織田信長を歴史の舞台に上げたのはキリスト教徒だった!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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戦国の覇王織田信長が、いつからキリシタンとつながりを持つようになったのか意外なことがわかります。

 

尾張の田舎侍の子倅だった織田信長が、いつから『天下人』になろうと思ったのかがわかります。

 

織田信長ばかりではなく、戦国時代の人はキリスト教に寛容だった。

 

武将織田信長の成功は、『桶狭間の戦』で今川軍を壊滅させたことで、室町将軍の信頼を得たことから始まった!

織田信長を中央政界へ引き込んだ人物は誰なの?

戦国史研究家立花京子氏の研究により、織田信長に対して永禄元年の10月頃に第一回目の正親町天皇(おおぎまちてんのう)の『決勝綸旨(けっしょうりんじ)』と呼ばれる、軍事行動の許可を与える上洛命令が発給されている可能性が高いことが判明しています。

 

織田信長への勅使に立ったのは、朝廷の御蔵職(みくらしき)と呼ばれる物品調達を担当する”立入宗継(たてり むねつぐ)”と言う下級公家でした。

 

・・・、萬事相調、立入十月廿四日ニ、京都ヲ立、山中ニ參候、同廿五日二人罷立、同廿八日ニ、淸須道家處へ、磯谷新右衛門參候、・・・・、使ハ山中ノイソカイ案内者ニテ、御蔵ノ立入左京進と申者參候由申上、大内様ヨリ、日本國ヲ殿ヘ被參候ヨシ、御リンシツキ申候、勅使參候、御キケン大カタナラス、・・・、村井御リンシノ書立參ケ條ノヨシ申、信長請取、・・・、我等イマタ尾州サヘ半國ノアルシタルニ、天下被仰付候、此御力ヲ以テ、當國ヲハ年内ニシタカヘ、來年ハ美濃國令退治候ハン事、此二通ノ御力也トテ、三ケ條ヲ立入ニ渡給フ、即イタヽキ候、サカツキノシキタヒ、度々也、信長マイリトテ、立入ニサシタマフ、立入被下、信長キコシメシ、・・・
(引用:『道家祖看記(どうか そかんき)』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、、、

 

公家の御蔵職立入宗繼(隆佐)が、磯谷新右衛門尉久次(いそがい しんうえもんじょうひさつぐ)と永禄元年(1558年)10月28日に、清洲の役人道家尾張守(どうかおわりのかみ)の屋敷に到着し、丁度鷹狩の帰りにその屋敷に立ち寄った織田信長と対面することになります。

 

天皇の『綸旨』を家臣の村井が読み上げると、”信長はまだ尾張半国の主でしかない自分に、天皇から天下の事を仰せつかり光栄だ、これを力として、今年中に尾張を従え、来年は美濃国を平定する”と大喜びしています。

 

この史料は、時期の表記に矛盾があり、信頼性に欠けるとされていますが、記述内容には具体的であり、この”綸旨発給”の記事に関しては信頼出来るものと考えられています。

 

また、京都に復帰したばかりの第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)からも上洛の『御内書(ごないしょ)』が出ていたようで、、、

 

今度御内書をなし下され候、忝く存し奉り候、寔に生前の大事これに過ぐべからず候、随って御馬一疋青毛を進上致し候、併せて御内義の条、此の如くに候、御取成し本望たるべく候、恐惶謹言、
十二月廿日      織田三介信長
大館左衛門佐殿 人々御中
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 (52)大館晴光宛書状写』)

 

とあり、”正親町天皇(おおぎまちてんのう)”ばかりでなく”将軍足利義輝”からも織田信長に対して、『上洛命令』が出ていたことが分かります。(この史料の年度の比定は著者の歴史家奥野高廣氏は”永禄7年”としていますが、前後関係から戦国史研究家立花京子氏の”永禄元年説”の方が記事の整合性があるようです。)

 

 

敵対していた三好長慶(みよし ながよし)と和睦し上洛復帰したばかりの将軍足利義輝からも『上洛命令』をもらい、信長は”寔(まこと)に生前の大事これに過ぐべからず候”と大喜びし、そのお礼に駿馬を献上しています。

 

前述のように、将軍義輝の『上洛の御内書』と、合わせて正親町天皇からの『決勝綸旨』まで受取って、”『天下の儀』を申し付けられてしまった織田信長”は、考え方が気宇壮大(けうそうだい)になって一気にスケールアップし、政治目標が尾張国を足掛かりに”東海に覇を唱える太守”から、『天下の掌握(全国統一)』と言う目的が芽生え始めたようです。

 

さて、この織田信長に新しい目標を与えたこの『天皇綸旨』を企画発給させた”御蔵職の立入宗継”とは、何者でしょうか。

 

立入宗継は、単に勅使として正親町天皇の綸旨を運んだだけでなく、この綸旨の発給を禁裏(朝廷)に働きかけるなど力を尽くしたことが分かっています。

 

清洲へ宗継と同行している磯谷新右衛門尉(いそがい しんうえもんじょう)は親族ですが、新右衛門尉は神道の吉田兼右(よしだ かねみぎ)の女婿です。

 

そして、吉田兼右は大儒学者清原宜賢(きよはら のぶかた)の次男坊で、宜賢の孫清原枝賢(きよはら しげかた)は朝廷の大外記(おおげき)と言う最高位の文官で、その娘が”伊与局(いよのつぼね)”と言う正親町天皇の後宮女房でした。

 

織田信長が美濃時代から使い始めた『天下布武(てんかふぶ)』と言う政治スローガンは、通説のような臨済宗妙心寺派の禅僧宗恩沢彦(そうおん たくげん)の作ではなくて、信長の崇敬する源頼朝の『天下草創(てんかそうそう)』をも考案したとされるこの大外記世襲家の清原一族である清原枝賢の作であったとも言います。

 

信長への正親町天皇の『決勝綸旨』発給は、このような人脈でつながっているものとみられます。

 

この時の”天皇綸旨”は清原枝賢と吉田兼右によって仕掛けられた可能性が高いと考えられます。

 

そしてなんと彼らは、皆キリシタン大名大友宗麟(おおとも そうりん)ともつながっており、キリシタン理解者であったと言われています。

 

正親町天皇は、キリシタンのことには気づいていたのではないかと思われますが、枝賢の娘の後宮女房の伊与局(この人は、かの細川ガラシャを入信させた”マリア”として有名です)に押されたのでしょうか。

 

そうしたキリシタン筋の有力者たちから推挙されるような形で、織田信長は中央政界に強いコネを得ることになって行きます。

 

信長にとっても、その後に『織田政権』立ち上げる時、実際に政権組織を動かす”室町幕府の有力奉公衆たち”との太いつながりがこの筋からも出来て、非常に有効に機能してゆく人脈となって行きます。


(画像引用:フランシスコ・ザビエルACイラスト画像)

 

織田信長はなぜキリスト教に布教許可を出したの?

永禄8年(1565年)5月19日に発生した『永禄八年の政変(将軍足利義輝弑逆事件)』は、京都の布教活動を精力的に進めていた”イエズス会”にとって大打撃となりました。

 

案の定、その7月5日には、早速キリシタン拒絶派の勢力の強い働きかけにより、正親町天皇から『バテレン追放令』(女房奉書)が出され、バテレンのフロイスらは京都から追放されてしまいます。

 

フロイスは、懸命に手あたり次第に信者の伝手を辿って、京都への復帰運動をしますが、なかなか叶いませんでした。

 

しかし、織田信長は足利義昭(あしかが よしあき)を奉戴して上洛した永禄11年(1568年)の翌年永禄12年(1569年)に許可を出し、3月11日にフロイスらは京都へ戻って、4月3日に織田信長に引見しました。

 

そして、、、

 

予はパードレに都に居る許可を与ふ、其家は兵士の宿舎に充てらるヽことなく、又街の勤労及び義務を課せず、悉く之を免除し、我が領内何地にあるも何等妨害を受くることなかるべし、若し之に対し不条理なることをなす者あらば、速に裁判し、又之を苦しむる者は罰すべし、
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 上巻(163)耶蘇会宣教師ルイス・フロイス宛免許状写』)

 

と言う、信長に手向かいしない寺社に対して与える『禁制(きんぜい)』のように、永禄12年(1569年)四月八日付にて上記『滞在および布教の許可証(朱印状)』を発給しています。文面上は”布教の許可”を唱っていませんが、前将軍足利義輝の時と同様に、事実上”布教許可”の意味も含まれています

 

それで、掲題の件に戻りますが、、、

 

なぜ信長が禁裏の意向に逆らってまで、バテレンたちの京都復帰を認めたのかと言う事ですが、まずは、将軍足利義昭擁立への努力並びに上洛戦に従軍して功のあるキリシタン大名”和田惟政(わだ これまさ)”の熱心な働きかけと、信長への”永禄2年とこの永禄11年の『天皇綸旨(軍事行動の許可証)』の発給”に対するキリシタン及びシンパの室町奉公衆への返礼でもあったようです。

 

これは、その後の『織田幕府』の行政機構を支える室町奉公衆との連携問題を含みます。そして、その背後にいるイエズス会・ポルトガル商人・九州のキリシタン大名で元締めの大友宗麟(おおとも そうりん)との連携強化と言う側面も大きいと思われます。

 

別の見方をすれば、”貿易による収益”・”軍事物資の調達”・”軍資金の調達”につながる太い関係作りと云うものも、ひょっとすると織田信長の念頭にあったのではないかと考えられます。

 

中央政界はキリスト教徒が多かったの?

公式的には、キリスト教の伝来とは、、、

 

隅州ノ南ニ一島アリ州ヲ去ルコト十八里名ケテ種子ト云フ・・・天文癸卯秋八月二十五日丁酉ニ當ル我カ西村ノ小浦ニ一大船アリ何ノ國ヨリ來ルヲ知ラス船客百餘人其ノ形ハ不類ニシテ其ノ語ハ不通ナリ・・・賈買の長二人アリ・・・手ニ一物ヲ携フ長サ二三尺其ノ體タルヤ中通ニシテ外ハ直ニ重キヲ以テ質ト爲ス・・・時尭之ヲ見テ思ヒラク稀世ノ珍ナリト始メ其ノ何ノ名タルヲ知ラス亦其ノ何ノ用タルヲ詳ニセス既ニシテ人名ケテ鐡炮ト爲ス・・・
(引用:『鐡炮記』国立国会図書館デジタルコレクション

 

お馴染みの天文癸卯(てんぶん みずのとう)の年、つまり天文12年(1543年)の8月25日夕刻での”種子島へのポルトガル船漂着・鉄炮伝来”の一説ですが、同時に”ポルトガル船の日本初来航”ともなっています。

 

そして、それから6年後の1549年8月15日にかの有名なイエズス会の”フランシスコ・ザビエル”神父が鹿児島出身と言われるゴア在住の日本人”アンジロー”の先導の下、鹿児島に上陸しキリスト教の日本布教(キリスト教伝来)の第一歩を記します。

 

・・・キリスト教伝来の始まりはこの様になっています。

 

ザビエルは島津氏の保護下で、1年ほど鹿児島に滞在し、信者100名ほどを得ますが、仏教僧侶達のザビエル追放要求の高まりもあり、ザビエルは肥前平戸へ移動しその後2ヶ月ほどで、大内義隆(おおうち よしたか)の城下山口に到着します。それから泉州堺を経て1551年1月に京都に到着します。

 

しかし、御所のある京都は戦乱で荒廃しており、天皇にも追い返されて面会が叶わず、比叡山(ザビエルは日本の”大学”と認識)でも門前払いされ、11日ほどで山口へ引き返し、好意的な大内義隆を頼ることとなり、結果山口では武士階級で改宗者が現れて信者獲得の大きな力となります。その後天文20年(1551年)9月にポルトガル船が寄港した豊後の大友宗麟(おおとも そうりん)から招かれ、以後山口と豊後はイエズス会の宣教拠点として発展して行きます。

 

ザビエルは在日2年3ヶ月ほどで日本を離れ、その後はゴアで布教の指揮を執ることなりますが、残された宣教師たち(トルレス神父、フェルナンデス修道士など)の希望はやはり日本の都・京都での布教活動の実現でした。

 

ザビエルが上洛していた天文20年(1551年)頃の京都は、13代将軍の足利義輝(あしかが よしてる)・管領細川晴元(ほそかわ はるもと)と家老三好長慶(みよし ながよし)が抗争を続けていた頃でした。

 

日本の中央でキリスト教はまだ無名の状態で、評価も定まっておらず、教義を危険視する一部の仏教から排斥を受け始めてましたが、仏教界・政界が目の敵にする状態にはなっていなかった時期です。

 

 

将軍足利義輝は、『イエズス会』の布教活動に関して、、、

 

『室町家御内書案』

禁制

幾利紫且国僧
波河伝連

 

一、甲乙人等乱入狼藉事
一、寄宿事付悪口事
一、相懸非分課役事
右条々堅被停止訖、若違犯輩者、速可被処罪科之由所被仰下也
仍下知如件

永禄三年

左衛門尉藤原
対馬守平朝臣
(引用:松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究 第五章フロイス文書の内容検討 例二 ヴィレラの入京』)

 

 

とあり、これは宣教師ヴィレラ神父が入京して、第13代将軍足利義輝から得た『布教許可証に当る”禁制(きんぜい)”です。

 

これを見ると、フランシスコ・ザビエルが失敗した京都でのイエズス会布教活動に対する幕府許可が、永禄3年(1560年)に将軍足利義輝から得られたことが分かります。

 

物が物だけに、会いに行ってすぐ発給してもらえるものではないですから、この時までに京都の政権関係者(幕府・朝廷)に多数の協力者が存在したことが想定されます。

 

フロイス文書によると、ここではヴィレラに好意的な室町幕府の政所執事(まんどころしつじ)である伊勢貞孝(いせ さだたか)が動いて、制札発給に尽力したとあります。

 

また、すでにキリシタン大名として活動を始めていた豊後の大友宗麟は、将軍義輝に”種子島伝来の鉄炮”始め様々な贈答を行なっており、政権関係者との付き合いも深めていたところです。

 

そして、、、

 

司祭(ヴィレラ)は遅滞することなく、さっそく大和国に向かって出発し、結城進斎を訪れたところ、彼はその来訪を大いに喜んだ。司祭がしばらく結城殿および(清原)外記殿と語らった後、ある宿に落ち着いたところ、そこへおびただしい聴衆が参集した。・・・結城殿と外記殿は、もう一度特に説教を聞き、聴聞した最高至上の教えにまったく満足し、両人は聖なる洗礼を受けるに至った。沢城主高山厨書殿という別の貴人はこれを聞き、・・・ただちにそこで聖なる洗礼を受け、ダリオの教名を授かった。
(引用:ルイス・フロイス 松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史1』2000年 中公文庫)

 

とあり、、、

 

ここに来ていよいよ、永禄2年(1559年)に出された”織田信長へ武力行使承認の『決勝綸旨』を発給させた、御蔵職立入宗繼の背後にいて黒幕”と考えられる”清原大外記枝賢(きよはらおおげき しげかた)”と、その友人”結城山城守忠政(ゆうきやましろのかみ ただまさ)”が”キリシタン”として正体を現わし、加えて後に活躍するキリシタン大名高山右近の父高山飛騨守友照(たかやまひだのかみ ともてる)が顔を出して来ます。

 

これを見ると、京都の公家・室町幕府奉公衆・御家人を中心に”キリシタン”が天文年間の後半には広がっていたことが分かります。

 

フランシスコ・ザビエルが、苦労して京都への入京を果たした天文20年(1551年)に、もうすでに堺の豪商日比屋了珪(ひびやりょうけい)が堺から京迄の道中の便宜を図っていることを考えると、天文・弘治・永禄年間頃にはキリシタン信者は、シンパも含めて相当数にのぼっていたと考えていいようです。

 

やはりキリスト教は、ポルトガルとの交易をにらんだ豪商たち、援助を必要とする貧困層、外来知識を求める支配階級エリート層を中心に、既存宗教界の激しい排斥運動にもかかわらず、浸透して行ったものと考えられます。

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室町幕府はキリスト教容認なの?

前述にあるように、永禄3年(1560年)に将軍足利義輝が”制札”を出して、イエズス会のヴィレラ神父にキリスト教の布教許可証を出していますので、正式に”幕府公認”となっています。

 

ところが、この当時の京都での実力者松永久秀(まつなが ひさひで)は、足利将軍とその配下とはちがい”キリスト教”には距離を置いており、その後永禄8年(1565年)5月19日に『永禄8年の政変(将軍足利義輝暗殺)』を引き起こし、8月には、正親町天皇の外交僧のような朝山日乗(あさやま にちじょう)と熱心な法華宗徒の公家である竹内季治(たけのうち すえはる)・秀勝(ひでかつ)兄弟が主導する『伴天連追放令』を受けて、フロイスら神父の京都追放を実行します。

 

そもそも、京都の自治組織である”町衆”は法華宗を信仰しており、都市部に関しては”反キリスト教(村八分ならぬ町八分)”で固められた状況となっており、そんな空気を反映して為政者は反キリスト教になりやすい傾向だったのかもしれません。

 

それは、”宗教の違い”以外にも、キリスト教=ポルトガル=貿易利益で、儲かる人たちとそうでない人たちの違いと言ったものもあったのではないでしょうか。

 

加えて、イエズス会は今で言う原理主義的なキリスト教で極めて排他性が強く、仏教を”偶像崇拝”だとして激しく攻撃して、武力勢力を使って寺社仏像の破壊までするなど、日本人になじまない方針を平然と強行していたことも、町場の庶民の反感を買った原因でもあったようです。

 

そもそも、そんな背景の中で、なぜ足利義輝はキリスト教の布教許可を出していたのでしょうか。

 

これは、幕府を再建して昔の威勢を取り戻したい足利義輝にとって、政治的に有利と判断されるからと言う事になるのでしょう。

 

前述したように、”幕府の政所執事の伊勢貞孝”というような将軍を支える人たち(主要な奉公衆たち、関係深い堺の豪商たち)がすでに”キリシタンシンパ”だったとすると、将軍義輝は彼らの要請に応えて”布教許可証”を出したとも言えそうです。

 

この段階では、まだ”イエズス会を巡るポルトガル・スペインの戦略”が、日本側に明確になっていないので、日本の政局を握る政治家たちの行動は”自分に有利に働くかどうかが判断基準だった”のではないかと思われます。

 

正親町天皇はなぜ『バテレン追放の綸旨』を出したの?

この歴史的事実は、第一級歴史史料として有名な”公家山科言継卿(やましな ときぐつきょう)の日記『言継卿記』”の永禄8年7月5日付の記事に・・・

 

五日、己亥、天晴、天一天上、申刻晩立、〇今日三好左京大夫、松永右衛門佐以下悉罷下云々、〇今日左京大夫禁裏女房奉書申出、大うす遂拂之云々
(引用:『言継卿記 永禄八年七月五日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、、、

 

永禄8年7月5日、三好左京大夫(三好義繼)や松永右衛門佐(松永弾正久秀)等は、七月五日に京都を引き揚げたが、その際、三好左京大夫は朝廷に乞うて宣教師追放の女房奉書を拝受し公布した。”と言う意味になり、『バテレン追放令』の事実確認が出来ます。

 

その内情としては、”当時の宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』”に、、、

 

・・・結城山城守の使者は・・・追放令の張本人は、竹内兄弟であった事情を述べる。その一人は公家で富裕な竹内三位で、他は松永霜台の家の貴人で「カヒョウシモサ」と謂う。この後者は、「竹内可兵衛下総守秀勝」に外ならない。彼等は、デウスの数が弘まるならば、自分達の奉じ、創立しようとする法華宗一派のことに障害になると考え、六条及び本能寺なる法華宗の二寺院の僧侶と協議し、松永霜台も法華宗徒であり、キリシタン宗門を嫌悪していたので、彼を動かして・・・。竹内等は全日本の国王なる内裏の勅令を得て師父等を追放せんとし、直ちにその兄弟が勅令を作成した。
(引用:松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究 第五章 フロイス文書の内容検討 例六 宣教師追放勅令の条』1967年 風間書房)

 

とこのようにして、正親町天皇の『伴天連追放令』は発布されています。

 

 

永禄8年(1565年)5月19日に、『将軍足利義輝弑逆事件(永禄八年の政変)』が勃発して将軍が暗殺され、前述の永禄3年にその将軍義輝がヴィレラ神父に与えた『布教許可書』が反古になったことになりました。

 

この事態に間髪入れずのタイミングで、7月5日に禁裏より『伴天連追放令』が発布されたわけです。

 

形として、将軍義輝暗殺クーデターの張本人である、三好長繼(みよし ながつぐ)が上奏したことになっていますが、件の竹内兄弟と、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の信認が厚くキリスト教排斥の筆頭者ともいうべき”朝山日乗”師に、バテレン嫌いの松永久秀(まつなが ひさひで)が呼応したので、勢いに押されて三好長繼が天皇に上奏した為のようです。
本当は、三好長繼は父三好長慶と同様にキリシタンシンパだったはずなのです。

 

本来、正親町天皇が宗教に関してどんな考えがあったのかわかりませんが、この後永禄11年(1568年)に足利義昭を奉戴して上洛した織田信長は、禁裏(きんり)の意向を忖度(そんたく)せずに、この綸旨(りんじ)をあっさりひっくり返して”キリスト教の布教許可”を与えました。この事から、以後の織田信長と正親町天皇との確執の遠因のひとつとなって行きます。

 

そもそも『天皇』は”神道の大祭司(しんとう の だいさいし)”のはずですが、歴代天皇も、外来宗教であるはずの仏教を平然と信仰したりもするので、これがキリスト教であっても許容する態度は持ち合わせているはずではないかと思われますが、ここでは信頼している側近の僧朝山日乗が、つよく”キリシタン排斥”を主張するので、それに乗ったという事でしょうか。

 

まとめ

都から離れた東国尾張の田舎侍に過ぎなかった織田信長が、歴史の舞台を駆け上がって行くきっかけとなったのは、永禄元年(1558年)11月頃に、京都に復帰したばかりの将軍足利義輝と、践祚(せんそ)したばかりの正親町天皇から、相次いで『上洛命令』を受けて、更にその『天皇綸旨(てんのうりんじ)』には、”天下を申付ける”との言葉までがあったことだと言います。

 

喜び奮い立った信長は、尾張一国の領主にとどまることなく、目標を大きく持ち、大舞台を駆け上がって行ったと考えられます。

 

勿論、天皇が本気でそれを保証した訳ではないでしょうが、信長はその意を汲んで、使える人脈を最大限利用しながら、極めて慎重に事を運んで行ったようです。

 

室町幕府を支える”奉公衆”たちと政局を担う公家たちは、どうして織田信長に目を付けたのでしょうか。

 

先ずは、尾張守護斯波(しば)氏の守護代織田家の分家の家老ながら、織田弾正忠(おだだんじょうのちゅう)家は信長の父織田信秀の代に伊勢神宮遷宮のための多額の寄進、御所の修理のための多額寄進などでそれなりに京都で有名だったと考えられます。

 

この事は、わざわざ京都から、天文2年(1533年)7月2日京都から公家で蹴鞠と和歌の師匠である権中納言飛鳥井雅綱(ごんちゅうなごん あすかい まさつな)と内蔵頭山科言継(くらのかみ やましな ときつぐ)が、蹴鞠指導にかこつけて確認・視察のため下向し、そして、その実際の財力に驚嘆して帰京しています。

 

二日、癸卯、晴、暁天小雨下、土用、〇飛鳥井へ罷向、藏人來、三人令同道坂本へ下候了、尾州へ下向也、四過時分出門、・・・・
八日、己酉、天晴、〇今日五時分立桑名乘舟、八時分に尾張國津島へ付候了、即自飛鳥井織田三郎方へ速水兵部被遣候、軈而織田大膳使に來、七過時分同三郎迎とて來、則彼館へ罷向、馬の乘、三郎不乘、跡に來候了、夜半時分冷麺すい物等にて一盞候了、
九日、庚戌、天晴、〇朝飯之内に織田三郎、同名右近來見舞候了、暫雑談候了、晩天鞠張行、人數飛鳥井、予、藏人、三郎、右近、速水兵部丞等也、見物之人數之數百人有之、八過時分始、七時分迄候了、
十三日、甲寅、天晴、八專、夜雨下、〇織田大膳亮定信飛鳥の門弟に成候了、太刀、糸巻、二百疋出候了、
十四日、乙卯、天晴、八專、〇朝飯之時分、織田三郎信秀、來、今日盆之料とて飛へ百疋、予、藏人両人へ五十疋つヽ持て送候了、速水に三十疋云々、
廿日、辛酉、天晴、夜入雨下、〇今朝朝飯平手中務丞所有之、各罷向候了、三人なから太刀遣候了、種々造作驚目候了、數寄之座敷一段也、盞出、八過時分迄酒候了、音曲有之、中務次男太鼓打候、牟藤息大つヽみ打候、
(引用:山科言継卿『言継卿記 天文二年七月の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

天文2年(1533年)7月2日に飛鳥井雅綱卿、山科言継卿と蔵人の3人は京都を発ち、8日に尾張国津島に付き、そのまま織田信秀の屋敷へ行き、夜蹴鞠の会を早速催し、その後も蹴鞠の会を実施し、入門者を募っていました。入門料は200疋(5~6万円くらい)と太刀1本でしょうか。

 

7月20日に、織田弾正忠家の家老平手政秀邸に招かれた一行は、その数寄屋造りの豪華な邸宅に驚いています。分家の家老ですらこんな邸宅をもっているのかと言う事でしょうか。

 

8月24日に津島から乗船し、8月25日には帰京します。都合およそ2か月間もの間織田家に逗留し、蹴鞠の会、和歌の歌会、宴会等連日催し、織田家の一族、守護の斯波氏、那古野今川氏等々次々に現れて、飛鳥井卿に多数弟子入りして、入門料を次々収め、一行の尾張下向は大収穫という所でしょうか。

 

尾張国と織田一族の裕福ぶりを十分観察して帰京しています。

 

その後、織田信秀嫡子で16歳の若武者織田信長が、天文18年(1549年)に鉄炮”種子島銃”をなんと500挺も注文したことがあり、おそらくそのことでもまた有名になったのではないでしょうか。

 

 

そんな評判の中、信長が家督を継ぐ織田家の尾張は、将軍家の東西対立のなかで、京都幕府(西幕府)の最前線に当っており、永禄2年(1559年)東幕府(古河公方ー後北条家)の意を受けた駿河今川家の当主義元が大軍で上洛することとなり、西の防波堤・先陣として将軍から期待される状況となりました。

 

京都復帰直後の将軍足利義輝に、揺さぶりを掛けて来る東幕府軍(今川軍)に対して、京都の将軍・室町幕府奉公衆・朝廷禁裏は、全力を挙げて織田軍をバックアップする体制を取ったのではないかと思われます。

 

周知のように、将軍の要請に応えて永禄2年(1559年)4月に、越後から長躯京都入りした上杉軍精兵5000名が京都に駐屯し、それによって永禄2年中の今川軍上洛は阻止されました。
そして翌永禄3年(1560年)5月に動き出した今川上洛軍に対し、将軍より織田軍への援軍派遣要請がなされました。
結果、5月19日尾張三河国境の『桶狭間の戦』において、1年かけて戦闘準備を終えた織田信長は、後詰に幕府の援軍を得て、前線へ尾張軍を全軍投入する事に成功し、今川軍に圧勝して無事上洛を食い止めました

 

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将軍足利義輝は、信長の結果を受けて、後北条家中心の東幕府軍を叩くため、直ちに上杉謙信に関東出陣を命じ、翌永禄4年(1561年)2月上杉軍(西幕府軍)は、信長軍勝利により西幕府軍に味方する関東武将の参陣が増加して、11万5千にもなった大軍を以て東幕府(古河公方ー後北条)軍を小田原城に包囲することとなりました。

 

戦功のあった織田信長に対して、将軍足利義輝は本格的な上洛を求めます。この裏には、キリシタン大名大友宗麟とも関係の深い堺の商人たち、義輝配下の室町奉公衆たちが協力する形となって、ますます織田信長は軍事力も強化されて行くこととなります。

 

織田信長は、順序通り尾張の平定・美濃の征服と進めて行き、不安定な足利義輝の幕府の助太刀へのコマを進めて行きますが、突然永禄8年(1565年)5月になって、三好三人衆・松永久秀らによる『永禄8年の政変(将軍足利義輝弑逆事件)』が勃発し、将軍義輝が殺害されて、信長のシナリオはその時に頓挫します。

 

ところが、クーデターを起した三好三人衆と松永久秀が仲間割れを起し、折角担ぎ上げた”阿波公方足利義栄(あしかが よしひで)”は14代将軍にはなったものの、京都にも入れず病気となる始末です。

 

そんな混乱の中、室町奉公衆の長岡(細川)藤孝たちが動き、出家していた義輝の弟一乗院覚慶(かくけい)を還俗(げんぞく)させて担ぎ上げた”足利義昭(あしかが よしあき)”、のスポンサー大名として越前の朝倉義景が手をあげますが、政治センスがまったくなく、失望した藤孝たち奉公衆は織田信長に白羽の矢を立てます

 

そもそも、前将軍足利義輝に上洛を求められていた織田信長は二つ返事で了承し、上洛目指して動き始めます。京都への途上にある”美濃”の斎藤義龍(さいとう よしたつ)の死後、家督を継いでいた斎藤龍興(さいとう たつおき)を挑発し、一度は敗戦するものの、たちまち義龍配下の有力美濃衆を調略して美濃を奪取して、義昭の上洛準備を整えます。

 

そうして永禄11年(1568年)に上洛を果たし、”天下人”への道を歩み始める織田信長ですが、室町幕府奉公衆・公家衆・堺の豪商・豊後の大友宗麟(おおとも そうりん)を元締とするキリシタン大名など、合戦に必要な硝石の入手が確実に出来るコミュニティを巧みに構成し、天正10年(1582年)までに”天下人”へ登りつめて行きます。

 

事の成否は別として、尾張の一大名に終わる可能性のあった織田信長が、時代の寵児となり、”天下人”への階段を駆け上がったのは、決して『幸運』だけではなく、最初から『キリスト教徒』たちの何らかの関与があったものと思われることが多数存在することも確かなようです。

 

 

因みに一説では、戦国期安土桃山時代頃のキリスト教信者数は16万人、関ケ原の戦いの1600年頃では30万人、大坂の陣の直前1615年頃には60万人、江戸時代初期の鎖国直前では75万人にもなっていたとも言われています。

 

江戸初期の日本の人口を2000万人程度とすると、3%くらいとなり、現在が1%以下と言われていますので、かなり高かったと言えそうです。

 

もし徳川3代目までに”鎖国・禁教”へ向かっていなかったら、ひょっとすると日本もキリスト教国になっていた可能性がないとは言えないかもしれません。

 

現代の私たちが想像するより、当時のキリスト教の組織率は遥かに高かったようですから、天下人織田信長の出世に”キリシタン”が絡んでいるのも特別なことではなかったのかもしれませんね。

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参考文献

〇立花京子 『信長と十字架』(2004年 集英社新書)

〇奥野高廣 『増訂織田信長文書の研究 上巻』(1994年 吉川弘文館)

〇松田毅一 『近世初期日本関係 南蛮史料の研究』(1967年 風間書房)

『道家祖看記(どうか そかんき)』国立国会図書館デジタルコレクション

〇ノエル・ペリン 川勝平太訳 『鉄炮を捨てた日本人』(2004年 中公文庫)

『鐡炮記』国立国会図書館デジタルコレクション

〇加藤知弘 『バテレンと宗麟の時代』(1996年 石風社)

〇ルイス・フロイス 松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史1』(2000年 中公文庫)

『言継卿記 永禄八年七月五日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

『言継卿記 天文二年七月の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

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