執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
織田信長は『天下統一』を初めて考えた戦国武将だった!ホント?
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戦国の覇者織田信長が、いつからどんな『天下統一』を考えていたかを解明します。
織田信長の『天下統一』を目前で台無しにした明智光秀は、どんな考えだったのか解明します。
豊臣秀吉は、織田信長の後継者ではなかったことが分かります。
織田信長も『天下統一』後は”キリスト教迫害”をおこなったでしょうか?
目次
織田信長はいつから『天下統一』を考えていたの?
織田信長研究の第一史料と言われる”太田牛一(おおた ぎゅういち)”の『信長公記』に、、、
さる程に、丹波国桑田郡穴太村のうち、長谷の城と云ふを相抱へ候赤沢加賀守、内藤備前守与力なり。一段の鷹数寄なり。或る時、自身関東へ罷り下り、然るべき角鷹二連を求め、罷り上り候刻、尾州にて、織田上総介信長へ、二連のうち、何れにしても、一もと進上と申し候へば、志の程感悦至極に候。併し、天下御存知の砌、申し請けられ候間、預け置くの由候て、返し下され候。此の由、京都にて物語り候へば、国を隔て、遠国よりの望み、実らずと、申し候て、皆々笑ひ申し候。然るところ、十カ年をへず、信長御入洛され候。希代の不思議の事どもに候なり。
(引用:太田牛一『信長公記 巻首 公方様憑み百ケ日の内に天下仰せ付けられ候事の条』インターネット公開版)
この意は、『以前、丹波国の赤沢加賀守と言う御家人が、鷹に凝っていて、或る時、関東へ行って熊鷹を二羽手に入れ、帰りに尾張に寄り、織田信長に”どちらでも一羽進上します”と言ったところ、信長は”お志はまことにありがたいが、天下を取った時に頂きますので、それまでお預けしておきましょう。”と言いました。赤沢加賀守がそのことを京都で話たところ、皆々遠国の人がそんな望みを抱いたところで実現しないでしょうと笑いましたが、十年も経たない内に織田信長は上洛を果たしました。全く不思議なこともあるものです。』と言う逸話です。
この話の時期は”十カ年経ず、信長御入洛され候”とありますので、信長が”将軍義輝の上洛命令”に従って配下80名で派手な行列で入洛して”京雀たち”の話題となった永禄2年(1559年)2月に初めて上洛した頃の話のようですが、すでにこの時には『天下』の事は信長の頭の中にはあったものと考えられます。
一般的に云って、この頃の戦国大名は先ず自国の領国の安堵が大切で、口には出しても本気で『天下』を目指す人物は、皆無だったというのが本当の処のようです。
織田信長が他の大名に先んじて、このような『天下取り』の考えに至る理由は、永禄元年(1558年)秋に践祚(せんそ)したばかりの正親町天皇(おおぎまちてんのう)から、永禄元年年末頃に、、、
・・・サテ上様ヨリ御トウフクメシ、村井御リンシノ書立三ケ條ノヨシ申、信長請取、先日付ノ下ニ判クワヒ、コヽヒテ、我等イマタ尾州サヘ半國ノアルシタルニ、天下被仰付候、此御力ヲ以テ、當國ヲハ年内ニシタカヘ、來年ハ美濃國令退治候ハン事、此二通ノ御力也トテ、三カ條ヲ立入ニ渡シ給フ、・・・
(引用:『道家祖看記』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、天皇から『綸旨(りんじ)』が隠密にあり、要はお金に困りひどく貧乏している当時の禁裏は、このあと即位するまでに3年を要したと言われていますので、領地の回復・御所修理・継承即位等の費用などを織田信長に無心をするに当たって、『決勝綸旨(けっしょうりんじ)』を出して、信長の武力行使を容認したものでした。
しかし、父から家督相続をして、失地回復に全力を挙げている信長にとって、誠にありがたい”天皇のお言葉”でした。
尚且つ、『天下 仰せつけられ候』と、信長は天皇から天下の事を任せたと言われたと理解した訳です。
父から譲り受けた尾張国の平定に躍起になっている若き信長にとって、考えてもいなかった『天下』のことを、しかも天皇から文書で『頼むぞ』と命令を受けたのですから、はっきりと文面にも信長の決意が現れている訳です。
この文章にある『天皇綸旨』の件は、史料(立入文書ーたてりぶんしょ)では永禄10年(1567年)11月9日付にて発給されているものですが、尾張に残された上記『道家祖看記(どうかそかんき)』の文面により、この綸旨がそれ以前の永禄元年辺りに発給されていると考えられる(信長の発言)内容を含んでいることから、永禄元年と永禄10年の2回発給されたものと考えられています。
これは、13代将軍足利義輝からの上洛命令の”御内書”も同時期だと考えられ、これまで謎とされていた”永禄2年2月の織田信長の上洛”は、三好勢と和睦して京都に復帰したばかりの将軍義輝と、践祚したばかりの正親町帝の両方から出た『上洛命令』に基づくものだったことが判明する訳です。
という訳で、、、
通説では、織田信長が『天下統一』を意識するようになったのは、念願であった美濃平定を終え、将軍候補足利義昭を奉戴して上洛する条件が整った永禄10年(1567年)頃と言われています。
しかし前述しましたように、どうやら織田信長の『天下獲り(天下統一)』への考えは、もっと初期からで、なんと永禄3年(1560年)5月の『桶狭間の戦』以前の永禄2年の上洛の時辺りから芽生えていたのではないかと思われます。
要するに、調略まで使ってやっと”美濃を平定”したから『天下を考えた』のではなくて、『天下』を取るために”美濃を落した”と考えられるわけです。
従来父の代からあれだけ苦労していた美濃が、『永禄8年の政変』で将軍義輝が殺害され、その奉公衆であった細川藤孝らが義昭を担ぎ上げるという話になってから、急に美濃攻略の道が開け始めるのは、きちんと理由があるわけです。
それは、美濃平定の決め手となった美濃の重臣3人衆の調略成功の裏には、彼らと関係の深い”室町奉公衆たち”の活躍があってこその美濃攻略成功だったと考えられます。つまり信長の美濃攻略に室町幕府の奉公衆たちが手を貸した訳です。
美濃は旧来より室町幕府の奉公衆たちが多い(30家以上)地域だったのが、織田信長にとって幸いしたという事でしょう。
(画像引用:織田信長の甲冑 ACphoto)
織田信長の考えていた”天下統一”はどんなもの?
織田信長の先生は、鎌倉幕府を開いた”源頼朝(みなもと よりとも)”でした。
源頼朝は、歴史書『吾妻鏡』の中で、各地に”地頭(じとう)”を配置するに当たって、、、
・・・、其故は、是全く身の利潤を思ふに非ず候、・・・、其用意致さず候はば、向後四度計無く候はんか、然らば、・・・、為す可きは成敗す可き地頭の輩候なり、但し其後、・・・、若し對悍を致し、若し懈怠を致し候はば、殊に誡を加へ、其妨無く、法に任せて沙汰致す可く候なり、兼ねて此旨を御心得しめ給ふ可く候、兼ねて又當時仰下され候可き事、愚意の及ぶ所は、恐れ乍ら折紙に注し、謹んで以て之を進上す、一通院奏の折、師中納言卿に付せしめ候、今度は天下の草創なり、尤も淵源を究め行はるべく候、・・・
(引用:『吾妻鏡 文治元年十二月六日の条』2008年 岩波文庫)
その意は、”その理由は、全く持ってわが身の利益を思うからではありません。・・・、その用意をしなければ、これからわが国は規律のない国となります。地頭をおきましょう。もし、その後、・・・、もし地頭が年貢の取り立てをしなかったり、仕事をサボったりしたら、法に従って裁くことにしましょう。それこそ、『天下草創』です。もっと広く調査が行われるべきです。・・・”と言う事です。
つまり頼朝は、地頭を統括して、朝廷警護・国乱鎮圧・年貢公事の徴収を実施して、『天下静謐』を実現する役割を請け負い、”常勤の将軍”として君臨しました。この体制作りが『天下草創』の政治スローガンです。
信長の時代は、室町幕府が『天下統一』をしていますが、源頼朝の創り出した『将軍の役割』をその将軍から委任を受けて統治する人が出現していて、それを『天下人』と言いました。
将軍の仕事を分業する訳ですが、名目は『室町将軍』で、実権は『天下人』と言ったところでしょうか。ですから、”三好長慶(みよし ながよし)”は、まさにこれに当てはまり、将軍を祭り上げて実権を思うさま振るっていた訳で、立派な『天下人』だったわけです。
しかしこれは、『天下統一』していたとは言えません。簡単に言うと、地方大名は将軍の命令は聞くけれど、三好長慶の命令は聞かないわけです。
織田信長の有名な政治スローガン『天下布武(てんかふぶ)』は、初期の鎌倉幕府・源頼朝のモデルに近いものだと考えられます。
つまり、、、
織田信長は、この時代の将軍から統治権を委任される『天下人』になるのだけではなくて、『”天下の儀”ー 天皇の静謐』を実現することを目的としていたようです。
立場的には、源頼朝が作りだした”常勤の将軍”と言う『立場』となろうとしていたようです。
信長も晩年には、いわゆる『将軍権』のようなものを朝廷から認められ、実質的には”将軍”にはなっていて、もう少しで『全国制覇ー天下統一』が出来る寸前まで行っていました。
そして信長は、天正10年(1582年)3月に宿敵武田家を滅亡させてから、足利将軍を支えていた室町幕府の奉公衆たちがイメージしていた”信長像ー足利将軍を支える天下人”の皮を脱ぎ捨て、独立した”織田信長政権”の樹立に向かって動き始めました。
西国の毛利・島津の制圧が終われば、東国はほぼ臣従する連絡が来ていたようですから、もう、織田幕府を開く(武家政権樹立)寸前だったのではないかと思われます。
これで無事に織田政権が政府として成立すれば、武家政権として『天下統一』を成し得た訳です。
明智光秀が、織田信長へ『反乱(本能寺の変)』を起した考えは?
”明智光秀”という人物の正体は?
”明智光秀(あけち みつひで)”は、あれだけの騒ぎを起こした人間にも拘わらず、その叛乱を起した理由もさることながら、本人の本当の正体が皆目わかっていない、ミステリアスな人物です。
この時期は、”まむしの斎藤道三(さいとう どうさん)”の小坊主・商人からの大出世譚、”豊臣秀吉”の百姓からの大出世譚等があるので、歴史の結果を知っている現代の私たちには、実家の名流土岐一族支流明智家が滅亡して諸国を浪々していた元若殿光秀が、織田信長と言う超能力主義の君主に拾われて、あっと言う間に大出世したことが、あまり不思議には思われていないようですが、これはやはりおかしいのです。
なんせ、この人の名前が初めて公式文書(書面史料)に出てくるのは、信長が永禄11年(1568年)9月に上洛を果たした後の事なのです。
当所寺社領の事、有来の如く、異議なく仰せ付けられ候、其意をえられ、全く領知あるべき事尤に候、然らば、各相談ぜられ、急と罷り出で、御礼申し上げられるべく候、其為に此の如くに候、恐々謹言、
霜月十四日
明智光秀 在判
村井貞勝 同上賀茂惣御中
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 補遺・索引 補遺13 山城上賀茂惣中宛村井貞勝・明智光秀連署状写』吉川弘文館)
これは、室町幕府が永禄11年(1568年)11月12日付で、賀茂社に対して出した若狭賀茂荘の社領の安堵状(保証証)で、朱印状を発給する以前に惣中から至急出頭し、礼銭を持参して織田信長に御礼を申し上げよとの指示書でもあります。
つまり、この初出の公式文書により、明智光秀が室町幕府の重臣として、織田家側重臣の村井貞勝ともに併記署名されていて、大大名クラスの人物として突然現れたことが確認出来ます。豊臣秀吉も相当に怪しい経歴の持ち主ですが、秀吉の場合は織田家に仕え始めてからは記録に名前が若い頃から出続けています。
ところが、明智光秀に関してはそれが全くなくて、実像がはっきりしません。やはり、”歴史的大謀叛人”として、当時から江戸時代にかけて、すべての本人資料が処分されてしまった結果なのかもしれませんね。
これにひとつの手掛かりを与えてくれたのが、中世史研究家の小林正信氏でした。
通説では、、、
しばらく浪々の身だった明智光秀が、朝倉家に禄を得て鉄炮指南役として務めていたところへ、丁度足利義昭一行が越前守護代の”朝倉義景(あさくら よしかげ)”を頼って、義昭上洛への援助を期待して越前一乗谷(えちぜんいちじょうだに)迄来ていたのです。
朝倉家の一乗谷に寄宿する足利義昭に、光秀はすぐに知遇を得て、朝倉義景の優柔不断な態度に焦りを募らせる義昭に、従兄妹の”帰蝶(きちょうー濃姫)”が正室となっている織田信長への橋渡しをすると言う事となっています。
しかし実録では、、、
御入洛の儀に就きて、重ねて御内書をなし下され候、慎みて拝閲いたし候、度々御請け申しあげ候如く、上意次第不日なりとも御供奉の儀、無二にその覚悟に候、然らば越前・若州早速仰せ出され尤に存じ奉り候、猶大草大和守・和田伊賀守申しあげられべきの旨、御取り成し仰ぐ所に候、恐々敬白、
十二月五日 信長(花押)
細川兵部太輔殿
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 上巻 (六十)細川藤孝宛書状』吉川弘文館)
とあり、すでに越前に出向く以前の永禄8年12月には、奈良一乗院を脱出させて足利義昭に供奉する室町幕府奉公衆筆頭の”細川藤孝(ほそかわ ふじたか)”が、織田信長と密接に連絡を取っており、なんと信長に越前に移動することの了承をもらっている様子が見て取れます。と言う事は、最初から越前にいたはずの”明智光秀による織田信長との仲介”など足利義昭一行に必要ないことは明白です。
つまり、通説は全くの作り話であったことが判明しますが、ますます明智光秀という人物が分からなくなりそうです。
さらに中世史研究家の小林正信氏によると、、、
信長上洛後の明智光秀の活躍ぶりは、室町幕府奉公衆の細川藤孝・和田惟政(わだ これまさ)らに匹敵する地位の”御部屋衆(おへやしゅう)”と呼ばれる暗殺された第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)側近の地位にあったことを示していると言います。
とても通説で言われているように、織田信長に正室帰蝶の縁者だからと浪々の身を拾われた者であるはずは無いようです。
当時の天皇側近として活躍した公家の日記である『言継卿記(ときつぐきょうき)』の永禄13年(1570年)2月30日の条に、、、
卅日、戊辰、天晴、五墓日、〇織田弾正忠信長申刻上洛、公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に被行、上下京地下人一町五人宛、吉田迄迎に罷向、予、五辻歩行之間、一條京橋迄罷向、則被下馬、一町計同道、又被乗馬、則明智十兵衛尉所へ被付了、彼所迄罷向、次歸宅了、
(引用:『言継卿記 永禄13年2月30日の条』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、岐阜よりの織田信長上洛に際して、公家・幕府奉公衆らが大騒ぎで吉田口から大津辺りまで信長の一行を出向かいに出かけている様が描かれており、権中納言の山科言継卿も下馬して徒歩で信長の行列に供奉したとあります。
そして、なんと二条にあった”明智光秀の邸宅”に落ち着いたとあり、信長はここを京都宿舎にしていたことが分かります。信長の行列は500名以上の親衛隊を引き連れており、これを収容するとなると大名級の大邸宅であることになります。
つまり、明智光秀の邸宅は、二条の室町幕府有力奉公衆達の屋敷が居並ぶ一角にあって、信長も安心して宿舎に使用出来る規模で、とても越前の朝倉氏に寄宿していた浪人者の持ち物ではないことが、ここからも判明します。
これで、『明智光秀』と呼ばれる人物は、巷間(こうかん)言われているような経歴の浪人者ではなくて、織田信長上洛時にはれっきとした室町幕府の重臣であったことがはっきりします。
前出の中世史研究家の小林正信氏によれば、、、
『大日本史料 十一編之一』にある『明智氏一族宮城家相伝系図書』の中に、、、
光秀 享禄元年(1528)戊子八月十七日、生於石津郡多羅(現岐阜県大垣市)云云、多羅ハ進士ノ居城也、或ハ生於明智城云云、母ハ進士長江加賀右衛門尉信連ノ女也、名ヲ美左保ト云、伝曰、光秀、実ハ妹聟進士山岸勘解左右右衛門尉信周ノ次男也、信周ハ長江信連ノ子也、光秀実母ハ光綱之妹也、進士家ハ於濃州号長江家、依領郡上郡長江ノ庄也、称北山之郷之家云云、
(引用:小林正信『明智光秀の乱』2014年 里文出版)
とあると言われ、実は明智光秀は”進士(しんし)氏”であると突き止めています。
これによると、当時の将軍義輝の有力奉公衆の中に、進士晴舎(しんし はるいえ)・藤延(ふじのぶ)親子がおり、同姓であることが分かります。進士氏は足利家の家臣として武家故実の『儀礼・式法』を伝承する家として有名で、しかも『御膳奉行』として知られ、武家儀礼において特に重要な将軍が重臣や守護大名の邸宅を訪問する『御成』の際の手順・料理の指揮・指導をする家柄でした。
進士晴舎は、足利義晴の側近・申次衆として重責を果たしており、権勢なみなみならぬものがあったと言います。又、進士晴舎の娘は足利義輝の愛妾の小侍従であり、この縁者であったとしたら、将軍足利義輝の側近であったことはまず間違いないものと思われます。
つまり、小林氏の意見では、この”進士晴舎の息子『藤延』”が、何らかの理由で名前を変えたのが”明智光秀”なのではないかとしています。
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明智光秀が『叛乱(本能寺の変)』を起した理由は?
明智光秀の立場は、織田信長が上洛して所謂”天下人”となった時に、行政組織である幕府を動かす役割として”政所執事(まんどころしつじ)ー 政府の官房長官か副総理クラス”的な仕事だったのではないかと思われます。
今まで言われていたのは、新進気鋭の織田家の重臣で畿内の国人領主たちをまとめる”近畿方面軍司令官・将軍”として見られていますが、実は、京都所司代の村井貞勝(むらい さだかつ)が織田家側代表で、明智光秀が幕府側代表という感じで、実際の信長の”織田政府”の行政責任者をふたりで担っていたのではないかと考えられます。
朝廷への窓口は、山科言継(やましな ときつぐ)卿、勧修寺晴豊(かんじゅじ はれとよ)卿、吉田兼見(よしだ かねみ)卿、近衛前久(このえ さきひさ)卿などの公家衆が起用されていたようです。
つまり、明智光秀は、織田政権の京都政庁の行政組織(政庁としての室町幕府)を掌握して動かす責任者として、織田信長にスカウトされた室町幕府の有力奉公衆だったと考えられます。当初足利義昭(あしかが よしあき)擁立に向けて力を尽くしていたのは、同じ奉公衆の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)・和田惟政(わだ これまさ)らで、光秀の名はほとんど出て来ません。
信長は細川藤孝ではなくて、京都の行政実施に積極的に協力する明智光秀を幕府側の人材として登用し、幕府組織の運営に慣れたころに、光秀を織田軍団の武将としても活用し始めた感じです。
当初は公式文書でも『光秀殿』と、幕府側の重臣として光秀を持ち上げていた信長も、末期には子飼いの家来と同様に『キンカ頭』などと呼び捨てにするようなこととなって行きます。
光秀と同じ奉公衆の細川藤孝は、信長と距離を置きつつも光秀と協力して室町幕府の運営に尽力していたようですが、光秀らの『乱』の挙行には手を貸していません。
天正元年(1573年)7月19日の将軍足利義昭(あしかが よしあき)の出奔(追放)後に、室町幕府の存続は暗雲が立ち始め、その後次第に『織田幕府』設立への動きが出始めた信長に対して、最後にそれを阻止するために旧室町幕府奉公衆が中心となって不忠者として”織田信長誅伐”に動いたのが、天正10年(1582年)6月2日の『明智光秀の乱(本能寺の変)』だったのではないかと言います。
そして現実に、織田信長に期待を裏切られ怒り心頭に発した”明智光秀ら室町幕府奉公衆”の叛乱(本能寺の変)により、信長の夢は本能寺の露となって消えます。
ところがその直後の『山崎の戦い』で、明智軍の中心で光秀を支えていた主だった人材(旧室町幕府奉公衆たち)はほぼ討死・全滅してしまっているため、ここにかれらが必死に守ろうとした室町幕府は、事実上ここで消滅したのではないかと考えられています。
やはり”明智光秀の叛乱動機”は室町幕府の『再興』というか『制度防衛』だったと考えてよいのではないでしょうか。問題は、これが『明智光秀の単独犯』とされていることでしょうね。
どうやら、ここでの重大なキーマン(仕掛人)として、決定的な役割を果たした可能性の高いのは、盟友でありながら、なぜか光秀と共に行動をしなかった『細川藤孝』ではないかと思われます。
織田信長の天下統一事業を完成させたのは豊臣秀吉なの?
前述しましたように、織田信長が目指していた政権構想は、源頼朝(みなもと よりとも)が作った『武家政権』の実現だったと考えられます。
そこで、正親町天皇(おおぎまちてんのう)が即位してからの永禄年間以降の、織田信長を巡る中央(京都)の政治状況(各勢力の思惑)を整理すると、、、
- 『延喜・天歴に帰れ』のスローガンの下、正親町天皇が始めたへの”王政復古(朝廷主導の政権実現)”を目指す運動
- 衰弱して行く足利幕府の中興を求めた、室町幕府の奉公衆・奉行衆中心とする勢力の動き
- 織田・徳川同盟を発展させて、”幕藩体制”へと導こうとする織田信長の政権構想
等が考えられますが、正親町帝は即位当初から1.にある”王政復古”を目指しており、武家政権を倒して”王政復古”を目指した過去の天皇たちの失敗を踏まえて、目立たないよう表面には出ないようにして、着実に歩を進めていました。
正親町天皇は、織田信長に即位当時から目を付けており、信長が尾張統一にめどを付けつつあった永禄元年秋に”上洛命令”とも受取れる『決勝綸旨(けっしょうりんじ)』を出すなどして引き寄せようとていました。
将軍足利義輝は三好長慶との和睦がなり、京都へ復帰していた直後でしたが、東幕府(古河公方)の目付役だったはずの”今川義元”が、逆に古河公方の命を受け”将軍職奪還”のために上洛の動きを見せており、それを防御する織田信長に期待するところがあり、これも『上洛命令の御内書(ごないしょ)』を出していました。
その後、永禄8年(1565年)5月に足利義輝は、”三好三人衆”と正親町帝に近い”松永久秀”によって御所で襲撃され、愛妾”小侍従(こじじゅう)”らとともに暗殺されてしまいます。
ここにおいて、1.の動きをしている正親町帝と、2.の動きをしている幕府奉公衆たちによって、織田信長は期待されて後押しされて永禄11年(1568年)9月に上洛をします。
ここで、少しややこしいのですが、、、
1.の正親町帝は織田信長に対して、”王政復古”の手助けをして、”関白”へ就任して、帝のめざす公家による全国統一(公家一統)を成し遂げてくれる人物として期待します。
一方、2.の幕府奉公衆たち(明智光秀ら)は、将軍足利義昭がどれだけ器量のない人物であろうと、その後ろ盾として室町幕府を支えてくれる人物(天下人)として織田信長に期待をして、信長の手助けを全力を挙げて行います。
そして、織田信長は、実は3.の政権構想をもっており、1.の”王政復古”でもなく、2.の室町幕府の存続でもない、新しい幕藩体制(結局徳川家康が実現しますが)を考えていたわけです。
ここに、幕府奉公衆に”細川藤孝(ほそかわ ふじたか)”と言う有名な人物がいますが、彼は奉公衆でありながら朝廷にきわめて近い人物でした。
藤孝は、足利義輝の側近として奉公衆として働き、義輝暗殺後は義昭擁立のために、粉骨砕身して同じ奉公衆の和田惟政とともに織田信長を口説き落として上洛させた張本人ともいえる人物です。
しかし、前述のように裏では正親町帝に近い人物であり、正親町帝の思う通りにならない織田信長の”罷免決定(暗殺)”を受けて、『本能寺の変(明智光秀の乱)』と『山崎の戦い』の謀略を仕組んだ仕掛人ではないかと考えられます。
これによって、2.の”織田信長”と3.の”室町幕府”が壊滅し、きれいにほぼ同時に排除されて、1.の『王政復古』へ向かって事態はまっしぐらに進むこととなりました。
この立役者に選ばれたのは、出自が武家ではないどころか卑賎の出である”豊臣秀吉”でした。
豊臣秀吉は、天正10年(1582年)6月2日の『本能寺の変(明智光秀の乱)』から、わずか3年の天正13年(1585年)に、正親町帝が当初織田信長を据えるつもりだった『関白職』へ就任します。
つまり、織田信長の目指していた『天下統一』は、武力を独占した武家による『武家政治』でしたが、豊臣秀吉は”織田信長の後継者”などとはとんでもない話で、織田信長を滅亡させた朝廷による”公家一統(くげいっとう)”の実行者である”関白”、つまり”天皇による親政”の協力者であったわけです。
豊臣秀吉が達成したと言われる『天下統一』の実像は、正親町帝の手になる”公家一統”による『全国制覇』(天皇による政治実権の奪還)でした。
この舞台回しの黒子は、”細川藤孝”でした。
このように、豊臣秀吉は、織田信長の『天下布武ー天下統一事業』の後継者・武家の代表ではなくて、天皇の叛乱に同調し、表舞台に出ようとしない正親町帝の代わりに舞台を務めた『天皇親政・公家一統』の”千両役者”だった可能性が高いようです。
これで、豊臣秀吉が『本能寺の変』以降、直前の主人である織田家の親族に対して異常に冷たかった理由もよくわかるわけで、秀吉は細川藤孝からこのディールが天皇の指示であることをしっかり聞いていたのでしょう。だから、天皇の代理人になったつもりで、”織田家より上位に立った自身の立場”に舞い上がって、ああ云う主家に対する不遜な態度を取らせたのではないでしょうか。
又毛利家は、織田信長に対抗していましたが、石山本願寺ばかりでなくて、この当時から天皇の手助けを続けています。それを考えると天皇の手先となった”豊臣秀吉の『中国大返し』のカラクリ”に毛利が協力したのは当然だったようです。
黒子の細川藤孝の口車に乗って反乱を起こしてしまった律儀な明智光秀は、その舞台裏を全く知らなかったようで、朝廷に利用されただけで気の毒としか言いようのない人物です。
話は変わりますが、この毛利家の幕末は”長州藩”です、、、
幕末で、ふたたび長州・毛利家が『勤皇の討幕運動』を引き起こすのですが、これは別に”吉田松陰先生”の力ばかりではなくて、本来毛利家が持っている南朝天皇家への忠誠心と言うか、ある種の援助義務だったのかもしれません。
初代の毛利元就(もうり もとなり)が遺言で、”『天下を競望せず』ー天下を狙わず、自国を護れの意”と言った発言の裏側の事情は、日頃は余計なことをせず、いざという時に天皇を助ける十津川郷士のような役割がこの毛利家にはあるのかもしれませんね。
織田信長は天下統一後に、秀吉・家康のように”キリシタン弾圧”を行なうの?
公式に初めて”豊臣秀吉”がキリシタン宗門に対して弾圧を始めたのは、関白任官後の天正15年(1587年)6月19日の『バテレン追放令』からで、九州遠征の途中に箱崎(博多)で出されました。
この時の様子は、、、
秀吉は、・・・同夜、施薬院徳雲の煽動的な談話を聞いて激昂し、高山右近の許に使者を派遣して棄教を迫る一方、海岸近くに碇舶していたフスタ船で眠っていたイエズス会副管区長コエリョの許へ二人の使者を派遣して詰問させた・・・
(引用:松田毅一『南蛮史料の研究』第五章フロイス文書の内容検討に掲載『松浦家文書』)
と、秀吉は側近で医者である施薬院徳雲(せやくいん とくうん)のキリスト教への讒言(ざんげん)を聞きながら激昂(げきこう)して、突然秀吉から九州遠征中に箱崎(博多)滞在中に発令されたとされています。
通説では、豊臣秀吉は”ポルトガルの宣教師が日本人の人身売買に積極的に関係し、海外へ日本人を売り飛ばして大儲けしている”との話を、施薬院徳雲から聞き及んで激昂したと言われています。
しかし、前章でありますように、豊臣秀吉は正親町天皇の『王政復古』の話に飛び乗り関白の地位へ上っています。”正親町天皇のキリスト教排除・バテレン追放方針”には従わねばなりません。
政権掌握後にすぐ弾圧を実施しなかったのは、未だキリシタン大名の力を借りねば西国平定に支障があったためで、島津を平定してその心配がないと確信して即、正親町天皇との約束である”バテレン追放令”を実施したものと考えられます。
『秀吉は、バテレン・ポルトガル商人が日本人を奴隷として人身売買しているとの事実を知らされて激昂し・・・云々。』と理由が示されておりますが、実際は正親町天皇からせっつかれていたので、実行のタイミングを計っていたというのが事実なのではないでしょう。
これに対して、織田信長が標榜する”武家政権”の外交戦略は、平清盛以来、足利義満、織田信長、徳川家康に至るまで、善隣友好による”貿易重視(重商主義)”ですので、足利義輝が行っていた幕府の外交路線(キリスト教容認)を否定することは考えられません。
加えて、当時の記録である宣教師ルイスフロイスの名著『日本史』に織田信長の発言が残っているのですが、、、
彼は和田殿に向かい、「汝は予がそのように粗野で非人情に伴天連を遇すれば、インドや彼の出身地の諸国で予の名がよく聞こえると思うか」と言い、・・・
(引用:ルイスフロイス『日本史 第35章』松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫)
とあり、永禄12年(1569年)4月8日に心配する和田惟政を通じて、織田信長から”キリスト教の布教許可証”が宣教師ヴィレラ神父に発給されました。
”善隣友好外交”が念頭にあり、外国人に対する接し方を心得ているこの時点での”天下人”織田信長に、”キリシタン弾圧”などの選択肢は、まずありえない考え方であることがよく分かります。
秀吉も本音は信長と同じ考え方かもしれませんが、『公家一統』の流れに乗って権力者の地位をつかんだ秀吉には、”反キリスト教”で凝り固まる正親町天皇の意志に逆らう選択肢はなかったのではないでしょうか。
徳川の禁教に関しては、家康の政権は武家による『天下統一』であり、家康自身は『貿易将軍』と呼ばれるほど善隣友好方針でしたが、その後徳川幕府存続のために、第2・第3の豊臣秀吉を出さないように、やはり朝廷・禁裏の強い”反キリスト教”の意向を受け入れて、3代家光が妥協した結果が『禁教』だったとの見方も出ています。
まとめ
鎌倉時代以来の各地の守護職は、明応2年(1493年)の『明応の政変』以後、支配下の有力国人領主に地位を追われる”下剋上(げこくじょう)”の戦国時代が訪れ、各地に”戦国大名”と言われる地域勢力が発生しました。
その戦国大名の中で、特に新興の尾張の織田信長が、他に先駆けて”天下統一・全国制覇”の考えを持ち、京都の幕府・朝廷との関係を深め始めます。
その契機となったのは、第106代正親町(おおぎまち)天皇の即位と室町幕府第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)の京都復帰でした。
ふたりは、永禄元年(1557年)秋以降に揃って、信長に”上洛命令”を出します。正親町帝に至っては、”天下被仰付候(天下を仰せつけられ候)”と言って若い27歳の信長が大喜びをした内容だったようです。
父織田信秀の時代から、京都の権威と上手に付き合って自分の立場を高めるやり方を、学習していた信長ですから、この”お上たちからの誘い”には積極的に乗って行ったものと考えられます。
この時点で、尾張一国を平定しつつあった信長の中に『天下統一・全国制覇』の目標が形作られ、丁度関東勢に連携した今川義元(いまがわ よしもと)が大軍で上洛のため尾張へ押し寄せて来たところ、それを京都の将軍足利義輝の注文通りに打ち破ったことが大きな自信と全国的に注目をされる理由となったに違いありません。
この戦果に将軍義輝も大喜びで、一連の動きに織田信長とともに連携していた上杉謙信(うえすぎ けんしん)に早速、関東管領上杉憲政(うえすぎ のりまさ)を通じて関東勢への反撃を命じ、謙信は信長による5月の『桶狭間の勝利』から、間髪入れず8月に越後から越山して厩橋(うまやばし)まで歩を進め、翌永禄4年(1561年)2月に11万5千もの大軍で出陣し小田原城を包囲します。
こうして、織田信長は将軍の形作る『天下統一』の中へ入って行きます。そして織田信長の理想は源頼朝(みなもと よりとも)が打ち立てた『武家政治』の実行でした。
その後、永禄8年(1565年)5月19日に起こった『永禄8年の政変(将軍足利義輝弑逆事件)』により、大きな柱である将軍を失った織田信長でしたが、残った義輝の側近の奉公衆らが時期将軍に足利義昭を担ぎ上げ、織田信長に協力を求めて来ます。
この時中心となったのは、幕府有力奉公衆の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)等でした。
織田信長は、室町幕府奉公衆の協力を得て、永禄10年(1567年)8月15日に父の代からの懸案で難航していた美濃平定にも成功し、翌永禄11年(1568年)9月26日には、足利義昭を奉じて念願の上洛を果たします。
”軍事占領”と”統治”は違い、上洛を果たしただけでは『天下』は取れません。上洛後10月18日に足利義昭が”征夷大将軍”に無事就任すると、信長は岐阜へ引き上げます。
室町幕府軍だけ残された足利義昭の御所(本圀寺)は、翌永禄12年(1569年)1月5日に信長が想定した通り、前年9月に信長によって京都を追い払われた三好勢1万余の軍勢により襲撃されました。
残された室町幕府奉公衆の軍勢が奮戦し、近隣の織田勢駆け付けて、なんとか三好勢の襲撃を食い止めます。そして程なく8万もの軍勢を伴って岐阜から織田信長が急行して来て、京都の治安は回復されます。
こうして、織田信長は京都に治安維持のための軍勢を自分を含めて常駐させる大義名分を得、京都を中心とする幕府の統治権の委任も将軍義昭から得て、実質室町幕府の指揮権をも奪取することが出来ました。
この時点で、織田信長は永禄元年(1557年)に、正親町帝の『綸旨』の一言『天下を任せる』で、源頼朝が目指した武家政治による『天下統一』へ、10年かけてどうやら大きく踏み出すことに成功するのです。
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参考文献
〇立花京子 『信長と十字架』(2004年 集英社新書)
〇『太田牛一 信長公記 巻首 公方様憑み百ケ日の内に天下仰せ付けられ候事の条』インターネット公開版
〇『道家祖看記』国立国会図書館デジタルコレクション
〇龍肅訳注 『吾妻鏡(一)』(2008年 岩波文庫)
〇朝尾直弘・田端泰子編 『天下人の時代』(2003年 平凡社)
〇黒嶋敏 『天下統一』(2015年 講談社現代新書)
〇八切止夫 『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)
〇奥野高廣 『増訂織田信長文書の研究 補遺・索引』(2007年 吉川弘文館)
〇奥野高廣 『増訂織田信長文書の研究 上巻』(1994年 吉川弘文館)
〇『言継卿記 永禄13年2月30日の条』国立国会図書館デジタルコレクション
〇小林正信 『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)
〇小林正信 『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)
〇山本博文 『天下人の一級史料』(2009年 柏書房)
〇松田毅一 『南蛮史料の研究』(1967年 風間書房)
〇花ケ前盛明 『新編上杉謙信のすべて』(2008年 新人物往来社)
〇ルイスフロイス 松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史2』(2015年 中公文庫)