織田信長の『楽市楽座』は本願寺への経済戦争だった!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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織田信長の『楽市楽座』政策の内容が分かります。

 

織田信長の『関所の廃止令』の狙いが分かります。

 

戦国時代までの寺社のことを少しお話しました。

 

おまけですが、通説をテキストに、織田信長の『楽市楽座令』の100字・200字まとめを付けておきました。何かの参考になれば幸いです。

織田信長の『楽市楽座』の政策の狙いはなに?

織田信長の育った織田弾正忠家は、領地に津島熱田の尾張における大商業地をふたつも抱えており、信長は幼少の頃より”商業の持つ力”を十分熟知していました。

 

尾張守護代織田大和家の一家老に過ぎない勝幡(しょばた)城主の弾正忠家が、尾張一国を代表する勢力になれたのも、勢力下に一大流通都市”津島”を抱えていたからでした。

 

織田信長が発給した初見文書と言うのは、三河安城が今川軍に攻め取られ、破竹の拡大を続けていた織田信秀の盛運も傾きかけている、大変な時期と思われる天文18年(1549年)に出された『熱田八カ村宛て制札』で、これは、五カ条からなるものですが、内容は熱田神宮社殿造営に関して諸税の免除と、既得権の安堵の確認でした。

 

その後も文書は出されますが、問題の『楽市楽座』の文字が見える織田信長発給の文書はどんなものでしょうか。

 

  1. 永禄11年(1568年)9月『上加納楽市令(かみかのうらくいちれい)』
  2. 元亀3年(1572年)7月『金森楽市楽座令(かねがもりらくいちらくざれい)』
  3. 天正5年(1577年)6月『安土山下町中掟書(あづちさんげちょうちゅうおきてがき)』

 

有名な物は3つあります。

上加納楽市令

永禄10年(1567年)9月に美濃稲葉山城を攻略した織田信長は、父信秀以来の目標である美濃の征服に成功しました。

 

早速翌10月には、城下”井之口”を『岐阜』と改称して、早速城下に『楽市場宛て』として旧来から”加納の円徳寺内に存在した楽市場”が所持していた諸権利を安堵する”制札(高札)”を出します。

 

つまり、戦火で途絶えていた”楽市場”の復興を保証したわけです。

 

翌永禄11年(1568年)9月には、『加納宛て』として、前年と同じような内容の”制札”が出されました。

 

今度のものには、はっきりと第二条に”楽市・楽座之上、諸商買すへき事”と明記されています。

 

織田信長は、美濃攻略の手立てのひとつとして、永禄7年(1564年)にこの”楽市”を主催している”円徳寺”に土地を寄進し新規鋳造の梵鐘を施入して、美濃斎藤氏との戦いに中立を求めていました。

 

つまり、この美濃の首都”井之口”の楽市に関係する円徳寺と寺内町商人勢力を織田家の味方につける工作を行っていました

 

このような事前の動きが下地にあっての、『上加納楽市令』であったとも考えられます。

 

つまり、どうやら一義的には、ここでの織田信長の”楽市令”発給は占領後の領地振興策と言うよりも、戦後の権益安堵を与えて”商人勢力を味方に付ける為の”円徳寺との密約の存在が考えられ、織田信長の美濃攻略達成への調略の色彩が強い感じです。

金森楽市楽座令

織田信長は、元亀3年(1572年)7月と9月に近江の金森(かねがもり)に『楽市楽座令』を発給しています。

 

通説では、”金森”は”日本史上最初の一向一揆”である『近江金森一揆(おうみかねがもりいっき)』が起こった場所です。

 

研究者によれば、水運と街道が集まり近江の政治と経済中心地であったこの”金森町”は、寛正6年(1465年)に京都を追われ、ここを布教の拠点としていた本願寺の蓮如上人(れんにょしょうにん)によって、「環濠城塞都市(かんごうじょうさいとし)」に仕立て上げられていたと言います。

 

 

同月丗日に京着し給、藤吉郎秀吉も無異儀令京着、近江國無残所、一一揆令蜂起之間、稻葉伊豫守を守山へ被指置處、一揆押し寄す、稻葉素武篇の達者及合戦、一揆の者共千二百餘討捕、信長感悦不斜、近國仕置堅固に仰付、・・・
(引用:『当代記 巻一 十一頁 元亀元年卯月丗日の項 』国立国会図書館デジタルコレクション

 

上記『当代記』の記述にあるのは、、、

 

元亀元年(1570年)4月20日に、織田信長は”越前朝倉攻め”へ京都を出発しましたが、4月26日に義弟浅井長政(あざい ながまさ)の謀叛によって挟み撃ちに遭うと言う、有名な『金ヶ崎退き陣』の事件が起こった直後の状況です。

 

湖北の朽木(くつき)を抜けてやっとの思いで4月30日京都に帰着した信長を待っていたのが、この近江国全域で始まった”騒乱”で、これは本願寺の呼びかけと浅井軍の謀叛に呼応した”一向一揆”の蜂起でした。そのため、信長は即座に鎮圧軍に掃討させますが、この時の場所が”山門領 金森”でした。

 

一揆軍を壊滅させ、これを信長が大変喜んだことが記されていますので、織田軍との攻防戦で金森の町は戦火で消滅し、当然商業の拠点”寺内町”もなくなったものと思われます。

 

信長の金森町に対する『楽市楽座令』発給の理由は、”金森一揆”を壊滅させた後しばらく経つと、信長軍の占領統治も一段落し、基幹交通路(東山道・東海道・志那街道)が再開されて、京都への往還の物流が増えるにつれて、”金森市場”の再開が望まれたものと考えられます。

 

そのため、金森市場再開に当たっては、終始信長側に味方してくれた金森町近隣の商業都市”近江守山の年寄衆”にその差配が任せられる事となりました。

 

つまり、この『楽市楽座』令の発給に当っては、実際に差配する守山年寄衆の要求を反映させて、現場でやりやすいように配慮している訳です。

 

ここにも、信長に味方した地元領民の人心・生活安定化のために『楽市楽座』によって商業復興に力を入れ、領国支配を有利に進めようとする信長の意図がはっきり出ているようです。

 

安土山下町中掟書

天正4年(1576年)より建設を始めた、安土城の城下にあたる”安土山下町(あづちさんげちょう)”宛てに、天正5年(1577年)6月に、織田信長の3番目にあたる掲題の『楽市令』が発給されました。

 

この令は、前のふたつと違って、従前の実態踏襲での”楽市”ではなくて、何もないところへ作る町のため、信長が『楽市たるべし』として命じた命令に対して、任された実行者側がその実行する条件を信長側に要求した内容となりました。

 

目新しいこととしては、前回の『金森楽市楽座令』にもあった街道強制に、さらに安土町での”宿泊強制”と”伝馬強制”が加わりました。

 

そしてさらに『諸座諸役諸公事(くじ)免許』まで謳われており、これは実質的に安土町を泉州堺のような”自治都市”に近い形になっています。

 

この自治都市”安土城山下町”の領主は、港町常楽寺を抱えた”沙沙貴神社(ささきじんじゃ)”の惣官である木村治郎左衛門尉(きむら じろうざえもんじょう)を当てます。新設の町は、丁度この神社の裏手にもなります。

 

そして、宿敵と化した『石山本願寺』を意識して、当時本願寺が関係する”楽市”である『寺内町(じないちょう)』に出していた下記”楽市令”の内容に合わせています。

 

定      冨田林道場

一、諸公事免許之事
一、徳政不可行事
一、諸商人座公事之事
一、国質幷ニ付沙汰之事
一、寺中之儀何も可為大坂並事
右之条ゝ、堅被定置畢、若背此旨、於違犯之輩者、忽可被処厳科者也、仍下知如件、
永禄三年三月日    美作守
(引用:『興正寺文書』[安野眞幸『楽市論』2009年法政大学出版]に掲載分)

 

本願寺の寺内町体制を解体するために、本願寺と寺内市場との間にあるものとほぼ同条件を提示しているものと考えられます。

 

これは、自治都市”安土山下町”の支配を任せられる木村治郎左衛門尉と織田信長双方で、合意の下に本願寺の”大坂並み”を取り決めたものとされます。

 

スローガンともなりそうな、この『大坂並み』と言うのが必要な条件でした。


(画像引用:織田信長銅像岐阜AC画像)

『楽市楽座』は、織田信長が初めてやり始めたの?

初期の通説では、織田信長が『楽市楽座の制度』を定め、領国の経済発展を推進する政策を採って力をつけ、天下統一への足がかりとしたような話でした。

 

印象的には、織田信長が『楽市楽座の制度』を発明して商業発展を促し、それを原動力にして驚異的に力を付けて行ったようにも受け取れるものです。

 

さて、勝幡織田家(しょばたおだけ)の発展は信長の祖父織田信貞(おだ のぶさだ)の代から始まります。

 

尾張守護代織田家大和守家の家老のひとりであった信貞は、勝幡の地に城を構え、大永4年(1524年)夏、近隣にある”港町津島”の豪族と揉めて津島の町を焼き払います。

 

結局信貞は、娘を嫁に出して津島衆との和睦を計り、牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)総社であり”自由都市化”していた津島神社門前の港町津島を支配下に治めます

 

そしてさらに、父信秀の代には、熱田神宮とその門前町まで支配下に入れていました。

 

織田信長はこのように、祖父・父のやり方をみて、経済力のある商業都市を支配下に入れる旨味を良く知っていたと考えられます。

 

しかし本来、寺社の介在する門前町などの内規模の大きな商業都市は、その寺社に認められた”不入権(ふにゅうけん)”を盾に、或は泉州堺・伊勢大湊などの自由都市的な町は”治外法権”のような権利を保有しており、守護大名などの武家勢力の干渉を簡単に許さない力を保有していました。

 

実際この当時自由都市と考えられる商業都市は、朝廷の”供御人(くごにんー食料担当者)”の系譜をひく人間が関係しており、朝廷から直接の禁制(きんぜい)を得ているため、半端な武家などが手を出せるものではありませんでした

 

しかし、各戦国大名は、この自由都市・門前町に対して、彼らが実現している”楽市楽座”を、機会があるたびに領地・権利を安堵(あんどー許可・承認・保証など)して、その町衆・寺社衆にすり寄っていました

 

要するに、簡単に云ってしまえば『楽市・楽座』の制度と言うものは、この自由都市・門前町などが既に実行していた当時の商業市場運営の方法のひとつであったと考えられます。

 

信長が政治的に巨人化し始めた(永禄11年の将軍足利義昭を奉戴して上洛後政権を握って)以降は、同じ『楽市楽座令』にしても、既存の権利・権益・資格を安堵するにとどまらず、市場・宿場への往来者に強制する項目(立ち寄り強制宿泊強制など)が追加されて行きます

 

そして、同じ寺社系の門前町でも、信長と敵対していた本願寺系の門徒衆が主催する都市は、恭順しない限り”一揆軍”と見做して容赦なく叩き潰しています

 

 

真相として、織田信長は、当時ざらにあった『楽市楽座制』を取っている商業都市に関し、敵対しない限り『安堵』して従前保有していた権利をほぼ認めていたと言うことで、改めて信長が発明したとか・初めて実行したとか言う事はなかったようです。

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織田信長の『関所撤廃』の理由はなんなの?

織田信長は、新しく増えた領地内の『関所撤廃』を積極的に行い、物流の効率化を促進し、『織田信長は流通革命を促した革命児』などと言う話があります

 

 

”関所”には、”警察関所”と”経済関所”がありますが、、、

 

警察関所は”人別改め”など領内の治安維持が目的ですが、経済関所は『関銭』と言って、『諸役(税金)』の”通行税”を取ります

 

これは、山賊・強盗・ゴロツキは別として、主に近隣・遠隔地(京都)の寺社・公家・朝廷などが天皇に承認されて、収益として得ているものが多いのです。

 

つまり、信長は領国を拡げる度にその地域の関所を取っ払いますので、朝廷筋からクレームがつくと言う事態が起こります。

 

ですから、クレームがつけばそれを尊重してその関所は存続させるということもあったようです。

 

しかし、信長が熱心に行う寺社・朝廷への寄進も、神仏への信奉と言うより案外これ(収入源の関所を廃止する代わりに寄進で援助する形)が原因なのかもしれませんね。

 

それで、関所のことですが、本来市場関係者(ほぼ”連雀商人ーれんじゃくしょうにん”と呼ばれる行商人)は、中世社会では”公界(くがい)人とか無縁(むえん)人”とか呼ばれて、そもそも各地の関所は『通行フリー』の権利を持っていたようです。

 

 

そして、、、

 

智多郡幷篠島諸商人当所守山往反事、国質・郷質・所質幷前々或喧吪、或如何様之雖有宿意之儀、不可有違乱候、然者不可致敵味方者也、仍状如件、
天文廿壱十月十二日                       信長
大森平右衛門尉殿
(引用:『知多郡・篠島商人宛て自由通行令』安野眞幸『楽市論』第二章掲載文書より)

 

知多郡と篠島の商人が守山城下までの往来をするのに自由通行を保証した織田信長の判物(文書)です。言わば通行手形と言うか通行鑑札のようなものです。

 

天文21年(1552年)に父信秀死去を受けて信長が19歳で家督相続をした年の文書です。

 

このように、信長は、商人たちに領国内の通行を認め、通行鑑札を出しています。これはこの商人たちから要求があったものだと思われます。

 

とすると、すでに商業流通にかかわるものはほぼ通行フリーにしていますから、改めて「織田信長は関所を廃止して流通革命を起こした」とか言うのは、ちょっと違う感じです。

 

しかし実際には、既得権として存在する関所はなかなか廃止に至らず、信長の力の及ぶ範囲から徐々に関所廃止がすすんでいったと言うところのようです。

 

商人側も『関所廃止』をあまり信用をしておらず、実際にとがめだてされることなく、本当に交通がフリーで出来ることを確認した商人は皆喜んでいた感じです。

 

とは云うものの、やはり狙いは、信長に協力しない公家・寺社勢力への経済制裁だったのではないでしょうか。

 

”商人と寺社”との関係はどんなもの?

本来、”寺社”とは世俗との縁が切れた『無縁な所』と言う位置づけがなされていて、ここでは人であれ物であれ”世間と縁が切れたことになる”と考えられていました

 

そこで、世間の取決め・借金・法・税金とも関わり合いの無いところだと言う事で、ここにいれば世間のしがらみ諸事から離れて行きます。

 

そんな訳で、世俗と切れた存在である寺社には税金がかかりませんので、寄進された米にも寺社の売買などの経済行為も免税となり、寺院で開催される”市場”などにも課税されないと言う事になっていました。

 

当然のことながら、そうなれば寺院で開かれる”市”には、”市場税”もかからず諸税も免税となるわけで、寺院で開かれる”市”には、商人も客も群がり寄ると言う事になるわけですね。

 

本来は、領主も普通に税金を取りたいのでしょうが、寺社は寄進以外に収入がなく、消費だけする組織なので、もし寺社の運営費に不足が出れば保護者の立場となる領主は何らかの補填させられることになるでしょう。

 

ですから、可能な限りの優遇策を与えているわけです。

 

 

そもそも”市”が目立ち始めたのは、平安末期頃に各地の寺社領荘園内で開かれていたものからが始まりと考えられます。

 

その管理人として、領主や寺社から代官が派遣され、また市場商人中から選ばれる者も出始めました。

 

荘園の年貢物の保管・輸送・処分などの業務を荘園に出入りする商人に任せることも始まり、その年貢の不足が生じた場合に商人に立替(借金)を依頼することも起きました。

 

また逆に、余剰金が発生すれば寺社が貸付を行い、そんな業務を専門で行う僧侶も多数存在するようになります。特に比叡山延暦寺は山法師が取立人をやっていたようで、誰でもあの山法師に武装して凄まれたら皆払うでしょうね。有名な後白河法皇も『賀茂の流れと山法師は意のままにならぬ。』とおっしゃっています。

 

寺社の金融は有名で、戦国期に戦国大名たちが合戦の費用を工面するのに、寺社に借金へ行っていたようです。表向きは、武将の必勝祈願と言ってますが、本当は軍事費の借出しに出かけていたんですね。

 

例の『本能寺の変』の折、直前の天正10年(1582年)5月27日だかに明智光秀が愛宕神社に必勝祈願に行き、連歌の会など催しますが、あれなど光秀が愛宕社へ金策に行き、神社側の手続き・準備が整うまで”連歌の会”をして待っていたと言うのが本当の処だと言われています。

 

寺社と金融系の商人とのつながりは資金の出し入れ共に深くなって行ったようです。”商人”にとって”寺社”とは、『寺内町』・『門前町』などの市場の提供ばかりでなく、寺領の荘園からの商品・年貢の保管・輸送・処分、発生する金融業務の代行を通じて、お金に絡んで現在では考えられないほど濃密に関係していたと考えられます。

 

当時の”寺社”は、よく言えば完全に経済人・経済官僚・教育機関・投資家・銀行であり、悪く云えば参詣者・後援者(旦那衆)を資金源とする『高利貸』・『サラ金・マチ金』であったとも考えられます。

 

商人(金貸し金融業者)とのなれそめはやはり、”寺内での市場運営”と”寄進される資金の運用”からであったようです。

 

こう考えると、織田信長の『比叡山焼き討ち』は、少し違った風景が見えて来そうですね。彼の言う、”売僧(まいす)たちに鉄槌(てっつい)を下す”と言う意味が、非常に腑に落ちるところです。

 

『織田信長の楽市楽座政策』の簡単説明

通説を基準に考えてみました。

100字説明

『楽市』とは、大名が既存の商人の持つ特権を否定して、新規で参入する商人の市場での自由を保障したもので、織田信長が政策的に定期市の開催時に領地振興策として導入し、城下町振興策としても位置付けられます。(99字)

200字説明

『楽市』とは中世期に、独自に力をつけて自治権を獲得した泉州堺のような『自由都市』とは違い、大名が領地経営の一環で、経済界に力を持つ公家・寺社系勢力の権益を抑制して、新規参入の商人にも特権を与え自由な取引により、領地経済を繁栄させようとする大名の経済政策のひとつです。戦国期に織田信長が、大きく勢力を伸ばした背景に『商業・流通振興策の充実』があげられ、その白眉が『楽市楽座』政策だと言われています。(198字)

まとめ

歴史上、織田信長の発給した『楽市楽座令』は、当時進行していた商品経済の発達に大きく寄与した”画期的な事”としてクローズアップされています

 

また、もうひとつ各種『関所の廃止』は、”商品流通”に大きな後押しをしました。これは、同時に商業資本の発達を促し、中世から近代へ時代を動かす大きな原動力になったと評されています。

 

 

織田信長の時代は、平安の公家政治から鎌倉から始める武家政治へと政権が移行して行き、その幕府(武家)政治が崩れて、世が大いに乱れた戦国期後半に入った時期でした。

 

下剋上も一段落して、勝ち残った特定の戦国大名が大きく成長を始めて、行われる合戦の規模も頻度も大きくなり、戦国大名は領地から上がる年貢では戦費を賄いきれない事態を迎えていました。

 

この中で急成長して行く織田信長の姿は異色であり、その力の源泉が資金力にありそれを生みだす仕組みが、従来から方法としてはいくらでも存在した制度としての『楽市楽座の設置と関所の廃止』でした。

 

どの戦国大名も御用商人を抱えており、商売で稼げることは分かっていましたが、それを”徹底する信長のやり方”は信長の出世とともにすぐに全国に伝搬して行きました。

 

私見ですが、信長の戦争は、政治は武家に取られたものの、この経済面はまだ牛耳っていた『商人・公家・寺社』勢力との戦いだったのではないでしょうか。

 

『公家・寺社』が、資金源として”協力する商人たち”を作り出し、当時はその”商人”が大きく成長して逆に”公家・寺社”を操り始めている状況でしょうか。

 

信長の制度は、旧来の既得権をしっかり握っている商人勢力にやる気のある新規商人が参入しやすいように門戸を開放して味方とし、既存の商人たちも改革をさせて自分の方に引き寄せ、公家・寺社勢力との引き剥がしを図ったと言う事でしょうか。

 

特に寺社勢力が政治を動かす(例えば、比叡山・本願寺など)のが許せなかったのでしょう。宗教が本来の使命を忘れて、金貸し(金融業)などし、おのれの利益を得んがために政治にまで口を出している状況を破壊しようとしたと考えられます。

 

当然ながら、織田信長は寺社勢力から『仏敵・悪行の鬼』などと罵倒されて激しい抵抗に遭い、信仰と目先の利益で操った民衆を動員した彼らのゲリラ戦に終始悩まされるようになりますが、新興の商業勢力・譜代ではない新規の家臣団にも支持されて、これを克服して行き『天下人』の地位を得て行きます

 

信長の時代は、江戸時代のように完全に『農民と商人』の地位が分化されておらず、農民が自分の成果物を市場に売りに行くと言う事も当たり前のようにあったようですね。

 

だから、関所が廃止されれば、かなり交通の自由は出来たのではないでしょうか。

 

他の武家たちの若殿と違って、織田信長は幼少期より『散所(さんじょー賤民の集まっている所)』出入りをしていたと言われ、そこに出入りする社会の下層民たちとの交流があった数少ない大名のひとりだったようです。

 

あの”尾張の大たわけ者”と呼ばれた奇矯な風体も、この『散所』出入りの変装だったのでしょう。『散所』は地域情報の宝庫でした。

 

一説には、それは父信秀の指示だったとも言われていますが、とにかく信長の情報通は有名です。その源泉はここで得た人脈(『側室吉乃を得た生駒屋敷』への出入りもここが源)をもとに、尾張・美濃の統一戦を勝ち抜きます。

 

信長の人材集めは有名ですが、こんな裏情報源をきちんと押さえてないと情報戦(乱波・細作を使った)など勝ち抜けません。(豊臣秀吉・滝川一益などは並みの武家のリクルートでは出てこない人材です。)

 

話を元に戻しますが・・・

 

この信長の『楽市楽座』も武家の巧い政策と言う面もありますが、そうした『散所』で見聞きした情報・知識を基に考えられ徹底された『戦略』だったと言えそうです。

 

しかし案外、”市場の解放”・”関所の廃止”は、信長に十分有益な情報をもたらせてくれた、彼ら『散所の下層民』たちに活躍の場を与えようとした”信長の目標”のひとつだったのかもしれません。

 

そして、結果として世の中を動かす『歴史の大きなうねり』を作りだす”織田信長の功績”となったのです。

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参考文献

〇安野眞幸 『楽市論ー初期信長の流通政策』(2009年 法政大学出版局)

〇本郷恵子 『中世人の経済感覚』(2004年 日本放送出版協会)

〇国立歴史民俗博物館編 『中世商人の世界』(1998年 日本エディタースクール出版部)

〇網野善彦 『増補 無縁・公界・樂』(1990年 平凡社選書)

〇豊田武 『増訂版 中世日本商業史の研究』(1970年 岩波書店)

『当代記 巻一 十一頁 元亀元年卯月丗日の項 』国立国会図書館デジタルコレクション

〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社新書)

〇愛知県史編さん委員会 『愛知県史 資料編10 中世3』(2009年 愛知県)

〇永原慶二 『戦国期の政治経済構造』(1997年 岩波書店)

〇服部英雄 『河原ノ者・非人・秀吉』(2013年 山川出版社)

 

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