戦国の覇者織田信長は『家臣』を信用していなかった!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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戦国の覇者織田信長が、天下統一目前で最も信頼していた家臣である明智光秀の軍に謀殺された『本能寺の変』を読み解きます。

覇王信長の最強軍団『7方面軍』の大将たちとは何者なのでしょうか?

戦国の奇跡と言われる、信長家康の20年にわたる同盟関係が維持出来た本当の理由を明らかにします。

信長が畿内に所領を与え、一番信頼していた家臣であった明智光秀が、なぜ裏切ったのか?

天正10年(1582年)6月2日払暁(ふつぎょう)に、この天下統一目前の戦国の覇者織田信長(おだ のぶなが)が京都本能寺にて何者かに暗殺された、日本史上最大の謎のひとつである未解決事件が有名な『本能寺(ほんのうじ)の変』です。

 

通説では、と言うより定説では、、、

 

信長に毛利と戦っている豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の与力として出陣を命じられた明智光秀が居城の丹波亀山(たんば かめやま)城から1万3千の兵を率いて、中国ではなく京都の信長宿所であった本能寺へ押し寄せ信長を滅ぼしました。

 

光秀が信長を裏切った原因として挙げられている主な説は、

  • 光秀が信長に恨みを抱いていた『怨恨説
  • 光秀は元々天下を狙っていた『野望説
  • 光秀の後ろに黒幕がいた『黒幕説

とありますが、この中で特に人気があるのが『黒幕説』ですね。推理する楽しみが残っているからでしょうか。

 

しかし、個別で見て行くとそれぞれ瑕疵(かし)があり、どれも決定打に欠けるというのが現在の『本能寺の変』の論争の状況です。

なんせ、あろう事か”光秀は下手人ではない”と言う説まであって、あのような大事件にもかかわらず、実行犯としては信長の直臣ながら明智家の家老役とされてしまっている斉藤利三が軍を動かしていたことがはっきりしているに過ぎないのです。

こうなってしまった背景として、『本能寺の変』後に政権を取った豊臣秀吉、徳川家康が織田政権の中で、政権を狙えるだけの有力武将であったことがあります。

 

豊臣秀吉は、”山崎”の地で光秀を斃したあと、後に秀吉のお伽衆となる織田信長の弟である長益(有楽斎)が保護していた信長の嫡男信忠の子”三法師(さんぼうし)”を手中に収めて、天正10年(1582年)6月27日の『清須(きよす)会議』に臨み事実上の”信長の後継者”としての布石を打ちます

 

その後4ヶ月ほどしてから、家臣大村由己(おおむら ゆうこ)に命じて”本能寺の変”の顛末を秀吉に有利になるように書かせた『惟任退治記(これとうたいじき)』によって、”『本能寺の変』の下手人”が逆臣としてイメージ付けられた明智光秀であると公家衆を中心に大々的に宣伝をしていたようです。

 

後世の『軍記物』はこれを下地に書かれてしまい、長らく”明智光秀悪人説”が定着する元となりました。

 

 

 

『本能寺の変』当時、畿内の堺に少人数で滞在していた家康は、巧みに本拠地三河岡崎に帰り着き、西進するべき信長の追討戦もそこそこに、東進して織田家の旧武田領刈り取り目指して一目散に戦いを進めています。

 

織田信長の殺害動機から言うと、当時の織田軍団有力武将は、全員容疑者の疑いがあると言えそうです。

 

そこで、秀吉が喧伝(けんでん)した光秀の信長暗殺動機とは何だったのでしょうか?

 

信長は実力主義で身分・出自に関わらず力のあるものは重用したとされていて、その代表格が農民出身で信長の草履取りから取り立てられた豊臣秀吉だと考えられています。

 

この実力主義は信長の血縁を越えて実行されていましたから、初期は武将たちは出世を目指して切磋琢磨し、非常に上手く機能していました。

 

しかし、天正8年(1580年)8月、譜代・重臣の佐久間信盛・信栄親子の”高野山追放事件”が起きました。罪状は”大坂の本願寺攻め”に時間がかかり過ぎ、彼らに目立った働きが無かったからだと云う言いがかりのようなものでした。

 

これは、信長の働きかけにより天正8年(1580年)3月に正親町天皇(おうぎまちてんのう)の仲介によって大坂本願寺との講和(勅命講和)が成立し、信長を永年悩ましていた”本願寺勢力”との対立が解消したことが大きな原因でした。

 

要するに、”働いたのはお前たちではなくて、わしじゃ!馬鹿者めら!”と言う事でしょう。

 

 

その結果、本願寺勢力が作り出していた強力な”信長包囲網”のバリアが外れ、織田信長の”天下人への道”が開けて行きました。

 

しかも、この前の天正6年(1578年)3月には、越後の上杉謙信が死去しており、徐々に信長の強敵の数が減り始めていました。

 

こうして、本願寺勢力の動きを全く気にする必要がなくなり、積年の仇敵武田の討伐戦を天正10年(1582年)2月に始め、翌3月には武田家を滅亡に追い込むと、信長にとって東の防壁である徳川家康の役割は減少して行きました。

 

一方明智光秀に関しては、当初の朝廷と足利将軍家対策担当の役割が、将軍義昭を追放した天正元年頃にはなくなっていたと考えられ、信長軍団の武将として畿内での行政能力を買われていたに過ぎない状況にありました。

 

佐久間親子の追放で織田軍団最大の佐久間軍団は、解体されて信長直轄軍と信忠軍に振り分けされました。

 

光秀は、信長の意向のもと、四国平定のために長曾我部元親に入れ込んでいたところ、突然方針変更がなされ、長曾我部のライバル三好党を応援すると言う名目で信長の三男信孝に四国遠征軍を起こされました。

つまり、四国は”織田家直轄にする”と言う信長の意向が示されたわけです。これには、光秀のライバル秀吉の強い働きかけがあったとされています。

 

他方、豊臣秀吉に関しても、通説では秀吉の毛利攻めは順調に進んでおり、毛利本隊のおびき出しにも成功し最後の詰めのために、信長の来援を乞うたのが5月末の明智光秀への中国出陣命令だったとされています。

秀吉が信長の意向どおり中国攻めを着々と進めていると言うのが通説のストーリーです。

 

ところが、、、

 

最近の研究で、信長は本願寺との和解が天正8年(1580年)3月に出来てから、敵対する大名への平定戦から大名間の紛争介入に切り替わって行く、この時、信長は”天下人”としての仕事へ取り掛かったようです。

 

つまり天下を取った豊臣秀吉が関白に就任してすぐに天正13年(1585年)に布告した”停戦命令”と同様に、信長も『勅命講和』の後まもなくの天正8年(1580年)5月12日に、”西国大名への停戦命令”を出していたのです。

 

これは、備中で戦っている秀吉の頭越しに、信長の指示で信長に忠実な近習丹羽長秀(にわ ながひで)・武井夕庵(たけい せきあん)から毛利氏宛てに、

  1. 毛利輝元(もうり てるもと)と小早川隆景(こばやかわ たかかげ)は宇喜多秀家(うきた ひでいえ)との戦争に専念すること
  2. 吉川元春(きっかわ もとはる)の子息と織田信長の息女と婚姻すること
  3. 織田信長は足利義昭(あしかが よしあき)を『西国之公方(さいごくのくぼう)』として承認する

の3箇条からなる『停戦命令書』が出されていました。毛利方は、毛利輝元・小早川隆景了解のもとに、かの有名な毛利の外交僧安国寺恵瓊(あんこくじ えけい)が乗り出しています。

 

織田信長は、もうすでに毛利との戦争継続に前向きではなく、主戦派の豊臣秀吉と対する宇喜多秀家の両者を抜きで毛利本体と交渉を進めていたことが明らかとなっています。

 

要するに、秀吉に関しても信長から目障りに思われ始めていたことを示しているようです。その諜報能力からしてこのことに気づかない秀吉ではなかったはずで、この後の自分の将来に大きな不安を抱えていたと考えられます。

 

『本能寺の変』後の出来事に関して、私たちの知る豊臣秀吉の『中国大返し』を含めた種々のパフォーマンスは、秀吉か、後世の作り話である可能性も含めて見直す必要がありそうですね。

 

しかし、いずれにせよ浮かび上がって来るのは、信長の”家臣の使い捨て”とも考えられる政策です。ここで言う力のある重臣(明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康)に関しては、この信長の”変身”に敏感に反応していたのは間違いないところでしょう。

 

信長の忠臣だと自他ともに認める武将”明智光秀の裏切り”と言うものが、もしあるとしたら理由はそんなところにあったのではないでしょうか。

 

 

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(画像引用:織田信長公AC画像

信長が頂点に登りつめた天正年間に織田軍団を構成していた家臣の軍団長たちは誰だったのか?

定説では織田氏は、室町幕府の越前守護職斯波(しば)氏に仕え、”応永(おうえい)の乱”で幕府に尽力した褒美として、応永7年(1400年)に斯波氏が尾張守護にも補任された時に、尾張に移住した織田一族の末裔と言われています。

 

尾張では、織田惣領家(おだ そうりょうけ)が守護代を務め、その後ふたつに分裂した一方の織田大和守家(おだ やまとのかみけ)の、更にその奉行として仕える3家のひとつ織田弾正忠家(おだ だんじょうのじょうけ)に天文3年(1534年)に織田信長は当主織田信秀の嫡子として生まれました。

 

前述のように、信長は権力掌握の過程で、地方の一国衆の跡取りと言う権力者としては下位からの出発だったため、

  • 弾正忠家の家督争い戦
  • 地元尾張八郡の統一戦
  • 隣国美濃の征服戦
  • 天下を目指して15代室町将軍足利義昭を奉戴しての上洛実現
  • 天下統一へ多数の反信長勢力への多方面掃討戦

と言う段階を踏んで行きますが、いわゆる『信長軍団』を『方面軍』へ発展させていくのは、元亀年間(1570年~)から天正年間(1573年~)を通して、反信長勢力との”多方面作戦”を強いられていた頃です。

 

万単位の将兵を動員する信長軍での『軍団』の数は、”織田信忠(おだ のぶただ)”・”神戸信孝(かんべ のぶたか)”・”柴田勝家(しばた かついえ)”・”佐久間信盛(さくま のぶもり)”・”羽柴秀吉(はしば ひでよし)”・”滝川一益(たきがわ かずます)”・”明智光秀(あけち みつひで)”の各将を長とする7つと言われています。

織田信忠(おだ のぶただ)軍


(画像引用:織田信忠公Wikipedia

信忠は信長の実際の正室と言われている愛妾側室生駒(いこま)殿(吉乃ーきつの)の生んだ長男です。

信長は、天正元年(1573年)7月に将軍足利義昭を京都から追放し、8月には浅井・朝倉を滅ぼし、天正2年(1574年)に伊勢の長島一向一揆を殲滅、天正3年(1575年)には宿敵武田軍を長篠の戦いで撃破しました。

天正3年末には、嫡男信忠へ家督と岐阜城を譲り、天正4年初には安土城の築城を開始しました。天正4年になると信長は直接軍団の戦闘指揮を執ることはほとんどなくなって行ったようです。

家督を継承した信忠には、尾張・美濃の諸将が配下に加えられ、一門衆を与力として付与されて、『信忠軍』が創設されて、信忠は信長の後継者としての道を歩み始めました。

神戸信孝(かんべ のぶたか)軍


(画像引用:Wikipedia神戸信孝画像歌川国芳作

信孝は信長の側室坂氏の子で、信長の三男とされ、三七郎信孝(さんしちろうのぶたか)と言います。

永禄11年(1568年)2月の信長伊勢討伐後、帰参した神戸(かんべ)氏の養嗣子として出されて、北伊勢の小領主となっていましたが、地道な働きが信長に認められて、天正10年(1582年)四国攻め『四国方面軍』の大将へ抜擢され、1万5千の兵を率いて一夜にして大名になったと言われました。

上手く行けば、四国討伐戦後は織田軍同盟者の三好(みよし)党の養子となり”四国の太守”となるはずだったのですが、大坂より四国への渡海寸前の6月2日未明に勃発した『本能寺の変』のために遠征は中止となり、その後織田家をないがしろにして天下を狙う豊臣秀吉と対立して天正11年(1583年)の『賤ケ岳(しずがたけ)の戦い』で柴田勝家(しばた かついえ)側について敗戦し、5月2日に知多半島の野間で秀吉と組んだ信長次男信雄(のぶかつ)に切腹させられました。

柴田勝家(しばた かついえ)軍


(画像引用:Wikipedia柴田勝家像

柴田勝家は、信長が家督を相続した頃に信長の弟信勝(のぶかつ)の付け家老を務めていた人物ですが、信勝の謀叛を事前に信長に注進してその後信長へ仕えた人物です。

信長の統一戦では、重臣佐久間信盛(さくま のぶもり)と並んで信長軍団の中心となって活躍し、越前一向一揆掃討作戦で功を挙げ、越前を拝領して加賀・越中への侵攻の『北陸方面軍』の総括責任者となりました。

草創期から信長を支えている重臣の位置づけで、どちらかと言うと”頭脳よりは槍働きの武辺者”の武将でした。

信長の草履取りから取り立てられて来た”成り上がり者”の豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)とはまったくソリの合わない人物で、信長のいなくなった『本能寺の変』後に秀吉と激突します。

佐久間信盛(さくま のぶもり)軍


(画像引用:Wikipedia佐久間信盛像

佐久間氏は、信長の弾正忠家で最大の勢力の有力一族で、信長の出世のきっかけとなった『桶狭間の戦い』の時、尾張回復の為に作られた大高城・鳴海城への付城5砦の内ふたつが佐久間一族に任されています。

また、当初信秀に命じられて信勝に付属していたはずの佐久間一族でしたが、相続争いの時には、柴田勝家がまだ信勝側だったにもかかわらず、『稲生の戦い』で信長側についており、初めの頃から信長を終始一貫支えています

その佐久間一族の惣領である信盛は柴田勝家と並んで、織田家を支える自他ともに認める重臣です。

その後の信長の統一戦で重要な役割を担い続け、大坂本願寺攻めが本格化していた天正4年(1577年)5月に総大将だった塙直政(ばん なおまさ)が予想外に強力な本願寺勢の攻撃で討死し、そのあとを佐久間信盛が担当しました。

 

結局、天正8年(1580年)に正親町(おうぎまち)天皇の仲介により本願寺と講和(勅命講和)が成立して、”大坂本願寺顕如(けんによ)との戦い”は終了しましたが、信長は”畿内7か国もの兵を動員しながら、5年も掛かって攻め落とせなかったこと”に腹をたて、責任者の佐久間信盛の怠慢を問い、佐久間親子を高野山へ追放します。

罪状としては、石山本願寺を果敢に攻めるでもなし、調略をすすめるでもなしで、文人としても名高かったこともあり”茶の湯三昧”だとけん責されています。

この後、織田軍最大の佐久間信盛の軍団は解体され、信忠軍と信長直轄軍に組み入れられました。

羽柴秀吉(はしば ひでよし)軍


(画像引用:Wikipedia羽柴秀吉像

天正3年(1575年)5月に『長篠(ながしの)の戦い』で武田勝頼を破った後に朝廷から信長に官位の打診がありました。信長本人は固辞したものの家臣への賜姓・任官を奏請しています。

この中で、教科書で習う日本史ではほとんど無名の人物ですが、前述の本願寺戦で討死した塙直政(ばん なおまさ)が、”備中守(びっちゅうのかみ)”、羽柴秀吉は”筑前守(ちくぜんのかみ)”に任官しています。

 

これを見ると、実はこの時に信長の頭の中にあった中国方面軍の軍団長となるべき武将は塙直政であって、秀吉はその次の毛利征服後の”九州方面軍の軍団長”にする構想であったものが、幸運にも塙直政の戦死で順序が繰り上がったと見ていいようです。

ともあれ、秀吉は小谷城攻略後にはその戦功で旧浅井家の所領北近江三郡を与えられており、信長軍団の中でも佐久間軍団解体後には、柴田勝家軍に匹敵する巨大軍団に成長して行きます。

成り上がりの秀吉には、譜代の家臣がいないため重臣は一族からの抜擢となりますが、弟の小一郎(秀長)以外は出来が悪く、縁戚の加藤清正・福島正則が育つまでの間は、見込んだ人材に依存することとなりました。

 

新規にこれと見込んだ召し抱え者の中で、黒田官兵衛(くろだ かんべえ又はかんびょうえ)・中川清秀(なかがわ きよひで)とは義兄弟の契りを結びました。

なまじ、譜代の家臣・身内の人材がいないために、新しく加わった家臣を大事に扱ってそれが家臣のやる気を出させ、秀吉の出世の大きな力へとなって行きました。

 

しかし、秀吉自身の子供が出来なかったことが後々まで尾を引き、死ぬまで後継者問題に頭を悩ますこととなって、その死後の豊臣政権が徳川家康につけ込まれて行く原因ともなりました。

滝川一益(たきがわ かずます)軍


(画像引用:Wikipedia滝川一益像

近江甲賀郡の出身で、弘治3年(1557年)頃から、鉄砲足軽として信長に仕え始めたとされています。

『桶狭間の戦い』の翌年永禄4年(1561年)には、”織田―徳川同盟”の使者として登場するなどして活躍し出しており、永禄10年(1567年)の”北伊勢攻略戦”では、なんと大将に抜擢されて実績を上げています。

永禄12年(1569年)の北畠攻略戦後に信長の次男信雄(のぶかつ)が北畠氏の養嗣子となると、後見役となり、信長の伊勢支配の重要な役割を担います。

 

天正2年(1574年)7月の”長島一向一揆殲滅戦”で中心的な役割を果たし、織田家の武将の五本指に入るまでになりました。

 

この後も信長の統一戦に参戦し、天正10年(1582年)3月の”武田勝頼討伐戦”でも武功を挙げ、その後の関東・東北方面軍』を統括する”関東管領”的地位となります。

 

しかし、”本能寺の変”後の情勢の変化で撤退を余儀なくされ、関東管領となるもわずか3ヶ月ほどで追い出されることとなりました。

明智光秀(あけち みつひで)軍


(画像引用:Wikipedia明智光秀像

明智光秀の前半生は、名門美濃土岐氏の出身と言いますがはっきりせず出自が謎の人物です。

 

一説には、戦国の梟雄(きょうゆう)斎藤道三(さいとう どうさん)の夫人”小見(おみ)の方”の輿入り前の第一子と言う話もあり、そうなると後年の織田信長正室の”濃(のう)の方(帰蝶)”の同母兄となります。

 

経歴不明なところが多いながらも通説では、明智城を出奔して以来諸国放浪の果てに、その鉄砲術の腕を見込まれて越前朝倉家に500貫で召し抱えられ、その朝倉家に後の将軍足利義昭(あしかが よしあき)が亡命して来たことから、その奉公衆である側近の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)の知遇を得て義昭に仕えたとされています。

 

その後、義昭を奉戴して上洛できる大名として織田信長に狙いをつけて折衝にあたり、それに成功して永禄11年(1568年)には、信長の後押しで足利義昭は上洛し、第15代足利将軍に無事就任することが出来ました。

 

その前後の働きが織田信長に認められて信長と義昭に両属する形で奉公することになったとされています。

 

元亀2年(1571年)の”比叡山延暦寺の焼き討ち”後、その功が信長に認められて近江志賀郡が与えられ、近江坂本に築城し信長の臣下となりました。

 

天正3年(1575年)の”長篠の戦”で武田騎馬隊を壊滅した後、朝廷より”惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)”と賜姓され任官し、織田家中の地位は一段と向上します。

 

丹波攻めを命じられますが、他地域への遊軍も多くて丹波攻めに集中出来ませんでしたが、天正7年にやっと丹波を平定し、丹波国を拝領します。

 

配下に細川幽斎(ほそかわ ゆうさい)・筒井順慶(つつい じゅんけい)などが付いて、もっぱら遊軍が仕事ながら、畿内の治安維持を主業務に軍団を形成していました。

 

佐久間盛信の事件が契機になったようで、信長が息子たちへ権力移行を意図し始め、有力大名・功臣たちの中央からの排除が露骨となって行く中、中国戦線へ秀吉のヘルプを命令されたのをきっかけに”本能寺”へ自軍を殺到させた(本能寺の変)と通説は”クーデターの動機”を述べています。

 

異説では、あまりにも稚拙な『本能寺の変』後の政権構想から、本当は明智光秀は何も知らなかったとする”濡れ衣説”がまことしやかに語られています。

つまり、”実行犯斎藤利三(さいとう としみつ)+黒幕”と言う説です。

黒幕は、豊臣秀吉を筆頭に、徳川家康、足利義昭、濃御前帰蝶(きちょう)、イエズス会等々です。

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織田信長はなぜ徳川家康との同盟関係を20年以上も奇跡に維持できたのか?

よく知られていますように、永禄4年(1561年)に織田信長と徳川家康との間で結ばれたこの同盟は『清州同盟(きよすどうめい)』と言われています。

 

そもそも尾張の織田家と三河の松平家(徳川家)は、領地が隣り合わせで過去より紛争を繰り広げていた関係でした。

通説によりますと、、、

そんな中で、時代の寵児のように出現した織田信長が、永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』で、尾張への侵攻を始めていた戦国大名で駿遠三の太守今川義元(いまがわ よしもと)を田楽桶狭間(でんがくおけはざま)にて討ち取ってしまいました。

今川軍は、雪崩を打って敗走し、今川軍の先手を務めていた弱冠19歳の三河岡崎松平家の跡取り徳川家康(松平元康)は、この今川軍敗戦の混乱に乗じて長らく今川氏に占領されていた自領の岡崎へ取って返し、駿府に妻子を置いたまま今川からの独立を目指します。

 

しかし実際その時は、今川方には家康ら松平党の独立と言う認識はなかったようです。

家康はすぐさま、西三河への制圧を開始していますが、今川義元の後継氏真(うじざね)はこの間に三河へのアクションを起こしておらず、この時点では今川配下としての家康の行動を黙認していたものと考えられます。

つまり、家康は人質として妻子を駿府に預けたままになっており、氏真は家康を身内(家康の正室は今川一族)と考えていて、ましてこの時は三河は全域今川家のもの(義元が三河守の官位を受けたばかりでした)と言う認識が氏真に強くあったようです。

また、家康の攻撃先も織田方へ与している伯父の水野元信(みずの もとのぶ)ほか西三河地区の織田方諸将の城であり、駿府の今川氏真から疑われることは全くなかった訳です。

 

 

一方、織田信長も尾張地区における今川勢力の一掃を開始します。

そうこうする内に、家康は三河内の今川勢力の駆逐へ取り掛かる必要性から、信長の方は尾張内の今川勢力一掃のために少しでも敵を減らす観点から、永禄4年春になって両者に領土協定”が成立しました。

これを受けて、やっと家康は三河地区にある今川方の城への攻撃を開始します。

信長との協定成立後、ほどなく永禄4年(1561年)4月11日に東三河宝飯郡にある”牛久保城”攻撃を始め、ついに今川方は家康が今川からの離反(謀叛)行動をしていることに気づきます。

NHK大河ドラマ『女城主 直虎』にあったように、今川氏真が、”おのれ、家康め!”と怒鳴った訳です。

家康は、永禄5年(1562年)2月4日に”上之郷城”を陥落させて、今川義元の妹の子ふたりを人質に取り、これをもって駿府の妻子(築山殿と竹千代)との交換に成功します。

 

 

本題に戻りますが、、、

この後、永禄6年(1563年)3月に『清州同盟』締結の証として、家康の嫡男”竹千代(後の松平元康)”と信長の娘”五徳姫”との婚約が結ばれ、20年の長きにわたる信長と家康の同盟が始まります。

この同盟が20年の長きにわたって続いた最大の理由は、”戦国大名の甲斐武田氏が信長にとってずっと脅威で有り続けたこと”によると考えられます。

 

当初、信長が家康との『同盟』を結んだ理由は、前述のとおり、尾張内に残る今川勢力の一掃が目的で、その今川本国からの援軍を手前で家康が止めてくれることを期待したわけです。

信長の父信秀以前、尾張の那古野(名古屋)城は、今川氏の居城で、なんと尾張は今川に占領されていたのです。

これを打破し、尾張の独立を果たしたのが信長の父信秀であったと言う事実を確認しておかねば、織田と徳川にとっての今川氏のインパクトが実感出来ないかと思います。

つまり、今川義元のこの時『桶狭間の戦い』となった大部隊による西進も、上洛が目的ではなくて、信長の父信秀に横領された今川氏のもとの占領地(今川家のプレゼンス)の回復が目的であった事は明らかなわけです。

と、当時の信長の考え方はそうだと思われます。

 

 

そして尾張統一を完了した後、今度は信長が美濃への侵攻を開始するに当たって、大きな脅威になるのが『甲斐の武田氏』です。

既に甲斐武田氏は、美濃側、三河側、遠江側、駿河側の国境近くに出城を巡らし、どこからでも隣国へ撃って出られる実力を有していました。

 

これから美濃の制圧にかかる信長にとって、弱小と言えども武田氏の防御・牽制の役割を果たしてくれる可能性が高い三河松平勢を率いる家康には是非とも期待したいところでした。

この後信長は、この武田家が滅びる天正10年(1582年)3月まで、徳川家康の役割を重要に感じ、家康との同盟をないがしろにすることはなかった訳です。

 

 

ですから、今川ー武田と”脅威”が完全に消滅したこの時天正10年(1582年)5月には、信長にとって”家康との同盟の意義”は消滅していた訳です。

この事は、家康本人を始め、広く世間もそう考えていたようで、天正10年5月に家康がわずかな供回りだけで、安土の織田信長のところへ、駿河拝領の御礼に出かけて行った時に、皆が家康の身の心配をした理由からも明らかです。

 

 

例えば、、、

『本能寺の変』が起こった時の、丹波から出陣した明智軍の兵士”本城惣右衛門(ほんじょう そうえもん)”が、京都進軍の命令を受けた時に『ああ、信長さまの命令で家康さまを討ちに行くんだなぁ。』と考えたと言う記録が残っています。

 

・・・・山さきのかたへとこゝろざし候へバ、おもいのほか、京へと申し候、我等ハ其折ふし、いへやすさま御じゃうらくにて候まゝ、いゑやすさまとばかり存候、ほんのふ寺といふところもしり不申候、・・・
(原本『本城惣右衛門覚書』天理大学図書館所蔵 を掲載した 藤田達生『証言本能寺の変』八木書店 より一部引用)

 

 

さらに、当時のポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの有名な著書『日本史』にある”本能寺の変”に従軍した兵士の襲撃前の状況記述では、、、

 

・・・兵士たちはかような動きがいったい何のためであるか訝かり始め、おそらく明智は信長の命に基づいて、その義弟である三河の国王(家康)を殺すつもりであろうと考えた。・・・
(『完訳フロイス日本史3織田信長編Ⅲ』中公文庫 より一部引用)

 

 

これは、信長は(武田氏が滅亡したので)もう用済みになった家康を、当然始末するはずだと下級武士・庶民レベルでも気が付いていたと言う話なのです。。。

 

 

 

『清州同盟』が長くこの時期まで続いた理由・本質が『武田氏の脅威』であった事を、全く別の角度からですが、これほど雄弁に語っている証言はないかと思います。

 

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信長の家臣団の重鎮はなぜ譜代の家臣で構成されていなかったのか?

信長の家臣団の組織は尾張統一時代から基本骨格はほとんど変わっていないようです。

◎信長
□連枝衆=一門衆

□武将ー与力

□旗本=馬廻衆・小姓衆

□吏僚=奉行衆・祐筆・同朋衆他

(信長研究家谷口克広氏の命名分類による)

 

戦国大名の家臣団の中で、重臣と言えば古手の功労のある者(長く信長の為に働いて功の多い者)と言う事になるのでしょうが、信長の場合はどうでしょうか?

一見して気がつくことは、一般的な戦国大名家は『殿』を頂点にピラミッドを形成していて、家老・宿老・オトナと言うのは『殿』の直下に位置しているイメージですが、織田家の場合、歴史作家の描写によると尾張統一以前の信長は、会議にはほとんど姿を見せなかったり、見せてもほとんど話を聞いていないイメージがあります。

そして何かの場合は、家老たちに相談ではなくて、ひとりで走り出し慌てて小姓たちが従って行くパターンが散見されます。

つまり、組織が大きなピラミッドを構成せずに、フラット組織になっている感じがします。

 

上記の組織図にある部署はすべて信長に直結しています。

尾張統一後の意思決定に関しても、組織自体は大きくなって行きますが、基本的に信長のやり方は変わっていないようです。

 

 

一国を統制する大名は大大名と言われ、現代の大会社のような感じの重役会があって、上級重役たちが会社支配しているように、多数の家老たちが衆議で物事を決めて『殿』には承諾を求めるだけの形かと思います。

 

しかし、信長の家臣団経営は、おそらく中小企業型になっていたのではないでしょうか?社長が全部見ているのです。

 

余談ですが、、、

私が以前中小企業オーナーにお尋ねした話では、社員300人規模くらいまでの会社だったら、ひとりひとりの名前・顔・能力・学歴・誕生日・家族構成くらいは暗記していないとオーナー社長は務まらないとおっしゃっていました。

300人の家来(戦闘能力のある武士)と言うのは、大体1万石クラスの大名ですから、1万人以上の兵士を動かす”信長の方面軍”の大将は大体30万石を越えている計算になりそうです。。。

 

と言う事で、、、

政策はすべて信長自身が検討決裁をしていたのではないでしょうか。つまり信長は、必要な情報は家臣に指示をして収集し、方針決定・決裁を行っていくと言うことを超人的にこなしていたと考えられます。

 

美濃平定後、上洛して足利義昭を将軍に任官させたあたり永禄11年(1568年)9月以降は、将軍になった義昭も含めて周りが敵だらけの状態になり、さすがに分業して、前章で述べたような方面軍と遊軍に分けた”軍団巨大化”方針を打ち出し運営して行きます。

ひとつの”方面軍”が万単位の兵力動員が出来る規模、明治以降の軍団編成では『師団』規模となりますが、加えてこの時代はただの将軍業ではなくて占領地の知事も兼任せねばなりませんので、軍人と政治家の両方の能力を要求されるなどその人事が重要になって行きます。

 

こうして考えると、職制としての『家老職』は信長家臣団にとうとう最後まで顔を出さずに終わったような気がします。勿論名称としての『宿老』・『重臣』は有ったと思いますが、実際の仕事は信長の管理下で与えられた経営ミッションをこなすだけです。

信長から配下の武将に与えられた権限は、今で言う『子会社の社長』くらいじゃなかったでしょうか。譜代の重臣がそれを鼻にかけて権勢をふるまうことなど、とても出来る雰囲気ではなかった訳です。

信長は、部下に仕事はさせたけれども与える”権限”は制限していて、その上すべてを管理する能力を自身で有していた人物であったことが同時代の大名たちと大きく異なることだったと感じられます。

 

 

他の大名家には、『殿』並みの権限を有した家老・重臣は多数存在したように思いますが、前述のように信長軍団では信長がその存在を許さなかったと言う事なのだと考えられます。

 

そのため、”信長の家臣団には、家門故に権限を持ちがちな譜代の家臣はいなかった”訳で、軍団長は信長自身の人事で『能力主義』によって抜擢して、”地位にあぐらをかく”人物(老臣)の存在をゆるさなかったのです。

信長は他の武家と違い、なぜか家老職?を重視していない!

どう見ても、信長は、家老を執事の役割くらいにしか考えていないように感じます。

しかし、じつは信長が元服した時に、父の信秀から居城の那古野城を譲渡され、同時に”付け家老”として、織田弾正忠家の家老であった林佐渡守秀貞(はやし さどのかみひでさだ)、平手中務政秀(ひらて なかつかさまさひで)ら4名が付けられていました。

恐らく、信長は”大うつけ”と評判があったため、元服するにあたり指導役の”じい”が付けられ、その信長を全く認めようとしない家老たちとの嫌な経験から”古手の家臣”が苦手になったのではないでしょうか。

 

戦国期のこの時期には、まだ「長子相続」の決め事はなかったようですが、それでも一般的には長子以外が相続した場合に”相続争い”が多発することを経験的に大名たちは知っていたと思われますが、この織田弾正忠家も宿老たちが信長を全く認めようとせず、あからさまに弟の信勝を担ぐ宿老もいるほどでした。

信秀は突然死ではなかったので、後継者の指名・遺言の時間は充分あったような気がしますが、結局、信長の”家督相続”を周囲が認めようとせず、弾正忠家内で認められたのは、永禄元年(1558年)11月2日に信長の居城清州城で弟の信勝を謀殺してからでした。

 

信秀の死去後に長く続いた相続争いの中で、信長は自身の”親衛隊”とも言われる強力な武闘派の小姓衆・馬廻り衆を自分で育てました。

信長の用事は、この親衛隊でほとんど間に合うような感じとなり、敢えて既存の政治力のある家老衆に頼る必要性がなくなっていたのではないでしょうか。

父からの相続ではなく、この親衛隊を中心とした家臣団を自前の組織として作り上げ、その人材を重用して行った結果、既存の地位にあった家老職がかすんで行ったように思います。

 

 

結局、信長は織田家を組織ごと相続したのではなくて、織田家の権威と権益を相続して、実働する家臣団の組織は自分の手足として使いやすいように創設して行ったものと考えられます。

こんなことが、信長が既存の”家老職”を重視しない理由だったのではないでしょうか。

まとめ

戦国の覇王織田信長は、尾張の小さな武将の家に生まれ、その才覚で”天下さま”と称されるまでに乱世をのし上がって行きます。

成功の源は、旧来の武家組織・階級制度に縛られず、実力主義で家臣を登用し、次々と戦国の梟雄たちを破って行きます。

この人事政策の妙・時代を見る目の斬新さが、現代のビジネス感覚・事業感覚に近いことから、ビジネスの成功例として大いに経済界でももてはやされています。

 

 

一方、部下たる家臣の立場でみると、大きくなるごとに猜疑心を深めて行く信長のパフォーマンスが次第に彼らを追い詰めていく様子が見えて来ます。

タイトルにありますように、『信長は家臣を信用していなかった』と言う事が、種々浮かび上がって来るのです。

 

彼が安心している者は、自分の息子と野心を全く持たない家臣だけなのでした。

 

最初は従っていた実力者たちも”信長の猜疑心”の刃から逃れれることが出来ず、徐々に警戒をして行きます。

あからさまに逃げ出した者は、裏切り者として信長は許さずに、徹底的に潰しにかかります。

多数現れる謀叛人たちの内、最後の明智光秀が信長のとどめを刺したと通説は語り掛けます。

 

もし、本当に『本能寺の変』の下手人が”明智光秀”だとしたら、光秀は信長に最後の最後まで警戒されない”人畜無害の人物”になり切っていたのでしょう。

あの猜疑心の魔王と化した信長を騙し切っていたのですから、光秀の知恵者ぶりも相当なものだった訳です。

ここでは、犯人を推理するものではありませんが、当時の織田家の主だった重臣たちは、誰でも心に『信長への殺害動機』を持っていたことを記述してみました。

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参考文献

〇藤田達生 『証言本能寺の変ー資料で読む戦国史』(2010年 八木書店)

〇藤田達生・福島克彦編 『明智光秀ー資料で読む戦国史』(2015年 八木書店)

〇和田裕弘 『織田信長と家臣団』(2017年 中公新書)

〇谷口克広 『信長軍の司令官』(2005年 中公新書)

〇谷口克広 『信長の親衛隊』(2000年 中公新書)

〇谷口克広 『織田信長家臣人名辞典』(2010年 吉川弘文館)

〇松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史3-織田信長編Ⅲ』(2014年 中公文庫)

 

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