大うつけの織田信長が、なぜ出来の良い『弟』の上に立ったのか?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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戦国の豪雄 織田信秀がなぜ”大うつけ者”と評判の織田信長に織田家を相続させたかを明らかにします。

 

実母と折り合いが悪く、弟には謀叛を起こされる最悪の”信長像”の真相を探ります。

 

信長の12人兄弟は、信長とどうかかわって行ったのかを追跡します。

父親の織田信秀(おだ のぶひで)はなぜ”大うつけ”と評判の信長(のぶなが)を跡継ぎにしたのか?

戦国の天才・中世を終わらせた男である織田信長の父親織田信秀は、尾張の守護職斯波(しば)氏の守護代織田家(惣領家)が15世紀後半にふたつに分裂した一方の織田大和守(やまとのかみ)家の家臣で奉行職でした。

 

奉行職は、織田因幡守(いなばのかみ)家織田藤左衛門(とうざえもん)家織田弾正忠(だんじょうのじょう)家と三家あり、信秀はその中の”織田弾正忠家”の当主でした。

 

先代の信定(信貞ーのぶさだ)が、大永年間(1512年~1528年)頃、勝幡(しょばた)城を築き木曽川下流の港町津島(つしま)を支配していました。

 

この戦国・下剋上の時代は、長子相続の明確な掟(おきて)はなく、どちらかと言うと実力主義で、一族の命運を握り、導ける人材が周囲の人間に認められて相続することになっていました。

 

先代織田信定には、男5名(信秀、信康、信光、信実、信次)、女2名の子供がいて、信秀が長子でした。

 

つまり、信長の父である信秀は、先代信定の長子で尚且つ、実力が一族に認められて順当に”弾正忠家”を相続したものと考えられます。

 

信長の祖父である信定が勝幡(しょばた)に城を構えて津島(つしま)を支配したところから港町津島の経済力が物を言って、”弾正忠家”は守護代織田惣領家の中で有力になって行きます。

 

他国の領主のように天候によって農作物の作柄が左右される不安定な経済状態に置かれることなく、繁栄する商業都市津島の力を背景に安定した領地経営を行なえたことが一族の中で信秀の弾正忠家が織田一族の中で抜きん出た大きな理由でした。

 

尾張で有力となって来た織田弾正忠家の跡取りである信秀は、領国の拡大戦略を取り続け、常に城外へ出て戦いを続けます

 

こんな中、天文3年(1534年)5月に信秀と正室土田(どた)御前との間に、嫡子の三郎信長(幼名:吉法師)が勝幡城で生まれます。

 

信秀は子沢山で、信長は兄2名、弟9名の12人兄弟で、妹も10名以上いたと言います。

 

 

腹違いの兄信弘(のぶひろ)、秀俊(ひでとし)、弟として、信勝(のぶかつ)、秀孝(ひでたか)、信包(のぶかね)、信治(のぶはる)、信興(のぶおき)、信照(のぶてる)、秀成(ひでなり)、長益(ながます)、長利(ながとし)、妹3名です。

 

太田牛一の『信長公記』のよると、

 

吉法師は、十三歳の年、林秀貞・平手政秀・青山与三右衛門・内藤勝介がお供をして古渡の城へ行き、そこで元服、織田三郎信長と名乗ることとなった。この時の酒宴と祝儀はひとかたならぬものであった。
(太田牛一著中川太古訳『現代訳 信長公記』新人物文庫より引用)

とあり、

 

信長は13歳になると古渡城で元服を済ませ、信秀の居城であった那古野(なごや)城の城主となり、父信秀は新築の古渡(ふるわたり)城へ移ったとされています。

 

つまり、最初から信秀の後継者は嫡男の信長であることが決められていたように、すんなり信秀の後継者として元服し、ほどなく付け家老平手政秀の指導の下に三河大浜での初陣も無難に済ませます。

 

織田弾正忠家の相続は、この兄弟の中で、当主信秀の正室である”土田御前”からの嫡出子である信長、信勝、信包が有力候補であることは間違いないところでしょうから、信秀も『嫡出長子相続』の原則に従う普通の候補者選びの感覚だったと思われます。

 

問題は、信長に貼られた『大うつけ(大バカ者)』と言うレッテルだと思いますが、どうして信長は『うつけ者』と評判されて、信秀を悩ましていたのでしょうか?

 

日頃の信長の素行から見て、信長には弾正忠家に続く戦国武将としての器量(能力)は十分備わっていると信秀は判断していたはずですが、周囲の評判は芳しくありませんでした。

 

信長が、奇妙な傾奇者(かぶきもの)の服装で、町中を悪童たちとつるんで食べ物を食べながら歩いたり、歩く時もふざけ合ったりじゃれ合ったりして歩いていた(現代では普通かもしれませんが)と言う行為を世間の大人たちは眉をひそめて見ていたのです。

 

とてもこんな人物に領主として仕えることなどあり得ないと思わせていたようです。(今で言えば、町のチンピラ・ゴロツキにしか見えないと言ったところでしょうか。)

 

しかし、信長は日々の武将としての鍛錬は欠かさず、兵法も常に人一倍学んでおり、仲間とつるんで遊びながら領内中の地形・地勢には通暁しており、商業都市津島の世話事情にも通じているなど、支配者(政治家)としての素養は充分過ぎるほど積んでいました。

 

服装は本人が派手好きだっただけの事で、御屋敷の宿老たちの中でのんびり育った者とは大きく違った”殿様修行”を信長なりに積んでいたのです。

 

ところが、これが当時の世間常識とは大きくはずれ、殿様の息子らしくないところから『大うつけ者』との評判が広がったと考えられます。

 

一度張られたレッテルと云うものは恐ろしいもので、信長をよく知りもしない人たちからも”信長は『大うつけ者』”と覚えられてしまったのですね。

 

織田信秀は、後継者信長の”評判”にかなり不安を抱いていたものの、信長が武将としての技量を十分に持ち合わせていることは承知しており、その上で戦国大名の経験則である『嫡出長子相続』の原則でものを考えていた訳で、特にわざわざ『大うつけ者』を後継者に考えた訳ではないと思われます。


(画像引用:Yahoo 画像織田信長像

信長はどうやって織田家の跡取りの地位を確定させたのか?

信長は、前述にあるように天文15年(1546年)に13歳で元服して那古野(なごや)城を父信秀から譲渡され、翌天文16年(1647年)に14歳で三河大浜(みかわおおはま)での初陣を済ませて、正式に弾正忠家の後継者となって行きます。

 

そして、天文17年(1548年)に父信秀は、美濃の大名斎藤道三(さいとう どうさん)との和睦を成立させ、その証として道三の娘”帰蝶(奇蝶)”と信秀嫡男である信長との婚儀を決め、天文18年(1549年)2月に帰蝶(きちょう)は輿入れして来ました。

 

天文18年(1549年)後半には三河の重要拠点安城(あんじょう)城が今川方に攻められ危機に陥りますが、信秀はすでに体調を崩していて救援に駆け付ける事が出来きず開城させてしまいました。

 

そして、今川に備える為に居城を古渡(ふるわたり)から東の末盛(すえもり)へ移し、そのまま天文21年(1552年)3月3日に死去、その”末盛城”が信秀最後の地になりました。

 

葬儀は古渡城の近くの信秀が創建した万松寺(ばんしょうじ)にて行われ、ここでかの有名な”信長が焼香の時に抹香を父の仏前へ投げつける事件”が起こりました。

 

父信秀の死後、尾張の第一人者の信秀の意向で決まった”信長の相続”に関し、そもそも納得していない親族一族郎党たちが動き始めます。

 

同母弟の勘十郎信勝(かんじゅうろうのぶかつ)は、大うつけ者とレッテルが貼られた兄信長と正反対に、利発で真面目な若者の評判で固まっており、信秀正室の土田御前もかわいがっていました。

 

信秀の家老の内、林秀貞柴田勝家は、信勝を信秀の跡取りにと考えていた中心人物でした。彼らは信勝をおだて上げ、信勝もその気になって弾正忠家の家督を狙うようになって行きます

 

これらの騒動は、形の上では『嫡出長子(ちゃくしゅつちょうし)』であり、先代当主信秀も認めて家督を相続した信長ではありましたが、織田家の中で実力が突出して抜きん出ていた『弾正忠家』もその実力者信秀が亡き者となったこの時、相続者である信長が、奇矯な行動を取り”大うつけ者”と見なされているなど、みなが認める後継者とは云い難かったことに由来します。

 

既に、四男信勝を擁立して、信長を廃嫡しようとする露骨な動きがありました。

 

信長のするべきことは、この『弾正忠家のお家騒動・家督争い』に終止符を打つことでした。

 

信長は、信秀の死後①尾張領を狙う外敵(駿遠三今川家、美濃斎藤家)、②信長が相続した”織田弾正忠家”の追い落としを狙う織田家親戚の叔父たち(岩倉織田家、清州織田家)、③弾正忠家の家督争い(同母弟の信勝)をする者たちと四面楚歌となりました。

 

この騒ぎに対応する為にまずなすべきは、先ず家督争いを決着させて、”弾正忠家の団結力を高める”ことで、これにより①と②に対抗できることとなります。

 

信長を”うつけ者”と決めつけている”信勝擁立派”は、信長を甘く見てとうとう”信長の領地横領・強奪”と言う実力行使に出始めます。

 

そして、遂に両派は『稲生(いのう)原の戦い』で激突し、信長が大勝します。しかし、信長は土田御前の哀訴があり首謀者信勝を赦免します。

 

しかし、信勝は再度信長に謀反を企てます。今度は、信勝を見放した柴田勝家が信長に密告し発覚します。それで、今度は兵を起こさず、柴田勝家と土田御前の協力で信勝を清州城へ呼び寄せ暗殺しました。

 

これにより、信長は家督争いに終止符を打つ事が出来、今度は織田家内の覇権を確定させるために、外敵と連携することも辞さない叔父たちとの戦いを進めて行きます。

 

そしてついに、弘治4年(1558年)7月12日の『浮野(うきの)の戦い』で、岩倉織田家と戦って勝利し、翌年春に岩倉城は落城して岩倉織田家は降伏して、ここに織田宗家は滅亡し信長は尾張の統一に成功します。

 

こうした流れから、信長が織田弾正忠家の後継者としての地位固めは、弘治3年(1557年)11月2日に同母弟の信勝の暗殺を実行することにより達成したと言えそうです。

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信長の母土田(どた)御前は、どうして信長を嫌い、弟勘十郎(かんじゅうろう)信勝をかわいがったのか?

信長は生まれた時から癇が強く、母をてこずらせたと言います。(つまり少し気に入らない事があるとひきつけを起こしたように泣き叫び、中々機嫌が直らない赤ん坊だったと言う事ですね。)

 

母も手を焼いて、次に生まれた勘十郎が穏やかで素直な子だったので、自然そちらへ愛情を注ぐこととなり、長じても勘十郎のところで暮らしていました。

 

信長を嫌っていたというより、扱いかねていたと言うようなことでしょうか。

 

しかし、記録には母親の土田御前(報春院ーほうしゅんいん)が、勘十郎を偏愛していたと言う事実は出ていないようで、信長の過激な性格から出た話なのかもしれません。

 

事実、母の土田御前は、一緒に暮らしていた勘十郎信勝が信長に暗殺された後は信長のところに住んでいたようで、後年の安土城にても信長ととも生活していたことが知られています。

 

信長を恨んで嫌っているならば、あり得ない事だと考えられます。

 

また勘十郎暗殺時には、仮病を装った信長を清州城へ見舞いに行く土田御前が勘十郎を同道させており、信長側へ寝返っていた柴田勝家(しばた かついえ)の強い勧めもあったものの、勘十郎は母に言われて”信長の病気見舞い”に同道した可能性が強いと思われます。

 

つまり、母の土田御前もこの暗殺劇の共犯者であったことが判明します。

 

通説で言われているような勘十郎に対する偏愛が事実なら、決して土田御前はこの信長のたくらみに協力はしないでしょう。

 

彼女は、”織田家存続の為”に、実弟勘十郎の暗殺を実行する兄信長にあえて協力をしました。

 

やはり、本当に激しい性格の信長を嫌っていたのなら、事実がこのような結果となることはなかったでしょう。

 

信長の母土田御前は、ただの母親だけだったのではなく、”戦国時代の女性”でもあったことがわかります。

信長の兄弟は何人いたのか?

前述のとおり、信長は12兄弟の三男となりますが、当主信秀の”嫡出長子”であるため、家督の相続人とされていました。

 

信長研究の泰斗である谷口克広氏によると、兄弟の順番は、、、

 

信広(のぶひろ)・秀俊(ひでとし)・信長(のぶなが)・信勝(のぶかつ)・秀孝(ひでたか)・信包(のぶかね)・信治(のぶはる)・信興(のぶおき)・信照(のぶてる)・秀成(ひでなり)・長益(ながます)・長利(ながとし)となります。

 

土田御前の子(信秀の嫡出子)は、信長、信勝、信包と言われています。

 

信長は、兄2人、弟9人だったことになります。信秀の娘は10人以上いたと思われますが、一番有名なのは、近江小谷の浅井長政に嫁した”お市”ですね。兄弟の順番は、母が違ったりするので、出生日の不明が多く完全に判別は難しそうですが、略歴を簡単に見ておきましょう。

織田信広(おだ のぶひろ)

生没年代:?~天正2年(1574年)9月29日
信長別腹の兄。天文18年(1549年)に安城城主を勤める。信長より4~5歳年長。
今川軍に攻め落とされて捕虜となり、竹千代(後の徳川家康)と捕虜交換されたのは有名な話。信長の配下で活躍し、伊勢長島攻めで一揆勢のために討死。

織田秀俊(おだ ひでとし)

生没年代:?~弘治2年(1556年)6月
信弘と同母の信長異母兄。守山城を預けられるが家臣角田新五に攻められ切腹死。

織田信勝(おだ のぶかつ)

生没年代:?~永禄元年(1558年)11月2日
信長直下の同母弟。勘十郎。
父信秀に末盛城を譲られ、家老に柴田勝家、佐久間次右衛門が付けられた。その後跡継ぎの信長と同様の『弾正忠』を称し始めて、信長へ”家督争い”を挑み、遂に『稲生の戦い』で信長に敗れる。許されるが、再度謀叛を企み清州城で信長に暗殺される。

織田秀孝(おだ ひでたか)

生没年代:天文9年(1540年)~弘治元年(1555年)6月26日
信秀の5男。
伴も連れずに一騎駆けで野駆けしていたところ、守山城主の叔父織田信次の家臣に敵と誤認されて矢で射殺される。信長は秀孝の伴も連れずに出かけた過失を認め、信次側の罪を問わなかったと言う。

織田信包(おだ のぶかね)

生没年代:天文12年(1543年)~慶長19年(1614年)7月17日
信秀の6男。
北伊勢の長野氏を継ぎ、その後安濃津の城主となる。天正元年(1573年)の小谷城攻めに参加し、信長妹のお市の方と3人の娘を受け取る。本能寺後秀吉の傘下に入り秀吉お伽衆となる。関ケ原は西軍に属し、その後秀頼に近侍し、慶長19年(1614年)の『方広寺事件』の議論中大城内で死去。

織田信治(おだ のぶはる)

生没年代:天文14年(1545年)~元亀元年(1570年)9月20日
信秀の子。
尾張野夫(のぶ)城主。浅井攻めに参加し、近江宇佐山城攻防戦で浅井・朝倉勢と戦い討死。

織田信興(おだ のぶおき)

生没年代:?~元亀元年(1570年)11月21日
織田信秀7男、彦七郎。
伊勢長島一揆軍の抑えの尾張小木江(こきえ)城の守将。元亀元年11月21日、長島一揆軍に小木江城に攻められ自刃。

織田信照(おだ のぶてる)

生没年代:天文15年(1546年)~慶長15年(1610年)10月18日
織田信秀の子、信広と同母。母の実家中根氏の養子となり、中根信照(なかね のぶてる)と称す。尾張沓掛城主
信長の一門衆となっていたが、本能寺後は織田信勝に従って、『小牧・長久手の戦』で秀吉方の捕虜となるもその後赦免され尾張に留まる。

織田秀成(おだ ひでなり)

生没年代:?~天正2年(1574年)9月29日
信秀の8男又は9男。
天正2年(1574年)の伊勢長島攻めに参加し、9月29日の戦いで討死。

織田長益(おだ ながます)

生没年代:天文16年(1547年)~元和7年(1621年)12月13日
信秀の10男又は11男。織田有楽斎。武将・茶人。
本能寺の変の時、信忠に従って二条御所に立てこもるが脱出し、生き延びて信勝に従いその後秀吉に仕えていた。関ケ原では東軍に与し、石田軍と戦う。大坂冬の陣ではなぜか大坂城内におり、家康のスパイ役を演じたと言われる。その後は京都に在住し没する。

織田長利(おだ ながとし)

生没年代:?~天正10年(1582年)6月2日
信秀の11男又は12男。信長の末弟。
天正2年の”伊勢長島攻め”、天正9年の”馬揃え”にも参加している。天正10年(1582年)6月2日の”本能寺の変”の折、明智軍に攻められ二条御所にて討死。

信長の兄弟はその後どんな活躍をしたのか?

前述の兄弟の略歴を見てみると、謀叛なども起こしましたが、信長との関わり合いが多く、信長前半の事蹟に協力して功績が多かったのは長兄の信広のようです。

 

信長の事蹟の中で大まかに分類してみると、

 

  1. 信長が手を焼いた一向宗徒の長島一揆軍で、その一揆軍との戦いに従軍した兄弟
    ここに従軍したのが、信広信包信興秀成長利の5名で、犠牲になったのが、信広、信興、秀成の3名です。
  2. 信長の軍事パレードである天正9年(1581年)2月28日の『京都御馬揃え(おうまぞろえ)』に参加した兄弟
    信包信照長益長利が参加行進をしました。
  3. 朝倉・浅井攻めに従軍した兄弟
    元亀元年(1570年)9月20日の近江宇佐山城にて信治が討死。天正元年(1573年)の浅井小谷城攻めでは、信包が信長妹『市の方とその娘3人(茶々、初、江)』を保護しています。
  4. 謀叛・事故で死去した兄弟
    秀俊が守山城で家臣に攻められ自刃し、信勝は清州城で信長に暗殺され、秀孝は叔父の守山城主信次の家臣に誤射されて死亡しています。
  5. ”本能寺の変”に遭遇した兄弟
    長益長利は二条御所に詰めていましたが、長利は明智軍との交戦で討死し、長益(有楽斎)は逃れています。
  6. ”本能寺の変”以降も生き延びた兄弟
    信包は幾多の信長の戦役に従軍し、最後は秀吉のお伽衆となり、最後は慶長19年(1614年)7月17日大坂城で秀頼を交えて会議中死去しています。長益(有楽斎)は、茶人としても武将としても知られ、信長の家族の信頼が厚く、本能寺の際に信孝の長子”三法師”を預けられたと言われています。豊臣家の大坂の陣でも舞台裏で活躍し歴史に名を残しました。信照は、本能寺後信雄に仕えて、”小牧長久手の戦”で秀吉側の捕虜になったものの生き延びて、慶長15年(1610年)6月18日に尾張で没しています。

 

兄弟12名の内、本能寺以前に死去・討死した者が7名、本能寺で2名(信長を含む)、その後生き延びた者が3名となっています。信長本人以外で今でも名前が知られているのは、11男の長益(織田有楽斎)くらいなもののようです。

まとめ

織田信長と言えば、尾張の覇権を取るために、親戚縁者・兄弟を殺しまくったイメージがありますが、今回調べてみて、信長が自ら意図して謀殺した兄弟は、次弟の勘十郎信勝(信行)だけであることが判明しました。

 

勘十郎の殺害に関して、勘十郎のあからさまな敵対行為を何度も大目に見て来て、どうしても自分が信長に取って代わろうとしていることを確認し、最後はふたりの母親である土田御前の了解を取って協力してもらった上での謀殺でした。

 

通説に言う、まるで殺人鬼のような信長像とは、かなり違ったものであることが分かりました。

 

織田弾正忠家を尾張で一番の家にのし上げた父信秀が、後継者に指名していた信長の族長としての力量に関して、すでに兄弟たちは認めていたのではないでしょうか。

 

他の兄弟は皆、信長の旗本である連枝衆(一門衆)として、先陣を切って戦いに従軍し勇猛果敢に戦っています。

 

信長は逆らう者には厳しく当たり、従うものにはその業績をきちんと評価する徹底した合理主義者であったことを改めて感じました。

 

織田信長とは、現代で強く求められる”リーダーシップの原点”を強い意志で貫き通す、”天才”と言うより”鉄人”のような人物だったのかもしれません。

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参考文献

〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社)

〇谷口克広 『織田信長家臣人名辞典』(2010年 吉川弘文館)

〇太田牛一 『現代語訳 信長公記』(2016年 新人物文庫)
中川太古訳
〇和田裕弘 『織田信長の家臣団』(2017年 中公新書)

〇津本陽 『下天は夢か』(1992年 講談社文庫)

〇立花京子 『信長と十字架』(2004年 集英社新書)

〇安部龍太郎 『信長街道』(2006年 新潮文庫)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史ー織田信長(一)』(1980年 講談社学術文庫)

〇小瀬甫庵 『信長記 上』(1981年 現代思潮新社)

 

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