執筆者”歴史研究者 古賀芳郎
今川義元の『尾張乱入』の目的は上洛か?織田信長の討伐か?
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今川義元の『尾張乱入』は、”上洛”だったのか、”尾張侵略・信長叩き”だったのかが分かります。
織田信長の『桶狭間の戦い』の大勝利は、ただ”運”が良かっただけなの?
室町幕府での、織田家・今川家の役割を考えてみます。
今川義元所有の名刀”義元左文字”はどうなったのかが分かります。
目次
今川義元の『尾張乱入』の目的は何だったの?
定説では、、、
永禄3年(1560年)5月の今川義元の尾張乱入は『上洛目的』であったとされ、その途上にある尾張の信長は臣従するか、戦うかの選択を迫られていました。
重臣たちが、清須籠城戦(今川軍をスルーさせる事)を主張して出陣を止めるのも聞かずに、義元を迎え撃つことにした信長は、5月19日の未明に清須城からわずかな供回りだけで飛び出し、途中戦勝祈願する熱田神宮でやっと集った2千の寡兵を引き連れて、西三河から尾張に大軍で侵攻して来て昼過ぎに沓掛城から大高城方面へ進軍中の今川軍2万5千に、挑みます。
世間が固唾をのんで見守る中、大方の予想を裏切って、信長軍の奇襲攻撃は成功し、”桶狭間”で昼食休憩中を突然襲われた今川義元本陣は大混乱となり、太守の今川義元が討ち取られてしまい全軍大崩れと言う史上最大の番狂わせとなりました。
と言う、周知の”戦国でもっとも有名な合戦”のひとつとなりました。
この『桶狭間の戦い』の大勝利により、織田信長の名前は一気に戦国の世に広まり、時代の寵児(ちょうじ)として歴史の表舞台に躍り出ました。
ここでは、”今川義元の尾張乱入”の理由は『上洛』が目的で、その途上にある尾張の織田信長が抵抗するから合戦をするのだと言う話でした。
つまり、太守今川義元にしてみれば、織田信長のような若造は”ひとひねりに潰してくれる!”と考えていたと言う事ですね。
最近の有力説では、、、
太守今川義元にすれば、そもそも尾張と云う地域は父親の氏親の代に、”那古野今川(なごやいまがわ)家”が領有していた地域で、領主であった義元の弟今川氏豊(いまがわ うじとよ)が、信長の父織田信秀に騙されて失ったものだと言う基本認識がありました。
駿河ノ屋形今川修理大夫氏親 尾張守護斯波治部大輔義達ト互ニ敵シテ合戰ニ及フ・・・・同年八月十九日・・・斯波殿ハ降人トナリ・・・一家ノ命助マヒラセ尾州ヘ送リ還サレケル 向後駿河屋形ニ對シテ弓ヲ引クヘカラサル由 起請文ヲ留メテ歸國アリケル 依之今川殿其末子左馬之助氏豊ヲ指添テ尾張へ指上セ給ヘリ・・・大永ノ初今川殿ヨリ尾州名古屋ノ城築左馬助ヲ移入テ 清須ノ押ニセラル義統ノ妹 左馬助ニ嫁シケル・・・
(引用:史籍集覧第十三冊『名古屋合戦記』国立国会図書館デジタルコレクション)
とあり、永正14年(1517年)8月19日に、尾張守護の斯波義達(しば よしみち)が、合戦で義元の父今川氏親(いまがわ うじちか)の軍に敗れて降伏し、本拠地の尾張那古野(なごや)を明け渡し、氏親の末子今川氏豊(いまがわ うじとよ)を城代として入府させたことが分かります。
また、、、
一級史料と言われる、京都の公家山科言継(やましな ときつぐ)の日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』によれば、天文2年(1533年)に尾張の織田信秀(おだ のぶひで)の居城である勝幡城(しょばたじょう)に、蹴鞠指導で招請された公家飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)に同行した時の記事に、まだ十二歳の少年である氏豊(幼名竹王丸)の名前が蹴鞠会の参加者の中に出ているようです。
両史料には時間的な相違があるのですが、今川氏親の息子の氏豊が那古野城(柳御所と称したようです)に在城していたことは間違いないようで、尾張守護の斯波氏の領地は駿河今川氏に占領されたようなことになっていたようです。
ちょっと寄り道しましたが、、、
そんなことで、義元にすれば、信長の父親信秀の謀叛(当時は下剋上ですから)によって失った領地を、回復させる考えだったとしています。
とは云うものの、、、
今川義元の三河への侵攻開始は、北条氏とのいざこざの『河東一乱』などもあり、家督を継いでから10年後の天文15年(1546年)に始まっています。この時、義元は現在の豊橋(この時は今橋城後に吉田城になりました)へ侵攻し、ほぼ同時に尾張の織田信秀は安城・岡崎の松平氏領国へ攻め込んでいます。
織田信秀は松平広忠を降伏させて、松平氏の領国を勢力下に置きますが、やがて信秀の体調不良が原因か織田氏は今川氏に押され始めて三河から追い出され、天文17年(1547年)頃には三河国は今川家に併呑されて行きます。
天文19年(1550年)頃には、今川軍はとうとう尾張国下四郡の知多地区への侵攻を開始し始めます。
天文20年に義元は、将軍足利義輝の和睦要請があり織田との和睦に応じますが、天文21年に織田信秀が死去(つまり織田信長の家督相続)すると、一気に攻め込み現在の名古屋市昭和区辺りまで侵攻します。
しかし、三河国内でも松平一族の一部に反今川活動がはじまり、弘治2年(1556年)頃になると、織田信長は反撃を始めて西三河(西尾辺り)へ侵攻をします。
こうして徐々に、今川に奪われた尾張南部の鳴海・大高地区の奪還に信長が動き始めていました。
今川義元としては、目障りになって来たちょこざいな織田信秀の息子信長を徹底的に叩き、この際、尾張国の全域制圧に動く目的(ではなくて”鳴海地区”の領土固定目的とも言われています)で、永禄3年(1560年)5月に大軍を起して出陣したと言うことです。
おやじ道三殺しの美濃斎藤義龍(さいとう よしたつ)とは、ちゃっかり誼(よしみ)を通じてあったのかもしれませんが、義元に呼応して義龍が尾張に攻め込むような動きはなかったようです。
恐らく、今川義元は尾張を独り占めしたかったのでしょうね。(義元は、まさか小童の信長に反撃されるとは思ってもみなかったことでしょう)
この説の研究者の方は、『今川義元上洛説』を”非現実的”と呼んでいます。
最新の研究による足利幕府の中央政局から見た、再び”今川義元上洛説”とは?
前述の「この説の研究者の方は、『今川義元上洛説』を”非現実的”と呼んでいます。」と言う論拠は、将軍義輝が”天下人三好長慶”と仲良くしていたこの永禄3年での”今川義元の上洛”は根拠がないと主張されていますので、あくまで”将軍と天下人との対立の図式”が前提にあるようです。
ここの『上洛説』の主張の前提は、、、
実は、室町時代~戦国期の足利氏の幕府組織は、京都の”室町幕府”と関東の”鎌倉公方(後に古河公方)”の事実上ふたつの幕府組織で、東西に分かれて統治されていました。
このふたりの将軍の補佐役として、管領職が設置されていましたが、”関東管領”の任免権は、京都の将軍が持っていて、本来、”関東公方”は京都の征夷大将軍の補佐役”佐馬頭(さまのかみ)”となっています。
ところが、組織通りには機能せず、関東は独立王権に近い形となり、東西対立は常習的に発生しているところでした。
その東西の間に位置する(関八州の手前)のが、まさに今川家の支配する駿河国と言う事になります。
本来今川家は、足利一族でもあり京都の将軍の指揮下にあって、”鎌倉公方(かまくらくぼう)”に対する防波堤の役割を担っているはずでした。
こうした体制の下、この時期に義元は上洛行動を開始したわけですが、実はこの上洛行動は前年の永禄2年(1559年)に企画されていたものでした。
前年の永禄2年2月に、織田信長は供回りを引き連れて上洛し将軍義輝に謁見し、その2か月後の4月に、越後の上杉謙信が将軍の求めに応じて兵5000を引き連れて上洛しています。
上杉謙信はその後、将軍義輝の要請に従って、領国を空き巣狙いの武田信玄に領国を侵されながらも、半年余りも粘って京都に駐屯し、”永禄2年の上洛”を企画していた今川義元の思惑を打ち砕き、上洛延期を実現させています。
どうやら、今川義元の上洛は”鎌倉公方”の意向を受けてのものじゃないかと思われます。
と言うのは、本来『征夷大将軍職』と云うものは鎌倉にあるべきで、東西分離以来の”戻すと言う約束”通りに鎌倉へ『将軍職』を戻そうとしない京都の足利将軍に、軍事的圧力をかけて、(この時の将軍義輝から)『征夷大将軍職』は鎌倉へ戻し、京都の将軍には『右近衛大将』に就任してもらうような、政変を起こすことが目的だったと言います。
京都の将軍義輝にしてみれば、将軍の許可なく将軍エリアの尾張へ勝手に乱入する永禄3年5月の義元の行動は、将軍家に対する”謀叛(むほん)・叛乱(はんらん)”以外の何ものでもなく、信長への戦争ばかりではなく、京都の将軍家に戦争を仕掛けたことと同じであるとの認識だったと考えられます。
このような、当時の東西対立構図の中で、後北条家とのつながりから、関東側に立った行動を開始したとみられる”今川義元”の尾張侵攻は、明らかに”上洛”(本来の意味ではなく)だと考えられる訳です。
信長側にも、自国防衛と言う名分以外に、西方幕府の配下として将軍義輝の立場擁護のために、謀反人を討つと言う大義名分もあったとされます。
永禄三年五月 駿河國今川治部大輔義元分國ヲ治メ 尾張國ヲ追罰シテ上洛シ京公方エ出仕可申トテ 一萬餘騎巳ヲ尾張國マテ責上ケルニ 織田弾正信長合戰ニ及悉ク打負ケレハ義元則上洛トミヘシ處ニ 同月十九日 尾州ヲケハサマ云處ニテ伏兵起キテ 義元ハ信長ノ爲ニ打タレケル間 三州尾州ニテ義元ノ下ノ國侍アマタ信長ニ随イケル・・・
(引用:史籍集覧 第十三巻 『足利季世記 松永彈正和州平均之事』国立国会図書館デジタルコレクション)
と、『足利季世記』にも、”今川義元上洛”の記事が載っており、『桶狭間の戦い』後の今川陣営総崩れの様子までわかります。
この『新たな上洛説』の特徴は、室町幕府内の権力闘争の東西対立を基軸に、今川軍の尾張侵攻が『謀叛』として将軍足利義輝に認定され、信長が幕府軍の先鋒として今川反乱軍と戦ったと言うところでしょうか。
これが、新しい『義元上洛説』の概要です。問題はあるにしても、それなりにスジ通っている感じですね。
(画像引用:ウィキペディア今川義元画像)
『桶狭間の戦い』の織田信長勝利はたまたま”運”が良かっただけなの?
通説では、織田信長の軍は、わずか2千名の兵で、2万5千(一説には4万5千)もの大軍の今川軍に奇襲攻撃で太守の今川義元を討取り、軍を総崩れに追い込んだと言われています。
前述の『足利季世記』にあるように、現実の戦場では、信長軍が”伏兵”を配置していたとあります。
その上現実の『桶狭間の戦い』の戦場が近隣ながらも、2ヶ所(名古屋市緑区と豊明市に古戦場跡があります)に及んでいる事から、実は、従来言われているような戦場を大きく迂回し、タテ長に伸びきっていた今川軍の今川義元本陣を、折からの驟雨(しゅうう)に紛れて横から奇襲戦法で襲って今川義元を討取り、その死の結果によって本隊が総崩れしたような戦いではなかったことが想定されます。
戦場の一か所は、義元が討死した本陣の辺り(豊明市)と思われますが、もうひとつの大高城寄りの戦場(主戦場ー名古屋市緑区有松町桶狭間)はどうも本隊主力がいた場所のようなのです。
今川義元本陣が襲われ太守義元が討死したのは、通説とは逆に、先に本隊主力部隊が壊滅してしまったのが原因だと思われるのです。
今川勢に加わって出陣していた松平家配下の三河兵の話が大久保彦左衛門の『三河物語』に残っています。。。
・・・・疵を持たる者成を喚び而云いけるは、此敵は武者を勿たるか、又もた去かと云。各々の仰に不及、あれ程若やぎ而見えたる敵の、武者を勿ぬ事哉候はん歟。敵は武者を一ぱい勿たりと申。然者敵之人數は何程可有ぞ。敵之人數は内ばを取而五千も可有と云。・・・
(引用:大久保忠教 『三河物語 第二中』国立国会図書館デジタルコレクション)
ちょっと読みにくいですが、徳川軍の物見(偵察)に云った侍が、帰って来て、織田軍は大軍で、士気は高く、兵がたくさんいる。斥候に出たベテランの兵が見たところ、前面の織田軍は少なく見積もっても5000名以上はいたと語っているのですね。
三河兵は、大高城へ兵糧を入れて来たばかりで、今川軍の一番尾張寄りの地点でまだ最前線近辺にいた訳ですが、三河兵がちらっと見ただけで織田兵は5000人以上はいたと言うのですから、全体ではほぼその2~3倍以上少なくとも1万以上はいたと言う驚きの報告なのだと考えられます。
となると、通説の織田信長は2000人の寡兵で25000の今川の大軍を破ったと言うのとは全く違った戦場の様相が見えて来ます。
これは一体どうした事でしょうか。
これからわかることは、この時の織田信長の戦いは、早朝に数名の供衆を連れて清須城から飛び出し、途中の戦勝祈願に訪れた熱田神宮に駆けつけて来た2千人を引き連れてそのまま合戦場へ向かうと言う、通説にあるような”出たとこ勝負のギャンブルチックな戦”では、決してなかったことが判明します。
つまり、織田信長は、予定されている戦場に今川義元の事前の想定をはるかに超える攻撃兵力を投入出来たと言う事ではないでしょうか。
考えられることは、将軍義輝の求めに応じて、永禄2年2月に上洛した信長は、将軍との間で今川義元討伐対策を打ち合わせ、その結果必要となった時間を将軍命で、4月に上洛させる上杉謙信に半年にも及ぶ京都駐屯を実施させて生み出します。
結果は成功して、今川義元に永禄2年中の上洛を断念させ、一年延期させることが出来ました。その間に幕府の力を借りて後詰の兵力を将軍命で手配してもらい、一方織田信長は全力を挙げて兵力を集め、決戦時に尾張の持てる兵力をすべて前線に投入出来る体制を整えたと言う感じなのです。
時間をもらって行った信長の合戦準備とは、全力を挙げた『兵力集め』に尽きると考えられます。
もうこうなると、織田信長が『室町幕府軍』として戦ったと言っていいのではないでしょうか。
ただし、今川義元も戦国武将として一流の人物なのですから、現実の戦場で物見も出さずに数千名も伏兵を隠した信長のワナにむざむざと嵌るでしょうか。これは不思議です。
でも、、、
この信長が”自軍の兵力を寡兵に見えるように細工をする”手法は、後年の天正3年(1575年)のあの鉄炮3千挺で有名な『長篠の戦い』にも応用されています。
とにかく、信長は手の内を見せません、太田牛一の『信長公記』の『桶狭間の戦い』の記事の中に、信長軍の主力の武将の名前はひとりも記載されておらず、まるで現場に主力部隊が存在しなかったかのようです。
絶対にそんなはずはないので、あの逃げ場を失って右往左往する今川義元の本陣を襲ったのは、信長の親衛隊ともいうべき2000名だったのですから、別に今川本隊を壊滅させた織田軍主力部隊がきちんと存在しているのは当然の事です。
という風に考えられますので、当然勝ち運が織田信長側にあったのは確かでしょうが、十分な準備を行って今川軍を迎え撃っており、決して『運』だけで勝利したのではないことが、史料からも想定出来ますね。
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敗軍の将となった今川義元はなぜ”海道一の弓取り”と言われていたの?
今川義元は、所謂嫡男(ちゃくなん)として、周囲も認める堂々とした今川家の跡取り息子ではありませんでした。
この頃の戦国大名家は、嫡男以外の男子を仏門に入れたり、養子に出したりして、後継問題のもめごとを減らそうとするのが、普通のやり方だったようです。
義元もこの例にもれず、父今川氏親の三男(五男とも言われる)と言われていて、幼少時に駿河国善徳寺に出されます。
そこで名僧太原崇孚(たいげん そうふー雪斎)に預けられ、7歳で得度(とくど)をして”栴岳承芳(せんがく しょうほう)”と名乗り、京都妙心寺で太原崇孚とともに修行に入ります。
天文2年(1533年)に太原和尚と共に駿河に帰国しますが、天文5年(1536年)に家督を継いでいた長兄の氏輝(うじてる)が死去し、嫡男となった栴岳に対して、異母兄でやはり出家していた玄広恵探(げんこう えたん)が家督を狙って挙兵し、”花蔵(はなぐら)の乱”が起こります。
実力者の母寿慶尼(じゅけいに)と太原崇孚の後ろ盾があり、北条家の援軍も得て、栴岳は『花蔵の乱』(天文5年)を鎮圧して還俗し”義元(よしもと)”と名乗って家督を継ぎます。
母寿慶尼を政治から引退させ、外交方針を転換させて武田と結び『甲駿同盟』が成立します。
しかし、これに猛反発した北条氏綱(ほうじょう うじつな)は天文6年(1537年)2月26日駿河に乱入して”富士川以東を制圧”(河東一乱)となっていますが、どうやら実態は、義元の家督争いに援軍に駿河河東地区に侵攻して、乱の終了後もそのまま北条軍が居座ったのではないかと思われます。
後北条家の創始者北条早雲(ほうじょう そううん)は、今川家重臣であった時代にこの河東一帯を本拠地にしていたことから、北条に通じる国衆が多かったのも原因と思われます。つまりは今川の家督争いの混乱に乗じて領地拡大を図ったと言えそうです。
とかく戦国時代は油断もスキもなく、家督を譲られる時期になると、その混乱に乗じてその若年の後継者は他の有力武将から領地をかすめ取られるようなことが起こるようで、この時の義元は後年の織田信長と同じような目に遭っていた訳ですね。
その後の義元は、師匠である高僧・軍師の太原崇孚の指導・協力もあり、天文21年(1554年)に武田・今川、天文22年(1555年)に北条・武田、天文23年(1556年)に今川・武田が婚姻により姻戚関係を結ぶこととなり、ここに『甲駿相三国同盟』が成立しました。
これにより、今川義元は、背後に気を使う必要がなくなって、父の代に失っていた尾張の領地回復を含めて三河以西への軍事侵攻(上洛)が可能になりました。
今川氏は南北朝時代から駿河・遠江の守護となっており、三河を含めて内政面でも領国統一の支配体制を確立し、親の代の失地である尾張国への侵攻によってさらに領国を拡げようとするなど、義元は今川をもっとも興隆させた人物と云う点と、領地が”東海道沿い”に横長になった広大なことから、『海道一』と言われたのではないでしょうか。
室町幕府の体制下で、今川家と織田家のそれぞれの役割は何だったの?
今川氏は、室町幕府成立当時、足利尊氏(あしかが たかうじ)から戦功として『駿河・遠江の守護職』を与えられていますが、その後遠江は、管領の斯波(しば)氏に取られて”駿河のみの守護職”となっていました。
寛正2年(1461年)に、室町幕府第八代将軍足利義政(あしかが よしまさ)より、『駿河守護職』を再承認されています。
ところが、、、
応仁元年(1467年)かの有名な『応仁文明の乱』が勃発して、幕府が東西に分裂してしまいます。
時の当主今川義忠(いまがわ よしただ)は、今川の『駿河守護職』を承認してくれた将軍足利義政が奉じられた”東幕府”に所属していました。
その義忠の息子が今川義元(いまがわ よしもと)の父今川氏親(いまがわ うじちか)です。
こうしてその実態は別として、立場的には今川氏は”東幕府”、つまり『鎌倉公方』に所属する戦国大名と見られています。
一方、織田信長の織田家は、室町幕府初期の越前・信濃・尾張守護を兼任する斯波氏の守護代織田惣領家が、伊勢守家(岩倉織田氏)と大和守家(清須織田氏)のふたつに分裂したひとつ清須織田氏の三奉行のひとつである織田弾正忠家でした。
清須織田氏配下の弾正忠家は、主家の尾張下四郡に属する勝幡(しょばた)に城を構えて、港町津島(つしま)を所領としていました。
東西分裂後は、主家の尾張守護斯波氏が足利幕府の京都つまり西幕府に所属しているため、織田信長の弾正忠家も京都の西幕府に所属することとなっています。
今川氏が尾張に進出するきっかけになったのも、前出した『名古屋合戦』の記録にありますように、東西対立の末端部遠江での争いで、斯波氏が今川氏親の今川軍に完敗して、那古野に今川氏の進出許したことからはじまったものです。
時間軸を追ってみると、このような応仁元年(1467年)に始まる『応仁文明の乱』によって生じた”室町幕府の東西分裂”の中での、西へ進出する東方の今川氏とそれを押し返す西方の織田氏と言う”対立の構図”が、そもそも厳然と存在していることが分かります。
私などは、学校で教えられた『応仁の乱』を挟んで始まった『下剋上の世』という事にあまりにもとらわれていて、成り上がった戦国大名が権威を失った室町幕府とは無関係に、独自に周辺大名と領地争いを目的として覇権争いをしているものとばかり考えていました。
しかし、ベースの部分に、あくまでも彼らは室町幕府の御家人であって、その大枠は消滅するどころか、厳然として生きていて、実は彼らの行動規範と言うのは”室町幕府の権威・存在”であることを忘れていました。
大枠は生きていても、肝心の足利氏周辺もごちゃごちゃになっており、その下部組織の御家人たちも自力をつけて”下剋上”で守護大名に成り上がって、独自の覇権を確立して動き回りますので、私などには非常に分かりにくくなっています。
こうした”東西対立”の観点で、織田信長の織田家と、今川義元の今川家を考えないと、訳の分からない迷路に迷い込むことになりそうです。
やはり、『桶狭間の戦い』は、単に今川義元の尾張侵略に対する織田信長の防御戦と見るだけでなく、この”室町幕府の東西対立の勢力争い”の戦いだったと見る方が、理解しやすいような気がします。
本当は、永禄3年(1560年)5月19日『桶狭間の戦い』の織田・今川のどちら側の背後にも、室町幕府の権威の象徴である東西将軍様が付いていたと言うことでしょうか。
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討死した今川義元の愛刀を織田信長は自分の刀剣コレクションに加えた?
今川義元の愛刀となると、信長が所有していた脇差『義元左文字(よしもとさもんじ)』が有名です。
この名刀の来歴とは?
江戸時代の徳川第八代将軍吉宗の命により編纂された刀剣目録『享保名物帳(きょうほ めいぶつちょう)』によりますと、、、
上記名物帳の『名物焼失之部』に”義元左文字”が記載されています。。。
大阪御物
宗三・三好・義元 左文字 磨上 二尺二寸一分半
三好宗三所持、武田信虎へ遣さる義元へ傳ふ信長公の御手に入り彫付表忠樋の内に「永禄三年五月十八日義元討取の刻彼所持の刀」と裏平に「織田尾張守信長」有之信長所持のとき失る後ち秀頼公の御物となる 家康公に遣はさる表裏樋有之
三好宗三は三好長慶が一族三好長政入道して宗三と號す、松永彈正と共に三好長慶を助けて畿内を経謍す、・・・・この刀は宗三盛時に甲斐の武田信虎へ贈る、信虎の長女駿河の今川義元へ嫁する時聟引手物として義元へ贈る、永禄三年五月十八日桶狭間の合戰に、義元この太刀を帯び床几に依し處へ信長間道より襲ふて、毛利新助、服部小平太の二人力を協せて義元を討取る、この時義元太刀を抜て服部が脛を切ると言ふ、義元の首と共に信長之を分取りす、・・・
今川家に在りし時貮尺六寸あり、信長磨上て右の寸となりし、本能寺の變に燒る、其の後太閤の手に入て燒直し秀頼に傳り家康に贈る・・・・明治十二年ごろ・・・建勲神社の造營なり其時徳川公爵よりこの太刀を奉納す・・・
(引用:『詳註刀剣名物帳 名物焼失の部』国立国会図書館デジタルコレクション)
上記引用は徳川吉宗が作らせた『享保名物帳』の写しですが、伝来ルートが、”三好宗三⇒武田信虎⇒今川義元⇒織田信長⇒豊臣秀吉⇒豊臣秀頼⇒徳川家康”とあり、非常に華麗な遍歴の太刀であることが分かります。
今川義元が所有していたのは、なんと武田信玄の父親信虎からの娘の嫁入りの引き出物だったんですね。天文6年(1537年)2月10日に成立した『甲駿同盟』の証、歴史の証人みたいなものだったとは驚きです。
信長が『桶狭間の戦い』の戦利品として獲得し、それを磨り上げて短くして来歴を刻印していたものが、『本能寺の変』・『大坂夏の陣』と2度にわたって兵火を浴びて、それを修復したものが伝わっているなどさすが名物と言ったところでしょうか。
現物の”義元左文字”は、上記”説明”にもありますように代々徳川家の家宝として大切に保管され、現在は京都船岡山麓にある織田信長公を祀る『建勲(たけいさお)神社』の所蔵品となって現存しています。
”左文字”とは?
『正宗十哲』と言われる南北朝時代に活躍した筑前の刀工”左安吉(さのやすよし)”の一門が作刀した一連の刀の名称です。
”左文字”はこの左安吉の作と思われ、この一門のものは”筑州左(ちくしゅうさ)”とも言われるようです。
”鎌倉期の古刀”は、戦国時代の武将には人気が高かったようで、この”左文字”も所謂現地鎌倉の相州物ではありませんが、九州筑前産の名刀として名高い逸品・名物でした。
武田信虎から今川義元へ言わば”同盟の証”として贈られていますので、この名工の刀(左文字)は、当時から”お宝扱い”されていたことがよく分かりますね。
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まとめ
定説では、『桶狭間の戦い』は2千名の少ない兵力の織田信長が、4万5千とも言われる兵力の『上洛途上の今川義元』の軍を、大兵力で油断していた今川義元本陣の奇襲攻撃により、見事今川義元を討取った戦いと言う事でした。
この戦いの勝利で、織田信長は尾張の地方大名から、天下を狙える全国区の大名に名乗りを上げることになったと聞かされています。
これに対して、最近の研究の成果として、かなりの数の研究者の方から、イヤイヤ今川義元に上洛の考えは全くなく、占領していた尾張南部が、織田信長の力が付いて来て、取り戻されそうになっているので、これを領土として固定させるために”尾張侵攻”を実施していると言います。
しかし、最近の”室町幕府奉公衆の研究”の進展により、戦国期における室町幕府の統治機構の頑丈さが分かって来て、今までの戦国大名の下剋上をベースとした行動も、根底には室町幕府の機構・組織が生きていることを知らされました。
これによると、各地の戦国武家は、かなりのやんちゃがあるにしても、行動のベースが室町幕府の組織体であることを考えると、その奇妙と思える行動が解ける可能性があることを教えてくれます。
この『桶狭間の戦い』のそもそもの理由は、幕府の東西対立(京都幕府VS鎌倉公方)と考えると、東幕府の今川軍と西幕府の織田軍の対決だった事となり、今までに考えてもいなかった駆け引きが見えて来ます。
私は勉強不足で、室町将軍足利義輝が永禄2年(1559年)2月に室町御所で織田信長と謁見していることは知りませんでした。そして、その後の4月から、越後の上杉謙信が義輝将軍の要請に応じて、甲斐の武田信玄が空き巣狙いのように領地へ侵略してくるリスクを犯しながら、5千名もの精鋭兵を半年間も京都に駐屯させていたことも初耳でした。
これによって、今川義元の上洛行動が1年遅れの永禄3年(1560年)にずれ込んだなどの話を聞けば、もう寝起きで清須城をわずかな供回りだけで熱田神宮に向かった、何も考えていない”計画性ゼロの大うつけ”、運だけで勝利した織田信長の姿はありません。
緻密に計画された軍事行動を室町将軍と打ち合わせながら進めて来た、戦略家の織田信長の姿が見えて来ます。
太田和泉守牛一の『信長公記』の簡単な記述に騙されたのかもしれませんが、信長が大兵力を用意して、桶狭間で今川軍を壊滅させていた可能性が高いことは、本当に驚きです。
勿論まだ、これは異説の部類なのでしょうが、私も含めてあまりにも戦国期における室町幕府と言う組織を甘く見ていたと言う事のようです。
あの15代将軍足利義昭の奇矯な行動にダマされていました。
又、これを考えると、『本能寺の変』勃発の真相も透けて見えて来そうな気がしますね。
今後の研究の進展が楽しみです。
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参考文献
〇日本史史料研究会監修『今川氏研究の最前線』(2017年 洋泉社)
大石泰史編
〇小林正信 『信長の大戦略』(2013年 里文出版)
〇小林正信 『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)
〇有光友學 『戦国大名今川氏と葛川氏』(2013年 吉川弘文館)
〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社新書)
〇史籍集覧 第十三冊『名古屋合戦記』国立国会図書館デジタルコレクション
〇史籍集覧 第十三冊『足利季世記 松永彈正和州平均之事』国立国会図書館デジタルコレクション
〇大久保忠教 『三河物語 第二中』国立国会図書館デジタルコレクション