長は仏教勢力をすべて根絶やしにしてしまう考えはなかったことが判明して来て、仏教とキリスト教のいわゆる”二項対立”による考え方には無理があることが分かって来ています。
特にキリスト教問題に関しては、当時の仏教を全く理解しない宣教師側の資料が圧倒的に多く、日本側の資料がない分、日本側の視点が抜け落ちているようです。
彼等当時のイエズス会の宣教師たちは、今で言う『キリスト教原理主義者』に近い存在で、彼等の説くキリスト教は極めて排他的で攻撃的な教義であったことが分かっていますので、織田信長の行為に関してすべてキリスト教的に理解して、あの比叡山焼き討ちでのお寺の破却も”偶像破壊”とか”異教徒排除”などと捉えているのではないかと思われます。
当時は、日本国内で仏教徒もかなり戦闘的な時代でもあり、宗派対立で教団同志の戦闘がおこなわれることもしばしばだった時代ですから、まさに異教徒のキリスト教宣教師からみれば、邪悪な異教徒排除の動きだった訳でしょう。
結果的に、織田信長は『夷を以て夷を制す』ではありませんが、うるさい仏教勢力への対抗宗教勢力として、且つ武器弾薬をも供給してくれる先として利用したとも考えられます。
宗教に対する公平(無関心)説
織田信長が足利義昭(あしかが よしあき)を奉戴して上洛した翌年、永禄12年の4月に和田惟政(わだ これまさ)の仲介で、宣教師ルイスフロイスは、織田信長との面談が叶います。
その時にフロイスに発給された所謂『キリスト教の布教許可証』なるものは、実際には、新たに領地を得た際に信長が領内の寺社に多発する『禁制(きんぜい)』(安堵状)と内容的には変わらないものです。
永禄12年(1569年)4月8日付で信長よりフロイスに発給されたのは、、、
伴天連が都に居住するについては、彼に自由を与え、他の当国人が義務として行うべきいっさいのことを免除す。我が領する諸国においては、その欲するところに滞在することを許可し、これにつき妨害を受くることなからしむべし。もし不法に彼を苦しめる者あらば、これに対し断乎処罰すべし。
永禄十二年四月八日、これをしたたむ。
真の教えの道と称する礼拝堂にいるキリシタン宗門の伴天連宛(引用:ルイスフロイス『完訳フロイス日本史 2 第35章』松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫)
とあります。
一方、一般的な信長の『禁制』とは例えば、、、
禁制 多賀大社幷に町
一、当手の軍勢濫妨・狼藉の事、
一、陣取り、放火の事、
一、竹木を伐採し、非文の課役を相いかくる事、
右の条々、堅く停止せしめ訖んぬ、もし違犯の輩に於いては、速に厳科に処すべきもの也、仍って執達件の如し、
信長公
永禄十一年八月日 弾正忠(朱印)(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 上巻 163耶蘇会宣教師ルイス・フロイス宛免許状写』1994年 吉川弘文館)
とあります。
これは、永禄11年(1568年)9月に織田信長が足利義昭を奉戴して上洛する際に、事前に途上にある南近江の多賀大社(たがたいしゃ)に宛てて出した織田信長発給の『禁制(きんぜい)』ですが、翌年ルイスフロイスに発給したものとほぼ同じ体裁であることがわかります。
つまり、織田信長はフロイスと言う宗教者の求めに応じて、いつもどおり寺社向けの『禁制』と同じものを発給した訳で、特にキリスト教向けに特別に出したものではありません。
言い方を変えれば、キリスト教だけを特に保護したわけではなく、宗教団体として公平な取扱いをしたという事です。
こうした織田信長の宗教に対する接し方は一貫しており、自分に対して従順で特に敵対するようなことなく純粋に宗教活動をする者に対しては、武家として普通に保護をする対応でした。
結局、その個別の宗教が持つ教義には、一切興味を示していなかったとも言えそうです。
イエズス会のスポンサー説
イエズス会は、天文18年(1549年)のフランシスコ・ザビエル師来日以来、日本では土地の権力者にキリスト教布教の協力を得るためには、進物を携えて訪問することが必要なことを勉強していました。
山口でザビエル師が領主大内義隆(おおうち よしたか)に謁見し、進物に”美しい三連装の高価な鉄炮”を持って行ったところ、たちどころに山口での”布教許可”と立派な寺院まで用意されたことがありました。
又、ガーゴ司祭は3年後の天文21年(1552年)に8月19日に豊後に到着し、領主の大友宗麟(おおとも そうりん)に謁見しますが、、、
司祭(バルタザール・ガーゴ)は二名の修道士とともに、メストレ・フランシスコ(・ザビエル)師に伴われ、1552年4月17日にゴアを出帆し、6月6日にマラッカから日本に向かった。・・・幾多の困難や嵐に遭った後、9月7日(和暦8月19日)に豊後に到着した。国王(大友宗麟)はさっそく彼らの居所として一軒の家を与えさせた。
翌日彼らは国王を訪れ、インド副王が国主に贈った非常に美しい武器、その他の進物を彼のところへ携えて行った。彼は、非常に喜び・・・・。
ところで、山口にいる私たちの同僚(トルレス神父)は、国主の允許状(いんきょじょう)によって、説教したりキリシタンをつくってよいという公の許可を得ている事だから、殿下の領国においても私たちがそれと同じような允許状を授かることが必要であろう。・・・・
国主はこれに答えて言った。「布教許可の件は、御身らがそれほどまでに望んでいるのならば、今夜にでもさっそく街路に立札を立てさせるであろう。・・・自由に説教するがよろしい。」(引用:ルイス・フロイス『完訳日本史 6 第8章』松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫)
とあり、イエズス会が領主たちに武器・弾薬を提供して、布教許可を取っている様子が分かります。大名のキリスト教保護というより、武器援助して欲しさに大名は”イエズス会の言いなり”みたいな感じですね。
種子島に鉄炮が伝来して以来、器用な日本人は世界の他国に先駆けて量産を始めますが、肝心の火薬に使う硝石は100%輸入に頼らざるを得ず、この硝石を輸入する堺・京都の豪商たちとポルトガル船と結びつく宣教師たちによって、武器弾薬とキリスト教は広がってゆくことになります。
さて、こうした背景の中、時代の寵児となってゆく織田信長の場合はどうだったでしょうか?
実は、信長関係史料の中には、イエズス会から武器供与・軍事支援を受けた記事が見つかっていないのですが、、、
九月十二日、野田・福島の十町ばかり北に、えび江と申す在所候。公方様・信長公、御一所に詰め陣に御陣居えさせられ、先陣は、勿論、夜貼に土手築き、其の手貼を争ひ、塀際へ詰め寄せ、其の数を尽し、域楼を上げ、大鉄炮にて城中へ打ち入れ、責められ候。
とあり、元亀元年(1570年)9月12日の『野田福島の戦い』で、三好勢との緒戦で既に織田軍がまだ国産化が難しかった大砲を普通に使用していることが分かります。
また、、、
・・・南大島口攻め衆、御本所・神部三七・桑名衆、其の外、勢州の舟大船数百艘乗り入れ、海上所なし。諸手大鳥居・しのばせ取寄り、大鉄炮を以て塀・櫓打崩し、攻められ候の処に、両城迷惑致し、・・・
とあり、天正2年(1572年)7月の長島一向一揆攻めにもなんと艦載砲が使用されています。これなど日本製は全くあり得ないはずです。
その他随所で、織田軍は鉄炮のみならず、大鉄炮(大砲)の使用を実戦力として多用しており、本体のみならず大砲の玉と弾薬の供給も潤沢にあったことが裏付けられます。
そして、、、
織田信長が上洛した翌年永禄12年(1569年)4月8日に、ルイス・フロイスに『允許状(いんきょじょうー布教の許可証)』が発給されますが、正親町天皇の手下の日乗上人は、20日に行われたフロイスとの宗論に負けたにもかかわらず、4月25日には、再度『伴天連追放の天皇綸旨』の再発令に成功して伴天連追放を督促します。
岐阜に帰還した信長を追って、フロイスは京都から下り、信長に事態を訴えます。それに対して信長は・・・
・・・かの二人の殿が、同日の午後、信長の許に赴いて、私がこの地にいることを告げましたところ、彼はそれを喜び、彼らに向かって、「内裏が綸旨をもって、伴天連を都から追放するか殺すがよい、と述べたのははなはだ遺憾である。・・・、ところで予は、彼が異国人であるため彼に対して抱いている同情から、このように寵愛するのであり、彼は都から追放されはしない」と語りました。
・・・彼は大勢の貴人たちがいる前で私に向かい、「内裏も公方様も気にするには及ばぬ。すべては予の権力の下にあり、予が述べることのみを行ない、汝は欲するところにいるがよい。」と申されました。
・・・信長の家臣と、諸国から用務のために政庁に来ていた他の貴人たちは、我らの主なるデウスが、信長を通して我らに示し給う好意について驚嘆し、驚いたことだ、信長の身分や性格から、こうも新奇で異常な行為は何によるものかわけがわからぬ、と語りました。
彼らが不思議がるのは当然でした。けだし彼らは万のことは、あらゆる善と慈悲の尽きない泉(であるデウス)から出ていることを知らなかったからであります。(引用:ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史 2 第38章』松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫)
とあり、織田信長は正親町天皇の『伴天連追放の綸旨』を無視してしまい、フロイス神父を岐阜城で歓待して、かの有名な「内裏も公方様も気にするには及ばぬ。すべては予の権力の下にあり、予が述べることのみを行ない、汝は欲するところにいるがよい。」と言う発言があります。
このフロイスの『日本史』の中の発言で、最後の言葉(彼らが不思議がるのは当然でした。けだし彼らは万のことは、あらゆる善と慈悲の尽きない泉であるデウスから出ていることを知らなかったからであります。)が重要と思われます。
ちょっと見は訳の分からない聖職者の世迷いごとのようですが、『あらゆる善と慈悲』を『”軍資金と軍備”の援助』、『デウス』を『ポルトガル政府とイエズス会』と読み替えると意味が分かります。
この文意は、織田信長のスポンサーはイエズス会とポルトガル王であり、軍事援助をしてもらっているイエズス会を織田信長が大事にする・助けるのは当然であるとフロイスが述べていることになります。
前述しましたように、西国の各キリシタン大名はイエズス会の軍事援助を当てにして、キリスト教布教の片棒を担いでいたことは明白な事実であり、織田信長も全く史料的には尻尾を出していませんが、信長が天下人へ登りつめて行った道程をみると、運がいいだけでは説明の出来ない事が多く、この抜けた穴に『イエズス会』と言う”ピース”をはめるとピッタリ収まるような感じがします。
後年、江戸時代初期に勃発した『島原の乱』当時、日本国内の人口2千万人に対して、キリスト教信者数が70万人と言う空前の規模にまで膨らんでいた事実が、信長以降の天下人3名が”キリスト教と海外貿易事業”に深く関与(独占)していることがリンクしているようで大きく疑われるところです。
話を本章のテーマ(イエズス会のスポンサー説)に戻しますと、、、
織田信長は、イエズス会と取引をして、『キリスト教保護政策』と引き換えに『軍事援助』を受けて、全国制覇の大きな原動力(資金源)にしていた可能性が高いのではないかと言う説です。
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織田信長と宗教との初期の話題
織田家の出自問題
通説では、織田氏(織田宗家)は越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の荘官だったとも、『織田劔神社(おだつるぎ じんじゃ)』の神職だったとも伝えられています。
14世紀中に当時の越前守護職斯波(しば)氏に仕え、応永7年(1400年)に斯波氏が尾張国の守護も兼任し、その2年後の応永9年(1402年)から織田教広(おだ のりひろ)が守護代として起用され尾張国へ進出したものと言われます。
その後、足利将軍家の内紛に重臣の斯波家も巻き込まれて、その余波をうけて守護代の織田家も岩倉(伊勢守)織田家と清須織田(大和守)家に分裂し、清須織田家の3家老にひとつに信長の織田弾正忠家(勝幡織田家)がありました。
しかし、江戸時代の寛政期に大名の系図提出を幕府が求めたため、ねつ造系図が横行してしまい、先祖は”清和源氏(せいわげんじ)”と言うのが流行りますが、これは第56代清和天皇から源経基(みなもと つねもと)へつながるものとほぼ無関係で”姓は源氏(せいわげんじ)”と言うダジャレのような話になっていて全くアテにならない話です。
ここでは名門の斯波(しば)氏はともかく、織田信長の勝幡織田家(しょばた おだけ)のような”陪臣の陪臣”のような家柄が、”平資盛(たいら の すけもり)”を祖とする『平家』もかなり怪しいと見た方が良いようです。
一方、織田信長の織田弾正忠家(勝幡織田氏)に関しては、文書史料のある信長の祖父あたりまでは、実在がわかりますが、それ以前となると全く不明です。しかし伝承はあるようです。
織田信長研究家の谷口克広氏によれば、、、
織田氏の系図は、・・・全国に多く伝わっている。それらの系図では、共通して織田氏の先祖を平重盛の二男資盛にしている。
資盛は一族とともに壇ノ浦に沈んだが、愛妾の一人が都で密かに資盛の子を産んだ。その子がのちの親真である。母子は近江津田郷に逃れ、・・・ある時、越前織田荘の神職の者が津田を訪れ、親真を養子にして越前へ連れて行った。親真はのちに神職を継いで、そこに永住した。(引用:谷口克広 『天下人の父・織田信秀』2017年 祥伝社新書)
歴史作家の故八切止夫氏によると、、、
そもそも近江の国は野洲川に、・・・後に、ここの八田別所の信秀が尾張へでて仕え、織田姓を賜姓されて名のり、倅の信長がやがて、この近江のビワ湖畔に安土城を建てるのは後の話だが神話で隠し、ややこしい国である。
(引用:八切止夫 『サンカの歴史 277頁』 1985年 日本シェル出版)
上記ふたつの話は少し違いがありますが、守護職斯波氏の守護代織田氏に仕えた勝幡織田家の祖先たちの本貫が、滋賀県近江八幡市の一帯であることを示しているようです。
豊臣秀吉・徳川家康に限らず、戦国大名として成り上がった一族は、いわゆる”貴種=貴族・王族”の祖先を持つ人々はいません。
織田信長の家系も尾張の国衆にやっと成り上がった織田信貞(おだ のぶさだー信長祖父)以前のことは”闇の中”です。
織田信長研究家の谷口克広氏の伝える伝承は、”平家一族の末裔”としており、歴史作家の八切止夫氏は、ずばり”被差別階級・非人”の出身である伝承を伝えています。
八切説だと、如何に才能に恵まれていたとは言え、卑賎の出身である豊臣秀吉がなぜ領主織田信長に重用されて行くのか、と言う疑問の答えのひとつにもつながるのかもしれません。
織田家家臣の一向宗問題と信秀の葬儀での騒ぎ
文安4年(1447年)に、後に本願寺派の教団中興の祖となる浄土真宗本願寺派の僧蓮如(れんによ)が、父存如(ぞんにょ)の許可を受けて京都から関東巡教に赴く途中に、三河・尾張で説法を行なっていますが、三河”佐々木上宮寺(愛知県岡崎市)の如光(にょこう)”の協力を得て、強力な尾張・三河門徒衆の形成に成功しています。
このように、三河・尾張地区では、後に徳川家康を窮地に追い詰めた強力な”一向宗門徒衆”が、圧倒的な”蓮如”の説法活動もあり、国人領主層も巻き込んで強力なネットワークを形成していました。
こんなことから、尾張の織田家家臣団にも深く一向宗は食い込んでおり、織田信長が父信秀の死去により家督相続をした天文21年(1552年)の時に、そもそも低い身分から成り上がった織田信秀の反感を持つ、重臣・親族衆は年若い信長を甘く見て、地元に根強い力を持つ一向門徒衆と裏で、或は堂々と手を結び始めます。
この背景は、前述のように織田弾正忠家が本来、出自から”神信仰の神道系”であって”仏教徒”ではないことに由来していると考えられますが、この対立の溝がその後に様々な問題を引き起こして行きます。
一、備後守殿疫癘に御悩みなされ、様々の祈祷、御療治候と雖も、御平癒なく、終に三月三日、御年四十二と申すに、御遷化。
・・・、さて、一院建立、万松寺と号す。・・・国中の僧衆集まりて、・・・、僧衆三百人ばかりこれあり。三郎信長公、林、平手、青山、内藤、家老衆、御伴なり。・・・、
信長御焼香に御出づ。其の時の信長公御仕立て、長つかの大刀、わきざしを三五なわにてまかせられ、髪はちゃせんに巻き立て、袴もめし候はで、仏前へ御出でありて、抹香をくはつと御つかみ候て、仏前へ投げ懸け、御帰る。御舎弟勘十郎は折日高なる肩衣、袴めし候て、あるべき如きの御沙汰なり。
三郎信長公を、例の大うつけよと、執貼評判候ひしなり。
とあり、織田信長の超有名なシーンです。ひどい姿で現れて、抹香を仏前に投げつけたとは穏やかでない挙動ですが、、、
この時、織田信長は周囲がすべて敵と言う状況下でした。本来神信仰である父の葬儀は神式であるべきなのですが、信長は喪主とは名ばかりで、葬儀は重臣たちの仏教徒によって仏式で取り仕切られていました。
この葬儀に、信長は無防備に空身でやって来たわけではなくて、寺の外に引き連れて来た親衛隊700~800名を待機させ、戦仕立てで現れたものと考えられます。その為に、喪服ではなくて記録にあるような戦闘装束であったことと、焼香もさっさと済ませて消えた訳です。
親族たちにいつ暗殺されてもおかしくない状況下で、それを見越して重装備で現れた信長を見て、暗殺するつもりであった親戚たちは、信長の軍勢に度肝を抜かれ悔し紛れに”あの大うつけよ”と負け惜しみを言ったと考える方が理屈が通りそうです。
父の死後、鳴海の山口左馬之助が、仏教徒の今川方へ寝返り、南西部の河内郡(長島)は、一向宗徒服部左京と云う者が横領してしまい、これもまた今川方と連携していました。かれら服部の水軍は、『桶狭間の戦い』の時は、今川方として出陣して来ます。
そして、勢力拡大のためには”武力援助”をいくらでも行う一向宗勢は、織田家の中も切り崩し始めており、もはや一向宗への宗旨替えを迫る家老の平手政秀らの圧迫もあるなど、織田信長は絶体絶命の状況に陥っていたと考えられます。
これが、あの若き織田信長が引き起こした超有名な葬儀シーンの真相だったと思われるのです。
織田信長に『天下への道』を開いた幕府奉公衆とキリスト教の関係は?
織田信長の天下取りは、室町幕府第13代将軍足利義輝の側近である長岡藤孝(ながおか ふじたかー後の細川幽斎)ら、幕府奉公衆に目を付けられたことから始まったようです。
織田信長への中央政界からのファーストコンタクトは、、、
この度、国々を従えたことは、武勇の長上であり、天道も感応するところで、織田信長は古今無双の名将です。いよいよ勝ちに乗ぜられることは勿論、・・・
・・・、天皇のご命令はこのようであります。永禄十年十一月九日 右中辯(花押)晴豊
とあり、この『綸旨(りんじ)』は”天皇の信長に対する上洛命令”と考えられていて、弁官の勧修寺晴豊(かんしゅじ はれとよ)卿が奉ずる形で、この時の勅使は御藏職(みくらしき)の立入宗継(たてり むねつぐ)卿が下向し、この文書は日付から織田信長が足利義昭(あしかが よしあき)を奉戴して上洛する前年のものとなります。
しかし、この件を伝える現地尾張の裏付け史料『道家祖看記(どうかそかんき)』の記事には、中にある織田信長の発言にこの出来事が永禄2年(1559年)の頃だと示す内容が書かれており、今では、天皇綸旨は2回(永禄2年と永禄10年)出されたものと考えられています。
その永禄2年の記事には、信長が”天皇に『天下の事』を申付けられた”と大喜びしている内容が記載されており、織田信長は同時期に出たと考えられる足利義輝からの『上洛命令の御内書(みないしょ)』とともに、中央政界に選ばれた武将となっています。
この一連の出来事の中で出てくる”立入宗継”が、織田信長の上洛招請に大乗り気で朝廷内の根回しを行ない、天皇の件の『綸旨』を出させた張本人だったようです。その後立入は、朝廷と信長を結ぶ”公家側の窓口”として活躍して行きます。
記録によれば、”立入宗継”が御倉職に就任したのは、弘治4年(永禄元年=1558年)の事ですが、一方”勅使であった立入宗継”の信長との面談した状況を詳説した『道家祖看記(どうかそかんき)』の道家尾張守の妻が立入宗継の妻と姉妹であったことが知られています。
そして、この勅使立入宗継に同道して尾張に下向した近江山中領主磯谷久次(いそがい ひさつぐ)がこの姉妹たちの父でした。
さらに、この磯谷久次は、都の大儒者・朝廷局務清原宜賢(きよはら のぶかた)の次男吉田兼右(よしだ かねみぎ)卿の女婿でした。
清原家は、織田信長が手本とする源頼朝の『天下草創』理念に携わった儒家の家系です。つまり、これに続くものと考えられる『織田信長の天下布武』の理念は、この宣賢の孫にあたり、当時禁裏周辺にいた清原枝賢(きよはら しげかた)から草案が織田信長に提供されていた可能性が高いと思われます。
清原氏は、朝廷の太政官外記(だじょうかん げき)の最上主『局務(きょくむ)』を世襲する朝廷の文官最上官です。そして、清原枝賢のむすめは、正親町天皇の後宮女房”伊与局(いよのつぼね)”でした。
件の兼右卿は、室町第13代将軍足利義輝の京都復帰にも尽力した人物で、奉公衆であった結城山城守忠正(ゆうき やましろのかみ ただまさ)とも、清原枝賢らと同席する関係でした。そして彼らはキリシタンで、伴天連たちとは懇意でした。
このキリスト教につながる中央政界のグループが企画して、織田信長の中央招請に動いたのが、件の上洛を命令する『天皇綸旨(てんのう りんじ)』・『将軍御内書(しょうぐん みないしょ)』であったと考えられます。
織田信長とキリスト教の関係は、両者による単純な”織田信長の硝石欲しさ”と”伴天連へのキリスト教布教許可”の交換ゲームではなく、中央政界の深い事情もあったようです。
”権力・キリスト教・硝石”の関係は、意外にも最初から信長が求めて行ったものではなくて、中央政界の事情から目を付けられた信長が引っ張り寄せられて行った結果出来上がったものだったとも考えられそうです。
『天下布武』の実現後に、織田信長はキリスト教を弾圧するの?
一般的には、戦国大名のキリシタンとの交際関係は、西国大名たちに象徴されるように、鉄炮に使用する火薬原料の硝石ほしさにあったとされます。
中には、本気で信仰の道へ入った高山右近(たかやま うこん)などの例もありますが、洗礼を受けようが受けまいが、”精神的なつながり”まである武将はあまりいなかったと思われます。
当然、宗教的なことに関心のなさそうな織田信長も同じような動機でキリスト教を容認していたはずですから、イエズス会の支援を受けて順調に『全国制覇』を成し遂げた後、もう”硝石の大量需要”はなくなるため、他の権力者と同様に今度はキリシタン勢力が自身の政敵となる可能性を排除するために、キリスト教弾圧に向かうとの観測がもっぱらです。
勿論、天正10年(1582年)6月2日未明の『本能寺の変』を以て、織田信長の未来は終わってしまったので、本当はどうなるのか変わりませんが、その織田信長の後を継いだと言われている豊臣秀吉がどうしたかを見てみますと、、、
秀吉は、信長の政策を踏襲しキリスト教を優遇しました。高野山、比叡山にも寛大で、比叡山は再建に手を貸しさえします。本願寺とは一転融和策で、顕如上人は秀吉の九州遠征に当り、薩摩への先導を務めたとさえ噂があります。
しかし、この九州平定戦において地元九州でのイエズス会の驚くほどの勢力を目の当たりにして、政権を掌握する天下人として危機感を覚えたのか、、、
天正15年(1587年)6月19日に九州平定の帰途、突然博多にて、『伴天連追放令(ばてれん ついほうれい)』をイエズス会副管区長コエリョ神父に対して発し、博多の町にその旨高札を立てました。
前日まで秀吉が、手厚く保護していたキリスト教宣教師の国外退去を突然求めたのです。
秀吉も、西国の仕置きがこれにて終了して、『全国制覇』への道筋がつき、キリシタン大名への過剰な配慮は不要となったこともあり、決断したことだろうと思われます。
ここで、秀吉が重要な理由としているのが、夜に側近の施薬院徳雲(せやくいん とくうん)から、聞いたキリシタンの悪口の中にあった、”伴天連が日本人を奴隷として大量に海外へ売り払っている話”で、これに激怒したと言われています。
取って付けたような話ですが、おそらくはタイミングを計った上での『伴天連追放令』だったと考えられます。
信長の後継者などと言われる秀吉ですが、実は、『王政復古・禁教運動』の中心人物である正親町天皇との約束から、秀吉の”禁教行動”パフォーマンスは必然だったようです。
となると、織田信長はこの立場を取らなかったので、『本能寺の変(明智光秀の乱)』に遭遇したとも言えますから、もし光秀のクーデターが失敗していた場合は、やはりよほどイエズス会が織田信長の面子をつぶすような行動を取らない限り、織田信長はなかなか『キリスト教弾圧行動』は起こさないのではないかと考えられます。
関連記事
宣教師ルイスフロイスの見る織田信長とは?
ルイス・フロイスは、著書『日本史』の中で、、、
極めて戦闘的で武技に耽り、名誉心に富み、正義の事に厳重であった。彼は、自らに加えられた侮辱を罰なしに許さなかった。・・・貪欲ならず、甚だその決断を秘し、極めて戦術に老練で、大いに性急であり、激昂し易かったが、草創はそうではなかった。・・・彼は総ての日本の王侯を軽蔑し、・・・上から下に向って彼らに話をした。・・・彼は戦運が己に背いた時も大度あり、辛抱強かった。善き理性と明確な判断の持ち主で、・・・困難な企画に着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事に於いて人々はその言葉に服従した。
(引用:松田毅一『南蛮史料の研究』第5章フロイス文書の内容検討 例8織田信長の性格 415頁 『日本史』引用文)
と初めの頃の信長に対する印象を述べています。そして信長の晩年になって来ると、、、
・・・、彼を支配していた傲慢さと尊大さは非常なもので、そのため、この不幸にして哀れな人物は、途方もない狂気と盲目に陥り、自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ、彼の家臣らが明言していたように、彼自身が地上で礼拝されることを望み、彼、すなわち信長以外に礼拝に値する者は誰もいないと言うに至った。・・・。彼は、それらすべてが造物主の力強き御手から授けられた偉大な恩恵と賜物であると認めて謙虚になるどころか、いよいよ傲慢となり、自力を過信し、その乱行と尊大さのゆえに破滅するという極限に達したのである。
(引用:松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史3 第55章』)
とあり、初見の頃は、信長を褒め上げていますが、安土城築城後に摠見寺(そうけんじ)を建立した辺りから、フロイスの口調は手前みその宣教師節の言いたい放題となって来ます。
信長がいつまで経っても”上から目線での発言態度”が変わらないのに業を煮やし、時間が立てば必ず信者に尊敬されて来た宣教師たちの神経を逆立てていたようです。
フロイスの初期の分析はかなり正確であり、信長の性格を見抜いていると思いますし、信長の基本も終生終始一貫していると考えられます。
しかし、フロイスの方はいつまで経ってもキリスト教になじまない信長に対して、すっかり嫌気がさしているような口撃を加えています。
信長がはっきり、伴天連に恫喝を加えたのは、天正6年(1578年)の”荒木村重の謀叛”事件の時です。
・・・、然して、高槻の城主高山右近、だいうす門徒に候。信長公御案を廻らされ、伴天連を召し寄せられる。此の時、高山御忠節仕り候様に、才覚いたすべし。さ候はば、伴天連門家何方に建立候へども、苦しからず。若し御請申さず候はば、宗門を御断絶なさるべきの趣、仰せ出だされ、則ち、伴天連御請け申す。
織田信長は、イエズス会のオルガンチーノ神父を呼びつけて、謀叛人荒木村重配下のキリシタン大名である高山右近が織田信長側につくように、説得することを厳命しました。そしてもし断ったら比叡山のように撫で切りにするぞと脅します。
勿論、オルガンチーノ神父は信長のところに飛んで行って、その命令を了解します。
いままで、猫なで声で保護者として、神父たちに接していた織田信長がその仮面を脱いだ瞬間だったのかもしれません。
イエズス会のルイス・フロイス達宣教師は、いままで織田信長に援助はしながらも、布教の便宜を図ってもらっていた善き理解者として考えていましたが、あからさまに”手下扱い”された事により、ここで織田信長の正体をはっきり見たのではないでしょうか。
この一件で織田信長は、イエズス会の宣教師たちに、”傲慢”・”尊大”・”自信過剰”などの強い印象を与えたに違いありません。
そして更に、安土城に建立された”摠見寺(そうけんじ)”に礼拝するよう人々に強要し始めたのを見て、”反キリスト”と言うより”非キリスト”の織田信長を、改めて”野蛮人”として軽蔑するようになって行ったのではないでしょうか。
まとめ
戦国武将の中にあって、キリスト教の保護政策を採っていた織田信長を巡る諸説に、前述しましたように、、、
- 通説の二項対立説
- 宗教に対する公平(無関心)説
- イエズス会のスポンサー説
などがありますが、最も有力な説が”3.イエズス会のスポンサー説”ではないかと思われます。
まぁ、簡単に云えば、利用出来る間はキリスト教を保護しようというものです。
戦国武将にとって、鉄炮を武器として使用するために必要な火薬原料の『硝石』の確保は必須課題でした。
その入手協力をしてくれる”イエズス会宣教師とそのバックにいるポルトガル商人”との友好関係は最重要外交問題です。
この火薬原料の70%を占める”硝石”が日本で全く産出しない鉱物資源であると言う厳然たる事実は、後世まで大きく影を落とし、旧日本帝国陸海軍部隊の常習的な弾薬不足もこれが原因です。
このため、戦国武将にとって、イエズス会宣教師の説く”キリスト教”に関し、お互い言葉も通じないまま、日本語の翻訳聖書の出回るはるか以前から”キリスト教入信者”が続出する騒ぎとなっていました。
一にも二にも、”硝石を詰め込んだ樽”欲しさに尽きたようです。
しかし、この硝石も入信さえすれば、イエズス会が無料で配っていたものではありませんので、それなりの莫大な対価を戦国大名は支払っていたわけです。
これについての研究がすすんでいませんが、、、
豊臣秀吉が九州平定の終了した直後、博多で天正15年(1587年)に有名な『伴天連追放令』を出しますが、この追放理由のもっとも大きなものとして、”日本国民を奴隷として海外売却した、けしからん”と云う事があります。
唐突でよくわからない感じですが、九州諸大名の”硝石の対価支払い原資”が、実はこれ”人身売買”だったのではないかとみられています。つまり、西国の大名たちは、硝石の対価として金銀・特産品・宝物ではなくて、”人身売買”で支払っていた疑いが濃厚なのです。
これに関して、、、
徳富蘇峰は、「大村由己の、九州動座記」と題したもので、「宣教師より硝石樽を入手せんため、大名小名はいうの及ばず豪族の徒輩までが、己が下婢や郎党はおろか自分の妻妾まで南蛮船に運ぶ。それを獣のごとく縛って船内に押し込むゆえ、泣き叫び喚くさま地獄のごとし」と秀吉の伴をして九州へ行った時の見聞録を、<近世日本国民史>の初版本には入れている。
(引用:八切止夫『日本の特殊部落発生史』1982年 日本シェル出版)
と言う史料があり、この時の秀吉の『伴天連追放令』の本当の狙いは、人道主義や国民保護の観点ではなくて、硝石の入手原資を断って、西国大名の良からぬ叛乱の芽を摘もうとしたことにありそうです。”大村由己(おおむら ゆうこ)”と言うのは、豊臣秀吉が特に目を懸けていた従軍記者・祐筆ですので、この史料の信頼度は高いと評価されています。
織田信長の『キリスト教保護』の狙いがそこ(硝石の確保)だけにあったと言い切れないとこもありますが、一番はそれで間違いないようです。
もうひとつあるとすれば、ポルトガル貿易のひとり占めと、イエズス会・ポルトガル本国の莫大な資金援助(黄金)だと考えられます。
『黄金の国ジパング』伝説の国とは言え、まだ当時は各地金山の産金が軌道に乗っておらず、銀ならいざ知らず黄金はあまりなかったことが分かっていますので、織田信長・豊臣秀吉が蓄財していた莫大な黄金に関しての入手ルートはキリスト教がらみのポルトガルからの献金しかないと思われます。
勿論それが、信長の全国制覇の軍事費の裏付けとなっていたことは言うまでもありません。
年一回取り立てられる年貢の収入だけの戦国大名では、やはり『全国制覇戦』を進めて行く軍事費調達は難しかったと思われます。
織田信長の『キリスト教保護政策』の狙いは、全国制覇を達成する『火薬』と『軍事費』の調達にあったと言えそうです。
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参考文献
〇渡邊大門編 『信長研究の最前線②』(2017年 洋泉社)
〇立花京子 『信長と十字架』(2004年 集英社新書)
〇松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史』(2015年 中公文庫)
〇奥野高廣 『増訂織田信長文書の研究 上巻 』(1994年 吉川弘文館)
〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社新書)
〇八切止夫 『サンカの歴史 』 (1985年 日本シェル出版)
〇朝倉喜祐 『吉崎御坊の歴史』(1995年 国書発行会)
〇『信長公記 巻首 備後守病死の事』インターネット公開版
〇『立入文書』国立国会図書館デジタルコレクション
〇『道家祖看記』国立国会図書館デジタルコレクション
〇小林正信 『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)
〇松田毅一 『南蛮史料の研究』(1967年 風間書房)
〇八切止夫『日本の特殊部落発生史』(1982年 日本シェル出版)
〇谷口克広 『織田信長の外交』(2015年 祥伝社新書)