”武人政治家”織田信長は最初から天下を狙っていた!ホント?

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織田信長は速攻の人でした。

織田信長は『桶狭間の戦』で今川義元を破ったころには、『天下の儀』を考えていました。

織田信長の”永禄2年の上洛”と”永禄11年の上洛”は、ともに将軍と天皇の両方から『上洛命令』を受けていました。

織田信長の経済政策は、”農政”よりは”重商主義”でした。

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織田信長が目指していた政治ってどんなもの?

織田信長が父織田信秀から引き継いだもの

時々、織田信長は『民・百姓が安心して暮らす事が出来る、戦のない平和な世の中の実現を目標としていた』などと、解説するテレビドラマの話があります。

 

周知のように織田信長と言う”武人政治家”は、どんどん出世する(領地が拡大する)に従って自身の拠点(居城)を変えて行き、その都度政治家としての活躍ステージを高度化させて行った人物です。

 

そして、信長の父が当主を務めていた織田弾正忠家は、支配する領地から上がる年貢以外に、商業が生み出す大きな収入を手にしていました。

 

それは、祖父の代から支配していた伊勢湾の商業港”津島”と父の代に支配した”熱田”と言う、信仰を集める神社と港で繁栄する商業都市からのものでした。それらの生み出す経済力が力強く織田弾正忠家を支えていました。

 

そのため信長は幼少の頃から、近隣にある神社の繁栄する門前町と商業港で活躍する豪商達の力を身近に目の当たりにして育ちました

 

織田信長は、農業振興と、他国領侵略だけを経済基盤とする他の戦国武将とは、少し違っていたようです。

 

と言うのも、、、

 

当時の尾張国の石高は60万石弱くらいと考えられますが、初期に織田信長の父信秀が支配していたのは、尾張国八郡の内の主家清洲織田家が支配していた下四郡だけでしたから、半分の30万石くらいだとすると、当時の直接的な動員兵力は最大7千名、まず戦闘員として使えるのは4千名くらいが最大と考えていいのではないでしょうか。

 

織田信秀は、前述商業都市を背景とするその財力と、周到な知力、その果断な戦闘力によって、織田家内で頭角を現し親族を実力で従わせ、東の三河と北の美濃への侵攻を始めるなど、最盛期には尾張国全軍1万5千の兵を動員出来る政治力を持ち尾張の守護代的な地位で振る舞います

 

しかし、その父信秀も病を得て、従属していた親戚筋・国衆も信秀の政治力に見切りをつけて離反を始め、織田信長が弾正忠家の家督を継いだ天文21年(1552年)頃には、父が実質支配した尾張一国どころか尾張下四郡でさえも東側二郡は、駿遠三を支配する駿河今川家によって侵略されていると言う織田弾正忠家が存亡の危機を迎えている状態でした。

 

信長の政治はこんな状況から始まり、以後成功を重ねて以下のような発展の仕方をして行きます。

 

  1. 尾張国内統一(永禄2年ー1559年) 岩倉織田伊勢守家滅亡
  2. 美濃征服  (永禄10年ー1567年)稲葉山城落城
  3. 上洛    (永禄11年ー1568年)足利義昭を奉戴上洛
  4. 畿内支配  (天正元年ー1573年)15代将軍足利義昭追放
  5. 天下統一  (天正8年ー1580年) 本願寺との和睦(中央部での敵対勢力消滅)

 

しかし実際の信長の政治ビジョンは、きちんとこのような段階を踏んで徐々にステップアップして行ったのでしょうか?

織田信長のめざしていたもの

先ず、冒頭の戦国テレビドラマに出て来る『織田信長は、”戦いのない民百姓が安心して暮らせる世の中”を作る事を目指していた』と言う、私たちが何となく思わされている”政治目標”ですが、これはどこから出て来たのでしょうか。

 

戦国時代に現代で言う『平和』と言う概念のワードはありませんでした。

 

信長が好んで使ったワードに『天下の儀』と云うものがあります。

 

信長の史料で最初に『天下の儀』が出て来るのは、

 

・・・度々申し旧り候如く、甲越の間、無事に属し、互いに意趣をなげうたれ、天下の儀、御馳走希う所に候、・・・
(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究上巻(92)越後上杉輝虎宛書状』)

 

これは織田信長が上洛する直前の永禄11年(1568年)7月29日付で、”信長から上杉謙信に宛て”に出されたもので、”度々申しましたように、越後(上杉謙信)と甲斐(武田信玄)との関係が平和となり、互いに遺恨を忘れ、天下のことに努力するように希望します。”と言う意味です。

 

とあり、また、

 

今度三州に於いて敵を悉く討ち果たし、いよいよ天下静謐たるべく候、・・・
(引用:奥野高廣『増訂 織田信長文書の研究下巻 (516)山城賀茂社祠官民部丞宛黒印状』)

 

これは、織田信長が『長篠の戦』にて武田勝頼に大勝した後の天正3年(1575年)6月9日に”信長から京都賀茂社の民部丞宛て”に出されたもので、”今度三河の長篠で武田勝頼に大打撃を与えたので、これで日本は静謐になる”と言う意味です。

 

永禄2年(1559年)2月に岩倉城を陥落させて、やっと尾張統一を仕上げたばかりの時期の織田信長に政治目標としての『天下』があったとは思えません、しかしその8年後の永禄10年以降の信長文書には、前述のとおり『天下』の文字が出て来ます

 

上洛直前の織田信長の政治目標にはっきりと”尾張の国主”ではなくて、『天下の主』の意識が芽生えているように考えられます。

 

前述しましたように、信長は出世するたびにステージを上げていたような”軌跡”となっていますが、これは、本人が”並みはずれた上昇志向の人間”で、それがたまたま当たりまくった結果『天下』に近づいたと言う、ラッキーな結果論なのでしょうか。

 

今まで学んで来た織田信長の歴史では、そのきっかけとなる動機がよく分かりません。すべて結果オーライに見えるため、ただの”ラッキーボーイ織田信長”と言う理解だったように思います。

 

やはり尾張の片田舎にいた、やんちゃな地侍の惣領息子の目指していたものが、なぜ当時としても途方もない『天下』と云うものだったのか知りたいところです。

 

ここで、注目すべき信長の不思議な行動に、”永禄2年(1559年)2月の突然の上洛”があります。

 

一、さる程に、上総介殿御上洛の儀、俄に仰せだされ、御伴衆八十人の御書立にて御上京なされ、城都、奈良、堺御見物にて、
公方光源院義照へ御礼仰せられ、御在京候ひき。・・・
清洲の那古野弥五郎が内に丹羽兵蔵とて、こざかしき者あり。・・・美濃國より大事の御使を請取り、上総介殿の討手に上り候と申し候。・・・五三日過ぎ候て、上総介殿、守山まで御下り、翌日、雨降り候と雖も、払暁に御立ち候て、あひ谷より、はつふ峠越え、清洲まで廿七里。其の日の寅の刻には、清洲に御参着なり。
(引用:太田牛一『信長公記 巻首 丹羽兵蔵御忠節の事』インターネット公開版

 

太田牛一の『信長公記』の記述によると、急遽の上洛をしたにもかかわらず、信長に敵対する美濃の斎藤家から刺客がかかったような記述があり、戦国武将も大変なものです。

 

尾州織田弾正忠上洛、有雑説俄罷下云々、
(引用:『厳助往年記』国立国会図書館デジタルコレクション

 

ここの記事の記載では、永禄2年(1559年)3月の記事になっていますが、実際は『言継卿記』などで織田信長の上洛は永禄2年2月初旬の話であることは間違いないようです。

 

また、”尾張の織田弾正忠(信長)が上洛したが、色々あって、急いで帰った”とあり、上記の『信長公記』に詳しい記載のある事と、内容がほぼ一致しているようです。

 

これは、歴史研究家の小林正信氏によると、室町幕府内の東西対立の事件で、織田信長が京都幕府の将軍義輝の要請に基づいて、東幕府の意を受けた駿河の今川義元の上洛を阻止するため、織田信長が打合せに義輝のもとに上洛したものと説明されています。

 

そして織田信長は、翌年の永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦』によって、今川軍を大敗させて『今川義元の上洛意図』を打ち砕き、見事その”第13代将軍足利義輝”の期待に応え使命を果たします

 

関連記事

 

戦国史研究家の立花京子氏によると、この”永禄2年の信長上洛”に関しては、実は、上洛命令が将軍足利義輝だけでなく禁裏(天皇)からも出ていたと言います。

 

・・・、上様ヨリノ進物、道家披露仕、两人ノ進物進上候テ、立入ヲクヘセウシ被成候ヘ共、タヽコレニト申、サテ上様ヨリ、御トウフクメシ、村井御リンシノ書立三ケ條ノヨシ申、信長請取、先日付ノ下ニ判クワヒ、コヽヒテ、我等イマタ尾州サヘ半國ノアルシタルニ、天下被仰付候、此御力ヲ以テ、當國ヲハ年内ニシタカヘ、來年ハ美濃國令退治候ハン事、此二通ノ御力也トテ、三ケ條ヲ立入ニ渡シ給フ、・・・
(引用:『道家祖看記』国立国会図書館デジタルコレクション

 

このように、『天皇綸旨(てんのうりんじ)』が出され、織田信長自身が”未だ、尾張半国の主なのに、『天下』を申付けられ、天皇の御力を得て、今年中に尾張統一し、来年には美濃を平定する”と喜んでいる様が語られています。

 

時期的には、この勅使(御倉職の立入宗継ーたてり むねつぐ)が清洲に下向し、熱田神宮の参拝などしている事と、記事の内容から永禄2年(1599年)の2月の岩倉攻めの前、永禄元年末か永禄2年初の頃の事と考えられます。

 

つまり、信長の”永禄2年の唐突な上洛”は、”将軍足利義輝の上洛命令”とともに、このような『天皇綸旨(上洛命令)』が理由であると分かります。この時に禁裏から出ている”三カ条”とは、①三好・松永勢に都を追い払われた公家達の救済、②武家に横領されている朝廷の御領地の回復、③御所の修理に関してのことで、信長は請け負って後日すべて達成し約束を守っています。

 

話を戻しますと、、、

 

信長の政治目標は、前述のような段階を経て、それに合わせて徐々にグレートアップして立案された目標ではなくて、この永禄2年の段階で信長の意識が開花し、一気に『天下獲り』が設定されていたもののようです。

 

そして、従来織田信長は、尾張統一 ⇒ 美濃平定 ⇒ 上洛 と父織田信秀の時からの悲願である尾張統一と美濃平定を目標に戦略を進めて来たように考えられて来ましたが、実は、なんと初期段階から『天下獲り』と言う目標があり、まるでそれを達成する必要なステップとして、尾張統一と美濃平定を行なったような感じにも受け取れます。

 

今までの想定より、はるかに織田信長と言う人物のスケールが最初から桁外れに大きかったようで、その発想に至る切っ掛けとなったのは、この『天皇の綸旨』ではないかと考えられます。

 

この当時地方大名の中で、乱れた京都の朝廷・幕府の窮状を救う救世主として最も足利幕府と禁裏に期待されていたのは、上杉謙信(長尾景虎)であったようですが、”尾張の織田家”も父織田信秀の禁裏に対する多額の寄進をするなどの貢献から、京都の公家衆での知名度はかなり高かったようですね。

 

冒頭の信長の政治目標は、『”戦いのない民百姓が安心して暮らせる世の中”を作る事』であると言う理解は、前出した『天下の儀』と言うワードが、今風に”世の中・民百姓の平穏な生活”と捉えた勘違いから来ているようです。

 

信長にとっての『天下の儀』とは、見て来たように、あくまでも”天皇にとっての静謐な政治情勢”を指していて、”民百姓の平穏な生活”のことなど相手にされていないのです。


(画像引用:岐阜城ACPhoto)

織田信長が唱えた『天下布武』とは、なに?

歴史の授業では、『天下布武(てんかふぶ)』とは、織田信長が美濃攻略して井之口の町を『岐阜(ぎふ)』と改名するように進言した、臨済宗妙心寺派の禅僧”宗恩沢彦(そうおん たくげん)”が、信長の印章として選んだと言われています。

 

意味合いとしては、”武力をもって天下の静謐を実現する”くらいのところでしょうか。

 

ここで言う『天下』に関して、戦国史研究家の立花京子氏によると、、、

 

『天下』といえば、天皇の支配の及ぶ「全国土」とみなされるが、『天下静謐』とは乱を鎮めることによって形成される、日本全国にわたる平穏な社会状況であることが、平安期からの用例から知られる。・・・天下静謐の執行は、まず、天皇、朝廷の繁栄を第一義とするものであり、天皇は、天下静謐の唯一の主宰者なのである。
(引用:立花京子『信長と十字架』2004年 集英社新書 )

 

つまり、織田信長の言う『天下静謐』とは、その主宰者たる天皇のための”静謐”と言う事になります

 

織田信長の全国制覇における軍事行動は、”天下静謐の執行”と言う大義名分のもとに行なわれていて、それはとりもなおさず”天皇の為に乱れた天下を静謐にする”と言うものでした。

 

”武力を用いて天下を乱す悪者を退治し、治安が回復したら、その武力をもって乱の発生を防ぐ”と言うことが、『天下布武』の理念であると考えられます。

 

また、織田信長は、武門の手本として”源頼朝(みなもと よりとも)”を崇敬しており、その頼朝の書簡に、、、

 

・・・兼ねて又當時仰下され候可き事、愚意の及ぶ所は、恐れ乍ら折紙に注し、謹んで以て之を進上す、一通院奏の折紙、師中納言卿に付せしめ候、今度は天下の草創なり、尤も淵源を究め行はるべく候、殊に申沙汰せしめ給ふ可きなり、天の與へ奉らしむる所なり、全く御案に及ぶ可ならず候、此旨を以て右大臣殿に洩し申さしめ給ふ可きの狀、謹んで言上件の如し、
十二月六日           頼朝
謹上 右中辯殿
(引用:『吾妻鏡 五巻 文治元年12月の条』2008年 岩波文庫 原文:『吾妻鏡 五巻 文治元年12月の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、源頼朝は、自分が朝敵討伐者として天下静謐を執行することとし、その体制を『天下草創(てんかそうそう)』と称しています。

 

信長の『天下布武』は、この頼朝の『天下草創』とほぼ意味合いは同じではないかと思われます。やはり、信長の手本は”源頼朝の武家政治”なんだと言う事が分かりますね。

 

幕府の創設者の将軍源頼朝のスローガンに準拠しているので、織田信長の”天下静謐”は、室町幕府・将軍の”天下静謐”ではなくて、天皇・朝廷の”天下静謐”であることになります。

 

つまり、信長自身の立場としては、天皇を戴く室町将軍(足利義昭)と自分が同格であることを強く主張していると考えられます。

 

そして、実際に事実上『将軍』としての権限を実際に行使して行くことになります。

 

天下獲りの途上である、美濃國制圧の時期に『天下布武』印章の使用を開始していることから、織田信長は、将軍足利義昭を奉戴して上洛戦を開始した時期である永禄11年(1568年)には、既に自分は”将軍”としての立場で戦略を押し進める考えであったと言う事になります。

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織田信長は『天下人』なの?

歴史研究家小林正信氏によれば、”天下人とは、京都における軍事的な最高実力者であるばかりでなく、政務・軍事全般における統治権者”のこととされ、歴史学上『統治権的支配権者』であると言われます。

 

名の上がる人物は、鎌倉幕府における北条氏、足利尊氏の弟で副将軍の足利直義(あしかが ただよし)、管領であった細川頼之(ほそかわ よりゆき)・細川勝元(同 かつもと)・細川政元(同 まさもと)、三好長慶(みよし ながよし)、そして織田信長と言われます。

 

武士とは一つの階級であることから、いわばその棟梁である将軍は、武家党の党首とも言えます。将軍のもつこの君主権を「主従制的支配権」と呼んでいます。
将軍は武家階級の棟梁として軍勢の動員権を有し、武家全体の利益を代表していますが、一方、天下人=「統治権的支配権者」は、将軍からその権限を委託されて広く政務全般を担うことになります。
(引用:小林正信『明智光秀の乱 44頁』里文出版)

 

とすると、、、

 

織田信長は、永禄11年(1568年)9月に足利義昭を奉戴して上洛した段階で、当然のように”天下人への道”を歩み始めていたのですが、一方、将軍足利義昭は織田信長が”天下人”になることが分かっていなかったか、又は当時の室町幕府の将軍は軍事的実力者へは権限移譲をせねばならない事を知らなかったのかもしれません。

 

上洛後しばらくして発生する双方のあのギクシャクした関係は、完全にここの所の話がかみ合ってないことを示しているように感じます。

 

武家社会に経験のない一乗院覚慶(いちじょういん かくけい)と言う僧侶であった足利義昭は、将軍になればすべて自分の思い通り指示命令をして、政局を動かせると勘違いしていたようです。

 

それの事が本当に分かっていない足利義昭に当惑した織田信長ですが、そもそも前述してきたような『天下布武』で、天皇の下”天下静謐”を目標として、将軍義昭を傀儡化する考えだったようです。

 

それで上洛後、わざと将軍の安全保持の体制作りもそこそこに京都から岐阜へ引き上げてしまい、三好党の挙兵(永禄12年正月)を誘い、それと気が付かない将軍義昭の心胆を寒からしめさせたようです。

 

しかし、自分の置かれている状況を理解させようとした信長の作戦もあの足利義昭にはあまり通じなかったようで、その後の二人の周知の泥仕合・暗闘が始まることになります。

織田信長の”領地経営”はどんなもの?

信長の支配下地域の拡大(概略)と実行した施策

 

  1. 永禄3年(1560年)  尾張一国
  2. 永禄10年(1567年) 北伊勢出兵・美濃攻略(4か国)
  3. 永禄11年(1568年) 上洛・畿内攻略(12ヵ国)
  4. 元亀3年(1572年)  江北出陣・三方ヶ原の戦い
  5. 天正元年(1573年) 足利義昭追放・浅井朝倉滅亡(14か国)
  6. 天正8年(1580年)  三木城開城・石山本願寺退去・加賀一向一揆平定(24か国)
  7. 天正10年(1582年) 武田氏滅亡(30か国以上)

 

織田信長の実質支配領地は、織田信長研究家谷口克広氏の著書によれば、概略以上のような拡大の仕方をしていて、最晩年は日本の中心部はほぼ手中に治めています。

 

こうした状況を踏まえて、信長の取って来た政策に関して見てみましょう。

 

信長の主な政策と言われていたものには、次のようなものがあります。

  1. 兵農分離
  2. 関所の廃止
  3. 楽市楽座
  4. 街道整備
  5. 検地実施
  6. 荘園制度の廃止

 

『兵農分離』政策

これは、戦国武将の中でも特筆すべき”信長軍団の強さの秘密”として挙げられているものです。つまり、農民兵主体の戦国武将は、農閑期(冬場)しか、兵を動員できないが、職業軍人の織田兵は一年中出陣が出来るので、明らかに有利と言う見方です。

 

織田信長の場合、始まりは『信長公記』にありますように、、、

 

御伴衆七、八百、甍をならべ、・・・
(引用:太田牛一『信長公記 首巻 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版

 

とあり、織田信長が、親衛隊800名ほどを各自の領地から離して清洲の城下に住まわせており、”即時動員出来る常備軍”として持っていたころから、評価されているものです。

 

しかし、近代の軍隊のように、すべて常設軍だったはずもなく、歴史教科書で囃されているように、織田信長だけが職業軍人のような常設軍団を何万人も動員出来た訳ではなくて、もし違いがあるとすれば、この近衛師団と言うか親衛隊のようなものの規模が800名と他の武将と比べて桁違いに規模が大きかったことから、言われているようです。

 

実際の合戦となれば、他の戦国武将たちと同様に、信長配下の国人領主たちが農民兵を招集して、信長の下へ集まって来て、軍団を形成していたと言う事が実態であったと考えられます。

 

兵農分離』が他の武将に先駆けて出来ていたので、だから織田軍は強かったと言うのは、”神話”の部類の話に近いと思われます。

 

しかし、この御伴衆(親衛隊)の有効性には、信長も気づいており、何とか更に規模を拡大出来ないかと考えて、小牧城築城時には、清洲では実行できなかった譜代重臣たちの城下居住を進める施策を推し進めています

 

『兵農分離』を達成するには、豊臣秀吉が実施した『刀狩り』で、農民と武士の職能分離を図り、”専業の百姓”を作り”職業軍人”と分離させる必要があったと思われますが、織田信長はそこまでは出来ていません

『関所の廃止』政策

これは、織田信長の商業流通を重視する経済政策のひとつとして挙げられているもので、これによって商業拡大が可能となり、織田家の経済力を引き上げたと言うものです。

 

そもそも、当時の関所は、テレビで観るのと違って、”治安維持”ではなくて、”通行税”を取る目的の物が大半でした。

 

つまり、そうなると同一領主の国内では本来は必要ない訳です。

 

では、途方もない数の関所があったとされる原因は、

  1. その街道沿いに中小国人領主が割拠していること
  2. 領内の寺社が収入源としていたこと
  3. 古代からの朝廷・貴族・大寺院の荘園・領地が多数存在していたことなどによるもので、山の中や間道で関銭を取るのは”野盗・山賊”の類です。

 

以下は、関所の話ではありませんが、、、

 

智多郡幷に篠島の諸商人の当所守山往反の事は、国質・郷質・所質幷に前々或は喧嘩、或は如何様の宿意の儀ありと雖も違乱あるべからず、然らば敵味方を致すべからざるもの也、仍って状件の如し、
天文廿壱
十月十二日            信長(花押)
大森平右衛門尉殿
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 上巻 (6)尾張大森平右衛門尉宛判物写』(1994年 吉川弘文館)

 

これは、三河湾の篠島の商人が尾張守山へ行商に行く時の通行の自由を認めた織田信長の許可証です。通常領内は通行フリー(無料)と言う事ですね。

 

この織田信長の判物は、天文21年(1552年)の日付ですが、この時期、尾張知多郡は駿河今川家の侵略に遭遇しています。多分この行商人たちは、織田信長が永禄3年(1560年)の『桶狭間の戦い』で今川義元に完勝するまで、この判物があったところで通行に難渋したと考えられます。

 

前述したように、織田信長の支配地域は年を追う毎に拡大して行き、廃止される関所の数も増えて行ったものと考えられますが、信長は、朝廷・公家・大規模寺院の収入となる関所に関しては、廃止の対象とはしておらず、京都の出入口『京都七口』の関所も関銭が公家山科家の収入だったため、温存されています。

 

信長の場合は支配下地域の拡大のスピードが早かったので、関所の廃止が目立ったのではないかと思われます。勿論、信長軍に貢献度の高い豪商たちからの圧力はあったのかもしれませんが、”流通業発展への貢献”と言う目的の信長の特別の政策方針があったようには見られません

 

『楽市楽座』政策

信長の『楽市楽座政策』には、”楽市”と名前の付く有名なものが3つあります。

 

  1. 上加納楽市令(かみかのう らくいちれい)』
  2. 金森楽市令(かねがもり らくいちれい』
  3. 安土楽市令(あづち らくいちれい)』

 

”楽市”は、織田信長の専売特許のように言われていますが、実は当時の戦国大名では普通の施策だったようです。

 

最初に見えるのは、永禄9年(1566年)4月3日付の今川氏真(いまがわ うじざね)の出した『富士大宮楽市令』とされる朱印状です。

 

1.の『上加納楽市令』の一番最初が、永禄10年(1567年)10月ですから、今川氏真の方が少し早いようです。

 

これを見ると『楽市令』は、やはり特別なアイディアという訳ではなくて、当時の普通の商業振興政策にひとつだったと考えられます。

 

なぜ普通と考えるかと言えば、そもそも『楽市』とは、全国各地に所在する寺社の主催する”寺内町(じないちょう)”での商業政策であるからです。

 

参拝に人の集まる寺社境内は格好の商業地(市場)となり得るので、早くから商人たちが目を付けて寺社と組んで全国各地で作って存在していました。

 

しかも、各地の『寺内町』は、寺社が官憲への『不入権(ふにゅうけん)』を持っており、地元の領主は立ち入ることが出来ず、そのまま”楽市化”していました。

 

因みに、、、

 

  1. は、占領地美濃国の新設城下町『岐阜(ぎふ)』の経済振興策
  2. は、破壊された本願寺勢の拠点であった金森の町の再生政策
  3. は、新生『安土城下』の経済振興策

 

と考えられます。

 

詳しくは以下『関連記事』もご覧ください。

 

関連記事

 

『街道整備』政策

史料によりますと、、、

 

尾張国中の道の事、年中に三ケ度改めて築くべし、同じく橋の事、先規により懸け来る在所に申し付くべし、幷に水道等の事、堅く申し付くべし、若し由断ある在所に於ては、糾明を遂げ、成敗を加うべきもの也、
天正弐
閏十一月廿三日             信長(朱印)
篠岡八右衛門殿
坂井文助殿
河野藤三殿
山口太郎兵衛殿
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 上巻 (486)尾張篠岡八右衛門等宛朱印状』)

 

尾張国中の道路を年間三回修築し、橋は先例の通り架けてある場所に再築し、用水路の維持管理を関係先に油断なく、厳重に命令せよとのことです。

 

一、去る年、月迫りに、国々道を作るべきの旨、坂井文介・高野藤蔵・篠岡八右衛門・山口太郎兵衛四人を奉行として、仰せつけられ、御朱印を以て御分国中御触れこれあり。・・・
(引用:太田牛一『信長公記 巻八 御分国道作り仰せ付げられし事』

 

と、『信長公記』でも、前記朱印状にある信長の行動は確認が出来ます。分国とは信長の地方支配地のことを言います、事実尾張の工事が一段落がついた天正3年春には、美濃ー京都間の工事指示も出始めますので、これは言わば『街道整備令』とも言えそうです。

 

そして、中山道の摺針峠(現彦根市内)の改修工事に関し、、、

 

スリハリ峠ヲヨコ三間、深サ三尺ニホラル、人夫二万余、岩ニ火ヲタキカケ上下作之、濃京ヨリハ、三里ホトチカクナルト也、田ヲモウメラルヽ由也、
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 上巻 (486)の追加文書(奈良東大寺金堂万日記)』

 

この大工事で、美濃ー京都間の距離が3里(12km)短くなったとあります。

 

このように織田信長は、先ず街道筋確保の軍事行動を行ない、次に上記のような街道整備工事を行うなど、今後の軍団移動の迅速化と商業流通路確保・充実化と言う政策を推し進めていきます

『検地』の実施

織田信長の場合は、後の”太閤検地”のような徹底したものではなく、略式検地(指出ーさしだし)の形で大半済ませており、尚且つ領国全域にわたるものではありませんでした。

 

織田信長研究家の谷口克広氏の研究によれば、、、

 

  1. 検地・・・伊勢・越前・摂津・播磨・丹後
  2. 指出・・・近江・山城・大和・和泉

となっていますが、大和のケースは、明智光秀と滝川一益が派遣されて、、、

 

九月
廿五日、瀧川左近 成身院、惟任日向守 吉祥院、今日日中時分ニ來了、・・・、
廿六日、當國中寺社・本所・諸寺・諸山國衆悉以一圓ニ指出可出之旨、悉以被相觸了、沈思ゝゝ、被申出一書趣寫之、
・・・
一 當寺領幷私領買得分皆一職何町何段事
一 諸談義唐院・新坊何町何段事
一 名主拘分何町何段事
一 百姓得分何町何段事
一 當寺老若・衆中・被官・家來私領幷買得分・扶持分何町何段事
右以五ケ条書付申入、・・・

十一月
二日、瀧川・惟任今暁七ツ時分ヨリ歸了ト、卅八日計滞留歟、其間ノ國中上下ノ物思ヒ煩ヒ、造作苦痛迷惑、既果タル衆地獄ノ苦モ同ナラン歟、・・・
(引用:『多聞院日記 天正八年の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、、、

 

大和に明智光秀と滝川一益が38日間も滞在して、『指出(さしだし)』で検地をおこなったことが記載されていますが、”地獄の苦しみ”だと大和の人々に言われるほどこのふたりの武将は厳しく実施したようです。

 

しかし、”商業活動”ほど”農業生産”に関心のない織田信長の『検地』は、松永久秀・筒井順慶のような、言わば敵地のような領国大和でさえ、相手からの書面提出に頼る『指出検地(さしだしけんち)』ですから、おざなりであったと言っても良いのではないでしょうか。

 

また、『度量衡(どりょうこう)・桝(マス)の統一』も実施された形跡がなく、信長には計測方法を新たに統一基準にする発想はなくて、昔ながらのやり方をそのまま踏襲、担当官僚任せにしていただけのようです。

『荘園制度の廃止』

織田信長が足利義昭を奉戴して上洛した後の永禄12年(1569年)正月十四日に『室町幕府殿中御掟(むろまちばくふ でんちゅうおんおきて)』を発布しますが、『追加』として正月十六日付にて出したものの最初に、、、

 

一、寺社本所領・当知行の地謂なく横領の儀、堅く停止の事、
・・・・、
(引用:奥野高廣『増訂織田信長文書の研究 上巻 (142)室町幕府殿中掟案』)

 

とあり、これは”寺院や神社の領地で、現在知行している土地を理由もなく武家が横領することを固く禁止する”と言う内容のものです。

 

この『殿中御掟』は、将軍足利義昭が自主的に定めた形になっていますが、実は幕府内部に対して信長が定めた掟であって、将軍義昭の行動に強く規制を掛けるものでした。

 

一方寺社その他は、信長へ敵対しない限り『荘園制度』の維持が、事実上認められる形となっています

 

このように、『荘園制度』の利害関係者の多い京都にあって、上洛直後の織田信長は、室町幕府の官僚機構をそのまま運用する必要があって、影響力の大きい朝廷・公家・寺社の協力を得る事が重要であり、彼らの”米びつ”である『荘園』と言う収入減を断つことは、出来なかったと言えます。

 

後年の豊臣秀吉の場合は、信長が”地ならし”を終えていたこともあり、朝廷・公家・寺社に忖度(そんたく)することなく、ビシビシ実行出来、結果、厳格な検地である『太閤検地(たいこうけんち)』が実施されることにより、事実上『荘園制度』は終焉を迎えることとなります。

 

上記のような理由でもって、実は織田信長の時代には、『荘園制度』を巡る複雑な権益構造はあまり手を付けられることなく、荘園はほぼそのまま存続したと言うのが本当のところのようです。

 

織田信長は”合戦の革命児”なの?

歴史上、織田信長が”戦国の合戦を変えた”と言われることがあります。

 

  1. 兵農分離による常備軍の創設
  2. 新兵器”鉄炮”の実戦大量使用
  3. 軍団の移動速度の迅速化
  4. 方面軍の創設(同時多方面戦闘)

実は、この背景にある莫大な軍事費の調達が一番大きいのかもしれません。

 

織田信長は今で言う”率先垂範”の見本のような人物です。若くしてトップに立ったことが関係していると思われますが、気が短い信長は常に先陣を切るタイプの大将でした。

 

その為、ボディガードに多人数を必要とし、それがあの800名と言う当時としては考えられない大部隊の親衛隊を生んだ切っ掛けだと考えられます。

 

おそらく、すべてここから出発しているのでしょう。

 

と言うのは、、、

 

当時の合戦は、”陣ぶれ”をしてから戦闘要員を集めて出陣準備が整うまでかなりの日数を要していました。ところが信長軍は大将信長と起居を共にしているような兵士が常時800名近くいるのですから、早い時は数時間で出陣が可能でした。

 

近隣の小規模合戦で、信長が圧倒的に強かった理由は、恐らくそこにあったと考えられます。なんせ、相手は準備不足のところをいきなり襲われることが多い訳ですから。

 

勿論、幾ら実家の援助の期待できる配下の若党を中心に集めたと言っても、常習的に信長の周囲に武装して起居させるこの親衛隊の維持経費は莫大な額に上ります。これを支えたのが、織田弾正忠家(おだ だんじょうのじょうけ)の財力だったと考えられます。

 

現代でも、軍事費・防衛費の太宗を占めるのは人件費なのですが、実際稼がない人たち(軍人・武士)を養っていくのは大変なことなのです。

 

江戸時代に各大名の財政が常習的にひっ迫していたのは、幕府からの賦役、藩士の人件費、『参勤交代』費用と江戸藩邸の歳費だったと思われます。

 

このように、1.の『兵農分離政策』と言うのは、極めてコストの高い政策であった事が分かります。

 

2.から4、にしても、織田信長の革新性ばかりが取り上げられますが、これはすべて極めて資金力が必要な政策であることを考えねばなりません。

 

又、、、

 

戦国時代の”合戦”が『採算』の合う経済行為であるためには、対戦相手から、かならずそれに見合った財貨・土地・労働力の略奪が必要だったことがあります。

 

事実、豊臣家を滅亡させた『大坂の陣』の徳川家康軍、幕末『長州戦争・戊辰戦争』の幕府軍は、ともに合戦後の”報奨”のアテがなく、参戦者全員の認識が”この合戦は完全に不採算”だと分かっていたことが、軍団全体の士気が上がらない大きな原因となっていました。

 

幸い徳川家康は何とか勝利しましたが、幕末の幕府軍は圧倒的な戦力を持ちながら自壊して行きました。

 

織田信長の1~4の革新と言われる”合戦”のやり方は、高コストのもので、途中からの攻略目標が、商業拠点の確保に置かれていたことが、注目されます。

 

例えば、石山本願寺との長い戦いも、ビジネス拠点”大坂”の確保が目的と考えると信長のあの粘り強さも理解出来そうです。

 

やはり、幾ら”アイディア・発想”が良くても、それを実現させる資金力がないことには話にならないのです。

 

織田信長の革新性は、軍事力を作り上げるための、財力を生み出す実行力にも長けていたという事でしょうか。

 

図らずも、この革新者織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は”銭の権化”のような人物だったというのは言い過ぎでしょうか。

まとめ

周知のように、織田信長は戦国末期に尾張の片田舎にある、尾張半国下四郡を治める守護代家に3人いる家老のひとり、織田信秀(おだ のぶひで)の嫡男として天文3年(1534年)に生まれて、革新的な戦略を以て天正8年(1580年)には”天下人”にまで上り詰めた人物です。

 

この信長は、父信秀の死去により、天文21年(1552年)19歳で織田弾正忠家の家督を継ぎ、この家督の確定戦~父の遺領のような尾張半国を勝ち取るまでは、親戚同士の血を血で洗う陰惨な暗闘を続けました。

 

一族の実力者たちを討ち果たすことによって退け、永禄元年(1558年)頃には、尾張下四郡統一はほぼ見通しが立っていたようです。

 

ここまでは、父信秀の歩いた道を行っていただけで、特に遠大な政策があったとは思われません。

 

しかし、信長は、父信秀が自由にやらせてくれたおかげで、幼少時に領内を隈なく駆け回り、地理・地勢・社会の構造・下層民(河原者)たちの社会での役割などにひどく詳しく、普通の学芸と武芸ばかりの若殿たちとは出来が違っていたようです。

 

元服前には、合戦の多い父の軍議にも末席で顔を出し、親戚筋にも当たる小折の生駒屋敷にも頻繁に顔を出して、諸国を動き回る行商人たちから様々な情報を得、清洲の悪童たちと模擬戦に明け暮れる、諸事情に精通した大人顔負けの武将に育って行ったと考えられます。

 

在所の尾張一国制圧の目処が立ちそうになって来た青年武将の織田信長に、永禄元年(1558年)から2年(1559年)になって、帰京復権して間もない室町幕府第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)、即位したばかりの正親町天皇(おおぎまちてんのう)から、相次いで『天下』の話が舞い降りて来ました

 

信長の目標は、急遽『天下』に焦点が当てられ、上洛への道筋作りにすべてを動かし始めます。

 

先ずは、将軍家より指示のある、東幕府の命をうけた駿河今川義元の上洛阻止(桶狭間の戦)、次に上洛拠点とする美濃国の攻略(稲葉山城陥落)、武田信玄・上杉謙信との遠交策の実施、室町奉公衆の細川藤孝・和田惟正との関係付けによる”足利義昭”の奉戴上洛の準備へと、中央の政局への積極的に関与を始めながら、政策方針を推し進めていきます。経済政策の基本は『重商主義』です。政治戦略拠点と流通・経済拠点の軍事制圧を大きな政策方針として行きます。

 

あくまでも、織田信長の政治目的は『天皇』から『綸旨(りんじ)』の出た『天下静謐』に向かって突き進むこととなります。

 

織田信長は、周知のように天正10年(1582年)6月2日早暁、京都本能寺にて明智光秀ら旧室町幕府奉公衆らを中心とする軍団の襲撃を受けて落命します。

 

そのため、信長本人が目標への道半ばに死去してしまった為、日本国を制圧したその後は、どんな構想があったのか、はっきりしたものは残っていません。

 

もし、本当に『天皇の静謐』を実現して、織田幕府の将軍になるだけなら、それで終わりなのでしょうが、実際はその後があったように思えてなりません。

 

『本能寺の変』がなくて、織田信長がそのまま生存していれば、恐らくあと2年以内に豊臣秀吉と同様に、全国制覇し、その後は大坂城を築城してそこに、幕府を開くのでしょうが、更にその後の本格的な海外への進出の可能性はあったように思えます。

 

バテレン関係史料にあるように、信長が言ったという明国への侵攻と言うのは、イエズス会の期待でもあったことは、明らかになっているようですので、信長はスペインの軍事援助を受け乍らなのか、或はスペインを叩きながらなのかの明国を含む東南アジアへの進出はあり得たかもしれません。

 

そうなったら、その後の歴史は大きく変わることになったでしょうし、『東インド会社』と日本の豪商が海外で衝突する場面が出現していたかもしれません。

 

しかし、当然『徳川時代』は、到来しなかったでしょうから、260年間におよぶ『日本国の静謐』が存在しない17世紀~19世紀と云うものは、一体どうなったかは想像しにくいところです。

 

あの評判の悪い『本能寺の変』も、豊臣時代・徳川時代を作る原因になったことも忘れてはいけないと考えます。

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参考文献

〇谷口克広 『信長の政略』(2013年 学研パブリッシング)

〇立花京子 『信長と十字架』(2004年 集英社新書)

〇竹村鏡村 『「信長伝説」の真実』(1995年 講談社)

〇金子拓 『織田信長権力論』(2015年 吉川弘文館)

〇奥野高廣 『増訂織田信長文書の研究 上・下巻』(1994年 吉川弘文館)

太田牛一『信長公記 巻首 丹羽兵蔵御忠節の事』インターネット公開版

〇小林正信 『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)

『厳助往年記』国立国会図書館デジタルコレクション

『道家祖看記』国立国会図書館デジタルコレクション

〇龍肅訳注 『吾妻鏡』(2008年 岩波文庫)

『吾妻鏡 五巻 文治元年12月の条』国立国会図書館デジタルコレクション

〇安野眞幸 『楽市論』(2009年 法政大学出版局)

太田牛一『信長公記 首巻 山城道三と信長御参会の事』インターネット公開版

太田牛一『信長公記 巻八 御分国道作り仰せ付げられし事』インターネット公開版

『多聞院日記 天正八年の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

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